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2020年12月

2020年12月31日 (木)

2020年の畑納め ~家庭菜園⑩~

■10月24日(182日目)

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畑Aで唯一残してあったピーマンもさすがに実の発育が悪く、もう育たなくなったので撤去することにしました。

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これで畑Aは今季終了です。
鉢植えの鷹の爪は、まだ小さな実がポツポツとついているので残していますが・・・もう収穫は難しいかもしれません。

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畑Bの平莢インゲン。
期待ほど育たなく、葉の状態も良くありません。

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まだいくつか莢はついていますが、花も咲かないので新たな莢は期待できないかも・・・。

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こちらは元気モリモリなブロッコリー。

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今か今かと待ち侘びておりますが、まだ蕾はつかないようです。
気長に待ちます。


■10月28日(186日目)

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まだ少し早いかな~とも思いましたが、平莢インゲンが地面に届いてしまっていたので収穫しました。

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鷹の爪・・・僅かではありますが、まだ実が少しずつ成長しているようです。


■10月31日(189日目)

この日は、全く実が育たなくなっていたオクラとお別れしました。
2mを遥かに超え、茎も太くなっていたので処理が大変でした…(;^_^A

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オクラが去った畑B。
ライムホルンも京みどりも実が育たなくなってきたし、平莢インゲンも成長が止まってしまいました。

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今後はブロッコリーに蕾がつくのを待ち侘びる日々になりそうです。


■11月14日(203日目)

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今季最後の収穫となる京みどり、平莢インゲン、そしてライムホルンを素揚げにしていただきました。


■11月15日(204日目)

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モリモリと葉をたくさん伸ばし、順調な成長を続けているブロッコリー。

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ついにこの日、蕾らしきものが出てきているのを確認しました!
いよいよですねぇ~♪


■11月22日(211日目)

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この日は最後に残った実を全て収穫し・・・

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ここまで大きく育っていたライムホルン、そして鷹の爪、平莢インゲンともお別れしました。
京みどりも、もう実はつけないのですが・・・最初の苦難があるので抜くに忍びなく…(;^_^A

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先週、頂花蕾を始めて確認したブロッコリー。
1週間でここまで大きく膨らみました。来週のうちには収穫できそうです。


■11月28日(217日目)

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さぁ、いよいよブロッコリーの収穫を迎えました。

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頂花蕾の直径は12㎝ほど。
まだ少し早いかな~とも思いましたが来週末では遅過ぎるだろうし、タイミングを逃したくはなかったので、この日になりました。

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今夜、みんなでいただくのが楽しみです♪

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既に多くの側花蕾も顔を出しています。
今後はこれらを順々に収穫していきつつ、葉も結構美味しいらしいので炒め物などに使って、少しずつ楽しんでいきたいと思います。

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さて、収穫したブロッコリー(頂花蕾)はシンプルに茹でて・・・

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鰹節をまぶして美味しくいただきました♪


■12月9日(228日目)

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頂花蕾を収穫して、早10日余りのブロッコリー。
予想に反して側花蕾の成長スピードが上がりません・・・。

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予想外と言えば、抜いてしまうに忍びなくて残してあった京みどり。
なんと、新たな花を咲かせていました・・・!?
もはや真冬とさえいえる12月・・・まさか実を収穫できるとは露ほども思っていませんが、それでもほっこり嬉しい驚きでした。


■12月12日(231日目)

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我が家のブロッコリー、実は先日頂花蕾を収穫したメインの茎の他にもう1本、写真右斜めにも茎が伸びてきているのですが、今度はそちらにも・・・

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頂花蕾がついているのを確認しました。
主茎に比べたらだいぶ細いですし、うまく育つのかは未知数ですが・・・。


■12月17日(236日目)

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前夜の極度な冷え込みで、朝起きてみるとブロッコリーがグターッとしな垂れていました。
日中の気温上昇で、持ち直してくれるといいのですが・・・。

なお、奥にチラッと見えている京みどりは、この後完全に枯れてしまいましたので撤去しました。


■12月19日(238日目)

