根羽・平谷・浪合 …信長の甲州征伐 信濃路①
天正10年(1582)3月5日、甲州征伐に向けて安土を出陣した織田信長は、その日は柏原の成菩提院、翌6日は呂久の渡しで仁科盛信(天正9年頃から「信盛」に改名していた可能性も指摘されていますが、以降も「盛信」で統一します)の首を実検しつつ岐阜まで移動、7日も岐阜に逗留します。
8日に岐阜を出発した後は犬山、金山、神箆を経由し、11日には岩村城まで進みました。
ここからは岩村を出発後~上諏訪に至るまでの信長の足跡を中心に辿り、中馬街道(伊那街道)を北上する旅になります。
前回の記事でご紹介した明知城跡をあとにし、まずは愛知県豊田市にある道の駅「どんぐりの里いなぶ」付近まで南下して、そこから国道153号に進路を取って中馬街道めぐりをスタートしました。
三月十三日、信長公、岩村より禰羽根まで御陣を移さる。
(信長公記 巻十五「武田典厩生害、下曽禰忠節の事」 以下引用同)
岩村を出発した織田信長が、3月13日に宿陣した禰羽根(ねばね)。
写真は根羽村役場前より。
根羽村は今でこそ「ねばむら」と読みますが、「甲陽軍鑑」などでも「ねばね」と表記されており、当時は「根羽=ねばね」という呼称だったようです。
十四日、平谷を打ち越し、なみあひに御陣取り。爰にて、武田四郎父子の頸、関可兵衛・桑原介六、もたせ参り、御目に懸けら侯。則ち、矢部善七郎に、仰せ付けられ、飯田へ持たせ遣はさる。
十四日、平谷を打ち越し、
(平谷村)
平谷から北上を続けると、興味深い看板が目に入ってきたので急遽立ち寄りました。
武田方はこの、平谷村の滝之澤という地に城郭(防塁)群を設け、織田軍の侵攻に備えていたようです。
今回は行程上の都合で確認しに行く時間が取れず、後ろ髪を引かれる思いで立ち去りましたが、いずれ必ず再訪してみたいと思います。
なみあひに御陣取り。爰にて、武田四郎父子の頸、関可兵衛・桑原介六、もたせ参り、御目に懸けら侯。
写真は阿智村浪合の集落と、平谷から続く中馬街道。
武田勝頼父子首実検の地
信長はここ浪合で、甲斐の田野で打ち取られて運ばれてきた勝頼・信勝父子の首と対面しました。
両人の首は家臣に命じ、先行して飯田へと送られたようです。
中馬街道の標柱
翌14日、浪合を出立した信長は飯田へと向かいます。
きっと、この道を更に北へと進んだことでしょう。
ところで、勝頼父子首実検の地から中馬街道を平谷方面へ少し戻った地点に、波合関所跡が残っているらしいことを知り、立ち寄ってみることにしました。
石畳らしき痕跡も残る、中馬街道の旧道。
波合関所跡
中馬街道(伊那街道)に残る関所跡で、武田信玄が滝の沢(先ほどの滝之澤城郭の看板にあった「とつばせ関所跡」か?)に設置したのを皮切りに、何度かの移転を経て、享保7年(1722)以降は明治初期の関所廃止令まで当地に置かれていたようです。
関所の建物が建っていた痕跡でしょうか、苔むしていい雰囲気でしたが、暗かったので写真は・・・(;^_^A
門の先、平谷方面へと続く中馬街道。
平谷を打ち越し、北上を続ける信長の軍勢が今にも姿を現しそうな風情です。
浪合をあとにし、我々もこの日の宿泊地である飯田へ向かいましたが、到着時にはすっかり日も暮れていたので、飯田城めぐりは翌日に。
城攻め4つに、山間の街道筋大移動。なかなかハードな行程を組んでしまいましたが、クリアできたのも偏に同行者のお陰・・・感謝。
| 固定リンク
「お城、史跡巡り 甲信越」カテゴリの記事
- 葛尾城(北信濃の山城攻めオフ③)(2023.04.14)
- 鷲尾城(北信濃の山城攻めオフ②)(2023.04.13)
- 霞城(北信濃の山城攻めオフ①)(2023.04.12)
- 織田信長が初めて目にした富士山(台ケ原宿、他)(2021.04.13)
- 高遠城・一夜の城・法華寺 …信長の甲州征伐 信濃路④(2019.11.18)
「織田信長・信長公記」カテゴリの記事
- 安土城、他(2023.05.28)
- 妙覺寺の特別拝観(2023.05.25)
- 大徳寺、妙心寺の特別拝観(第57回 京の冬の旅)(2023.03.06)
- 別所は連々忠節の者(新発見の織田信長文書)(2022.12.07)
- 旧東海道、藤川宿~池鯉鮒宿(2022.11.15)
コメント