カテゴリー「お城、史跡巡り 関東」の140件の記事

2020年7月26日 (日)

幕末維新展 志士たちの軌跡(津雲邸)

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5年ぶりに青梅の津雲邸へ。

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また幕末維新展が開催されていると知り、前期の最終日に駆け込むようにして拝観してきました。

5年前の「幕末維新展」と似たような構成だったかとは思いますが、個人的に印象に残り、且つ当時の記事では触れていないものを、備忘を兼ねてピックアップしておきます。

三条実美 明治天皇への建言書
木戸孝允、版籍奉還建議書
→5年前の記事でも触れているものと同一かもしれません。

伊藤博文→アーネスト・サトウ宛書状
→漢文。さすがのサトウも、漢文は読めなかったでしょうねぇ…?(笑)

大山巌・捨松→伊藤博文宛招待状
勝海舟の漢詩
→末尾に「戊辰晩夏 海舟 勝義邦」とあり、江戸無血開城(慶応4年=戊辰)遂行後の心情を詠んでいます。

黒田清隆→伊藤博文書状
→「明治14年の政変」に繋がる「開拓使官有物払下事件」に関連する内容が書かれています。

板垣退助 委任状
→後藤象二郎が経営に行き詰まり、岩崎弥太郎の三菱に譲渡することになった高島炭鉱の運営を委任する旨を記したもの。旧土佐藩出身者間の繋がりが見て取れます。

雲井龍雄が人見寧に贈った漢詩
→「平潟湾 勿来関」に始まり、明治政府には屈しないとの決意を詠み込んでいます。

近藤勇直筆借用書(樋口重郎兵衛宛)

また、他に来館者が殆どいないタイミングだったからというのもあるでしょうが、説明を受けている際、係の方から近藤勇の木刀三振や榊原健吉の杖を渡され、この手に持たせていただくという幸運にも恵まれました。

後期展示期間は令和2年9月25日~11月29日。
幕末維新期の歴史にご興味をお持ちの方にはお薦めの展示内容ですので、機会があれば是非、足を運んでみてはいかがでしょうか。
※開館日:金・土・日・祝

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2020年7月21日 (火)

八王子城・滝山城の城ラマ(日本遺産パネル展)

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令和2年6月19日、八王子市が申請したストーリー「霊気満山 高尾山 ~人々の祈りが紡ぐ桑都物語~」が、東京都では初となる日本遺産に認定されました。
それを記念し、八王子市役所八王子駅南口総合事務所でパネル展が開催されているとのことでしたので、ちょっと覗いてきました。

北条氏照が礎を築き、養蚕や織物といった「絹」を基幹産業として「桑都」と称された甲州道中屈指の宿場町・八王子。
霊山・高尾への信仰と、そこで育まれた豊かな文化と共に歩んできた「桑都」発展の歴史(ストーリー)を構成する関連文化財として;

・高尾山や薬王院、薬王院文書(北条氏照発給文書)など
・八王子城跡や御主殿出土品、八王子神社、北条氏照および家臣墓
・滝山城跡
・小仏関跡(→参照
絹の道
・各種伝統行事・文化

など、計29件が指定されています。
※詳細は八王子市のHPなどでご確認ください。

新型コロナウィルス感染症の影響で遠出もままなりませんので、これを機に地元の歴史を構成するこれらの文化財を一つ一つ、改めて訪ねまわってみるのもいいかなと思いました。

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会場には八王子城と滝山城の城ラマ(ジオラマ)も展示されています。
実は、これが訪れた一番の目的。上の写真は八王子城のもので・・・

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こちらが滝山城。

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私が滝山城の中でも特に好きな、二の丸周辺の造形も見事の一言。
これだけ複雑な縄張にもかかわらず、細かい土塁や堀の一つ一つまで精巧に再現されていました。

自宅から最寄りの城跡で、思い入れも一入な滝山城。是非とも多くの方にご覧いただき、「滝山城ってこんなに凄いお城だったのか!」というのを実感していただきたいところではありますが・・・このような状況では、なかなかそうもいかないですね。。。

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2020年3月30日 (月)

泰巖歴史美術館

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東京都町田市に開館した泰巖歴史美術館。
そのオープン初日となる3月22日、早速お邪魔してきました。

文書類や甲冑、刀剣、茶器などの展示の他、安土城天主5~6階部分や熱田神宮の信長塀、利休の茶室として有名な待庵のレプリカ展示(原寸大)などもあります。

個人的には一番の目当てだった新史料、武田信玄書状織田信長宛(越・甲が戦になる時はお味方くださるとのこと頼もしく存じます。これからも入懇に・・・云々)を拝観できたのでよかったです。

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2020年3月29日 (日)

