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2023年12月16日 (土)

田原坂

田原坂の戦い
明治10年(1877)に勃発した西南戦争。
2月22日より熊本鎮台の置かれた熊本城攻撃を始めた薩摩軍は、熊本鎮台救援のために小倉・博多方面から南下してくる政府軍に備え、迎撃部隊を派遣します。
田原坂北方の木葉・高瀬などでの戦闘を経て、薩摩軍は要害ともいえる地形を活かして田原坂に布陣し、3月4日から20日までの17日間に及ぶ激戦が繰り広げられました。

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田原坂公園に建つ崇烈碑。
明治13年(1880)、国の主導で建てられた西南戦争の顕彰碑です。
篆額と撰文は、征討軍総督の有栖川宮熾仁親王によります。

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弾痕の家
田原坂の頂上付近にあった土蔵で、戦いの直後に上野彦馬(旅の初めに長崎でお墓参りしました)が撮影したものと、明治13年頃に撮影された別の写真を元に復元されました。
数多くの銃弾の痕も再現されています。

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田原坂西南戦争資料館前から、政府軍が陣取った二俣台地を望む。
谷部を挟んだ対岸の右手、少し開けている辺りは二俣瓜生田官軍砲台跡。この距離間で砲撃戦や、抜刀隊による白兵攻撃も繰り広げられました。
そこから尾根伝いに左へ視線を移し、少し高くなった場所が、その帰趨をめぐって激戦が展開され、田原坂の戦いの行方をも決定づけることになる横平山です。

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それでは早速、田原坂を下っていきます。
写真は三の坂に差し掛かる辺り。

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二の坂。
道幅は当時も4mほどで、熊本へと続くルート上で唯一、大砲を引き上げることのできる道だったとも云われています。

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一の坂。
道が深く掘り込まれ、屈曲によって先が見通しづらくなっている様子がよくわかります。
薩摩軍はこうした利点を活かし、道の両側の高所から、突破を試みる政府軍を迎え撃ったことでしょう。

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一の坂下まで下ってきました。
今度は突破を試みる政府軍の目線で、少しだけ登り直してみます。

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道の脇の竹藪は坂に合わせて段々の平坦地になっており、道に面して土塁のような高まりが連なっていました。
但し古写真を見る限り、戦争当時、周辺一帯は耕作地だったようなので、その名残かと思います。
いずれにしても、この両脇に銃を構えた薩摩兵が待ち構えているかと思うと、この坂を攻め上るなど恐怖以外の何物でもありません。

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田原坂の麓に架かる豊岡眼鏡橋。
享和2年(1802)の築造です。多くの兵士たちもここを行き交ったことでしょう。

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豊岡眼鏡橋からの田原坂遠景。

小倉・博多方面から熊本を結ぶルートは主に山鹿口・田原坂・吉次峠の3つで、そのいずれでも激戦が展開されています。
政府軍はその中でも坂が少なくて距離も短く、道幅も広い三池往還ルートに主力を投入しました。その最大の難所が、豊岡台地へと続く田原坂でした。

豊岡眼鏡橋からの高低差約80m、頂上までの距離1.5㎞ほどが、「こすにこされぬ・・・」と詠われた激戦の舞台となりました。

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こちらは田原坂資料館にもほど近い田原熊野座神社。
ここでも3月8日と15日に戦闘が繰り広げられ、社殿も兵火に見舞われました。

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薬莢が境内の南北端から集中して出土していることから、両軍は写真のこの距離間で銃を撃ち合ったと考えられています。その間、僅かに60m。

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両軍に挟まれた境内中央の参道に建つ石灯籠には、数多くの弾痕も残っています。

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田原熊野座神社近くに建つ、田原の五輪塔。

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「建治3年」(1277)「田原寺」の銘があり、こちらにも多数の弾痕が残されています。

続いて、今度は主に政府軍側が陣取った二俣台地上をめぐります。

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二俣瓜生田官軍砲台跡。
正面に田原坂西南戦争資料館、そこから左へと続くのが田原坂。
摩擦火管の他、砲座や大砲の轍跡も確認されています。
史跡としての整備が大々的に進められているようで(広い駐車場も設置されていました)、両軍の距離感を肌身に感じることができます。

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官軍本営出張所址。
こちらにも整備に着手したような形跡が窺えました。

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二俣古閑官軍砲台跡。
やはり摩擦火管がみつかっているようです。
民家に隠れて田原坂は望めませんが、資料館は微かに見えています。
そして、こちらも整備が進められていました。凄い力の入れようです。

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二俣古閑官軍砲台跡から南へ視線を移すと・・・
薩摩軍の重要拠点の一つ、横平山がもう至近の距離に!?

