カテゴリー「お城、史跡巡り 関東」の108件の記事

2018年10月30日 (火)

飛山城

大谷資料館の後は20㎞ほど移動し、飛山城跡(宇都宮市竹下町)へ向かいました。

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飛山城跡図
便宜上、4つに大別される曲輪に14の数字をふりました。

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城跡北東隅から南の方角。
土塁や堀が綺麗に整備されています。

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飛山城は13世紀末、宇都宮氏の家臣・芳賀氏による築城と伝わります。
以来、小田原征伐(1590年)後に豊臣秀吉の命によって破却されるまでの300年間、芳賀氏の拠点として機能していました。

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それでは、城跡図●現在地にある木橋を渡り、東の大手虎口より入城します。
虎口の先に、視界を遮断するかのような土塁が見えています。橋の手前からは「蔀土塁かな?」と思いましたが、近づいてみると・・・

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小さいながらも、れっきとした馬出でした。
木橋を渡ってくる敵に対し、写真左奥に見えている4曲輪北東端の虎口を守っています。

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馬出の奥、4曲輪の虎口前にも二重目の横堀が走り、土橋が架けられています。

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東面二重目の横堀。
ちなみに一重目は最初に木橋で越えた堀です。

飛山城は鬼怒川の河岸段丘上に築かれており、北と西面は段丘の縁に接して急崖と川に守られていますが、南と東面にはこうして帯曲輪状の削平地を挟み、二重の堀を施して守りを固めていました。

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4曲輪虎口側から馬出方向。
写真では明る過ぎてとんでしまっていますが、正面やや左寄りの土塁の切れ目の先に、大手の木橋が架けられています。

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4曲輪(手前)と3曲輪(右奥)を隔てる堀と土塁。
まずはこの堀を越え、3曲輪から反時計回りに見ていくことにします。

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3曲輪から鬼怒川越しの眺め(北西方向)。
足元はすぐに落ち込んでおり、段丘の縁に築かれていたことが一目瞭然です。

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3曲輪と1曲輪間の堀・土塁。

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1曲輪は更に堀で細かく仕切られていたようで、地表面にその痕跡(窪み)が残されていました。
この堀(現地表記では「1号堀」)は発掘調査の結果、破城時に埋め戻されていたことが判明しています。

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同じく埋め戻された堀跡(同「3号堀」)

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1曲輪(左)と2曲輪(右)間の堀・土塁。
出枡状に折っている部分がありますが、そのすぐ先(写真奥)には虎口があって木橋が架けられています。
12曲輪を繋ぐ虎口の至近から横矢を掛け、厳重に警戒する意図を感じました。

現地案内板にも(上の図で1曲輪に相当する)「2号堀に囲まれた部分が、主郭(本丸部分)と考えられます」とありましたが、虎口に対する厳重な防御、そして出枡の向きからして、私も1曲輪が主郭だったのだろうと思います。

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2曲輪に復元された掘立柱建物。

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2曲輪と4曲輪間の堀。2つほど畝もありました。

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2曲輪から4曲輪への虎口は、堀が屈折するコーナーに設けられていました。
その土橋の足元には・・・

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可愛らしい畝の姿も。

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広大な4曲輪には復元された古代の住居や・・・

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竪穴建物なども展示されていました。

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4曲輪南東隅の横堀。
左奥は二重の堀に挟まれた帯曲輪で、その外側に最外郭の堀があります。

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その最外郭の堀(東面)

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最初に見た大手虎口へ横矢を掛ける、大手南側の櫓台。

飛山城・・・予想外に広い城域と、技巧的な遺構が見応えありました。
史跡公園としてよく整備され、登山もないので手軽にお城散策を楽しめますし、歴史体験館が併設されて駐車場も完備。
近くへお越しの際は、お薦めの立ち寄りスポットです。

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2018年10月29日 (月)

大谷石の地下採石場跡(大谷資料館)

10月28日(日)は早朝に自宅を出発し、宇都宮までドライブ。
まずは大谷石の地下採石場跡、大谷資料館へ向かいます。

大谷石は宇都宮市大谷町の一帯で採掘される石材で、柔らかくて加工しやすい特長を持ち、古くから土蔵などの建材として用いられてきました。

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資料館周辺の岩肌にも、特徴的な採石跡が見られました。

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それでは早速、地下の採石場坑内へ。

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細い階段を下りていくと、いきなりこの光景が目に飛び込んできます。
聞きしに勝るスケールです。

