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2019年11月

2019年11月30日 (土)

大嘗宮を拝観

令和元年12月8日まで行われている大嘗宮の一般参観に足を運んできました。

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一般参観の入場口となる坂下門。
この日は天候にも恵まれ、多くの人で賑わっていました。

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なんと、桜と紅葉のコラボレーション。奥には富士見多聞櫓も。
桜は「十月桜」という品種で、4月上旬と10月頃の年2回開花するのだそうです。

なお11月30日からは、この先の乾通りも12月8日まで一般公開されます。

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富士見櫓の足元を抜け、本丸跡へ。

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大嘗宮は江戸城本丸、大奥跡地付近(天守台のすぐ近く)に建てられていました。

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天皇陛下の皇位継承に伴って執り行われる行事の一つ、大嘗祭。
大嘗宮は、その中核儀式となる「大嘗宮の儀」が行われる場所で、即位した新天皇が新穀を神々に供え、自らも召し上がって国家・国民の安寧と五穀豊穣を祈念されます。

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今回は「悠紀殿供饌の儀」が令和元年11月14日の夜、「主基殿供饌の儀」が同11月15日未明に行われました。

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お供えする神饌が調理された膳屋の壁面。

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宗教儀式としての性格があるため、国事行為となる「即位の礼」の各儀式とは異なり、「大嘗宮の儀」は皇室行事とされています。
それでも政教分離の原則から、公費を支出するべきではないとの意見もあり、経費節減のため、屋根が萱葺きから板葺きに変更されたり、一部の建物を組み立て式にしたりといった工法の変更もあったそうです。

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後方から。
向かって右の大きな建物が「主基殿」で、左奥が「悠紀殿」。

大嘗宮は一般参観が終了すると取り壊されるそうです。
ほんの少しの間、人混みから垣間見る程度でしたが、貴重な体験をさせていただきました。

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2019年11月29日 (金)

出石皿そば巡り、御着城、他

有子山城から下山した後は、しばし昼食を兼ねた自由行動。
出石の城下町をぶらり旅。

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出石のシンボル、辰鼓楼。
明治4年(1871)に、出石城三の丸大手門の石垣を利用して築かれた、時を告げる太鼓櫓。
明治14年からは時計台となり、札幌の時計台と並んで日本最古の時計台として現在に至っています。

出石へ来たからには、折角なのでやはりお蕎麦をいただかなくては♪

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ということで、いずし観光センターで「出石皿そば巡り」の巾着セットを購入。
販売価格は税別1,800円で、出石ちりめん製の巾着の中に永楽銭のコインが3枚入っており、コイン1枚につき皿そば3皿、企画に参加している36店舗で利用できます。
つまり、「異なる3店舗で少しずつ食べ比べができる」というもの。
(価格/店舗数はいずれも2019年11月現在)

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まず1軒目。
どうやら通常のそばつゆの他に、とろろや生卵も好みに応じて加えていくのが基本スタンス?のようです。
お店オリジナルの藻塩でいただくお蕎麦も美味でした。

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2軒目。
蕎麦の色や太さも、1軒目のものとは全然違いました。
これは確かに、食べ歩きをしながら好みのお蕎麦を探すのも楽しそうですね。

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入店して永楽銭コインを利用すると、巾着にお店のハンコが捺されます。
今回は時間もなく、2店舗のみでの利用となりましたが、仮に3店舗でコインを使い切っても9皿。特に男性には物足りないところですが、無論、追加注文も可能です。我々も2軒目で、たくさん追加させていただきました(笑)
また、巾着セットを購入すると、各資料館や土産物の購入にも割引が適用されるようです。

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桂小五郎居住跡(荒物屋跡)
元治元年(1864)の禁門の変で京を追われた桂小五郎は、9ヶ月間ほど出石に潜伏しています。

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家老屋敷

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さて、それでは出石をあとにします。
山頂に有子山城本丸の石垣も見えていますね♪

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解散場所である姫路駅へ向かう道すがら、竹田駅にも立ち寄って竹田城を遠望。

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姫路市御国野町、御着城跡

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御着城は播磨国の守護・赤松氏の家臣で、黒田官兵衛の主家でもあった小寺氏の居城でした。

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御着城本丸跡
現在は公民館が建っています。

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本丸跡に建つ黒田官兵衛顕彰碑。

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黒田家廟所
勘兵衛の祖父・重隆と生母を祀ります。

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文政11年(1828)、西国街道に架けられた天川橋。
昭和47年に橋脚が崩れて橋桁が落下したため撤去され、昭和53年に現在地(御国野公民館)に移設保存されました。
橋下の窪みは、御着城の堀跡とのことです。

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二の丸跡は現在、グラウンドになっています。
黒田家ともゆかりの深い、目薬の木が植えられていました。
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二の丸北側の堀と土塁跡。

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本丸とニの丸の間を通る道路にも、堀跡と思われる痕跡が残っていました。
先程の、二の丸北側土塁の延長線上です。

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最後は姫路駅にて解散。

今回は城友会らしからぬ攻城数の少なさでしたが、疲労感は一番かも・・・(^-^;
その分、素晴らしいお城に出会えたので満足です。
参加者のみなさん、お疲れさまでした☆

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2019年11月28日 (木)

有子山城

城友会2019 in 但馬、2日目は有子山城を攻めます。

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朝8時前、霧が立ち込める山麓の出石城。
出石城には7年ぶりの再訪となりました。

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出石城本丸に建つ感応殿。
宝永3年(1706)以降、出石藩主となった仙石氏の祖・仙石権兵衛秀久を祀ります。
我々も登山の無事を祈って参拝。

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出石城稲荷曲輪(有子山稲荷神社)脇の登山口。
7年前は少し登った先で、日没を考慮して断念しました。

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但馬国の守護だった山名氏は、室町時代の最盛期には一族で日本66ヶ国のうち11ヶ国もの守護を兼ね、「六分の一殿(衆)」と称されるほどの勢力を誇りましたが、戦国期にはその勢いも衰退していきます。
そして永禄12年(1569)、織田信長の命を受けた木下秀吉の侵攻(出雲の奪還を目指す尼子氏の残党が挙兵して祐豊がそれを支援したため、毛利氏と友好関係にあった信長が元就の要請に応じて兵を差し向けた)を受け、祐豊は居城の此隅山城(有子山の北方4~5㎞)を追われました。

