鴫野・今福の戦い関連地、他(大坂冬の陣)
ひとしきり茨木~高槻をめぐった後は、大阪市の中心街へ。
まずは本町橋。
慶長19年(1614)12月、大坂城を包囲する徳川方の蜂須賀至鎮隊へ夜襲をかけて、
「本夜之大将ハ、塙団右衛門直之也」
と記した木札をばら撒き、夜討ちの大将として名を馳せた塙団右衛門・・・大坂冬の陣に於ける逸話の一つ、「本町橋の夜討ち」の舞台です。
大阪歴史博物館から、難波宮跡を俯瞰する。
そして大阪城も。
天気が良くて明るかった分、窓ガラスへの写り込みがきつくて大変でした・・・(;^_^A
この後は、私の要望で谷町9丁目の妙法寺を訪れたのですが、それは別の記事に回して・・・
真田丸跡へ。
真田丸については、もはや説明不要ですね。
大坂冬の陣で、真田信繁の名を天下に知らしめた舞台です。
A地点から→方向を見た堀跡。
B地点には古絵図同様、今もお寺が建ち並びます。
その一つ、心眼寺。
信繁の400回忌に建立された墓碑。
続いて、鴫野の八剱神社。
鴫野は慶長19年(1614)11月26日に起きた、大阪冬の陣に於ける鴫野・今福の戦いの舞台にもなっています。
鴫野には、徳川方の上杉景勝隊5,000が布陣しました。
写真は、八剱神社の境内に建てられた上杉景勝 本陣之地碑。
豊臣家滅亡後、大坂城は徳川家の手によって造り変えられます。
その際、大和川や平野川などの川が交錯する鴫野は、石垣用石材の集積場になったそうです。
八剱神社の石垣は、この時に残された石材を転用して築かれたとも考えられています。
鴫野に進出した上杉隊に対し、大坂城側は大野治長らを当たらせますが、景勝の軍勢はこれを撃破しました。
上杉隊の奮闘ぶりに家康は「朝早くから戦って兵も疲れているだろうから、鴫野の守備は他の隊に任せて一旦退け」と命じました。
ところが景勝は「自ら勝ち取った地を他人に任せられるものか」と言って使者を追い返したと云います。
一方、鴫野から旧大和川を挟んで北に位置する今福に向かったのは、佐竹義宣隊。
当時、今福・蒲生一帯は水田や湿地で占められており(付近からは古代の丸木舟も出土している)、戦闘は堤や街道沿いで行われたと考えられています。
この碑が建つ地も、旧鯰江川の北岸にあった今福堤の上に位置しているようです。
今福堤の痕跡と思われる高低差。
先程の碑の場所から今福堤跡(推定)を4~500mほど西へ向かった地点です。
眼前を横切る道路が堤跡で、手前と奥の地形が下がっているのがわかります。
この堤跡(の道)を、写真左へ進むと・・・
佐竹義宣の本陣跡と伝わる若宮八幡大神宮に行き当ります。
つまり、佐竹義宣の本陣も堤の上に布かれていたということになります。
今福に布陣した佐竹隊はおよそ1,500。
大坂城から進出してきた木村重成、後藤又兵衛らとの戦いとなり、佐竹隊は重臣の渋江政光を喪うなど苦戦を強いられました。
戦況不利に陥った義宣は、鴫野の景勝に対して援軍を要請し、駆けつけた上杉隊のお陰で何とか窮地を脱することができたと云います。
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