カテゴリー「お城、史跡巡り 甲信越」の19件の記事

2018年10月25日 (木)

向嶽寺、小山城、etc...

今回の山梨旅、ラストの記事になります。

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甲州市塩山の向嶽寺
臨済宗向嶽寺派の大本山で、開基は甲斐守護の武田信成。
寺名は「富嶽に向かう」を由来としています。

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武田信玄も禁制を発給するなどして、向嶽寺の保護に努めています。
当初は「向嶽庵」としていましたが、信玄の朝廷への働きかけで開山の抜隊得勝禅師に「恵光大圓禅師」の諡号を賜り、これを機に向嶽寺と改められました。
伽藍の多くは度重なる火災で失われ、後に再建されたものになります。

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同行者たちが何やら覗き込んでいますが・・・仏殿の天井には龍が描かれていました。

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更には、甲斐国分寺跡や・・・

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国分尼寺跡にも立ち寄りつつ・・・

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ラストは山梨県笛吹市八代町高家の小山城跡へ。
東側の虎口から曲輪内へ入ります。

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規模の大きな土塁が方形に曲輪を囲う、単郭式の遺構でした。
遠くに御坂城の城山も見えています。

甲斐小山城は武田氏時代の城で一旦は廃城となっていたものの、天正10年(1582)、御坂城に拠る北条勢と対峙する徳川家康(天正壬午の乱)が、鳥居元忠にこの城の修築を命じ、守備させていたと伝わります。
遺構の多くも、この時の徳川勢によるものでしょうか。

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土塁の外側には空堀も。
残存状態は結構良さそうです。
さて、これにて1泊2日の山梨旅は終了です。
小山城跡で同行者たちとお別れして帰路へ。中央道の渋滞には難儀したものの、何とか無事に帰宅しました。

旅の趣旨に賛同し、同行していただいた仲間に感謝。
楽しく、多くの歴史に触れることができました。

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2018年10月24日 (水)

大善寺の御開帳、栖雲寺、etc...

山梨旅の2日目はまず、勝沼の大善寺へ。

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大善寺では平成30年10月1~14日までの間、秘仏薬師三尊5年に1度の御開帳を迎えていました。
その最終日に、駆け込むようにして参拝させていただきます。

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勝沼といえば、やはり葡萄ですよね~♪

参拝時間は午前9時からのはずでしたが、その5分前に到着した我々でさえ、既に第3駐車場へまわされるという盛況ぶりでした。

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こちらが今回、御開帳で拝観させていただいた薬師三尊。
御本尊の葡萄を手にした薬師如来(ぶどう薬師)を中心に、向かって右に日光菩薩、左に月光菩薩。
開かれた扉の目の前まで近づくことができ、至近距離でお詣りさせていただけました。

薬師三尊以外にも;
・十二神将立像
・150年ぶりの公開となる紙本着色不動明王画像
・土浦土屋氏(片手千人切の惣藏の子孫)奉納 文殊菩薩立像
・秋田佐竹氏奉納 毘沙門天立像
・永禄12年の武田信玄による小田原攻めの布陣を描いた図屏風

などの他、なんと天正10年4月に発給された、
織田信長の禁制(立て札)
までもがケースに入れるでもなく、裸の状態で陳列されていました。さすがに劣化が激しく、墨書された文字は殆ど判読不能でしたが・・・。
武田氏が滅亡し、新たな支配者となった織田氏の禁制を取り付けるため、大慌てで奔走する当時の住職らの姿を思わず想像してしまいました。

同様に秀吉の禁制木札もありましたが、発給年月を失念しました。おそらく、天正18年の小田原征伐時のものではなかったかと・・・。

最後に理慶尼のお墓にもお詣りして、大善寺をあとにしました。

大善寺参拝の後は田野の景徳院や、土屋惣藏片手千人切の碑にも立ち寄りました。

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景徳院では、旗竪松が失くなっていたことにビックリ!
2017年の1月に訪れた際は確かに健在だったのですが・・・何があったのでしょうか。

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小山田信茂の裏切りに遭い、追い詰められた武田勝頼らが最後に目指していたとも云われる天目山栖雲寺

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栖雲寺からの山深い眺め。

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栖雲寺銅鐘
中世の作で、「甲斐の五鐘」にも数えられています。

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栖雲寺に眠る武田信満と家臣らの墓所。
応永23年(1416)、信満は上杉禅秀の乱に加担するも敗れ、同24年に天目山にて自害しています。

なお、我々の訪問時には法要が行われていたようで、残念ながら庭園の拝観は諦めました。

天目山は蕎麦切り発祥の地でもあるらしいので・・・
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お昼は勿論、景徳院近くのお店でお蕎麦をいただきました(笑)

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有馬晴信謫居の跡
有馬晴信は肥前日野江城主で、キリシタン大名としても有名な人物です。
慶長17年(1612)、本多正純の家臣・岡本大八とのいざこざ(長くなるので割愛)から罪に問われ、幕府の命で甲斐へ流された後に死罪に処されました。
こちらは晴信が甲斐へ流され、死を迎えるまでの僅かな期間を過ごした地ということになります。

この後も更にいくつか史跡をめぐりましたが、それは次の記事にて。
※大善寺や理慶尼、武田氏終焉の地などについては別の記事でも書いていますので、合わせてお読みいただければ幸いです。
「新府城~武田勝頼の終幕」

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2018年7月 1日 (日)

