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2022年8月

2022年8月11日 (木)

岩津城、他

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前記事でご紹介した満性寺を辞した後は、岡崎城をぶらぶら散策して、、、

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9年ぶりとなる大樹寺へ移動し、松平氏歴代や徳川将軍14代のご位牌を拝観、松平氏歴代の墓所も参拝しました。

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岡崎公園の「三河武士のやかた家康館」に展示されていた書状などでその名をよく見かけたので、滝山寺にも足を延ばしました。

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滝山東照宮

滝山寺宝物殿では、源頼朝の歯と遺髪(顎鬚?)を胎内に納めたと云う聖観音菩薩立像も拝観いたしました。

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旅の最後は、三河松平氏の嫡流・岩津松平氏ゆかりの岩津城へ。

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主郭へと続く土橋。

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主郭下の横堀。

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主郭

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主郭の一段下、腰郭状の平場に残る枡形。

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主郭の土塁上に建つ城址碑。

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主郭土塁上から土橋方向。

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主郭側から、土橋越しに馬出方向。

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櫓台

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櫓台上から、馬出の土塁を見下ろす。

岩津松平氏は松平氏2代・泰親を祖とします。
3代・信光の頃までは勢力を張っていたものの、次代に及んで駿河今川氏の侵攻を受けて岩津城は落城し、岩津松平氏も衰退します。
その結果、安城に分立していた親忠の安城松平氏が惣領化したため、親忠を松平氏宗家の4代として、後の徳川家康へと繋がっていきます。
いずれも大樹寺に納められたご位牌や、歴代墓所にその名が見えます。

なお、岩津城には天正12年(1584)の小牧長久手合戦の際、徳川家康による改修の手が入っているそうです。

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2022年8月10日 (水)

近衛龍山(前久)の浜松下向

天正10年(1582)6月2日に勃発した本能寺の変織田信長が亡くなると、信長と親交のあった近衛前久は出家して龍山と号します。
佞人讒訴の企てによって秀吉の嫌疑を受けた龍山は嵯峨て逼塞し、やがては京を離れ、徳川家康を頼って浜松へ向かいました。
茶色字部分は石谷光政・頼辰宛 近衛前久書状より抜粋引用

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東岡崎駅からもほど近い、乙川ほとりの満性寺
毎年8月7~8日の2日間、虫干しを兼ねた宝物展示が行われることを知り訪れてみました。

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龍山は天正10年11月7日付で、浜松へ忍びで下向することになったことを伝え、その道中の宿所提供を依頼する書状(上写真)をこの満性寺宛に発しています。

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後に紹介する同月13日付の書状により、龍山は11月12~13日頃に浜松へ到着したことが知れるので、満性寺に宿泊したのは11月10日前後のことと推定されています。

龍山はこの年、甲斐武田家を滅ぼした甲州征伐に参陣しており、4月には信長の凱旋旅にも同行して岡崎を通行した際にか、彼は過去にも満性寺に立ち寄ったことがあったようです。
11月7日付の書状には、その折に交わした雑談などを忘れ難く思っていること、その後にも満性寺から便り(書札)をもらったことなども書かれており、それに続けて;

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(聖徳)太子の次第を信長にもつぶさ(具)に伝え、内々に聴聞に訪れてみようと話していたところに不慮の儀(本能寺の変)が発生して叶わなくなり、是非もない。
といったことも記されています(上写真部分)。

満性寺では聖徳太子が篤く信仰されてきたようで;

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聖徳太子2歳の時の姿と云う「南無仏太子像」(左/鎌倉期)や「聖徳太子講讃孝養図」(右/天正6年頃)、

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「聖徳太子立像」(童形執笏太子像/江戸期)など、聖徳太子にまつわる品々が多く伝えられています。

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また、本堂脇に建つ太子堂にも・・・

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やはり聖徳太子が祀られています。

龍山は浜松への道中、満性寺に宿泊した際には実際に目にした(江戸期作の聖徳太子立像は別として)ことでしょうし、本能寺の変が起こらなければ織田信長も龍山と一緒に訪れて目にしたかもしれない貴重な品々です。

近衛家と満性寺の関係はその後も続いたようで、満性寺には他に;

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近衛前久(龍山)の「詠十首和歌」

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近衛信尹(前久息)の書簡

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近衛家から拝領の品々なども残されていました。

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また、太子堂には歴代徳川将軍のご位牌も安置され、酒井忠次からの書状や寄進状なども展示されていました。
その他にも数多くの寺宝が本堂や庫裏に展示されていましたが、とても一挙にご紹介しきれるものではありませんので割愛します。

