蒲原城
蒲原城鳥観図
蒲原城は元々、駿河守護・今川家の属城でしたが、永禄11年(1568)に武田信玄が同盟を破棄して駿河に侵攻すると、今川家救援に動く北条家の兵が入り、対武田の拠点としました。
しかし、翌永禄12年12月には武田家によって落城し、以降は天正10年(1582)の同家滅亡まで、その支配下に置かれました。
→参考記事
鳥観図Aにある空堀。
藪で見えづらいのですが、人工的な遺構というよりは自然地形のようにも思えました。
Bの腰曲輪
2段構えのようになっていて、写真はその上段で・・・
こちらが下段部分を見下ろした様子。
妙にエッジが効いているのが、かえって気になる・・・。
Bの腰曲輪から、善福寺曲輪(D)下を西へ回り込む通路状の遺構。
横堀、或いは塹壕のようにも見えたりして・・・(;^_^A
これに沿って西側へ回り込むと、善福寺曲輪と主郭(E)間の堀切から落ちる竪堀があります。
下まで続いています。
善福寺曲輪と主郭を隔てる堀切C
善福寺曲輪
土塁も残り、櫓台や・・・
逆茂木のディスプレイ?まで設置されていましたw
善福寺曲輪から堀切越しに主郭。
こうして見ると結構、高低差があります。
主郭
主郭からの眺め。
さった山まで綺麗に見通せます。
武田軍が駿河に侵攻した際、今川家の救援に動く北条家はさった山に大軍を布陣させますが、何故この蒲原城をその後方拠点としたのかが、よく見て取れるような光景です。
主郭から善福寺曲輪。
東海道歩きに想定よりも時間を要し、あまり蒲原城攻めには時間を割けませんでしたが、駐車場もあって見学のしやすい城跡でした。