カテゴリー「お城、史跡巡り 甲信越」の24件の記事

2019年11月18日 (月)

高遠城・一夜の城・法華寺 …信長の甲州征伐 信濃路④

三月十八日、信長公、高遠の城に御陣を懸けられ、
三月十九日、上の諏訪法花寺に御居陣。諸手の御陣取り段々に仰せ付けられ侯なり。
(信長公記 巻十五「人数備への事」)

天正10年(1582)3月18日、飯島を出立した織田信長高遠城に宿陣し、次いで翌19日、信濃での最後の陣所となる上諏訪の法華寺に到着しました。

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高遠城
個人的には6年ぶりの再訪となりました。

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高遠城に設置されていた、織田信忠による高遠城攻めの案内板。

三月朔日、三位中将信忠卿、飯島より御人数を出だされ、天龍川乗り越され、貝沼原に御人数立てられ、松尾の城主小笠原掃部大輔を案内者として、河尻与兵衛、毛利河内守、団平八、森勝蔵、足軽に御先へ遣はさる。中将信忠卿は御ほろの衆十人ぱかり召し列れ、仁科五郎楯籠り侯高遠の城、川よりこなた高山へ懸け上させられ、御敵城の振舞・様子御見下墨なされ、其の日はかいぬま原に御陣取り。
(信長公記 巻十五「信州高遠の城、中将信忠卿攻めらるゝの事」)

3月1日、飯島から高遠へ向かった織田信忠は、貝沼原に陣を置き、母衣衆10人ばかりを召し連れ、川手前の高遠城を見下ろす高山へ自ら物見に出ています。
この時、信忠が貝沼原に布いた陣がいずれの地にあったのか、具体的には定かではありませんが・・・

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その候補地の一つとされるのが、伊那市富県貝沼一夜の城
こちらも6年ぶりの再訪です。

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一夜の城については、6年前の記事をご参照ください。

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右に高遠城、川(アーチ橋が見える)を挟んだ左が、信忠が物見に出た川よりこなた高山
高遠城に籠る仁科盛信は降伏を拒み、3月2日、信忠軍の猛攻撃の前に城と共に華々しく散りました。

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高遠城を出た信長の軍勢が、どのルートで諏訪へ向かったかはわかりませんが、我々は杖突峠を越えて・・・

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法華寺へ。
吉良義周の墓所にもお参りさせていただきました。

上諏訪に到着した信長は4月2日まで当地に滞在し、諸々の戦後処理を施した後、雄大な富士山や新府城の焼け跡を眺めつつ、翌3日に甲斐の甲府へ入りました。
甲府を出て安土への凱旋の途に就くのは7日後、4月10日のことです。
※なおこの間には、天正2年の明知城落城の要因となった飯羽間右衛門尉が捕らえられ、処刑されていることも添えておきます。

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旅の最後に、諏訪大社上社にもお参り。

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上諏訪駅で解散し、帰路はスーパーあずさにて。

私の希望を叶え、旅に同行して車を出してくれた友人には感謝しかありません。
いずれまた、今度はちょっと視点を変えて中馬街道を旅しましょう。

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2019年11月17日 (日)

大島城・飯島城 …信長の甲州征伐 信濃路③

三月十七日、信長公、飯田より大島を御通りなされ、飯島に至りて御陣取り。
(信長公記 巻十五「武田典厩生害、下曽禰忠節の事」)

天正10年(1582)3月17日、飯田を出立した織田信長大島を通過し、飯島まで陣を進めました。

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大島城縄張図

元亀2年(1571)3月、武田信玄は大島城に大修築を加え、伊那における一大拠点としたと云います。
今日に残る遺構も、その大部分はこの時の縄張によるものだそうです。

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の馬出
三の丸とは木橋で繋がっていたと考えられています。

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三の丸

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丸馬出への枡形は・・・。

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三の丸東端部

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二の丸から三の丸へせり出す馬出(左)
の堀がまた見事なこと。

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の馬出を別角度から。

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二の丸に残る土塁。奥にの櫓台。

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二の丸と本丸間の堀。
手前の二の丸側の切岸には、小さな腰曲輪も。
堀底を写真左方向へ下っていくと井戸曲輪へと繋がっており、井戸への出入りを見張る役割があったと考えられています。

