カテゴリー「お城、史跡巡り 関東」の138件の記事

2020年3月30日 (月)

泰巖歴史美術館

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東京都町田市に開館した泰巖歴史美術館。
そのオープン初日となる3月22日、早速お邪魔してきました。

文書類や甲冑、刀剣、茶器などの展示の他、安土城天主5~6階部分や熱田神宮の信長塀、利休の茶室として有名な待庵のレプリカ展示(原寸大)などもあります。

個人的には一番の目当てだった新史料、武田信玄書状織田信長宛(越・甲が戦になる時はお味方くださるとのこと頼もしく存じます。これからも入懇に・・・云々)を拝観できたのでよかったです。

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2020年3月29日 (日)

大胡城

白井城の後は前橋市へ移動し、大胡城へ。

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大胡城は中世、上野の名族・大胡氏の居城と考えられています。
天正18年(1590)の小田原征伐後、徳川家康の関東入封に伴って大胡城には牧野氏が入り、その牧野氏の越後転封後は前橋藩領に組み込まれましたが、寛延2年(1749)に廃城とされました。

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二の丸に残る枡形。

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水の手門は藪で形状を確認できず・・・。

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二の丸から本丸への虎口。

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横堀もなかなか見事です。

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本丸の北西隅部分。

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本丸
立派な土塁が残ります。

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本丸北側の堀跡には用水路が流れ・・・

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東の根小屋地区の先には、荒砥川が流れています。
荒砥川はおそらく、城の外堀としての役目も担っていたことでしょう。

保存状態もよく、手軽に楽しめる城跡でした。

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2020年3月28日 (土)

白井城と白井宿

最近は自身の体調不良やら仕事上のトラブル、そして新型コロナ・ウィルス問題など、様々なことが重なって休日に出かけることができていませんでした。blogの更新も、気がつけば2月上旬以来滞ったまま。
その間、愛車にもあまり運動をさせてあげられていなかったので、3月後半のよく晴れた週末、思い切って群馬県渋川市までドライブしてきました。

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目的地は旧子持村の白井宿、及び白井城です。

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まずは白井宿の散策から。

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白井宿は白井城の城下町として整備され、利根川と吾妻川の合流点で沼田⇔前橋を結ぶ街道(沼田街道西通り)や、三国街道と連絡する脇往還なども通る交通の要衝として発展しました。

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嘉永2年(1849)に建てられた道標。
説明板には「北へ進むと沼田、南へは日光江戸道へ通じる」とありました。
ここから南へ、前橋の先にも日光街道に通じる街道が通じていたということでしょうか。

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宿場の街道沿いには、多くの井戸も見受けられました。

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白井宿歴史資料館は、どうやらお休みの模様。
これも新型コロナの影響でしょうか・・・?

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それでは、白井城へ向かいます。

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白井城は、利根川と吾妻川に挟まれた舌状台地が、両河川の合流点に突き出す先端に築かれたお城です。
15世紀中頃、関東管領・山内上杉氏の家宰で、上野・武蔵両国の守護代をも務めた白井長尾氏の長尾景仲による築城と伝えられています。
山内上杉氏が後北条氏によって越後に追われた後も、白井長尾氏は甲斐・武田や後北条の傘下に入るなどして命脈を保ちましたが、天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐の際、前田利家・上杉景勝らの北方軍に北曲輪まで落とされて開城し、白井長尾氏による当地の支配は終わりを告げました。
それ以後、徳川家康の関東入封に伴って白井には本多広孝・康重父子が配され、康重が初代白井藩主となります。
康重の岡崎転封後は松平・井伊(直孝)・西尾・本多(紀貞/康重の子)と城主を変え、元和9年(1623)、紀貞が嗣子なくして死去したために廃藩となり、白井城も破却されました。

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まずは舌状台地東側の中腹を、北から南の方向へ進みます。
写真は二の丸東側の横堀。

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奥へ延びるのは、二の丸と本丸間の空堀。

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二の丸と本丸間の堀底から。

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さらに南へ、本丸東側に続く横堀。

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横堀は台地の先端付近まで続いていました。

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白井宿方面を望む。
すぐ直下には、南曲輪や新曲輪などが配置されていたようです。

