« 前橋城、石倉城 | トップページ | 箕輪城 »

2023年7月17日 (月)

沼田城、名胡桃城、小川城

20230709b01
沼田城に到着。
個人的には、実に19年ぶりの再訪となります。

20230709b02
沼田城本丸。
真田信之・小松姫像の右後方辺りが、天守跡と伝えられます。

20230709b03
西櫓台の石垣(東側)

20230709b04
その西側・・・木の重みで地面が沈み込み、石垣も大きく孕んで立ち入ることができなくなっていました。

20230709b05
捨曲輪に置かれた平八石。
天正9年(1581)、沼田城を奪還すべく兵を挙げたものの、謀略によって討ち取られた沼田平八郎景義。
その平八郎の首をこの石に据え、真田昌幸が首実検したと伝わります。

20230709b06
捨曲輪から名胡桃城(写真中央、左からの山の稜線が先端付近で低く平らになっている辺り)を望む。
この僅かな距離間が、豊臣秀吉の小田原征伐を引き起こす歴史の重要な舞台となりました。

20230709b07
捨曲輪と二の丸間の空堀も見事なもの。

19年前に比べて多少はお城を見る目も肥えたのか、前回は気にもかけなかった地形なども確認しながら楽しめました。
次は件の名胡桃城へ。

20230709b08
名胡桃城
沼田一帯の制圧のため、真田昌幸が拠点として築きました。

20230709b09
手前の舗装部分は馬出跡で、土橋を渡った先は三の郭。

20230709b10
三の郭
半円状の舗装面からは三日月堀が検出しており、初期段階ではここに馬出が配されていたようです。
その後、三の郭拡張のために埋め立てられたものと考えられます。

20230709b11
三の郭から二の郭への土橋と堀切。

20230709b12
二の郭

20230709b13
谷部を挟んだ対岸の駐車場は般若郭跡。

20230709b14
本郭へと続く二の郭の北虎口。
綺麗な枡形になっていました。

20230709b15
本郭

20230709b16
本郭の北、ささ郭との間を断ち切る堀切。

20230709b17
土塁に挟まれた細い通路状のささ郭先端から、先ほどまでいた沼田城方面を望む。
連郭式のシンプルな造りで、規模も想像より小ぶりでしたが、なかなか見応えのあるお城でした。

お次は、名胡桃城から車で少しだけ北上して・・・

20230709b18
月夜野の小川城へ。
沼田氏の流れを汲む小川氏五代の居城です。
その五代目・小川可遊斎は、真田昌幸の沼田領攻略戦にも加わっています。
天正10年(1582)、主筋の甲斐武田氏が滅亡すると可遊斎は越後へ逃れ、小川氏による領有は終焉を迎えました。

現在は国道291号線の東に位置する本丸部分のみが残ります。

20230709b19
二の丸以下は、国道の西側に展開していたようです。

20230709b20
しかし、この本丸の空堀は見応えがあります。

20230709b21
本丸

20230709b22
本丸に僅かに残る土塁。

20230709b23
本丸の先、一段下がった箇所はささ曲輪。

15分ほどの滞在でしたが、空堀だけでも見る価値は有り、かな。

20230709b24
休憩で立ち寄った道の駅中山盆地から、右に小野子山・中の岳・十二ヶ岳からなる三並山、左に子持山のパノラマ・ビュー。
手前には田んぼアートも。
そして道の駅のすぐ近くには・・・

20230709b25
中山城
天正10年(1582)、本能寺の変から続く天正壬午の乱を経て、北条から徳川へと鞍替えした真田領の沼田~岩櫃間を押さえ、対真田戦の拠点とすべく、北条氏が築いたものだそうです。

いざ!と勇んで向かったものの、登城路が激藪に埋まっており、やむなく断念しました・・・。

という訳で群馬のお城めぐり、ラストは高崎市方面へ引き返して箕輪城を目指すことになりました。

|

« 前橋城、石倉城 | トップページ | 箕輪城 »

お城、史跡巡り 関東」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 前橋城、石倉城 | トップページ | 箕輪城 »