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本丸

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本丸虎口の木戸跡。

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本丸の櫓台。

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本丸東側の腰曲輪。
稲荷神社が祀られていた痕跡も。

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城跡のすぐ脇を流れる天竜川。

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井戸曲輪へ。

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井戸

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付近の堀。

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南側の外堀。

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大島城の代名詞ともいえる三日月堀

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天正10年2月、大島城は信玄弟の信廉(逍遙軒信綱)らが守備していましたが、織田信忠率いる軍勢が攻め入って来ると夜陰に紛れて逃亡し、大島城は呆気なく落城しました。

続いて飯島城へ。

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飯島城の北西に位置する西岸寺。
鎌倉末創建の古刹で、城主・飯島氏ともゆかりが深いと云います。

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飯島町の名勝にも指定されている西岸寺の参道。

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飯島城縄張図

飯島城は武田家に従う信濃源氏・飯島氏の居城。
本城・登城からなる中世後期の城域と、その東方に広がる前期のものとに分かれています。

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登城北側の堀跡。

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本城の堀と土塁。
手前は虎口に架かる土橋のようにも見えますが、後世に車両の通行のために架けられたものかもしれません。

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本城北西側の堀跡。

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本城北側の堀跡。

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思いがけず鮮明な遺構と出会い、興奮を覚えました。

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本城郭内
天正10年2月、飯島城は織田信忠軍の侵攻によって落城しました。
飯島城を落とした信忠は、この地から仁科盛信の籠る高遠城攻略へと向かっています。
織田信長、そして信忠もこの郭に滞在したのでしょうか。

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2019年11月16日 (土)

長岳寺、根羽村の信玄塚

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ひとしきり飯田城跡を見てまわった後は、中馬街道を少し引き返し、阿智村駒場長岳寺へ。
言わずと知れた、武田信玄ゆかりのお寺です。

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伊那の四季を描いた本堂の襖絵。
日本画家・吉川優氏の作とのことで、顔料には珊瑚や真珠なども用いられているそうです。

運良くお寺の方がいらしたので、拝観料200円で武田信玄の遺品と伝わる金の兜の前立(鍬形台三輪菊唐草透彫三鈷柄付)や兜仏なども拝観させていただきました。

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武田信玄灰塚供養塔
信玄は元亀4年(1573/7月に天正へ改元)4月12日、駒場の山中で没し、縁者が住職を務めていた長岳寺の裏山で荼毘に付されたと云います。
付近の山中には信玄塚と呼ばれる火葬塚が残り、こちらの供養塔は信玄の没後400年祭に、その火葬塚から灰を移して供養したものだそうです。

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灰塚供養塔の脇には、馬場美濃守の供養塔(五輪塔)も。
伊那をはじめ、南信州方面での功績が多かった関係かもしれません。

火葬塚の位置も教えていただきましたが、今回は時間の都合で断念。
前日の滝之澤城郭(防塁)といい、中馬街道沿いには武田家ゆかりの史蹟が今も多く残ります。
今回の旅が改めてそれを認識させてくれたので、いずれまた必ず、武田家目線で中馬街道を旅したいと思います。

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ところで、この前日に根羽村付近を通過している際にも「信玄塚」に立ち寄りました。

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「甲陽軍鑑」に、信玄は「ねばねの上村と申す所にて他界された」と書かれていることに由来しているようです。
信玄の死去に伴い武田勢は、風林火山の軍旗を横にして行軍したので、この付近は横旗(横畑)と呼ばれるようになったのだとか。

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宝篋印塔は江戸時代の寛文年間、信玄の百年忌に建立されたとも伝えられていますが、その形状からは室町末期のものと推定されています。

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信玄が埋葬されたと伝えられる実際の塚は、現在では壁画前の国道に埋没してしまっているそうです。。。

信玄の火葬場所については、甲府の土屋昌続邸説などもあり、実際のところは私にはわかりません。
ただ、家臣らが信玄の遺体なり遺骨なりを置いていくはずもなく、中馬街道を進み、甲府まで粛々と運ばれていったことだけは確かでしょう。

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さて、それでは信長の足跡を辿る旅を再開したいと思います。

