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2020年11月

2020年11月11日 (水)

当目の虚空蔵菩薩

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焼津市浜当目の虚空蔵山。

かい道より左、田中の城より東山の尾崎、浜手へつきて、花沢の古城あり。是れは、昔、小原肥前守楯籠り候ひし時、武田信玄、此の城へ取り懸け、攻め損じ、人余多うたせ、勝利を失ひし所の城なり。同じく山崎に、とう目の虚空蔵まします。
(信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」)

花沢城の記事織田信長が田中城近くから花沢城を眺めていたことをご紹介しましたが、「信長公記」にはとう目(当目)の虚空蔵についても言及されています。

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虚空蔵菩薩は聖徳太子作とも伝わる日本三大虚空蔵菩薩尊の一つ。
現在は麓の功徳院に安置されているようですが、元々は虚空蔵山々頂の香集寺(現在は無住)に祀られていました。

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虚空蔵山の登り口ともなる、香集寺参道。

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参道から眺める当目砦方向。
武田軍が築き、徳川家康によって攻略されたと伝えられます。

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想像以上に急勾配な参道が20分ほども続き、さすがに息が上がります。

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ようやく最後の階段前まで到着。
この辺りには市の文化財にも指定されていた仁王門が建っていたようですが、老朽化が著しく、倒壊の恐れもあることから2017年頃に撤去されたようです。
今では礎石が、その痕跡を残すのみとなっています。

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ようやく香集寺に到着。
ご本尊はいなくとも、しっかりとお参りさせていただきました。

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市指定文化財の石燈籠。
「寛永二年五月十三日」の刻銘を有する、焼津市内最古の燈籠だそうです。

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香集寺跡の碑。
こちらにも、お寺に関する建物が存在していたのでしょう。

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虚空蔵山からの眺め。
本来であれば富士山も見えるらしいのですが、生い茂る樹木に遮られて叶いませんでした。

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織田信長の甲州征伐凱旋旅を追いかけ始めた時から、ずっと気になっていたとう目の虚空蔵
期せずして訪問の機会を得られて良かったと思います。

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2020年11月10日 (火)

花沢城、花沢の里

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花沢の里観光駐車場からの花沢城(静岡県焼津市)遠景。

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花沢城は駿府の西の守りとして、今川氏によって築城されたものと考えられています。

永禄11年(1568)の暮れから駿河侵攻を開始した武田信玄は、永禄13年(1570)の正月、抵抗を続けていた花沢城へ攻め寄せます。
花沢城を守備する今川家臣・大原肥前守資良(小原鎮実)以下の城兵は懸命に戦いますが、14日間に及ぶ籠城の末に降伏開城しました。
永禄13年の時点で既に主君の今川氏真は駿府を追われ、逃げ込んだ先の掛川城も徳川軍によって包囲されて開城し、小田原の北条氏の元に身を寄せています。
大原らは主君が去った後も城を離れず、駿河を占拠した武田家に抗い続けていたのですね。

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花沢城縄張図
花沢の里観光駐車場から車道伝いに進み、A地点を目指します。
※五の曲輪を示す線に違和感を覚えるので、実際に歩いてみた感触として赤線を加えてみました。

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A地点の遊歩道入口。
ここから一の曲輪(本丸)まで、10分ほどの登山になります。

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途中で見かけた気になる岩。
しかし、城の遺構ではなさそうです。

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城域に近づいてきました。
ここまでの道のりの鬱蒼とした雰囲気とは変わり、下草が刈られてとても見易くなっていました。

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一の曲輪(本丸)

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一の曲輪に建つ城址碑

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一の曲輪からの眺め(南西方向)
辺りには田中城があります。

かい道より左、田中の城より東山の尾崎、浜手へつきて、花沢の古城あり。是れは、昔、小原肥前守楯籠り候ひし時、武田信玄、此の城へ取り懸け、攻め損じ、人余多うたせ、勝利を失ひし所の城なり。同じく山崎に、とう目の虚空蔵まします。
(信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」)

天正10年(1582)4月、甲州征伐からの凱旋の途にある織田信長は同月14日、江尻城を発って田中城へと至る道中、田中城近くからこの花沢城を眺めています。(関連記事
従ってこの眺めは、天正10年4月14日の信長視点の正反対からの光景、ということになりますね。

なお、「信長公記」著者の太田牛一は武田信玄が花沢城攻めに随分と手こずり、然も負けたかのような書き方をしていますが、或いはこれは案内役の徳川家の人間が、武田家に対する信長の感情に忖度してこのような説明をしたため、と考えますがいかがでしょうか。

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三の曲輪

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一の曲輪(手前)とニの曲輪(奥)を隔てる堀切。
花沢城跡で一番の見所でしょう。

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白い土嚢を積んだ箇所は、2~3年前に行われた発掘調査の痕跡のようです。

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ニの曲輪サイドから見下ろす堀切。

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二の曲輪

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五の曲輪

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五の曲輪は緩やかにカーブしつつ、結構先まで細長く続いているようでした。
そのまま曲輪の先を下っていくと・・・

