飯田城 …信長の甲州征伐 信濃路②
十五日午の刻より雨つよく降り、其の日、飯田に御陣を懸けさせられ、四郎父子の頸、飯田に懸け置かれ、上下見物仕り侯。十六日、御逗留。
(信長公記 巻十五「武田典厩生害、下曽斑忠節の事」)
天正10年(1582)3月15日、現阿智村の浪合を出立した織田信長の軍勢は飯田まで進み、同地で武田勝頼父子の首を改めて晒しています。
飯田城が築かれていた台地の遠景。
先端付近(右)が本丸跡になります。
偶然見つけた外堀跡。
長姫神社境内から柳田國男館、日夏耿之介記念館の建つ辺り一帯が本丸跡とのこと。
(写真は長姫神社境内)
長姫神社の社殿裏手、この石積み土塁も城の遺構とのことでしたが・・・う~む。
本丸と二の丸間を断ち切る堀切。
あまり近づけなかったので写真はいまいちですが、堀切は見事な遺構でした。
本丸付近から北側の地形高低差。
ちなみに、台地の先端に建つ三宜亭本館は山伏丸跡。
築城前、修験者の修行所があったことに由来しているそうです。
移築された桜丸御門。
城跡から少し離れ、長閑な町中の民家に移築された八間門。
明治4年(1871)に払い下げを受けた、飯田城の二の丸にあった門とのことです。
左右四間ずつの長屋も城内いずれかからの移築とのことでしたので、てっきり私は、そのために八間門と呼ばれるようになったものだと思い込んでいましたが、移築前の江戸期の絵図に八間門の表記があるようです・・・。
そもそも、左右で長さも全然違う気がするし・・・どういうこと?
門に付随する鬼瓦や懸魚などは、国の重要美術品に認定されているそうです。
飯田逗留中には勝頼や仁科盛信の馬、勝頼の刀などが信長の元に届けられ、武田信豊の首も運ばれてきました。
信長はここで武田勝頼父子・信豊・仁科盛信の首を家臣に持たせて京へ送り、獄門にかけるよう指示しています。
・・・仁科盛信が高遠城で最期を遂げたのは3月2日のことで、呂久の渡しで信長がその首を実検したのは同6日のこと。それ以降、飯田までの道中ずっと運んできたということでしょうか。。。
信長の行軍はなおも続き、3月17日には飯島へ向かいます。
次回は一旦、信長の足跡を離れ、とあるお寺からお届けします。
信長の足跡の続きは、その次の記事から再開します。
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