カテゴリー「お城、史跡巡り 甲信越」の28件の記事

2023年4月14日 (金)

葛尾城(北信濃の山城攻めオフ③)

北信濃の山城攻めオフ、荒砥城を挟んだ4城目は埴科郡坂城町と千曲市磯部に跨る葛尾城です。

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まずは「坂木宿ふるさと歴史館」にて、葛尾城の縄張り図や登山ルートの情報などを収集。
同館には北国街道の宿場町だった坂木宿や、村上義清に関する関する資料などが展示されています。
写真は坂木宿本陣の表門。

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登城(登山)前に、村上氏の居館跡へ。

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現在の満泉寺を中心とした場所にあったとされる、村上氏の平時山麓居館跡。
満泉寺は天正年間、上杉氏配下で海津城将となっていた村上國清(義清の子)により村上氏の菩提寺として、その居館跡に創建されました。従って山号も「村上山」。
ちなみに、鐘楼と山門の間から見えている尾根のピーク辺りが葛尾城になります。比高で約400m・・・高過ぎ!!(;゚Д゚)

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坂城神社の裏に位置する登山口。

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葛尾城への登山ルートはいくつかあるようですが、我々は遊歩道を西へ進み、飯綱山を取り巻いて姫城跡との分岐点に出るルートを選択しました。

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登山途中に撮影した1枚・・・正面に姫城跡。

葛尾城までは1時間以上の登山になったでしょうか・・・勾配もきつく、我々の体力にはあまりにも厳しい行程に、途中何度も心折れそうになりました。
無論、じっくりと写真を撮っている気持ちの余裕などあろう筈もなく、私のカメラロールにも登山途中の写真は全く残っていません…(-_-;)
という訳で、実際の城攻めとは裏腹に、本記事では唐突に葛尾城到達と相成ります(笑)

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葛尾城縄張り図

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三~二の郭。
山麓から白く見えていた山桜が満開です。

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主郭
かの村上氏の居城とはいえ、広さは然程ありません。
本当に緊急時での使用しか想定していなかったことが窺えます。

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主郭から、眼下を流れる千曲川と上田平方面の壮大な眺望。
本当によく登り切りました・・・もう二度と来ることはないでしょう(笑)

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主郭裏、Aの堀切。
鷲尾城でも見られたような、土塁を挟む二重堀切になっていたようです。

ちなみに現地の縄張り図には「帯郭」との記載がありましたが、いずれを以て帯郭としているのかは、私にはわかりませんでした。

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目に飛び込んできた瞬間、「ナニコレ・・・!?」と思わず絶句してしまった、角度も深さも強烈なインパクトの堀切B

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堀切Bの堀底から。

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堀切Bを城外(北)側へ渡り、振り返った様子。
高低差がエグい(笑)

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堀切Cも結構なエグさ(;^_^A

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階段がついているので、その断面の切り立った様子がおわかりいただけるかと。

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堀切Cを渡った先の尾根上に、2.5m×2m程に四角く積まれた石積みがありました。
これまで霞城や鷲尾城で見てきたものに比べると、少々積み方が雑なようにも感じますが。。。
ちょっと藪っていてわかりづらいですが、この先も堀切になっていたようなので櫓台、或いは堀切の対岸と高さを合わせる(尾根はこの先、五里ヶ峯に向かって登り勾配)ための橋台だったのでしょうか・・・?
いずれにせよ、ろくに確認もせずに現場を離れてしまった今となっては、これ以上検討する術もありません。

さて、これにて葛尾城攻めも終了です。
下山は安全を考慮し、登山時と同じルートを選択しました。
急勾配な長い長い下り坂を、ブレーキを掛けながらの下山はさすがに足に堪えました。

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下山後は坂城神社へ、無事の報告と御礼のために参拝。
坂城神社には村上義清や武田信玄、同勝頼らによる社領寄進・安堵状が残されています(坂木大宮神社宛)。
(ふるさと歴史館に複製品が展示されていました)

これにて、全4城に渡る北信濃の山城攻めオフも無事に終了。
仲間とおしゃべりしながらの山城歩きは、久しく忘れていた楽しい時間でした。参加された4名の同行者に感謝♪

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2023年4月13日 (木)

鷲尾城(北信濃の山城攻めオフ②)

