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2019年12月13日 (金)

上平寺城

年末の恒例行事となった城友山城踏査会(& 忘年会)
2019年の舞台は・・・

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滋賀県米原市の上平寺城です。

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上平寺城絵図(江戸時代前期)

上平寺城は16世紀の初頭、北近江守護の京極高清が築いた京極氏の城館。
山麓に平時の居館を置いて守護所とし、伊吹山から伸びる背後の尾根上には詰の山城が築かれていました。
大永3年(1523)、高清は自らの後継をめぐって浅見氏や浅井氏、三田村氏らの国人衆と対立して上平寺を追われ、北近江では浅井氏が台頭するようになります。
以降、眼前に北国脇往還(越前街道)を扼する上平寺城は、美濃・近江の国境を押さえる境目の城として機能したものと考えられています。

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今回のスタート地点となる居館区域の目の前(南)を流れる用水路は、居館と城下町との間を隔てる堀跡。上の絵図にも「ホリ」と記されています。
この写真の方向に、「諸士屋敷」や「町屋敷」などとある城下町が広がっていました。

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伊吹神社(「伊吹大権現」)の参道に沿って進み、「弾正屋敷」跡・・・

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「蔵屋敷」跡

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「隠岐屋敷」跡と順に見ていき・・・

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一番奥、伊吹神社の社殿手前に、京極氏の居館となる「御屋形」跡。

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御屋形には池を伴う庭園の跡も残ります。
奥に見える巨石の先にも・・・

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池の跡がもう一つ。
付近からはかわらけも出土しているそうで、庭園を鑑賞しながらの宴や儀式が行われていたことを連想させます。

各屋敷や庭園跡の配置、伊吹神社(社殿)の位置や参道の曲がり方に至るまでが、江戸時代の絵図とピタリと一致していることに驚かされました。

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京極氏一族の墓。
伊吹神社の社殿横にあります。

上平寺を追われた高清は、後に浅井氏と和睦して小谷城に迎え入れられましたが、晩年には上平寺へ戻っていたようです。
そのため、彼のお墓もこの地にありましたが、寛文12年(1672)に丸亀藩主・京極高豊が清瀧寺徳源院(米原市清滝)を復興した際、歴代の墓所も整備しており、その時に高清の墓石も徳源院へ移されたものと考えられています。

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山麓の居館跡から山城までは、およそ30分ほどの登山。
写真は、絵図に「七曲」と書かれている辺り。文字通り九十九折の登山道が続きます。

ところで、絵図に「七曲」と書かれている箇所の近くに「刈安尾」という文字も見えます。

さる程に、浅井備前、越前衆を呼び越し、たけくらべかりやす、両所に要害を構へ候。信長公御調略を以て、堀・樋口御忠節仕るべき旨御請なり。
六月十九日、信長公御馬を出だされ、堀・樋口謀反の由承り、たけくらべ・かりやす、取る物も取り敢へず退散なり。たけくらべに一両日御逗留なさる。
(信長公記 巻三「たけくらべ・かりやす取出の事」)

織田信長との対決の道を選んだ浅井長政は元亀元年(1570)、自らの領国である北近江と信長の領国・美濃との境に位置し、東山道を押さえる長比と、北国脇往還(越前街道)を押さえる刈安に要害を構え、織田軍の襲来に備えました。
絵図にある「刈安尾」とは「刈安の尾根」の意で、上平寺城こそがこの時、長政が要害に構えさせた「かりやすの要害」に比定されています。

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南側から城域に至り、最初に出迎えてくれる大きな竪堀。
登山道のすぐ右手に現れます。

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南西側の斜面には、連続する畝状竪堀群も。

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三の丸
広い削平地が2段に築かれていました。

上平寺城は南北に伸びる尾根上に、南から北へ三の丸→二の丸→本丸と連なる連郭式の城郭です。

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スロープ状の坂の先に、三の丸2段目への虎口。
うっすらと通路に積もった雪が示す通り、虎口の土塁は食違いになっているようでした。

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こちらは二の丸への虎口周辺。
三の丸⇔二の丸間は、堀切で隔てられています。

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その堀切。

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二の丸虎口。
土橋の先で少し左へ曲げてから、虎口の先へと誘導しています。
虎口の先は縦に細長い枡形のようになっており、奥の方で土塁が立ち塞がっている様子も見て取れます。

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二の丸虎口の枡形。
先を行く同行者のように右へ折れた先が・・・

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二の丸
奥に切岸が見えていますが、二の丸もやはり複数の段に分かれていました。
但し三の丸とは違い、周囲をグルッと土塁が取り巻いています。

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本丸
降り積もった雪がより一層、深くなっていました・・・。

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本丸南東側の虎口。
その先の遠景は、関ヶ原方面。

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本丸の背後には、雪を被った伊吹山の姿も。

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西の方角には、この後に向かう弥高寺跡も綺麗に見えていました。

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北端の土塁上から本丸。
曲輪の真ん中で赤い服を着た同行者が丸まっていますが・・・日の丸弁当のつもりのようです(笑)
まぁ、周囲を囲む土塁が弁当箱に見えなくもない、か・・・(;^_^A

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本丸が城域の北端となり、その背後は高い切岸と深い堀切で遮断されています。

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本丸北側の堀切に架かる土橋。

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圧倒的な堀切感。

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土橋を渡り、城外側から本丸方向。
本丸の高い切岸が攻め手を圧倒します。

現在に残る遺構のどこまでが、元亀元年の浅井、及び越前衆の手によるものかは定かではありませんが、とても見応えのある城跡でした。
なお、中世山岳寺院上平寺の跡地については、伊吹山中腹に位置する山城部分と、山麓の居館跡地との2説あるようです。

こうした要害を構えて織田軍に備えた長政でしたが、長比の守備に就いていた堀秀村・樋口直房主従が織田方へ寝返ったため、城兵は退去し、両城共に信長の手に落ちました。
ここから歴史は、姉川の合戦へと続いていくのでした。

この後は雪山の中を移動し、先ほど遠望した弥高寺跡へ向かいます。

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