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2019年12月

2019年12月18日 (水)

佐藤俊宜の「今昔備忘記」拝観

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佐藤彦五郎新選組資料館
2019年12月15日、土方歳三没後150年最後の開館日に、市村鉄之助が箱館から土方の肖像写真などを届けた際の経緯を記録した「今昔備忘記」の原本が、1日限定で公開されると聞いてお邪魔してまいりました。

「今昔備忘記」は大正10年(1921)頃、佐藤彦五郎の長男・俊宜が残した書。
その記すところによると明治2年(1869)のある日、佐藤家(現日野宿本陣)の軒先に見知らぬ乞食のような小僧が立ち、しきりに家の様子を伺っていました。
なんだか胡散臭いので追い払おうとすると、あろうことか台所にまで入ってきて、家の人にお会いしたいと懇願する始末。仕方ないので中庭の方へ回して問い質すと、「私は土方大将の小姓を務めておりました市村鉄之助と申す者です」と名乗り、土方の写真と一片の切紙を差し出しました。その紙片には、

使の者の身上頼上候
義豊

とあり、紛れもなく歳三の真筆だったので詳しく聞くと、土方から日野までの使いを命じられた際の詳しい経緯や、出航を待つ外国船で耳にした土方戦死の様子(戦死地については「海岸一本木」とも)などを語り出しました。
話を聞くうちに当主・彦五郎も、その妻で土方の実姉ノブも涙せぬ者はなったと云います。

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日野宿本陣、佐藤家の台所跡。

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同じく中庭。
左が台所のあった建物です。

同時代史料となる父・彦五郎の日記には、明治2年7月18日の項に「箱館ニおゐて降伏兵卒、亀太郎と申もの来ル。」とあるのみで鉄之助に関する記述がなく、「今昔備忘記」の存在を知らなった専門家の中には、鉄之助と佐藤家との関連を疑問視する向きもあったのだとか。
俊宜は明治2年当時、既に数えで20歳の青年です。鉄之助はその後、2年間ほど佐藤家で匿われたと云いますし、彼に関する記憶は50年以上を経ても褪せることはなかったのではないでしょうか。

このエピソードも今となっては広く知られるところではありますが、改めてその史料原本を拝観させていただき、真に迫るものを感じました。

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鉄之助が2年間匿われ、養われていた一間。

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「今昔備忘記」の表表紙には「佐藤家の記事 十四代 俊宜執筆」の記載と共に、「不許他見(他見を許さず)」とあることから滅多に表に出すこともなく、今回も約10年ぶりの公開となりました。
新選組に関する記述も多く、戊辰戦争終結から50年以上を経てもなお、「不許他見」とした俊宜、そして日記に鉄之助のことを一切記さなかった彦五郎(俊正)の思いも推して知るべし、といったところでしょうか。

土方歳三没後150年の節目の年の最後に、感慨深い現史料を拝観させていただきました。

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2019年12月17日 (火)

徳永寺

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飯道山から下山し、帰りの名古屋駅まで送っていただく途中に、三重県伊賀市柘植町の徳永寺にも立ち寄りました。

天正10年(1582)6月、本能寺の変勃発を受け、滞在先の堺から三河へと逃避した徳川家康伊賀越え
徳永寺はその途中、休憩に立ち寄ったと云われるお寺です。

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家康は後年、この時のもてなしを謝し、寺の周囲の土地を寄進したと云います。
藤堂高虎をはじめ、伊賀を治める津藩主・藤堂家の歴代が発した寄進・安堵状も残っているようです。
徳川家からは、葵紋の使用も許可されていました。

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本堂
徳永寺は、柘植の土豪・福地氏(参考記事)の菩提寺でもあったようです。

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山門越しに、家康が寄進したと伝えられる周辺の景観を眺める。

今回も充実した、いい旅となりました。

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2019年12月16日 (月)

飯道寺

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行場巡りを無事にクリアした後は、飯道寺跡へ。

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飯道神社(図左上)の眼前にはかつて、神仏習合の飯道寺として栄えた時代の名残として数多くの僧院跡が残っています。

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1枚目の写真の石段を上がった先は東照宮跡。

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明治の神仏分離・廃仏毀釈で寺院(仏教)関連は廃され、今はこうした痕跡を留めるのみとなっています。

