« 2023年3月 | トップページ | 2023年5月 »

2023年4月

2023年4月29日 (土)

4年目の開幕(家庭菜園2023 ①)

■3月9日

20230309_084021
昨年から冬越しで育てている絹さやに、ついに花が咲き始めました。
春も近づき、ここ数日は暖かい日が続いているので、一気に成長が進みそうです。


■3月21日

2023032101
花の数を増やしてきた絹さや・・・

2023032102
ついに第1号の莢も誕生しました。

2023032103
復活した行者ニンニクもすくすくと育っているのですが・・・
右の株の葉に、心配な兆候(変色)が見られます。。。


■3月28日

2023032801
種植えから約2週間、ついに黄色唐辛子が発芽してくれました。


■4月1~2日

2023040101
行者ニンニクに蕾のようなものが出てきました。
種が採れるのでしょうか?

2023040201
そして今年も茗荷の芽が出てきました。

2023040202
裏庭の方にもニョキニョキと。

2023040203
絹さやも順調に来ています。
既にいくつか収穫して食しました。


■4月10日

2023041001
絹さやの収穫が本格的になってきました。
この後も、平日で私が不在の間も収穫が続いたのですが・・・


■4月16日

2023041601
それでもまだ、この鈴なり状態。

2023041602
質・量ともに、豆類では今回の絹さやが過去一番のような気がします。
早速夜に食しましたが、大袈裟ではなく家中に漂うほどに香りが、そして甘みも強く、とても美味でした。

2023041603
昨年収穫した種を植えた黄色唐辛子。
発芽した芽が密集してしまいましたので・・・

2023041604
ちょっと植え替えてみました。
慎重に作業して根も無事でしたので、おそらくは元気に成長してくれるのではないかと。
しかし、畑に黄色唐辛子だけで5本も育てるスペースなどない、というのが現状・・・悩ましいところです。


■4月23日

2023042301
今週も絹さやが豊作です。

2023042302
しかし、暖かい季節になって、虫の被害も多くなってきました。
今年もこの戦いが始まります。


■4月29日

2023042901
行者ニンニクに花が咲きました。
種を採取して数を増やしてみましょうか。

2023042902
今週も絹さやは豊作です。
今がピークで、今後は徐々に収穫量も減っていくかと思います。

2023042903
そして、今年も本格的な夏野菜栽培がスタートしました。
畑Aには、右からキュウリ・ピーマン+シシトウ・茄子・ミニトマト。

2023042904
畑Bの絹さやの横の畝には、ゴーヤを植えました。

今後の野菜たちの成長が楽しみです。

| | コメント (0)

2023年4月22日 (土)

「どうする家康」展、拝観

2023042101
お江戸日本橋は、三井記念美術館で開催されているNHK大河ドラマ特別展「どうする家康」(4月15日~6月11日)へやって参りました。

大小7つの展示室に渡り、

プロローグ 大日本五道中図屏風でたどる家康の足跡
第1章 「家康誕生」―今川からの独立と三河平定
第2章 「戦国乱世の選択」―今川・武田との抗争
第3章 「豊臣大名徳川氏」―豊臣政権下の家康
第4章 「天下人への道」―関ケ原/江戸開府
第5章 「大御所時代」―駿府での生活/大坂の陣
第6章 「東照大権現」―家康、神となる
エピローグ 御神体 家康の刀剣と甲冑

という章立てで、徳川家康の生涯を多くの展示品と共に追っていく、という構成になっていました。
展示品の詳細については公式サイトなどで目録をご参照いただくとして、全体的には久能山東照宮博物館所蔵の品が多かったように感じます。

想像よりも豊富な展示品の数々に、あまり時間をかけて観る方ではない私でも優に1時間を要しました。
また、平日の午前中という時間帯にもかかわらず、多くの方が来館されていました。

プロローグで展示されている大日本五道中図屏風(江戸~京都 8曲2双)、及び別の展示室にあった同(大坂~長崎 6曲1双)では、関東以西~長崎まで津々浦々の街道やお城をたどることができ、お城好き・街道好きには堪らない逸品でした(笑)

また、京都大徳寺所蔵の織田信長像(狩野永徳筆)や、岸和田本徳寺所蔵の明智光秀像にも再会を果たすことができました。

2023042102
前後期で展示品の入れ替えも結構多いようなので、後期も足を運んでみようかと考えています。

| | コメント (0)

2023年4月14日 (金)

葛尾城(北信濃の山城攻めオフ③)

北信濃の山城攻めオフ、荒砥城を挟んだ4城目は埴科郡坂城町と千曲市磯部に跨る葛尾城です。

20230409c01
まずは「坂木宿ふるさと歴史館」にて、葛尾城の縄張り図や登山ルートの情報などを収集。
同館には北国街道の宿場町だった坂木宿や、村上義清に関する関する資料などが展示されています。
写真は坂木宿本陣の表門。