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やぁ、精が出ますなぁ~。
昭和30年代に機械化されるまでは、こうしてツルハシで手掘りしていたそうです。

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地下神殿を思わせる神秘的な空間はこれまで、映画やドラマなどのロケでも多く利用されているようです。

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こうして見ると、まるで某RPGのダンジョンですよね。

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表面につけられた溝は、機械で採石された痕跡とのこと。

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岩石とか地質に興味があれば更に楽しめるのでしょうが、この光景だけでも一見の価値ありです。

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何故か突然の・・・ドンペリ(笑)
地下坑内は年間を通じて気温12度前後に保たれており、天然の冷蔵庫としても最適、ということのようです。

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人尺が入ると、そのスケールの大きさが引き立ちますね。

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次は夏の暑い盛りに涼みにきますか!←

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2018年9月17日 (月)

高坂館跡

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埼玉県東松山市高坂の高済寺。
この地にはかつて、高坂館と呼ばれる城館が存在しました。

高坂館の築城は14世紀頃、「太平記」にもその名が見える高坂刑部によるものと考えられているようです。高坂刑部は後に河越氏らの平一揆の乱(1368)に加担して敗れ、高坂の地を追われています。
後北条氏の時代を経て徳川家康が関東に入封すると、高坂は加賀爪氏に与えられて陣屋が構えられますが、加賀爪氏は後に成瀬氏と境界争いを起こし、天和元年(1861)に改易処分となりました。

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高済寺西側の土塁

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土塁外側に残る堀跡
(平成30年9月現在)発掘調査が行われていますが、調査後の土地活用について最近、未確認ながら様々な情報が錯綜していましたので、兎にも角にも一度は見ておこうということで急遽訪れました。

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城山稲荷

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西側土塁の北端部に並ぶ、加賀爪氏累代の墓所。
この辺りの土塁は、元々存在した古墳を取り込んで造成されていたようです。

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城域西北端の堀を見下ろす。

これらの土塁や堀の規模から、現在に残る遺構は中世高坂氏時代のものではなく、少なくとも戦国期以降に整備・拡張されたものと考えられています。
実際、明応3年(1494)に伊勢宗瑞(北条早雲)が、永禄4年(1561)には松山城を攻める北条氏政も高坂に在陣していることが史料(北条氏政書状写)で確認されているようです。

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土塁上から南の方角。
この土塁や堀は本来、更に先まで続いていました。

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城域最南端と推定されている付近に見られた古墳らしき茂み。
高坂館の南面にも、いくつかの古墳を取り込んだ土塁や堀が築かれていたようなのですが・・・今となっては偲ぶよすがもありませんでした。

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続いて城域東側へ。
高坂館は都幾川の段丘上に築かれており、その北と東は段丘崖に接しています。
写真は東側の段丘の縁。これに沿って北上していきます。

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「高坂上二丁の石橋」
旧八王子道の側溝の水を、崖下の耕地に流していた溝に架けられていたもの、とか。
裏面の銘文から、弘化2年(1845)に架けられたことが判明しているらしいのですが・・・その銘文は確認のしようもありません(笑)

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段丘上に降った雨水が湧き出る「高坂の七清水」の一つ、「高済寺下の清水」

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段丘下を縁に沿って北へ回り込むと、最初に見た加賀爪氏累代墓所下の堀跡に上がれそうな場所がありました。
早速ちょっと登ってみると・・・

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パッと見では堀跡というより、小さな腰曲輪が2段連なっているようにも見えました。
こちらは1段目で・・・

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少し上がった2段目。この先は高済寺西側の堀に続いています。
外縁部(写真右)には土塁らしきものも。

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その土塁状の高まり。
現状では腰曲輪のようにも見えるけど、堀が埋まって(埋められて?)削平地のような形状になったのかもしれません。

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高坂館、なかなかの見応えでした。
南側の遺構がある程度残っていれば更に良かったのでしょうが、周辺は宅地化が急速に進んでいる印象でしたので、それも無理な相談なのかもしれませんね…(;^_^A

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2018年8月 6日 (月)