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思いのほか立派な石垣も。

十月九日、伊賀国御見物として、岐阜中将信忠、織田七兵衛信澄御同道にて、其の日、飯道寺へ、信長公御上りなされ、是れより国中の躰御覧じ、御泊り
(信長公記 巻十四「伊賀国へ信長御発向の事」)

天正9年(1581)、次男・信雄を総大将とした軍勢を派遣して伊賀国を制圧(第二次天正伊賀の乱)した織田信長は、嫡男の信忠、甥の信澄を同道して伊賀の視察へ向かいます。
その道中、伊賀入り前日の10月9日にはここ、飯道寺に泊まりました。

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参道を挟んで左に梅本院跡、右奥に智積院跡。
信長らが泊まった僧院は果たして、いずれにあったのか・・・想像を膨らませながらめぐります。

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智積院跡

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高野山を再興したことでも知られる木食応其上人は、晩年を飯道寺で過ごしました。
智積院跡の向かいには、彼の入定窟も残ります。

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岩本院跡に残る石積み。

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岩本院跡
この岩本院と先ほどの梅本院は、醍醐寺三宝院を本寺とする真言宗本山派に属す寺院で、山内でも特に有力な存在だったようです。

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不思議な切石状の石積みも。

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岩本院跡から見る、智績院跡の石垣。
左の下段は行満院跡。

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鳥居坊跡

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飯道寺跡(飯道神社)からは、紫香楽宮跡などを見渡すことができます。
まさに、飯道寺に上がった織田信長が御覧じ国中の躰の光景。
数年来の念願叶い、飯道寺跡を訪れることができて感無量です。

※現在、甲賀市水口町に所在する飯道寺は、天台宗の本覚院が明治25年に廃寺となっていた飯道寺の寺号を継承したものです。
御本尊は飯道山から移されたものとか。

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折角なので山頂まで足を延ばします。
山頂からは杖の権現を経由して飯道寺跡まで戻り、その後に下山します。

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飯道山山頂
飯道寺跡から山頂までは7~800m。緩やかな登りの尾根道が続きました。

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山頂からの眺め。
辛うじて近江富士の姿も確認できました。

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杖の権現
山頂から杖の権現までは、急勾配な直線の尾根を一気に下ります。

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飯道寺跡まで戻りました。

行場巡りに、念願の飯道寺跡・・・とても楽しい山歩きになりました。

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2019年12月15日 (日)

飯道神社と行場巡り

山城踏査会&忘年会が明けた翌日は、甲賀市の飯道山へ。

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飯道山、紫香楽側の登山口。
ここから、よく整備された登山道(飯道神社参道)を20分(700m)ほど登ると・・・

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いい雰囲気の石垣が見えてきました。

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いよいよ飯道神社の境内に入ります。

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弁天堂

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まずは飯道神社にお参りします。

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行者堂
飯道山は古来より山岳信仰の栄えた霊山で、近江国屈指の修験霊場でもありました。

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飯道神社の創建は和銅7年(714)、熊野神社の分霊を勧請したのが始まりとされています。
以来、神仏習合の飯道寺として栄えました。
現在の本殿は、慶安2年(1649)の再建になります。

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せっかく飯道山に登ったので・・・行場巡り(修験道)にも挑戦します。

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行場巡りのスタート地点。

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不動の押し分け岩
同行者が先に挑戦していますが、極めて狭い岩の隙間をすり抜けるようにして通り抜けます。

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あまりにも狭いので、ここはリュックなどの荷物を一旦置いて、身一つで挑戦しなければなりません。
(通り抜けた後、岩の脇を回り込んで元の場所へ戻れます)

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平等岩

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蟻の塔渡り
「蟻しか渡れないような、細くて高い塔のような岩を渡る」の意味でしょうか。

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まさに、蟻の塔のような難所。
崖側には安全のためのロープが張られてはいますが、ちょっと心許ない・・・。

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胎内くぐり

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狭い岩穴を、鎖を頼りに下っていきます。

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最後の難関は岩上。
同行者が指さす方角へ、ロープを頼りにこの絶壁を登ります。

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なかなか凄さが伝わりにくい写真ですが、足場なんてこれっぽっちしかありません。
左側は無論、断崖絶壁です。

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ゴールすると本殿の裏側に出ました。
これで私も、一端の甲賀忍者の仲間入り!?