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2019年11月15日 (金)

飯田城 …信長の甲州征伐 信濃路②

十五日午の刻より雨つよく降り、其の日、飯田に御陣を懸けさせられ、四郎父子の頸、飯田に懸け置かれ、上下見物仕り侯。十六日、御逗留。
(信長公記 巻十五「武田典厩生害、下曽斑忠節の事」)

天正10年(1582)3月15日、現阿智村の浪合を出立した織田信長の軍勢は飯田まで進み、同地で武田勝頼父子の首を改めて晒しています。

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飯田城が築かれていた台地の遠景。
先端付近(右)が本丸跡になります。

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偶然見つけた外堀跡。

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長姫神社境内から柳田國男館、日夏耿之介記念館の建つ辺り一帯が本丸跡とのこと。
(写真は長姫神社境内)

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長姫神社の社殿裏手、この石積み土塁も城の遺構とのことでしたが・・・う~む。

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本丸と二の丸間を断ち切る堀切。

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あまり近づけなかったので写真はいまいちですが、堀切は見事な遺構でした。

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本丸付近から北側の地形高低差。

ちなみに、台地の先端に建つ三宜亭本館は山伏丸跡。
築城前、修験者の修行所があったことに由来しているそうです。

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移築された桜丸御門。

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城跡から少し離れ、長閑な町中の民家に移築された八間門。

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明治4年(1871)に払い下げを受けた、飯田城の二の丸にあった門とのことです。
左右四間ずつの長屋も城内いずれかからの移築とのことでしたので、てっきり私は、そのために八間門と呼ばれるようになったものだと思い込んでいましたが、移築前の江戸期の絵図に八間門の表記があるようです・・・。
そもそも、左右で長さも全然違う気がするし・・・どういうこと?

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門に付随する鬼瓦や懸魚などは、国の重要美術品に認定されているそうです。

飯田逗留中には勝頼や仁科盛信の馬、勝頼の刀などが信長の元に届けられ、武田信豊の首も運ばれてきました。
信長はここで武田勝頼父子・信豊・仁科盛信の首を家臣に持たせて京へ送り、獄門にかけるよう指示しています。
・・・仁科盛信が高遠城で最期を遂げたのは3月2日のことで、呂久の渡しで信長がその首を実検したのは同6日のこと。それ以降、飯田までの道中ずっと運んできたということでしょうか。。。

信長の行軍はなおも続き、3月17日には飯島へ向かいます。

次回は一旦、信長の足跡を離れ、とあるお寺からお届けします。
信長の足跡の続きは、その次の記事から再開します。

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2019年11月14日 (木)

根羽・平谷・浪合 …信長の甲州征伐 信濃路①

天正10年(1582)3月5日、甲州征伐に向けて安土を出陣した織田信長は、その日は柏原の成菩提院、翌6日は呂久の渡しで仁科盛信(天正9年頃から「信盛」に改名していた可能性も指摘されていますが、以降も「盛信」で統一します)の首を実検しつつ岐阜まで移動、7日も岐阜に逗留します。
8日に岐阜を出発した後は犬山、金山神箆を経由し、11日には岩村城まで進みました。

ここからは岩村を出発後~上諏訪に至るまでの信長の足跡を中心に辿り、中馬街道(伊那街道)を北上する旅になります。
前回の記事でご紹介した明知城跡をあとにし、まずは愛知県豊田市にある道の駅「どんぐりの里いなぶ」付近まで南下して、そこから国道153号に進路を取って中馬街道めぐりをスタートしました。

三月十三日、信長公、岩村より禰羽根まで御陣を移さる。
(信長公記 巻十五「武田典厩生害、下曽禰忠節の事」 以下引用同)

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岩村を出発した織田信長が、3月13日に宿陣した禰羽根(ねばね)。
写真は根羽村役場前より。

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根羽村は今でこそ「ねばむら」と読みますが、「甲陽軍鑑」などでも「ねばね」と表記されており、当時は「根羽=ねばね」という呼称だったようです。

十四日、平谷を打ち越し、なみあひに御陣取り。爰にて、武田四郎父子の頸、関可兵衛・桑原介六、もたせ参り、御目に懸けら侯。則ち、矢部善七郎に、仰せ付けられ、飯田へ持たせ遣はさる。

