明知城 …天正2年の明知城攻防③
明知城縄張図
遠山三家(岩村・苗木・明知)の一つ明知遠山氏の居城で、元亀年間には織田方についていましたが、神箆城・小里城の記事でも触れた通り、天正2年(1574)、武田勝頼の軍勢に包囲されます。
急報を受けた織田信長は自ら後詰のために出陣しますが、城内から内通者(飯羽間右衛門尉)も出て間に合わず、明知城は武田方の手に落ちました。
城域の東側、竪堀に設けられた散策路から城攻めをスタートします。
1の曲輪の土塁。
「搦手砦」とありますが、搦手側にある曲輪、という理解でいいと思います(;^_^A
1の曲輪にある貯水池。
出丸
右に二の丸、その奥の最高所が本丸跡。
ニの丸から本丸の切岸。
本丸
本丸から3の畝堀群を見下ろす。
本丸の先端から西の方角。
本丸と他の曲輪との高低差がまた凄いです。
2の堀切
その堀底から。
3の畝堀
正面の土塁が大き過ぎて、私はこれを畝堀と理解するのに少し時間を要しました(;^_^A
下草も刈られ、形状がよく見て取れます。
そのまま4の畝堀群へ。
こちらもいい感じ。
5の辺りから西へ続く畝。
3や4に比べると小規模ですが、こちらも整備されて見やすくなっていました。
出丸下の切岸。
ほぼ垂直にそそり立っています。
6に建つ万ヶ洞天神神社。
明智光秀幼少時の学問所とも伝えられているそうです。
天正2年、武田勝頼に攻められて落城した明知城。
しかし翌天正3年、長篠合戦で武田軍に勝利した信長は、織田信忠を総大将とする軍勢を東美濃に派遣して武田方に奪われていた諸城を次々と攻略し、この明知城や岩村城といった重要拠点も奪還しました。
今回の、天正2年の明知城をめぐる攻防戦めぐりはこれにて終了です。
次は長野県に入り、天正10年(1582)の甲州征伐、その信長の足跡を辿って中馬街道(伊那街道)を北上していきます。
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