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2022年10月

2022年10月30日 (日)

アキシマクジラ出土地と多摩川の牛群地形

本日は多摩川の河川敷(昭島市側)へお出かけ。
まずは・・・

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JR八高線が多摩川を超える鉄橋の、すぐ下流側へ。
この一帯がアキシマクジラの出土地となります。

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アキシマクジラは昭和36年(1961)8月20日、ほぼ完全な骨格で化石が発見されました。
発掘された地層から、およそ200万年前頃に生息していたものと考えられています。
それから57年後の平成30年(2018)1月1日、学会誌に「これまで世界で発見されたことのないヒゲクジラ属の新種」として発表され、「エシュクリクティウス アキシマエンシス」という学名が命名されました。

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そんな訳で、昭島市のマンホールにも鯨がデザインされています。

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また、アキシマクジラに関する説明板の前には、2対の鉄道車輪が設置されています。

昭和20年(1945)8月24日、終戦の僅か9日後にあたるこの日、八高線小宮~拝島間の多摩川に架かる鉄橋上、つまりは冒頭写真の場所で上下線の列車が正面衝突し、少なくとも105名もの尊い命が犠牲になりました。(八高線は今でも全線が単線)
犠牲者の多くは終戦に伴って故郷へ向かっていた復員兵や、疎開先からの帰省客だったと云います。なんとも痛ましい事故です。。。
2対の車輪は鉄橋付近から発見され、この時の事故車両のものと考えられています。

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八高線の鉄橋から1㎞少々下流へ向かった先に残る、多摩川の牛群地形
1950年代の砂礫大量採取により、160~200万年近く前の地層(上総層群の一部)が露出し、洪水などによって削られたできた地形なのだそうです。

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こうした形状が牛やクジラの群れのようにも見えることから、牛群地形と名付けられました。
八高線の鉄橋付近は、河川改修工事によって牛群地形が失われていますが、先程のアキシマクジラも同様の地層から発見されたそうです。

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対岸にはトンネルのようになっている箇所も。

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以前から一度来てみたいと思っていたので、天候にも恵まれて良き散策となりました。
途中マムシに遭遇し、気づくのが遅れて危うく踏みそうになったこともありましたが・・・(;・∀・)


■11月5日追記

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折角なので昭島市の教育福祉総合センター「アキシマエンシス」へ、アキシマクジラの全身骨格レプリカを観に行ってきました。

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下から・・・入りきらない(笑)

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化石の実物も一部、展示されていました。

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2022年10月14日 (金)

京都旅、その他の諸々。。。

先日の京都への旅、既に記事にしてご紹介した場所以外にもちらほらと立ち寄っていますので、今回はそれらを簡単にまとめてみます。

吉田神社や宗忠神社への参拝後、次の目的地へと向かう道すがら、京都御苑の中を通過させていただいたので・・・

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凝華洞、通称「御花畑」跡へ。
江戸前期、後西天皇(在位1655-1663)の仙洞御所が置かれました。
御花畑と呼ばれた由来については不明ですが、後西天皇が「花町宮」「花町殿」などと呼ばれていたことに関係があるのでしょうか。
奥に見えているのは御所の建礼門です。

文久3年(1863)の八月一八日の政変では、その後に新選組となる壬生浪士組が守備についたことでも知られます。
翌元治元(1864)年6月には、前年の政変で京を逐われた長州の兵が襲来する恐れがあるとのことで、勅命を受けて参内した京都守護職・松平容保の仮本営にも充てられました。
禁門の変(蛤御門の変)が勃発するのは、その翌月のことです。

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蛤御門

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蛤御門に残る銃弾痕。

ところ変わって・・・

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旧二條城跡の碑。
永禄12年(1569)、織田信長が足利義昭のために築かせた二条御所の跡地を示す石碑です。
これまでなんとなくタイミングが合わないまま、今回の初訪となりました。

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近年の発掘成果で細かいアップデートはあるでしょうが、おおまかな推定範囲。
この中のいずれかに、信長が曳かせた藤戸石も据えられていたのですね。