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十四日、平谷を打ち越し、
(平谷村)

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平谷から北上を続けると、興味深い看板が目に入ってきたので急遽立ち寄りました。
武田方はこの、平谷村の滝之澤という地に城郭(防塁)群を設け、織田軍の侵攻に備えていたようです。
今回は行程上の都合で確認しに行く時間が取れず、後ろ髪を引かれる思いで立ち去りましたが、いずれ必ず再訪してみたいと思います。

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なみあひに御陣取り。爰にて、武田四郎父子の頸、関可兵衛・桑原介六、もたせ参り、御目に懸けら侯。
写真は阿智村浪合の集落と、平谷から続く中馬街道。

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武田勝頼父子首実検の地
信長はここ浪合で、甲斐の田野で打ち取られて運ばれてきた勝頼・信勝父子の首と対面しました。

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両人の首は家臣に命じ、先行して飯田へと送られたようです。

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中馬街道の標柱

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翌14日、浪合を出立した信長は飯田へと向かいます。
きっと、この道を更に北へと進んだことでしょう。

ところで、勝頼父子首実検の地から中馬街道を平谷方面へ少し戻った地点に、波合関所跡が残っているらしいことを知り、立ち寄ってみることにしました。

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石畳らしき痕跡も残る、中馬街道の旧道。

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波合関所跡
中馬街道(伊那街道)に残る関所跡で、武田信玄が滝の沢(先ほどの滝之澤城郭の看板にあった「とつばせ関所跡」か?)に設置したのを皮切りに、何度かの移転を経て、享保7年(1722)以降は明治初期の関所廃止令まで当地に置かれていたようです。

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関所の建物が建っていた痕跡でしょうか、苔むしていい雰囲気でしたが、暗かったので写真は・・・(;^_^A

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門の先、平谷方面へと続く中馬街道。
平谷を打ち越し、北上を続ける信長の軍勢が今にも姿を現しそうな風情です。

浪合をあとにし、我々もこの日の宿泊地である飯田へ向かいましたが、到着時にはすっかり日も暮れていたので、飯田城めぐりは翌日に。
城攻め4つに、山間の街道筋大移動。なかなかハードな行程を組んでしまいましたが、クリアできたのも偏に同行者のお陰・・・感謝。

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2018年10月25日 (木)

向嶽寺、小山城、etc...

今回の山梨旅、ラストの記事になります。

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甲州市塩山の向嶽寺
臨済宗向嶽寺派の大本山で、開基は甲斐守護の武田信成。
寺名は「富嶽に向かう」を由来としています。

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武田信玄も禁制を発給するなどして、向嶽寺の保護に努めています。
当初は「向嶽庵」としていましたが、信玄の朝廷への働きかけで開山の抜隊得勝禅師に「恵光大圓禅師」の諡号を賜り、これを機に向嶽寺と改められました。
伽藍の多くは度重なる火災で失われ、後に再建されたものになります。

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同行者たちが何やら覗き込んでいますが・・・仏殿の天井には龍が描かれていました。

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更には、甲斐国分寺跡や・・・

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国分尼寺跡にも立ち寄りつつ・・・

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ラストは山梨県笛吹市八代町高家の小山城跡へ。
東側の虎口から曲輪内へ入ります。

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規模の大きな土塁が方形に曲輪を囲う、単郭式の遺構でした。
遠くに御坂城の城山も見えています。

甲斐小山城は武田氏時代の城で一旦は廃城となっていたものの、天正10年(1582)、御坂城に拠る北条勢と対峙する徳川家康(天正壬午の乱)が、鳥居元忠にこの城の修築を命じ、守備させていたと伝わります。
遺構の多くも、この時の徳川勢によるものでしょうか。

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土塁の外側には空堀も。
残存状態は結構良さそうです。
さて、これにて1泊2日の山梨旅は終了です。
小山城跡で同行者たちとお別れして帰路へ。中央道の渋滞には難儀したものの、何とか無事に帰宅しました。

旅の趣旨に賛同し、同行していただいた仲間に感謝。
楽しく、多くの歴史に触れることができました。

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2018年10月24日 (水)

大善寺の御開帳、栖雲寺、etc...