和田宿(中山道)

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国道142号線が同152号線と分岐した先、青原交差点で右折すると旧中山道に入ります。

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旧街道らしく、道端のそこかしこに馬頭観音や道祖神が並べられていました。

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下和田地区の若宮八幡宮

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その境内に、和田城主・大井信定のお墓があります。
天文22年(1553)、大井信定は矢ヶ崎で武田晴信(信玄)と戦って討死し、その首級がこの地に埋葬されたと云います。
元禄6年(1693)、和田の信定寺第六世来安察伝和尚によって墓碑が建立されました。
隣りの羽田家とは、大井氏の重臣だった羽田氏を指すものと思われます。

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若宮八幡宮の少し先、芹沢一里塚跡の碑と中山道。

さ、それでは和田宿へ向かいます。

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和田宿本陣に到着。

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和田宿の地図

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まずは本陣から見学します。
和田宿本陣は文久元年(1861)3月10日、宿場を襲った大火によって焼失しています。
しかし、同年11月には皇女和宮の降嫁が決まっていたことから、幕府からの拝借金を以て急ぎ再建されました。

上の写真は中山道側から撮影しているのですが、御入門が中山道に面しておらず、玄関との位置関係にも違和感を覚えました。
けど、それにはちゃんと理由があったのです。

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本陣内で展示されていた図面。写真上方向に中山道が通っています。
実は現在残る建物は図面のピンクで囲まれた、主に長井家の住居として使われていた主屋部分のみで、で囲まれた、和宮や大名の宿泊に充てられた座敷棟は現存していません
維新後に本陣としての役目を終え、拝借金返済のために売却されて、丸子町の龍願寺に移築されたとのことでした。この時、御入門も同様に丸子町の向陽院に移築されています。
その後、座敷棟の跡地に道路ができ、御入門は中山道と垂直に交わるその新しい道路に面して復元されたため、現在のような少々不自然な配置になったのだそうです。

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写真手前を横に走っているのが中山道で、正面方向奥へ伸びている道路の辺りが座敷棟の跡地です。
江戸へ向かう和宮が泊った場所も、御入門が建っていた位置も、この道路付近のいずれかということになります。

主屋にも式台の玄関が存在しているのは、大名の宿泊がバッティングしてしまった場合に、一方(格の低い方)を主屋側に通すためなのだとか。

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玄関から真っ直ぐ奥へと続く(写真手前から)三之間、二之間、一之間などは、そのための空間です。

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主屋の中でも、そうした大名らを通す格式の高い部屋には、白壁や・・・

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黒壁が用いられていますが、

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完全なプライベート空間である居住スペースはこの通り、土壁のままになっていました。

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裏二階へと上がる箱階段

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裏二階
別の階段で表二階(駕籠などが展示されていました)へも上がることができます。

本陣主屋は昭和59年まで、村役場や農協の事務所などとして利用されてきました。

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和田宿の町並み
右に大黒屋、左奥にかわちや。
いずれも当時の旅籠で、本陣で共通券(300円也)を購入すると見学できます。

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まずは、かわちや(歴史の道資料館)から。
かわちやも文久元年の大火で焼失し、和宮降嫁に備えて急ぎ再建されています。

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板の間から土間
引き戸ではなく、珍しく木製の門扉が取り付けられています。

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和宮に随行してくる公家ら、身分の高い人を泊めることも想定して再建されたため、一旅籠ながら式台の玄関や・・・

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上段の間をも有します。
ガイドさんのお話では、岩倉具視もかわちやに泊まる予定だったものの、あまりの大行列で和田宿だけでは収容できず、岩倉は当宿をスルーして下諏訪まで赴いたのだとか。
なお、式台の玄関が利用されたのは和宮降嫁の行列を迎えた時だけで、それ以外の時は先ほどの木製の門扉を利用していたそうです。

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旅人を泊めていた二階。
窓側の天井が一段低くなっているのが、お分かりいただけるかと思います。
窓は中山道に面しており、当然のことながら参勤交代の行列などが通るので、窓から街道に向かって弓を弾けないようにしてあるのだそうです。

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・・・鉄砲を使われたら意味がないような気もするけど(笑)

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別の階段で、宿主の家族や使用人らが生活する二階へ。
本陣でいうところの裏二階に相当するのかな?

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その裏二階から中山道を見る。

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続いて大黒屋へ。
こちらは無人でしたが、電気が点いて鍵も掛かっていなかったので、チケットもあることだし勝手に入らせていただきました(笑)

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大黒屋では女郎さんを置いていたようで、二階部分は彼女らが逃げ出せないよう、夜は階段を外して閉じ込め部屋になっていたのだそうです。

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こちらは信定寺
武田晴信との合戦で討死した大井信定の菩提を弔うため、天文22年に創建されました。
そういえば、かわちやに「信玄袋」と呼ばれる旅行用の手提げ袋が展示されていました。侵攻~支配を受けたこともあり、何かと武田家と縁の深い土地柄なのですね。
幕末期、当寺14世の活紋禅師は隠居後に上田へ移り、佐久間象山から師と仰がれています。

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信定寺の裏山が大井氏の和田城跡で、いい空堀が残ってるとのことでしたが・・・
雨降る中、途中まではトライしましたが、中腹辺りでルートを見失い、安全を考慮して撤退しました。
いずれまた和田宿を訪れる機会があれば、下調べをした上でリベンジしたいと思います。

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ところで、和田宿にも「いしあい」さんがいらした(今も?)ようです。
割と珍しいお名前だと思うのですが、長久保宿の石合家と関係があるのでしょうか・・・?

