扇町屋から飯能へ ~飯能戦争を辿る~
2022年最初の“歴旅”は、前回の記事から引き続き飯能戦争関連です。
電車とバスを乗り継ぎ、、、
こちらからスタート。
前回の記事でも触れましたが、慶応4年(1868)5月、上野戦争の敗報に接した振武軍ら旧幕府諸隊は、田無から二手に分かれて飯能を目指すことになります。
一隊は秩父甲州往還を所沢経由でここ扇町屋に入り、もう一隊は青梅街道で箱根ヶ崎まで引き返し、日光脇往還を北上して、やはり扇町屋を経由してから飯能入りしました(5月18日)。
また、その追討に向かう新政府軍本隊も同月22日に振武軍らの去った扇町屋へ入り、大村・佐土原・備前の各藩からなる部隊は秩父甲州往還を進み、野田村を経由して飯能へ向かうことを決し、翌23日未明に扇町屋を発しています。
今回はそのルートを辿って、私も扇町屋から飯能を目指して歩いてみます。
青梅道(右)が日光脇往還に合流する地点。
そこに・・・
扇町屋上町の道標があります。
子育地蔵は元禄5年(1692)の銘をもち、
右 おう免みち
左 八王じみち
と彫られているそうです。
左の馬頭観音は文政3年(1820)のものでやはり道標を兼ね、右の石柱型の道標には安政3年(1856)の銘がありました。
日光脇往還を北へ進んでいくと、風情のある建物も残っていました。
割烹扇屋さんは、幕末頃には旅籠を営まれていたとか。
飯能戦争に関わった両陣営の兵卒たちも、きっと利用したことでしょう。
飯能戦争当日の5月23日、振武軍の一隊が扇町屋の新政府軍襲撃を企てましたが、いざ到着してみると旅籠の軒先に名が掲げられているだけで、既にもぬけの殻であったと云います。(高岡槍太郎戊辰日記)
よ~く町並を見てみると、建物が道路と正対せずに少しずつ斜めにズレ、ギザギザに並んでいました。
日光脇往還は左斜め方向へ。
この分岐点の脇には・・・
下町の道標(道祖神)
日光脇往還と、川越へ向かう道を標しています(「日こう」の文字も確認できました)。
こちらには享和2年(1802)の銘がありました。
ところで、扇町屋の外れ(豊岡高校北隅)には彰義隊遭難者の碑がたてられています。
説明板によると慶応4年(1868)3月29日、軍資金調達のために扇町屋へやって来た彰義隊士13名が、村人によって殺害されるという事件があったのだそうです。
大正10年(1921)、当地を訪れた元幹部隊士・本多晋(敏三郎)によって建碑されました。
さて、日光脇往還に戻って少し進むと、趣のある立派な建物が見えてきました。
黒須村名主・繁田家(本家)の長屋門と、繁田醤油(分家)です。
細い道を挟んだ左側には、繁田満義が設立に携わった旧黒須銀行(現りそな銀行)の古い建物も残っています・・・ほとんど写っていないけど(;^_^A
明治32年(1899)、飯能戦争で命を落とした渋沢平九郎の慰霊のため、飯能や越生を訪れた渋沢栄一は道中、この繁田家にも立ち寄りました。
そうした縁もあってのことでしょう、彼は黒須銀行設立時の顧問にも名を連ねています。
※旧黒須銀行については、コチラの記事参照。
ここで日光脇往還を離れ、繁田醤油と旧黒須銀行の間の小路を進むことにします。
旧道の雰囲気を残す道をしばらく進み、入間川の河原が近づいてきたところで、河原に下りられそうなポイントがありました。
(民家の途切れた右側)
目印は、こちらのお地蔵様。
下りた先が・・・黒須村と笹井村を渡していた笹井の渡し跡です。
勿論、現在は渡ることができませんので、私は近くの豊水橋(日光脇往還根岸の渡し辺り)へ迂回しました。
笹井の渡しを笹井村側へ渡河したポイントから。
佐土原・大村・備前の緒隊、及び双柳から中山方面へ向かう福岡や久留米の藩兵らも、きっとここから上陸したことでしょう。
上陸地点には水天宮が祭られていました。
秩父甲州往還はこの先、しばらくは入間川に沿うようにして西へ進みます。
渡し跡から7~8分ほども歩いたでしょうか、路傍には水神宮と・・・
御嶽神社が祭られていました。
神社の前には、旧道の痕跡らしき砂利道もありましたが、私有地に入ってしまいそうでしたので追跡は断念しました。
新政府軍が入間川を越えて300mほど進んだところで、旧幕府方との最初の接触があったと云います(23日未明)。
その詳細な場所はわかりませんが、距離的にはこの辺りになりますでしょうか。
最初の遭遇の後、振武軍らは畑のそばの藪中から発砲してきたそうですが、実際にこのすぐ先には今も畑が広がっていました。
笹井での戦闘で旧幕府方を撃退した新政府軍(先陣は佐土原藩)でしたが深追いはせず、夜の明けるのを待って進軍を再開しました。
先ほどの砂利道はここに繋がっていたのかな?
進軍する大村・佐土原・備前勢が野田村の外れまで差し掛かった時、再び旧幕府方から銃撃を受けました。
そこで新政府軍は開けた野原のような場所に出て散兵し、林や藪に潜む旧幕府方を撃退したと云います。
・・・なんとなく、それを彷彿とさせる光景に出くわしました。
旧幕府方が潜んでいた(かもしれない?)藪を抜けて更に進みます。
野田山王塚石造物群
庚申塔や馬頭観音が集められており、最古のものは寛文8年(1668)になるそうです。
この場所で振武軍や、新政府軍らの動きを目撃していたのでしょうか。
秩父甲州往還の旧道らしき道を進む。
この辺りは交通量も多く、歩道がなかったのでかなりスリリングでした。
道中にあった白髭神社にもお参り。
この後、八高線や西武線の線路を超え、いよいよ飯能の中心部へ入っていきます。
飯能の高札場跡。
この辺り一帯も、飯能戦争の兵火で焼けているようです。
高札場跡付近に建つ、明治7年創業の吉田屋呉服店。
その前に明治16年の軍事演習の際、視察に訪れた明治天皇の御座所になったことを示すプレートも掲げられていました。
天皇は能仁寺裏の羅漢山にも登って演習を視察されています。それ以降、山は天覧山と呼ばれるようになりました。
店蔵絹甚の重厚な佇まい。
明治37年(1904)の建築。
野村庄三郎を頭とする振武軍隊士40名ほどが滞在していた広渡寺。
戦争で本堂や庫裡を焼失しています。
眞能村名主・双木家跡付近。
「23日朝、戦闘がいよいよ飯能の町へ迫ってきたので逃げる支度をしていると、大砲の玉や小銃の銃弾が茶の間に落ちてきて恐怖した。(中略)終戦後、家に戻ってみたら大砲の玉が2つ、銃弾はたくさん転がっていた」
といった内容の証言を、時の当主・双木利八郎が拾った大砲玉を収めた箱(大炮玉箱)の箱書に残しています。
ところで、飯能の町中に「双木利一」という人物の胸像がありました。
詳しく調べはついていないのですが、おそらく利八郎の孫(養子の子息)にあたる人物かと思われます。
本来であれば、久しぶりに能仁寺までお詣りしたいところでしたが、久しぶりの長距離ウォークで足が悲鳴を上げており、付け根の辺りに激痛レベルの痛みを覚えていたので断念いたしました。
コロナ禍で体も相当なまっている模様・・・早く何の気兼ねもなく出かけられる日々を取り戻したいものです。
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