20230409c02
登城(登山)前に、村上氏の居館跡へ。

20230409c03
現在の満泉寺を中心とした場所にあったとされる、村上氏の平時山麓居館跡。
満泉寺は天正年間、上杉氏配下で海津城将となっていた村上國清(義清の子)により村上氏の菩提寺として、その居館跡に創建されました。従って山号も「村上山」。
ちなみに、鐘楼と山門の間から見えている尾根のピーク辺りが葛尾城になります。比高で約400m・・・高過ぎ!!(;゚Д゚)

20230409c04
坂城神社の裏に位置する登山口。

20230409c05
葛尾城への登山ルートはいくつかあるようですが、我々は遊歩道を西へ進み、飯綱山を取り巻いて姫城跡との分岐点に出るルートを選択しました。

20230409c06
登山途中に撮影した1枚・・・正面に姫城跡。

葛尾城までは1時間以上の登山になったでしょうか・・・勾配もきつく、我々の体力にはあまりにも厳しい行程に、途中何度も心折れそうになりました。
無論、じっくりと写真を撮っている気持ちの余裕などあろう筈もなく、私のカメラロールにも登山途中の写真は全く残っていません…(-_-;)
という訳で、実際の城攻めとは裏腹に、本記事では唐突に葛尾城到達と相成ります(笑)

20230409c07
葛尾城縄張り図

20230409c08
三~二の郭。
山麓から白く見えていた山桜が満開です。

20230409c09
主郭
かの村上氏の居城とはいえ、広さは然程ありません。
本当に緊急時での使用しか想定していなかったことが窺えます。

20230409c10
主郭から、眼下を流れる千曲川と上田平方面の壮大な眺望。
本当によく登り切りました・・・もう二度と来ることはないでしょう(笑)

20230409c11
主郭裏、Aの堀切。
鷲尾城でも見られたような、土塁を挟む二重堀切になっていたようです。

ちなみに現地の縄張り図には「帯郭」との記載がありましたが、いずれを以て帯郭としているのかは、私にはわかりませんでした。

20230409c12
目に飛び込んできた瞬間、「ナニコレ・・・!?」と思わず絶句してしまった、角度も深さも強烈なインパクトの堀切B

20230409c13
堀切Bの堀底から。

20230409c14
堀切Bを城外(北)側へ渡り、振り返った様子。
高低差がエグい(笑)

20230409c15
堀切Cも結構なエグさ(;^_^A

20230409c16
階段がついているので、その断面の切り立った様子がおわかりいただけるかと。

20230409c17
堀切Cを渡った先の尾根上に、2.5m×2m程に四角く積まれた石積みがありました。
これまで霞城や鷲尾城で見てきたものに比べると、少々積み方が雑なようにも感じますが。。。
ちょっと藪っていてわかりづらいですが、この先も堀切になっていたようなので櫓台、或いは堀切の対岸と高さを合わせる(尾根はこの先、五里ヶ峯に向かって登り勾配)ための橋台だったのでしょうか・・・?
いずれにせよ、ろくに確認もせずに現場を離れてしまった今となっては、これ以上検討する術もありません。

さて、これにて葛尾城攻めも終了です。
下山は安全を考慮し、登山時と同じルートを選択しました。
急勾配な長い長い下り坂を、ブレーキを掛けながらの下山はさすがに足に堪えました。

20230409c18
下山後は坂城神社へ、無事の報告と御礼のために参拝。
坂城神社には村上義清や武田信玄、同勝頼らによる社領寄進・安堵状が残されています(坂木大宮神社宛)。
(ふるさと歴史館に複製品が展示されていました)

これにて、全4城に渡る北信濃の山城攻めオフも無事に終了。
仲間とおしゃべりしながらの山城歩きは、久しく忘れていた楽しい時間でした。参加された4名の同行者に感謝♪

| | コメント (0)

2023年4月13日 (木)

鷲尾城(北信濃の山城攻めオフ②)

20230409b01
北信濃の山城攻めオフ、2城目は千曲市倉科の鷲尾城です。
登城(登山)口から城山を見上げる・・・霞城よりちょっとキツそう。。。

20230409b02
登り口に建つ大日堂は、松代藩主・真田信之の次女「泰子姫」なる人物によって寛文13年(1673)に建立された、と現地の案内板にはありました。

20230409b03
つづら折れの登山道をただひたすら、苦行に耐えるかの如く登ること30分弱で・・・

20230409b04
ようやく到達。
こちらでも素敵な石積みが出迎えてくれました。

20230409b05
石積みの奥には、北アルプスの真っ白な山並みも。

石積みの隅部が鋭角ではなく、少しRがついている感じでした。
これなども霞城の間仕切り石積み同様、どことなく沖縄の石垣を連想させられました・・・関連などあろう筈もないのですが。