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和田宿の先へと続く中山道。

本来であればこの後も中山道を辿りつつ、唐沢の一里塚とか、水戸天狗党の墓とか、観て回りたいポイントがあったのですが、和田に入った頃から降り出した雨がいよいよ本降りとなり、あえなく断念。。。
諏訪まで一気に走り抜け、そのまま中央道で帰路につきました。

今回は車での行動だったので見落としも多く、改めて街道旅は歩くに限ると思いました。
いずれ再チャレンジしたいと思います。

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2018年6月30日 (土)

芦田宿・笠取峠松並木・長久保宿(中山道)

前日は小諸からスタートして海野宿~上田と、結果的に北国街道に沿ってドライブしてきましたが、2日目は立科町の芦田宿から中山道を、諏訪方面へ向かって進んでいきます。

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中山道、芦田宿
仙石権兵衛秀久の命で慶長2年(1597)に成立しました。

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芦田宿では明治以降、中山道の道筋が多少改変されているようで、車道から逸れた、現在は畑となっている場所に江戸時代の道の痕跡が一部残されていました。

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石打場公園
この辺りが芦田村の境界にあたるようです。

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芦田宿を抜けると、中山道は笠取峠に差し掛かっていきます。
写真中央奥、交錯する2本の国道の間を縫うようにして進みます。

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先ほどの交差点から2~30mほども進むと、中山道は車道から逸れ、街道沿いに笠取峠の松並木が現れます。

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笠取峠松並木
江戸時代初期、幕府は諸街道の整備を進め、慶長7年(1602)頃からは一里塚の設置や並木の植樹を奨励しています。
芦田宿と長久保宿の間にある笠取峠の松並木は、小諸藩が幕府から下付された数百本の赤松を、峠道約1.6㎞に渡って植樹したものです。

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大正13年(1924)の調査時には229本が確認されていますが、平成の初期段階で110本、平成30年の現在では約70本を残すのみとなっています。

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中山道で唯一現存する江戸時代の松並木・・・何とか永く保っていってもらいたいものです。

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松並木をしばらく登っていくと、中山道が国道142号線に分断される箇所に出ます。

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その国道との交錯点に、小諸領境界石標が建っていました。
前日に訪れた小諸城の本丸跡に笠取峠の石標が移設されていましたので、こちらは復元されたものになりますでしょうか。

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国道を越えても、松並木はまだ続いていました。

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この先、中山道が再び国道にぶつかるところで、松並木も途切れているようです。
この後は少し車で移動します。

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笠取峠松並木から車で5分ほども走ると、芦田宿に続く中山道の宿場町、長久保宿に到着します。

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長久保宿と中山道の景観

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左手前に長久保宿歴史資料館が写っていますが、実は明治初期にほぼ同じアングルで撮られた写真が残っています。

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こちらがその1枚。
左隅で2人の男性が立っている辺りが、現在は歴史資料館になっている場所らしいです。

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まずは長久保宿歴史資料館の見学から。
資料館の建物は明治初期、一福処濱屋という旅籠として建てられたものの、維新後に街道の交通量が減少したことから開業には至らなかったそうです。

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長久保宿本陣、石合家
石合家4代目当主の元には、真田信繁の娘(一般に「すえ」と伝わる)も嫁いでいます。
「真田丸」でも、恒松祐里さん演じる「すえ」が、加藤諒さん演じる「石合十蔵」に嫁いでいましたね。

寛延2年(1749)の絵図面と現状の間取りが同じことから17世紀後半の建築と推定され、中山道に現存する本陣遺構としては最古のものとされています。

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こちらは竹内家住宅(釜鳴屋)
享保16年(1731)の祈祷札に打ち替えた跡がないことから、それ以前に建てられたものとして、長野県内最古の町屋建築とされています。

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脇本陣跡

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丸木屋の内部もちょっとだけ見学。
元は旅籠で、慶応3年(1867)に築かれました。

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続いて、長久保宿から少し離れて西蓮寺へ。
こちらに石合家へ嫁いだ真田信繁息女のお墓があるというので、お参りさせていただくことにしました。

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墓地の片隅で静かに眠る、真田信繁息女墓。
父の死後も、彼女が平穏な日々を送れたことを願います。

この後は中山道を更に京方へ進み、和田宿へ向かいます。

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2018年6月29日 (金)

海野宿、芳泉寺

小諸をあとにして向かった先は、北国街道の海野宿(東御市)です。

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海野宿の入口に鎮座する白鳥神社
詳しい創建時期は判っていませんが、「平家物語」や「源平盛衰記」が木曽義仲の挙兵(治承5年/1181)を白鳥河原の勢揃」として伝えているので、平安時代には既に鎮座していたものと考えられます。
「白鳥河原」とは白鳥神社の前に広がる千曲川の川原のことで、この地は以仁王の令旨に応じた義仲挙兵の地としても知られているのです。
海野荘に勢力を張る海野氏からも、幸親・幸広父子が義仲軍に参陣して活躍しました。

建久2年(1191)には、海野幸広の子(もしくは弟)・幸氏が白鳥神社の社殿を遷しています。
幸氏は義仲の子・清水冠者義高に仕えて鎌倉入りし、その後は頼朝の家臣となって重用されました。

