花沢城、花沢の里
花沢の里観光駐車場からの花沢城(静岡県焼津市)遠景。
花沢城は駿府の西の守りとして、今川氏によって築城されたものと考えられています。
永禄11年(1568)の暮れから駿河侵攻を開始した武田信玄は、永禄13年(1570)の正月、抵抗を続けていた花沢城へ攻め寄せます。
花沢城を守備する今川家臣・大原肥前守資良(小原鎮実)以下の城兵は懸命に戦いますが、14日間に及ぶ籠城の末に降伏開城しました。
永禄13年の時点で既に主君の今川氏真は駿府を追われ、逃げ込んだ先の掛川城も徳川軍によって包囲されて開城し、小田原の北条氏の元に身を寄せています。
大原らは主君が去った後も城を離れず、駿河を占拠した武田家に抗い続けていたのですね。
花沢城縄張図
花沢の里観光駐車場から車道伝いに進み、A地点を目指します。
※五の曲輪を示す線に違和感を覚えるので、実際に歩いてみた感触として赤線を加えてみました。
A地点の遊歩道入口。
ここから一の曲輪(本丸)まで、10分ほどの登山になります。
途中で見かけた気になる岩。
しかし、城の遺構ではなさそうです。
城域に近づいてきました。
ここまでの道のりの鬱蒼とした雰囲気とは変わり、下草が刈られてとても見易くなっていました。
一の曲輪(本丸)
一の曲輪に建つ城址碑
一の曲輪からの眺め(南西方向)
★辺りには田中城があります。
かい道より左、田中の城より東山の尾崎、浜手へつきて、花沢の古城あり。是れは、昔、小原肥前守楯籠り候ひし時、武田信玄、此の城へ取り懸け、攻め損じ、人余多うたせ、勝利を失ひし所の城なり。同じく山崎に、とう目の虚空蔵まします。
(信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」)
天正10年(1582)4月、甲州征伐からの凱旋の途にある織田信長は同月14日、江尻城を発って田中城へと至る道中、田中城近くからこの花沢城を眺めています。(関連記事)
従ってこの眺めは、天正10年4月14日の信長視点の正反対からの光景、ということになりますね。
なお、「信長公記」著者の太田牛一は武田信玄が花沢城攻めに随分と手こずり、然も負けたかのような書き方をしていますが、或いはこれは案内役の徳川家の人間が、武田家に対する信長の感情に忖度してこのような説明をしたため、と考えますがいかがでしょうか。
三の曲輪
一の曲輪(手前)とニの曲輪(奥)を隔てる堀切。
花沢城跡で一番の見所でしょう。
白い土嚢を積んだ箇所は、2~3年前に行われた発掘調査の痕跡のようです。
ニの曲輪サイドから見下ろす堀切。
二の曲輪
五の曲輪
五の曲輪は緩やかにカーブしつつ、結構先まで細長く続いているようでした。
そのまま曲輪の先を下っていくと・・・
六の曲輪に出ます。
このままB地点まで下って、花沢城攻めは終了とします。
折角なので、花沢の里も散策させていただきます。
花沢の里は、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
日本坂峠へと続く古代の官道(古代東海道)と考えられる旧街道が、集落を通り抜けていきます。
沢の水もとても綺麗でした。
集落の最北端に位置する法華寺。
武田軍による花沢城攻めの際には法華寺も兵火に遭い、伽藍を焼失しているそうです。
折角なので是非とも参拝したいところでしたが・・・新型コロナウィルス感染症の影響で、残念ながら現在は拝観停止になっていました。
花沢の里で企画展「寺社からたどる戦国の焼津」のチラシを見かけ、武田軍による花沢城攻めの様子を描いた陣形図も展示されていることを知ったので、歴史民俗資料館にもお邪魔させていただきました。
今川氏や武田氏関連の文書類などの他、小川城の発掘調査記録や出土遺物展示が目を引きました。
珍しそうなところでは、文明の内訌の際に本中根(焼津市)に陣を張った太田道灌の愛馬の轡と伝わる品(個人蔵)なども展示されています。
また、学芸員の方には焼津市内の遺跡分布状況と、諸河川の流域や地形の変遷との関係性、古代の街道などについても教えていただきました。
この後は浜当目の虚空蔵山へ向かいます。
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