苦林野合戦と鎌倉街道

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今回は埼玉県毛呂山町へドライブ。
まずは、毛呂山町歴史民俗資料館で下調べ&資料調達から。

毛呂山町に残る鎌倉街道の旧道を歩いてみたくて訪れたのですが、資料館で苦林野合戦のことを知って興味を惹かれたので、まずはそちらの関連地をめぐってみることにします。

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資料館を出てすぐ、県道39号沿いで見かけた稲荷台の馬頭観音。

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苦林古墳(大類一号古墳)
苦林野一帯には古墳が数多く点在し、中でもこちらの苦林古墳と呼ばれる前方後円墳は高さ2.4m×最長部は23mあり、苦林野合戦の折には芳賀高貞が物見に使ったとの伝承も残っているそうです。
(太平記「小塚の上に打ち上りて・・・」)

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前方部には昭和8年に建立された苦林野合戦の記念碑が建ち、

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後円部には文化10年(1813)に、苦林野合戦戦死者への供養塔として建立された千手観音菩薩像が建ちます。

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裏には苦林野合戦を記録した記述も見られました。

相刕鎌倉将軍左馬頭基
氏下毛宇都宮芳賀伊賀
守高貞貞治四年六月十
七日兩将戰斯地矣


ちなみにこの供養塔、「新編武蔵国風土記稿」の挿絵にも描かれています。

苦林野合戦
観応の擾乱で直義方だったために失脚し、信濃に逃れていた上杉憲顕を密かに越後守護職に再任し、更には関東管領に据えようとする鎌倉公方・足利基氏と、その阻止を目論む宇都宮氏綱(上野・越後守護職)の重臣で越後守護代の芳賀氏との間で、貞治2年(1363 ※供養塔では貞治4年)6月に勃発した戦い。
宇都宮氏や芳賀氏は観応の擾乱に於いて尊氏方について功があったため、前者は上野・越後守護職、後者は越後守護代に任じられて、関東で大きな勢力を誇っていました。

鎌倉の基氏の元へ上る憲顕を上野で迎え討とうと、800騎ほどの軍勢で出陣した芳賀高貞・髙家に対し、基氏は3000余騎の軍勢を率いて芳賀氏討伐に向かい、両軍は苦林野で激突しました。
戦いは基氏の勝利に終わり、これによって芳賀氏の主家・宇都宮氏は上野と越後の守護職を解かれ、その勢力を大きく削がれました。
以後、関東管領職も上杉氏が世襲していくことになります。

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苦林古墳から古戦場方向を眺める・・・古戦場は雑木林の更に向こう側になりますが。
視線の先にもう一基、前方後円墳が見えます。

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その古墳(大類二号古墳)
規模はさほどでもありませんが、形状はかなり明瞭でした。

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十社神社
苦林古墳から見えていた雑木林の中に静かに佇みます。
苦林野合戦で、基氏を守って戦死した金井新左衛門の外9名を祀ったのが始まりとされています。
当初は祀られた10人にちなんで「十首明神」と呼ばれていましたが、のちに現在の社号に改められました。

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ちなみに、付近には大薬寺という寺があります。
鎌倉幕府の五代執権・北条時頼が旅の僧に扮して廻国していた際、当地で腹痛を起こし、当時まだ小さな草庵だった大薬寺で休んで薬師如来に祈ったところ、たちまち腹の痛みが治まった。喜んだ時頼は大薬寺に多くの寄進をし、これが元で大薬寺には多くの参拝者が訪れるようになって栄えた、との伝承があるそうです。
しかしその後、苦林野合戦の戦火によって伽藍を焼失し、一旦は再興されたものの、明治になって再び火災に遭い、今では本尊の薬師如来像を祀るお堂が残るのみとなっています。

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追分のような分岐点に出ました。
右手に庚申塔や馬頭観音が見えています。

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その神明台の庚申塔、馬頭観音。
この背後の一帯が、苦林野合戦の古戦場になるようです。

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大類グラウンド脇から南へ伸びる鎌倉街道
ようやく今回の本来の目的、鎌倉街道歩きがスタートです。

この日は気温38~39℃の酷暑。
強い日差しも照り付け、既に私の体力はレッドゾーンに突入していました。。。

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鎌倉街道とは幕府が置かれた鎌倉と、関東諸国や信濃・越後・陸奥方面などを結ぶために設置された幹線道路で、毛呂山町を南北に貫くこちらの古道は、鎌倉から武蔵・上野を抜けて信濃へと至る鎌倉街道上道(かみつみち)の一部と考えられています。

