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2022年12月

2022年12月31日 (土)

冬の家庭菜園(家庭菜園2022 ⑩)

■11月19日

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黄色唐辛子がだいぶ色づいてきたので・・・

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完全に黄色くなった実をまとめて収穫しました。
京みどり、万願寺トウガラシ、そして鉢植えの鷹の爪はシーズン終了なので、残った実を全て収穫し、、、

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撤去しました。
右に写っているのが、鷹の爪に使っていた鉢です。
茄子も迷ったのですが・・・

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先日の無駄な枝の剪定が功を奏したのか、また新たな実が育ちつつあるので、もう少し様子を見ることにしました。

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茎ブロッコリーも遂に・・・

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蕾をつけて膨らませはじめました。

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そして、今年は冬越しの豆(絹さや)栽培にも初挑戦します。
春にたくさん収穫できることを祈りつつ。


■11月23日

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茎ブロッコリー3株のうち、2つの頂花蕾が適度の大きさまで育ったので収穫しました。

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今後はチョロチョロと伸びてきている側花蕾を“スティック・セニョール”として育てていきます。
この先の成長が楽しみです。

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ところで、紫茎ブロッコリーの方はヒョロヒョロと背ばかり伸びて、未だに蕾をつけません。
陽当たりの悪さが影響しているのかなぁ・・・。


■11月26日

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本日は自家製の鷹の爪を使って、食べる辣油を作ってみます。

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材料(具材)は鷹の爪の他、玉ねぎ・ピーマン・ショウガ・にんにく(生&チップス)など。
これらを細かく刻み、更に煎り胡麻・砕いたピーナッツ・塩昆布を加えて胡麻油で炒め、鶏がらスープの素・塩・花椒パウダーで味を調えたら、、、

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最後に胡麻油を追加し、弱火でじっくりと・・・。

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食べる辣油の完成です。
ちょっと辛くなり過ぎたかもしれませんが、思っていた以上に鷹の爪の赤い色も出ていい感じです。


■12月8日

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旅行に出かけたりして週末不在にすることも多かったので、久しぶりの収穫です。
スティック・セニョールの収穫が始まりました。
粘り強く待っていた茄子は、これ以上大きくなりそうもなかったので最後の収穫。111~113号。
黄色唐辛子はまだ少し実が残っています。

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茄子も去り、畑Aも寂しくなってきました。


■12月17日

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スティック・セニョールの収穫、第2弾。

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畑Aの種から育ててきたチビ鷹の爪、実が赤くなるのを辛抱強く待っていましたが、さすがに寒さに耐えきれずに枯れてきたので・・・

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青唐辛子のまま実を全て収穫して撤去しました。

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収穫した青唐辛子は、いつもの唐辛子味噌に挽肉を加えた肉味噌唐辛子に。
ちょっと味見したところ、しっかり辛みが効いていました。


■12月24日

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スティック・セニョール第3弾。
黄色唐辛子は葉が全て枯れ果てていましたので、黄色く熟した実を全て収穫して撤去しました。
これらの実の乾燥が完了したら、黄色唐辛子の実のみで“黄金の一味唐辛子”を作ってみたいと思います。


■12月31日

早いもので、2022年も大晦日を迎えました。

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今年最後の収穫もスティック・セニョール(第4弾)です。

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右に並ぶスティック・セニョールはあらかた収穫を終えた(まだ少し残っていますが)のですが、左の背が高い紫スティック・セニョールは・・・

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未だ、蕾が出てくる気配すらありません。。。

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畑Bの絹さやは冬期で成長は遅いものの、元気にはしています。
春まで順調に成長してくれますように。

それでは、よいお年を。

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2022年12月21日 (水)

間宮林蔵の生家

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前記事でご紹介した守谷城の近くに間宮林蔵の生家跡があることを知り、折角なので寄ってみることにしました。

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2度に渡る樺太探検で間宮海峡を発見し、樺太が島であることを証明した間宮林蔵の生家。
15~6歳頃まで暮らしていたそうですが移築復元のため、位置は若干移動しているようです。

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併設する間宮林蔵記念館では、彼の生涯や功績を紹介しています。

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記念館から300mほど離れた専称寺。

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専称寺境内に建つ、間宮林蔵の顕彰記念碑。
その裏に・・・

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間宮林蔵(左)と、彼の両親のお墓が並びます。
すぐ裏を流れるのは、林蔵が世に出るきっかけともなった堰止め工事を行っていた小貝川です。

