引間(曳馬)城、犀ヶ崖、他…浜松で史跡めぐり①
1年4ヶ月ぶりの遠征は、静岡県浜松市の史跡をめぐる旅です。
…その1年4ヶ月前も池田近道や旧東海道をめぐり、浜松に宿泊していましたが(笑)
本当は最初にお寺さんを2ヶ所ほど訪れたのですが、それは別の機会にテーマを立てて記事にまとめることとして、今回はその後に立ち寄った浜松城から記事をスタートします。
天守台地階の石組み井戸。
浜松城には何度も訪れているのに、天守内部には初めて入りました。
浜松城公園の東隣り、元城町の東照宮。
引間(曳馬)城跡でもあります。
曳馬城跡碑
遠江を制した徳川家康が自らの新たな居城として浜松城を築き、引間城もその一部として取り込まれました。
目立った遺構は残りませんが、周辺の地形には興味を惹かれました。
東照宮境内の東西共にグッと落ち込んでいましたし、鳥居の先(南)もやはり堀、或いは切岸のように落ちています。
境内には、徳川家康と少年・秀吉の銅像も。
お次は犀ヶ崖資料館へ。
犀ヶ崖の石碑。
犀ヶ崖
元亀3年12月22日(1573年1月25日)、三方ヶ原での戦いに敗れて浜松城へ撤退した徳川家康は夜、この犀ヶ崖付近に宿営していた武田軍の陣を急襲し、地理不案内もあって混乱する武田の兵が崖から転落し、多くの死傷者を出したという伝承で知られています。
犀ヶ崖は浜松城の北西、僅かに1㎞ほどの距離。
この付近に布陣していたと云う武田の兵たちは、浜松城に撤退した徳川軍に対する“押さえ”として配備された部隊だったのでしょうか。
本多肥後守忠真顕彰碑
後に徳川四天王にも数えられる本多平八郎忠勝の叔父である本多忠真は、三方ヶ原から撤退する徳川軍の殿を務め、道の左右に旗指物を突き立てて「この先へは一歩も引かぬ」と言って迫り来る武田軍に立ち向かい、見事な討死を遂げたと伝えられます。
その顕彰碑の裏には、ひっそりと旗立ての松跡の札が立っていましたが・・・詳しい関連は把握できておりません。
犀ヶ崖の至近には、やはり三方ヶ原合戦で家康の身代わりとなって戦死した、夏目次郎左衛門吉信の碑もあります。
※三方ヶ原の古戦場関連につきましては、コチラの記事をご参照ください。
この後は三ケ日方面へ向かい、猪鼻湖畔の佐久城を目指します。
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