ところ変わって・・・

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浜松城の西に位置する西来院

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近衛龍山は浜松到着後、11月13日付で岡崎の満性寺に一宿の馳走を謝した書状を出しています。
その文中で徳川家臣・石川家成の手配により、この西来院入ったことを伝えています。

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西来院には、西方僅か2㎞ほどの佐鳴湖畔で殺害された築山殿(徳川家康正室)の廟所「月窟廟」や・・・

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家康の異父弟・松平康俊の墓所もありました。

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JR浜松駅の南1㎞ほど、龍禅寺仁王門跡。最盛期には、この辺りも龍禅寺境内の一角に含まれていたのでしょう。
奥には大きな松の木が見えています。

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龍禅寺のクロマツ。
第2次大戦の戦火を免れ、市の保存樹に指定された平成7年の段階で、既に樹高が27mもあったといいます。

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龍禅寺山門

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龍禅寺境内

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金光院龍禅密寺の額

西来院に逗留後、龍山はここ龍禅寺に移り、金光院の北の亭に滞在したと云います。
この亭は後に、龍山公の亭とも称されたとか。

その正確な位置はわかりませんが、境内に建つ松永蝸堂の句碑の説明板に気になる記述がありました。

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元亀年間は後水尾天皇の曽祖父・正親町天皇の時代で、後水尾天皇はまだお生まれにもなっていません。
そればかりか、近衛前久が龍山と号したのは既述の通り、天正10年6月2日の本能寺の変後のことですし、徳川和子の入内は龍山没後(慶長17年=1612)の元和6年(1620)のこと。
いろいろなことが全く史実に反しています。きっと、天正10~11年にかけて龍山が滞在した折のことが、その他の諸々と混同して伝えられてきたのではないかと推察します。

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近衛龍山が滞在していた亭の跡地だという、松永蝸堂の句碑(中央)

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龍禅寺の梵鐘
文化11年(1814)の鋳造。第2次大戦時に供出されましたが、戦後、無事に還元されたそうです。

天正11年(1583)6月2日、龍山はここ龍禅寺で織田信長の一周忌追善供養を執り行い、南無阿弥陀仏[な・む・あ・み・だ(た)・ぶ(ふ)]の六字名号を冠した追善の歌を詠んだと云います。
彼は5年後の天正16年(1588)、京の報恩寺に奉納された織田信長肖像画の賛にも、同様の歌を詠んでいます。

徳川家康の取り成しもあって天正11年9月、龍山はおよそ10か月ぶりの帰京を果たしました。


※参考図書
「流浪の戦国貴族 近衛前久」谷口研語(中公新書)

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2022年8月 9日 (火)

旧東海道、御油宿~藤川宿

2022年8月6~7日は、愛知県岡崎市方面への旅。
まず初日は新幹線を豊橋駅で降り、名鉄線に乗り換えて御油駅へ。
御油宿をスタート地点とし、旧東海道を藤川宿まで歩きます。

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御油宿、江戸方の入り口となる音羽川と御油橋。

四月十八日、吉田川乗りこさせられ、五位にて御茶屋美々しく立て置かれ、面入口に結構に橋を懸けさせ、御風呂新しく立てられ、珍物を調へ、一献進上。大形ならぬ御馳走なり。
(信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」より)

天正10年(1582)、甲州征伐からの凱旋の途にある織田信長は、4月18日、吉田城下を出発し、その日は知立(池鯉鮒)まで進んでいます。
その道中、御油(五位)に差し掛かると御茶屋が美しく建てられており、表()の入口には結構な橋が架けられ、お風呂も新しく用意されて盛大なもてなしを受けています。
信長一行のために表の入口に架けられた結構な橋・・・きっと、旧東海道が通るこの御油橋辺りに架けられていたのではないでしょうか。

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御油橋を渡り、旧東海道歩きをスタートします。

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東林寺

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東林寺には、飯盛女のお墓が建ちます。
ある晩、飯盛女4人が示し合わせて旅籠を抜け出し、世を儚んで入水自殺してしまいました。
これを哀れんだ旅籠の主人や東林寺の住職らが供養のため、これらのお墓を建てたのだと云います。
なお墓石は5基ありますが、残りの1基については詳細を把握できておりません。

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御油宿は江戸から35番目の宿場で、次の赤坂宿とは僅かに1.7㎞ほどしか離れておらず、東海道の宿駅間では最も短かくなっていました。
飯盛女のエピソードが示す通り、御油と赤坂は歓楽的な宿場としても知られていたようです。

