復興進む熊本城
熊本市で迎える旅の最後の朝は、個人的に16年ぶりとなる熊本城散策から。
2016年4月の震災で倒壊した長塀は、見事に復旧していました。
清正公さんにもご挨拶。
二ノ丸跡に建つ、神風連 加屋霽堅 齋藤求三郎等 戦死之跡碑。
神風連の乱
明治初期に頻発した不平士族の反乱の一つ。
明治9年(1876)10月24日、明治政府に強い不満を抱く熊本の士族(旧肥後藩士)・加屋霽堅、斎藤求三郎ら約170名で構成された敬神党は深夜、熊本鎮台司令長官・種田政明、熊本県令・安岡良亮らを殺害し、熊本鎮台をも襲撃して一時、砲兵営を制圧しました。
しかし翌朝には政府軍の反撃を受け、加屋・斎藤らは戦死、その他も多くが戦死や自刃に追い込まれ、敬神党は壊滅します。
「神風連」とは、この敬神党に対する蔑称だったようです。
この後、熊本鎮台司令長官には大山巌の“繋ぎ”を経て、翌年に西南戦争を戦うことになる谷干城が就くことになります。
新風連の乱は、西南戦争にも少なからぬ影響を残したことでしょう。
震災で受けた甚大な被害の痕跡が今もなお、随所に色濃く残る熊本城。
宇土櫓は10年にも及ぶ解体修理工事に入りました。
痛々しい限りです。
しかし、大天守・小天守は早くも見事に蘇っていました。
本丸御殿の床下を潜り、空中回廊(特別見学路)へ向かいます。
写真は、震災後は立ち入ることができなくなっている闇り通路。ライトアップで飾っていました。
大雨で地面が陥没したことにより判明したという、東竹の丸の井戸跡。
二様の石垣越しに大天守。
戦う熊本城の“本気”を窺わせるかのような、連続する枡形。
数寄屋丸の石垣も崩れていますね。
しかし、飯田丸五階櫓の石垣は修復が終わったそうですし、冒頭の長塀や天守など、復興に向けた力強い歩みも感じられました。
震災後はじめて訪れましたが、部外者ながら訪問前よりもポジティブな感情が大きくなったような気がします。
最後に市役所の展望室から熊本城を俯瞰。
熊本城には明治時代、熊本鎮台が置かれ、西南戦争の舞台になったことでも知られています。
特に写真の左奥方向(西)にあった段山(だにやま)は、薩摩軍にとって至近距離から城内を砲撃できる好立地であり、それだけに鎮台(政府)側にしてみれば弱点となる訳で、戦いの最前線で激戦地になったと云います。
さて、それではいよいよその西南戦争の激戦地の一つとなった田原坂へ向かいます。
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