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2019年10月28日 (月)

松前城、法華寺、他 ― 箱館戦争めぐり⑭ ―

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松前に到着後、まずは松前城から城下の市街を挟んだ東の高台に位置する法華寺へ。

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法華寺本堂
明治元年(1868)11月5日、松前城を攻撃する土方歳三は、この法華寺に拠点を置きました。

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古絵図(麦叢録附図)に見る、松前城攻防戦の様子。
手前(下)で大砲を据えている高台が法華寺です。
法華寺からは、南方に位置する松前藩の築島台場にも大砲を撃ち下して無力化させ、その上で海上からは軍艦・回天の艦砲射撃も浴びせるという作戦が執られました。

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法華寺境内から望む松前城。
151年前、土方らもきっと目にした光景。

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合葬塚
旧幕府脱走軍(以下 旧幕府軍)の戦死者60余名を埋葬したと伝わります。

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徳川陸軍隊・士官隊の墓標

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新政府軍、伊州藩松山明義の墓碑。
伊州とは伊賀国のことになりますが、伊賀は津藩(伊勢)の領土となっていましたので、松山も津藩士ということになりますでしょうか。

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11月5日の攻城戦で戦死した赤羽音吉、及び翌明治2年4月、病のために新政府軍の手に落ちた松前からの脱出を諦め、赤羽の墓前での自害を選んだ大庭久輔・関清介らの墓所。

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法華寺の山門前から。
この方角に、松前藩の築島台場はありました。

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城下の松前町役場は松前奉行所跡。

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蝦夷地平定後の入札により、松前奉行に任じられた人見勝太郎が宿所にしていたと云う松前藩医・桜井小膳邸跡付近。
一説には、松前城を攻略した土方も滞在したとか、しないとか・・・。

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さて、それでは松前城をめぐります。

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城の南東に位置する天神坂。

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天神坂の北、馬坂。
こちらの馬坂から登城することにします。

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馬坂門跡

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馬坂門跡から法華寺方向。
奥の高台上に、法華寺本道の屋根が少し見えています。

松前城の攻防戦で城側は、搦手の門を開いて野戦砲を放ち、撃ち終われば門を閉ざして砲弾を装填し、また開門しては放つという作戦を繰り返したと云います。
これに手を焼いた旧幕府軍は、城側が装填のために門を閉ざした隙に城門前へ10名余りの銃兵を並べ、開門と同時に一斉に発砲させてこれを突破したとか。

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松前城で搦手門と呼ばれるものは城内側の東郭にあり、この時の攻防が繰り広げられた城門は、その外郭にあたる天神坂門、或いは馬坂門だったものと思われます。
馬坂門だったのではないかとする説もありますが、実際に訪れてみた感想としては、門が旧幕府軍が攻めかけてくる東を向いた天神坂門だった可能性が高いようにも思えます。
(馬坂門も城の東面に位置していますが北向き)

先に掲載した「麦叢録附図」にも、南の海岸線沿いを城へ向かって走る旧幕府軍兵士の姿が描かれており、城の南東に位置する天神坂門を攻め上ったのではないかと、個人的には考えています。
(城の東に面した通りに出た兵士も、足の向きから南へ向かって走っているように見えます)

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奥に見えているのが搦手ニノ門で、その先に・・・

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搦手門跡があります。
左奥に見えているのが搦手ニノ門で、それぞれの城門がL字のように垂直方向を向いた枡形だったようです。

なお、土方自身は各記録によると「城裏」「山をめぐりて城後」から石垣に梯子をかけて攻め入ったとありますので、守りの手薄な北側の高所(おそらく寺町方面)へ回り込んだものと思われます。

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松前城といえば、な鉄板アングル。

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三重櫓(天守)南面の石垣に残る砲弾跡
方角からして艦砲射撃によるものと思われ、或いは11月5日の攻防戦で回天から発射された砲弾跡かもしれません。

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松前城の北、寺町に建つ松前家の菩提寺・法幢寺。

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歴代藩主や、その家族らが眠る松前家墓所。

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城の南面に築かれていた二番台場周辺に残る砲座。

松前城は諸外国の脅威に備え、北辺警備のために幕府が松前藩に命じて築城させ、安政元年(1854)に完成しています。
そのため、海に面した南~南東にかけて多くの台場が築かれていました。
(だからこそ反対に北の山側の守りが薄く、そこを土方に衝かれた、ともいえるのかもしれません)

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海へ向けて据え付けられた砲門はしかし外国勢力にではなく、旧幕府軍の軍艦・回天や、土方ら陸軍部隊到着前の11月1日に松前港へ回航した蟠龍へと向けられたのでした。

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五番台場

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天神坂門近くに築かれた七番台場。
現在では東屋が置かれ、大砲の代わりにベンチが設置されていました。奇しくも、土方らが布陣した法華寺へ向いています。

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帰りは天神坂門から。

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昼食後、同行メンバーは松前城の北に位置する道南十二館の一つ大館に向かったので、腰痛に苦しむ私は麓の松前一の宮・徳山大神宮でお留守番。
(大館へ向かった一行も、林道のド藪で結局諦めて戻ってきました)

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徳山大神宮の近くには、国後島で南部藩に捉えられ、ロシアに拿捕されていた高田屋嘉兵衛との交換で釈放されたロシア人ゴローウニンらの幽閉地もありました。

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松前城の西方、元新選組・永倉新八が明治初頭に松前藩への帰参が許され、藩医・杉村家の娘と結婚して一時移り住んだ地。
(その後、小樽へ転居)

僅か数時間の戦闘で松前城を攻略した土方歳三らは11月11日、逃げた松前藩兵を追って更に北へと進軍していきます。
我々も松前をあとにし、その足取りを追って北上することにします。

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松前城から西へ2㎞ほどに位置する建石野台場跡。
遺構ではないのでしょうが、土塁のようなものがあってテンションが上がりました(笑)

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建石野台場跡(左手前)と弁天島。

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建石野台場の更に西北へ1㎞余り、折戸浜砲台跡。
いずれも旧幕府軍が新政府軍の襲来に備え、松前防衛のために築いた台場跡で、明治2年4月には松前へ迫る新政府軍との間で激戦が繰り広げられています。

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大滝の古戦場
明治元年11月14日、松前藩兵を追って北上した土方歳三率いる旧幕府軍は、急峻な山裾が海へと落ち込み、その縁を縫うように「十三曲」と呼ばれる隘路が通うこの付近で、待ち受ける松前藩兵との戦闘に及びます。
元々この地には松前藩の陣屋が置かれていたとのことなのですが、地勢からすると陣屋というよりは関所のようなものが置かれていたのかもしれません。

間に切り立った谷を挟んで対峙した両軍でしたが、山を大きく迂回した額兵隊(旧幕府軍)一小隊の横撃により、旧幕府軍は松前藩兵を撤退させることに成功しています。

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土方らも通った十三曲の旧道を、大滝橋から見下ろせるとのことだったのですが・・・車を停めるスペースがなく、交通量も多かったので走行しながらの撮影を試みるも・・・車高が低過ぎて叶わず。

大滝の戦いに勝利した旧幕府軍は、江差へ向けて北上を続けます。
同日、箱館では旧幕府軍の旗艦・開陽が、やはり江差を目指して碇を上げました。

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