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御油宿を抜けると、国の天然記念物にも指定される御油の松並木が続きます。
これは見事。

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松並木を抜けると、そこはもう赤坂宿。
写真のすぐ先、路面の色が少し変わっている辺りが東見附跡になります。
しかし、東見附は寛政8年(1796)、更に先へ150mほど進んだ・・・

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こちらの関川神社の前に移されたそうです。

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大橋屋(旧旅籠鯉屋)
文化6年(1809)の赤坂宿大火以降に建てられたと考えられており、江戸時代には鯉屋を屋号とする旅籠が営まれました。
その後、所有者の変更もあって屋号を大橋屋と変え、なんと平成27年まで旅館として営業されていました。

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鯉屋に再現された、歌川広重の東海道五十三次「赤阪 旅舎招婦ノ図」に描かれた蘇鉄と石燈籠。

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地面には、失われた建物部分の間取りが平面展示されています。

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なお、近くの浄泉寺境内に、広重が描いた蘇鉄と伝わるものが移植されています。
明治20年頃、道路の拡張工事に伴って移されたそうです。

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大橋屋を辞し、しばらく進むと景色が一変してきました。
写真は岩略寺城跡辺りを写しています。

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正面の標識が示す通り、豊川市の長沢町という地名になるのですが・・・

本坂、長沢、皆道、山中にて、惣別石高なり。今度金棒を持ちて岩をつき砕かせ、石を取り退け、平らに申し付けられ、
(同)

この辺りの街道は「山中」で石や岩がゴロゴロしていたものを、信長一行の通行のために金棒でそれらを打ち砕き、取り除いて平らに整備させたと云います。
実際に東海道を歩いてみると、確かに山深い景観ではあるものの、通行する場所は山間といった風情です。

信長の凱旋旅を追って静岡県の丸子城周辺を訪れた際も;

山中路次通りまりこの川端に山城を拵へ、ふせぎの城あり。
(同)

という信長公記の表現に惑わされましたが、太田牛一(或いは当時の人々)は「山の中」でなくとも、山間のことも「山中」と表現していたのかもしれません。
コチラの記事、4月14日の項参照。

或いは近世以前、中世の主要道でもある鎌倉街道は、上の写真に写る山の中腹を通っていたとのこと。
・・・織田信長らが通行したのは、果たしていずれの道であったのか?

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こういう風情のある旧街道歩きは、本当に飽きることがないのですが・・・

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「関屋」という信号の少し先で、国道1号に合流しました。
ここから暫くは、退屈な国道歩きが続きます。

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岡崎市域に入ったところで本宿に到着です。

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赤坂宿と藤川宿の中間に位置する本宿村は、徳川家康手習いの寺としても知られる法蔵寺の門前を中心に発展しました。

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法蔵寺
個人的には、9年ぶりの再訪となりました。

爰に山中の宝蔵寺、御茶屋、面に結構に構へて、寺僧、喝食、老若罷り出で、御礼申さるる。
(同)

ここでいう「山中」は、本宿が所在する山中郷を指しています。
門前のこの辺りに、信長のための御茶屋が築かれたのでしょうか。

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再び国道1号に合流する手前にも、松並木がありました。

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既に結構な疲労を感じていましたが、信長たちが向かった池鯉鮒(知立)は、国道1号でまだ25㎞も先。
しかも彼らの出発地は吉田で、私の御油よりも遠い・・・昔の人は凄かった(笑)

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また旧道が復活するポイント。

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名鉄の線路沿いを進みます。

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結構アップダウンのある行程を道なりに進み、国道1号への合流地点手前で再び松並木。

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山中八幡宮
なかなか興味深い歴史もありそうでしたが、どれくらい登るのかわからず、体力の残量も少なかったので参拝は断念。

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道の駅藤川宿まで1㎞の看板があるポイントで、国道を左へ逸れます。
すぐ先で・・・

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歌川広重の東海道五十三次「藤川 棒鼻ノ図」に描かれた藤川宿東棒鼻(見附)に到着です。

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こちらが広重の東海道五十三次「藤川 棒鼻ノ図」

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藤川宿の町並み。

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宿場内も結構距離がありました。

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藤川宿脇本陣跡に建つ藤川宿資料館。
門は脇本陣の現存だそうです。

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藤川宿、西の棒鼻。
このすぐ近くに駅がありますので、今回の歩き旅はここまでといたします。

心配した暑さもこの日だけは若干和らぎ、絶好のコンディションに恵まれて完歩することができ、大満足です。

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