馬伏塚城
馬伏塚城は高天神城主・遠江小笠原氏の属城でした。
今川氏の没落後、小笠原氏は徳川氏に属します。
天正2年(1574)6月に高天神城が武田家の手に落ちると、家康は馬伏塚城を高天神城奪回の拠点として改修を加えます。
天正9年に高天神城を奪り戻し、翌10年の武田氏滅亡を経て徳川氏による遠江経営が安定すると、馬伏塚城は廃城となりました。
馬伏塚城本丸へと向かう道すがら。
袋井市郷土資料館の方に教えていただいたのですが、こちらの農道は図面にも描かれている、馬伏塚城本丸へと続く古道(中泉道)の名残なのだそうです。
本丸(A)に建つ城址碑。
本丸
樹木が生い茂ってわかりづらいですが、階段の付いている高まりは土塁です。
土塁の上に建つお社。
土塁の奥はかなり高低差があり、堀跡のようにも見えましたが、如何せん藪がきつくて・・・(;・∀・)
土塁上から本丸。
馬伏塚城本丸(ほぼ)全景。
続いて、県道を挟んだ北側の曲輪跡へ向かってみます。
B曲輪の東面。
今は宅地と化していますが、一段高くなっていて城の痕跡は充分に見て取れます。
袋井市浅名の岡山という集落の、ほぼ全域が城跡だったようです。
B曲輪北面の土塁。
Cのコーナー部分。
上に建つのは了教寺。
了教寺境内から、B曲輪の土塁を見る。
間の窪んだ地形は堀跡ということになります。
了教寺に建つ小笠原氏清と家臣・竹田重右エ門の供養塔(墓)。
小笠原氏清
氏興の名で知られ、天正2年に武田氏に降った高天神城主・小笠原氏助(信興)の父にあたります。
駿河今川氏の没落に伴って徳川氏に内応し、永禄12年(1569)、今川氏真の籠る掛川城攻めにも参陣しましたが、その年のうちに馬伏塚城で病死したと伝えられています。
みかの坂に、御屋形立て置き、一献進上なり。爰より、まむし塚、高天神、小山、手に取るばかり御覧じ送り、
信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」より
天正10年(1582)、甲州征伐を終えて安土への帰路にある織田信長は4月16日、三ヶ野坂上(磐田市三ヶ野)に用意された御屋形で休憩していますが、そこからは馬伏塚城や高天神城、小山城までもが手に取るように見えたと云います。
私も実際に三ヶ野坂を訪れたことがありますが、さすがに高天神や小山は無理にしても、馬伏塚城ならば或いは、高い建物のない当時ならば見えたかもしれない距離感ではあります。
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