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先日の冷え込みでグッタリとしていたブロッコリーですが、日中に気温が上がると持ち直してくれたので一安心。
冷え込み対策として、夜間はビニールを被せておくことにしました。

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お陰でなんとか今日も、元気に過ごしてくれています。


■12月31日(250日目)

さて、2020年もとうとう年の瀬を迎えました。
気がつけば春に家庭菜園を始めてから、ちょうど250日目にもあたります。

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我が家の家庭菜園で唯一残っているブロッコリー。
(プランターにはミントもいますが)

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側花蕾も・・・

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2本目の茎の頂花蕾もなかなか大きくならず、年内の収穫には間に合いませんでした。
この先、無事に育ってくれれば収穫して美味しくいただきますが、年を跨ぐことにもなりますので、今年の家庭菜園ブログはここで締めたいと思います。

2020年…本当に世界規模で大変な1年になってしまいました。
未だ感染は拡大の一途を辿っており、まだまだ先の見通せない日が続きますが、少しでも早く、希望の持てる日が来ることを祈っています。

春の緊急事態宣言による外出自粛から、何の気なしに携わるようになった家庭菜園。
1年前には、自分がこれほどまで畑仕事に携わるようになるとは、露ほども想像していませんでした。
しかし、育てた作物の日々のちょっとした成長や、天候・害虫などによる苦難、それを乗り越えた先に待つ収穫・・・そういった苦労や喜びを知れたことは、私にとっても少しはいい学びになったような気はします。
来年は、どこまで携わるかは未知数(ライフワークはあくまでも「歴旅」なので)ですが、機会があれば新たな作物にも挑戦してみたいと思います。


収穫履歴

10月19日
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平莢インゲンは、ちょっと期待外れだったなぁ・・・。

10月21日
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ライムホルンは本当によく頑張ってくれています。

10月24日
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ピーマンはこれが最後の収穫。
色も悪く、サイズも小ぶりなまま大きくなりませんでした。
京みどりも小さかったのですが、あまり発育が良くないので早めに収穫。

10月28日
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さすがのライムホルンも、実が少なくなってきました。

10月31日
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京みどりはこれが最後の収穫になるかも。
ライムホルン共々、もうサイズは大きくなりません。

11月3日
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残り僅かとなってきたライムホルン。
小ぶりでも、これ以上には育たなくなったので収穫。

11月7日
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京みどり・平莢インゲンは、これが最後の収穫。
ライムホルンもあと1~2回で終了かなぁ?

11月14日
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ライムホルンも、この後もう1回で終了となりました。

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2020年12月21日 (月)

出雲伊波比神社(毛呂大明神)

2020年12月20日、2年前に訪れた際には藪に覆われ、まともに見ることができなかった鎌倉街道の掘割遺構のリベンジのため、埼玉県毛呂山町を再訪しました。
参考記事(後半部分)

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その際、車を置かせていただいた毛呂山町歴史民俗資料館で令和2年度の後期企画展「戦乱の世の文化財」が開催されていたので、こちらもちょっと覗いてきました。

その中で、小田原の北条氏が「茂呂(毛呂)大明神」(出雲伊波比神社)に宛てた印判状(毛呂山町指定文化財「小田原北条氏の鐘證文」)の存在を知り、とても興味を惹かれたので実際に出雲伊波比神社を訪れてみることにしました。

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「毛呂大明神」出雲伊波比神社

北条氏の印判状は天正十六年(1588)正月五日付で、上方の豊臣政権の脅威が迫る中、来る戦に備えて梵鐘の供出を命じたものです。
世上が静謐になったら再び鋳造して寄進する旨を約した証文の体裁になっていますが、ご存知の通り北条家は2年後の天正18年(1590)の戦乱に敗れたため、梵鐘が寄進されることもありませんでした。

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出雲伊波比神社の本殿(国指定重要文化財)は、発見された棟札から大永8年(1528)に時の領主・毛呂顕繁によって再建されたことが判明しています。
毛呂顕繁は、山内上杉顕定と扇谷上杉朝良が争った永正元年(1504)の立河原合戦(現東京都立川市)にも、山内上杉方として参戦した人物でもあります。
この時、扇谷上杉方には北条早雲(伊勢盛時)や今川氏親の軍勢も援軍として参陣していました。