堺に亡命した祐豊はその後、信長に取り入って但馬国出石への復帰を許されます。天正2年(1574)、彼が新たな居城としたのが有子山城でした。此隅=「子盗み」を連想させる名を嫌って「有子」と命名されたとも伝わります。
その後、織田×毛利の関係が友好から対立へと変化してゆく中で山名氏の方針も揺れ動き、最終的には天正8年(1580)、再び織田軍の侵攻を受けて有子山城は落城しました。
江戸時代に入り、山麓に出石城が築かれたことで廃城になっています。

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有子山城へは、ご覧のような急勾配の尾根をひたすらに直登します・・・とにかくキツい。
岩肌が露出した箇所も多く、地面が濡れている時などは特に下りに注意を要します。

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尾根を寸断する堀切Aに架かる土橋。

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堀は斜面を綺麗に落とされていました。

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ひたすら急斜面を登り詰めた先に広がる曲輪B
本丸(主郭)まではまだ距離にして500mほどもありますが、ここまで来ればもう急勾配の登りは終わりです。
ここまでの道中、樹間からチラチラと見えていた雲海がまだ残っていて間に合いそうだったので、兎にも角にもまずは本丸へ急ぐことにしました。

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井戸曲輪の下、砂防目的で築かれたと思われる石垣。

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ようやく主郭部の石垣たちも見えてきました。
目指す本丸もすぐそこ!

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第六~第三曲輪に残る石垣を振り返りつつ・・・

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いよいよ本丸へ。
写真は第二曲輪から見た本丸の石垣(西面)。

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石垣と雲海・・・やっぱり、いいですよねぇ~。

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本丸石垣(北面)

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本丸内。そして・・・

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本丸から眺め渡す見事な雲海!

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視界に入る限りの一面びっしりと、隙間なく広がっていました。
ただただ感動・・・。

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疲れも語彙力も全て吹き飛び「すごい・・・」と呟くことしかできず、しばらくは呆然と見惚れていました。
(写真提供:流星☆さん)

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さて、ひとしきり雲海を堪能したところで、ようやく城攻めを再開します(笑)
写真は、本丸から千畳敷を見た様子。間の大堀切がまた、とんでもなく規模が大きい!

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第四曲輪
ここから南へ回り込み、先ほどの本丸⇔千畳敷間の堀切へ向かいます。

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第三曲輪南面の石垣。

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同じ石垣を反対側から。

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本丸⇔千畳敷間の大堀切。

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千畳敷から見る、大堀切越しの本丸。

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千畳敷
その名の通り、かなり広い曲輪でした。

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千畳敷を東へ少し下った先、Cの堀切。

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更に堀切D

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堀切Dの北側。見事な竪堀になっていました。

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再び第六曲輪辺りまで戻り、今度は石取り場を目指します。
写真は、第五曲輪南西面の石垣。

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堀切E

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堀切Eもいい感じに切れていますねぇ~。

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石取り場

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石取り場に取り残された矢穴石。

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Fの竪堀へ向かう途中にあった、窯?のような痕跡。

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竪堀F

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最後は北西に伸びる尾根に築かれた曲輪群(写真)を下り、堀切GHへ向かいます。

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数段下った先の曲輪。不思議な石列も。

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堀切G

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とても規模の大きな堀切です。

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堀底から。

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堀切Gを対岸(下方)から。
攻城側からしてみれば、絶望的な高低差。

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堀切H
こちらには土橋が架けられていたようです。

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下山する頃には雲海も晴れてきて、城下町が見えるようになっていました。

有子山城・・・石垣に堀切、雲海、登山のキツさ、、、なにもかもが想像を超える凄さでした。
登り始めから下山完了まで3時間強、たっぷりと堪能させていただきました。

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2019年11月27日 (水)

但馬八木城

11月の下旬といえば、毎年恒例の城友会
時の移ろいは早いもので・・・今年でなんと、8年連続での参加となりました。
今回攻める地は、来年の大河ドラマの主人公・明智光秀が平定したことでも知られる丹波!・・・だったはずが、気がつけば行先リストはどれも但馬のお城?宿泊地も但馬豊岡??
・・・という訳で、城友会2019 in 但馬のスタートです(笑)

新神戸駅で集合し、まず向かった先は・・・

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但馬八木城

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但馬八木城の築城時期は不明ですが、中世には但馬国の守護でもあった山名氏の家臣で、山名四天王にも数えられる八木氏が居城としていました。

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城山には、南東側に伸びる尾根を直登します。
それほどの急勾配には見えなかったのですが、どうした訳か息が上がり、私だけペースが遅れてしまいました・・・。

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どうにか辿り着いた曲輪。

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曲輪の南西端にて。

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奥に曲輪の切岸を見る。

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本丸の石垣

天正8年(1580)、羽柴秀吉の但馬侵攻に伴って八木氏は秀吉の軍門に下り、因幡の若桜鬼ヶ城へ移されました。
この石垣は、天正13年に八木城主となった別所重棟(三木城主・別所長治の伯父)、及び子の吉治(一説には長治の子とも)による改修と考えられています。

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本丸南西面の石垣

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高い山の上に忽然と姿を現す石垣に心を奪われます。

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緩やかに描かれる曲線がまた、なんとも言えず格好いい・・・。

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こちらは、本丸を北側に回り込んだ先。

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そして、本丸虎口付近。

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本丸
奥には櫓台らしき土盛りも。

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A地点にある堀切。

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上の図面には載っていませんが、主郭部から更に北西方向へ伸びる尾根を進んだ先には、八木土城があります。
ご覧のような細尾根を進み・・・

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200mほどで八木土城に到着。

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土城は尾根上一列に並べられた曲輪が、階段状に連なる構造になっています。
そして何故か、城下町に面した南西側にだけ土塁が盛られていました。

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曲輪をいくつか登っていくと、しっかりとした外枡形も。
こうした遺構の特徴から、土城にも別所氏時代の改修が入っているのではないかと考えられています。

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外枡形の先の曲輪。
奥に見える切岸の上が、ピークに位置する土城の主郭です。

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八木城の麓には旧山陰街道が走り、16世紀後半までの城主居館跡とされる殿屋敷遺跡と、それ以降の居館跡と考えられている御里遺跡も残っているようです。

