佐藤俊宜の「今昔備忘記」拝観
佐藤彦五郎新選組資料館
2019年12月15日、土方歳三没後150年最後の開館日に、市村鉄之助が箱館から土方の肖像写真などを届けた際の経緯を記録した「今昔備忘記」の原本が、1日限定で公開されると聞いてお邪魔してまいりました。
「今昔備忘記」は大正10年(1921)頃、佐藤彦五郎の長男・俊宜が残した書。
その記すところによると明治2年(1869)のある日、佐藤家(現日野宿本陣)の軒先に見知らぬ乞食のような小僧が立ち、しきりに家の様子を伺っていました。
なんだか胡散臭いので追い払おうとすると、あろうことか台所にまで入ってきて、家の人にお会いしたいと懇願する始末。仕方ないので中庭の方へ回して問い質すと、「私は土方大将の小姓を務めておりました市村鉄之助と申す者です」と名乗り、土方の写真と一片の切紙を差し出しました。その紙片には、
使の者の身上頼上候
義豊
とあり、紛れもなく歳三の真筆だったので詳しく聞くと、土方から日野までの使いを命じられた際の詳しい経緯や、出航を待つ外国船で耳にした土方戦死の様子(戦死地については「海岸一本木」とも)などを語り出しました。
話を聞くうちに当主・彦五郎も、その妻で土方の実姉ノブも涙せぬ者はなったと云います。
日野宿本陣、佐藤家の台所跡。
同じく中庭。
左が台所のあった建物です。
同時代史料となる父・彦五郎の日記には、明治2年7月18日の項に「箱館ニおゐて降伏兵卒、亀太郎と申もの来ル。」とあるのみで鉄之助に関する記述がなく、「今昔備忘記」の存在を知らなった専門家の中には、鉄之助と佐藤家との関連を疑問視する向きもあったのだとか。
俊宜は明治2年当時、既に数えで20歳の青年です。鉄之助はその後、2年間ほど佐藤家で匿われたと云いますし、彼に関する記憶は50年以上を経ても褪せることはなかったのではないでしょうか。
このエピソードも今となっては広く知られるところではありますが、改めてその史料原本を拝観させていただき、真に迫るものを感じました。
鉄之助が2年間匿われ、養われていた一間。
「今昔備忘記」の表表紙には「佐藤家の記事 十四代 俊宜執筆」の記載と共に、「不許他見(他見を許さず)」とあることから滅多に表に出すこともなく、今回も約10年ぶりの公開となりました。
新選組に関する記述も多く、戊辰戦争終結から50年以上を経てもなお、「不許他見」とした俊宜、そして日記に鉄之助のことを一切記さなかった彦五郎(俊正)の思いも推して知るべし、といったところでしょうか。
土方歳三没後150年の節目の年の最後に、感慨深い現史料を拝観させていただきました。