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それでは台地に上がって、主郭部を見ていきます。
写真は北曲輪跡付近に残る櫓台。現在は城山不動尊が建ちます。

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北曲輪越しに三の丸方向。
前田・上杉軍は、ここまで攻め寄せたのですね。

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三の丸
杉の木が横並びに茂っている辺りが二の丸との境で、空堀が通っています。

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三の丸と二の丸間の空堀、その西側と・・・

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東側。

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二の丸
この先が本丸になります。

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空堀手前から、本丸虎口を望む。
虎口の枡形には石垣の痕跡も見られますが、これは本多氏以降の手によるものだそうです。

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二の丸と本丸間の空堀も見事です。
こちらは西側で・・・

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東側は先ほど、堀底も歩きました。
現地には「三日月堀」との案内標識も。確かに湾曲はしているけど・・・。

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本丸側から、虎口・空堀越しに二の丸。

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本丸
土塁も綺麗に残されています。

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本丸に建てられていた歌碑。
相国寺の僧・万里集九が東国巡歴の途次、長享2年(1488)9月28日に白井城に立ち寄り、“城主”上杉顕定の知遇を受けて城中を歴観した時のことを綴った旅日記に収められた漢詩とのことです。
長尾景仲の孫・景春が、総社長尾氏との主導権争いから山内上杉氏に反旗を翻した(長尾景春の乱)際、白井城は一時的に山内上杉氏のものになっていたこともあるようですが、万里集九の来訪はその間のことだったのでしょうか。

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本丸の先、台地先端に築かれた笹曲輪。

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白井城・・・なかなか見応えのある遺構でした。

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こちらは城下の源空寺。
本多広孝が自らの菩提寺として開いたお寺です。

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源空寺に眠る広孝(中央)・広孝夫人(右)・紀貞(左の宝篋印塔)の墓所。

白井城に白井宿、いい散策になりました。

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2020年2月11日 (火)

七ツ塚古墳群

今回は地元の、超マイナーな史跡を簡単にご紹介。

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日野台地の北西部に位置する七ツ塚古墳群(日野市指定史跡)です。
現在は五基の墳丘が残り、発掘調査の結果、横穴式石室や直刀・鉄鏃などの副葬品の他、周辺からも女性埴輪・円筒埴輪・管玉・勾玉などが出土しているそうです。
上の写真は、七ツ塚公園(日野市新町5丁目)に残る一基。

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付近の畑に残る墳丘。
手前の墳丘の奥、直線上にもう一基小さく見えています。

これらの古墳は、6~7世紀頃の造営と考えられています。
果たして、どのような人々がこの地に勢力を張り、どのような生活を営んでいたのでしょうか。

それにしてもこの日は、富士山が奇麗でした。

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2020年2月 4日 (火)

足利基氏の塁跡と岩殿観音正法寺

今回は埼玉県東松山市大字岩殿地区へのドライブ。

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まずは、足利基氏の塁跡から。

足利尊氏、直義兄弟が争った観応の擾乱
直義方について失脚し、信濃に逐われた上杉憲顕に変わって、上野・越後両国の守護には尊氏方の宇都宮氏綱が補任されました。
ところが、初代鎌倉公方となった足利基氏(尊氏の子)は尊氏の死後、上杉憲顕を関東管領に据えようと画策し、越後守護職も憲顕に与えます。
これに反発し、憲顕の鎌倉入りを阻止しようと兵800を繰り出した宇都宮氏の重臣・芳賀氏(越後守護代)に対し、基氏も3,000の兵を率いて出陣し、両軍は岩殿山・苦林野で激突しました。
その際に基氏が布陣した地こそ、この足利基氏の塁跡と考えられています。

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西面の堀跡と土塁。

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東面の堀跡。

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標柱や案内板も立つ東面から北側の藪へ入ると、北面の土塁や堀も残っていました。
足利基氏の塁跡は東西180m×南北80m程の範囲に、丘陵を背(北)にして東西北の三方にこうした堀や土塁が廻らされています。

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北面の堀跡。
ここから北側はゴルフ場の敷地になっているようで、堀底に境界となるロープも張られていました。