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但馬八木城、とても見応えのある城跡でした。

移動距離(時間)が長かったこともあり、この日の城攻めは但馬八木城のみで終了。
この後は宿泊地の豊岡まで移動し、豊岡城の移築門などを車で少しめぐりました。

夜は居酒屋での飲み会でしたが、疲労もあって1次会で終了・・・城友会史上初めて、2次会のカラオケ無しでお開きとなりました。年々、あまり無理がきかないお年頃になってきたということか・・・(;^_^A
誰かさんは、この日のために用意してきた替え歌の新曲を披露する機会を失って、部屋で一人悶々としていたみたいだけど(笑)

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2019年11月21日 (木)

二俣城、清瀧寺(信康切腹事件について)

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二俣城(浜松市天竜区二俣町)は、天竜川が足元を洗う段丘上に築かれていました。
元亀~天正年間には武田×徳川間の攻防の舞台にもなり、元亀3年(1572)には西上作戦の途にある武田信玄が徳川方にあった二俣城を攻略し、天正3年(1575)になると、今度は長篠で武田軍に勝利した徳川家康が奪還しています。

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北曲輪と本丸間に落とされた竪堀。
すぐ眼下には天竜川の流れも見えていました。

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同じく、北曲輪と本丸間の堀切。

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北曲輪(右)と、左に竪堀。
北曲輪には現在、旭ヶ丘神社が祀られています。

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本丸北側の喰違い虎口。
奥に天守台も見えています。

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本丸

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本丸南側の枡形虎口。

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ニノ曲輪へ通じる大手(追手)虎口。

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天守台

二俣城は天正7年(1579)9月15日、切腹を命じられた徳川家康の嫡男・信康が最期を遂げた地としても知られています。
麓には信康の菩提を弔うため、家康が建立した清瀧寺があります。

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その清瀧寺に復元された、二俣城の水の手櫓。
元亀3年に二俣城を包囲した武田軍は、城兵が天竜川に架けた汲み上げ用の櫓を破壊し、水の手を断つことで攻略に成功したと云います。

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信康堂

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信康堂に安置されている信康の木像。

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清瀧寺本堂
手前には、家康お手植えの蜜柑…の分木も。

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二俣尋常高等小学校に通う幼き日の本田宗一郎が、正午を知らせる寺の鐘を30分早く衝き、まんまと早弁にありつけたとの逸話も残る梵鐘。
(清瀧寺のお隣には、本田宗一郎ものづくり伝承館があります)

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岡崎三郎信康の廟所

信康の死については一般的に「織田信長の命によって切腹に追い込まれた」(三河物語)とされ、長らく定説化してきました。現地(二俣城跡や清瀧寺)に設置された案内板もことごとく、この説を採用しています。
しかし、武田家がまだ健在であるこの時期に、対武田の戦略上、重要な存在である徳川家との同盟関係を破綻させかねない要求を、確たる理由もなく信長が家康に強いるとは少々考えづらいものがあります。

他の文献を見ると信長は、信康問題で安土に赴いた酒井忠次に対し、
「如何様にも存分次第」(松平記)
「家康存分次第ノ由返答有」(当代記)
つまり、「家康の考え次第だ」「家康の判断に任せる」と答えています。

この事件は信康拘束後の家康の動きを見る限り、信康を担ぐ岡崎衆の浜松への反発と、そうした動きに対して家康が警戒心・危機感を募らせた結果と、個人的には考えています。その背景には、4年前の天正3年に発覚した大賀(大岡)弥四郎事件(岡崎衆の中から武田家への内通を画策する動きが発覚して粛清された事件)の記憶も影響したかもしれません。
いずれにしても、(家臣団を含む)徳川家内部の事情に起因しているのではないでしょうか。
安土に酒井忠次が派遣されたのは、信康の岳父で偏諱も受けている信長を憚り、信康の処分について事前に相談し、伺いを立てておくためだったものと思います。

家康は信長側近の堀秀政へ宛てた八月八日付の(信長への)披露状で、
「三郎不覚悟付而去四日岡崎を追出申候」
(徳川家康堀久太郎宛/信光明寺文書)
と報告しています。
「不覚悟付而」…信康の処断を決めたのがあくまでも家康自身だったことを、この一言が伺わせている気がしてなりません。

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2019年11月20日 (水)

かんざんじロープウェイ

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浜名湖パルパルの脇から、浜名湖上を大草山の展望台へと渡るかんざんじロープウェイ。
2台のロープウェイが交互に、10分間隔で運行されています。

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舘山寺(右下)や、浜名湖パルパルに姿を変えた堀江城跡を俯瞰。
堀江城は、岡崎城を追われた松平信康(家康嫡男)が一時、身柄を移された城でもあります。

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今や、すっかり有名になった井伊谷方面。

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左に浜名湖パルパル、右が大草山。
大草山の展望台はオルゴールミュージアム(有料)にもなっています。

日本で唯一、湖上を渡るかんざんじロープウェイ。
専用駐車場の料金に少々驚かされましたが(笑)、展望台からの眺めはまさしく絶景。
湖面を見下ろしながらの空中散歩も、結構楽しめます。

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2019年11月19日 (火)

広徳寺

ようやく秋の気配も漂い始めた11月のとある日曜日。
本当ならば筑波方面へ遠征しようと思っていたのですが、寝過ごしてしまい断念。
代わりに手近なところで、あきる野市の広徳寺へお邪魔してみました。

道中、先の台風による土砂崩れなどの影響で通行止め箇所がいくつかあり、幾度となく迂回を余儀なくされました。
広徳寺の周辺は道幅も狭く、車での走行には注意が必要です。

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広徳寺総門(市指定文化財)
掲げられた額の「穐留禅窟」は松江藩主・松平不眛の筆によりますが、実際に額が製作されたのは不昧が没した1年後の文政2年(1819)。
松江の不眛と広徳寺に、どのような繋がりがあったのでしょうか。

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山門
こちらも市指定文化財。

広徳寺は応安6年(1373)の開基。
天文年間に北条氏康によって堂舎が再建され、江戸時代には幕府から40石の朱印地も与えられていました。
現在、その境域は東京都の史跡に指定されています。

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山門を抜けた先、大きな銀杏の木の間から本堂が覗いています。