山梨旅の2日目はまず、勝沼の大善寺へ。

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大善寺では平成30年10月1~14日までの間、秘仏薬師三尊5年に1度の御開帳を迎えていました。
その最終日に、駆け込むようにして参拝させていただきます。

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勝沼といえば、やはり葡萄ですよね~♪

参拝時間は午前9時からのはずでしたが、その5分前に到着した我々でさえ、既に第3駐車場へまわされるという盛況ぶりでした。

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こちらが今回、御開帳で拝観させていただいた薬師三尊。
御本尊の葡萄を手にした薬師如来(ぶどう薬師)を中心に、向かって右に日光菩薩、左に月光菩薩。
開かれた扉の目の前まで近づくことができ、至近距離でお詣りさせていただけました。

薬師三尊以外にも;
・十二神将立像
・150年ぶりの公開となる紙本着色不動明王画像
・土浦土屋氏(片手千人切の惣藏の子孫)奉納 文殊菩薩立像
・秋田佐竹氏奉納 毘沙門天立像
・永禄12年の武田信玄による小田原攻めの布陣を描いた図屏風

などの他、なんと天正10年4月に発給された、
織田信長の禁制(立て札)
までもがケースに入れるでもなく、裸の状態で陳列されていました。さすがに劣化が激しく、墨書された文字は殆ど判読不能でしたが・・・。
武田氏が滅亡し、新たな支配者となった織田氏の禁制を取り付けるため、大慌てで奔走する当時の住職らの姿を思わず想像してしまいました。

同様に秀吉の禁制木札もありましたが、発給年月を失念しました。おそらく、天正18年の小田原征伐時のものではなかったかと・・・。

最後に理慶尼のお墓にもお詣りして、大善寺をあとにしました。

大善寺参拝の後は田野の景徳院や、土屋惣藏片手千人切の碑にも立ち寄りました。

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景徳院では、旗竪松が失くなっていたことにビックリ!
2017年の1月に訪れた際は確かに健在だったのですが・・・何があったのでしょうか。

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小山田信茂の裏切りに遭い、追い詰められた武田勝頼らが最後に目指していたとも云われる天目山栖雲寺

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栖雲寺からの山深い眺め。

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栖雲寺銅鐘
中世の作で、「甲斐の五鐘」にも数えられています。

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栖雲寺に眠る武田信満と家臣らの墓所。
応永23年(1416)、信満は上杉禅秀の乱に加担するも敗れ、同24年に天目山にて自害しています。

なお、我々の訪問時には法要が行われていたようで、残念ながら庭園の拝観は諦めました。

天目山は蕎麦切り発祥の地でもあるらしいので・・・
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お昼は勿論、景徳院近くのお店でお蕎麦をいただきました(笑)

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有馬晴信謫居の跡
有馬晴信は肥前日野江城主で、キリシタン大名としても有名な人物です。
慶長17年(1612)、本多正純の家臣・岡本大八とのいざこざ(長くなるので割愛)から罪に問われ、幕府の命で甲斐へ流された後に死罪に処されました。
こちらは晴信が甲斐へ流され、死を迎えるまでの僅かな期間を過ごした地ということになります。

この後も更にいくつか史跡をめぐりましたが、それは次の記事にて。
※大善寺や理慶尼、武田氏終焉の地などについては別の記事でも書いていますので、合わせてお読みいただければ幸いです。
「新府城~武田勝頼の終幕」

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2018年7月 1日 (日)

和田宿(中山道)

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国道142号線が同152号線と分岐した先、青原交差点で右折すると旧中山道に入ります。

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旧街道らしく、道端のそこかしこに馬頭観音や道祖神が並べられていました。

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下和田地区の若宮八幡宮

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その境内に、和田城主・大井信定のお墓があります。
天文22年(1553)、大井信定は矢ヶ崎で武田晴信(信玄)と戦って討死し、その首級がこの地に埋葬されたと云います。
元禄6年(1693)、和田の信定寺第六世来安察伝和尚によって墓碑が建立されました。
隣りの羽田家とは、大井氏の重臣だった羽田氏を指すものと思われます。

