2020年2月
2020年2月11日 (火)
2020年2月 5日 (水)
滝山城の畝状遺構
最近下草が刈られ、上図A曲輪東側の畝状の遺構(水色の〇で囲んだ部分)が綺麗に見えるようになったと聞き、様子を見に行って来ました。
A曲輪
ここもかなり伐採したようで、曲輪中央を仕切るような土塁も綺麗に見えていました。
A曲輪から見下ろす東側の畝状遺構。
パッと見の印象としては、畝の規模とか雰囲気は、同じ八王子市内の浄福寺城のものに似ているような気もします。
畝が残る地点は緩やかな傾斜になっており、横堀という感じでもなさそうです。
(写真のすぐ右手は、A曲輪の切岸)
畝が並ぶ北側には、大きな竪土塁が行く手を遮ります。
縦土塁(写真手前)にぶつかって右(写真左)へ折れた先は・・・
急斜面となって、大池方面に落ち込んでいます。
(奥に大池の堤が見えています)
こうして見ていくとA曲輪下の畝状遺構は、曲輪下に残る緩斜面を横移動や足掛かりとして、寄せ手に利用させないための処置だったのかもしれないと思えてきました。
2020年2月 4日 (火)
足利基氏の塁跡と岩殿観音正法寺
今回は埼玉県東松山市大字岩殿地区へのドライブ。
まずは、足利基氏の塁跡から。
足利尊氏、直義兄弟が争った観応の擾乱。
直義方について失脚し、信濃に逐われた上杉憲顕に変わって、上野・越後両国の守護には尊氏方の宇都宮氏綱が補任されました。
ところが、初代鎌倉公方となった足利基氏(尊氏の子)は尊氏の死後、上杉憲顕を関東管領に据えようと画策し、越後守護職も憲顕に与えます。
これに反発し、憲顕の鎌倉入りを阻止しようと兵800を繰り出した宇都宮氏の重臣・芳賀氏(越後守護代)に対し、基氏も3,000の兵を率いて出陣し、両軍は岩殿山・苦林野で激突しました。
その際に基氏が布陣した地こそ、この足利基氏の塁跡と考えられています。
西面の堀跡と土塁。
東面の堀跡。
標柱や案内板も立つ東面から北側の藪へ入ると、北面の土塁や堀も残っていました。
足利基氏の塁跡は東西180m×南北80m程の範囲に、丘陵を背(北)にして東西北の三方にこうした堀や土塁が廻らされています。
北面の堀跡。
ここから北側はゴルフ場の敷地になっているようで、堀底に境界となるロープも張られていました。
対岸(北)の方が地面が高く、あちら側から覗き込めばより一層、空堀の規模を体感できそうでしたが、立ち入るわけにもいきませんので諦めます。
空堀に沿った土塁の手前(南)には、曲輪跡らしき小さな削平地も。
それにしても藪り具合が凄く、戻る際に入ってきたルートを見失ってしまいました。
基氏は岩殿山・苦林野合戦に勝利した後、すぐに宇都宮・芳賀らの本拠地である下野国へ向けて進軍し、岩殿には短い期間しか在陣していなかったため、こうした遺構は基氏が築いたものではなく、元々存在していた豪族(比企能員か)の館跡を利用したのではないか、とも考えられています。
なお、合戦のあった年について、『桜雲記』という史料には「貞治8年(正しくは応安3年)/建徳元年(1370)の8月」とあるらしいのですが、基氏は貞治6年/正平22年(1367)に死去しているようなので、やはり定説通り貞治2年/正平18年(1363)だったのではないでしょうか。
※苦林古墳の供養塔(文化10年/1813建立)では「貞治4年」
続いて、足利基氏の塁跡前の道を西へ進み、正法寺へ向かいます。
その昔、坂上田村麻呂が岩殿山に住む悪竜を退治し、その首を埋めた場所に出現したとの伝承も残る弁天沼。
阿弥陀堂の板石塔婆
応安元年(1368)のもので、当時、付近には阿弥陀堂が建っていたようです。
(現在の岩殿会館辺り)
正法寺の参道・門前町の入口となる惣門橋。
一直線に伸びる参道と門前町。
今でこそ静かな集落といった風情ですが、昭和の初期までは多くの旅館や商店が軒を並べ、かなりの賑わいを見せていたそうです。
参道沿いのお宅には一軒一軒、屋号や僧房跡などを示す木札が掲げられていました。
中には、こんなお宅も・・・現役の畳屋さん?
参道の突き当り、正法寺仁王門。
元々は運慶作の仁王像が安置されていましたが、残念ながら江戸期に焼失しています。
現在のものは文化年間の作だそうです。
山号は無論、「岩(巌)殿山」。
鐘楼
元禄15年(1702年)の建立。
銅鐘
元享2年(1322)の鋳造。
縦に筋のように入った疵は、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐の際、大道寺政繁が軍勢の士気を鼓舞するため、鐘を引き摺りまわして打ち鳴らしたために付いたもの、とされています。
鐘楼前から、参道と門前町。
足利基氏の塁跡は、この参道を真っ直ぐ惣門橋まで進み、その先で少し右(東)へカーブした先になります。
観音堂
岩殿観音正法寺は坂東三十三箇所の第十番札所で、養老2年(718)の開山と伝わります。
鎌倉期に源頼朝の命により、この地域を治めた比企能員が再興しました。本尊の千手観音菩薩座像(秘仏)は北条政子の守り本尊として、その信仰も厚かったと云います。
天正19年(1591)には、徳川家康からも朱印地を与えられています。
(武蔵松山城に入っていた上田朝直の制札も残っているそうです)
正法寺の六面幢
天正10年(1582)の建立で、県の文化財にも指定されています。
残念ながら、表面が剥離してしまっている面も・・・。
最後に、物見山からの・・・眺望?
物見山は比企丘陵の最高峰で、その山名は坂上田村麻呂が東征の折、山頂に登って四囲を眺め渡したことに由来するのだそうです。