御神木のケヤキは推定樹齢700年以上ということなので、或いはそういった歴史を見守ってきたのかもしれません。

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海野宿
寛永2年(1625)の成立と伝わる北国街道の宿場町です。
往時は約650mに渡って旅籠屋造の建物が軒を並べていました。今も「海野格子」と呼ばれる出格子を二階に持つ建物がよく残されています。

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こんな立派な「うだつ」も。

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平日とあって訪れる人もごく僅かで、とてもゆったりとした気分で散策を楽しめました。

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海野宿本陣

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こんな案内を目にしたら・・・行かない訳にはいかないでしょう(笑)

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海野氏の菩提寺、興善寺

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永正3年(1506)の開創で、開基は海野幸明と伝えられています。
天文10年(1541)、信濃に侵攻した武田晴信(信玄)との戦いで海野幸義が戦死し、海野氏は滅亡しました。

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境内に眠る海野幸明の墓所。

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海野宿まで戻り、北国街道の往来を眺めながら美味しいお蕎麦をいただきました。

この後は、宿を押さえている上田市へ向かいます。

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上田城下の芳泉寺
元和8年(1622)、真田家が松代へ移封された後に小諸から上田に入った仙石忠政は、真田昌幸が当地に置いていた常福寺を下之条へと移転させ、自らの菩提寺であった宝仙寺を小諸から移しました。
延宝2年(1674)、忠政の子・政俊の死後、寺名を芳泉寺と改めています。

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真田信之正室・小松姫の墓所。
小松姫は元和6年(1620)、埼玉の鴻巣で没し、勝願寺で密葬されました。
芳泉寺の墓所は、信之が小松姫の一周忌に建立したものです。

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小松姫の墓所の隣には、仙石家の霊廟も。
手前は仙石政俊の霊廟で、左奥には藩祖・秀久(政俊祖父)らの霊廟もあります。

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仙石権兵衛秀久のお墓。
奇しくも5月には、秀久・小松姫両名の墓参に鴻巣の勝願寺を訪れたばかりでした。
何の因果か共に鴻巣で生涯を終え、親族によって上田でも供養され、、、歴史の偶然に不思議な力を感じた瞬間でした。

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ホテルにチェックイン後は、上田駅前へ。
上田には何度か訪れていますが、駅前は初めてなので、こちらの銅像にも初めてお目に掛かりました。

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ふらっと入ったお店で一献。
久しぶりに美味しい馬肉もいただけて満足・・・早めに切り上げて、翌日に備えました。

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2018年6月28日 (木)

小諸城と城下の町並み

今回は久しぶりの一人旅。
ドライブを楽しみたくて、愛車と共に信州へ出かけてきました。

休暇を取得し、平日の8:30頃にゆったりと出発。
圏央道→関越→上信越と高速道路を乗り継ぎ、まず最初に向かった先は・・・

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小諸城(懐古園)です。

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城跡北側にある駐車場に車を停めると、目の前に大きな空堀のような谷底が口を開けていました。
北谷と呼ばれる、おそらくは自然の地形ですが、これを空堀に見立てて縄張りされた様子が見て取れます。

三の門前の料金所から懐古園に入場し、曲輪が連なる西へ向かって進んでいきます。

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二の丸

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二の丸からの、北の丸・南の丸越しに本丸方向。
写真では分かりづらいかもしれませんが、本丸方向へ進むにつれ、地形が緩やかに下っています
本丸周辺の先端部分が最も低地となることから、小諸城は「穴城」とも呼ばれているそうです。

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南の丸の石垣にあった「鶯石」
城主が通行したり、何か祝い事があるとウグイスの声で鳴いたのだとか・・・。

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南の丸から木谷
こちらの谷も、なかなかの要害ぶりです。

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主郭手前の堀切に架かる黒門橋

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黒門橋上から見る堀切

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黒門橋を渡った先が黒門跡。

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黒門跡の先にそびえる本丸の石垣。

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本丸跡(懐古神社)

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懐古神社鳥居の脇には、「小諸領境界石標」が移設されていました。
文化3年(1806)のもので、西は軽井沢の追分の原、東は立科町の笠取峠にそれぞれ設置されていました。

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山本勘助愛用の鏡石・・・ホントに?(;^_^A
ちなみに勘助は、現在に遺構が残る小諸城のベースとなる縄張りを担当したとも伝えられています。

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天守台

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天守台石垣
天守自体は、寛永6年(1629)の落雷により焼失しています。

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西谷

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北谷
あちらの橋へ下りてみると・・・

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主郭部下の北谷は、岩盤質の絶壁がほぼ垂直に切り立っていました。
これは到底、攻め登ることはできそうにありません・・・。

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水の手展望台からの眺め。

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武器庫

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城内で唯一の井戸となる荒神井戸

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再び三の門まで戻ってきました。
次は大手門へ向かいます。

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三の門前にある徳川秀忠の「憩石」
慶長5年(1600)の第二次上田合戦で、徳川軍は小諸城を本陣としていますが、その在陣中、秀忠が腰を掛けていた石との伝承に由来しています。

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三の門から線路を越えた先にある大手門。
小諸駅一帯が、三の丸の跡地に該当するようです。

こちらの大手門は慶長17年(1612)、初代小諸藩主・仙石権兵衛秀久により創建されました。
明治以降は小諸義塾の仮教室や料亭として利用されてきましたが、平成20年になって往時の姿に復元されています。

