« 蒲原城 | トップページ | 滝山城の畝状遺構 »

2020年2月 4日 (火)

足利基氏の塁跡と岩殿観音正法寺

今回は埼玉県東松山市大字岩殿地区へのドライブ。

20200202a01
まずは、足利基氏の塁跡から。

足利尊氏、直義兄弟が争った観応の擾乱
直義方について失脚し、信濃に逐われた上杉憲顕に変わって、上野・越後両国の守護には尊氏方の宇都宮氏綱が補任されました。
ところが、初代鎌倉公方となった足利基氏(尊氏の子)は尊氏の死後、上杉憲顕を関東管領に据えようと画策し、越後守護職も憲顕に与えます。
これに反発し、憲顕の鎌倉入りを阻止しようと兵800を繰り出した宇都宮氏の重臣・芳賀氏(越後守護代)に対し、基氏も3,000の兵を率いて出陣し、両軍は岩殿山・苦林野で激突しました。
その際に基氏が布陣した地こそ、この足利基氏の塁跡と考えられています。

20200202a02
西面の堀跡と土塁。

20200202a03
東面の堀跡。

20200202a04
標柱や案内板も立つ東面から北側の藪へ入ると、北面の土塁や堀も残っていました。
足利基氏の塁跡は東西180m×南北80m程の範囲に、丘陵を背(北)にして東西北の三方にこうした堀や土塁が廻らされています。

20200202a05
北面の堀跡。
ここから北側はゴルフ場の敷地になっているようで、堀底に境界となるロープも張られていました。

20200202a06
対岸(北)の方が地面が高く、あちら側から覗き込めばより一層、空堀の規模を体感できそうでしたが、立ち入るわけにもいきませんので諦めます。

20200202a07
空堀に沿った土塁の手前(南)には、曲輪跡らしき小さな削平地も。
それにしても藪り具合が凄く、戻る際に入ってきたルートを見失ってしまいました。

基氏は岩殿山・苦林野合戦に勝利した後、すぐに宇都宮・芳賀らの本拠地である下野国へ向けて進軍し、岩殿には短い期間しか在陣していなかったため、こうした遺構は基氏が築いたものではなく、元々存在していた豪族(比企能員か)の館跡を利用したのではないか、とも考えられています。
なお、合戦のあった年について、『桜雲記』という史料には「貞治8年(正しくは応安3年)/建徳元年(1370)の8月」とあるらしいのですが、基氏は貞治6年/正平22年(1367)に死去しているようなので、やはり定説通り貞治2年/正平18年(1363)だったのではないでしょうか。
※苦林古墳の供養塔(文化10年/1813建立)では「貞治4年」

続いて、足利基氏の塁跡前の道を西へ進み、正法寺へ向かいます。

20200202a08
その昔、坂上田村麻呂が岩殿山に住む悪竜を退治し、その首を埋めた場所に出現したとの伝承も残る弁天沼。

20200202a09
阿弥陀堂の板石塔婆
応安元年(1368)のもので、当時、付近には阿弥陀堂が建っていたようです。
(現在の岩殿会館辺り)

20200202a10
正法寺の参道・門前町の入口となる惣門橋。

20200202a11
一直線に伸びる参道と門前町。
今でこそ静かな集落といった風情ですが、昭和の初期までは多くの旅館や商店が軒を並べ、かなりの賑わいを見せていたそうです。

20200202a12
参道沿いのお宅には一軒一軒、屋号や僧房跡などを示す木札が掲げられていました。

20200202a13
中には、こんなお宅も・・・現役の畳屋さん?

20200202a14
参道の突き当り、正法寺仁王門。
元々は運慶作の仁王像が安置されていましたが、残念ながら江戸期に焼失しています。
現在のものは文化年間の作だそうです。

20200202a15
山号は無論、「岩(巌)殿山」。

20200202a16
鐘楼
元禄15年(1702年)の建立。

20200202a17
銅鐘
元享2年(1322)の鋳造。
縦に筋のように入った疵は、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐の際、大道寺政繁が軍勢の士気を鼓舞するため、鐘を引き摺りまわして打ち鳴らしたために付いたもの、とされています。

20200202a18
鐘楼前から、参道と門前町。
足利基氏の塁跡は、この参道を真っ直ぐ惣門橋まで進み、その先で少し右(東)へカーブした先になります。

20200202a19
観音堂

岩殿観音正法寺は坂東三十三箇所の第十番札所で、養老2年(718)の開山と伝わります。
鎌倉期に源頼朝の命により、この地域を治めた比企能員が再興しました。本尊の千手観音菩薩座像(秘仏)は北条政子の守り本尊として、その信仰も厚かったと云います。
天正19年(1591)には、徳川家康からも朱印地を与えられています。
(武蔵松山城に入っていた上田朝直の制札も残っているそうです)

20200202a20
正法寺の六面幢
天正10年(1582)の建立で、県の文化財にも指定されています。
残念ながら、表面が剥離してしまっている面も・・・。

20200202a21
最後に、物見山からの・・・眺望?
物見山は比企丘陵の最高峰で、その山名は坂上田村麻呂が東征の折、山頂に登って四囲を眺め渡したことに由来するのだそうです。

|

« 蒲原城 | トップページ | 滝山城の畝状遺構 »

お城、史跡巡り 関東」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 蒲原城 | トップページ | 滝山城の畝状遺構 »