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対岸(北)の方が地面が高く、あちら側から覗き込めばより一層、空堀の規模を体感できそうでしたが、立ち入るわけにもいきませんので諦めます。

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空堀に沿った土塁の手前(南)には、曲輪跡らしき小さな削平地も。
それにしても藪り具合が凄く、戻る際に入ってきたルートを見失ってしまいました。

基氏は岩殿山・苦林野合戦に勝利した後、すぐに宇都宮・芳賀らの本拠地である下野国へ向けて進軍し、岩殿には短い期間しか在陣していなかったため、こうした遺構は基氏が築いたものではなく、元々存在していた豪族(比企能員か)の館跡を利用したのではないか、とも考えられています。
なお、合戦のあった年について、『桜雲記』という史料には「貞治8年(正しくは応安3年)/建徳元年(1370)の8月」とあるらしいのですが、基氏は貞治6年/正平22年(1367)に死去しているようなので、やはり定説通り貞治2年/正平18年(1363)だったのではないでしょうか。
※苦林古墳の供養塔(文化10年/1813建立)では「貞治4年」

続いて、足利基氏の塁跡前の道を西へ進み、正法寺へ向かいます。

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その昔、坂上田村麻呂が岩殿山に住む悪竜を退治し、その首を埋めた場所に出現したとの伝承も残る弁天沼。

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阿弥陀堂の板石塔婆
応安元年(1368)のもので、当時、付近には阿弥陀堂が建っていたようです。
(現在の岩殿会館辺り)

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正法寺の参道・門前町の入口となる惣門橋。

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一直線に伸びる参道と門前町。
今でこそ静かな集落といった風情ですが、昭和の初期までは多くの旅館や商店が軒を並べ、かなりの賑わいを見せていたそうです。

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参道沿いのお宅には一軒一軒、屋号や僧房跡などを示す木札が掲げられていました。

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中には、こんなお宅も・・・現役の畳屋さん?

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参道の突き当り、正法寺仁王門。
元々は運慶作の仁王像が安置されていましたが、残念ながら江戸期に焼失しています。
現在のものは文化年間の作だそうです。

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山号は無論、「岩(巌)殿山」。

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鐘楼
元禄15年(1702年)の建立。

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銅鐘
元享2年(1322)の鋳造。
縦に筋のように入った疵は、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐の際、大道寺政繁が軍勢の士気を鼓舞するため、鐘を引き摺りまわして打ち鳴らしたために付いたもの、とされています。

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鐘楼前から、参道と門前町。
足利基氏の塁跡は、この参道を真っ直ぐ惣門橋まで進み、その先で少し右(東)へカーブした先になります。

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観音堂

岩殿観音正法寺は坂東三十三箇所の第十番札所で、養老2年(718)の開山と伝わります。
鎌倉期に源頼朝の命により、この地域を治めた比企能員が再興しました。本尊の千手観音菩薩座像(秘仏)は北条政子の守り本尊として、その信仰も厚かったと云います。
天正19年(1591)には、徳川家康からも朱印地を与えられています。
(武蔵松山城に入っていた上田朝直の制札も残っているそうです)

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正法寺の六面幢
天正10年(1582)の建立で、県の文化財にも指定されています。
残念ながら、表面が剥離してしまっている面も・・・。

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最後に、物見山からの・・・眺望?
物見山は比企丘陵の最高峰で、その山名は坂上田村麻呂が東征の折、山頂に登って四囲を眺め渡したことに由来するのだそうです。

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2020年1月14日 (火)

大磯で歴史散策

今回は、ドライブがてら大磯へ。
大磯港の駐車場に愛車を置き、旧東海道を辿りながら周辺の史跡を散策することにしました。

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照ヶ崎海岸
元幕府の御典医で、明治以降は帝国陸軍の初代軍医総監も務めた松本順(良順)は、医療としての海水浴を推奨し、その適地として照ヶ崎海岸に日本初の海水浴場を開きました。
松本は伊藤博文に掛け合って、横浜‐国府津間までの延長が決まっていた東海道線に大磯停車場(駅)を実現させ、旅館と病院を兼ねた祷龍館を建設するなどの功績を大磯に残しました。
大磯停車場の開設で海水浴客は増え続け、伊藤博文をはじめ、温暖な気候を気に入った政財界の重鎮らも居を移したり、別荘を構えるなどして大磯は発展していきました。

