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2019年11月16日 (土)

長岳寺、根羽村の信玄塚

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ひとしきり飯田城跡を見てまわった後は、中馬街道を少し引き返し、阿智村駒場長岳寺へ。
言わずと知れた、武田信玄ゆかりのお寺です。

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伊那の四季を描いた本堂の襖絵。
日本画家・吉川優氏の作とのことで、顔料には珊瑚や真珠なども用いられているそうです。

運良くお寺の方がいらしたので、拝観料200円で武田信玄の遺品と伝わる金の兜の前立(鍬形台三輪菊唐草透彫三鈷柄付)や兜仏なども拝観させていただきました。

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武田信玄灰塚供養塔
信玄は元亀4年(1573/7月に天正へ改元)4月12日、駒場の山中で没し、縁者が住職を務めていた長岳寺の裏山で荼毘に付されたと云います。
付近の山中には信玄塚と呼ばれる火葬塚が残り、こちらの供養塔は信玄の没後400年祭に、その火葬塚から灰を移して供養したものだそうです。

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灰塚供養塔の脇には、馬場美濃守の供養塔(五輪塔)も。
伊那をはじめ、南信州方面での功績が多かった関係かもしれません。

火葬塚の位置も教えていただきましたが、今回は時間の都合で断念。
前日の滝之澤城郭(防塁)といい、中馬街道沿いには武田家ゆかりの史蹟が今も多く残ります。
今回の旅が改めてそれを認識させてくれたので、いずれまた必ず、武田家目線で中馬街道を旅したいと思います。

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ところで、この前日に根羽村付近を通過している際にも「信玄塚」に立ち寄りました。

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「甲陽軍鑑」に、信玄は「ねばねの上村と申す所にて他界された」と書かれていることに由来しているようです。
信玄の死去に伴い武田勢は、風林火山の軍旗を横にして行軍したので、この付近は横旗(横畑)と呼ばれるようになったのだとか。

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宝篋印塔は江戸時代の寛文年間、信玄の百年忌に建立されたとも伝えられていますが、その形状からは室町末期のものと推定されています。

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信玄が埋葬されたと伝えられる実際の塚は、現在では壁画前の国道に埋没してしまっているそうです。。。

信玄の火葬場所については、甲府の土屋昌続邸説などもあり、実際のところは私にはわかりません。
ただ、家臣らが信玄の遺体なり遺骨なりを置いていくはずもなく、中馬街道を進み、甲府まで粛々と運ばれていったことだけは確かでしょう。

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さて、それでは信長の足跡を辿る旅を再開したいと思います。

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