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北信濃の山城攻めオフ、2城目は千曲市倉科の鷲尾城です。
登城(登山)口から城山を見上げる・・・霞城よりちょっとキツそう。。。

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登り口に建つ大日堂は、松代藩主・真田信之の次女「泰子姫」なる人物によって寛文13年(1673)に建立された、と現地の案内板にはありました。

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つづら折れの登山道をただひたすら、苦行に耐えるかの如く登ること30分弱で・・・

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ようやく到達。
こちらでも素敵な石積みが出迎えてくれました。

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石積みの奥には、北アルプスの真っ白な山並みも。

石積みの隅部が鋭角ではなく、少しRがついている感じでした。
これなども霞城の間仕切り石積み同様、どことなく沖縄の石垣を連想させられました・・・関連などあろう筈もないのですが。

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鷲尾城、主郭虎口。

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主郭に残る土塁。
鷲尾城は村上氏の庶流である倉科氏の城と伝わりますが、築城時期等の詳細は不明とのことです。

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主郭裏の堀切。
堀底に土塁が通り、さながら二重堀切のようになっています。

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堀底の土塁上から。

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堀底から主郭を見上げる。
一部、石積みも見えています。

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堀切を渡った先の小さな郭から主郭方向。
見事な高低差の切岸です。

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そのまま尾根上を北東方向に進むと、すぐにまた二重堀切が現れます。
この堀切も越え、坂を少し登った先には・・・

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倉科将軍塚古墳があります。
写真ではわかりづらいかもしれませんが、綺麗に前方後円墳(写真手前側が前方部)になっていました。

この古墳の先にも・・・

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大きな堀切が。
写真左上に小さく写る同行者のサイズで、その規模がおわかりいただけるかと思います。

鷲尾城もなかなか見応えのある、いい城跡でした。


この後は千曲市上山田の荒砥城へ行ったのですが・・・私はスマホを車に忘れてしまい、写真を撮れませんでした。
11年ぶりとはいえ再訪だし・・・まいっか!
ってことで、同行者からご提供いただいた1枚だけ。

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photo by えりさん

千曲川を挟んだ対岸には、この日最後の攻城先となる葛尾城の勇姿も。
改めて目にする険しく高い山容に、一同戦慄・・・本当に登り切れるのか!?

折角の素晴らしい荒砥城からの眺めも、この時の我々には登山への不安と憂鬱を煽るだけのものになっていたのでした…(;・∀・)

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2023年4月12日 (水)

霞城(北信濃の山城攻めオフ①)

4月9日はコロナ禍以降では初めてとなる、山城攻めオフ会に参加させていただきました。
長野駅前に前泊し、北信濃の山城をいくつかめぐります。

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まず1城目は、長野市松代町の霞城へ。
敵が攻め寄せると龍が現れ、霞をかけて城を覆い隠したとの伝承から、この名で呼ばれているそうです。
城山北の永福寺側からアプローチします。

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麓の案内板には「所要20分」とありましたが、ほんの7~8分も登るとすぐに見応えのある石積みが現れました。
主郭の東~南にかけて展開する二の郭の、北面の石積みになります。

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二の郭西面の石積みと、眼下には帯郭状の削平地も。

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帯郭から見上げる二の郭の石積み(西面)

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帯郭の縁にも石積みがありました。
右上に見えているのは、一つ前の写真でご紹介した二の郭の石積みです。

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帯郭を南へ進んで一段上がると、三の郭に出ました。二の郭の南に位置しています。
写真は、三の郭から二の郭への虎口。
霞城の石積み石材は総じて、小さくて平たい石が用いられていますが、この虎口には鏡石を思わせるような巨石も一つ見えています。

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広大な二の郭。

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二の郭には間仕切りのような石積みもありました。
どことなく、沖縄の城(グスク)でよく見かけたものにも似ているような…?