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薩軍兵站の地と湧水池
横平山の麓に位置します。
周辺では唯一の水源で、水を求めてやってきた負傷兵の血で真っ赤に染まったと云います。

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二俣台地の後背に位置する横平山の戦略的重要性を認めた政府軍は、3月9日よりその攻略に着手します。
それでは早速、登ってみましょう。

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横平山に残る塹壕跡。
政府軍が陣取る瓜生田や古閑の方向へ向けられています。

3月9日から始まった横平山の争奪戦は特に苛烈を極め、戦局は一進一退、抜きつ抜かれつを繰り返しました。
その帰趨は同15日に決着を見ます。

15日早朝、薩摩軍の急襲により、政府軍は横平山からの撤退を余儀なくされます。
そこで政府軍は戦局打開のため、14日より七本柿木台場など豊岡台地に点在する薩摩軍陣地攻略に投入した選りすぐりの警視抜刀隊約100名余りを再編成してここでも投入し、彼らの奮迅の活躍もあって横平山は再び陥落、政府軍の掌中に帰しました。
しかしその被害も甚大で、戦死33名、負傷50名、軽傷負わざる者無しという壮絶なもので、警視抜刀隊は精鋭を殆ど失い、横平山での政府軍戦死者は224名にも上りました。

警視抜刀隊
士族出身の薩摩兵に対し、徴兵による政府陸軍の兵卒は特に接近戦に於いて歯が立たず、対抗措置として、やはり士族出身者の多かった警視隊巡査の中から選ばれた精鋭。
この時の奮戦ぶりを讃え、後に軍歌「抜刀隊」も作曲されました。

※警視隊には会津の出身者も多く、佐川官兵衛や元新選組・斎藤一こと藤田五郎も豊後口警視隊として参戦(佐川は阿蘇にて戦死)し、警視隊ではないものの山川浩(戊辰戦争でも会津軍の指揮官として活躍した山川大蔵。率いる部隊の先頭に彼岸獅子を舞わせ、城を包囲する新政府軍を欺いて鶴ヶ城入城を果たすという離れ業を演じました)は陸軍参謀として西南戦争に従軍して熊本城救援に駆けつけ、ここでも見事、戦火の中を潜り抜けて入城を果たしています。

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横平山からの田原坂遠望。
横平山を落とし、二俣台地に連なる地を掌握した政府軍は田原坂方面(豊岡台地)への砲撃・攻勢を強め、そして3月20日に最後の総攻撃をかけることになります。

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七本柿木台場(薩摩軍)
豊岡台地上、田原坂の背後を守るような占地で、3月20日の政府軍総攻撃で陥落します。
これにより薩摩軍の防衛ラインは崩れ、政府軍の攻撃を支えきれなくなった田原坂の戦線もついに崩壊しました。

戦後、近隣住民が散在する薩摩兵329名の遺体をまとめて改葬し、現在は薩摩軍墓地となっています。

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雨は降る降る
じんばはぬれる
こすにこされぬ
田原坂

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こちらは七本官軍墓地。
300名余りの政府軍戦死者が眠ります。
一人一人に墓石も建てられ、「賊」とされた薩摩兵の墓地との違いは明白です。

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熊本県民のソウルフードという「おべんとうのヒライ」で腹拵えした後は、田原坂の前哨戦ともいえる木葉の戦いのあった方面へ向かいます。

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稲佐熊野座神社

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境内にひっそりと建つ薩軍砲陣跡碑。
田原坂に戦線が移る前の木葉の戦い(2月23日)か、高瀬の戦い(同25日~)の時に布陣したものと思われますが、いずれかは判断がつきませんでした。

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境内の大梛には弾痕も残っていたそうですが、残念ながら何らかの理由で既に伐採されていました。

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高月官軍墓地
980名余りもの政府軍戦死者が眠ります。

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有栖川宮督戦の地
政府軍は戦線が田原坂へ移った後に本営を木葉に置きましたが、征討総督有栖川宮熾仁親王はその木葉の本営から度々近くの高台へ登り、この地から戦闘の様子を観戦したと云います。

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確かに田原坂や二俣台地も・・・

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そして、吉次峠もよく見えました。

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宇蘇浦官軍墓地に眠る、谷村圭介伍長の墓。
谷村圭介伍長は2月21日、熊本城の電信が断線したため、玉名に駐留する第一旅団へ戦況と作戦計画を伝えるための密使として派遣され、途中2度も薩摩軍に捕らわれるものの切り抜け、見事に任を果たします。
しかし3月4日、田原坂の戦いの緒戦に志願して参戦し、敵塁に突撃して戦死しました。
戦後「軍人の鑑」と評され、あやかろうとする者が墓の欠片を持ち帰ろうとするため、鉄枠で保護されました。

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こちらは吉松秀枝少佐の墓。
熊本鎮台小倉第14連隊(連隊長心得乃木希典)の第3大隊長で、2月23日の木葉の戦いで戦死しました。

なお、宇蘇浦官軍墓地には警視抜刀隊64名を含む398名が祀られています。

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徳成寺
官軍病院址の石碑が目に入って立ち寄りました。

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日赤発祥之地ともされており、屋根にも赤十字のマークが。

17日間に及んだ田原坂の戦い。その戦死者は両軍合わせて2800名余りにも上ります。
特に攻める側の政府軍にとって厳しく、1700名というその戦死者は、7ヶ月間に及んだ西南戦争全体での戦死者の1/4にも相当しました。
西南戦争はその後、9月24日の西郷隆盛自刃を以って終結します。

さて、これにて4泊5日に及ぶ私の長崎~熊本の旅もフィナーレを迎えました。
天候にも恵まれ、何一つ不足のない、全てやり切った感のする充実の旅となりました。
これもひとえに旅を共にし、何から何までお世話してくださった同行者たちのお陰。改めて感謝いたします。
・・・と同時に、次回もよろしくお願いいたします!(笑)

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