別所は連々忠節の者(新発見の織田信長文書)
2022年12月3~4日は、静岡県への旅。
運動不足に陥りがちな愛車のためのドライブが主な目的で、いくつかのお城をのんびりとめぐります。
が、その前に・・・
まずは藤枝市郷土博物館・文学館へ。
先日発表された新発見文書、織田信長黒印状羽柴秀吉宛(天正6年)三月十三日付が、天下人と東海の戦国大名展で公開されるという情報を得、タイミング良く静岡への旅を予定していたので立ち寄りました。
文書は;
別所長治と問題があったよう(別所小三郎与申事有之由候)だが、別所はずっと忠節を尽くしている者である(別所之儀、連々忠節之者候)から、穏便に対処して報告するように。
と秀吉に伝える内容で天正6年(1578)に比定され、秀吉による別所長治の三木城攻め(三木の干殺し)が始まる直前にあたります。
思えば信長は、浅井長政の寝返りが明るみになった際も「浅井は歴然御縁者たるの上、剰へ、江北一円に仰せ付けらるるの間、不足あるべからざるの条、虚説たるべし」(信長公記)と、なかなか離反を信じようとしなかったですし、武田信玄が織田・徳川同盟との対決を期して遠江へ侵攻した元亀3年(1572)10月の時も、信玄本人が甲府を出陣(10/3)した後に至ってもなお、武田×上杉間の甲越和与の実現に向けて奔走(10/5付書状)しており、当初は先に動いていた武田別動隊(山県)の軍事行動の切っ先が、己の側を向いているとは露ほども疑っていませんでした。
また、荒木村重離反の際も「不実におぼしめされ、何篇の不足候や、存分を申し上げ候はば、仰せ付けらるべき」(同)とあります。
今回の新発見文書も信長のそんな、同盟者や配下を疑わない、疑いたがらない性分の一端が垣間見えるような史料で、とても興味深く感じました。
その信長が最後の最後、明智光秀の謀反を知った瞬間だけは;
是非に及ばず
の一言を発しただけだったと云うのは・・・推して知るべし、といったところでしょうか。
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