カテゴリー「お城、史跡巡り 関東」の172件の記事

2023年7月22日 (土)

木原城、塙城

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美浦村に残る木原城Ⅱ曲輪。
奥に高い土塁も見えています。

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Ⅱ曲輪からⅠ曲輪(主郭)への虎口付近の横堀・・・草ボーボー(笑)

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Ⅰ曲輪は広い公園になっています。

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Ⅰ曲輪に残る土塁。

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少し南の永厳寺に、木原城の二重堀が残っているというのでお邪魔しましたが・・・
例の如く夏草ボーボーで、もはや形状は全く確認できませんでした。

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さて、この日の城攻め、ラストは阿見町の塙城です。
まずは本城域へ。

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二の郭
土塁がいい感じです。

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二の郭南西側の横堀。

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隅部の土塁。

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作業道による土塁の消失部分から一の郭を覗き見る。
この右脇には・・・

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竪堀のようなものもありましたが・・・
竪堀なのか単なる崩れか、判断はつきませんでした。

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続いて北の郭へ。

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縄張り図を手に進んだのですが、すぐに縄張り迷子になってしまいました。
竹藪の中に写真のような素晴らしい堀と土塁が残っていましたが、詳細な位置は把握できておりません。

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aの狭い平坦地
北の郭には他に、居住性のある曲輪は築かれていなかったのでしょうか?

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aから稲妻型の堀と土塁を見る。
奥の竹やぶの中(の何処)に、2つ前の写真の堀や土塁もあります。

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bの南へ真っ直ぐに伸びる土塁と二重堀。

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それを横から。

これにて今回の、茨城県の城めぐりも終了です。
猛暑を突き抜けて酷暑といっても過言ではない過酷な条件の中、なんとか体力的にも切り抜けて無事に終えることができました。
いくつかインパクトのあるお城とも出会えましたし、ドライブも楽しめて、いい休日になりました。

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2023年7月21日 (金)

島崎城

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この日の3城目は、潮来市の島崎城です。

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「根小屋」辺りに設けられた駐車場から登り始めると、すぐに御礼神社が祀られる本丸に出ます。
写真は本丸から馬出曲輪方向。

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馬出曲輪。
土塁の残存状況が良好です。

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土橋の上から、馬出曲輪と東二の曲輪の間を穿つ空堀を見る。

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その土橋がこちら。

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東二の曲輪。
こちらも土塁がいい状態で残っています。

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その土塁の先端(八幡台)から見下ろした様子。
対面する物見台との間の堀が深く、えげつないほどの高低差となっています。

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東二の曲輪の北東側を囲む横堀。

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水の手曲輪の井戸。

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水の手曲輪から、西ニの曲輪への枡形虎口。
桝形は土塁の一部が消失しているようです。

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物見台から東二の曲輪。

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三の曲輪に残る長大な土塁。
その裏には、、、

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当然のように深い堀もあります。

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この堀で、台地先端に築かれた城の主要部と台地とを、完全に分断していたようです。
防御の最前線、といったところでしょうか。

島崎城、その規模も遺構も縄張りも想像以上でした。
この後は美浦村の木原城へ。

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2023年7月20日 (木)

真壁城、中居城

7月16~17日は、九州からお越しのフォロワーさんのお供で茨城県のお城めぐり。
16日は午後の笠間城から合流しましたが、私自身は再訪でコチラの記事とも重複しますので、詳細は省きます。

・・・が、本丸までたどり着いてビックリ!
薄々嫌な予感はしていたのですが・・・

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草ボーボー(爆)
まさかこれほどとは・・・。

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こちらは2019年の2月に訪問した際の本丸の様子。
やはり夏場の城跡は厳しいですねぇ・・・。

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さて、お次は桜川市の真壁城です。

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国指定史跡範囲(赤枠内)だけでも結構な広さを誇りますが、諸事情により我々の滞在許容時間は僅かに30分程度。
可能な範囲を駆け足でめぐります。

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本丸~二の丸間(東)の堀。
・・・草ボーボー(;^ω^)

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(知らぬ間に?)二の丸を抜け、中城(三の丸)南西虎口。

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中城の東側、出枡状に張り出している部分。

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そこから南へ、屈折しながら伸びる堀を見る。
遊歩道のようなものは復元された城道で、堀を渡る箇所は土橋となります。