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県道39号線に分断される鎌倉街道。

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県道を超えた先も、更に南へと続きます。
苦林野合戦の折には3000余騎を率いた基氏も、鎌倉からこの道を伝って進軍(北上)してきたものと思います。

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こういう雑木林に入ると多少は涼しくなっていいのだけれども、ちょっとでも立ち止まると蚊の襲来を受けて、おちおち休むこともままなりません・・・。

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鎌倉街道の掘割遺構
舗装路は右へ逸れていますが、本来の鎌倉街道は写真正面方向へ真っ直ぐ伸びていました。

発掘調査では側溝も出土しているそうですが・・・時期が時期だけに、案の定のド藪でした(;^_^A
地元からもそう遠くはないですし、藪も枯れる時期に改めて来てみたいと思います。

※雑木林の中でも一部、道の両サイドが盛り上がって掘割になっていた痕跡は認められました。

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2018年6月11日 (月)

渋沢平九郎の故郷を訪ねて

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埼玉県深谷市の渋沢栄一記念館。

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twitterからの情報で現在、幕末のイケメン!渋沢平九郎展が開催(~H30.7.29)されていることを知り、足を運んでみました。

渋沢平九郎は尾高勝五郎保孝の子として生を受けました。渋沢栄一とは従弟であり、且つ栄一が平九郎の姉と結婚しますので義兄弟という間柄になります。
栄一が徳川昭武(慶喜弟)に随行してパリ万博へ向かうことになったのを機に栄一の見立て(仮)養子となり、渋沢平九郎と名乗りました。
慶応4年(1868)に戊辰戦争が勃発すると、天野八郎らとの対立から彰義隊を脱した親類の渋沢喜作(成一郎)や、兄・尾高惇忠らと共に振武軍を結成して飯能で新政府軍と戦います(飯能戦争)が敗れ、同年5月23日、逃れる途中に顔振峠黒山の山中で敵兵に捕捉されたために自害して果てます。享年僅かに22歳でした。

展示の方はほんの一コーナーといった程度の、意外なほどに小規模なものでしたが;

・「藍香選 渋沢平九郎昌忠傳」
→渋沢平九郎の人となりを伝える。

・「昌忠致身受慶録」(慶応3年)
→平九郎が渋沢井栄一の見立て養子となった際の祝いの記録。

・「東遊録」(慶応3年)
→江戸での暮らしを伝える平九郎の日記。

・平九郎書状(2通ほど)

などが展示されていました。

折角なので、近隣の関連地もめぐります。

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渋沢栄一の生誕地に建つ、中の家(なかんち)。

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明治44年に建てられた副屋。

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庭には若き日の栄一

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主屋と土蔵

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主屋は明治28年の上棟。渋沢家の住宅として利用されてきました。

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主屋裏に建つ渋沢平九郎追悼碑

楽人之楽者憂人之憂
喰人之食者死人之事
昌忠


平九郎が幕府軍に参加する前日、仮住まいの障子に書いたと云う言葉が彫られています。
渋沢栄一が建立(篆額も)し、谷中の渋沢家墓地にありましたが、墓地の整理縮小に伴って市に寄贈され、中の家に移設されました。

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続いて、渋沢平九郎の生家でもある尾高惇忠生家へ。
尾高惇忠は先にも触れましたが、平九郎の長兄です。渋沢栄一は惇忠の従弟であり、且つ妹婿にあたります。

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尾高家は栄一の中の家から東へ1㎞強ほどの距離で、若き日の栄一は日々ここへ通い、惇忠の教えを受けていたと云います。
やがて尊王攘夷思想に傾倒していった二人が、やはり親類の渋沢喜作(成一郎)らと共に、高崎城乗っ取り計画の謀議(文久3年/1863)を図ったのも、この尾高家の二階であったと云われています。
写真奥の床の間の裏手に階段があるそうですが、現在はまだ整備修復が進んでおらず非公開です。

惇忠は後に富岡製糸場の初代場長(娘が工女1号)や、第一国立銀行盛岡支店・仙台支店の支配人などを歴任していますが、こちらの尾高惇忠生家は富岡製糸場が世界遺産に登録されたのを機に、関連施設として公開されるようになりました。