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主郭…は、ちょっと削平が甘いような気もします。

霞城は信濃守護・小笠原氏の流れを汲む、大室氏の居城と伝わります。
大室氏は戦国期、葛尾城(埴科郡坂城町)を本拠とする村上氏の支配下にありました。
しかし、天文22年(1553)に北信濃の雄・村上義清が甲斐の武田信玄に追われると、その武田氏もやがて、織田信長に攻め滅ばされます(天正10/1582年)。
そうした北信濃情勢の中で大室氏は、村上から武田、そして織田へと従属先を変えて家の存続を守り抜き、信長が本能寺の変に斃れた後は、越後上杉氏の傘下に入りました。
豊臣秀吉による上杉氏の会津移封(慶長3/1598年)に従って大室氏も会津へ移り、霞城は廃城となりました。

下山は西側の石門口ルートへ。
すると・・・

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これまで主郭周辺で見てきた以上の光景が目に飛び込んできました。
薄い赤ラインで推定ルートを示しましたが、かなり規模の大きな枡形状の虎口です。

外(下)側から順に見ていくと・・・

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ほぼ直線状の登城路を登ってきて・・・

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石積みに三方をぐるりと囲まれた枡形を通り、左奥の・・・

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開口部を通過して右へ・・・

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最後は、この石積みの上を通って三の郭方面へ向かっていたのではないかと想像しましたが、如何でしょうか?
三の郭に至るまでのルートは、最初に見た帯郭から見下ろして監視できる位置関係にあります。

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直線の登城路を下った先にも、石積みが結構残っていました。

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石門登城口
こちらが霞城の大手とされているようです。

それにしても素晴らしい遺構でした。
1城目から大満足です。

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2021年4月13日 (火)

織田信長が初めて目にした富士山(台ケ原宿、他)

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山梨県北斗市白州町白須に建つ自元寺。
付近一帯を治めていた武田家の重臣・馬場美濃守信房(信春)の開基で、菩提寺にもなっています。
写真の総門は、馬場美濃守の屋敷(梨子の木屋敷)からの移築と伝えられているようです。

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馬場美濃守信房墓所

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自元寺門前を通る旧甲州街道
今回は、この旧甲州街道を少し歩いていきます。
写真の奥、突き当りを左(東)へ折れると・・・

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台ケ原宿に入ります。

四月二日、雨降り時雨侯。兼日より仰せ出ださるゝにつきて、諏訪より大ヶ原に至りて御陣を移さる。御座所の御普請、御間叶以下、滝川左近将監に申し付け、上下数百人の御小屋懸け置き、御馳走斜ならず。
(信長公記 巻十五「御国わりの事」)

天正10年(1582)4月2日、武田家を滅ぼした織田信長は甲府へ向けて諏訪(上諏訪)を発ち、この日はここ台ケ原に宿陣しました。

※美濃岩村城を出陣し、上諏訪へ至るルートはこちらを参照。
→信長の甲州征伐 信濃路

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一里塚跡の碑。

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信玄餅で有名な金精軒前を通過。
その斜め向かいには・・・

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北原家住宅
銘酒「七賢」で有名な酒蔵です。
寛延3年(1750)、信濃国高遠で酒造業を営んでいた北原伊兵衛光義がこの地に分家し、酒造りを始めたと伝わります。
台ケ原宿の脇本陣をも務め、明治13年(1880)には明治天皇御巡幸の際の御在所にもなりました。
奥座敷と中の間境の欄干に彫られた竹林の七賢人が「七賢」の由来になっているようです。

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日本の道100選の碑

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台ケ原宿本陣跡と秋葉大権現常夜石燈籠。
古くから代々、台ケ原の名主を務めてきたのであれば、信長が泊ったのも或いはこちらだったのでしょうか・・・。
台ケ原では小田原の北条氏政から、武蔵野で捕らえた500羽余りもの雉が届けられました。

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宿場の出口付近で見かけた石碑。

四月三日、大ケ原御立ちなされ、五町ばかり御出で侯へば、山あひより名山、是れぞと見えし富士の山、かうゝゝと雪つもり、誠に殊勝、面白き有様、各見物、耳目を驚かし申すなり。
(信長公記 巻十五「御国わりの事」)

翌4月3日、台ケ原を出発した織田信長一行は5町ほど進んだところで、美しい富士山の姿を仰ぎ見て感嘆の声を上げています。
この前日に通行した諏訪から台ケ原までの道中にも富士山を見られるポイントはあったかと思いますが、信長公記によると前日の天候は雨。どんよりとした雲に覆われ、富士山が姿を現すことはなかったのでしょう。

