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2021年1月

2021年1月 4日 (月)

首洗池と浅間の森

2021年最初の史跡めぐりは、神奈川県相模原市緑区寸沢嵐へ。

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まずは、国道412号線沿いにひっそりと佇む首洗池へ。

永禄12年(1569)10月、関東に侵攻した武田軍と、迎え撃つ北条軍との間で勃発した三増合戦
合戦後、信玄率いる武田軍は甲斐国へ引き上げる道中、「反畑」と呼ばれたこの地で討ち取った北条兵の首実検を行ったと伝えられています。
※今回の記事は三増合戦に関連した内容となりますので、下にご紹介する記事も併せてお読みいただけると幸いです。
三増合戦 (もののふ戦国バスツアー)

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この際、実検に供される北条兵の首を洗ったとされるのが、この首洗池です。

現地案内板には「実検後、首は浅間の森に塚を築いて埋葬された」とありましたので、その浅間の森にも行ってみます。

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首洗池のすぐ西の路地を南(やや南西)の方角へ。
結構な勾配の坂をひたすら登っていきます。

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国道412号線から400mほども進むと、帝京平成大学の薬用植物園のフェンス際に「浅間神社」の白い看板が立っています。
ここを左へ入り、フェンスに沿ってすぐに右へ曲がります。その先に・・・

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浅間の森があります・・・が、あまりの藪り具合に心が折れそうになりました(笑)
折角ここまで来たのだからと藪を掻き分け、フェンス際を30mほど進むと少しだけ藪が途切れ、左の浅間の森へ分け入れるポイントがありました。

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浅間の森の中には笹薮もなく、すぐに首塚の案内板が目につきました。

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首実検の後、武田軍によって築かれたと云う首塚

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首塚の上には浅間神社の石碑が建っています。
武田軍は塚を築いて首を葬った後、塚の上に祠を立てて供養したと伝えられ、これが、この地にいつの頃までか浅間神社が祀られていた始まりとなったそうです。

ところで、首洗池の説明板には「武田軍は反畑(首洗池周辺?)で首実検をした後に、浅間の森に埋葬した」と書かれていましたが、それだと武田軍は首実検をした後、埋葬のためだけ?に甲斐への帰路とは反対の方向へ引き返し、しかもわざわざ高台に登って首塚を築いたことになります。

同説明板によると、三増から引き上げてきた武田軍は「沼本の渡し」からと、「三ヶ木新宿」方面からとに分かれて道志川を渡ったのだそうです。
冒頭で紹介した三増合戦の記事で私は、道志川を渡った武田軍は上の山城を経由して「信玄森」で首実検を行った、といった趣旨のことを書きました。
この「信玄森」は地元の訛りなのか「せんげん森」と読む、とも書いていますが、信玄(武田軍)が築いた塚の上の祠が浅間神社になり、やがて「信玄」と「浅間」がない交ぜとなって伝えられた伝承だったのかもしれません。

そして地理や地形的な条件を考えると、南寄りの三ヶ木新宿から渡河した一隊が上の山城を経由して浅間の森に至り、北寄りの沼本からの一隊は首洗池で討ち取った首を清めた後に浅間の森の高台に登り、別動隊と合流して見晴らしの利く浅間の森(の高台)で首実検を行った、という流れ・状況だったのではないかと想像してみました。

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最後に・・・浅間の森付近から、武田軍が進んでいったであろう甲斐への方角。
(正面方向には甲州街道の与瀬宿があります)

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