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尾高家は、染め物の染料となる藍玉の製造・販売でも生計を立てていたそうです。
この藍玉一つで、当時の価値で10万円ほどもしたのだとか。

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主屋の屋根。上段部分は創建当時のままなのだそうです。

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煉瓦倉庫

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倉庫に使われている煉瓦には、日本煉瓦製造株式会社(明治21年、渋沢栄一らによって設立)の上敷免工場(現深谷市上敷免)製であることを示す「上敷免」の刻印が打たれています。
(東京駅にも、日本煉瓦製造製の煉瓦が使用されていたようです)

「渋沢平九郎を取り上げた展示なんて珍しいから、ちょっと覗きに行ってみよう」という軽い気持ちで訪れた深谷市。思わぬ収穫がたくさんの、いいドライブになりました。
ラストは道の駅に立ち寄り、先日テレビで紹介されて気になっていた深谷もやしと、定番の深谷ねぎを仕入れてから帰宅しました。

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2018年6月10日 (日)

騎西城

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今回の日帰りドライブはまず、埼玉県加須市の騎西城跡へ向かいました。

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騎西城復元図
築城時期や築城者は不明ですが、永禄6年(1563)には武州松山城の救援に間に合わず、方向転換?した上杉輝虎(謙信)に攻められて落城しています。
遺構はほぼ何も残っていないようですが、この復元図を元に主だったポイントを歩いてみることにします。
※冒頭写真のような天守風の建物もありますが、この復元図で見る限り、その立地は当時の堀の中にあたるようですね…(;^_^A

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生涯学習センターの片隅に建つ天神曲輪跡の標柱。
標柱の位置が曲輪の端にあたるようなので、写真で標柱の左側(天守風建物のある方)は当時、堀だったことになります。

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天神曲輪の土塁跡
唯一と言ってもいい、騎西城の遺構なのですが・・・

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昭和40年頃に撮られた写真を見る限り、その後の整備段階で多少盛り直されていそうですね。

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復元図aの堀があったと思われるポイント。

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同じくbの堀跡と推定したポイント。
考え過ぎかもしれませんが、堀跡の高低差(窪み)をそのまま、水田に利用したようにも見えてきます。

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大手門跡
復元図によると、畑の部分が堀跡ということになります。

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生涯学習センターまで戻って、二の丸跡。
二の丸跡は、生涯学習センターの敷地や宅地でほぼ埋め尽くされているようです。

折角なので、本丸跡の方にも向かってみます。

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復元図c地点から、本丸跡方向を見た様子。
写真手前の地表面が低く、家屋が建ち、車などが置かれている場所は一段高くなっていましたが・・・なんとも言えません。
その気になったら、なんでも城の痕跡に思えてきちゃう・・・(笑)

さて、暑さも厳しい(まだ6月も前半だというのに、この日の気温は車の温度計で35度を指していました)ので騎西城跡めぐりはこの辺りで切り上げ、次は深谷市へ向かいます。

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2018年5月27日 (日)

鹿野大仏

本日は東京都日の出町の寶光寺までドライブ。
平成30年(つまり今年)3月に竣工したばかりの鹿野大仏(ろくやだいぶつ)を拝観いたします。

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寶光寺脇の専用駐車場(一般車500円也)に車を停め、西参道を進みます。

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「鹿野」命名の由来となった鹿の湯跡
室町時代、寶光寺に湧き出る泉で鹿が傷を治している様子を見て、当寺の文済禅師が「鹿の湯」と名付けたとか。
明治初頭まで湯治客で賑わい、多摩七湯の一つにも数えられていました。

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整備されたばかりの奇麗な参道を登ること7~8分で・・・

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だいぶ近づいてまいりました。

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鹿野大仏

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仏身高12m、台座を含めると18mにも及び、重量はなんと60t!