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中城から、二の丸(中央やや左、小屋のようなものが建っている段)越しに本丸(体育館の屋根が目印)方向。
今回は充分な時間を取れず、季節も良くなかったので再訪必須です。

さて、一夜明けた7月17日は、茨城町の小幡城からスタート。

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小幡城も再訪でコチラの記事と重複しますので省きますが、前回と違って何ヶ所かが写真のように立ち入り禁止になっていました。
倒木か何かの影響でしょうか・・・。

小幡城攻めを終えた後は鉾田市へ移動し、、、

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中居城へ。

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民家脇の登城口から入ってすぐの位置にある竪堀。

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最初に行き当たるⅢ曲輪の脇を抜け、Ⅰ曲輪(主郭)下を回り込むように伸びる帯曲輪状の削平地を進む。

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Ⅰ曲輪と、その奥(西)に配されたⅡ曲輪のちょうど中間辺りにも、ご覧の竪堀がありました。

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Ⅰ曲輪の土塁。

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圧巻だったのは、ⅠⅡ曲輪をほぼ全周に渡って取り巻く横堀。

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横堀外周の土塁上を進み、城域南西端辺りからⅡ曲輪の隅部を見た様子。
如何せん竹藪が凄くてロクな写真も撮れませんでしたが、見応えは充分でした。

この後は潮来市の島崎城へ向かいます。

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2023年7月18日 (火)

箕輪城

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郭馬出の西虎口に復元された城門。
箕輪城には11年ぶりの再訪となるため、この復元門はお初になります。

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郭馬出

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相変わらずスケールの大きな本丸の横堀。

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広大な本丸。

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本丸と御前曲輪間の空堀。

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永禄9年(1566)、武田氏に攻められて落城した際、長野業盛らが自刃した持仏堂があったと伝えられることから、御前曲輪には箕輪城将士慰霊碑も。

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御前曲輪西虎口門跡
ここに木橋を架けて、、、

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この空堀を渡っていたのですね。

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本丸へ戻り、西虎口の木橋を渡って蔵屋敷・三の丸方面へ。

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木橋から見下ろす本丸横堀。

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蔵屋敷から三の丸。

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三の丸の石垣。

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北条氏の滅亡後に入城した井伊直政時代のものと推定されています。

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こちらは鍛冶曲輪の石垣。

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大手(追手)口方面へ下りて、虎韜門(ことうもん)跡。

久しぶりに訪れましたが、箕輪城はやはりさすがの規模、見事な遺構の連続です。

これにて今回の群馬の城めぐりは終了。
中山城は残念でしたが、それでも1日で6城もまわれたので満足です。

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2023年7月17日 (月)

沼田城、名胡桃城、小川城

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沼田城に到着。
個人的には、実に19年ぶりの再訪となります。

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沼田城本丸。
真田信之・小松姫像の右後方辺りが、天守跡と伝えられます。

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西櫓台の石垣(東側)

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その西側・・・木の重みで地面が沈み込み、石垣も大きく孕んで立ち入ることができなくなっていました。

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捨曲輪に置かれた平八石。
天正9年(1581)、沼田城を奪還すべく兵を挙げたものの、謀略によって討ち取られた沼田平八郎景義。
その平八郎の首をこの石に据え、真田昌幸が首実検したと伝わります。

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捨曲輪から名胡桃城(写真中央、左からの山の稜線が先端付近で低く平らになっている辺り)を望む。
この僅かな距離間が、豊臣秀吉の小田原征伐を引き起こす歴史の重要な舞台となりました。

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捨曲輪と二の丸間の空堀も見事なもの。

19年前に比べて多少はお城を見る目も肥えたのか、前回は気にもかけなかった地形なども確認しながら楽しめました。
次は件の名胡桃城へ。

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名胡桃城
沼田一帯の制圧のため、真田昌幸が拠点として築きました。

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手前の舗装部分は馬出跡で、土橋を渡った先は三の郭。

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三の郭
半円状の舗装面からは三日月堀が検出しており、初期段階ではここに馬出が配されていたようです。
その後、三の郭拡張のために埋め立てられたものと考えられます。

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三の郭から二の郭への土橋と堀切。

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二の郭

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谷部を挟んだ対岸の駐車場は般若郭跡。

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本郭へと続く二の郭の北虎口。
綺麗な枡形になっていました。

