旧東海道、藤川宿~池鯉鮒宿
旧東海道、藤川宿の西棒鼻。
8月に旧東海道を御油宿から藤川宿まで歩いてきましたので、今回はその続きとなります。
出発するとすぐに藤川の松並木が出迎えてくれます。
松並木を抜けると一旦国道1号線に出ますが、1㎞ほどでまた左へ逸れていきます。
正田の町より大比良川こさせられ、岡崎城の腰むつ田川・矢はぎ川には、是れ又、造作にて橋を懸けさせ、かち人渡し申され、御馬どもは、乗りこさせられ、矢はぎの宿を打ち過ぎて、池鯉鮒に至りて御泊り。水野宗兵衛、御屋形を立てて御馳走候なり。
(信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」より)
天正10年(1582)4月18日、甲州征伐からの凱旋の途にある織田信長はこの日、三河の吉田城下を出発して御油や本宿を経由(参照記事)した後、岡崎や矢作を通過して知立(池鯉鮒)まで進みました。
国道から外れて300mほど進んだ地点。
この辺りの旧街道から左(南西)の方向には名鉄の美合駅がありますが、その北~北西一帯に「美合町生田」という地名があります。
正田の町より大比良川こさせられ、
太田牛一が書き残した正田の町、その名残の地名が美合町生田ではないでしょうか。
その北西側には美合町生田屋敷という地名もあり、詳細は不明ながら生田城址碑も建っています。
正田城址碑前から、美合町生田方向。
少し高台になっている辺りが正田の町。
長閑な旧街道をしばらく進み・・・
藪に遮られえた突き当りが、乙川の渡河地点。
旧街道は川で途切れていますので、すぐ近くを通る国道1号の橋へ迂回します。
乙川の流れと旧東海道の渡し場付近。
藤川宿側から川を渡った対岸(北)は「大平」という地名になり、乙川には「大平川」という別名もあります。
そう、牛一が記した「太比良川」です。
乙川の北岸。
旧街道の名残らしき畦道が見えていますが、その傍らには・・・
大平川水神社が祀られていました。
太平の集落を進みます。
旧街道から少し外れ、西大平藩陣屋跡。
西大平藩は旗本だった大岡越前守忠相が寛延元年(1748)、三河国宝飯・額田・渥美で4,080石の加増を受け、都合1万石の大名となったことでて立藩されました。
太平一里塚
江戸日本橋から80里になります。
岡崎IC出入口の下を潜る旧東海道。
岡崎の城下町(岡崎宿)が近づいてきたところで、少し寄り道して朝日町の若宮八幡宮へ。
徳川家康の嫡男・信康の首塚にお参りしました。
さて、旧東海道に復帰して岡崎宿へ。
岡崎宿内を通る旧東海道は二十七曲りとも呼ばれ、20ヶ所以上もの折れを伴います。
要所要所にこうした案内表示を建ててくれていますので、これを頼りに丁寧にトレースして行きます。
岡崎三郎信康も初陣の折に祈願したと云う、聖観世音菩薩を本尊とする根石寺。
籠田惣門跡
ここから先が、近世岡崎城の惣構の内になります。
籠田公園の中を通り抜ける旧東海道。
この日はラリー・ジャパンに関連したイベント(お祭り)が開催されていて、凄い賑わいでした。
いや、そこまで小刻みに案内してくれなくてもわかるって(笑)
もうすぐ城下を抜けてしまう、という地点まで来てようやく岡崎城天守が見えました。
旧東海道が国道248号と交錯する辺りが、松葉惣門跡。
江戸時代、現在の国道248号の西側を沿うような位置に、松葉川という川が南北に流れていました。
岡崎城の西側の惣堀も担っており、旧東海道が松葉川と交錯するこの地点には松葉惣門が構えられ、橋も架けられていたと云います。
「東海道中膝栗毛」でも、弥次・喜多が(宿のはずれの)松葉川を渡って矢作橋へ向かった様子が描かれています。
岡崎城の腰むつ田川・矢はぎ川には、是れ又、造作にて橋を懸けさせ、かち人渡し申され、御馬どもは、乗りこさせられ、
事前にいくら調べても、信長公記に見える「むつ田川」を特定することができませんでした。
しかし、岡崎城の腰の「腰」が何を意味しているのかは判断に悩むところですが、むつ田川・矢はぎ川と連続する既述の並びと、実際の矢作川との位置関係などから、この松葉川をむつ田川に比定しておきたいと思います。
松葉惣門跡を出てしばらく進むと、八丁味噌で有名な八帖町に入ります。
岡崎を舞台にした連続テレビ小説「純情きらり」に出演されていた、宮崎あおいさんの手形。
矢作橋からの矢作川(矢はぎ川)。
江戸時代の矢作橋はもう少し南側(写真の方向)に架かっていたそうですが、天正10年に信長一行のために架けられたと云う橋は、果たして何処にあったのでしょうか。