飯道山歩き、後半は飯道寺跡をめぐります。

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2019年12月14日 (土)

弥高寺

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上平寺城跡から山中を少し北へ回り込み、西の尾根へ雪中行軍・・・(;^_^A

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伊吹山も心なしか、少し近くなってきました。

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尾根の北側から弥高寺跡へアプローチすると、最初に出迎えてくれる大堀切。
この先(南)にある本坊の背後を断ち切っています。

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大堀切の近くには、これも規模の大きな畝状竪堀も。

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更に南へ進むと、規模は小さいながら堀切や・・・

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竪堀が続きます。

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弥高寺の墓地跡。
発掘調査で、火葬された人骨が数十体も納められた大きな甕が出土しているそうです。
寺の長い歴史の中である時期、墓地が手狭になってまとめて改葬されたものではないかとのことでした。

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いよいよ本坊跡が見えてきました。
雪に埋もれてはいますが、周囲を囲む土塁や虎口もはっきりと見て取れます。

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本坊手前に切られた竪堀。

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弥高寺本坊跡

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本坊の虎口から真っ直ぐに伸びる参道。
参道の両側には、数多くの削平地が見受けられます。

弥高寺は仁寿年間(851~854)に創建された伊吹山寺を前身とし、後に分立した伊吹山四ヶ寺の一つ。
弥高百坊とも呼ばれ、この大きな本坊跡をはじめ、60をも超える坊跡が残る巨大な山岳寺院の跡です。

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本坊から南の方角。
2本の鉄塔の先には上平寺城の記事で触れた、件の長比城がありました。

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弥高寺本坊から見る上平寺城。
つい先ほどまでは、あちらから弥高寺跡を見ていました。

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琵琶湖に浮かぶ竹生島も見えています。

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それでは本坊をあとにし、こちらの参道伝いに下りていきます。

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少し下った先から本坊を振り返る。
土塁の高さがよくわかります。

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弥高寺の玄関口でもある大門跡に差し掛かりました。
右へグイッと曲げた枡形になっています。

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大門跡
高い土塁で仕切られた見事な枡形、そして土橋。

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大門の脇には横堀も掘られています。

本坊背後の堀切や竪堀群、そして大門の枡形や横堀・・・弥高寺が城郭として改修されていることは明らかです。
現地説明板にも、京極氏や浅井氏らによる改修が想定される、といったことが書かれていました。
直に遺構を目にした個人的な印象としては、元亀元年(1570)に敵対する織田軍に備え、上平寺城と共に浅井氏や越前衆が改修した痕跡ではないかと感じました。

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大門の南西、登山道を林道まで下り、更に林道を伝って下山する途中に現れる2本の大きな竪堀。
やはりこれは、歴とした軍事施設です。

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そのまま林道を下っていくと、悉地院(弥高護国寺)に至ります。ここが今回のゴール地点。
所要4時間強、山中は積雪の中での行程となりましたが、見応えのある素晴らしい遺構を堪能し、参加16名全員無事に下山いたしました。
なお、悉地院は伊吹山四大護国寺の一つで、弥高寺の法灯を現在に伝えているお寺とのことです。

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下山後は伊吹山文化資料館にお邪魔して、上平寺城の模型や・・・

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弥高寺跡で出土した、火葬された人骨が納められていた大きな甕などを見学させていただきました。

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夕暮れの伊吹山。

夜は彦根駅前へ移動し、これまた恒例の忘年会。
踏査会に参加した皆さんと、2次会まで楽しく盛り上がりました。

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2019年12月13日 (金)

上平寺城

年末の恒例行事となった城友山城踏査会(& 忘年会)
2019年の舞台は・・・

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滋賀県米原市の上平寺城です。

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上平寺城絵図(江戸時代前期)

上平寺城は16世紀の初頭、北近江守護の京極高清が築いた京極氏の城館。
山麓に平時の居館を置いて守護所とし、伊吹山から伸びる背後の尾根上には詰の山城が築かれていました。
大永3年(1523)、高清は自らの後継をめぐって浅見氏や浅井氏、三田村氏らの国人衆と対立して上平寺を追われ、北近江では浅井氏が台頭するようになります。
以降、眼前に北国脇往還(越前街道)を扼する上平寺城は、美濃・近江の国境を押さえる境目の城として機能したものと考えられています。

