小田原の史跡めぐり…初日
令和元年最後の旅は小田原へ。
小田原在住のフォロワーさんにご案内いただき、天正18年(1590)の小田原征伐における豊臣軍の小田原城包囲陣跡(上図参照)を中心に、小田原市の史跡をめぐります。
まずは初日。
12月29日の朝9時に早川駅で集合し、最初に向かった先は・・・
海蔵寺
嘉吉元年(1441)、当時の小田原城主であった大森氏による創建と伝わります。
天正18年、豊臣軍による小田原城包囲が始まると、この付近には堀左衛門督(久太郎)秀政が布陣しました。
海蔵寺の墓地、小田原城や相模湾を望める見晴らしのよい一画には、その秀政の墓所があります。
織田信長の側近として頭角を現し、やがて「名人久太郎」と謳われて豊臣秀吉にも高く評価された秀政は、小田原城包囲の陣中に病に倒れ、38歳の若さでこの世を去りました。
彼に殉じたものと考えられる家臣らの墓も連なります。
海蔵寺付近から小田原城~早川口方面の眺め。
左寄りの木々の上に天守も見えています。
同じく、細川忠興が布陣した富士山陣場(左手前の小山)と、右奥に小田原城総構の稜線。
続いては、石垣山城南西の早川石丁場群関白沢支群へ。
まずは箕ヶ窪橋下に保存されている石丁場から。
箕ヶ窪橋下の石丁場は道路建設に伴う発掘調査により、規模が大きく保存状態も良好な遺構であることが判明し、道路に橋を架ける設計に変更して保存されました。
箕ヶ窪橋から、林道で山中を西へ進みます。
こちらの石には「此左□」という刻印があることから、石垣山城の石垣から発見された「此石可き左右加藤肥後守石場」と刻まれた石と同様の、標識石ではないかとも考えられています。
やはり道路建設時の調査で判明し、保存のためにこの場所へ移設されたそうです。
石曳道
早川石丁場群は17世紀前半の、江戸城の石垣用石材を切り出すための作業場跡。
この石曳道は、山中で切り出された石を曳いて山麓まで下ろし、江戸へと運ぶために築かれたものです。
更に西へ進み、こちらの苔生した矢穴石が現れた辺りから斜面に取り付きます。
すると・・・
山の斜面には、大きな石がそこかしこにゴロゴロと転がっていました。
ほぼ全ての石に矢穴の跡が残っています。
一つ一つ挙げていってもキリがないので、ごく一部だけ・・・。
そこはかとなく漂うラスボス感(笑)
とても見応えのある遺構でした。
この後は石垣山城を散策しましたが、過去の記事とも重複するので詳細は省略します。
石垣山城本丸から、小田原の市街と駿河湾を見渡す。
往時は、ここから小田原城包囲戦の様子がよく見えたことでしょうね。
こちらが件の「此石可き左右加藤肥後守石場」と刻印されている標識石。
・・・私には殆ど読み取れませんでしたけど(;^_^A
井戸曲輪周囲の木が伐採され、石垣越しの景色の抜けが最高でした。
お昼は小田原市街で鰺醤油ラーメン。
お店のある場所は江戸時代には桶屋さんだったそうで、ラーメンの器も桶。
細川忠興が布陣したと云う富士山陣場へ向かう途中、旧東海道沿いの板橋地蔵堂境内にあった供養碑。
慶応4年(1868)の戊辰戦争の折、小田原藩士に殺害された新政府軍の軍監・中井範五郎(鳥取藩)や、箱根山崎の戦いで犠牲となった新政府軍士卒など計13名を供養したものです。
閑静な住宅街の急坂を登っていくと、ご覧の案内標識もあったのですが・・・
いざ頂上付近まで来てみると、無情にも立入禁止とか・・・陣場の遺構まで辿り着くことができませんでした。
仕方なく、頂上付近からの早川口方面(写真)等の眺めを確認してから撤収しました。
早川口遺構
二重外張と呼ばれる堀と土塁を二重にした小田原城総構の遺構で、北条氏の時代には虎口(早川口)であったと考えられています。
東海道が整備された江戸時代には、虎口も街道に沿った上方(板橋)口に移りました。
土塁外側の通りは用水路の暗渠となっており、かつてはそこに堀があったことを匂わせます。
続いてはこちらの古地図にある、小田原宿の上方(板橋)見附跡・大久寺・居神神社を散策します。
旧東海道小田原宿、上方(板橋)見附の枡形跡。
旧東海道はこの先、板橋村(小田原市板橋)へ続いていたことから、板橋見附とも呼ばれました。
大久寺の大久保家墓所。
大久寺は小田原藩初代藩主・大久保忠世が開基となって創建された、大久保家の菩提寺です。
向かって右から三代・加賀守忠常、二代・相模守忠隣、中央正面が初代・七郎右衛門忠世の墓石。
居神神社
永正17年(1520)、北条氏綱によって創建されました。
父・伊勢宗瑞が滅ぼした三浦道寸の嫡子で、やはり宗瑞に攻められた際に新井城で自刃した三浦義意を祭神としています。
・・・供養の意味もあったのでしょうか。
初日のラストは、小峯御鐘ノ台大堀切へ。
こちらも総構をめぐった過去の記事と重複しますので、詳細は省きます。
※なお、総構についてはコチラの記事もご参照ください。
しかし、前に訪れた際は立ち入れずに未訪だった西堀が、見学できるようになっていました。
小峯御鐘ノ台の西堀は、天正18年の豊臣秀吉の侵攻に備えて築かれた総構の一部です。
こんな素晴らしい遺構が現代まで、奇麗に残されていたことに感謝。
小峯御鐘ノ台から、この日に訪れた富士山陣場、そして石垣山城。
北条側からの、対陣する豊臣方との距離感です。
夜は小田原駅前で懇親会。
なんだかんだで、3次会まで飲み明かしましたとさ。
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