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専称寺のお墓は、林蔵が北方探検に出る前に自ら建立した生前墓です。
「間宮林蔵墓」と楷書で彫られた墓石の文字は、林蔵自らの手によるとも云われています。
まだ名を挙げる前だけに小さくて簡素な墓石ですが、相当な覚悟をもって北方へ赴いたことが偲ばれます。

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2022年12月20日 (火)

守谷城

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築城時期など詳細は不明ですが、鎌倉幕府草創期に活躍した御家人・千葉常胤の二男にあたる師常を始祖とする、(下総)相馬氏による築城と考えられています。
(これから見ていく各曲輪の名称は、上の想定図に拠っていきます)

今回、私が守谷城を訪れるきっかけになったのは、その遺構の評判も然ることながら、戊辰戦争に関するある史料を読み込んでいる際に次の一節が目に留まったからなのです。

(慶応4年=1868年4月)十三日快晴小金宿出立行程五里同国布施宿旅泊此近傍ニ昔シ平親王相馬将門ノ築シ古城ノ跡有リ里人内裏カ原ト唱ス草芒々トシテ外堀ハ深シ
塩谷敏郎「戊辰ノ変夢之桟奥羽日記」

筆者の塩谷敏郎は旧幕府脱走陸軍の兵士で、慶応4年4月13日は小金宿を発って布施宿まで進んだと記していますので、秋月登之助土方歳三らが率いた旧幕府軍の前軍に所属していたことがわかります。
参照記事

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守谷城大手門跡付近に建つ、平将門城址碑。
布施宿の近傍にある平将門ゆかりの古城とは即ち、この守谷城とみて間違いないかと思います。
守谷城自体は将門が築いた城という訳ではないでしょうし、内裏カ原という地名についても不明なのですが、おそらくは相馬氏の祖とされ、「新皇」を称した将門が拠点を置き、坂東独立国王城の地としたとの伝承に因んだ城址碑であり、「内裏」を冠した地名だったのでしょう。

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守谷将門詩歌碑
守谷の地で詠まれた、将門に関する詩や歌が刻まれています。

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今は駐車場やトイレが置かれている馬出曲輪の辺りから、主郭部(右)と清光曲輪の間の内海。
塩谷が記した外堀が具体的にどこを指すのかは不明ですが、どことなく彷彿とさせるものを感じませんか?

布施宿から食料などの物資調達のために守谷まで足を延ばしたのか…150年余り前の人と同じ城跡見物を共有できることに嬉しさを感じます。

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御馬家台(左)と二の曲輪間の堀切。
いきなりのこのスケール感に圧倒されました。

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御馬家台

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御馬家台の枡形虎口。
写真左から来て左に折れ、その先で右に折って馬出曲輪へと続く様子がよくわかります。

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御馬家台から、堀切越しに二の曲輪。
二の曲輪の方が一段高くなっています。

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広大な二の曲輪。
周囲には高い土塁が廻らされています。

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二の曲輪から御馬家台へと続く枡形虎口。

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虎口の先は堀切で遮断されていますので、想定図の通り、ここには橋が架けられていたのでしょう。
対岸が御馬家台です。

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二の曲輪から一の曲輪方向に伸びる土橋。

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土橋の先には一の曲輪も見えています・・・が、

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土橋を渡り切ってみて驚かされました。
土橋の先は一の曲輪との間に築かれた細長い曲輪(楯形曲輪)になっており、一の曲輪との間を更に堀切で遮断していますので、あたかも二重堀切のようになっていました。
土橋を渡る前は2本目の堀切が見えていなかったので、すっかり騙され(?)ました(笑)

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楯形曲輪(右)と一の曲輪間の堀切。
ここからは障子堀の痕跡が検出しているようです。

守谷城は永禄年間後期には後北条氏の勢力下にあり、こうした障子堀や楯形曲輪のような構造に、その手による改修のニオイを感じます。

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不自然なまでに真っ平な一の曲輪。
想定図ではここを本丸としていましたが、土塁も虎口も見当たりません。

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おまけに、一の曲輪から楯形曲輪を見ると御覧の通り。
明らかに、本丸とされる一の曲輪の方が低くなっています。

ところがこれ、よくよく案内板を読んでみると理由がわかりました。
この一の曲輪は後世の土取りの影響で、従来より地表面が6mも下がってしまっているようなのです。
土塁など、城としての造作が全く見受けられないことも、それならば納得です。

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こちらは、一の曲輪の先(横?)にある妙見曲輪。
平将門や、将門を祖とする千葉氏や相馬氏が信仰した妙見菩薩に由来があるようです。

