高遠城・一夜の城・法華寺 …信長の甲州征伐 信濃路④
三月十八日、信長公、高遠の城に御陣を懸けられ、
三月十九日、上の諏訪法花寺に御居陣。諸手の御陣取り段々に仰せ付けられ侯なり。
(信長公記 巻十五「人数備への事」)
天正10年(1582)3月18日、飯島を出立した織田信長は高遠城に宿陣し、次いで翌19日、信濃での最後の陣所となる上諏訪の法華寺に到着しました。
高遠城
個人的には6年ぶりの再訪となりました。
高遠城に設置されていた、織田信忠による高遠城攻めの案内板。
三月朔日、三位中将信忠卿、飯島より御人数を出だされ、天龍川乗り越され、貝沼原に御人数立てられ、松尾の城主小笠原掃部大輔を案内者として、河尻与兵衛、毛利河内守、団平八、森勝蔵、足軽に御先へ遣はさる。中将信忠卿は御ほろの衆十人ぱかり召し列れ、仁科五郎楯籠り侯高遠の城、川よりこなた高山へ懸け上させられ、御敵城の振舞・様子御見下墨なされ、其の日はかいぬま原に御陣取り。
(信長公記 巻十五「信州高遠の城、中将信忠卿攻めらるゝの事」)
3月1日、飯島から高遠へ向かった織田信忠は、貝沼原に陣を置き、母衣衆10人ばかりを召し連れ、川手前の高遠城を見下ろす高山へ自ら物見に出ています。
この時、信忠が貝沼原に布いた陣がいずれの地にあったのか、具体的には定かではありませんが・・・
その候補地の一つとされるのが、伊那市富県貝沼の一夜の城。
こちらも6年ぶりの再訪です。
一夜の城については、6年前の記事をご参照ください。
右に高遠城、川(アーチ橋が見える)を挟んだ左が、信忠が物見に出た川よりこなた高山。
高遠城に籠る仁科盛信は降伏を拒み、3月2日、信忠軍の猛攻撃の前に城と共に華々しく散りました。
高遠城を出た信長の軍勢が、どのルートで諏訪へ向かったかはわかりませんが、我々は杖突峠を越えて・・・
法華寺へ。
吉良義周の墓所にもお参りさせていただきました。
上諏訪に到着した信長は4月2日まで当地に滞在し、諸々の戦後処理を施した後、雄大な富士山や新府城の焼け跡を眺めつつ、翌3日に甲斐の甲府へ入りました。
甲府を出て安土への凱旋の途に就くのは7日後、4月10日のことです。
※なおこの間には、天正2年の明知城落城の要因となった飯羽間右衛門尉が捕らえられ、処刑されていることも添えておきます。
旅の最後に、諏訪大社上社にもお参り。
上諏訪駅で解散し、帰路はスーパーあずさにて。
私の希望を叶え、旅に同行して車を出してくれた友人には感謝しかありません。
いずれまた、今度はちょっと視点を変えて中馬街道を旅しましょう。
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