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とても素敵な茅葺屋根の本堂(左)と庫裡(右)。

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広徳寺には、発給名義は真月斎道俊(大石定久)ですが、北条氏の「禄寿応穏」の虎朱印が捺されている寺領書立文書が残されています。
大石定久は北条氏康の子・氏照を養子に迎えて家督を譲り、五日市の戸倉城に隠居して道俊と号しました。
但し、その没年は天文18年と伝えられており、天文20年9月6日付の本文書と整合性が取れないことになってしまいますが、この辺りはどういうことになるのでしょうか。。。
※定久の没年については、天文22年とする史料も存在しているそうです。

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東京都の天然記念物に指定されているタラヨウ(モチノキ科)

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同じく都指定天然記念物、カヤ(イチイ科)

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まだまだ豊かな自然が残るあきる野。
周辺の情景をゆったりと愉しみながら、ウォーキングのついでにでも立ち寄ってみるのもいいのではないでしょうか。

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2019年11月18日 (月)

高遠城・一夜の城・法華寺 …信長の甲州征伐 信濃路④

三月十八日、信長公、高遠の城に御陣を懸けられ、
三月十九日、上の諏訪法花寺に御居陣。諸手の御陣取り段々に仰せ付けられ侯なり。
(信長公記 巻十五「人数備への事」)

天正10年(1582)3月18日、飯島を出立した織田信長高遠城に宿陣し、次いで翌19日、信濃での最後の陣所となる上諏訪の法華寺に到着しました。

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高遠城
個人的には6年ぶりの再訪となりました。

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高遠城に設置されていた、織田信忠による高遠城攻めの案内板。

三月朔日、三位中将信忠卿、飯島より御人数を出だされ、天龍川乗り越され、貝沼原に御人数立てられ、松尾の城主小笠原掃部大輔を案内者として、河尻与兵衛、毛利河内守、団平八、森勝蔵、足軽に御先へ遣はさる。中将信忠卿は御ほろの衆十人ぱかり召し列れ、仁科五郎楯籠り侯高遠の城、川よりこなた高山へ懸け上させられ、御敵城の振舞・様子御見下墨なされ、其の日はかいぬま原に御陣取り。
(信長公記 巻十五「信州高遠の城、中将信忠卿攻めらるゝの事」)

3月1日、飯島から高遠へ向かった織田信忠は、貝沼原に陣を置き、母衣衆10人ばかりを召し連れ、川手前の高遠城を見下ろす高山へ自ら物見に出ています。
この時、信忠が貝沼原に布いた陣がいずれの地にあったのか、具体的には定かではありませんが・・・

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その候補地の一つとされるのが、伊那市富県貝沼一夜の城
こちらも6年ぶりの再訪です。

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一夜の城については、6年前の記事をご参照ください。

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右に高遠城、川(アーチ橋が見える)を挟んだ左が、信忠が物見に出た川よりこなた高山
高遠城に籠る仁科盛信は降伏を拒み、3月2日、信忠軍の猛攻撃の前に城と共に華々しく散りました。

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高遠城を出た信長の軍勢が、どのルートで諏訪へ向かったかはわかりませんが、我々は杖突峠を越えて・・・

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法華寺へ。
吉良義周の墓所にもお参りさせていただきました。

上諏訪に到着した信長は4月2日まで当地に滞在し、諸々の戦後処理を施した後、雄大な富士山や新府城の焼け跡を眺めつつ、翌3日に甲斐の甲府へ入りました。
甲府を出て安土への凱旋の途に就くのは7日後、4月10日のことです。
※なおこの間には、天正2年の明知城落城の要因となった飯羽間右衛門尉が捕らえられ、処刑されていることも添えておきます。

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旅の最後に、諏訪大社上社にもお参り。

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上諏訪駅で解散し、帰路はスーパーあずさにて。

私の希望を叶え、旅に同行して車を出してくれた友人には感謝しかありません。
いずれまた、今度はちょっと視点を変えて中馬街道を旅しましょう。

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2019年11月17日 (日)

大島城・飯島城 …信長の甲州征伐 信濃路③

三月十七日、信長公、飯田より大島を御通りなされ、飯島に至りて御陣取り。
(信長公記 巻十五「武田典厩生害、下曽禰忠節の事」)

天正10年(1582)3月17日、飯田を出立した織田信長大島を通過し、飯島まで陣を進めました。

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大島城縄張図

元亀2年(1571)3月、武田信玄は大島城に大修築を加え、伊那における一大拠点としたと云います。
今日に残る遺構も、その大部分はこの時の縄張によるものだそうです。

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の馬出
三の丸とは木橋で繋がっていたと考えられています。

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三の丸

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丸馬出への枡形は・・・。

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三の丸東端部

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二の丸から三の丸へせり出す馬出(左)
の堀がまた見事なこと。

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の馬出を別角度から。

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二の丸に残る土塁。奥にの櫓台。

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二の丸と本丸間の堀。
手前の二の丸側の切岸には、小さな腰曲輪も。
堀底を写真左方向へ下っていくと井戸曲輪へと繋がっており、井戸への出入りを見張る役割があったと考えられています。

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本丸

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本丸虎口の木戸跡。

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本丸の櫓台。

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本丸東側の腰曲輪。
稲荷神社が祀られていた痕跡も。

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城跡のすぐ脇を流れる天竜川。

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井戸曲輪へ。

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井戸

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付近の堀。

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南側の外堀。

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大島城の代名詞ともいえる三日月堀

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天正10年2月、大島城は信玄弟の信廉(逍遙軒信綱)らが守備していましたが、織田信忠率いる軍勢が攻め入って来ると夜陰に紛れて逃亡し、大島城は呆気なく落城しました。

続いて飯島城へ。

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飯島城の北西に位置する西岸寺。
鎌倉末創建の古刹で、城主・飯島氏ともゆかりが深いと云います。

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飯島町の名勝にも指定されている西岸寺の参道。

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飯島城縄張図

飯島城は武田家に従う信濃源氏・飯島氏の居城。
本城・登城からなる中世後期の城域と、その東方に広がる前期のものとに分かれています。

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登城北側の堀跡。

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本城の堀と土塁。
手前は虎口に架かる土橋のようにも見えますが、後世に車両の通行のために架けられたものかもしれません。

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本城北西側の堀跡。

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本城北側の堀跡。

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思いがけず鮮明な遺構と出会い、興奮を覚えました。

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本城郭内
天正10年2月、飯島城は織田信忠軍の侵攻によって落城しました。
飯島城を落とした信忠は、この地から仁科盛信の籠る高遠城攻略へと向かっています。
織田信長、そして信忠もこの郭に滞在したのでしょうか。