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妙見曲輪からの眺め。

前出の塩谷の日記には、引用した箇所の「~外堀ハ深シ」に続いて;
池沼多シ故ニ鯉鮒ノ類ヒ多猟ス
とあります。
かつて城の周囲に広がっていたであろう、池や沼地を彷彿とさせるような光景でした。

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最後に南西に位置する外郭部へ移動して、大手門跡付近(守谷小学校の西端部辺り)に残る土塁らしき痕跡。
右に写っているのが、冒頭でご紹介した平将門城址碑です。

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こうした段差も、城塁の痕跡ではないかと思います。

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道路を挟んだ反対側には、茨城百景守谷城址の碑。
その脇にも・・・

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土塁跡のような痕跡が見受けられました。

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これらは上の図面で、印をつけた箇所に該当するかと思います。

冷たい風が吹き荒び、寒くて大変でしたが、想像していた以上の見事な遺構の連続で、とてもエキサイティングな城攻めになりました。

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2022年12月10日 (土)

馬伏塚城

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馬伏塚城は高天神城主・遠江小笠原氏の属城でした。
今川氏の没落後、小笠原氏は徳川氏に属します。

天正2年(1574)6月に高天神城が武田家の手に落ちると、家康は馬伏塚城を高天神城奪回の拠点として改修を加えます。
天正9年に高天神城を奪り戻し、翌10年の武田氏滅亡を経て徳川氏による遠江経営が安定すると、馬伏塚城は廃城となりました。

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馬伏塚城本丸へと向かう道すがら。
袋井市郷土資料館の方に教えていただいたのですが、こちらの農道は図面にも描かれている、馬伏塚城本丸へと続く古道(中泉道)の名残なのだそうです。

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本丸(A)に建つ城址碑。

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本丸
樹木が生い茂ってわかりづらいですが、階段の付いている高まりは土塁です。

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土塁の上に建つお社。

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土塁の奥はかなり高低差があり、堀跡のようにも見えましたが、如何せん藪がきつくて・・・(;・∀・)

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土塁上から本丸。

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馬伏塚城本丸(ほぼ)全景。
続いて、県道を挟んだ北側の曲輪跡へ向かってみます。

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B曲輪の東面。
今は宅地と化していますが、一段高くなっていて城の痕跡は充分に見て取れます。
袋井市浅名の岡山という集落の、ほぼ全域が城跡だったようです。

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B曲輪北面の土塁。

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Cのコーナー部分。
上に建つのは了教寺。

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了教寺境内から、B曲輪の土塁を見る。
間の窪んだ地形は堀跡ということになります。

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了教寺に建つ小笠原氏清と家臣・竹田重右エ門の供養塔(墓)。

小笠原氏清
氏興の名で知られ、天正2年に武田氏に降った高天神城主・小笠原氏助(信興)の父にあたります。
駿河今川氏の没落に伴って徳川氏に内応し、永禄12年(1569)、今川氏真の籠る掛川城攻めにも参陣しましたが、その年のうちに馬伏塚城で病死したと伝えられています。

みかの坂に、御屋形立て置き、一献進上なり。爰より、まむし塚、高天神、小山、手に取るばかり御覧じ送り、
信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」より

天正10年(1582)、甲州征伐を終えて安土への帰路にある織田信長は4月16日、三ヶ野坂上(磐田市三ヶ野)に用意された御屋形で休憩していますが、そこからは馬伏塚城や高天神城、小山城までもが手に取るように見えたと云います。
私も実際に三ヶ野坂を訪れたことがありますが、さすがに高天神や小山は無理にしても、馬伏塚城ならば或いは、高い建物のない当時ならば見えたかもしれない距離感ではあります。

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2022年12月 9日 (金)

久野城

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袋井市の久野城

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明応年間(1492~1501)、今川家臣・久野氏による築城と伝わります。
今川氏の没落後、久野氏は徳川氏に従いました。

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駐車場から上がると、最初に出くわす北下段。

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北面の大土塁と横堀。

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北面の横堀から見上げる、本丸東側の1の堀切。

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続いて三の丸へ。
一段高い部分が三の丸です。

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三の丸下段方向。

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二の丸。うっすらと土塁も残っています。

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二の丸の先に続く高見方向。

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高見から見上げる主郭部。

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二の丸から本丸への虎口。
脇には井戸も。

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本丸

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大手口に残る隅櫓跡・・・小さ過ぎないですか?
立哨台くらいしか乗らなそうな・・・(;・∀・)

