五稜郭、立待岬、碧血碑 ― 箱館戦争めぐり⑯ ―
旅の最終日は五稜郭へ。
五稜郭タワーから見る函館山。
五稜郭は旧幕府脱走軍(以下 旧幕府軍)の入城時は脆弱な備えだったようで、新政府軍の襲来に備えて改修を加えたことを、大鳥圭介やブリュネが証言しています。
箱館戦争終結後、五稜郭の構えを見た新政府軍関係者が「さすがは西洋に通じた榎本、大鳥」と感嘆したとか。
半月堡脇の石垣に刻まれた「栄永」の文字。
半月堡の先端部分。
反対に、半月堡の先端から主郭方向。
五稜郭へ来たら、ここは絶対に外せません・・・一本松の土饅頭。
その理由は・・・5年前に訪れた際の記事をご参照ください。
復元された箱館奉行所・・・新政府軍艦隊の砲撃目標になってしまった建物(;^_^A
無論、奉行所内も見学しました。
明治元年(1868)10月26日、箱館を占拠した土方ら旧幕府軍が五稜郭へ入城した裏門。
裏門脇の土塁上に築かれた砲座。
北東側の稜堡部分。
稜堡には、大砲の昇降用に築かれたスロープ状の坂と、土塁をくりぬいた弾薬庫が設けられていました。
スロープ脇の土盛りは、弾薬庫を築くために土塁をくりぬいて出た土で、目隠しや弾除けのために弾薬庫前に盛り上げられていたものです。
東(東北)門の蔀土塁からは、新政府軍艦隊の旗艦・甲鉄から発射されたものと考えられる砲弾も発見されているそうです。
東門の先、かつては橋が架けられていたであろう痕跡。
5年前の初訪時には見落としていた部分もあり、再訪できて良かったと思います。
この後の行程は残された時間、及び同行メンバーの希望とも相談し、タクシーで一気に移動して・・・
函館山の南東端、立待岬へ。
立待岬にもかつて、幕府の命を受けた南部藩が築いた台場がありました。
箱館戦争時には無論、旧幕府軍も利用したものと思われます。
なお、近くの墓地には石川啄木や、初日の記事でご紹介した写真師・田本研造の墓所もあります。
旅のラストは碧血碑へ。
写真の場所でタクシーを降り、山道を5分ほど進みます。
明治8年に建立された碧血碑。
箱館戦争に斃れた旧幕府軍兵士約800名の霊を祀ります。碑の揮毫は大鳥圭介によるものと云われています。
旧幕府軍戦死者らの埋葬や、碧血碑の建立に尽力した柳川熊吉の碑。
明治辰巳實有此事
立石山上叺表歔志
「明治辰巳の年(2年)“此の事”は実際に有りました。山上に石を立て悲しみの志を表します」
箱館戦争終結から6年の歳月を経てもなお、具体的に記すことを明治政府に憚って「此事」とのみ刻んだ、榎本や大鳥ら建碑者たちの思いたるや如何に・・・。
今回も箱館戦争にどっぷりと浸かることができ、充実した旅となりました。
私のわがままに付き合ってくれた同行メンバーには感謝に堪えません。お陰様で、腰痛で思うように身動きも取れない中でしたが、なんとか乗り切ることができました。
帰路は全員で新幹線を選択。
初めて訪れた新函館北斗駅にて、ほっきーとご対面。
駅構内には、北斗の拳のケンシロウも。
3泊4日の函館・松前・江差・乙部への旅、全10回に渡るblog記事にお付き合いいただき、ありがとうございました。
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