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六の曲輪に出ます。
このままB地点まで下って、花沢城攻めは終了とします。

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折角なので、花沢の里も散策させていただきます。

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花沢の里は、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

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日本坂峠へと続く古代の官道(古代東海道)と考えられる旧街道が、集落を通り抜けていきます。

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沢の水もとても綺麗でした。

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集落の最北端に位置する法華寺。
武田軍による花沢城攻めの際には法華寺も兵火に遭い、伽藍を焼失しているそうです。
折角なので是非とも参拝したいところでしたが・・・新型コロナウィルス感染症の影響で、残念ながら現在は拝観停止になっていました。

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花沢の里で企画展「寺社からたどる戦国の焼津」のチラシを見かけ、武田軍による花沢城攻めの様子を描いた陣形図も展示されていることを知ったので、歴史民俗資料館にもお邪魔させていただきました。
今川氏や武田氏関連の文書類などの他、小川城の発掘調査記録や出土遺物展示が目を引きました。
珍しそうなところでは、文明の内訌の際に本中根(焼津市)に陣を張った太田道灌の愛馬の轡と伝わる品(個人蔵)なども展示されています。
また、学芸員の方には焼津市内の遺跡分布状況と、諸河川の流域や地形の変遷との関係性、古代の街道などについても教えていただきました。

この後は浜当目の虚空蔵山へ向かいます。

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2020年11月 2日 (月)

神奈川県で「毛利」めぐり

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神奈川県厚木市下古沢に祀られる三島神社。
その境内の一隅に・・・

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毛利氏発祥の地
毛利季光屋敷跡
の石碑が建てられています。

毛利季光は、源頼朝に仕えた鎌倉幕府の御家人で初代政所別当を務めた大江広元の四男。
父から相模国毛利庄を相続し、「毛利」姓を名乗りました。
承久の乱(承久3/1221年)では父と共に幕府方として活躍し、その功によって後に毛利氏の本拠となる安芸国吉田荘を与えられています。
しかし宝治元年(1247)、執権北条氏と三浦氏の対立(宝治合戦)が起きると、娘を執権・時頼に嫁がせていた季光は北条方に参じようとしますが、三浦氏の出であった妻の「三浦氏を見捨て、勢いのある北条氏の味方をすることは武士の義に反する」との一言で三浦方に転じ、敗れて息子らと共に自害して果てたと伝えられています。

季光の四男・経光は所領の一つ、越後国佐橋荘に赴いていたために乱には巻き込まれず、その子・時親が後に安芸国吉田荘に移り住みました。
これが、戦国期に西国の雄として名を馳せることになる毛利元就へと続く、安芸毛利氏の始まりとなったのです。

碑文によると土地の伝承や古地図・古い地名などから、三島神社を中心とした一画に季光の屋敷があったと考えられているため、ここに碑が建てられたようです。
実際、下古沢の南方には「毛利台」「南毛利」といった地名が今も残されています。

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お次は少し北へ移動し、峠を一つ越えた飯山に建つ光福寺へ。

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光福寺開基の隆寛律師は浄土宗の開祖・法然に師事した僧侶で、嘉禄3年(1227)の嘉禄の法難により、京から陸奥国(会津)へと流されることになります。その護送を務めたのが毛利季光でした。
隆寛に帰依した季光は隆寛の身を慮り、自らの所領である相模国飯山で匿うことにします。会津へは代わりに、隆寛の弟子の実成房が赴きました。
師と仰ぐ隆寛を迎え、その隆寛が開基した光福寺が飯山にあることから、季光の屋敷も飯山の、この光福寺近くにあったのではないかとする説もあるようです。
この付近一帯は当時から、飯山観音として名高い長谷寺の門前町としても栄えていたようです。

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光福寺に眠る隆寛律師の墓所。

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「毛利元就の祖ゆかりの寺」を謳った看板。
折角なので門前を抜けるこの道を西へ向かい、飯山観音にもお参りしていくことにします。

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飯山観音、飯上山長谷寺に到着。

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長谷寺は神亀2年(725)の行基による開創とも、弘仁年間(810~824)の空海による開創とも伝えられる、大変に歴史ある真言宗寺院です。

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嘉吉二年(1442)の年紀を有する銅鐘。県の重要文化財に指定されています。
刻銘には「毛利庄飯山の新長谷寺が嘉吉二年の春に火災により焼失したため、堂宇の再建に先立ち、人々の銅鐘鋳造への強い願いを受け、麓の金剛寺の住僧だった誾勝が寄付を募って同年四月五日に完成した」といった内容が記されているそうです。
・・・やはり、飯山も間違いなく「毛利庄」だったのですね。

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飯山観音から毛利庄を眺め渡す。

この地に起こった一族がやがて安芸国へと移り、300年の後に西国の雄として名を馳せ、織田信長とも対峙していく・・・。
改めて歴史の繋がりの不思議さ、奥深さを感じた一日でした。

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