実は今回、台ケ原を訪れた一番の目的こそがこれ。信長らがおそらく初めて目にしたであろう、美しい富士山の姿を同じポイントから眺めてみたかったのです。

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台ケ原宿を出たら国道20号線を渡り、反対側に見えている細い道へ進みます。

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その細い道の入口に建つ古道入口の石碑。
どうやら、江戸時代に旧甲州街道が整備される以前から存在していた道の名残のようです。

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道端に並べられた庚申塔や馬頭観音。

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釜無川の支流、尾白川に沿って進みます。

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こうした道を散策できるよう、ちゃんと整備してくれているのがありがたいです。

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歩いてきた道を少し振り返る。
この写真の右手にある高台に、無銘の巨塔なる石碑が建っているらしいので、ちょっと寄ってみました。

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無銘の巨塔
明治14年(1881)、日蓮上人の600年遠忌に五穀豊穣と国家安泰を祈念し、見法寺(長坂町日野)に碑を建てて「南無妙法蓮華経」と刻む予定でしたが、どうしてもこの巨石を牽いて釜無川を越えることができなかったそうです。
巨石は長年放置されたままでしたが、最近になって無銘のままこの地に建てられたとのこと。

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無銘の巨塔が建つ高台から、古道を見下ろす。
右側の稜線が邪魔をし、まだアングル的に富士山は見えなさそうです
・・・それよりも、遠くの空がかなり霞み、見通しが良くありません・・・嫌な予感。

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古道に戻り、横山の道標。
説明によると、この先で花水坂を登って七里岩に上がり、日野や穴山を経由して甲府へ至る道は、後に「はらぢみち」とも呼ばれた甲州街道整備以前の主要道路だったそうです。
横山の道標は、江戸時代になって甲州街道が整備されたことにより、この地がはらぢみちと甲州街道との分岐点になったことで建てられ、馬頭観音の側面に「右かうふみち」「左りはらぢ通」と記されています。

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古道が終了し、国道20号に出た地点に建てられていた石碑。

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こちらが現在の、甲州街道(右/かうふみち)とはらぢみち(左)の分岐点。
天正10年時点では、七里岩の麓を並行して通る甲州街道はまだ整備前。はらぢみちは花水坂から日野~穴山を経由し、信長らの目指す甲府まで続いていたと云いますし、信長らは道中、新府城の焼け跡も見物しているので、はらぢみちを進み、花水坂で七里岩に上がったものと思われます。

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という訳で、私も正面に七里岩を見据え、花水坂橋で釜無川を越えます。

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花水坂橋の欄干にあった句碑。
立ちおほふ霞にあまる富士の嶺におもひをかはす山桜かな
細川幽斎から古今伝授を受けた烏丸光廣が詠みました。

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坂を少し登り、七里岩の中腹に建つ花水坂の碑。
(実際のはらぢみちは、石碑の建つ現在の台ケ原富岡線とは少しルートがズレているようなのですが、詳細はまだ調べきれておりません)

日本武尊が東征の折、富士や清流(釜無川か)の絶景にしばし足を止めて休息し、ここを「花水坂」と命名したと伝えられています。休息した場所を「休み平(やすまんていら)」といい、今でもこの一帯に地名が残っているようです。
花水坂は「山水の富士」として、甲斐国の富士見三景の一つにも数えられています。

台ケ原宿を出てからここまで、アングル的に富士山を仰ぎ見ることが出来そうなポイントはありませんでしたし、太田牛一も信長公記に「台ケ原を出発して五町ほど進んだら、美しい富士山が見えた」と書き残しています。
台ケ原宿から花水坂までの距離は1㎞強。5町は約550m弱ほどなので距離感は一致しませんが、甲斐の富士見三景にも数えられる花水坂付近こそ信長らが富士山を目にし、その姿に感嘆の声を漏らした地点だったのだろうと判断しました。

その、花水坂からの富士山の眺めこそが・・・

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こちら・・・って、やっぱり見えねーっっ!!
事前に天気予報も確認した上で訪問したのですが・・・ガッカリ。
今年(2021年)は特に暖かくなるのが早い気がしますので、その辺りも影響したのかもしれません。

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写真をアップにし、少し彩度を調整しても辛うじて山容を認識できる程度・・・。
旧暦の天正10年4月3日は、現在のグレゴリオ暦に換算すると5月5日になります。温暖化の進む令和の今、5月にかうゝゝと雪つもった富士山をこの距離で拝むことは至難の業ですよね・・・。
信長たちと時期を合わせて富士山を拝みたかったのですが・・・次は季節を選んで再度チャレンジしてみたいと思います。