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2019年11月16日 (土)

長岳寺、根羽村の信玄塚

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ひとしきり飯田城跡を見てまわった後は、中馬街道を少し引き返し、阿智村駒場長岳寺へ。
言わずと知れた、武田信玄ゆかりのお寺です。

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伊那の四季を描いた本堂の襖絵。
日本画家・吉川優氏の作とのことで、顔料には珊瑚や真珠なども用いられているそうです。

運良くお寺の方がいらしたので、拝観料200円で武田信玄の遺品と伝わる金の兜の前立(鍬形台三輪菊唐草透彫三鈷柄付)や兜仏なども拝観させていただきました。

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武田信玄灰塚供養塔
信玄は元亀4年(1573/7月に天正へ改元)4月12日、駒場の山中で没し、縁者が住職を務めていた長岳寺の裏山で荼毘に付されたと云います。
付近の山中には信玄塚と呼ばれる火葬塚が残り、こちらの供養塔は信玄の没後400年祭に、その火葬塚から灰を移して供養したものだそうです。

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灰塚供養塔の脇には、馬場美濃守の供養塔(五輪塔)も。
伊那をはじめ、南信州方面での功績が多かった関係かもしれません。

火葬塚の位置も教えていただきましたが、今回は時間の都合で断念。
前日の滝之澤城郭(防塁)といい、中馬街道沿いには武田家ゆかりの史蹟が今も多く残ります。
今回の旅が改めてそれを認識させてくれたので、いずれまた必ず、武田家目線で中馬街道を旅したいと思います。

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ところで、この前日に根羽村付近を通過している際にも「信玄塚」に立ち寄りました。

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「甲陽軍鑑」に、信玄は「ねばねの上村と申す所にて他界された」と書かれていることに由来しているようです。
信玄の死去に伴い武田勢は、風林火山の軍旗を横にして行軍したので、この付近は横旗(横畑)と呼ばれるようになったのだとか。

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宝篋印塔は江戸時代の寛文年間、信玄の百年忌に建立されたとも伝えられていますが、その形状からは室町末期のものと推定されています。

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信玄が埋葬されたと伝えられる実際の塚は、現在では壁画前の国道に埋没してしまっているそうです。。。

信玄の火葬場所については、甲府の土屋昌続邸説などもあり、実際のところは私にはわかりません。
ただ、家臣らが信玄の遺体なり遺骨なりを置いていくはずもなく、中馬街道を進み、甲府まで粛々と運ばれていったことだけは確かでしょう。

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さて、それでは信長の足跡を辿る旅を再開したいと思います。

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2019年11月15日 (金)

飯田城 …信長の甲州征伐 信濃路②

十五日午の刻より雨つよく降り、其の日、飯田に御陣を懸けさせられ、四郎父子の頸、飯田に懸け置かれ、上下見物仕り侯。十六日、御逗留。
(信長公記 巻十五「武田典厩生害、下曽斑忠節の事」)

天正10年(1582)3月15日、現阿智村の浪合を出立した織田信長の軍勢は飯田まで進み、同地で武田勝頼父子の首を改めて晒しています。

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飯田城が築かれていた台地の遠景。
先端付近(右)が本丸跡になります。

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偶然見つけた外堀跡。

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長姫神社境内から柳田國男館、日夏耿之介記念館の建つ辺り一帯が本丸跡とのこと。
(写真は長姫神社境内)

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長姫神社の社殿裏手、この石積み土塁も城の遺構とのことでしたが・・・う~む。

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本丸と二の丸間を断ち切る堀切。

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あまり近づけなかったので写真はいまいちですが、堀切は見事な遺構でした。

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本丸付近から北側の地形高低差。

ちなみに、台地の先端に建つ三宜亭本館は山伏丸跡。
築城前、修験者の修行所があったことに由来しているそうです。

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移築された桜丸御門。

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城跡から少し離れ、長閑な町中の民家に移築された八間門。

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明治4年(1871)に払い下げを受けた、飯田城の二の丸にあった門とのことです。
左右四間ずつの長屋も城内いずれかからの移築とのことでしたので、てっきり私は、そのために八間門と呼ばれるようになったものだと思い込んでいましたが、移築前の江戸期の絵図に八間門の表記があるようです・・・。
そもそも、左右で長さも全然違う気がするし・・・どういうこと?

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門に付随する鬼瓦や懸魚などは、国の重要美術品に認定されているそうです。

飯田逗留中には勝頼や仁科盛信の馬、勝頼の刀などが信長の元に届けられ、武田信豊の首も運ばれてきました。
信長はここで武田勝頼父子・信豊・仁科盛信の首を家臣に持たせて京へ送り、獄門にかけるよう指示しています。
・・・仁科盛信が高遠城で最期を遂げたのは3月2日のことで、呂久の渡しで信長がその首を実検したのは同6日のこと。それ以降、飯田までの道中ずっと運んできたということでしょうか。。。

信長の行軍はなおも続き、3月17日には飯島へ向かいます。

次回は一旦、信長の足跡を離れ、とあるお寺からお届けします。
信長の足跡の続きは、その次の記事から再開します。

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2019年11月14日 (木)

根羽・平谷・浪合 …信長の甲州征伐 信濃路①

天正10年(1582)3月5日、甲州征伐に向けて安土を出陣した織田信長は、その日は柏原の成菩提院、翌6日は呂久の渡しで仁科盛信(天正9年頃から「信盛」に改名していた可能性も指摘されていますが、以降も「盛信」で統一します)の首を実検しつつ岐阜まで移動、7日も岐阜に逗留します。
8日に岐阜を出発した後は犬山、金山神箆を経由し、11日には岩村城まで進みました。

ここからは岩村を出発後~上諏訪に至るまでの信長の足跡を中心に辿り、中馬街道(伊那街道)を北上する旅になります。
前回の記事でご紹介した明知城跡をあとにし、まずは愛知県豊田市にある道の駅「どんぐりの里いなぶ」付近まで南下して、そこから国道153号に進路を取って中馬街道めぐりをスタートしました。

三月十三日、信長公、岩村より禰羽根まで御陣を移さる。
(信長公記 巻十五「武田典厩生害、下曽禰忠節の事」 以下引用同)