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若宮八幡宮の少し先、芹沢一里塚跡の碑と中山道。

さ、それでは和田宿へ向かいます。

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和田宿本陣に到着。

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和田宿の地図

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まずは本陣から見学します。
和田宿本陣は文久元年(1861)3月10日、宿場を襲った大火によって焼失しています。
しかし、同年11月には皇女和宮の降嫁が決まっていたことから、幕府からの拝借金を以て急ぎ再建されました。

上の写真は中山道側から撮影しているのですが、御入門が中山道に面しておらず、玄関との位置関係にも違和感を覚えました。
けど、それにはちゃんと理由があったのです。

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本陣内で展示されていた図面。写真上方向に中山道が通っています。
実は現在残る建物は図面のピンクで囲まれた、主に長井家の住居として使われていた主屋部分のみで、で囲まれた、和宮や大名の宿泊に充てられた座敷棟は現存していません
維新後に本陣としての役目を終え、拝借金返済のために売却されて、丸子町の龍願寺に移築されたとのことでした。この時、御入門も同様に丸子町の向陽院に移築されています。
その後、座敷棟の跡地に道路ができ、御入門は中山道と垂直に交わるその新しい道路に面して復元されたため、現在のような少々不自然な配置になったのだそうです。

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写真手前を横に走っているのが中山道で、正面方向奥へ伸びている道路の辺りが座敷棟の跡地です。
江戸へ向かう和宮が泊った場所も、御入門が建っていた位置も、この道路付近のいずれかということになります。

主屋にも式台の玄関が存在しているのは、大名の宿泊がバッティングしてしまった場合に、一方(格の低い方)を主屋側に通すためなのだとか。

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玄関から真っ直ぐ奥へと続く(写真手前から)三之間、二之間、一之間などは、そのための空間です。

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主屋の中でも、そうした大名らを通す格式の高い部屋には、白壁や・・・

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黒壁が用いられていますが、

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完全なプライベート空間である居住スペースはこの通り、土壁のままになっていました。

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裏二階へと上がる箱階段

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裏二階
別の階段で表二階(駕籠などが展示されていました)へも上がることができます。

本陣主屋は昭和59年まで、村役場や農協の事務所などとして利用されてきました。

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和田宿の町並み
右に大黒屋、左奥にかわちや。
いずれも当時の旅籠で、本陣で共通券(300円也)を購入すると見学できます。

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まずは、かわちや(歴史の道資料館)から。
かわちやも文久元年の大火で焼失し、和宮降嫁に備えて急ぎ再建されています。

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板の間から土間
引き戸ではなく、珍しく木製の門扉が取り付けられています。

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和宮に随行してくる公家ら、身分の高い人を泊めることも想定して再建されたため、一旅籠ながら式台の玄関や・・・

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上段の間をも有します。
ガイドさんのお話では、岩倉具視もかわちやに泊まる予定だったものの、あまりの大行列で和田宿だけでは収容できず、岩倉は当宿をスルーして下諏訪まで赴いたのだとか。
なお、式台の玄関が利用されたのは和宮降嫁の行列を迎えた時だけで、それ以外の時は先ほどの木製の門扉を利用していたそうです。

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旅人を泊めていた二階。
窓側の天井が一段低くなっているのが、お分かりいただけるかと思います。
窓は中山道に面しており、当然のことながら参勤交代の行列などが通るので、窓から街道に向かって弓を弾けないようにしてあるのだそうです。

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・・・鉄砲を使われたら意味がないような気もするけど(笑)

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別の階段で、宿主の家族や使用人らが生活する二階へ。
本陣でいうところの裏二階に相当するのかな?

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その裏二階から中山道を見る。

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続いて大黒屋へ。
こちらは無人でしたが、電気が点いて鍵も掛かっていなかったので、チケットもあることだし勝手に入らせていただきました(笑)

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大黒屋では女郎さんを置いていたようで、二階部分は彼女らが逃げ出せないよう、夜は階段を外して閉じ込め部屋になっていたのだそうです。

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こちらは信定寺
武田晴信との合戦で討死した大井信定の菩提を弔うため、天文22年に創建されました。
そういえば、かわちやに「信玄袋」と呼ばれる旅行用の手提げ袋が展示されていました。侵攻~支配を受けたこともあり、何かと武田家と縁の深い土地柄なのですね。
幕末期、当寺14世の活紋禅師は隠居後に上田へ移り、佐久間象山から師と仰がれています。