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この後は、台ケ原の金精軒本店が定休日だったので韮崎店まで足を運び・・・

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更には甲府の山梨県立博物館で、特別展「生誕500年 武田信玄の生涯」を拝観してから帰路に就きました。

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2019年11月18日 (月)

高遠城・一夜の城・法華寺 …信長の甲州征伐 信濃路④

三月十八日、信長公、高遠の城に御陣を懸けられ、
三月十九日、上の諏訪法花寺に御居陣。諸手の御陣取り段々に仰せ付けられ侯なり。
(信長公記 巻十五「人数備への事」)

天正10年(1582)3月18日、飯島を出立した織田信長高遠城に宿陣し、次いで翌19日、信濃での最後の陣所となる上諏訪の法華寺に到着しました。

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高遠城
個人的には6年ぶりの再訪となりました。

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高遠城に設置されていた、織田信忠による高遠城攻めの案内板。

三月朔日、三位中将信忠卿、飯島より御人数を出だされ、天龍川乗り越され、貝沼原に御人数立てられ、松尾の城主小笠原掃部大輔を案内者として、河尻与兵衛、毛利河内守、団平八、森勝蔵、足軽に御先へ遣はさる。中将信忠卿は御ほろの衆十人ぱかり召し列れ、仁科五郎楯籠り侯高遠の城、川よりこなた高山へ懸け上させられ、御敵城の振舞・様子御見下墨なされ、其の日はかいぬま原に御陣取り。
(信長公記 巻十五「信州高遠の城、中将信忠卿攻めらるゝの事」)

3月1日、飯島から高遠へ向かった織田信忠は、貝沼原に陣を置き、母衣衆10人ばかりを召し連れ、川手前の高遠城を見下ろす高山へ自ら物見に出ています。
この時、信忠が貝沼原に布いた陣がいずれの地にあったのか、具体的には定かではありませんが・・・

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その候補地の一つとされるのが、伊那市富県貝沼一夜の城
こちらも6年ぶりの再訪です。

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一夜の城については、6年前の記事をご参照ください。

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右に高遠城、川(アーチ橋が見える)を挟んだ左が、信忠が物見に出た川よりこなた高山
高遠城に籠る仁科盛信は降伏を拒み、3月2日、信忠軍の猛攻撃の前に城と共に華々しく散りました。

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高遠城を出た信長の軍勢が、どのルートで諏訪へ向かったかはわかりませんが、我々は杖突峠を越えて・・・

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法華寺へ。
吉良義周の墓所にもお参りさせていただきました。

上諏訪に到着した信長は4月2日まで当地に滞在し、諸々の戦後処理を施した後、雄大な富士山や新府城の焼け跡を眺めつつ、翌3日に甲斐の甲府へ入りました。
甲府を出て安土への凱旋の途に就くのは7日後、4月10日のことです。
※なおこの間には、天正2年の明知城落城の要因となった飯羽間右衛門尉が捕らえられ、処刑されていることも添えておきます。

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旅の最後に、諏訪大社上社にもお参り。

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上諏訪駅で解散し、帰路はスーパーあずさにて。

私の希望を叶え、旅に同行して車を出してくれた友人には感謝しかありません。
いずれまた、今度はちょっと視点を変えて中馬街道を旅しましょう。

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2019年11月17日 (日)

大島城・飯島城 …信長の甲州征伐 信濃路③

三月十七日、信長公、飯田より大島を御通りなされ、飯島に至りて御陣取り。
(信長公記 巻十五「武田典厩生害、下曽禰忠節の事」)

天正10年(1582)3月17日、飯田を出立した織田信長大島を通過し、飯島まで陣を進めました。

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大島城縄張図

元亀2年(1571)3月、武田信玄は大島城に大修築を加え、伊那における一大拠点としたと云います。
今日に残る遺構も、その大部分はこの時の縄張によるものだそうです。

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の馬出
三の丸とは木橋で繋がっていたと考えられています。

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三の丸

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丸馬出への枡形は・・・。

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三の丸東端部

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二の丸から三の丸へせり出す馬出(左)
の堀がまた見事なこと。