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毎年11月に行われる鏑流馬神事の馬場。
出雲伊波比神社の鏑流馬は、奥州平定に向かう源頼義・義家父子が当社で戦勝祈願を行い、その凱旋時の康平6年(1063)に再び参拝し、流鏑馬を奉納したのが始まりとされているそうです。

・・・偶然立ち寄った場所に、なんとも凄い歴史が眠っていたものです。

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2020年12月11日 (金)

旧東海道 袋井宿~掛川宿

遠江旅の2日目は袋井駅まで移動し、東海道53次中、27番目の「どまんなか」に当たる袋井宿へ。

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袋井宿から西、浜松までの行程は以前にも歩いているので、今回はここから東へ掛川まで歩いてみることにします。
写真左に見えているのは、袋井宿東本陣跡。

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袋井宿東の出入口に建つ東海道どまん中茶屋。
スタートしたばかりでしたが、美味しいお茶をいただいたので一服。
木から吊るされているヤカンは・・・

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歌川広重の「袋井」の絵を模しています。

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どまん中茶屋の先で旧東海道は少し消失(黒点線部分)していますが、迂回して先へ進むと・・・

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いい雰囲気で真っ直ぐに伸びていました。

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木造屋形造りの、新屋の秋葉山常夜灯。

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極端に道幅が狭まる旧東海道。

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この辺りでもやはり、一部区間で旧街道が消失しています。
案内では一旦、県道413号線の交差点に出て迂回するルートを紹介していましたが・・・

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先ほどの細い道から、車道を挟んで反対側にも歩道が続いていたので、そちらへ行ってみると・・・

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県道413号線沿いの店舗の裏側から、うまいこと迂回することができました。
写真右側の道路が旧東海道になります。

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旧東海道、久努の松並木。

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松並木はすぐに一旦途切れますが、この後もしばらくは断続的に続きます。

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油山寺道標
ここから北へ向かうと油山寺があります。

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久津部一里塚跡
江戸から60里目に当たります。

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さ、また松並木に入ります。

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富士浅間宮赤鳥居
富士浅間宮は、この鳥居が建つ旧東海道から北へ6~700mほどの場所にあります。
現在では建ち並ぶ工場や国道、東名高速に遮られて全く見えませんが、江戸時代には赤鳥居から社殿を見通すことができたそうです。

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街道の部分だけ一段高くなっています。
その昔は一帯に田畑が広がり、旧東海道は畦道(畷道)のようになっていたのかもしれません。

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松並木を抜けると、名栗の花茣蓙について書かれた大きな駕籠が置かれていました。
(どうやらゴミの収集庫らしいです)

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国道1号線と交差する地点にある、花茣蓙公園。
この先は一旦トンネルを潜り、国道に上がって同心橋を渡って原野谷川を越えます。

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同心橋を渡ると掛川市に入りました。

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同心橋を渡ったらすぐに国道を離れ、北東方向へ伸びていく旧東海道へ。

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間の宿原川を過ぎた辺りから、また松並木(原川~岡津間)が続きます。

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やはり松並木は、旧東海道歩きの醍醐味ですね。

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松並木を過ぎ、垂木川沿いを進む旧東海道。

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県道253号線を進み、国道1号線のガード下を潜った先の沢田IC南交差点は、左斜め前方へ。

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趣のある道が続きます。
高くそびえるのは、お酒の醸造所のもののようです。

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逆川の堤防近く。
所々に松の木が点在していました。

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大池一里塚跡の碑。
江戸から59里目になります。

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遠州浜名湖鉄道線の西掛川駅横のガード(写真)を潜り・・・

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県道415号線と交差する地点に架かる大池橋。

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歌川広重の「掛川」にも描かれた光景です。
秋葉山本宮秋葉神社へ通じる秋葉街道との追分でもあったので、橋の傍らには昭和の初め頃まで、大きな鳥居が建っていたそうです。

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大池橋を渡り、県道415号線を東へ。
写真の二瀬川交差点を右折。この辺りからいよいよ掛川宿に入ります。