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本郭

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本郭の北、ささ郭との間を断ち切る堀切。

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土塁に挟まれた細い通路状のささ郭先端から、先ほどまでいた沼田城方面を望む。
連郭式のシンプルな造りで、規模も想像より小ぶりでしたが、なかなか見応えのあるお城でした。

お次は、名胡桃城から車で少しだけ北上して・・・

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月夜野の小川城へ。
沼田氏の流れを汲む小川氏五代の居城です。
その五代目・小川可遊斎は、真田昌幸の沼田領攻略戦にも加わっています。
天正10年(1582)、主筋の甲斐武田氏が滅亡すると可遊斎は越後へ逃れ、小川氏による領有は終焉を迎えました。

現在は国道291号線の東に位置する本丸部分のみが残ります。

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二の丸以下は、国道の西側に展開していたようです。

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しかし、この本丸の空堀は見応えがあります。

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本丸

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本丸に僅かに残る土塁。

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本丸の先、一段下がった箇所はささ曲輪。

15分ほどの滞在でしたが、空堀だけでも見る価値は有り、かな。

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休憩で立ち寄った道の駅中山盆地から、右に小野子山・中の岳・十二ヶ岳からなる三並山、左に子持山のパノラマ・ビュー。
手前には田んぼアートも。
そして道の駅のすぐ近くには・・・

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中山城
天正10年(1582)、本能寺の変から続く天正壬午の乱を経て、北条から徳川へと鞍替えした真田領の沼田~岩櫃間を押さえ、対真田戦の拠点とすべく、北条氏が築いたものだそうです。

いざ!と勇んで向かったものの、登城路が激藪に埋まっており、やむなく断念しました・・・。

という訳で群馬のお城めぐり、ラストは高崎市方面へ引き返して箕輪城を目指すことになりました。

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2023年7月16日 (日)

前橋城、石倉城

群馬のお城めぐり当日。
朝8時に高崎駅で同行者と合流し、まずは前橋城へ。
・・・高崎駅で待ち合わせなのに、何故か前橋城には行って高崎城はスルーという謎の行動(笑)

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本丸周囲の土塁を見ていきます。

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本丸東面の土塁。

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本丸北東隅、土塁上に建つ前橋城址之碑

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城址碑裏から、本丸北面~西面の土塁を望む。
折れも綺麗に確認できます。

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高浜門から本丸内へ。

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本丸跡地に立ち並ぶ県庁や県警本部をぐるりと取り囲む土塁。
この規模の大きな土塁が遺されただけでも、まだ良しとしなければ…ですね。

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続いて、前橋城と利根川を挟んだ対岸に位置する石倉城跡へ。
現在は二の丸跡の一部が公園になって石碑も建っていますが、城の痕跡は消滅しているようです。

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前橋(厩橋)城の前身とも、武田信玄が厩橋城や箕輪城攻略のために築いた拠点とも云われているようです。

この後はちょっと北上し、沼田・みなかみ方面へ向かいます。

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2023年7月15日 (土)

二子山古墳、八幡塚古墳

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翌日に控えた群馬の城めぐりに備え、7月8日は高崎へ前乗り。
道中もスムーズで少し時間が出来たので、地図アプリで見かけたかみつけの里博物館に立ち寄ってみました。

こちらは博物館の周囲に残る二子山古墳と八幡塚古墳に加え、薬師塚古墳を加えた「保渡田古墳群」の調査結果や出土品、古墳が築かれた5世紀頃の人々の暮らしぶりなどを紹介する施設でした。

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博物館のすぐ西隣にある二子山古墳
周囲を囲む二重の堀や、円形の中島(祭祀用の場所か)なども整備保存されています。

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博物館の北隣には、八幡塚古墳
こちらは綺麗に復元されています。

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前方部から後円部を見る。

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八幡塚古墳もやはり二重の堀で、中島も復元されていました。

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後円部は中に入ることもでき、埋葬された石棺の様子が復元展示されています。

二子山古墳に八幡塚古墳、いずれも1500年ほど前の豪族のお墓と考えられているそうです。

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2023年6月21日 (水)

後藤象二郎に贈られたサーベル

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静嘉堂文庫美術館にて開催されている「サムライのおしゃれ」展にお邪魔し、新発見された後藤象二郎のサーベル形儀仗刀を拝観してきました。