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の馬出を別角度から。

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二の丸に残る土塁。奥にの櫓台。

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二の丸と本丸間の堀。
手前の二の丸側の切岸には、小さな腰曲輪も。
堀底を写真左方向へ下っていくと井戸曲輪へと繋がっており、井戸への出入りを見張る役割があったと考えられています。

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本丸

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本丸虎口の木戸跡。

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本丸の櫓台。

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本丸東側の腰曲輪。
稲荷神社が祀られていた痕跡も。

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城跡のすぐ脇を流れる天竜川。

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井戸曲輪へ。

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井戸

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付近の堀。

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南側の外堀。

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大島城の代名詞ともいえる三日月堀

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天正10年2月、大島城は信玄弟の信廉(逍遙軒信綱)らが守備していましたが、織田信忠率いる軍勢が攻め入って来ると夜陰に紛れて逃亡し、大島城は呆気なく落城しました。

続いて飯島城へ。

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飯島城の北西に位置する西岸寺。
鎌倉末創建の古刹で、城主・飯島氏ともゆかりが深いと云います。

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飯島町の名勝にも指定されている西岸寺の参道。

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飯島城縄張図

飯島城は武田家に従う信濃源氏・飯島氏の居城。
本城・登城からなる中世後期の城域と、その東方に広がる前期のものとに分かれています。

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登城北側の堀跡。

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本城の堀と土塁。
手前は虎口に架かる土橋のようにも見えますが、後世に車両の通行のために架けられたものかもしれません。

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本城北西側の堀跡。

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本城北側の堀跡。

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思いがけず鮮明な遺構と出会い、興奮を覚えました。

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本城郭内
天正10年2月、飯島城は織田信忠軍の侵攻によって落城しました。
飯島城を落とした信忠は、この地から仁科盛信の籠る高遠城攻略へと向かっています。
織田信長、そして信忠もこの郭に滞在したのでしょうか。

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2019年11月16日 (土)

長岳寺、根羽村の信玄塚

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ひとしきり飯田城跡を見てまわった後は、中馬街道を少し引き返し、阿智村駒場長岳寺へ。
言わずと知れた、武田信玄ゆかりのお寺です。

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伊那の四季を描いた本堂の襖絵。
日本画家・吉川優氏の作とのことで、顔料には珊瑚や真珠なども用いられているそうです。

運良くお寺の方がいらしたので、拝観料200円で武田信玄の遺品と伝わる金の兜の前立(鍬形台三輪菊唐草透彫三鈷柄付)や兜仏なども拝観させていただきました。

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武田信玄灰塚供養塔
信玄は元亀4年(1573/7月に天正へ改元)4月12日、駒場の山中で没し、縁者が住職を務めていた長岳寺の裏山で荼毘に付されたと云います。
付近の山中には信玄塚と呼ばれる火葬塚が残り、こちらの供養塔は信玄の没後400年祭に、その火葬塚から灰を移して供養したものだそうです。

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灰塚供養塔の脇には、馬場美濃守の供養塔(五輪塔)も。
伊那をはじめ、南信州方面での功績が多かった関係かもしれません。

火葬塚の位置も教えていただきましたが、今回は時間の都合で断念。
前日の滝之澤城郭(防塁)といい、中馬街道沿いには武田家ゆかりの史蹟が今も多く残ります。
今回の旅が改めてそれを認識させてくれたので、いずれまた必ず、武田家目線で中馬街道を旅したいと思います。

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ところで、この前日に根羽村付近を通過している際にも「信玄塚」に立ち寄りました。

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「甲陽軍鑑」に、信玄は「ねばねの上村と申す所にて他界された」と書かれていることに由来しているようです。
信玄の死去に伴い武田勢は、風林火山の軍旗を横にして行軍したので、この付近は横旗(横畑)と呼ばれるようになったのだとか。

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宝篋印塔は江戸時代の寛文年間、信玄の百年忌に建立されたとも伝えられていますが、その形状からは室町末期のものと推定されています。

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信玄が埋葬されたと伝えられる実際の塚は、現在では壁画前の国道に埋没してしまっているそうです。。。

信玄の火葬場所については、甲府の土屋昌続邸説などもあり、実際のところは私にはわかりません。
ただ、家臣らが信玄の遺体なり遺骨なりを置いていくはずもなく、中馬街道を進み、甲府まで粛々と運ばれていったことだけは確かでしょう。

