大圓寺、権現台場、四稜郭 ― 箱館戦争めぐり⑩ ―
函館市神山の大圓寺。
箱館戦争で戦死した旧幕府脱走軍(以下 旧幕府軍)兵士21名の霊を弔っています。
土方歳三埋葬伝承地の一つでもある二本松の根元。
近年になって慰霊碑も建てられたようです。
※土方歳三の埋葬地については、5年前の極楽寺や願乗寺跡(本願寺函館別院)、五稜郭の記事も参照してください。
河合要之助(福山藩)、中村幸六郎、鮫嶋辰造(以上、在住隊)のお墓。
墓石に「明治元年十月廿四日」とあるので、箱館戦争の緒戦ともいえる大野か七重での戦闘に新政府(箱館府)軍として従軍し、命を落としたものと思われます。
つづいて権現台場。
この地には、五稜郭の鬼門の守護として東照宮が祀られていました。
旧幕府軍は明治2年(1869)、新政府軍の襲来に備え、五稜郭の北の守りとして四稜郭を急造しますが、その中間に位置する東照宮も台場としました。
戦闘で社殿は焼失し、東照宮も後に移転(現北海道東照宮)しましたが、現在鎮座する神山稲荷神社の大鳥居は1862年、五稜郭や弁天台場の石垣を築いた石工による作で、箱館戦争の戦火も潜り抜けています。
北海道東照宮に移された石造りの手水鉢に残る弾痕が有名ですが、こちらの大鳥居にも怪しい痕跡が・・・。
神山稲荷神社
社殿背後の気になる土塁・・・いつ築かれたものでしょうか。
そして四稜郭へ。
建設を指揮したのは陸軍奉行の大鳥圭介とも、ブリュネとも伝えられています。
稜堡外縁の堀跡。
唯一の虎口は、小さいながらも枡形。
郭内から虎口の枡形。
北西側の稜堡先端から、四稜郭全体の撮影を試みるも・・・ちょっとフレームに入りきりませんでした。
見た通り、緩斜面の台地上に築造されており、当時は箱館を一望することができたと云います。
稜堡先端部。
全ての稜堡先端部に、大砲の昇降用と思われるスロープ状の坂がつけられていました。
古絵図で見る、四稜郭と権現台場の位置関係。
明治2年5月11日の新政府軍による箱館総攻撃時、未だ完成前の四稜郭には江差奉行だった松岡四郎次郎隊が守備につきますが、先に権現台場を占拠され、退路が断たれるのを恐れて五稜郭へ撤退しました。
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