引き続き、城下町を散策します。

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移築復元された小諸宿本陣の主屋。
明治11年(1878)に佐久市の桃源院に移築され、桃源院の本堂や庫裡として利用されてきましたが、平成7年に小諸市へ寄贈され、本陣跡地にも近い「せせらぎの丘」に復元されました。

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北国街道沿いに建つ、旧小諸宿本陣・問屋場(国重要文化財)
小諸宿は北国街道の宿場町の一つで、参勤交代や善光寺詣などの需要もあって栄えました。
先ほどの主屋も、本来はこちらに建っていたことになります。

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本陣跡から北国街道を少し東へ進んだ先、脇本陣跡。
一見したところ廃屋のようにも見えますが、なかなか風情のある建物です。

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本町交差点まで来たところで一旦北国街道を離れ、権兵衛坂へ。
同交差点から北北東へ伸びる、細い下り坂の路地です。
「権兵衛坂」の名は、小諸城主となった仙石権兵衛秀久が、健速神社参拝の折に通行していたことに由来するそうです。(諸説あり)

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権兵衛坂を下った先の常盤橋
何となく古そうな橋だなぁ~と思って調べてみると、昭和3年の竣工だそうです。

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仙石秀久も参拝した・・・健速神社
但し、当地に遷座されたのは延宝3年(1675)とのことなので、秀久が参拝していた時は別の場所にあったことになります。
御神木のケヤキは推定樹齢4~500年、毎年7月に行われる例祭、「祇園祭」が有名です。

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北国街道に戻りました。

小諸散策はこのあたりで切り上げ、(ほぼ)北国街道伝いに少し移動します。

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2017年1月 6日 (金)

新府城~武田勝頼の終幕

2017年最初の城攻めは、山梨県韮崎市にある新府城です。

新府城図
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新府城は武田勝頼の命により、躑躅ヶ崎館(古府中)に替わる甲斐武田家の新たな本拠として築城されました。
東に塩川、西には釜無川が流れ、両河川の浸食により形成された七里岩の台地上に築かれています。

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江戸時代に描かれた新府城図
実際にめぐってみて分かったのですが、ほぼこの絵図通りの遺構がよく残っていました。
駐車場が城跡の北側にありましたので、そのまま北から順にまわっていきます。

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駐車場に城跡北面の、東西2本の出構に関する説明板があったので、まずはその出構から見ていきます。

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東出構
奥に小さく、西の出構も写っています。

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西出構

これら2本の出構、如何なる目的を持って築かれたものかがはっきりとせず、横堀の水量を調節するためのダム的なものではないか、との説もあるようです。
或いは、突出させた鉄砲陣地とも・・・。

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(城跡北面の)西堀
正面奥、七里岩の断崖の縁に築かれた土橋は、搦手の乾門に繋がります。

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乾門の枡形

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綺麗な枡形虎口です。

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枡形を抜けた先の曲輪。
城外側となる北面にのみ、しっかりとした土塁が残っていました。

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帯曲輪へと続く土橋
右側は七里岩の断崖へ向けて竪堀が落とされていました。

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土橋から落とされた竪堀

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それにしても見事な、七里岩の絶壁っぷり・・・
眼下を流れているのは釜無川です。

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帯曲輪から見る西出構

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帯曲輪
北面の東堀・西堀の内側に配されていますが、堀底道のようにも見えます。
二重の横堀としての側面もあったのかもしれません。

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同じく、帯曲輪からの東出構

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井戸跡

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二の丸虎口

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二の丸

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二の丸を抜けると、いよいよ本丸へ・・・

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新府城本丸

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本丸には、とても広い空間が広がっていました。

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本丸に建つ藤武神社
新府城築城の際、城の鎮守として勝頼が城内に勧請しました。
天正10年に城と共に焼失しますが、後に徳川家康の命により再興されています。

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武田勝頼霊社の石祠
地元の民によって祀られ、お新府さんと呼んで親しまれてきたと伝わっています。

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本丸には他に、長篠役陣歿将士墓小塚に・・・

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大塚もありました。
大塚・小塚の脇には、長篠合戦で戦死した諸将の墓標が並びます。

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本丸から見上げる西方の山々・・・きっと勝頼たちも目にしていた光景ですね。

続けて南側の遺構を見てまわります。

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西三の丸の虎口

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東・西三の丸の南へ回り込み、横堀状の遺構を眺めつつ進むと・・・

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いよいよ一番の見どころのお出ましです。

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大手(南)の枡形、そして・・・

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その平虎口の先には丸馬出

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丸馬出から南側の眺め
城域南面も“断崖”とまではいかないものの、結構な高低差がありました。

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丸馬出から振り返る枡形

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そして、新府城で最もポピュラー?な…丸馬出の三日月堀

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草も刈られ、とても見易くなっていました。

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一通り見てまわり、駐車場へ戻る道すがら城跡東側の地形も観察。
堰のようなものが設けられていた痕跡も見受けられますが・・・

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流れ込んでいた沢の幅を掘り広げ、外堀として見立てていたのではないかと思います。