20230409b06
鷲尾城、主郭虎口。

20230409b07
主郭に残る土塁。
鷲尾城は村上氏の庶流である倉科氏の城と伝わりますが、築城時期等の詳細は不明とのことです。

20230409b08
主郭裏の堀切。
堀底に土塁が通り、さながら二重堀切のようになっています。

20230409b09
堀底の土塁上から。

20230409b10
堀底から主郭を見上げる。
一部、石積みも見えています。

20230409b11
堀切を渡った先の小さな郭から主郭方向。
見事な高低差の切岸です。

20230409b12
そのまま尾根上を北東方向に進むと、すぐにまた二重堀切が現れます。
この堀切も越え、坂を少し登った先には・・・

20230409b13
倉科将軍塚古墳があります。
写真ではわかりづらいかもしれませんが、綺麗に前方後円墳(写真手前側が前方部)になっていました。

この古墳の先にも・・・

20230409b14
大きな堀切が。
写真左上に小さく写る同行者のサイズで、その規模がおわかりいただけるかと思います。

鷲尾城もなかなか見応えのある、いい城跡でした。


この後は千曲市上山田の荒砥城へ行ったのですが・・・私はスマホを車に忘れてしまい、写真を撮れませんでした。
11年ぶりとはいえ再訪だし・・・まいっか!
ってことで、同行者からご提供いただいた1枚だけ。

20230409b15
photo by えりさん

千曲川を挟んだ対岸には、この日最後の攻城先となる葛尾城の勇姿も。
改めて目にする険しく高い山容に、一同戦慄・・・本当に登り切れるのか!?

折角の素晴らしい荒砥城からの眺めも、この時の我々には登山への不安と憂鬱を煽るだけのものになっていたのでした…(;・∀・)

| | コメント (0)

2023年4月12日 (水)

霞城(北信濃の山城攻めオフ①)

4月9日はコロナ禍以降では初めてとなる、山城攻めオフ会に参加させていただきました。
長野駅前に前泊し、北信濃の山城をいくつかめぐります。

20230409a01
まず1城目は、長野市松代町の霞城へ。
敵が攻め寄せると龍が現れ、霞をかけて城を覆い隠したとの伝承から、この名で呼ばれているそうです。
城山北の永福寺側からアプローチします。

20230409a02
麓の案内板には「所要20分」とありましたが、ほんの7~8分も登るとすぐに見応えのある石積みが現れました。
主郭の東~南にかけて展開する二の郭の、北面の石積みになります。

20230409a03
二の郭西面の石積みと、眼下には帯郭状の削平地も。

20230409a04
帯郭から見上げる二の郭の石積み(西面)

20230409a05
帯郭の縁にも石積みがありました。
右上に見えているのは、一つ前の写真でご紹介した二の郭の石積みです。

20230409a06
帯郭を南へ進んで一段上がると、三の郭に出ました。二の郭の南に位置しています。
写真は、三の郭から二の郭への虎口。
霞城の石積み石材は総じて、小さくて平たい石が用いられていますが、この虎口には鏡石を思わせるような巨石も一つ見えています。

20230409a07
広大な二の郭。

20230409a08
二の郭には間仕切りのような石積みもありました。
どことなく、沖縄の城(グスク)でよく見かけたものにも似ているような…?

20230409a09
主郭…は、ちょっと削平が甘いような気もします。

霞城は信濃守護・小笠原氏の流れを汲む、大室氏の居城と伝わります。
大室氏は戦国期、葛尾城(埴科郡坂城町)を本拠とする村上氏の支配下にありました。
しかし、天文22年(1553)に北信濃の雄・村上義清が甲斐の武田信玄に追われると、その武田氏もやがて、織田信長に攻め滅ばされます(天正10/1582年)。
そうした北信濃情勢の中で大室氏は、村上から武田、そして織田へと従属先を変えて家の存続を守り抜き、信長が本能寺の変に斃れた後は、越後上杉氏の傘下に入りました。
豊臣秀吉による上杉氏の会津移封(慶長3/1598年)に従って大室氏も会津へ移り、霞城は廃城となりました。

下山は西側の石門口ルートへ。
すると・・・

20230409a10
これまで主郭周辺で見てきた以上の光景が目に飛び込んできました。
薄い赤ラインで推定ルートを示しましたが、かなり規模の大きな枡形状の虎口です。

外(下)側から順に見ていくと・・・

20230409a11
ほぼ直線状の登城路を登ってきて・・・

20230409a12
石積みに三方をぐるりと囲まれた枡形を通り、左奥の・・・

20230409a13
開口部を通過して右へ・・・

20230409a14
最後は、この石積みの上を通って三の郭方面へ向かっていたのではないかと想像しましたが、如何でしょうか?
三の郭に至るまでのルートは、最初に見た帯郭から見下ろして監視できる位置関係にあります。

20230409a15
直線の登城路を下った先にも、石積みが結構残っていました。

20230409a16
石門登城口
こちらが霞城の大手とされているようです。

それにしても素晴らしい遺構でした。
1城目から大満足です。

| | コメント (0)

« 2023年3月 | トップページ | 2023年5月 »