織田信長“幻の”京屋敷計画(吉田神社・宗忠神社)
今回は京都への旅です。
調べてみたところ、京都に宿泊するのは5年ぶりになります。
京都駅から電車を乗り継ぎ、出町柳駅から東の方角へ歩くこと10分ほどで・・・
神楽岡とも呼ばれる吉田山が見えてきました。
永禄11年(1568)9月27日には、織田信長による足利義昭を擁した上洛戦に参陣していた近江北郡衆(浅井勢か)や高島衆(朽木勢か)の8,000ほどの軍勢が、この吉田山に布陣しています(言継卿記)。
なお信長は同日、近江の三井寺に滞陣して義昭と合流し、翌28日に入京を果たしました(信長公記)。
また、建武3年(1336)にも、後醍醐天皇方と対峙する足利尊氏も神楽岡に陣を布いたことがあるようです。
まずは吉田神社から参拝。
ところが吉田神社では結婚式が執り行われている真っ最中で、本宮への参拝は叶いませんでした。
仕方ないので本宮は諦め、大元宮へ。
大元宮の本殿は八角形のような形をしていますが、これは密教や儒教、陰陽道、道教などの諸宗教・諸思想を統合しようとした吉田神道の理想を形に表したものと考えられているそうです。
そのまま、大元宮のすぐ裏手から宗忠神社へ。
元亀4年(1573)7月14日、「吉田山に屋敷を建てては如何か」との明智光秀の進言に基づき、織田信長の命を受けた柴田勝家、木下秀吉、滝川一益、丹羽長秀、松井友閑らが検分のため、吉田神社の神主・吉田兼見(この時点では「兼和」。天正14年/1586に「兼見」へ改名)の元を訪れます。
検分の結果、屋敷地には不向きとの結論を以て屋敷建設は結局、沙汰止みになりました。
これは当の吉田兼見が記した「兼見卿記」に載っているエピソードなのですが、この時に信長屋敷の候補地とされたのが、現在は宗忠神社(文久2年/1862創建)の建つ場所であったと、いつぞやのTV番組で紹介されているのを観た記憶があります。
屋敷地に不向きとされた理由も定かではありませんが、そもそも何故、兼見とも親交の篤かった光秀が、兼見にとって迷惑この上ないような提案を信長にしたのかも謎ですし、これ以降も2人の関係に変化が見られないこととも合わせ、なんとも不思議な顛末に思えます。
帰りは正参道から下山。
備前焼の逆立ち狛犬。
翌15日、兼見は信長が宿所としていた妙覚寺に参上しています。屋敷造営の取り止めに対する御礼言上にでも伺候したのでしょうか。
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