楯の城
今回は東京都青梅市日向和田、JR青梅線の宮ノ平駅近くにある楯の城(館の城とも)へ。
一つ手前の青梅駅近くに車を置き、青梅街道を西へ歩いて向かうことにします。
青梅宿町年寄、旧稲葉家住宅の前を通過し・・・
裏宿、「義賊」としての伝説も伝えられる七兵衛が住んでいた場所と云う七兵衛公園前も通過。
(七兵衛は、二俣尾村の名主・谷合家の記録に元文4年(1739)、一味と共に捕らえられ、処刑されたことが残されているので、実在はした人物のようです)
楯の城の東面を深く削り込むようにして流れる沢。
水面は見えませんが、水の流れる音は聴こえていました。このまま近くを流れる多摩川まで流れ込んでいるようです。
その沢に架かる橋の欄干に「館」の文字が読めました。
「館橋」というようです。
青梅街道から見上げる楯の城。
数軒の住宅が建つ辺りも、従来は城域の一部だったようです。
宮ノ平駅の手前(東)で踏切を渡り、線路沿いの細い路地を少し上ります。
楯の城(の遺構)は、すぐ先に見えている一つ目の階段を左に上がり、山道を少し進んだ先になります。
楯の城の西面も、こうして深い谷になっていました。
青梅街道や、それと並行する多摩川に向かって駆け下ってきた山からの稜線の先端で、東西を守られるようにして沢と谷に挟まれた占地です。
山道に入って20mほども歩くと、目印となる赤錆びた看板が出てきます。
ここで山道を外れ、右手の踏み跡に入っていきます。すると・・・
見事な土塁や空堀が目に飛び込んできました。
奥には土橋も見えています。
土橋
右手は虎口になっています。
土橋を渡った虎口の先が、楯の城の主郭部になっていたようです。
今でも削平された痕跡は残っているようでしたが、藪々で詳しくは確認していません…(;^_^A
土橋上から西側の空堀を見た様子。
しっかりと「折れ」も確認できます。
反対に東側。
こちらは真っ直ぐ、そのまま先に見た沢まで落とされていたようです。
楯の城は「新編武蔵風土記稿」や「武蔵名勝図絵」などでは、田辺清右衛門なる人物が移り住んで構えた居館跡と伝えられているようです。
この田辺清右衛門、元は甲斐武田家の旧臣で、天正10年(1582)の主家滅亡後、武蔵国に逃れて北条氏照に仕えたことから日向和田の楯の沢に館を構え、移り住んだのだそうです。
そうなると時系列的にも、近くに居並ぶ辛垣城や桝形山城、勝沼城との関連は特に見出せないということになるでしょうか。
清右衛門の墓所は青梅市天ケ瀬の金剛寺にあり、墓誌によると明暦4年(1658)に72歳で没したようです。
金剛寺には彼の肖像画も伝えられているようですが、非公開とのことです。
楯の城からの移築と伝わる明白院の山門。
北条家の滅亡後、田辺氏は徳川家に仕えました。
こちらの山門は、清右衛門の孫の代の時に移築されたものと伝えられているようです。
楯の城、個人的には青梅街道を押さえる番所のようなイメージを抱いていましたが、少々意外な歴史を知ることになりました。
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