※ここで嬉しいサプライズが。私は道中、折々にtweetを上げていたのですが、それを見た静岡県在住のフォロワーさんがお土産を持って待っていてくださいました。
その節はありがとうございました。

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こちらの二股は左へ。

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県道37号線を左へ。

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圓満寺に移築されている、掛川城の蕗の門。
三の丸辺りに建っていたようです。

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そして掛川城。
掛川宿から先、金谷宿までの区間は以前にも歩いているので、今回はここまでとします。

2日間合わせても30㎞も歩いていないはずですが、新型コロナの影響で長距離を歩くのも久しぶりだったので、とても疲れました。
感染拡大の第三波も来ているので、今後は少なくとも冬の間は遠出は自粛です。
春になったら今度こそ、今年の春に諦めた場所へどうしても行きたいので、少しは収まっていることを願って止みません。。。

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2020年12月10日 (木)

池田近道(姫街道)

今回は古道・旧街道歩きで静岡県西部、遠江への旅です。
まずはJR磐田駅で下車し、旧東海道をしばらく北上し・・・

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西光寺へ。
西光寺の表門は、徳川家康によって築かれた中泉御殿(天正~寛文期)の表門を移築したものと伝えられています。

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東福山西光寺
文永2年(1265)に真言宗の寺院として創建され、建治・弘安年間に一遍上人がこの地を訪れたことで時宗に改宗した歴史を持つ古刹です。
近年は縁結び・恋愛成就のパワースポットとしても人気なのだとか・・・(;^_^A

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本堂に祀られている日限地蔵尊(厨子の中)は、後水尾天皇の后・東福門院和子(徳川秀忠息女)の念持仏。
元和6年(1620)、入内のため江戸から京へと向かう途次、西光寺で休息した際に寄進されました。
山号の「東福山」も和子后に由来します。

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旧東海道、見付宿の西木戸付近。
江戸時代に整備された旧東海道はここで左に折れ、前出の中泉御殿のあった南の方へと向かい、天竜川の渡し場である池田までは大きく迂回する行程となりますが、旧東海道の整備以前は直進方向、池田へ直接向かう道がメインルートだったようです。

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旧東海道との分岐点に「これより姫街道」の案内(道標)が建っていますが、地元では「池田近道」とも呼ばれてきたようです。
南へ迂回する東海道に対して、直接池田へ向かう近道・・・確かに(笑)

天正10年(1582)4月、甲州征伐から安土への凱旋の途についた織田信長
そのルートは「信長公記」の記述を追う限り、現在の静岡県富士市辺りから先はほぼ旧東海道に沿って進んでいます。
そして4月16日、掛川を発った信長一行は見付を経由し、池田から天竜川を渡河しました。
この時はまだ、見付から南へ大きく迂回する旧東海道は整備されていませんので、信長一行が池田までの行程に利用したのも「池田近道」だったのではないかと思い、実際に歩いてみることにしました。

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池田近道の概略図
現在では大部分が消失(水色線)しているようなので、消失箇所は何となく方角を調整しながら通れる道を歩いてみます。

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池田近道に入ってすぐ、常夜灯の建つ二股。
ここは右へ進んで坂を上ります。

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坂を上った先から見付宿を見下ろす。
結構、急勾配な坂でした。

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右にかぶと塚公園を見ながら。
この先は行き止まりになりますので、一旦、県道413号線に出ます。

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磐田市一言の立体歩道橋のすぐ先で右斜め方向へ。

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ここは左の坂を下ります。
この坂こそ・・・

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有名な一言坂
元亀3年(1572)の三方原の戦いの前哨戦ともいえる、一言坂の戦いのあった場所です。
写真の碑は県道413号線沿いに建てられていますが、徳川×武田の両軍も通ったであろう池田近道は、奥に見える雑木林の方を通っています。

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本多平八郎忠勝が徳川軍の殿を務めて見事な武勇を発揮し、敵方の武田軍から;
家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八
と讃えられたのも、一言坂での戦いのことでした。

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池田近道沿いにも「一言坂戦跡」の案内板が建っています。

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坂を下ると、道路脇に池田近道の案内板がありました。
下ってきた車道を折り返すようにして、この未舗装の道に入っていくようです。