慶応4年2月30日(太陽暦では1868年3月23日)、天皇に拝謁するため、宿所の知恩院から御所へ向かっていた英国公使パークスは、その途次、暴漢2人の襲撃を受けます。
しかし、随行していた後藤象二郎(土佐藩)らの活躍により襲撃は退けられ、パークスは難を逃れました。

初公開されているサーベル形儀仗刀は、その活躍を讃え、感謝のしるしとして英国女王ヴィクトリアから後藤らに贈られたものです。
三菱財閥二代目総帥・岩崎彌之助の妻が後藤の娘だった関係で、静嘉堂文庫の書庫に眠っていたものと思われます。

刀身には;
PRESENTED TO GOTO.SHOJIRO
IN MEMORY OF THE 23RD OF MARCH, 1868
との刻印があり、鞘やベルト類、それらを収納するケースと一緒に展示されていました。
※本品は撮影が許可されていて、実際に私も撮らせていただきましたが、blogへの掲載は控えさせていただきます。

貴重な品を報道発表から日を置かず、早々に公開してくださったことに感謝。

その他では風俗画や印籠、刀剣の拵え・目貫・鍔・縁頭といった品が数多く展示されていました。
どれも美や贅、意匠をこらした品々ばかりで道具・武具というより、もはや美術品・芸術品といった感じです。

最後に、国宝の曜変天目とも2年ぶりの再会を果たせました。

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2023年4月22日 (土)

「どうする家康」展、拝観

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お江戸日本橋は、三井記念美術館で開催されているNHK大河ドラマ特別展「どうする家康」(4月15日~6月11日)へやって参りました。

大小7つの展示室に渡り、

プロローグ 大日本五道中図屏風でたどる家康の足跡
第1章 「家康誕生」―今川からの独立と三河平定
第2章 「戦国乱世の選択」―今川・武田との抗争
第3章 「豊臣大名徳川氏」―豊臣政権下の家康
第4章 「天下人への道」―関ケ原/江戸開府
第5章 「大御所時代」―駿府での生活/大坂の陣
第6章 「東照大権現」―家康、神となる
エピローグ 御神体 家康の刀剣と甲冑

という章立てで、徳川家康の生涯を多くの展示品と共に追っていく、という構成になっていました。
展示品の詳細については公式サイトなどで目録をご参照いただくとして、全体的には久能山東照宮博物館所蔵の品が多かったように感じます。

想像よりも豊富な展示品の数々に、あまり時間をかけて観る方ではない私でも優に1時間を要しました。
また、平日の午前中という時間帯にもかかわらず、多くの方が来館されていました。

プロローグで展示されている大日本五道中図屏風(江戸~京都 8曲2双)、及び別の展示室にあった同(大坂~長崎 6曲1双)では、関東以西~長崎まで津々浦々の街道やお城をたどることができ、お城好き・街道好きには堪らない逸品でした(笑)

また、京都大徳寺所蔵の織田信長像(狩野永徳筆)や、岸和田本徳寺所蔵の明智光秀像にも再会を果たすことができました。

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前後期で展示品の入れ替えも結構多いようなので、後期も足を運んでみようかと考えています。

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2022年12月21日 (水)

間宮林蔵の生家

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前記事でご紹介した守谷城の近くに間宮林蔵の生家跡があることを知り、折角なので寄ってみることにしました。

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2度に渡る樺太探検で間宮海峡を発見し、樺太が島であることを証明した間宮林蔵の生家。
15~6歳頃まで暮らしていたそうですが移築復元のため、位置は若干移動しているようです。

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併設する間宮林蔵記念館では、彼の生涯や功績を紹介しています。

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記念館から300mほど離れた専称寺。

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専称寺境内に建つ、間宮林蔵の顕彰記念碑。
その裏に・・・

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間宮林蔵(左)と、彼の両親のお墓が並びます。
すぐ裏を流れるのは、林蔵が世に出るきっかけともなった堰止め工事を行っていた小貝川です。

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専称寺のお墓は、林蔵が北方探検に出る前に自ら建立した生前墓です。
「間宮林蔵墓」と楷書で彫られた墓石の文字は、林蔵自らの手によるとも云われています。
まだ名を挙げる前だけに小さくて簡素な墓石ですが、相当な覚悟をもって北方へ赴いたことが偲ばれます。

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