直前まで京都御苑にいたのだし、折角なら御苑内に復元されている二条御所の出土石垣も観ておけばよかったのですが・・・この時は全く頭に浮かびませんでした。

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旅の2日目には、京都文化博物館で開催されている新選組展2022にも足を運びました。
これまでに地元の日野や多摩、各地の博物館等で目にしてきたものも多く、各々個別に記事にもしてきましたので省略しますが、いずれは北海道へ観に行きたいと思っていた永倉新八の陣羽織を拝観できたのは良かったと思います。

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2022年10月13日 (木)

「こぬか薬師」を拝観

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医徳山薬師院
毎年10月8日の1日だけ行われる、御本尊の薬師如来像開扉法要に合わせてお参りに来ました。

薬師院の御本尊は、後に比叡山延暦寺(延暦25年/806~)の開祖となる最澄が延暦元年(782)、16歳の時に彫った薬師如来像7体のうちの1つとされていて、伝承によると美濃国横倉の医徳堂に安置されていました。
(現在の薬師院の山号である「医徳山」も、これに由来するものでしょう)
最澄作の薬師如来像で現存するのは、延暦寺のものと当院の僅かに2体のみと伝わります。

寛喜2年(1230)、「一切の病苦を取り除こう。来ぬか、来ぬか」との薬師如来のお告げがあり、これを知って訪れた人々の病が平癒したことから「不来乎(こぬか)薬師」と呼ばれるようになったのだとか。

その後、評判を知った織田信長により、美濃から京へ勧請されたものと伝えられています。

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法要の後、午後2時頃から順に本堂へ上がらせていただき、実際に至近の距離で御本尊を拝ませていただきました。
想像していたものより遥かに小さく、僅か15~20㎝四方ほどの御厨子の中に本尊の薬師如来をはじめ、日光・月光菩薩、そして十二神将の、合わせて15体の仏様がびっしりと立ち並んでいました

前年までの2年間は、コロナ禍の影響で本堂に上がることは叶わなかったそうです。
そういう意味でも、本当に幸運な参拝になりました。

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2022年10月12日 (水)

島津家久が信長を目撃した場所とは?

天正3年(1575)2月、「島津四兄弟」の一人としても名高い島津家久は薩摩を出発し、伊勢神宮参拝を主な目的とした半年近くに及ぶ旅に出ました。
彼はその道中を、「中務大輔家久公御上京日記」「中書家久公御上京日記」「家久君上京日記」などと呼ばれる日記に事細かく残しているのですが、その4月21日の条は次のようになっています。

廿一日、紹巴へ立入候、やかて心前の亭をかされ宿と定候、さて織田の上総殿、おさかの陣をひかせられ候を心前同心ニて見物、下京より上京のことく、馬まハりの衆打烈、正国寺の宿へつかせられ候、(~中略~)上総殿支度皮衣也、眠候てとをられ候、十七ヶ國の人数にて有し間、何万騎ともはかりかたきよし申候、

京に入った家久は連歌師の里村紹巴を訪ね、その弟子である心前の居宅を宿として提供されました。
そして織田信長が大坂から帰陣するというので、心前と連れ立って見物に向かい、実際に信長を目撃しています。
果たして彼が信長を目撃した場所とは何処であったのか・・・俄かに気になり、ちょっと検討を加えてみました。

紹巴の弟子である心前は後に、明智光秀の発句「時は今~」で有名な愛宕百韻にも、師の紹巴や兄弟弟子の昌叱と共に名を連ねています。
その居宅の所在地は不明ですが、師である紹巴屋敷の隣にあったとの説もあるようなので、下長者町通沿いに所在する紹巴町の付近一帯と推定しました。

そして信長の軍勢は下京から上京へと進んだ後、相国寺に達しています。
このことから、信長の軍勢が通行したルートについては、下京と上京を結んでいた室町通を真っ直ぐに北上してきたものと想定しました。