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大仏の見つめる先。麓に車を停めた駐車場が見えています。
いずれはここに、大仏の足元まで真っ直ぐに伸びる参道が付けられるそうです。

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その正面参道の入口。
今はまだ、整備許可が下りるのを待っている状態なのだそうです。

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また、体の不自由な参拝者のため、台数は限られるものの、大仏のすぐ近くまで車で登れる道も(写真右)整備しているとのこと。
こちらも許可待ちの段階とか・・・早く許可が下りるといいですね。

最後に、寶光寺本堂にもお参りして帰路につきました。

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2018年5月14日 (月)

高安寺

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府中市の高安寺

その昔、藤原秀郷(俵藤汰)の館跡だった地に創建された見性寺が始まりとされています。
壇ノ浦で平家を討ち果たすも、鎌倉入りを許されなかった源義経が京への帰路に立ち寄り、元弘3年(1333)の分倍河原の戦いに於いては、鎌倉幕府軍と対峙する新田義貞が本陣を布いたとも伝えられている地です。

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立派な山門

見性寺はやがて荒廃しますが、後に将軍となった足利尊氏によって再興され、尊氏が全国に展開させていた安国寺の一つ(武蔵国)に位置づけ、寺名も高安寺と改められました。

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そのため、本殿(1803年再建)には尊氏の戒名「等持院殿仁山妙義大居士」にちなんだ扁額も。

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藤原秀郷を祀る秀郷稲荷

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京への帰路に見性寺(高安寺前身)へ立ち寄った源義経は、ここで弁慶らと赦免祈願のための大般若経を写したと云います。
その墨のための水を汲んだとの伝承から、弁慶硯の井と呼ばれる井戸跡もありました。

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高安寺は、多摩川の浸食による段丘の縁のような場所に位置しています。
その地理的条件から、高安寺として再興された後も軍事目的で利用され、度々戦乱に巻き込まれてきました。
戦国期には後北条氏の庇護を受けるものの次第に寺勢を失い、慶長年間になって青梅の海禅寺七世・関州徳光禅師が再興し、その末寺に入って現在に至ります。

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2018年5月 4日 (金)

鴻巣宿周辺の歴史散策

GWの混雑を避け、本日は近場へお気軽ドライブ・・・埼玉県鴻巣市へ向かいました。
中山道の宿場町、鴻巣宿の周辺を散策します。

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まずは鴻巣市本町勝願寺へ。
勝願寺は天正年間(1573~93)、鴻巣市登戸から当地へ移され、宗派もそれまでの真言宗から浄土宗に改められて再興されました。
石柱にある「檀林」とは浄土宗僧侶のための学問所・養成所のことで、勝願寺は関東十八檀林の一つにも数えられています。
※移転後の登戸跡地はしばらく衰退しますが、秀忠の代になって元の真言宗寺院として再興され、現在も「勝願寺」として存続しています。(登戸勝願寺)

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参道を進むと、石戸藩主から丹後国田辺城主へと転じた牧野氏歴代当主夫妻の墓所がありました。どうやら非公開のようです。

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徳川家康も鷹狩で度々鴻巣を訪れており、同寺中興二世の円誉不残上人に帰依して寺領30石を寄進し、「三つ葉葵紋」の使用も許されました。

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立派な仁王門

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本堂

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境内では、ナンジャモンジャが満開の花を咲かせていました。

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本堂横に祀られている(向かって左から)仙谷権兵衛秀久・真田信重室・真田信重・小松姫(真田信之室)らの墓所。

仙谷秀久は慶長19年(1614)5月6日、江戸から領国の信州小諸への帰途、ここ鴻巣の地で没しています。
本廟は長野県上田市の芳泉寺にありますが、終焉の地である当寺にも分骨建墓されました。
(偶然ですが、訪れた日は5月4日・・・旧暦と新暦の違いはありますが、僅か2日違いだったのですねぇ・・・)

真田信重は真田信之の三男で慶安元年(1648)に、やはり鴻巣にて病没しています。
隣に眠る彼の室(鳥居左京亮六女)は、夫に続き翌慶安2年に没しました。

小松姫は云わずと知れた本田平八郎忠勝の息女で徳川家康の養女となり、真田信之に嫁した人物。元和6年(1620)2月4日没。
生前、円誉不残上人に帰依した縁で一周忌に際し、勝願寺にも分骨して祀られるようになりました。
(本廟は仙谷秀久と同じ芳泉寺)

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中山道鴻巣宿本陣跡

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鴻巣宿は中山道7番目の宿場町で、慶長7年(1602)に北本市の本宿から移されて栄えました。

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お次は、“日本で一番小さい東照宮”が祀られている鴻巣御殿跡へ。

