二俣城、清瀧寺(信康切腹事件について)
二俣城(浜松市天竜区二俣町)は、天竜川が足元を洗う段丘上に築かれていました。
元亀~天正年間には武田×徳川間の攻防の舞台にもなり、元亀3年(1572)には西上作戦の途にある武田信玄が徳川方にあった二俣城を攻略し、天正3年(1575)になると、今度は長篠で武田軍に勝利した徳川家康が奪還しています。
北曲輪と本丸間に落とされた竪堀。
すぐ眼下には天竜川の流れも見えていました。
同じく、北曲輪と本丸間の堀切。
北曲輪(右)と、左に竪堀。
北曲輪には現在、旭ヶ丘神社が祀られています。
本丸北側の喰違い虎口。
奥に天守台も見えています。
本丸
本丸南側の枡形虎口。
ニノ曲輪へ通じる大手(追手)虎口。
天守台
二俣城は天正7年(1579)9月15日、切腹を命じられた徳川家康の嫡男・信康が最期を遂げた地としても知られています。
麓には信康の菩提を弔うため、家康が建立した清瀧寺があります。
その清瀧寺に復元された、二俣城の水の手櫓。
元亀3年に二俣城を包囲した武田軍は、城兵が天竜川に架けた汲み上げ用の櫓を破壊し、水の手を断つことで攻略に成功したと云います。
信康堂
信康堂に安置されている信康の木像。
清瀧寺本堂
手前には、家康お手植えの蜜柑…の分木も。
二俣尋常高等小学校に通う幼き日の本田宗一郎が、正午を知らせる寺の鐘を30分早く衝き、まんまと早弁にありつけたとの逸話も残る梵鐘。
(清瀧寺のお隣には、本田宗一郎ものづくり伝承館があります)
岡崎三郎信康の廟所
信康の死については一般的に「織田信長の命によって切腹に追い込まれた」(三河物語)とされ、長らく定説化してきました。現地(二俣城跡や清瀧寺)に設置された案内板もことごとく、この説を採用しています。
しかし、武田家がまだ健在であるこの時期に、対武田の戦略上、重要な存在である徳川家との同盟関係を破綻させかねない要求を、確たる理由もなく信長が家康に強いるとは少々考えづらいものがあります。
他の文献を見ると信長は、信康問題で安土に赴いた酒井忠次に対し、
「如何様にも存分次第」(松平記)
「家康存分次第ノ由返答有」(当代記)
つまり、「家康の考え次第だ」「家康の判断に任せる」と答えています。
この事件は信康拘束後の家康の動きを見る限り、信康を担ぐ岡崎衆の浜松への反発と、そうした動きに対して家康が警戒心・危機感を募らせた結果と、個人的には考えています。その背景には、4年前の天正3年に発覚した大賀(大岡)弥四郎事件(岡崎衆の中から武田家への内通を画策する動きが発覚して粛清された事件)の記憶も影響したかもしれません。
いずれにしても、(家臣団を含む)徳川家内部の事情に起因しているのではないでしょうか。
安土に酒井忠次が派遣されたのは、信康の岳父で偏諱も受けている信長を憚り、信康の処分について事前に相談し、伺いを立てておくためだったものと思います。
家康は信長側近の堀秀政へ宛てた八月八日付の(信長への)披露状で、
「三郎不覚悟付而去四日岡崎を追出申候」
(徳川家康堀久太郎宛/信光明寺文書)
と報告しています。
「不覚悟付而」…信康の処断を決めたのがあくまでも家康自身だったことを、この一言が伺わせている気がしてなりません。
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