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照ヶ崎海岸から続くこゆるぎ(こよろぎ)の浜。
照ヶ崎海岸はアオバトの飛来地としても有名なのだそうです。

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松本の功績を讃えるため、昭和4年に建立された謝恩碑。
揮毫は時の総理大臣、犬養毅の筆によります。

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旧東海道が一瞬だけ、国道1号から逸れる地点。
この分岐点付近が・・・

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新島襄終焉の地です。
同志社の創立者としても知られる新島襄は明治23年(1890)1月23日、療養していた大磯の百足屋旅館で亡くなりました。

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「湘南発祥の地 大磯」の碑。

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鴫立庵
その昔、大磯付近の海岸を訪れた西行法師が残した、
こころなき身にもあはれは知られけり
鴫立沢の秋の夕暮
という歌に惹かれた小田原の崇雪という人物が寛文4年(1664)頃、西行を偲んで寺を建立する目的で庵を結んだのが始まりとされます。
崇雪は同時に「鴫立沢」と刻んだ標石も建てましたが、その裏には;
著盡湘南 清絶地
と彫られていました。中国湖南省にある洞庭湖の畔を流れる湘江の南側を湘南といい、大磯が彼の地に似ていることに因んでいるようです。
このことから、大磯は湘南発祥の地ともされているようです。

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その後、元禄8年(1695)に俳人の大淀三千風が入庵して鴫立庵と名付け、現在では日本三大俳諧道場の一つにも数えられているそうです。

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法虎堂、虎御前の木像。
江戸吉原の遊女たちが寄進したもので、木造もお堂も元禄期からの現存です。

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円位堂の西行法師像(等身大)。
こちらも元禄期からの現存とのこと。

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敷地内には、松本順の墓標もありました。
彼の墓所は、同じ大磯町内の妙大寺にあります。

※松本順の墓所、及び虎御前については、こちらの記事後半も参照ください。

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そして、こちらが鴫立沢の標石
但し塩害から守るため、本物の標石は大磯町郷土資料館に移設されており、鴫立庵のものはレプリカになります。

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「ブラタモリ」でタモリさんも覗いていた標石の裏面。
大きく「崇雪」と彫られた下段に、縦書きで2行;
著盡湘南
清絶地
と見えます。

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大磯宿の上方見附を過ぎると・・・

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東海道の松並木。
この少し先(西)にある・・・

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旧大隈重信邸や・・・

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滄浪閣(旧伊藤博文邸)跡は、残念ながら改修工事中でした。

この後もしばらくは、国道1号線に沿って歩いていきます。

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城山公園前交差点
国道1号線は左へ続きますが、旧東海道はこの信号を右へ折れていました。

ここで一旦東海道歩きから離れ、城山公園内を散策することにします。

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まずは旧吉田茂邸へ。

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楓の間
昭和54年には、大平首相とカーター大統領による日米首脳会談も行われたそうです。

なお、旧吉田茂邸は2009年の火災で母屋が全焼し、再建されて2017年から公開されるようになったばかりなので、まだ新築のような真新しさでした。

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食堂(ローズルーム)

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金の間(賓客を迎えるための応接室)からの眺め。
吉田茂はここから見える富士山の眺めを大層気に入っていたそうですが、この日はあいにく・・・。

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あちらに見えるのはサンルーム。
唯一焼失を免れた建物ですが、外壁上部には火災の痕跡も生々しく残っています。
吉田茂の生前には、熱帯植物が植えられていました。

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七賢堂
明治36年、伊藤博文の滄浪閣に建てられたもので、はじめは岩倉具視・三条実美・大久保利通・木戸孝允の4人を祀る「四賢堂」でした。
その後、伊藤博文も祀られ、昭和35年に吉田茂が自邸内に移して西園寺公望を合祀し、更には吉田茂自身も死後に祀られて「七賢堂」となりました。
扁額は佐藤栄作の揮毫。