新府城…遺構の保存状態も良く、とても見応えのあるお城でした。
ただ、七里岩の断崖を利用しているとはいえ、構造そのものは特別戦う城という印象は受けませんでした
城跡だけで比較すると、躑躅ヶ崎館からあえて移転する必要性も認められません。釜無川と塩川に挟まれた台地に地勢・地形的な要害性を求め、首都機能をそっくり移そうとした・・・といったところでしょうか。
新首都(まさに新府中)の完成を見るには、移転着手(天正9年)から織田軍の侵攻(天正10年)まで、あまりに時間が少なすぎたか・・・。

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塩川の対岸で見かけた、切り立った断崖。
周辺の地形を見るにつけ、勝頼にもっと時間があれば、果たしてどのような要塞都市が出来上がっていたのか・・・想像を膨らませずにはいられません。

天正10年3月、織田軍の侵攻を受けて家臣の離反も相次いだ武田勝頼は、新府城を捨て、小山田信茂の岩殿山城(大月市)を目指して落ちていきます。
しかし笹子峠に差し掛かったところで、今度はその信茂にも背かれ、やむなく北の天目山へ向かうことになりました。
天目山には、武田家13代・信満の菩提寺でもある栖雲寺があります。

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甲州市大和町田野の山間に建つ土屋惣藏片手切遺蹟の碑

天目山を目指し、険しい山中を逃れる勝頼一行でしたが、その動きは既に織田方に察知されており(信長公記)、捜索の末に田野の山中に潜伏しているところを捕捉されました。
織田勢に先回りされていることを悟った勝頼は田野の郷へと引き返します。

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最後まで勝頼に従った土屋惣藏昌恒は殿軍を引き受け、山中の険しい細道で蔦に掴まり、片手で迫る織田の将兵を次々と切り伏せ、日川の狭隘な渓谷に叩き落としていったと云います。

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今でこそ県道が舗装されていますが、大正期に撮影された写真でその険阻な様子が充分に見て取れます。

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日川は切り捨てられた織田兵の血で、三日間も赤く染まったとか・・・そのため、三日血川との呼称も伝えられています。

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片手切の碑から2㎞弱ほど麓側へ下ると、武田勝頼夫妻、嫡子・信勝らの最期の地となった景徳院(別名:田野寺)があります。
元々はお寺ではありませんでしたが、勝頼らの菩提を弔うため、武田家滅亡~本能寺の変の後、甲斐を領有した徳川家康によって創建されました。天正16年には諸伽藍も完成したようです。
この高台を利して最後の決戦に挑む心づもりだったのでしょうか。

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景徳院駐車場にあった北条夫人、及び侍女16人のレリーフ。
天正10年3月11日、北条夫人の侍女ら16名は日川の渕に身を投じ、夫人に殉じたと云います。

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レリーフ裏の日川の淵
侍女らの悲劇にちなみ、別名姫ヶ淵とも呼ばれています。
※(三日血川)とは既に書きましたが、土屋惣藏に斬られた織田兵の血で日川が三日間赤く染まった、というエピソードに由来します。

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境内に向かって斜面を登っていくと、没頭地蔵が祀られています。
一説には、首級を獲られた勝頼ら3人を憐れんだ田野の民が、その遺骸をこの場所に葬ったとも。

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武田勝頼(奥)と北条夫人(手前)の生害石

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北条夫人、享年19

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武田勝頼、享年37

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こちらは夫妻のものから少し離れていますが、武田信勝の生害石。享年16

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奥から北条夫人、武田勝頼、武田信勝のお墓。
安永4年(1775)に建立されました。3名の戒名などを記した経石も大量に見つかっているそうです。

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北条夫人の辞世歌碑

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景徳院山門
天正16年の建立以来、唯一の現存建築物です。

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本堂前の旗竪松
織田軍に追い詰められた武田勝頼は、この松の根元に武田家累代の家宝である御旗を立て、嫡子信勝に盾無鎧を着せてかん甲の礼(跡目継承)を行ったとされます。

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景徳院境内から眺める天目山

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最後は勝沼の大善寺へ。
新府城を落ち、現大月市の岩殿山城を目指す勝頼一行はその途次、ここ大善寺に立ち寄っています。

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大善寺薬師堂は、1286年建立の国宝。
勝頼らが逃れてきた時にも既に存在しており、或いは実際に泊った可能性もあるのでは?と考えると、何だか感慨深くもなってきます。
御本尊の葡萄薬師は来年(平成30年)10月1日~14日の御開帳(5年に1度)を待たねばなりませんが、薬師堂内は拝観できました。

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大善寺には信玄の従妹にあたる理慶尼(勝沼氏の出)という尼僧がいました。
勝頼らを迎えた理慶尼は一行を篤くもてなし、後にその顛末を記した「理慶尼記」(武田滅亡記とも)を残しています。

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理慶尼墓所

理慶尼のもてなしは勝頼らにとり、最後の安らぎのひと時になったかもしれませんね。

新府城本丸跡の勝頼霊社にせよ、景徳院の墓所にせよ、、、武田家が後世まで、甲斐の人々から慕われていたことを改めて実感した1日にもなりました。

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2015年9月13日 (日)

円光院、清運寺、etc...

