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2021年12月

2021年12月19日 (日)

振武軍が宿営した箱根ヶ崎

慶応4年(1868)、副頭取・天野八郎らとの対立から彰義隊を離れた渋沢成一郎らは田無に入り、同志を募って振武軍を結成しました(5月1日頃か)。
ここでしばらく、周辺の多摩地域の村々から惣代や名主に出頭を求め、軍用金の調達に勤しみます。連光寺村の惣代・忠右衛門もやはり呼び出しを受けて田無の振武軍本営へ出頭していますが、この忠右衛門とは富澤忠右衛門のことで、彼は新選組の面々とも親交のあった人物で、京に旅した際には近藤や土方、山南、沖田らから歓待を受けています。(「旅硯九重日記」/参考記事

そして5月12日、振武軍は田無から青梅街道を西へ向かい、箱根ヶ崎に陣替えしています。
これは田無では江戸に近く、新政府軍が動き出したら1日以内で襲撃されてしまう恐れがあったためとも云います。

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JR箱根ヶ崎駅から東へ150mほどで、八王子千人同心が日光勤番に利用していた日光街道(日光脇往還/以下「日光街道」と表記)に出ます。
眼前を南北に横切っている道路がそれで、奥へ続いている道は江戸街道(江戸道)です。
この日光街道と江戸街道が接する南側(写真右側)の角にはかつて、旅籠関屋(関谷家)がありました。

箱根ヶ崎に到着した振武軍は、この旅籠関屋や圓福寺などに宿営します。

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旅籠関屋跡
安政4年(1857)に作成された間取図によると、旅籠の建物は日光街道と江戸街道に面した敷地の北西寄りに建てられていました。
上の写真では手前が江戸街道なので、煉瓦の塀沿いに奥へ、日光街道にぶつかって塀が途切れる辺りにかけてとなります。

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日光街道を少し北上し、青梅街道との交差点。
奥へ続く道が青梅街道(田無方面)で、手前を横切るのが日光街道です。
角に明治5年創業という漢方薬店の素敵な建物がありました。
※往時の青梅街道・田無方面の日光街道との結節点は、もう1本南側の小道だったようです。そこから日光街道で少しクランクさせて、写真手前方向に青梅方面へと続いていました。

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青梅街道を少し西へ進むと・・・

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振武軍宿営地の一つ、圓福寺。
立派な山門に驚かされます。

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圓福寺本堂

箱根ヶ崎滞在中も軍用金調達のため、近郷の村々の名主らが呼び出しを受けていますが、新町村(青梅市)名主へも同様の廻状が出されています。
この新町村名主とは、こちらの記事でご紹介した吉野家のことでしょう。

5月15日、上野で戦争が始まったとの報を受け、成一郎らは急ぎ箱根ヶ崎を出発して青梅街道を東進します。
ところが高円寺あたりまで来た時(同日夜)、上野戦争の敗報に接して田無まで引き返しました(同16日)。
田無で彰義隊や臥龍隊の敗残兵らと合流し、一隊は所沢を経由して扇町屋から、もう一隊は箱根ヶ崎から飯能へと向かうことになりました。
成一郎ら振武軍は箱根ヶ崎を経由するルートをとり、旅籠関屋を本営として隊士らは圓福寺に宿営(同17日)、翌18日には慌ただしく出発して日光街道を北へ、扇町屋を経由してから飯能へ入っています。

私も少し、日光街道を北上してみました。

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残堀川に架かる大橋の欄干が不思議な形をしていました。
この橋の袂にはかつて、慶応元年(1865)創建の常夜燈が建っていたそうです。
ところが大正12年(1923)の関東大震災で倒壊してしまい、現在は修復して近くの狭山池公園に移設されています。

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日光街道の看板。

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更に北へと続く日光街道。
飯能へと向かう成一郎ら振武軍も行軍した道。。。

その後の飯能戦争については、以下の記事を。
飯能戦争の舞台
顏振峠と渋沢平九郎最期の地

折角なので、周辺をもう少し散策します。

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小高い丘の上に建つ狭山神社。
石段が修復中で通行不能なため、脇の坂道を上がっていくのですが・・・

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かなりの急勾配な上に枯れ葉がびっしりと積もり、とてもスリリングな参拝になりました…(;^_^A

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伊邪那岐尊・伊邪那美尊と共に、泉津事解男命・箱根大神・木花咲耶姫命・大山衹命・巌永姫命を祭ります。
創建年代は不明ですが、箱根大神は永承年間(1046-1053)、奥州征伐に向かう「八幡太郎」源義家が、この近くの筥の池(現在の狭山池)付近に宿陣した際に勧請したものと伝えられ、木花咲耶姫命・大山衹命・巌永姫命の三柱は源頼朝の命による勧請と考えられています。