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吉田茂像
講和条約締結の地、サンフランシスコの方角を向いています。

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続いて国道を挟んだ北側のエリアへ。

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ここは小磯城という城跡でもあり、すぐに堀切らしき痕跡も見受けられました。

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このエリアに三井財閥の別邸があった時代には、橋が架けられていたようです。

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城山公園展望台からの眺め。

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横穴古墳群

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横穴の中は綺麗に成形されているように見えました。

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大磯町郷土資料館に移設された、鴫立沢の標石(本物)。

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裏面は黒ずみ、殆ど読み取れませんでした。

さて、当初はこの先も二宮駅辺りまで東海道を歩くつもりでしたが、急遽予定を変更して大磯港方面へ引き返し、旧吉田茂邸の係りの方にもお薦めされたので、見逃していた島崎藤村の旧居へ向かってみることにしました。

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島崎藤村が晩年の2年半を過ごした住居「静の草屋」

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建物内には入れませんので、お庭からの見学になります。

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八畳の居間と広縁。
昭和18年8月21日、頭痛を訴えて倒れた藤村は、最後に「涼しい風だね」と一言残して昏睡状態に陥り、翌22日、この居間で帰らぬ人となりました。

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この日のラストは、大磯駅近くの地福寺へ。

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島崎藤村、静子夫人(左)の墓所にお参りさせていただきました。

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藤村は息を引き取った4日後の昭和18年8月26日、多くの参列者に見送られてこの地に埋葬されました。
埋葬時には、執筆中だった「東方の門」が掲載された雑誌も投げ入れられたそうです。

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2020年1月11日 (土)

日野駅南にあった旧甲州街道踏切

2020年1月現在、開業130周年を迎えたJR日野駅では、日野宿発見隊さんの主催で「まちかど写真館 in ひの」が開催されています。
その展示されている古い写真の中に、かつて日野駅ホーム南端の先で線路を横切っていた旧甲州街道の踏切を写したものがありましたので、令和を迎えた現在の光景と比較してみることにしました。

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こちらが昭和46年(1971)に撮影された、旧甲州街道踏切の姿。
中央の屋根がとんがっている建物は坂下地蔵堂

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その現在。赤い屋根が坂下地蔵堂です。
旧甲州街道は写真右奥から坂を上ってきて、左側の線路を越えて続いていました。

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坂下地蔵堂と旧甲州街道の踏切跡。
ここにあった踏切を越えた先は「大坂上」。
日野宿佐藤家の御子孫が著した「聞きがき新選組」の中で、京から日野に戻っていた土方歳三が佐藤彦五郎の長男・源之助俊宜を伴い、大坂上から馬を攻めて甲州街道を日野宿まで駆け下った、というエピソードが紹介されていますが、まさにここが、2人が馬で駆け下ったという場所でもあります。

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昭和56年(1981)11月、封鎖される直前に撮影された旧甲州街道の踏切。

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その現在。
ちょっと視界が開けるポイントがありませんでした。

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そして同年12月、封鎖された直後の踏切。

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同じアングルから。
正面に見えているクネクネとした道路や、建物のいくつかは今も変わっていませんね。
旧甲州街道は線路を越えた先で左へ折れ、坂を下って日野宿へ入っていきました。

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最後に日野駅の姿も。
こちらは昭和12年(1937)に撮影されたものとのことです。

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レトロな駅舎は今も殆どその姿を変えることなく、人々の日々の生活を見守り続けています。
私も学生時代から通学・通勤で毎日利用している身。
この風情ある佇まいがこの先、幾世代も長く守り伝えられていくことを願ってやみません。

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2020年1月 3日 (金)

小田原の史跡めぐり…2日目

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小田原史跡めぐりの旅、2日目はホテルのすぐ隣に眠る北条氏政・氏照兄弟をお参りして・・・

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駅前の早雲(伊勢宗瑞)像にも挨拶してからスタート。

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初日に引き続き、小田原城包囲陣跡めぐりにはこちらの図を用います。