大胡城

白井城の後は前橋市へ移動し、大胡城へ。

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大胡城は中世、上野の名族・大胡氏の居城と考えられています。
天正18年(1590)の小田原征伐後、徳川家康の関東入封に伴って大胡城には牧野氏が入り、その牧野氏の越後転封後は前橋藩領に組み込まれましたが、寛延2年(1749)に廃城とされました。

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二の丸に残る枡形。

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水の手門は藪で形状を確認できず・・・。

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二の丸から本丸への虎口。

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横堀もなかなか見事です。

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本丸の北西隅部分。

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本丸
立派な土塁が残ります。

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本丸北側の堀跡には用水路が流れ・・・

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東の根小屋地区の先には、荒砥川が流れています。
荒砥川はおそらく、城の外堀としての役目も担っていたことでしょう。

保存状態もよく、手軽に楽しめる城跡でした。

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2020年3月28日 (土)

白井城と白井宿

最近は自身の体調不良やら仕事上のトラブル、そして新型コロナ・ウィルス問題など、様々なことが重なって休日に出かけることができていませんでした。blogの更新も、気がつけば2月上旬以来滞ったまま。
その間、愛車にもあまり運動をさせてあげられていなかったので、3月後半のよく晴れた週末、思い切って群馬県渋川市までドライブしてきました。

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目的地は旧子持村の白井宿、及び白井城です。

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まずは白井宿の散策から。

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白井宿は白井城の城下町として整備され、利根川と吾妻川の合流点で沼田⇔前橋を結ぶ街道(沼田街道西通り)や、三国街道と連絡する脇往還なども通る交通の要衝として発展しました。

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嘉永2年(1849)に建てられた道標。
説明板には「北へ進むと沼田、南へは日光江戸道へ通じる」とありました。
ここから南へ、前橋の先にも日光街道に通じる街道が通じていたということでしょうか。

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宿場の街道沿いには、多くの井戸も見受けられました。

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白井宿歴史資料館は、どうやらお休みの模様。
これも新型コロナの影響でしょうか・・・?

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それでは、白井城へ向かいます。

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白井城は、利根川と吾妻川に挟まれた舌状台地が、両河川の合流点に突き出す先端に築かれたお城です。
15世紀中頃、関東管領・山内上杉氏の家宰で、上野・武蔵両国の守護代をも務めた白井長尾氏の長尾景仲による築城と伝えられています。
山内上杉氏が後北条氏によって越後に追われた後も、白井長尾氏は甲斐・武田や後北条の傘下に入るなどして命脈を保ちましたが、天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐の際、前田利家・上杉景勝らの北方軍に北曲輪まで落とされて開城し、白井長尾氏による当地の支配は終わりを告げました。
それ以後、徳川家康の関東入封に伴って白井には本多広孝・康重父子が配され、康重が初代白井藩主となります。
康重の岡崎転封後は松平・井伊(直孝)・西尾・本多(紀貞/康重の子)と城主を変え、元和9年(1623)、紀貞が嗣子なくして死去したために廃藩となり、白井城も破却されました。

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まずは舌状台地東側の中腹を、北から南の方向へ進みます。
写真は二の丸東側の横堀。

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奥へ延びるのは、二の丸と本丸間の空堀。

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二の丸と本丸間の堀底から。

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さらに南へ、本丸東側に続く横堀。

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横堀は台地の先端付近まで続いていました。

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白井宿方面を望む。
すぐ直下には、南曲輪や新曲輪などが配置されていたようです。

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それでは台地に上がって、主郭部を見ていきます。
写真は北曲輪跡付近に残る櫓台。現在は城山不動尊が建ちます。

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北曲輪越しに三の丸方向。
前田・上杉軍は、ここまで攻め寄せたのですね。

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三の丸
杉の木が横並びに茂っている辺りが二の丸との境で、空堀が通っています。

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三の丸と二の丸間の空堀、その西側と・・・

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東側。

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二の丸
この先が本丸になります。

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空堀手前から、本丸虎口を望む。
虎口の枡形には石垣の痕跡も見られますが、これは本多氏以降の手によるものだそうです。

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二の丸と本丸間の空堀も見事です。
こちらは西側で・・・

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東側は先ほど、堀底も歩きました。
現地には「三日月堀」との案内標識も。確かに湾曲はしているけど・・・。

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本丸側から、虎口・空堀越しに二の丸。

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本丸
土塁も綺麗に残されています。

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本丸に建てられていた歌碑。
相国寺の僧・万里集九が東国巡歴の途次、長享2年(1488)9月28日に白井城に立ち寄り、“城主”上杉顕定の知遇を受けて城中を歴観した時のことを綴った旅日記に収められた漢詩とのことです。
長尾景仲の孫・景春が、総社長尾氏との主導権争いから山内上杉氏に反旗を翻した(長尾景春の乱)際、白井城は一時的に山内上杉氏のものになっていたこともあるようですが、万里集九の来訪はその間のことだったのでしょうか。