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信定寺の裏山が大井氏の和田城跡で、いい空堀が残ってるとのことでしたが・・・
雨降る中、途中まではトライしましたが、中腹辺りでルートを見失い、安全を考慮して撤退しました。
いずれまた和田宿を訪れる機会があれば、下調べをした上でリベンジしたいと思います。

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ところで、和田宿にも「いしあい」さんがいらした(今も?)ようです。
割と珍しいお名前だと思うのですが、長久保宿の石合家と関係があるのでしょうか・・・?

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和田宿の先へと続く中山道。

本来であればこの後も中山道を辿りつつ、唐沢の一里塚とか、水戸天狗党の墓とか、観て回りたいポイントがあったのですが、和田に入った頃から降り出した雨がいよいよ本降りとなり、あえなく断念。。。
諏訪まで一気に走り抜け、そのまま中央道で帰路につきました。

今回は車での行動だったので見落としも多く、改めて街道旅は歩くに限ると思いました。
いずれ再チャレンジしたいと思います。

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2018年6月30日 (土)

芦田宿・笠取峠松並木・長久保宿(中山道)

前日は小諸からスタートして海野宿~上田と、結果的に北国街道に沿ってドライブしてきましたが、2日目は立科町の芦田宿から中山道を、諏訪方面へ向かって進んでいきます。

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中山道、芦田宿
仙石権兵衛秀久の命で慶長2年(1597)に成立しました。

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芦田宿では明治以降、中山道の道筋が多少改変されているようで、車道から逸れた、現在は畑となっている場所に江戸時代の道の痕跡が一部残されていました。

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石打場公園
この辺りが芦田村の境界にあたるようです。

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芦田宿を抜けると、中山道は笠取峠に差し掛かっていきます。
写真中央奥、交錯する2本の国道の間を縫うようにして進みます。

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先ほどの交差点から2~30mほども進むと、中山道は車道から逸れ、街道沿いに笠取峠の松並木が現れます。

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笠取峠松並木
江戸時代初期、幕府は諸街道の整備を進め、慶長7年(1602)頃からは一里塚の設置や並木の植樹を奨励しています。
芦田宿と長久保宿の間にある笠取峠の松並木は、小諸藩が幕府から下付された数百本の赤松を、峠道約1.6㎞に渡って植樹したものです。

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大正13年(1924)の調査時には229本が確認されていますが、平成の初期段階で110本、平成30年の現在では約70本を残すのみとなっています。

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中山道で唯一現存する江戸時代の松並木・・・何とか永く保っていってもらいたいものです。

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松並木をしばらく登っていくと、中山道が国道142号線に分断される箇所に出ます。

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その国道との交錯点に、小諸領境界石標が建っていました。
前日に訪れた小諸城の本丸跡に笠取峠の石標が移設されていましたので、こちらは復元されたものになりますでしょうか。

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国道を越えても、松並木はまだ続いていました。

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この先、中山道が再び国道にぶつかるところで、松並木も途切れているようです。
この後は少し車で移動します。

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笠取峠松並木から車で5分ほども走ると、芦田宿に続く中山道の宿場町、長久保宿に到着します。

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長久保宿と中山道の景観

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左手前に長久保宿歴史資料館が写っていますが、実は明治初期にほぼ同じアングルで撮られた写真が残っています。

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こちらがその1枚。
左隅で2人の男性が立っている辺りが、現在は歴史資料館になっている場所らしいです。

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まずは長久保宿歴史資料館の見学から。
資料館の建物は明治初期、一福処濱屋という旅籠として建てられたものの、維新後に街道の交通量が減少したことから開業には至らなかったそうです。

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長久保宿本陣、石合家
石合家4代目当主の元には、真田信繁の娘(一般に「すえ」と伝わる)も嫁いでいます。
「真田丸」でも、恒松祐里さん演じる「すえ」が、加藤諒さん演じる「石合十蔵」に嫁いでいましたね。