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まずは羽柴(豊臣)秀次陣跡(推定地)付近から、小田原城方向。
やや右寄りに水之尾口で、左側のベージュの建物が並ぶ辺りには、攻城のための前線陣地「荻窪仕寄」が築かれました。
秀次の陣跡と推定した周辺には、それを思わせる造成の痕跡らしきものも確認できましたが、私有地と思われるので詳細は伏せます。

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続いて羽柴(豊臣)秀勝の陣跡推定地から。
正面の丘陵全体が荻窪口~水之尾口にかけての小田原城総構のラインで、手前の大きな建物がある辺りが荻窪仕寄になります。

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尾根を振り返り、道路の先に見えている少し高い場所が秀次陣跡の推定地です。

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玉宝寺
小田原城の北を東西に細長く伸びる舌状台地の先端に位置し、五百羅漢像を安置することで知られています。

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寺の背後の裏山から続く尾根筋には中世の多古城もあり、この台地の先端付近とされる織田信雄の陣もこの辺りだったのではないかと推測しました。

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今井陣場跡
豊臣軍の先陣を務める徳川家康が布陣しました。
すぐ背後に酒匂川を控える低地で、周囲は湿地帯が広がる難所だったと云います。当地には元々、柳川和泉守という人物が住んでいて、その宅地を本陣に定めたとか。
柳川家には今も、家康から拝領した鑓などが残っているそうです。

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現在は東照宮が祀られ、小さな家康像が安置されていました。

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周辺には田畑が広がり、湿地帯だったという当時の面影も少し感じさせてくれます。

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蓮上院土塁
家康が布陣した今井に面する、小田原城総構の北東面の土塁になります。
土塁脇の道路はやはり暗渠になっていて、堀跡だったことを伺わせます。

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蓮上院土塁に残る、第2次世界大戦終戦間近の1945年8月13日に小田原を襲った空襲の、爆弾が着弾した痕跡。

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小田原市内めぐりのラストは、やはり小田原城へ。
写真は個人的にツボった、御茶壺曲輪の門跡。

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この図面で、「現在地」のすぐ右上の部分です。

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銅門

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久しぶりに天守にも上りました。

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小田原城天守からの、早川口~石垣山城方面。

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さて、旅のラストは小田原市内を離れて、箱根湯本の早雲寺へ向かいます。
写真はその道中、渋滞中に車を降りて撮影した山崎の古戦場案内碑。

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早雲寺山門

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早雲寺には、箱根山崎の戦いで命を落とした遊撃隊(旧幕府方)戦没者を供養する碑が建てられています。
※箱根山崎の戦い、遊撃隊についてはコチラ

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建碑者は遊撃隊を率いた人見勝太郎です。
戦没者の名を刻んだ右側の碑の最後に、静岡縣士族 人見寧の文字も見えます。
(寧は勝太郎が明治以降に名乗った名です)

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無論、北条五代の墓所にもお参り。

早雲寺には他にも、医家・曲直瀬家の三代目で秀忠の侍医も務めた今大路(曲直瀬)道三玄鑑や、連歌師宗祇らの墓所もあります。

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小田原北条家の祖・伊勢宗瑞の末子で、五代・氏直の代まで長老として重きをなした幻庵の作庭とも伝わる枯山水石庭「香炉峯峰」
しかし、その様式から1600年代中盤の作ではないかともされ、江戸時代に入ってから整備し直している可能性も指摘されているようです。

さて、これにて2019年の歴旅もおしまい。
この後は箱根湯本駅から帰路に就きました。

2019年もなんだかんだで、感慨深い旅を多く経験できました。
この記事がUPされている頃には年も明けていますが、2020年も時を超えたいい出会いが待っていますように♪

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2020年1月 2日 (木)

小田原の史跡めぐり…初日

令和元年最後の旅は小田原へ。

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小田原在住のフォロワーさんにご案内いただき、天正18年(1590)の小田原征伐における豊臣軍の小田原城包囲陣跡(上図参照)を中心に、小田原市の史跡をめぐります。

まずは初日。
12月29日の朝9時に早川駅で集合し、最初に向かった先は・・・

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海蔵寺
嘉吉元年(1441)、当時の小田原城主であった大森氏による創建と伝わります。
天正18年、豊臣軍による小田原城包囲が始まると、この付近には堀左衛門督(久太郎)秀政が布陣しました。

