出雲伊波比神社(毛呂大明神)
2020年12月20日、2年前に訪れた際には藪に覆われ、まともに見ることができなかった鎌倉街道の掘割遺構のリベンジのため、埼玉県毛呂山町を再訪しました。
→参考記事(後半部分)
その際、車を置かせていただいた毛呂山町歴史民俗資料館で令和2年度の後期企画展「戦乱の世の文化財」が開催されていたので、こちらもちょっと覗いてきました。
その中で、小田原の北条氏が「茂呂(毛呂)大明神」(出雲伊波比神社)に宛てた印判状(毛呂山町指定文化財「小田原北条氏の鐘證文」)の存在を知り、とても興味を惹かれたので実際に出雲伊波比神社を訪れてみることにしました。
「毛呂大明神」出雲伊波比神社
北条氏の印判状は天正十六年(1588)正月五日付で、上方の豊臣政権の脅威が迫る中、来る戦に備えて梵鐘の供出を命じたものです。
世上が静謐になったら再び鋳造して寄進する旨を約した証文の体裁になっていますが、ご存知の通り北条家は2年後の天正18年(1590)の戦乱に敗れたため、梵鐘が寄進されることもありませんでした。
出雲伊波比神社の本殿(国指定重要文化財)は、発見された棟札から大永8年(1528)に時の領主・毛呂顕繁によって再建されたことが判明しています。
毛呂顕繁は、山内上杉顕定と扇谷上杉朝良が争った永正元年(1504)の立河原合戦(現東京都立川市)にも、山内上杉方として参戦した人物でもあります。
この時、扇谷上杉方には北条早雲(伊勢盛時)や今川氏親の軍勢も援軍として参陣していました。
毎年11月に行われる鏑流馬神事の馬場。
出雲伊波比神社の鏑流馬は、奥州平定に向かう源頼義・義家父子が当社で戦勝祈願を行い、その凱旋時の康平6年(1063)に再び参拝し、流鏑馬を奉納したのが始まりとされているそうです。
・・・偶然立ち寄った場所に、なんとも凄い歴史が眠っていたものです。
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