大島城・飯島城 …信長の甲州征伐 信濃路③
三月十七日、信長公、飯田より大島を御通りなされ、飯島に至りて御陣取り。
(信長公記 巻十五「武田典厩生害、下曽禰忠節の事」)
天正10年(1582)3月17日、飯田を出立した織田信長は大島を通過し、飯島まで陣を進めました。
大島城縄張図
元亀2年(1571)3月、武田信玄は大島城に大修築を加え、伊那における一大拠点としたと云います。
今日に残る遺構も、その大部分はこの時の縄張によるものだそうです。
⑦の馬出
三の丸とは木橋で繋がっていたと考えられています。
三の丸
丸馬出への枡形③は・・・。
三の丸東端部
二の丸から三の丸へせり出す馬出⑨(左)
⑧の堀がまた見事なこと。
⑨の馬出を別角度から。
二の丸に残る土塁。奥に⑪の櫓台。
二の丸と本丸間の堀。
手前の二の丸側の切岸には、小さな腰曲輪⑬も。
堀底を写真左方向へ下っていくと井戸曲輪へと繋がっており、井戸への出入りを見張る役割があったと考えられています。
本丸
本丸虎口の木戸跡。
本丸の櫓台。
本丸東側の腰曲輪。
稲荷神社が祀られていた痕跡も。
城跡のすぐ脇を流れる天竜川。
井戸曲輪へ。
井戸
⑰付近の堀。
南側の外堀。
大島城の代名詞ともいえる三日月堀②
天正10年2月、大島城は信玄弟の信廉(逍遙軒信綱)らが守備していましたが、織田信忠率いる軍勢が攻め入って来ると夜陰に紛れて逃亡し、大島城は呆気なく落城しました。
続いて飯島城へ。
飯島城の北西に位置する西岸寺。
鎌倉末創建の古刹で、城主・飯島氏ともゆかりが深いと云います。
飯島町の名勝にも指定されている西岸寺の参道。
飯島城縄張図
飯島城は武田家に従う信濃源氏・飯島氏の居城。
本城・登城からなる中世後期の城域と、その東方に広がる前期のものとに分かれています。
登城北側の堀跡。
本城の堀と土塁。
手前は虎口に架かる土橋のようにも見えますが、後世に車両の通行のために架けられたものかもしれません。
本城北西側の堀跡。
本城北側の堀跡。
思いがけず鮮明な遺構と出会い、興奮を覚えました。
本城郭内
天正10年2月、飯島城は織田信忠軍の侵攻によって落城しました。
飯島城を落とした信忠は、この地から仁科盛信の籠る高遠城攻略へと向かっています。
織田信長、そして信忠もこの郭に滞在したのでしょうか。
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