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海蔵寺の墓地、小田原城や相模湾を望める見晴らしのよい一画には、その秀政の墓所があります。
織田信長の側近として頭角を現し、やがて「名人久太郎」と謳われて豊臣秀吉にも高く評価された秀政は、小田原城包囲の陣中に病に倒れ、38歳の若さでこの世を去りました。
彼に殉じたものと考えられる家臣らの墓も連なります。

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海蔵寺付近から小田原城~早川口方面の眺め。
左寄りの木々の上に天守も見えています。

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同じく、細川忠興が布陣した富士山陣場(左手前の小山)と、右奥に小田原城総構の稜線。

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続いては、石垣山城南西の早川石丁場群関白沢支群へ。
まずは箕ヶ窪橋下に保存されている石丁場から。

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箕ヶ窪橋下の石丁場は道路建設に伴う発掘調査により、規模が大きく保存状態も良好な遺構であることが判明し、道路に橋を架ける設計に変更して保存されました。

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箕ヶ窪橋から、林道で山中を西へ進みます。
こちらの石には「此左□」という刻印があることから、石垣山城の石垣から発見された「此石可き左右加藤肥後守石場」と刻まれた石と同様の、標識石ではないかとも考えられています。
やはり道路建設時の調査で判明し、保存のためにこの場所へ移設されたそうです。

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石曳道
早川石丁場群は17世紀前半の、江戸城の石垣用石材を切り出すための作業場跡。
この石曳道は、山中で切り出された石を曳いて山麓まで下ろし、江戸へと運ぶために築かれたものです。

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更に西へ進み、こちらの苔生した矢穴石が現れた辺りから斜面に取り付きます。
すると・・・

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山の斜面には、大きな石がそこかしこにゴロゴロと転がっていました。
ほぼ全ての石に矢穴の跡が残っています。

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一つ一つ挙げていってもキリがないので、ごく一部だけ・・・。

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そこはかとなく漂うラスボス感(笑)

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とても見応えのある遺構でした。

この後は石垣山城を散策しましたが、過去の記事とも重複するので詳細は省略します。

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石垣山城本丸から、小田原の市街と駿河湾を見渡す。
往時は、ここから小田原城包囲戦の様子がよく見えたことでしょうね。

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こちらが件の「此石可き左右加藤肥後守石場」と刻印されている標識石。
・・・私には殆ど読み取れませんでしたけど(;^_^A

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井戸曲輪周囲の木が伐採され、石垣越しの景色の抜けが最高でした。

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お昼は小田原市街で鰺醤油ラーメン。
お店のある場所は江戸時代には桶屋さんだったそうで、ラーメンの器も桶。

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細川忠興が布陣したと云う富士山陣場へ向かう途中、旧東海道沿いの板橋地蔵堂境内にあった供養碑。
慶応4年(1868)の戊辰戦争の折、小田原藩士に殺害された新政府軍の軍監・中井範五郎(鳥取藩)や、箱根山崎の戦いで犠牲となった新政府軍士卒など計13名を供養したものです。

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閑静な住宅街の急坂を登っていくと、ご覧の案内標識もあったのですが・・・

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いざ頂上付近まで来てみると、無情にも立入禁止とか・・・陣場の遺構まで辿り着くことができませんでした。

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仕方なく、頂上付近からの早川口方面(写真)等の眺めを確認してから撤収しました。

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早川口遺構
二重外張と呼ばれる堀と土塁を二重にした小田原城総構の遺構で、北条氏の時代には虎口(早川口)であったと考えられています。
東海道が整備された江戸時代には、虎口も街道に沿った上方(板橋)口に移りました。

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土塁外側の通りは用水路の暗渠となっており、かつてはそこに堀があったことを匂わせます。

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続いてはこちらの古地図にある、小田原宿の上方(板橋)見附跡・大久寺・居神神社を散策します。

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旧東海道小田原宿、上方(板橋)見附の枡形跡。
旧東海道はこの先、板橋村(小田原市板橋)へ続いていたことから、板橋見附とも呼ばれました。

