戸次川古戦場 大分の旅④

鏡城跡から戸次川古戦場一帯を見晴るかす。
対岸の山で一番高くなっている辺りが鶴賀城跡。
1586(天正14)年12月、北進してきた島津家久率いる薩摩軍に包囲された鶴賀城救援のため、豊臣秀吉に派遣された仙石秀久、長宗我部元親、十河存保ら上方勢(四国連合軍)は戸次川(現大野川)を挟んだ対岸のここ鏡城に着陣します。
この地より北(写真左方向)には大友氏の本拠・府内へと続く平野が広がっており、鶴賀・鏡の両城は府内の南方を守る最後の砦、死守すべき防衛ラインとなっていました。
実際に現地に立ってみるとわかるのですが、鏡城からは包囲される鶴賀城の様子がありありと見て取れたと思います。
秀吉からは軽率な行動を戒める書状も届いていましたが、包囲される鶴賀城の様子を見た仙石らは12月12日、戸次川の渡河を決行し、鏡城対岸の河畔一帯で島津軍との激しい戦闘が繰り広げられました。
仙石らが渡河したのは果たして、この辺りだったのでしょうか。
鏡城跡からの光景を目にした途端、当時の様子がまざまざと目に浮かぶようで否が応でも興奮を覚えました。
我々も戸次川を渡河し、まずは包囲される鶴賀城を目指します。
鶴賀城縄張り図
途中の細い林道で車が脱輪するトラブルもあり、JAFを待つamさんには申し訳ないことになりましたが、他のメンバーと右(東)側の三ノ丸下から二ノ丸を経て本丸を目指します。
戸次川の合戦が勃発する時点で既に、二ノ丸辺りまで島津軍に占拠されていたとも云います。
林道伝いに二ノ丸付近まで来た辺りだったかと・・・土塁らしき痕跡が見えてきました。
二ノ丸跡に建つ城址碑
裏には当時の城主、利光越前守宗魚の名も。
二ノ丸の土塁
更に進んで、本丸下の堀切。
竪堀として奇麗に落とされていました。
本丸の周囲にはこうして、畝状竪堀が幾重にも施されていたようです。
その畝状竪堀。
写真では厳しいですが、実際の目には奇麗に見えていました。
鶴賀城本丸跡
本丸から、先ほどまでいた鏡城の方向。
当時は目の前の木々もなかったでしょうから、籠城する城兵らには戦闘の推移が手に取るようにわかったことでしょう。
戻りがてら、本丸周囲の畝状竪堀を下から。
先の縄張り図で、幾重にも折り重ねられた横堀のように描かれていた箇所。
本丸の虎口にも繋がっていたようなので、城道だったのでしょうか。
さて、鶴賀城から下山した後は、戦死した長宗我部信親の墓所へ向かいます。
長宗我部信親のお墓
元親期待の嫡男でしたが、戸次川の乱戦の中で命を落とし、短い生涯を閉じました。享年22。
・・・・・抑弥三郎字
儀利三迄令申候処御披
露を以被成下 御朱印
殊更 信御字拝領候
名聞面目不過之誠忝
次第是非無所可申上候
長曾我部元親書状石谷頼辰宛(石谷家文書)
※スペースは闕字
次に字の儀信を遣わし候、即ち信親然るべく候
織田信長書状写長宗我部信親宛
信親の「信」の字は紛れもなく織田信長から拝領した偏諱であり、個人的にも思い入れがある武将です。
この虎口を脱していたら、果たしてどれほどの武将に成長していたのかと思うと残念でなりません。
十河一族慰霊碑も
鎧塚
少し場所を移動して、今度は長宗我部信親終焉の地へ。
長宗我部信親終焉の地
貴重な「石谷家文書」を遺した石谷頼辰(明智光秀重臣・斎藤利三実兄)も信親とともに出陣し、この地で戦死を遂げています。
戸次川古戦場全景
左に鶴賀城、右が鏡城。
かねてよりの念願だった戸次川古戦場巡り、とても有意義な時間を過ごさせていただきました。
・・・おまけ
戸次川古戦場巡りの途中、こちらの勝光寺にも寄らせていただきました。
なんとこちら、歌手の南こうせつさんのご実家で、ご住職はお兄さんにあたる方なのだそうです。
この後は一旦ホテルへ戻ってから別府まで移動。
ヒットパレードクラブでお酒と音楽を楽しみつつ、、、
夜の温泉街を散策したりしながら過ごしました。
別府タワー
明日はどんな一日になるでしょうか。
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