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鴻巣御殿跡の東照宮(祠)
鴻巣御殿は、鷹狩の際などに利用された徳川将軍のための休泊施設で、家康・秀忠・家光の三代に渡って使用されました。

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しかし寛永7年(1630)頃を最後に使用されなくなり、明暦の大火(1657)後には焼失した建物の再建のため、その一部が江戸城へと移築され、元禄4年(1691)になると跡地に東照宮を祀って除地とされました。

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江戸図屏風に描かれた鴻巣御殿

・・・もう少し散策を続けます。

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鴻巣駅から西へ向かい、20分ほど歩いた先にある・・・伝源経基館跡の横堀。

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曲輪内はかなり広い柵平地となっていました。

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こちらは・・・櫓台でしょうか?

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櫓台の上に建っていた石碑

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櫓台から見渡す曲輪

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土塁と横堀

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食い違いに横矢をかける土塁と堀

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伝源経基館跡・・・中世の豪族居館跡であることは確かと思います。
遺構としては単郭の土塁や横堀のみですが、住宅街に残された貴重な歴史遺産といえるでしょう。

渋滞知らずのお気軽ドライブ&歴史散策・・・リフレッシュできた1日となりました。

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2018年4月 2日 (月)

石戸蒲ザクラ

数年前にその存在を知り、いずれは開花に合わせて訪れてみたいと思っていた石戸蒲ザクラ
それがちょうど見頃を迎えているとの情報を得て、埼玉県は北本市までドライブしてきました。

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専用駐車場の桜並木も、満開に咲き誇っていました。

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石戸蒲ザクラは東光寺という、今はお堂が立つのみの小さなお寺の境内にあります。

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石戸蒲ザクラ
遠江国蒲御厨(静岡県浜松市)の出身だったことから、『蒲冠者』とも呼ばれた源範頼(頼朝の異母弟)。その範頼の杖が根付いたもの、との伝説から『蒲ザクラ』の名で呼ばれてきました。

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国の天然記念物にして、日本五大桜の一つにも数えられています。
エドヒガンとヤマザクラの自然交配で、樹齢は800年にも及ぶと推定されていますが、現在花を咲かせている幹は老木からの株分かれらしく、厳密には二代目ということになります。
例年だと4月上旬~中旬にかけてが満開の時期だそうですが、今年(2018年)は3月の下旬から暖かい日が続いたことで一気に開花が進んだようです。
(訪問日:4月1日)

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蒲ザクラの根元には、桜の絨毯に腰掛けるようにして範頼の供養塔らしき古い石塔が佇んでいました。

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一説には東光寺の開基も範頼と云われており、実際に彼は、すぐ近くの吉見一帯を領していたと伝えられています。
参考記事

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東光寺の裏手、石戸神社の境内には・・・

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蒲ザクラの後継樹が、こちらもピンクの綺麗な花を咲かせていました。

ちなみに、石戸神社が鎮座する地の小字名は「堀之内」。
東光寺を含む周辺一帯はかつて城館跡(範頼の居館とも石戸左衛門尉なる人物のものとも伝わる)だったようで、神社の裏手には堀や土塁が今も残っているそうです。

蒲ザクラを充分に満喫した後は、桶川市の三ツ木城跡へ。
桶川市川田谷の城山公園内にあります。

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台地状の高台に生い茂る樹木を少し分け入ると、なかなかの横堀が姿を現しました。
写真は横堀のコーナー部分にあたります。

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三ツ木城の横堀
右の斜面は高い切岸になっており、その上が曲輪跡になります。

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切岸を登り、2つ前の写真のコーナー部分の切岸と横堀を見下ろした様子。

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自然地形の台地を利用しているだけあり、曲輪を取り巻く土塁の上から見下ろすと、かなりの高低差を感じます。

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三ツ木城の曲輪跡。
周囲を囲む土塁も立派なものです。

三ツ木城・・・期待以上には見応えもあり、立ち寄って良かったと思わせてくれる城跡でした。

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お昼は北本市のB級グルメ、北本トマトカレーで舌鼓♪
お店によって味も様々なようですが、私がいただいたものはトマトの酸味がしっかりと効き、サッパリとした味わいで美味しかったです。

久しぶりに愛車にも運動させてあげられたし、いい休日になりました。

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