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大久寺大久保家墓所
大久寺は小田原藩初代藩主・大久保忠世が開基となって創建された、大久保家の菩提寺です。
向かって右から三代・加賀守忠常、二代・相模守忠隣、中央正面が初代・七郎右衛門忠世の墓石。

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居神神社
永正17年(1520)、北条氏綱によって創建されました。
父・伊勢宗瑞が滅ぼした三浦道寸の嫡子で、やはり宗瑞に攻められた際に新井城で自刃した三浦義意を祭神としています。
・・・供養の意味もあったのでしょうか。

初日のラストは、小峯御鐘ノ台大堀切へ。
こちらも総構をめぐった過去の記事と重複しますので、詳細は省きます。
※なお、総構についてはコチラの記事もご参照ください。

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しかし、前に訪れた際は立ち入れずに未訪だった西堀が、見学できるようになっていました。

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小峯御鐘ノ台の西堀は、天正18年の豊臣秀吉の侵攻に備えて築かれた総構の一部です。
こんな素晴らしい遺構が現代まで、奇麗に残されていたことに感謝。

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小峯御鐘ノ台から、この日に訪れた富士山陣場、そして石垣山城。
北条側からの、対陣する豊臣方との距離感です。

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夜は小田原駅前で懇親会。
なんだかんだで、3次会まで飲み明かしましたとさ。

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2019年12月 3日 (火)

小田城、平沢官衙遺跡

今回はドライブがてら、ずっと未訪のままになっていた小田城跡(茨城県つくば市)へ。

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小田城
築城時期は定かではありませんが、鎌倉期以降、常陸国で勢力を張ってきた小田氏が代々居城としてきました。南北朝期には小田治久(7代)に迎えられた南朝方の重臣・北畠親房が、同城で「神皇正統記」を執筆しています。
小田氏15代・氏治は、上杉謙信や佐竹氏との争いの中で幾度となく居城を追われますが、その都度、しぶとく旧領を回復しました。
しかし永禄12年(1569/但し元亀4年=1573説が有力)に佐竹氏に敗れて土浦へ逃れると、それ以降、氏治が小田城に返り咲くことは叶いませんでした。
小田城には佐竹氏の家臣・梶原政景が城代として入城しています。この政景によって小田城には大改修が加えられたと考えられていますが、慶長7年(1602)、佐竹氏の秋田転封に伴って廃城となりました。

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本丸北隅から、西面の堀と土塁。
北隅の土塁に開けられた通路?より、本丸内へ入ってみます。

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土塁を貫通する通路。
土塁の断面についての説明書きも。

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小田城本丸から振り仰ぐ筑波山(左奥)

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本丸内
様々な遺構が復元展示されていました。

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南西虎口

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南西虎口の先、南西馬出。
堀からは橋脚が出土しており、本丸との連絡は木橋で繋がれていました。

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南東隅の櫓台

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本丸から見る東曲輪

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東曲輪へと続く東虎口。
東曲輪とは、土橋と木橋を組み合わせて築いた橋で繋がっていたようです。

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東曲輪
東曲輪からは建物跡が殆ど検出されておらず、こちらもやはり馬出だったのではないか、とも考えられています。

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東曲輪に建つ城址碑と、奥に本丸北東隅の櫓台。

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本丸北東隅櫓台から、右に本丸、左に東曲輪。

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本丸全域

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本丸北面の堀と土塁。

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北虎口
北虎口を出た先にも、馬出が築かれていたようです。

小田城は綺麗に復元整備されており、とても「わかりやすい」城跡でした。
いずれは前出の図面を元に、本丸に限らず全域の痕跡探しなどもしてみたいですね。

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平沢官衙遺跡
奈良~平安期にかけての常陸国筑波郡の官衙(役所)跡です。
小田城跡から近かったので寄ってみました。

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発掘調査の結果、大型の高床式倉庫らしき建物が建ち並び、その周囲を溝で囲っていたことが判明しているそうです。
その建物の一部が復元されています。

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復元建物以外にも、建物跡の位置などが地面に示されていましたが、礎石に関しては、その全てが元の位置から動かされていたため、元の位置を推定して再配置されたとのことです。

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天気にも恵まれ、いいドライブになりました。

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