ちょっとドライブがてら甲府まで行ってきました。
まず最初に訪れたのは、こちら・・・

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瑞巖山円光院

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武田信玄の正室・三条夫人の菩提寺で、寺名は彼女の法号;
圓光院殿梅宗い大禅定尼
に由来します。

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円光院には伊那の駒場で没した信玄が、馬場美濃守に命じて寄贈した;
刀八毘沙門天
勝軍地蔵尊

などが残されています。

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三条夫人墓所
元亀元年(1570)に50歳で亡くなり、当院で営まれた葬儀には国師快川紹喜も列席して;
五十年間轉法輪 涅槃先菊紫全身
三條娘燭霊山涙 愁殺西方一美人

という法語を残しています。
西方一美人・・・生前の人柄が偲ばれますね。

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円光院の近くには、武田信玄火葬塚も。
元亀4年(1573)4月12日に世を去った信玄は、円光院門前のここ土屋右衛門尉昌続の邸内で密かに荼毘に付され、遺命に従ってその死は3年の間秘されました。
そして3年後の天正4年4月、恵林寺から快川紹喜を招き、躑躅ヶ崎館で盛大に葬儀が執り行われますが、それから203年後の安永8年(1779)、甲府代官・中井清太夫が円光院門前のこの地を発掘したところ、
法性院機山信玄大居士 天正元年癸四月十ニ日薨
と銘が彫られた石棺が発見されたそうです。
このことから、喪が秘されて恵林寺に埋葬されるまでの3年の間は当地に密かに葬られ、恵林寺へ改葬後も分骨された(むしろ恵林寺の方が分骨?)のではないかと考えられているようです。
※なお現地説明板には、信玄の死から3年後に当地で荼毘に付されて恵林寺に埋葬されたかのように書かれていましたが、これは誤りでしょう。

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墓石は安永8年の発掘調査後に建立されました。
碑文は当時の円光院住職の手によります。

※信玄の没年について、発掘された石棺の銘や墓石の碑文、説明板も悉く「天正元年」となっていましたが、天正への改元は織田信長が足利義昭を追放した後の1573年旧暦7月なので、正確には元亀4年になります。

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お次はあちらへ・・・

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河尻塚
まるで金網に閉じ込められるかのような佇まい・・・

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織田家臣・河尻秀隆の首塚とも、屋敷跡とも伝えられているそうです。
天正10年3月、甲斐武田家攻めに功のあった河尻秀隆は、織田信長から武田家滅亡後の甲斐国を拝領しますが、それから僅か数ヶ月後に勃発した本能寺の変後の混乱に乗じて蜂起した武田旧臣らによる一揆に攻められ、敢えない最期を遂げます。
恨みからか逆さまに埋葬されたため、さかさ塚とも呼ばれているそうです。。。

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碑銘には;
河尻肥後守之霊碑
とありますが、彼の受領名は正しくは肥前守です。

お土地柄、武田贔屓はまぁ当たり前としても、河尻もまた、歴史の激動の中で命を落した人物の一人。せめて今後も大切に保存され、祀られていくことを願って止みません。


さて、この後は車で少し移動して・・・
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同じ甲府市内に建つ日蓮宗寺院、妙清山清運寺

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法華経信者でもあった加藤清正を祀る清正公堂
猫さんが番をしています♪

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一時期、清運寺参道に面して建っていた寿館に下宿していた太宰治が、婚約者の元に通う際に通っていたと云う参道と、当時はその参道に敷き詰められていた石畳。

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そして墓地には、北辰一刀流・千葉定吉(周作弟)の息女で、坂本龍馬の許嫁だったとも伝わる千葉さな子のお墓があります。

さな子は後年、家伝の灸で生計を立てていますが、その患者であった自由民権家の小田切謙明夫妻と懇意になります。
さな子の死後、その亡骸は谷中に埋葬されますが、無縁になることを憐れみ、小田切夫人によって清運寺の小田切家墓所に分骨されました。

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明治廿九年十月十五日逝
坂本龍馬室


・・・龍馬を想い続けたさな子の心を知る、小田切家の人が彫らせたのでしょう。
様々な想いが交錯する碑銘です。

さて、目的は達したので今回はこの辺で。

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2013年11月 3日 (日)

甲斐の城攻め④ 湯村山城&甲府城

(2日目のつづき)

午後は湯村山城へ。躑躅ヶ崎館の1kmほど西に位置します。

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登城口にて。
こちらは城域まで舗装された登山道が続き、比較的楽に登れます・・・私でも(笑)

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古墳。付近一帯に計7基もの古墳があるそうです。

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ところで湯村山城、こういった石積みがあったり、、、

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井戸跡もあったりしますが、曲輪がどうも分かり辛い。
位置関係からして躑躅ヶ崎館の西を守る出城、甲府盆地を一つのお城と見立てた場合、本丸(=躑躅ヶ崎館)を守る櫓のような役割を担っていた城なんでしょうね。

さて下山後、帰りの電車の時間が決まっているあむさんの為に大急ぎで甲府駅近くまで戻り、山梨県庁防災新館へ。

ここの地下にあるのが・・・
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甲府城の石垣展示室。
防災新館(山梨プラザ)建設に伴い、発掘調査を経て移築復元されました。

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おかしな感想だけど・・・石垣の石って、磨くとこんなに白くなるんだね(笑)

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このパネルの意味がよく分からなかったんだけど・・・まさかこれだけの石垣を全部壊して建てた訳でもあるまいし。
他の箇所の写真を用いて、「移築した石垣は、この高さに充当するよ」ってことかな?

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こういう図面は現在と過去が分かり易くていいね☆

ここであむさん、更に躑躅ヶ崎館に戻って忘れたスタンプを押しに行くkuroさん、kuroさんを送るえりさんともお別れ…(>_<)/~

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残ったなっちさん・nikkoさん・ロームさんと甲府城散策。

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実は8年ぶり…(^_^;)

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石垣の修復でもするのかな?