矢作橋、西側のすぐ袂に建つ出合乃像。
史実云々は別にして、「絵本太閤記」に描かれた日吉丸(豊臣秀吉)と蜂須賀小六の出会いのシーンを再現しています。
矢作川を越えると、矢作宿の町並みが続いています。
江戸時代に整備された旧東海道の宿駅制度からは外れましたが、矢作川を渡る旅人らの宿場町として栄えたそうです。
岡崎信康唯一の肖像画を所蔵する勝蓮寺。
矢はぎの宿を打ち過ぎて、
矢作宿を抜けると国道1号線に合流し、3㎞ほども退屈な区間が続きますが、安城市に入ったところでようやく国道から右へ逸れてくれました。
やっぱり松並木はいいですよねぇ~。
低く横に大きく枝を広げる、永安寺の雲竜の松。
推定樹齢は約350年・・・さすがに信長一行が通過した天正10年にはまだ生えていませんね。
猿渡川を越えると、旧東海道はいよいよ知立市に入ります。
来迎寺一里塚
旧東海道を西向きに歩いてくると、一方(北側)の塚が建物の裏に隠れてわかりづらいのですが・・・
実は一対で残っています。
泉蔵寺、吉田忠左衛門夫妻の墓所。
元禄赤穂事件で有名な吉田忠左衛門。その妻であるりんは、忠左衛門切腹後に身を寄せた娘婿の主家の転封により、宝永七年(1710)に刈谷へ移り住みました。
しかし刈谷入りの僅か半年ほど後に亡くなり、形見として持っていた忠左衛門の歯と共に、この地へ埋葬されました。
知立の松並木
松並木の途中に建つ馬市の句碑。
江戸時代、この辺りでは毎年4月25日~5月5日の間、馬市が開かれ、4~500頭もの馬が並べられたと云います。
歌川広重も、東海道五十三次で馬市の様子を描いています。
「池鯉鮒 首夏馬市」
知立は「池鯉鮒」とも書きましたが、それは当地にあった御手洗池、或いは知立神社の神池に鯉や鮒がたくさんいたため、との由来も伝えられています。
旧東海道の宿場名を示す際は、「池鯉鮒宿」とするのが一般的なようです。
松並木を抜けた先が池鯉鮒宿。
今回の旧東海道歩き旅のゴールです。
風情ある細い道を進み・・・
この突き当りを右へ折れた先が・・・
知立古城址
池鯉鮒に至りて御泊り。水野宗兵衛、御屋形を立てて御馳走候なり。
元々は知立神社の神官・永見氏の居館があった場所で、刈谷城主・水野忠重(宗兵衛)が、その跡地を利用して信長饗応のための御殿(御屋形)を整備したと伝わります。
※家康の側室で、結城秀康を生んだ於万の方は永見氏の出。
御殿址の石碑
江戸時代に入ると更に拡張され、徳川将軍が上洛する際の休息用の御殿にもなりました。
永禄3年(1560)の桶狭間合戦後、知立一帯は刈谷城を押さえた緒川城主・水野信元の領有となりました。忠重はこの信元の異母弟にあたります。
信元は織田家に従っていましたが、信長に武田方への内通を疑われて死に追いやられ(天正3年/1575)、刈谷を含む彼の旧領は佐久間信盛の手に渡りました。
その佐久間父子の追放(天正8年)後、刈谷は忠重に与えられて水野家に復します。
忠重はこの後、高天神城を包囲する徳川軍の陣中にあり、年が明けた翌天正9年1月には、高天神城の処置についての信長の意向を伝える書状を受け取っています。
慶長5年(1600)、家康から隠居料として与えられた越前へ向かう堀尾吉晴を知立でもてなした際、同席していた加賀井重望によって殺害されました。
堀尾吉晴をもてなし、そして自らの最期をも迎えることになってしまった歓待の席も、或いはこの地にあった御殿が用いられたのかもと想像しています。
知立付近一帯を描いた屏風絵。
東海道が御殿のところで突き当りになっている様子もよく描かれています。
右下隅の方に描かれているのは、岡崎城とその城下町。こちらも二十七曲りの様子がよく見て取れます。
旧東海道は更に西へと続きますが、私はここを右(北)へ曲がって・・・
知立神社にお参り。
写真は永正6年(1509)の再建と伝わる多宝塔。知立神社の別当寺だった神宮寺の遺構とのことです。
神池には、やはり多くの鯉が。
七五三シーズンにあたっていたため、この日は多くのお子さん連れで賑わっていました。
旅の最後は電車で少し移動し、刈谷市の楞厳寺へ。
水野家の菩提寺で、水野忠重画像も所蔵しています。
水野信元や忠重らが眠る水野家廟所。
本当は刈谷城まで足を延ばしておきたかったのですが、空模様が急激に怪しくなり、疲労もありましたので雨に降られる前に切り上げました。
いずれまた機会があれば・・・。
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