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2024年1月

2024年1月19日 (金)

海軍操練所跡の防波堤石積み

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1月14日、神戸海軍操練所跡の発掘現場説明会に参加してきました。
発掘現場は、こちらの碑から南へ30mほどの場所になります。

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昨年末に発掘成果のニュースに触れ、且つ説明会の開催を知るに及び、矢も楯も堪らずに予約を入れていました(笑)

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実際に遺構を目にした瞬間、想像以上の物量に驚きました。
主には神戸港開港時に築かれ、以降も修築・拡張されてきた明治期の第一波止場の防波堤や信号所の遺構になるのですが、その下層からも、やや角度を異にする別の防波堤跡が検出されました。
その石の積み方や石の表面に残る調整痕の特徴などから、開港以前の幕末期に遡る可能性が高まり、そのため元治元年(1864)に設置され、僅か1年で閉所された海軍操練所に伴う遺構ではないかと推定されています。

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V字に見える石積み列の内、左側のものが海軍操練所時代(以下「第1期」)の防波堤石積みと推定されています。
まさに勝海舟や坂本龍馬らが活動した時期に築かれた遺構が、地中から姿を現したのです。

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第1期防波堤のラインは、左奥に設置されたカラーコーンの方向に向かって伸びており、実際にライン上の他の箇所からも出土しています。
写真は南西側から北東方向(カラーコーン)を見た様子です。

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明治期の防波堤石積み(北側面)や、信号所の敷石など。
信号灯の基礎も見えています。

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明治時代中期の第一波止場を撮影した古写真(配布リーフレットに掲載)に信号所の様子が写っているのですが、石積みのラインや、信号灯と(信号所を囲う)木柵跡の位置関係など、どれもがピタリと一致しているように見えました。
なお、左隅の方で鏡に映されているのは第1期防波堤の石積みで、最初に見た南西側のものから直線上に位置しています。

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更にこちらは、発掘現場北東隅の第1期防波堤石積み。
やはり当然ながら、これまで見たものと直線で繋がります。

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本来なら正面から拝みたいところですが、見学者用のスペース確保が困難なため、こうして鏡を設置して見せてくれているのです。

貴重な機会を設けていただいたことに感謝です。

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2024年1月18日 (木)

有岡城

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1月中旬の週末、神戸を訪れる予定があり、そのついでに未訪のままになっていた有岡城にも足を延ばしてきました。
JR伊丹駅の周辺一帯が有岡城の主郭部だったようで、駅の横には史跡公園も整備されています。

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有岡城惣構図
図で見ると、不自然に感じるほど主郭部が惣構の東端に寄っていますが、この惣構の東側のラインは伊丹台地の縁で崖になっていたようです。

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有岡城主郭北端に残る石垣や土塁。
建物礎石跡や井戸跡なども復元展示されていました。

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主郭西側の堀跡。

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その南側の土塁、堀跡。

ところで、有岡城といえば荒木村重が織田信長に叛旗を翻して籠城した折、説得の使者として訪れた黒田官兵衛が城内の牢に幽閉されたことでも知られます。
その牢の位置は判明しませんが、黒田家が編纂した「黒田家譜」によると、牢の後ろには溜池があり、官兵衛の家臣・栗山善助は夜陰に紛れて池を泳ぎ渡り、官兵衛と連絡を取っていたそうです。

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江戸時代初期、寛文九年(1669) に成立した「伊丹郷町絵図」には、有岡城主郭の東側に池のようなものが描かれています。

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JR伊丹駅東側の地形。
現在も細い川が流れていますが、堀や池だった名残に見えなくもないですかね。

牢の外に咲く藤の花が幽閉される官兵衛の慰めになった、というエピソードも伝わっていますが、JR伊丹駅北東側の地名は「藤ノ木」・・・なんだか想像を逞しくしてしまいませんか。

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続いて旧石橋家住宅、旧岡田家住宅の前を抜けて・・・

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猪名野神社へ。
有岡城惣構の北端、岸の砦跡になります。

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境内に残る岸の砦土塁。

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その外側。
この小径は堀跡、ということでいいのかな?

この日は冷え込みが厳しく、急な雨もありましたので早々に退散しました。

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