とすると家久が信長の軍勢を見物したのは、現在の紹巴町から下長者町通を東へ進み、室町通と交差する・・・

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こちらの写真の辺りではなかったかと思うのですが、いかがでしょうか。
写真手前から伸びる道が下長者町通で、左右に交錯するのが室町通です。

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相国寺がある北の方角へと続く室町通。

家久が目撃した信長は皮の衣を着し、(馬上で)居眠りをしながら通っていったと云います。
なんだか信長の人間臭い一面が垣間見えて、個人的にはとても好きなエピソードの一つです。

家久は同月28日にも、美濃へ帰国する信長の軍勢を見物しています。
※「信長公記」では、信長の離京は27日。

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2022年10月11日 (火)

織田信長“幻の”京屋敷計画(吉田神社・宗忠神社)

今回は京都への旅です。
調べてみたところ、京都に宿泊するのは5年ぶりになります。

京都駅から電車を乗り継ぎ、出町柳駅から東の方角へ歩くこと10分ほどで・・・

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神楽岡とも呼ばれる吉田山が見えてきました。

永禄11年(1568)9月27日には、織田信長による足利義昭を擁した上洛戦に参陣していた近江北郡衆(浅井勢か)や高島衆(朽木勢か)の8,000ほどの軍勢が、この吉田山に布陣しています(言継卿記)。
なお信長は同日、近江の三井寺に滞陣して義昭と合流し、翌28日に入京を果たしました(信長公記)。

また、建武3年(1336)にも、後醍醐天皇方と対峙する足利尊氏も神楽岡に陣を布いたことがあるようです。

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まずは吉田神社から参拝。

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ところが吉田神社では結婚式が執り行われている真っ最中で、本宮への参拝は叶いませんでした。

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仕方ないので本宮は諦め、大元宮へ。

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大元宮の本殿は八角形のような形をしていますが、これは密教や儒教、陰陽道、道教などの諸宗教・諸思想を統合しようとした吉田神道の理想を形に表したものと考えられているそうです。

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そのまま、大元宮のすぐ裏手から宗忠神社へ。

元亀4年(1573)7月14日、「吉田山に屋敷を建てては如何か」との明智光秀の進言に基づき、織田信長の命を受けた柴田勝家、木下秀吉、滝川一益、丹羽長秀、松井友閑らが検分のため、吉田神社の神主・吉田兼見(この時点では「兼和」。天正14年/1586に「兼見」へ改名)の元を訪れます。
検分の結果、屋敷地には不向きとの結論を以て屋敷建設は結局、沙汰止みになりました。

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これは当の吉田兼見が記した「兼見卿記」に載っているエピソードなのですが、この時に信長屋敷の候補地とされたのが、現在は宗忠神社(文久2年/1862創建)の建つ場所であったと、いつぞやのTV番組で紹介されているのを観た記憶があります。

屋敷地に不向きとされた理由も定かではありませんが、そもそも何故、兼見とも親交の篤かった光秀が、兼見にとって迷惑この上ないような提案を信長にしたのかも謎ですし、これ以降も2人の関係に変化が見られないこととも合わせ、なんとも不思議な顛末に思えます。

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帰りは正参道から下山。

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備前焼の逆立ち狛犬。

翌15日、兼見は信長が宿所としていた妙覚寺に参上しています。屋敷造営の取り止めに対する御礼言上にでも伺候したのでしょうか。

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2022年10月 1日 (土)

ゴーヤのフィナーレと茄子の頑張り(家庭菜園2022 ⑧)

■9月4日

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ゴーヤ69~70号。
最近はあまり長く伸びず、ずんぐりとした丸っこい実が増えてきました。


■9月6日

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ゴーヤ71~72号、茄子51号。


■9月9日

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ゴーヤ73号、茄子52号、オクラ2~3号、京みどり&万願寺トウガラシ。

