茨木~高槻の史跡めぐり
大阪史跡めぐりの旅、2日目は朝7時に宿を出発して・・・
茨木城の本丸跡近くに建つ、茨木小学校に復元された櫓門から。
奈良県大和郡山市小泉の慈光院に移設された茨木城の城門を参考に、原寸大で復元されました。
こちらは、茨木神社に移築された茨木城の搦手門。
九月廿八日、御帰洛。其の日、初めて茨木へ御立寄り。
(信長公記 巻十二「北畠中将殿御折檻状の事」より)
天正6年(1578)に叛旗を翻した有岡城の荒木村重を攻める織田信長は、自身も何度か有岡城攻めの拠点となる池田城まで出向いていますが、天正7年9月28日には池田から京への帰路、茨木城にも立ち寄ったようです。
続いては、高槻市富田町の普門寺。
明徳元年(1390)に創建され、永禄9年(1566)には三好氏に擁立された足利義栄が、当寺で室町幕府第14代将軍の宣下を受けています。
境内を囲むようにして土塁も残っているようで、普門寺城とも呼ばれました。
今回は訪れた時間が早過ぎたので拝観は諦めました…いずれまた。
高槻市郡家新町の今城塚古墳。
史跡公園として綺麗に整備されているので、この時期でも前方後円墳の形状がよく確認できます。
後円部頂上より。
今城塚古墳は、永禄11年(1568)に上洛した織田信長が、畿内平定戦の過程で陣城として利用したこともあると云われているようですが、不勉強なため詳細はわかりません。
茨木市との市境を越えて、総持寺へ。
西国三十三所の第二十二番札所でもあります。
開山堂は、大阪府下では数少ないという懸け造。
阪神淡路大震災で被災し、平成18年に再建されました。
山門越しに本堂。
本堂
十一月十五日、信長公、あまより郡山へ御参陣なり。
十一月十八日、信長公、惣持寺へ御出で。
寅十一月廿三日、惣持寺へ重ねて御成り。
寅十一月廿七日、郡山より古池田に至りて御陣を移さる。
(信長公記 巻十一「荒木摂津守逆心を企て並びに伴天連の事」より抜粋)
荒木村重の謀反に連座する形で敵方となった高山父子の高槻城、及び中川清秀の茨木城の攻略を目指す織田信長は天正6年(1578)11月、まずはあま(安満山)に陣を据え、高山右近が恭順して高槻城を開城すると、今度は茨木城の中川清秀に圧力をかけるかの如く、15日に郡山城へ移りました。
郡山在陣中の18、23日と度々、この総持寺にも足を運んでいます。
総持寺は、攻囲する茨木城から至近の距離。
信長公記には、信長が数々の戦場で度々、「懸けまはし御覧じ」ている姿が記録されています。この時の総持寺行きも自らの目で敵情を確認し、攻囲戦の陣頭指揮を執るためのものだったのでしょう。
境内では室町期と推定される瓦窯跡(写真)や、江戸期の台所竈跡も保存展示されていました。
梵鐘
永享6年(1434)の鋳造で、豊臣秀頼の命で総持寺再建の奉行となった片桐且元が、自らの陣中鐘として用いていたものを寄進したと伝わります。
信長が茨木城攻めの本陣とした郡山城跡。
彼が郡山に着陣した翌16日には、高槻城を明け渡した高山右近も御礼のため、郡山の信長の元へ伺候しています。
11月下旬には茨木城の中川清秀も帰順したため、信長は郡山を出て池田まで陣を移し、村重の有岡城へと迫りました。
有岡攻めの関連地はいずれまた、日を改めてじっくりとめぐりたいと思います。ここ数年来の宿願でもあるので・・・。
この後は少し、西国街道を走りました。
郡山城下を通る西国街道。
写真は郡山本陣前より。
西国街道(写真横方向)と亀岡街道(同縦方向)が交差する地点。古い道標も建っています。
この辺りは中河原という地で、中川清秀生誕の地とも考えられています。
白井河原合戦跡の碑
摂津三守護の一人だった和田惟政は元亀2年(1571)8月、西国街道が茨木川を越える白井河原一帯(写真)で、荒木村重・中川清秀らとの合戦に臨み、敗れて討死を遂げています。
これ以降、摂津では三守護に代わって荒木や中川、そして惟政の死後まもなくして、その子・惟長から高槻城を奪った高山氏(友照・右近父子)らが台頭していくことになりました。
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