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さて、それでは信長の足跡を辿る旅を再開したいと思います。

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2019年11月15日 (金)

飯田城 …信長の甲州征伐 信濃路②

十五日午の刻より雨つよく降り、其の日、飯田に御陣を懸けさせられ、四郎父子の頸、飯田に懸け置かれ、上下見物仕り侯。十六日、御逗留。
(信長公記 巻十五「武田典厩生害、下曽斑忠節の事」)

天正10年(1582)3月15日、現阿智村の浪合を出立した織田信長の軍勢は飯田まで進み、同地で武田勝頼父子の首を改めて晒しています。

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飯田城が築かれていた台地の遠景。
先端付近(右)が本丸跡になります。

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偶然見つけた外堀跡。

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長姫神社境内から柳田國男館、日夏耿之介記念館の建つ辺り一帯が本丸跡とのこと。
(写真は長姫神社境内)

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長姫神社の社殿裏手、この石積み土塁も城の遺構とのことでしたが・・・う~む。

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本丸と二の丸間を断ち切る堀切。

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あまり近づけなかったので写真はいまいちですが、堀切は見事な遺構でした。

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本丸付近から北側の地形高低差。

ちなみに、台地の先端に建つ三宜亭本館は山伏丸跡。
築城前、修験者の修行所があったことに由来しているそうです。

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移築された桜丸御門。

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城跡から少し離れ、長閑な町中の民家に移築された八間門。

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明治4年(1871)に払い下げを受けた、飯田城の二の丸にあった門とのことです。
左右四間ずつの長屋も城内いずれかからの移築とのことでしたので、てっきり私は、そのために八間門と呼ばれるようになったものだと思い込んでいましたが、移築前の江戸期の絵図に八間門の表記があるようです・・・。
そもそも、左右で長さも全然違う気がするし・・・どういうこと?

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門に付随する鬼瓦や懸魚などは、国の重要美術品に認定されているそうです。

飯田逗留中には勝頼や仁科盛信の馬、勝頼の刀などが信長の元に届けられ、武田信豊の首も運ばれてきました。
信長はここで武田勝頼父子・信豊・仁科盛信の首を家臣に持たせて京へ送り、獄門にかけるよう指示しています。
・・・仁科盛信が高遠城で最期を遂げたのは3月2日のことで、呂久の渡しで信長がその首を実検したのは同6日のこと。それ以降、飯田までの道中ずっと運んできたということでしょうか。。。

信長の行軍はなおも続き、3月17日には飯島へ向かいます。

次回は一旦、信長の足跡を離れ、とあるお寺からお届けします。
信長の足跡の続きは、その次の記事から再開します。

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2019年11月14日 (木)

根羽・平谷・浪合 …信長の甲州征伐 信濃路①

天正10年(1582)3月5日、甲州征伐に向けて安土を出陣した織田信長は、その日は柏原の成菩提院、翌6日は呂久の渡しで仁科盛信(天正9年頃から「信盛」に改名していた可能性も指摘されていますが、以降も「盛信」で統一します)の首を実検しつつ岐阜まで移動、7日も岐阜に逗留します。
8日に岐阜を出発した後は犬山、金山神箆を経由し、11日には岩村城まで進みました。

ここからは岩村を出発後~上諏訪に至るまでの信長の足跡を中心に辿り、中馬街道(伊那街道)を北上する旅になります。
前回の記事でご紹介した明知城跡をあとにし、まずは愛知県豊田市にある道の駅「どんぐりの里いなぶ」付近まで南下して、そこから国道153号に進路を取って中馬街道めぐりをスタートしました。

三月十三日、信長公、岩村より禰羽根まで御陣を移さる。
(信長公記 巻十五「武田典厩生害、下曽禰忠節の事」 以下引用同)

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岩村を出発した織田信長が、3月13日に宿陣した禰羽根(ねばね)。
写真は根羽村役場前より。

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根羽村は今でこそ「ねばむら」と読みますが、「甲陽軍鑑」などでも「ねばね」と表記されており、当時は「根羽=ねばね」という呼称だったようです。