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久野城大手口。

元亀3年(1572)10月、遠江へ侵攻した武田軍は久野城にも攻め寄せました。
城主・久野宗能は頑強に抵抗し、徳川家康も久野城を始め、遠江に残る徳川方諸城(掛川城など)への後詰のため、3,000余りの兵を率いて浜松城を出陣します。
見付(磐田)に着陣した家康が派遣した物見隊と、武田軍との間で勃発したのが木原畷・三箇野・一言坂などでの各合戦です。

戦いは数に勝る武田軍の優勢で進められ、徳川本隊も否応なしに浜松方面へ追い立てられていきます。
後詰もなく敵中に孤立しながらも、武田本軍が徳川軍を追跡して見付方面へ向かったこともあり、久野城はなんとか持ち堪えました。

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2022年12月 8日 (木)

勝間田城

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静岡県牧之原市の勝間田城
鎌倉時代からの名族・勝間田氏による築城と伝わります。
twitterなどに度々アップされる写真を目にし、ずっと訪れてみたかったお城の一つです。

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北麓の駐車場に愛車を置き、茶畑の合間を縫うように細い道を5~6分ほど登っていきます。

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最初に出くわす出曲輪は茶畑に。

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出曲輪の辺りから見える、三の曲輪東の連続堀切a

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広大な三の曲輪。

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三の曲輪から出曲輪(奥の茶畑)方向。
足元には土塁が廻らされ、横堀のようになっています。

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先ほど見たaの連続堀切。

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三の曲輪から二の曲輪方向。

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二の曲輪。

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bの大堀切。

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大堀切はそのまま、自然地形の深い谷に落ちています。
右は東尾根曲輪の切岸。

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東尾根曲輪。

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東尾根曲輪から見渡す二の曲輪~三の曲輪方向。
右奥には薄っすらと富士山も見えています。

勝間田城は、文明8年(1476)に今川義忠に攻められて落城し、廃城になったと云います。
しかし、特に広大な造りとなっている二・三の曲輪などは、後代の増築・改修の手が入っているものとも考えられています。

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東尾根曲輪先の連続堀切c
曲輪上からは2~3本くらいしか目に入りませんが、少し先へ進むと・・・

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この通り。

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続いては、あちらの本曲輪へ向かいます。

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北尾根曲輪。

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本曲輪。
一部ですが、高い土塁も残ります。

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本曲輪と南曲輪の間部分。
図面ではそう描かれていませんが、こちらも堀切でしょう。

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南曲輪。

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南曲輪の先の堀切d

整備も行き届き、駐車場やお手洗いも完備されて、見学者にとても親切なお城でした。

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2022年12月 7日 (水)

別所は連々忠節の者(新発見の織田信長文書)

2022年12月3~4日は、静岡県への旅。
運動不足に陥りがちな愛車のためのドライブが主な目的で、いくつかのお城をのんびりとめぐります。
が、その前に・・・

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まずは藤枝市郷土博物館・文学館へ。
先日発表された新発見文書、織田信長黒印状羽柴秀吉宛(天正6年)三月十三日付が、天下人と東海の戦国大名展で公開されるという情報を得、タイミング良く静岡への旅を予定していたので立ち寄りました。

文書は;
別所長治と問題があったよう(別所小三郎与申事有之由候)だが、別所はずっと忠節を尽くしている者である(別所之儀、連々忠節之者候)から、穏便に対処して報告するように。

と秀吉に伝える内容で天正6年(1578)に比定され、秀吉による別所長治の三木城攻め(三木の干殺し)が始まる直前にあたります。

思えば信長は、浅井長政の寝返りが明るみになった際も「浅井は歴然御縁者たるの上、剰へ、江北一円に仰せ付けらるるの間、不足あるべからざるの条、虚説たるべし」(信長公記)と、なかなか離反を信じようとしなかったですし、武田信玄が織田・徳川同盟との対決を期して遠江へ侵攻した元亀3年(1572)10月の時も、信玄本人が甲府を出陣(10/3)した後に至ってもなお、武田×上杉間の甲越和与の実現に向けて奔走(10/5付書状)しており、当初は先に動いていた武田別動隊(山県)の軍事行動の切っ先が、己の側を向いているとは露ほども疑っていませんでした。
また、荒木村重離反の際も「不実におぼしめされ、何篇の不足候や、存分を申し上げ候はば、仰せ付けらるべき」(同)とあります。

今回の新発見文書も信長のそんな、同盟者や配下を疑わない、疑いたがらない性分の一端が垣間見えるような史料で、とても興味深く感じました。

その信長が最後の最後、明智光秀の謀反を知った瞬間だけは;
是非に及ばず
の一言を発しただけだったと云うのは・・・推して知るべし、といったところでしょうか。

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