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2020年11月 2日 (月)

神奈川県で「毛利」めぐり

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神奈川県厚木市下古沢に祀られる三島神社。
その境内の一隅に・・・

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毛利氏発祥の地
毛利季光屋敷跡
の石碑が建てられています。

毛利季光は、源頼朝に仕えた鎌倉幕府の御家人で初代政所別当を務めた大江広元の四男。
父から相模国毛利庄を相続し、「毛利」姓を名乗りました。
承久の乱(承久3/1221年)では父と共に幕府方として活躍し、その功によって後に毛利氏の本拠となる安芸国吉田荘を与えられています。
しかし宝治元年(1247)、執権北条氏と三浦氏の対立(宝治合戦)が起きると、娘を執権・時頼に嫁がせていた季光は北条方に参じようとしますが、三浦氏の出であった妻の「三浦氏を見捨て、勢いのある北条氏の味方をすることは武士の義に反する」との一言で三浦方に転じ、敗れて息子らと共に自害して果てたと伝えられています。

季光の四男・経光は所領の一つ、越後国佐橋荘に赴いていたために乱には巻き込まれず、その子・時親が後に安芸国吉田荘に移り住みました。
これが、戦国期に西国の雄として名を馳せることになる毛利元就へと続く、安芸毛利氏の始まりとなったのです。

碑文によると土地の伝承や古地図・古い地名などから、三島神社を中心とした一画に季光の屋敷があったと考えられているため、ここに碑が建てられたようです。
実際、下古沢の南方には「毛利台」「南毛利」といった地名が今も残されています。

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お次は少し北へ移動し、峠を一つ越えた飯山に建つ光福寺へ。

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光福寺開基の隆寛律師は浄土宗の開祖・法然に師事した僧侶で、嘉禄3年(1227)の嘉禄の法難により、京から陸奥国(会津)へと流されることになります。その護送を務めたのが毛利季光でした。
隆寛に帰依した季光は隆寛の身を慮り、自らの所領である相模国飯山で匿うことにします。会津へは代わりに、隆寛の弟子の実成房が赴きました。
師と仰ぐ隆寛を迎え、その隆寛が開基した光福寺が飯山にあることから、季光の屋敷も飯山の、この光福寺近くにあったのではないかとする説もあるようです。
この付近一帯は当時から、飯山観音として名高い長谷寺の門前町としても栄えていたようです。

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光福寺に眠る隆寛律師の墓所。

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「毛利元就の祖ゆかりの寺」を謳った看板。
折角なので門前を抜けるこの道を西へ向かい、飯山観音にもお参りしていくことにします。

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飯山観音、飯上山長谷寺に到着。

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長谷寺は神亀2年(725)の行基による開創とも、弘仁年間(810~824)の空海による開創とも伝えられる、大変に歴史ある真言宗寺院です。

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嘉吉二年(1442)の年紀を有する銅鐘。県の重要文化財に指定されています。
刻銘には「毛利庄飯山の新長谷寺が嘉吉二年の春に火災により焼失したため、堂宇の再建に先立ち、人々の銅鐘鋳造への強い願いを受け、麓の金剛寺の住僧だった誾勝が寄付を募って同年四月五日に完成した」といった内容が記されているそうです。
・・・やはり、飯山も間違いなく「毛利庄」だったのですね。

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飯山観音から毛利庄を眺め渡す。

この地に起こった一族がやがて安芸国へと移り、300年の後に西国の雄として名を馳せ、織田信長とも対峙していく・・・。
改めて歴史の繋がりの不思議さ、奥深さを感じた一日でした。

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