十四日、平谷を打ち越し、なみあひに御陣取り。爰にて、武田四郎父子の頸、関可兵衛・桑原介六、もたせ参り、御目に懸けら侯。則ち、矢部善七郎に、仰せ付けられ、飯田へ持たせ遣はさる。

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十四日、平谷を打ち越し、
(平谷村)

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平谷から北上を続けると、興味深い看板が目に入ってきたので急遽立ち寄りました。
武田方はこの、平谷村の滝之澤という地に城郭(防塁)群を設け、織田軍の侵攻に備えていたようです。
今回は行程上の都合で確認しに行く時間が取れず、後ろ髪を引かれる思いで立ち去りましたが、いずれ必ず再訪してみたいと思います。

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なみあひに御陣取り。爰にて、武田四郎父子の頸、関可兵衛・桑原介六、もたせ参り、御目に懸けら侯。
写真は阿智村浪合の集落と、平谷から続く中馬街道。

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武田勝頼父子首実検の地
信長はここ浪合で、甲斐の田野で打ち取られて運ばれてきた勝頼・信勝父子の首と対面しました。

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両人の首は家臣に命じ、先行して飯田へと送られたようです。

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中馬街道の標柱

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翌14日、浪合を出立した信長は飯田へと向かいます。
きっと、この道を更に北へと進んだことでしょう。

ところで、勝頼父子首実検の地から中馬街道を平谷方面へ少し戻った地点に、波合関所跡が残っているらしいことを知り、立ち寄ってみることにしました。

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石畳らしき痕跡も残る、中馬街道の旧道。

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波合関所跡
中馬街道(伊那街道)に残る関所跡で、武田信玄が滝の沢(先ほどの滝之澤城郭の看板にあった「とつばせ関所跡」か?)に設置したのを皮切りに、何度かの移転を経て、享保7年(1722)以降は明治初期の関所廃止令まで当地に置かれていたようです。

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関所の建物が建っていた痕跡でしょうか、苔むしていい雰囲気でしたが、暗かったので写真は・・・(;^_^A

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門の先、平谷方面へと続く中馬街道。
平谷を打ち越し、北上を続ける信長の軍勢が今にも姿を現しそうな風情です。

浪合をあとにし、我々もこの日の宿泊地である飯田へ向かいましたが、到着時にはすっかり日も暮れていたので、飯田城めぐりは翌日に。
城攻め4つに、山間の街道筋大移動。なかなかハードな行程を組んでしまいましたが、クリアできたのも偏に同行者のお陰・・・感謝。

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2018年10月25日 (木)

向嶽寺、小山城、etc...

今回の山梨旅、ラストの記事になります。

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甲州市塩山の向嶽寺
臨済宗向嶽寺派の大本山で、開基は甲斐守護の武田信成。
寺名は「富嶽に向かう」を由来としています。

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武田信玄も禁制を発給するなどして、向嶽寺の保護に努めています。
当初は「向嶽庵」としていましたが、信玄の朝廷への働きかけで開山の抜隊得勝禅師に「恵光大圓禅師」の諡号を賜り、これを機に向嶽寺と改められました。
伽藍の多くは度重なる火災で失われ、後に再建されたものになります。

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同行者たちが何やら覗き込んでいますが・・・仏殿の天井には龍が描かれていました。

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更には、甲斐国分寺跡や・・・

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国分尼寺跡にも立ち寄りつつ・・・

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ラストは山梨県笛吹市八代町高家の小山城跡へ。
東側の虎口から曲輪内へ入ります。

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規模の大きな土塁が方形に曲輪を囲う、単郭式の遺構でした。
遠くに御坂城の城山も見えています。

甲斐小山城は武田氏時代の城で一旦は廃城となっていたものの、天正10年(1582)、御坂城に拠る北条勢と対峙する徳川家康(天正壬午の乱)が、鳥居元忠にこの城の修築を命じ、守備させていたと伝わります。
遺構の多くも、この時の徳川勢によるものでしょうか。

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土塁の外側には空堀も。
残存状態は結構良さそうです。
さて、これにて1泊2日の山梨旅は終了です。
小山城跡で同行者たちとお別れして帰路へ。中央道の渋滞には難儀したものの、何とか無事に帰宅しました。

旅の趣旨に賛同し、同行していただいた仲間に感謝。
楽しく、多くの歴史に触れることができました。

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