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岩村を出発した織田信長が、3月13日に宿陣した禰羽根(ねばね)。
写真は根羽村役場前より。

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根羽村は今でこそ「ねばむら」と読みますが、「甲陽軍鑑」などでも「ねばね」と表記されており、当時は「根羽=ねばね」という呼称だったようです。

十四日、平谷を打ち越し、なみあひに御陣取り。爰にて、武田四郎父子の頸、関可兵衛・桑原介六、もたせ参り、御目に懸けら侯。則ち、矢部善七郎に、仰せ付けられ、飯田へ持たせ遣はさる。

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十四日、平谷を打ち越し、
(平谷村)

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平谷から北上を続けると、興味深い看板が目に入ってきたので急遽立ち寄りました。
武田方はこの、平谷村の滝之澤という地に城郭(防塁)群を設け、織田軍の侵攻に備えていたようです。
今回は行程上の都合で確認しに行く時間が取れず、後ろ髪を引かれる思いで立ち去りましたが、いずれ必ず再訪してみたいと思います。

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なみあひに御陣取り。爰にて、武田四郎父子の頸、関可兵衛・桑原介六、もたせ参り、御目に懸けら侯。
写真は阿智村浪合の集落と、平谷から続く中馬街道。

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武田勝頼父子首実検の地
信長はここ浪合で、甲斐の田野で打ち取られて運ばれてきた勝頼・信勝父子の首と対面しました。

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両人の首は家臣に命じ、先行して飯田へと送られたようです。

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中馬街道の標柱

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翌14日、浪合を出立した信長は飯田へと向かいます。
きっと、この道を更に北へと進んだことでしょう。

ところで、勝頼父子首実検の地から中馬街道を平谷方面へ少し戻った地点に、波合関所跡が残っているらしいことを知り、立ち寄ってみることにしました。

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石畳らしき痕跡も残る、中馬街道の旧道。

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波合関所跡
中馬街道(伊那街道)に残る関所跡で、武田信玄が滝の沢(先ほどの滝之澤城郭の看板にあった「とつばせ関所跡」か?)に設置したのを皮切りに、何度かの移転を経て、享保7年(1722)以降は明治初期の関所廃止令まで当地に置かれていたようです。

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関所の建物が建っていた痕跡でしょうか、苔むしていい雰囲気でしたが、暗かったので写真は・・・(;^_^A

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門の先、平谷方面へと続く中馬街道。
平谷を打ち越し、北上を続ける信長の軍勢が今にも姿を現しそうな風情です。

浪合をあとにし、我々もこの日の宿泊地である飯田へ向かいましたが、到着時にはすっかり日も暮れていたので、飯田城めぐりは翌日に。
城攻め4つに、山間の街道筋大移動。なかなかハードな行程を組んでしまいましたが、クリアできたのも偏に同行者のお陰・・・感謝。

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2019年11月13日 (水)

明知城 …天正2年の明知城攻防③

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明知城縄張図
遠山三家(岩村・苗木・明知)の一つ明知遠山氏の居城で、元亀年間には織田方についていましたが、神箆城・小里城の記事でも触れた通り、天正2年(1574)、武田勝頼の軍勢に包囲されます。
急報を受けた織田信長は自ら後詰のために出陣しますが、城内から内通者(飯羽間右衛門尉)も出て間に合わず、明知城は武田方の手に落ちました。

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城域の東側、竪堀に設けられた散策路から城攻めをスタートします。

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1の曲輪の土塁。
「搦手砦」とありますが、搦手側にある曲輪、という理解でいいと思います(;^_^A

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1の曲輪にある貯水池。

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出丸

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右に二の丸、その奥の最高所が本丸跡。

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ニの丸から本丸の切岸。

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本丸

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本丸から3の畝堀群を見下ろす。

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本丸の先端から西の方角。
本丸と他の曲輪との高低差がまた凄いです。

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2の堀切

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その堀底から。

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3の畝堀
正面の土塁が大き過ぎて、私はこれを畝堀と理解するのに少し時間を要しました(;^_^A

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下草も刈られ、形状がよく見て取れます。

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そのまま4の畝堀群へ。
こちらもいい感じ。

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5の辺りから西へ続く畝。
3や4に比べると小規模ですが、こちらも整備されて見やすくなっていました。

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出丸下の切岸。
ほぼ垂直にそそり立っています。

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6に建つ万ヶ洞天神神社。
明智光秀幼少時の学問所とも伝えられているそうです。

天正2年、武田勝頼に攻められて落城した明知城。
しかし翌天正3年、長篠合戦で武田軍に勝利した信長は、織田信忠を総大将とする軍勢を東美濃に派遣して武田方に奪われていた諸城を次々と攻略し、この明知城や岩村城といった重要拠点も奪還しました。

今回の、天正2年の明知城をめぐる攻防戦めぐりはこれにて終了です。
次は長野県に入り、天正10年(1582)の甲州征伐、その信長の足跡を辿って中馬街道(伊那街道)を北上していきます。

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2019年11月12日 (火)

神箆城・小里城・他 …天正2年の明知城攻防②

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瑞浪市土岐町の八幡神社。

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この八幡神社は美濃源氏・土岐氏の祖ともされる土岐光衡が居館として築いた一日市場館跡で、美濃源氏発祥の地ともされています。

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光衡像(左)の横には明智光秀像も。
果たして、彼の出自の謎が解き明かされる日はくるのでしょうか・・・。

光衡は一日市場から北東へ3㎞ほどの神箆にも城(鶴ヶ城)を築き、ここを美濃国統治の拠点としました。

それでは我々も、その神箆城(鶴ヶ城)へ向かいます。

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神箆城(鶴ヶ城)麓の諏訪神社。
車はこちらに停めさせていただきました。

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城山遠景

二月五日、信長御父子御馬を出だされ、其の日は、みたけに御陣取り。次の日、高野に至りて御居陣。
(信長公記 巻七「明智の城いゝばさま謀叛の事」)

天正2年(1574)、現在の恵那市明智町にある明知城が武田勝頼の軍勢に包囲されたとの報を受けた織田信長は、2月5日に信忠を伴って岐阜を出陣します。
御嵩を経由して6日には、この神箆城(鶴ヶ城)に着陣しました。