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真新しい鉄御門!

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本丸と天守台。
実は8年前に来た時は、ちょうど花火大会と重なって本丸周辺は立入禁止になっていた。。。

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なので、初めての天守台からの眺め♪
ある意味、慶応4年(1868)に近藤勇らが夢見た景色でもある?(^_^;)

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井戸

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どの時期に何の目的でそうしたのか・・・古い石垣を覆うように新しい石垣が積まれています。幅を広げて多聞櫓でも造りたかったのかな?

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すっかり暗くなった甲府城から。富士山も見えています。

ここで躑躅ヶ崎館から戻って来たkuroさんと再合流。代わりに電車で帰るなっちさんとはお別れ(T_T)/~

残ったメンバーで、駅ビルで食事。
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最後の最後でありついたB級グルメ「鳥もつ」♪

これにて今回のオフ会も終了。皆さんとお別れして一人、中央道で帰路へ。
談合坂を過ぎた直後から酷い渋滞にも遭いましたが、何とか無事に帰宅。。。

今回は台風情報に振り回され、初日の天候の悪さもあって予定の行程を消化できず、発起人のあむさんも消化不良だったことでしょう。。。
同じく遠い九州から来たkuroさん共々、また来てくださいねー☆

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甲斐の城攻め③ 要害山城(&要害山出城:熊城)

さ、2日目。前日とはうって変わって雲一つない快晴です☆

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2日目の集合場所もここ☆
朝陽が射して…神々しいですぞ、信玄殿w

要害山城は武田家の居館・躑躅ヶ崎館の詰城。北に2~3km程の場所に位置します。

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甲府駅からも車で10分程度。
早速登城します。

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つづら折れの山道を登ること10~15分。急な斜面に息も上がりがちですが、ようやく城域に到着。

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登城口から城域に入ると、いくつか細かい曲輪が複雑に連なり、ご覧の様な枡形虎口や、、、

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井戸などの遺構も残ります。

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道なき道を行く、「遺構あるある探検隊」(笑)
道と言うより、ただの斜面ですね(^_^;)

この後、とても大きな竪堀も直登しました。
そんなこんなで遺構を求めて登っていくうち、いよいよ本丸に迫ります。。。

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この虎口を抜けた先に・・・

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要害山城本丸。土塁が素敵ですねぇ…

永正17年(1520)、躑躅ヶ崎館やこの要害山城を築いたばかりの甲斐国主・武田信虎は、今川家臣・福島正成の侵攻を受け、正室の大井夫人を要害山城に避難させた上で福島勢を迎撃、見事に撃退します。
この折、大井夫人は避難先の要害山城で信虎の嫡男を出産します。つまり・・・

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ここ、要害山城の本丸こそ、武田信玄生誕の地と考えられるのです。

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こうして見ると、土塁が長方形の本丸を綺麗に縁取っているのが分かりますね♪

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本丸を東側に抜けてすぐの竪堀。
縄張図に石垣のような印が付けられていたので注意深く見てみると…!?

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堀底から・・・ほぉ~♪

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竪堀の切れっぷりも見事☆

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更に別の竪堀・・・堀底に下りて何を熱心に見ているのかと思ったら・・・

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こちらにも石積み☆
竪堀の起点の土留めの意味合いが強いのでしょうかね。

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歩を進めるほどに、またまたスケールの大きい竪堀…もうキリがないくらい(笑)

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木にしがみ付いて堀底を眺める・・・お猿さん?(*≧艸≦)

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引き続きまして、要害山の出城・熊城に移動中~☆

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まー初っ端から堀切の見事なこと!

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ほら、こっちも。
あそこにいるのはkuroさんかな?堀の深さがよく分かるでしょ♪

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大きな堀切を2本乗り越えると、サクッと本丸に到着。石積みも残っていますね。

しかし、熊城の本番はここから☆
縄張図に描かれた13本からなる畝状竪堀を求めて急斜面を転げ落ちた先に・・・

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畝状竪堀。写真だと厳しいなぁ~
左上から右下に向かって幾筋もの竪堀が下っている様子、分かります?…地表面が波打ってるでしょ。

まぁ、写真では感動は伝わり辛いですが、圧巻の一言!
まともに立っていられない程の急斜面を下らないといけないので大変な場所ですが、これは必見です☆

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これまた、どでかい竪堀を見つけてボーッと見入る探検隊の面々(笑)

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こっちも切れてるね!

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史跡境界線の石柱。
ここからは元来た道を引き返しました…が、既にバテバテの私は皆のペースに着いて行けず、一人遅れがち。限られた時間の中でご迷惑をお掛けしました m(_ _)m

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やっとの思いで下山した後はこちらの温泉宿、その名も「要害」でランチ。
・・・燕の巣(^_^;)

(そう言えば下山した直後、ちょうどバスで乗り付けた団体さんの一人に「山に登って来たんですか?…汚れているから」と声を掛けられました…(^_^;) 全身の汚れが城攻めの険しさを物語るww)

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まさか…現役?

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こんな景色のいいラウンジで頂くランチは・・・

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虹鱒の甘露煮定食♪

いや~それにしても疲れた!!(笑)

この後、ここでオフ会を離脱する寺さんを甲府駅で見送り、一行は次の目的地へ。。。

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