« 御嵩城 …天正2年の明知城攻防① | トップページ | 明知城 …天正2年の明知城攻防③ »

2019年11月12日 (火)

神箆城・小里城・他 …天正2年の明知城攻防②

20191103b01
瑞浪市土岐町の八幡神社。

20191103b02
この八幡神社は美濃源氏・土岐氏の祖ともされる土岐光衡が居館として築いた一日市場館跡で、美濃源氏発祥の地ともされています。

20191103b03
光衡像(左)の横には明智光秀像も。
果たして、彼の出自の謎が解き明かされる日はくるのでしょうか・・・。

光衡は一日市場から北東へ3㎞ほどの神箆にも城(鶴ヶ城)を築き、ここを美濃国統治の拠点としました。

それでは我々も、その神箆城(鶴ヶ城)へ向かいます。

20191103b04
神箆城(鶴ヶ城)麓の諏訪神社。
車はこちらに停めさせていただきました。

20191103b05
城山遠景

二月五日、信長御父子御馬を出だされ、其の日は、みたけに御陣取り。次の日、高野に至りて御居陣。
(信長公記 巻七「明智の城いゝばさま謀叛の事」)

天正2年(1574)、現在の恵那市明智町にある明知城が武田勝頼の軍勢に包囲されたとの報を受けた織田信長は、2月5日に信忠を伴って岐阜を出陣します。
御嵩を経由して6日には、この神箆城(鶴ヶ城)に着陣しました。

20191103b06
その縄張から、一般には鶴ヶ城と呼ばれていますが、「信長公記」には「高野(の城)」と表記されているので、当blogでも以降は「神箆(こうの)」で統一させていただきます。

ニ月十二日、三位中将信忠卿、御馬を出だされ、其の日は土田に御陣取り。十三日高野に御陣を懸けさせられ、十四日に岩村に至りて御着陣。
(信長公記 巻十五「木曾義政忠節の事」より)

三月八日、信長公、岐阜より犬山まで御成り。九日金山御泊り。十日高野御陣取り。十一日岩村に至りて、信長御着陣。
(信長公記 巻十五「信長公御乱入の事」)

また、神箆城には天正10年(1582)に甲州征伐へ向かう際にも、信忠は2月13日に、信長も3月10日に宿陣しています。

20191103b07
登り始めてしばらくすると、木戸跡の立て札が。
この登城道に沿って築かれていたのか、それとも正面に見える土塁が切れた右側にあったのか・・・定かではありません。

20191103b08
木戸跡を過ぎると早速、腰曲輪状の削平地や切岸が。

20191103b09
西出丸

20191103b10
西出丸からの眺め。眼下には神箆の里が広がります。
ちなみに「神箆」には「神の矢竹が自生する地」という意味があり、その昔、薬師如来が村の若者に悪霊退治を命じたという伝説に由来しているそうです。

20191103b11
本丸下の切岸。
正面手前には井戸跡も。

20191103b12
井戸
何故かは知りませんが、「葵の井戸」というのだそうです。

20191103b13
東出丸

20191103b14
本丸虎口

20191103b15
本丸

20191103b16
本丸の裏手(西側)に大きな堀切が見えていましたが、上からでは生い茂る木々に阻まれてよくわかりません。
しかし、急勾配の切岸を慎重に下りてみると・・・

20191103b17
それは見事な堀切が、ザックリと大きな口を開けていました。

20191103b18
反対側からも人尺付きでw

20191103b19
最後に本丸からの眺めを。
正面に見える山間の谷間に道が伸びていますが、方角的には岩村城を向いています。
信長父子は天正10年の甲州征伐の際、それぞれ神箆城を出た後は岩村へ向かっています。もしかしたら、あの道を進んだのかも・・・なんて考えるのも、歴旅の醍醐味ですね。

信長による明知城後詰作戦はしかし、神箆城に入った翌天正2年2月6日、山間の難所続きで両軍共に身動きが取れないでいるうちに、明知城内で飯羽間右衛門尉の謀反が起き、呆気なく武田方の手に落ちて失敗に終わりました。

高野の城御普請仰せ付けられ、河尻与兵衛を定番として置かれ、おりの城、是れ又、御普請なされ、池田勝三郎を御番手にをかせられ、
二月廿四日、信長御父子、岐阜に御帰城。
(信長公記 巻七「明智の城いゝばさま謀叛の事」)

明知城を失った信長は神箆城に河尻秀隆、小里城には池田恒興を入れ、城の構えを強化して武田への備えとし、同月24日に岐阜へ帰陣しました。

20191103b20
・・・という訳で、次は池田恒興に守らせた小里城へ。

20191103b21
小里城縄張図
まずは山麓の御殿場跡を見てまわります。

20191103b22
登り始めるとすぐに、いい雰囲気の石垣が。

20191103b23
あちらにも。

20191103b24
大手門跡の石垣

20191103b25
小里氏御殿場跡碑

小里城は天文年間、土岐氏庶流の小里氏によって築城されたと考えられています。
小里氏は元亀年間頃には織田信長に従い、本能寺の変後は信孝に仕えたものの、天正11年(1583)の賤ケ岳合戦後に信孝が自害に追い込まれた後は、森長可に攻められて小里城を失い、徳川家康を頼りました。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦での功によって旧領を回復し、山麓に居館として構えたのがこの御殿場になります。
ところが、小里氏は元和9年(1623)に無嗣断絶の憂き目に遭い、小里城も廃城となりました。

20191103b26
御殿場跡から登山道をひたすら登ること30分ほどで、ようやく山頂の曲輪群へ到達します。
まずは大手曲輪。

20191103b27
大手曲輪からニノ曲輪を見上げる。
石垣も見えています。

20191103b28
ニノ曲輪

20191103b29
ニノ曲輪に残る石垣

20191103b30
一ノ曲輪(本丸)の周囲にも石垣は残りますが、その殆どは崩落していました。

20191103b31
しかし、天守台の石垣は見事でした。

20191103b32
幾とせもの時代を超え、古色蒼然とした石垣は問答無用で格好いいですよね。

20191103b33
天守台

20191103b34
天守台に祀られていたお社。

20191103b35
小里城天守台からの眺め。

20191103b36
山深い頂に佇む無骨なその姿は、どこか神秘的でもあり、とても感動しました。

20191103b37
御殿場跡まで下山した後は、東砦へ。

20191103b38
東砦の尾根を少し登ると・・・

20191103b39
堀切があります・・・薄いけど(;^_^A

織田信長が武田への備えとした神箆城、そして小里城。
長年の念願だったこともあって嬉しく、興奮で登山の疲れもすっかり忘れ・・・はしなかったけど(笑)

この後は天正2年2月6日、後詰が間に合わずに武田方に奪われた明知城へ。

|

« 御嵩城 …天正2年の明知城攻防① | トップページ | 明知城 …天正2年の明知城攻防③ »

お城、史跡巡り 東海」カテゴリの記事

織田信長・信長公記」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 御嵩城 …天正2年の明知城攻防① | トップページ | 明知城 …天正2年の明知城攻防③ »