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源義家が宿陣したと云う筥の池。

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大橋の袂に建っていた常夜燈もありました。
この常夜燈は、飯能へ向かう振武軍の行軍も目撃していたのですねぇ・・・。

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他にも馬頭観音や・・・

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蛇喰い次右衛門の石像なるものも。
案内板によると・・・

とある暑い日、治右衛門が筥の池で水浴びをしていると、小さな蛇が絡みついてきて離れなくなりました。
どうにか引き離そうと治右衛門が蛇に嚙みつくと、急に空模様が大荒れとなり、蛇も大蛇となって傷口からは血が七日七晩流れ続けたと云います。
蛇が退治されると池の水も枯れ始め、現在のような小さな池になりました。

・・・これは昔、筥の池の水を残堀川に流して玉川上水の助水にしたことで筥の池の規模が縮小し、且つ、その時の残堀川の流れが大蛇さながらのようであったことから、「蛇堀川」と呼ばれたことに由来する伝承と考えられています。

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狭山池公園から、狭山神社の建つ丘を見上げる。

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最後は瑞穂町郷土資料館にも立ち寄って、この日の歴史散策は終了。
週末も仕事で家に籠る日が多かったので、いい運動になりました。

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2021年12月 5日 (日)

「青天を衝け」めぐり in 深谷

今回は埼玉県深谷市へ、家族を連れての日帰りドライブ。
2021年度の大河ドラマ「青天を衝け」関係地をめぐります。まずは・・・

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深谷大河ドラマ館へ。

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栄一が幼少期から過ごした家を再現したセットや・・・

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出演者らのパネルなどが展示されています。
この2人の恋心と結末は切なかったですね・・・。

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人柄も素晴らしく、本当に立派で素敵な“とっさま”でした。

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ドラマで使用された小道具など。
千代に「浅ましい・・・」と一蹴された栄一の洋装写真(笑)や、栄一が千代に贈った懐剣など。

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パリ万博で驚嘆していたエレベーターも。

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左から尾高長七郎、渋沢てい、渋沢(尾高)平九郎の衣装。

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併設された物産館で、名産の深谷ネギも購入。

ドラマを欠かさず視聴しているので、結構楽しめました。

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ちなみに、大河ドラマ館の向かいには深谷城址公園があります。

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お次は旧渋沢邸、栄一の生誕地でもある血洗島の中の家へ。

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中の家と、この後に訪れる尾高惇忠生家は、3年前に訪れた際の記事と重複するため詳細は割愛します。
しかし、3年前にはいらっしゃらなかった栄一のアンドロイドにお会いできました。

※栄一が建立した平九郎の追悼碑の前で、ボランティアの高齢男性が団体客を前に力説していたのですが、
「“昌忠”というのは栄一の“青淵”、惇忠の“藍香”と同じで、平九郎の号!」
と大声で断言しているのを耳にした瞬間は、思い切りズッコケそうになりました・・・いくらボランティアとはいえ、少しは正しく勉強して(させて)からでないと・・・。

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尾高惇忠生家も3年前とは違い、ドラマの影響で多くの人が訪れていました。

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渋沢栄一記念館

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こちらも3年ぶりの再訪ですが、やはり渋沢栄一アンドロイドとは初対面となりました。

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最後に、大寄公民館脇に移築復元されている誠之堂へ。
大正5年(1916)、栄一の喜寿を記念して、彼が頭取を務めていた第一銀行の行員たちの出資により、第一銀行の保養施設であった清和園(東京都世田谷区瀬田)に建てられました。

※ところで、渋沢成一郎(喜作/栄一と同じ血洗島出身)は振武軍を率いた際、「大寄隼人」の変名を用いていますが、この地名に由来しているのかもしれません。
この地に「大寄村」が成立したのは明治22年(1889/1955年廃止)のことらしいのですが、それ以前から地域名のような形で存在していたとしたら・・・。
尾高惇忠も「榛沢新六郎」と、やはり現在の深谷市一帯に所在していた榛沢郡にちなんだものと思われる変名を用いています。

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煉瓦で「喜寿」と書かれています。

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誠之堂内部

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暖炉上の渋沢栄一レリーフ。

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説明や古写真にある通り、建設当初のレリーフは横向きだったそうです。

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ステンドグラスも印象的でした。

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誠之堂の横に移築されている清風亭も見学。

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清風亭は、やはり第一銀行であった佐々木勇之助の古希を記念して、誠之堂に並べて建てられました。
平成11年、誠之堂と共に、渋沢栄一ゆかりの地でもある深谷市に移築復元されました。

この後は道の駅おかべに立ち寄ってから帰路につきました。
(大河ドラマをご覧の方には、「岡部」の地名にも馴染みがあるはず!)

母も今年はずーっと「青天を衝け」を視聴しているので、楽しんでもらえたようです。
往復共に渋滞知らずで、よきドライブになりました。

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