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今回のスタート地点となる居館区域の目の前(南)を流れる用水路は、居館と城下町との間を隔てる堀跡。上の絵図にも「ホリ」と記されています。
この写真の方向に、「諸士屋敷」や「町屋敷」などとある城下町が広がっていました。

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伊吹神社(「伊吹大権現」)の参道に沿って進み、「弾正屋敷」跡・・・

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「蔵屋敷」跡

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「隠岐屋敷」跡と順に見ていき・・・

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一番奥、伊吹神社の社殿手前に、京極氏の居館となる「御屋形」跡。

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御屋形には池を伴う庭園の跡も残ります。
奥に見える巨石の先にも・・・

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池の跡がもう一つ。
付近からはかわらけも出土しているそうで、庭園を鑑賞しながらの宴や儀式が行われていたことを連想させます。

各屋敷や庭園跡の配置、伊吹神社(社殿)の位置や参道の曲がり方に至るまでが、江戸時代の絵図とピタリと一致していることに驚かされました。

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京極氏一族の墓。
伊吹神社の社殿横にあります。

上平寺を追われた高清は、後に浅井氏と和睦して小谷城に迎え入れられましたが、晩年には上平寺へ戻っていたようです。
そのため、彼のお墓もこの地にありましたが、寛文12年(1672)に丸亀藩主・京極高豊が清瀧寺徳源院(米原市清滝)を復興した際、歴代の墓所も整備しており、その時に高清の墓石も徳源院へ移されたものと考えられています。

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山麓の居館跡から山城までは、およそ30分ほどの登山。
写真は、絵図に「七曲」と書かれている辺り。文字通り九十九折の登山道が続きます。

ところで、絵図に「七曲」と書かれている箇所の近くに「刈安尾」という文字も見えます。

さる程に、浅井備前、越前衆を呼び越し、たけくらべかりやす、両所に要害を構へ候。信長公御調略を以て、堀・樋口御忠節仕るべき旨御請なり。
六月十九日、信長公御馬を出だされ、堀・樋口謀反の由承り、たけくらべ・かりやす、取る物も取り敢へず退散なり。たけくらべに一両日御逗留なさる。
(信長公記 巻三「たけくらべ・かりやす取出の事」)

織田信長との対決の道を選んだ浅井長政は元亀元年(1570)、自らの領国である北近江と信長の領国・美濃との境に位置し、東山道を押さえる長比と、北国脇往還(越前街道)を押さえる刈安に要害を構え、織田軍の襲来に備えました。
絵図にある「刈安尾」とは「刈安の尾根」の意で、上平寺城こそがこの時、長政が要害に構えさせた「かりやすの要害」に比定されています。

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南側から城域に至り、最初に出迎えてくれる大きな竪堀。
登山道のすぐ右手に現れます。

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南西側の斜面には、連続する畝状竪堀群も。

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三の丸
広い削平地が2段に築かれていました。

上平寺城は南北に伸びる尾根上に、南から北へ三の丸→二の丸→本丸と連なる連郭式の城郭です。

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スロープ状の坂の先に、三の丸2段目への虎口。
うっすらと通路に積もった雪が示す通り、虎口の土塁は食違いになっているようでした。

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こちらは二の丸への虎口周辺。
三の丸⇔二の丸間は、堀切で隔てられています。

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その堀切。

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二の丸虎口。
土橋の先で少し左へ曲げてから、虎口の先へと誘導しています。
虎口の先は縦に細長い枡形のようになっており、奥の方で土塁が立ち塞がっている様子も見て取れます。

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二の丸虎口の枡形。
先を行く同行者のように右へ折れた先が・・・

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二の丸
奥に切岸が見えていますが、二の丸もやはり複数の段に分かれていました。
但し三の丸とは違い、周囲をグルッと土塁が取り巻いています。

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本丸
降り積もった雪がより一層、深くなっていました・・・。