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その縄張から、一般には鶴ヶ城と呼ばれていますが、「信長公記」には「高野(の城)」と表記されているので、当blogでも以降は「神箆(こうの)」で統一させていただきます。

ニ月十二日、三位中将信忠卿、御馬を出だされ、其の日は土田に御陣取り。十三日高野に御陣を懸けさせられ、十四日に岩村に至りて御着陣。
(信長公記 巻十五「木曾義政忠節の事」より)

三月八日、信長公、岐阜より犬山まで御成り。九日金山御泊り。十日高野御陣取り。十一日岩村に至りて、信長御着陣。
(信長公記 巻十五「信長公御乱入の事」)

また、神箆城には天正10年(1582)に甲州征伐へ向かう際にも、信忠は2月13日に、信長も3月10日に宿陣しています。

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登り始めてしばらくすると、木戸跡の立て札が。
この登城道に沿って築かれていたのか、それとも正面に見える土塁が切れた右側にあったのか・・・定かではありません。

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木戸跡を過ぎると早速、腰曲輪状の削平地や切岸が。

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西出丸

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西出丸からの眺め。眼下には神箆の里が広がります。
ちなみに「神箆」には「神の矢竹が自生する地」という意味があり、その昔、薬師如来が村の若者に悪霊退治を命じたという伝説に由来しているそうです。

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本丸下の切岸。
正面手前には井戸跡も。

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井戸
何故かは知りませんが、「葵の井戸」というのだそうです。

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東出丸

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本丸虎口

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本丸

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本丸の裏手(西側)に大きな堀切が見えていましたが、上からでは生い茂る木々に阻まれてよくわかりません。
しかし、急勾配の切岸を慎重に下りてみると・・・

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それは見事な堀切が、ザックリと大きな口を開けていました。

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反対側からも人尺付きでw

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最後に本丸からの眺めを。
正面に見える山間の谷間に道が伸びていますが、方角的には岩村城を向いています。
信長父子は天正10年の甲州征伐の際、それぞれ神箆城を出た後は岩村へ向かっています。もしかしたら、あの道を進んだのかも・・・なんて考えるのも、歴旅の醍醐味ですね。

信長による明知城後詰作戦はしかし、神箆城に入った翌天正2年2月6日、山間の難所続きで両軍共に身動きが取れないでいるうちに、明知城内で飯羽間右衛門尉の謀反が起き、呆気なく武田方の手に落ちて失敗に終わりました。

高野の城御普請仰せ付けられ、河尻与兵衛を定番として置かれ、おりの城、是れ又、御普請なされ、池田勝三郎を御番手にをかせられ、
二月廿四日、信長御父子、岐阜に御帰城。
(信長公記 巻七「明智の城いゝばさま謀叛の事」)

明知城を失った信長は神箆城に河尻秀隆、小里城には池田恒興を入れ、城の構えを強化して武田への備えとし、同月24日に岐阜へ帰陣しました。

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・・・という訳で、次は池田恒興に守らせた小里城へ。

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小里城縄張図
まずは山麓の御殿場跡を見てまわります。

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登り始めるとすぐに、いい雰囲気の石垣が。

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あちらにも。

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大手門跡の石垣

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小里氏御殿場跡碑

小里城は天文年間、土岐氏庶流の小里氏によって築城されたと考えられています。
小里氏は元亀年間頃には織田信長に従い、本能寺の変後は信孝に仕えたものの、天正11年(1583)の賤ケ岳合戦後に信孝が自害に追い込まれた後は、森長可に攻められて小里城を失い、徳川家康を頼りました。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦での功によって旧領を回復し、山麓に居館として構えたのがこの御殿場になります。
ところが、小里氏は元和9年(1623)に無嗣断絶の憂き目に遭い、小里城も廃城となりました。

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御殿場跡から登山道をひたすら登ること30分ほどで、ようやく山頂の曲輪群へ到達します。
まずは大手曲輪。

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大手曲輪からニノ曲輪を見上げる。
石垣も見えています。

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ニノ曲輪

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ニノ曲輪に残る石垣

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一ノ曲輪(本丸)の周囲にも石垣は残りますが、その殆どは崩落していました。

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しかし、天守台の石垣は見事でした。

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幾とせもの時代を超え、古色蒼然とした石垣は問答無用で格好いいですよね。

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天守台

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天守台に祀られていたお社。

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小里城天守台からの眺め。

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山深い頂に佇む無骨なその姿は、どこか神秘的でもあり、とても感動しました。

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御殿場跡まで下山した後は、東砦へ。

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東砦の尾根を少し登ると・・・

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堀切があります・・・薄いけど(;^_^A

織田信長が武田への備えとした神箆城、そして小里城。
長年の念願だったこともあって嬉しく、興奮で登山の疲れもすっかり忘れ・・・はしなかったけど(笑)

この後は天正2年2月6日、後詰が間に合わずに武田方に奪われた明知城へ。

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2019年11月11日 (月)

御嵩城 …天正2年の明知城攻防①

旅の2日目。

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朝7時に岐阜駅前を出発し、瑞浪市方面へ向かう途中で中山道の御嶽宿近くを通ったため・・・

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急遽、御嵩城(本陣山城)に寄り道。

正月廿七日、武田四郎勝頼、岩村口に相働き、明智の城取り巻くの由、注進侯。則ち、後詰として、
二月朔日、先陣、尾州・濃州両国の御人数を出ださる。
二月五日、信長御父子御馬を出だされ、其の日は、みたけに御陣取り。
(信長公記 巻七「明智の城いゝばさま謀叛の事」)

天正2年(1574)1月27日、武田勝頼が岩村口へ出陣して明知城(恵那市明智町)を包囲したとの知らせを受けた織田信長は2月5日、信忠を伴って岐阜を出陣して後詰に向かい、その日は御嵩に宿陣しています。

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御嵩城(本陣山城)縄張図
本陣山城は御嵩を拠点とし、本陣山の東にある権現山(金峯山)に城を構えていた小栗信濃守が、天文年間に新たに築城して拠点を移した城と伝えられています。
「御嵩城址」とは、この本陣山城と権現山城を合わせた呼称としているそうです。

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二ノ丸から本丸(展望施設のようなものが建っている箇所)方向。
間には堀切も。

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本丸から足元の物見跡。

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御嵩城(本陣山城)越しに、御嶽宿の町並みを見渡す。

御嵩に宿陣した信長らは、翌6日には瑞浪市土岐町の神箆城(鶴ヶ城)まで進んでいます。
という訳で、我々もいざ瑞浪市へ。

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2019年11月10日 (日)