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一言坂の段丘の縁を添うようにして進みます。

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その段丘を見上げる。

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古道はこの先で消失しているようなので、ここは左へ折れ、豊田野球場の南側を西へ進みます。

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一つ目の交差点は斜め北西方向へ。

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更に、寺谷用水を跨ぐ交差点も斜め北西方向へ。

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智恩斎
山門は、すぐ南にあった皆川陣屋からの移築と伝わります。
そして、山門脇の小屋の中に・・・

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一言観音が祀られています。
一生に一度、一言だけ願いを叶えてくれるという観音様。
一言坂から敗走する徳川家康も、一言だけ願っていったと云います・・・「無事に逃げ切らせて!」とでも願ったのでしょうか?(;^_^A

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智恩斎から先も、池田近道は消失しています。
実際の古道は写真の右斜め前方へ伸びていたようなので、方向を調整しながら農道を歩きました。

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人っ子ひとりいない長閑な道をのんびりと・・・。

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森岡ICの下を潜って一つ目の交差点を左折すると、すぐにまた池田近道の案内があります。

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高い生垣は遠州のからっ風除けでしょうか。

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豊田上新屋ポケットパーク(左)の先で、池田近道はまた消失しています。
ここもやはり方角を調整しながら、写真の右斜め方向へ向かいます。

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豊田西保育園に行き当たった所で右折し、ずっと北上していくと・・・

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門前市通りに出ます。
ここを左折すると、いよいよ池田の渡しになるのですが、その前に・・・

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行興寺に立ち寄り。
平宗盛の寵愛を受けた熊野(ゆや)御前が母の菩提を弔うため、この地に庵を結んだのが始まりとされています。
池田に生まれた熊野御前は、遠江の国司だった平宗盛に見初められて上京しましたが、故郷の母の病を知ると、
いかにせん 都の春も 惜しけれど なれしあずまの 花やちるらん
と詠み、母を想う心に打たれた宗盛の許しを得て池田に戻りました。

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境内には熊野御前が生前に愛したと云う藤棚(熊野の長藤)が、本堂を取り囲むようにして広がっていました。

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こちらは国の天然記念物にも指定されている1本で、推定樹齢は850年とのこと。

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本堂横には熊野と母を供養する墓所もありました。

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さて、それでは池田の渡しへ向かいます。

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行興寺門前から門前市通りを西へ向かった突き当りが、池田の渡し跡になります。
水量などによって使い分けていた上・中・下3ヶ所の渡し場のうち、こちらは上の渡し跡。
(中の渡しは天白神社付近、下の渡しは「天龍川渡船場跡」の碑が建っている辺りにありました)

写真左手は池田の渡し歴史風景館。
渡し場の様子を伝える簡単な展示がありました。

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「池田橋の跡」碑。
明治に入ってから、ここには橋が架けられていたそうです。

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池田の渡し(上の渡し)から眺める天竜川。
織田信長も徳川家康が架けさせた舟橋で、ここを渡っていったのですね。

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私は新天竜川橋で渡河。
遠くに見える赤い橋の少し手前辺りが、先ほどまでいた上の渡しになります。

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天竜川を越えた後は、信長一行と同じように旧東海道を浜松宿まで歩きました。
※このルートは以前にも歩きましたので、詳細は省きます。

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松林禅寺の薬師堂。
徳川家光が命じて建立させたと伝わります。
2度の火災にも焼失を免れたのだそうです。

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本坂通(姫街道)安間起点。
東海道と姫街道の追分です。付近には江戸から64里目の安間一里塚もありました。

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遠くにアクトシティー浜松が見えてきました。
終盤は国道152号線沿いを歩くことになり、退屈な区間が疲労に追い打ちをかけました・・・(;^_^A

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そしてようやくのゴール地点、馬込橋手前、浜松宿東木戸門跡に到着。
午前11時に磐田駅を出発してから、およそ4時間の行程でした。

なお、早朝に掛川を出発した織田信長一行も天竜川を越え、その日は浜松に宿泊しています。
私も浜松に宿を取り、翌日は袋井から東へ旧東海道を歩くことにします。

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