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本丸南東側の虎口。
その先の遠景は、関ヶ原方面。

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本丸の背後には、雪を被った伊吹山の姿も。

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西の方角には、この後に向かう弥高寺跡も綺麗に見えていました。

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北端の土塁上から本丸。
曲輪の真ん中で赤い服を着た同行者が丸まっていますが・・・日の丸弁当のつもりのようです(笑)
まぁ、周囲を囲む土塁が弁当箱に見えなくもない、か・・・(;^_^A

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本丸が城域の北端となり、その背後は高い切岸と深い堀切で遮断されています。

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本丸北側の堀切に架かる土橋。

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圧倒的な堀切感。

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土橋を渡り、城外側から本丸方向。
本丸の高い切岸が攻め手を圧倒します。

現在に残る遺構のどこまでが、元亀元年の浅井、及び越前衆の手によるものかは定かではありませんが、とても見応えのある城跡でした。
なお、中世山岳寺院上平寺の跡地については、伊吹山中腹に位置する山城部分と、山麓の居館跡地との2説あるようです。

こうした要害を構えて織田軍に備えた長政でしたが、長比の守備に就いていた堀秀村・樋口直房主従が織田方へ寝返ったため、城兵は退去し、両城共に信長の手に落ちました。
ここから歴史は、姉川の合戦へと続いていくのでした。

この後は雪山の中を移動し、先ほど遠望した弥高寺跡へ向かいます。

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2019年12月 3日 (火)

小田城、平沢官衙遺跡

今回はドライブがてら、ずっと未訪のままになっていた小田城跡(茨城県つくば市)へ。

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小田城
築城時期は定かではありませんが、鎌倉期以降、常陸国で勢力を張ってきた小田氏が代々居城としてきました。南北朝期には小田治久(7代)に迎えられた南朝方の重臣・北畠親房が、同城で「神皇正統記」を執筆しています。
小田氏15代・氏治は、上杉謙信や佐竹氏との争いの中で幾度となく居城を追われますが、その都度、しぶとく旧領を回復しました。
しかし永禄12年(1569/但し元亀4年=1573説が有力)に佐竹氏に敗れて土浦へ逃れると、それ以降、氏治が小田城に返り咲くことは叶いませんでした。
小田城には佐竹氏の家臣・梶原政景が城代として入城しています。この政景によって小田城には大改修が加えられたと考えられていますが、慶長7年(1602)、佐竹氏の秋田転封に伴って廃城となりました。

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本丸北隅から、西面の堀と土塁。
北隅の土塁に開けられた通路?より、本丸内へ入ってみます。

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土塁を貫通する通路。
土塁の断面についての説明書きも。

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小田城本丸から振り仰ぐ筑波山(左奥)

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本丸内
様々な遺構が復元展示されていました。

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南西虎口

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南西虎口の先、南西馬出。
堀からは橋脚が出土しており、本丸との連絡は木橋で繋がれていました。

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南東隅の櫓台

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本丸から見る東曲輪

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東曲輪へと続く東虎口。
東曲輪とは、土橋と木橋を組み合わせて築いた橋で繋がっていたようです。

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東曲輪
東曲輪からは建物跡が殆ど検出されておらず、こちらもやはり馬出だったのではないか、とも考えられています。

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東曲輪に建つ城址碑と、奥に本丸北東隅の櫓台。

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本丸北東隅櫓台から、右に本丸、左に東曲輪。

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本丸全域

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本丸北面の堀と土塁。

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北虎口
北虎口を出た先にも、馬出が築かれていたようです。

小田城は綺麗に復元整備されており、とても「わかりやすい」城跡でした。
いずれは前出の図面を元に、本丸に限らず全域の痕跡探しなどもしてみたいですね。

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平沢官衙遺跡
奈良~平安期にかけての常陸国筑波郡の官衙(役所)跡です。
小田城跡から近かったので寄ってみました。

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発掘調査の結果、大型の高床式倉庫らしき建物が建ち並び、その周囲を溝で囲っていたことが判明しているそうです。
その建物の一部が復元されています。

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復元建物以外にも、建物跡の位置などが地面に示されていましたが、礎石に関しては、その全てが元の位置から動かされていたため、元の位置を推定して再配置されたとのことです。

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天気にも恵まれ、いいドライブになりました。

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