黒野城

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黒野城本丸跡の案内板

織田・豊臣に仕え、甲府24万石を領した加藤光泰が朝鮮出兵の陣中で没すると、まだ幼かった子の貞泰は文禄3年(1594)7月、美野国黒野4万石へ移されました。
貞泰は黒野に城を築き、関ヶ原合戦(1600)では東軍について所領を安堵され黒野藩を立藩しますが、慶長10年(1610)に伯耆国米子へ移封となったため、黒野城は築城から僅か16年ほどでその歴史に幕を閉じました。
貞泰はその後、元和3年(1617)には伊予国大洲へ移っています。

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黒野城本丸、南東隅の外郭より。
本丸土塁には北西と南東の2ヶ所に張り出しを伴う櫓台櫓があり、横矢を掛けられるようになっていましたが、昭和期に造成された南面の土塁(写真左側)は南へ少し位置がずれてしまったため、現状ではその張り出しが失われています。

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南西端部分

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四方を囲む土塁上を一周します。
写真は西面の枡形部分の折れ。

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黒野城本丸跡を北西隅の土塁上から俯瞰。

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南東隅の櫓台

これだけ岐阜県に何度もお邪魔しておきながら、実は黒野城を訪れたのはこれが初めて。
夕暮れ迫る中、駆け足での城攻めとなりましたが、とても見応えのある遺構でした。

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夜は岐阜駅前にオープンしてまだ日の浅いSABARにて、恒例のギフナイト☆
さすがは織田信長ゆかりの岐阜。ロゴ?が織田木瓜・・・サバ(笑)

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2019年11月 9日 (土)

伊吹山の薬草園

11月2~4日は岐阜・長野への旅。
初日は前乗りということで、のんびりとお昼頃に岐阜入りし、まずは県境を越えて伊吹山の麓へ。

伊吹山には、織田信長が宣教師に開かせた薬草園があったという話が伝えられています。
この薬草園について何か情報がないかと、「伊吹山文化資料館」にお邪魔してみましたが手掛かりは得られず・・・近くの「伊吹薬草の里文化センター」にも薬草園があると教えていただいたので、そちらにも足を運んでみました。

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伊吹薬草の里文化センターの薬草園と伊吹山。
・・・時季が悪かったのか、薬草はその殆どが枯れ果てていました(;^_^A

宣教師フランシスコ・カブラルから「人々の病を治すには薬が必要であり、そのためには薬草栽培が不可欠である」との進言を受けた織田信長は、伊吹山に薬草園の開設を許可したと伝えられています。
50町歩という広大な敷地には、西洋から持ち込まれた薬草が3000種類も植えられていたのだとか。

この話は、江戸時代に編纂された「切支丹宗門本朝実記」「切支丹根元記」「南蛮寺興廃記」といった文献に見られるとのことで、「永禄11年(1568)に、信長が安土にいる時のこと」としているようです。
しかし、信長が安土に自らの居城を築き始めるのは天正4年(1576)のことであり、宣教師との出会いも永禄12年のルイス・フロイスが初めてだったのではないかと記憶しています。
こうした点からも、史料的に信憑性は低いと考えざるを得ないのですが、伊吹山には今も、ヨーロッパから入ってきたと考えられる雑草類が多く自生しているのだそうです。中でも「イブキノエンドウ」や「キバナノレンリソウ」、「イブキカモシグサ」などはヨーロッパ原産で、しかも伊吹山にしか自生していないのだとか。
それらが、件の薬草園に植えられた3000種もの薬草と共に持ち込まれたものなのか否かは、今となっては特定する術もないのでしょうが・・・。

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この日は天気も良く、伊吹山がとても綺麗でした。

この後は岐阜市へ引き返し、黒野城跡に向かいます。

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2019年11月 1日 (金)

「蘭奢待」を拝観

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とある平日の昼下がり、上野の東京国立博物館へ・・・建物の外まで凄い行列ができています。
平日だというのに、入館まで4~50分を要しました。

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人々のお目当ては、令和元年11月24日まで開催されている御即位記念特別展「正倉院の世界 ―皇室がまもり伝えた美―」。
中でも、私の一番のターゲットは・・・

三月廿七日、信長、奈良の多門に至りて御出で。(略)
三月廿八日、辰の刻、御蔵(正倉院)開き候ひ訖んぬ。彼の名香(蘭奢待)、長さ六尺の長持に納まりこれあり。則ち、多門(多聞山城)へ持参され、御成りの間、舞台において御目に懸け、本法に任せ、一寸八分切り捕らる。
(信長公記 巻七「蘭奢待切り捕らるゝの事」より。( )内注釈:管理人)

天正2年(1574)3月、織田信長が朝廷へ奏聞の上、奈良の多聞山城で東大寺正倉院から運ばせて切り取ったと云う蘭奢待(黄熟香)。
正倉院のある奈良でも滅多に公開されることのないその蘭奢待が、本特別展で展示されることを知り、もう数ヶ月も前から待ち詫びていました。

ご覧のような盛況ぶりで館内も人でごった返しており、とても展示品の一つ一つをじっくりと観て回る余裕はありませんでした。その殆どは、来館者たちの肩越しに覗き見るのがやっと・・・。
しかし、蘭奢待だけは悔いを残さぬよう、スペースが空くのを待ってじっくりと拝観して参りました。

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まず何よりも驚いたのが、その大きさ。
長さは大人が両手を左右に広げたほどもあったでしょうか。

太田牛一も先に引用した「信長公記」の中で「六尺の長持に納めて運んだ」と書いており、6尺=約180㎝なのでサイズ感はピタリと一致します。
同じく展示されていた黄熟香元禄期収納箱(徳川綱吉が元禄6年に作らせたもの)もやはり、同じくらいの大きさだったように思います。

そして、織田信長が切り取らせた部分。
展示ケース越しの目測で5~6㎝四方くらいかな~と感じたので、やはり牛一が記す「一寸八分」(5㎝強)と見事に一致します。

折角の機会に、貴重な宝物の数々をじっくりと堪能することが叶わなかったのは残念ですが、念願だった蘭奢待を拝観できただけでも大満足。
次に会えるのは何年後になるのかなぁ・・・。

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