鳥羽山城、二俣城…浜松で史跡めぐり③
浜松史跡めぐりの旅、ラストは鳥羽山城と二俣城です。
二俣城は永禄12年(1569)以降、遠江を制した徳川家の配下にありましたが、元亀3年(1572)10月、徳川領へ侵攻した甲斐武田軍の攻撃を受けて落城します。
武田信玄の死後も二俣城の帰趨をめぐり、武田×徳川間の攻防は続きました。
そして、天正3年(1575)5月の長篠設楽原合戦で勝利した家康は、鳥羽山城を拠点に攻勢を強め、同年12月、遂に二俣城は再び徳川家の手に帰しました。
鳥羽山城図
鳥羽山城大手門
本丸
本丸内の枯山水庭園遺構。
東門
東門を抜け、北の丸から二俣城方面を眺める。
本丸東面(外側)の石垣。
天正18年(1590)の小田原征伐後に徳川家は関東に移封され、浜松には堀尾氏が入封します。
こうした石垣は(二俣城のものも含め)、その堀尾氏時代に構築されたものと最近では考えられているようです。
或いは、先ほど見た庭園遺構なども同様なのかもしれません。
図のA部分の堀切。
続いて二俣城の麓、清瀧寺へ。
※清瀧寺、及び二俣城は2019年に続く再訪になりますので、コチラの記事と重複する部分は省略します。
松平(徳川)信康の廟所。
前回訪れた際には見落としていたのですが、廟所へと続く参道の脇には信康に殉じた吉良初之丞、二俣城主も歴任した大久保忠世、三方ヶ原で戦死した中根正照・青木吉継らのお墓(供養塔か)もありました。
二俣城図
二の丸、稲荷神社脇の土塁上から蔵屋敷を見下ろす。間には堀跡も。
先ほど見下ろした、二の丸と蔵屋敷間の堀跡。
蔵屋敷先端部分の、石垣を伴う土塁。
案の定、蔵屋敷と南曲輪の間にも堀切がありました。
この先は藪がきつく、陽も落ちてきましたので切り上げます。
実に久しぶりの遠征となりましたが、やはり歴史に触れる旅は楽しいですね。
これからも感染予防を心掛けつつ、少しずつ「歴旅」な日々を取り戻していきたいと思います。
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