寛延2年(1749)の絵図面と現状の間取りが同じことから17世紀後半の建築と推定され、中山道に現存する本陣遺構としては最古のものとされています。

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こちらは竹内家住宅(釜鳴屋)
享保16年(1731)の祈祷札に打ち替えた跡がないことから、それ以前に建てられたものとして、長野県内最古の町屋建築とされています。

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脇本陣跡

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丸木屋の内部もちょっとだけ見学。
元は旅籠で、慶応3年(1867)に築かれました。

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続いて、長久保宿から少し離れて西蓮寺へ。
こちらに石合家へ嫁いだ真田信繁息女のお墓があるというので、お参りさせていただくことにしました。

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墓地の片隅で静かに眠る、真田信繁息女墓。
父の死後も、彼女が平穏な日々を送れたことを願います。

この後は中山道を更に京方へ進み、和田宿へ向かいます。

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2018年6月29日 (金)

海野宿、芳泉寺

小諸をあとにして向かった先は、北国街道の海野宿(東御市)です。

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海野宿の入口に鎮座する白鳥神社
詳しい創建時期は判っていませんが、「平家物語」や「源平盛衰記」が木曽義仲の挙兵(治承5年/1181)を白鳥河原の勢揃」として伝えているので、平安時代には既に鎮座していたものと考えられます。
「白鳥河原」とは白鳥神社の前に広がる千曲川の川原のことで、この地は以仁王の令旨に応じた義仲挙兵の地としても知られているのです。
海野荘に勢力を張る海野氏からも、幸親・幸広父子が義仲軍に参陣して活躍しました。

建久2年(1191)には、海野幸広の子(もしくは弟)・幸氏が白鳥神社の社殿を遷しています。
幸氏は義仲の子・清水冠者義高に仕えて鎌倉入りし、その後は頼朝の家臣となって重用されました。

御神木のケヤキは推定樹齢700年以上ということなので、或いはそういった歴史を見守ってきたのかもしれません。

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海野宿
寛永2年(1625)の成立と伝わる北国街道の宿場町です。
往時は約650mに渡って旅籠屋造の建物が軒を並べていました。今も「海野格子」と呼ばれる出格子を二階に持つ建物がよく残されています。

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こんな立派な「うだつ」も。

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平日とあって訪れる人もごく僅かで、とてもゆったりとした気分で散策を楽しめました。

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海野宿本陣

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こんな案内を目にしたら・・・行かない訳にはいかないでしょう(笑)

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海野氏の菩提寺、興善寺

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永正3年(1506)の開創で、開基は海野幸明と伝えられています。
天文10年(1541)、信濃に侵攻した武田晴信(信玄)との戦いで海野幸義が戦死し、海野氏は滅亡しました。

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境内に眠る海野幸明の墓所。

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海野宿まで戻り、北国街道の往来を眺めながら美味しいお蕎麦をいただきました。

この後は、宿を押さえている上田市へ向かいます。

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上田城下の芳泉寺
元和8年(1622)、真田家が松代へ移封された後に小諸から上田に入った仙石忠政は、真田昌幸が当地に置いていた常福寺を下之条へと移転させ、自らの菩提寺であった宝仙寺を小諸から移しました。
延宝2年(1674)、忠政の子・政俊の死後、寺名を芳泉寺と改めています。

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真田信之正室・小松姫の墓所。
小松姫は元和6年(1620)、埼玉の鴻巣で没し、勝願寺で密葬されました。
芳泉寺の墓所は、信之が小松姫の一周忌に建立したものです。

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小松姫の墓所の隣には、仙石家の霊廟も。
手前は仙石政俊の霊廟で、左奥には藩祖・秀久(政俊祖父)らの霊廟もあります。

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仙石権兵衛秀久のお墓。
奇しくも5月には、秀久・小松姫両名の墓参に鴻巣の勝願寺を訪れたばかりでした。
何の因果か共に鴻巣で生涯を終え、親族によって上田でも供養され、、、歴史の偶然に不思議な力を感じた瞬間でした。

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ホテルにチェックイン後は、上田駅前へ。
上田には何度か訪れていますが、駅前は初めてなので、こちらの銅像にも初めてお目に掛かりました。

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ふらっと入ったお店で一献。
久しぶりに美味しい馬肉もいただけて満足・・・早めに切り上げて、翌日に備えました。

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