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黄色唐辛子・・・本当に黄色くなってきました。


■9月10日

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ゴーヤ74~78号、茄子53号、京みどり、万願寺トウガラシ、鷹の爪、そして黄色唐辛子も一つだけ初収穫。
万願寺は2~3本ほど、奇跡的に虫にもやられずに良い型まで育っていました。

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夕方、ゴーヤ79~80号を追加。


■9月12日

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ゴーヤ81~85号、茄子54号。

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オクラも既に3本収穫していますが、いずれも気がついたら実になっていたので、花を確認できたのは今朝が今年初めてです。


■9月14日

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茄子55号。


■9月16日

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茄子56~61号、オクラ4号、京みどり&万願寺トウガラシ。
京みどり&万願寺トウガラシの虫害は収まっていますが、茄子にはまだ危険なサインがチラホラ・・・。


■9月17日

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ゴーヤ86~90号、茄子62~64号、万願寺トウガラシ。

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ゴーヤは葉もだいぶ枯れだし、実が小振りになってきました。
100の大台まで届くか?

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黄色唐辛子の実がかなり増えてきました。
黄金色の激辛一味唐辛子を作るのが楽しみです。


■9月18日

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ゴーヤ91号、茄子65~70号。


■9月19日

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ゴーヤ92号、京みどり&万願寺トウガラシ。
大雨の影響で倒れ掛かっていたり、枝が垂れたりしているものがあったので対策を施しました。
台風14号も無事に乗り切ってくれるといいのですが。


■9月20日

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ゴーヤ93~94号、オクラ5号。
また前夜来の強風で茄子が倒れかかっていましたので、出勤前の少ない時間で応急処置。


■9月22日

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ゴーヤ95~96号、茄子71~72号。


■9月23日

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また京みどりや万願寺トウガラシに虫害が多発していたので、まだ小振りでしたが無事な実を早めに収穫しました。

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オクラの葉にも、やたらと食われているものがあるなぁ~と思ったら・・・

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案の定、ワタノメイガの幼虫が葉を丸めて潜んでいました。
葉を部分的にカットして駆除しました。


■9月24日

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ゴーヤ98~101号、茄子73~74号。
ゴーヤはもう育たなくなってきましたので、ある程度の大きさのものは小さくても収穫しました。
しかし、ついに100の大台を突破!


■9月25日

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茄子75~80号、オクラ6号、万願寺トウガラシ。
万願寺トウガラシの株に、小さなコオロギのような虫が何匹か潜んでいました。


■9月28日

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茄子81~87号、オクラ7号、万願寺トウガラシ。


■9月29日

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黄色唐辛子の実がかなりの数、虫?の食害に遭っていました。。。

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しかも、よく観察すると中の種が目当てのようで、中がスッカラカンになっているものも。
いったい何者なのでしょうか、こんな辛い物を食べるのは・・・?

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という訳で虫に食べられる前に、熟して色がついたものから順次収穫していくことにしました。
茄子は88号です。こちらも100の大台が現実味を帯びてきました。


■10月1日

早いものでもう10月。
今年も夏野菜たちを植えてから半年が経ちました。

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ゴーヤ102~104号、茄子89~92号、オクラ8号、万願寺トウガラシ。

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ゴーヤはすっかり枯れ果て、もう実を大きくする力も残っていないので撤去することにしました。

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ゴーヤが去った畑B。
今年はゴーヤの陰になって日当たりが悪かったせいか、オクラの生育が芳しくありません。
黄色唐辛子は綺麗な実をたくさんつけていますが、こちらは今後も虫の被害が心配。

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畑A
茄子や万願寺トウガラシはまだ元気で、もうしばらくは楽しませてくれそうです。

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紫茎ブロッコリーと、種から育てていたチビ鷹の爪。
鷹の爪はこんなに小さいのに、もう花をつけだしています。

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茎ブロッコリー。
順調に育ってはいそうです。

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鉢植えの鷹の爪は、あらかた実を採り尽くしました。

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アサツキにパセリ。
パセリにも結構、虫の被害が出ています。

さて、一ヶ月後にはどんな様子になっていることでしょうか。

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