霞城(北信濃の山城攻めオフ①)
4月9日はコロナ禍以降では初めてとなる、山城攻めオフ会に参加させていただきました。
長野駅前に前泊し、北信濃の山城をいくつかめぐります。
まず1城目は、長野市松代町の霞城へ。
敵が攻め寄せると龍が現れ、霞をかけて城を覆い隠したとの伝承から、この名で呼ばれているそうです。
城山北の永福寺側からアプローチします。
麓の案内板には「所要20分」とありましたが、ほんの7~8分も登るとすぐに見応えのある石積みが現れました。
主郭の東~南にかけて展開する二の郭の、北面の石積みになります。
二の郭西面の石積みと、眼下には帯郭状の削平地も。
帯郭から見上げる二の郭の石積み(西面)
帯郭の縁にも石積みがありました。
右上に見えているのは、一つ前の写真でご紹介した二の郭の石積みです。
帯郭を南へ進んで一段上がると、三の郭に出ました。二の郭の南に位置しています。
写真は、三の郭から二の郭への虎口。
霞城の石積み石材は総じて、小さくて平たい石が用いられていますが、この虎口には鏡石を思わせるような巨石も一つ見えています。
広大な二の郭。
二の郭には間仕切りのような石積みもありました。
どことなく、沖縄の城(グスク)でよく見かけたものにも似ているような…?
主郭…は、ちょっと削平が甘いような気もします。
霞城は信濃守護・小笠原氏の流れを汲む、大室氏の居城と伝わります。
大室氏は戦国期、葛尾城(埴科郡坂城町)を本拠とする村上氏の支配下にありました。
しかし、天文22年(1553)に北信濃の雄・村上義清が甲斐の武田信玄に追われると、その武田氏もやがて、織田信長に攻め滅ばされます(天正10/1582年)。
そうした北信濃情勢の中で大室氏は、村上から武田、そして織田へと従属先を変えて家の存続を守り抜き、信長が本能寺の変に斃れた後は、越後上杉氏の傘下に入りました。
豊臣秀吉による上杉氏の会津移封(慶長3/1598年)に従って大室氏も会津へ移り、霞城は廃城となりました。
下山は西側の石門口ルートへ。
すると・・・
これまで主郭周辺で見てきた以上の光景が目に飛び込んできました。
薄い赤ラインで推定ルートを示しましたが、かなり規模の大きな枡形状の虎口です。
外(下)側から順に見ていくと・・・
ほぼ直線状の登城路を登ってきて・・・
石積みに三方をぐるりと囲まれた枡形を通り、左奥の・・・
開口部を通過して右へ・・・
最後は、この石積みの上を通って三の郭方面へ向かっていたのではないかと想像しましたが、如何でしょうか?
三の郭に至るまでのルートは、最初に見た帯郭から見下ろして監視できる位置関係にあります。
直線の登城路を下った先にも、石積みが結構残っていました。
石門登城口
こちらが霞城の大手とされているようです。
それにしても素晴らしい遺構でした。
1城目から大満足です。
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