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本丸の先、台地先端に築かれた笹曲輪。

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白井城・・・なかなか見応えのある遺構でした。

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こちらは城下の源空寺。
本多広孝が自らの菩提寺として開いたお寺です。

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源空寺に眠る広孝(中央)・広孝夫人(右)・紀貞(左の宝篋印塔)の墓所。

白井城に白井宿、いい散策になりました。

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2020年2月11日 (火)

七ツ塚古墳群

今回は地元の、超マイナーな史跡を簡単にご紹介。

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日野台地の北西部に位置する七ツ塚古墳群(日野市指定史跡)です。
現在は五基の墳丘が残り、発掘調査の結果、横穴式石室や直刀・鉄鏃などの副葬品の他、周辺からも女性埴輪・円筒埴輪・管玉・勾玉などが出土しているそうです。
上の写真は、七ツ塚公園(日野市新町5丁目)に残る一基。

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付近の畑に残る墳丘。
手前の墳丘の奥、直線上にもう一基小さく見えています。

これらの古墳は、6~7世紀頃の造営と考えられています。
果たして、どのような人々がこの地に勢力を張り、どのような生活を営んでいたのでしょうか。

それにしてもこの日は、富士山が奇麗でした。

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2020年2月 4日 (火)

足利基氏の塁跡と岩殿観音正法寺

今回は埼玉県東松山市大字岩殿地区へのドライブ。

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まずは、足利基氏の塁跡から。

足利尊氏、直義兄弟が争った観応の擾乱
直義方について失脚し、信濃に逐われた上杉憲顕に変わって、上野・越後両国の守護には尊氏方の宇都宮氏綱が補任されました。
ところが、初代鎌倉公方となった足利基氏(尊氏の子)は尊氏の死後、上杉憲顕を関東管領に据えようと画策し、越後守護職も憲顕に与えます。
これに反発し、憲顕の鎌倉入りを阻止しようと兵800を繰り出した宇都宮氏の重臣・芳賀氏(越後守護代)に対し、基氏も3,000の兵を率いて出陣し、両軍は岩殿山・苦林野で激突しました。
その際に基氏が布陣した地こそ、この足利基氏の塁跡と考えられています。

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西面の堀跡と土塁。

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東面の堀跡。

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標柱や案内板も立つ東面から北側の藪へ入ると、北面の土塁や堀も残っていました。
足利基氏の塁跡は東西180m×南北80m程の範囲に、丘陵を背(北)にして東西北の三方にこうした堀や土塁が廻らされています。

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北面の堀跡。
ここから北側はゴルフ場の敷地になっているようで、堀底に境界となるロープも張られていました。

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対岸(北)の方が地面が高く、あちら側から覗き込めばより一層、空堀の規模を体感できそうでしたが、立ち入るわけにもいきませんので諦めます。

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空堀に沿った土塁の手前(南)には、曲輪跡らしき小さな削平地も。
それにしても藪り具合が凄く、戻る際に入ってきたルートを見失ってしまいました。

基氏は岩殿山・苦林野合戦に勝利した後、すぐに宇都宮・芳賀らの本拠地である下野国へ向けて進軍し、岩殿には短い期間しか在陣していなかったため、こうした遺構は基氏が築いたものではなく、元々存在していた豪族(比企能員か)の館跡を利用したのではないか、とも考えられています。
なお、合戦のあった年について、『桜雲記』という史料には「貞治8年(正しくは応安3年)/建徳元年(1370)の8月」とあるらしいのですが、基氏は貞治6年/正平22年(1367)に死去しているようなので、やはり定説通り貞治2年/正平18年(1363)だったのではないでしょうか。
※苦林古墳の供養塔(文化10年/1813建立)では「貞治4年」

続いて、足利基氏の塁跡前の道を西へ進み、正法寺へ向かいます。

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その昔、坂上田村麻呂が岩殿山に住む悪竜を退治し、その首を埋めた場所に出現したとの伝承も残る弁天沼。

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阿弥陀堂の板石塔婆
応安元年(1368)のもので、当時、付近には阿弥陀堂が建っていたようです。
(現在の岩殿会館辺り)

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正法寺の参道・門前町の入口となる惣門橋。

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一直線に伸びる参道と門前町。
今でこそ静かな集落といった風情ですが、昭和の初期までは多くの旅館や商店が軒を並べ、かなりの賑わいを見せていたそうです。

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参道沿いのお宅には一軒一軒、屋号や僧房跡などを示す木札が掲げられていました。

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中には、こんなお宅も・・・現役の畳屋さん?

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参道の突き当り、正法寺仁王門。
元々は運慶作の仁王像が安置されていましたが、残念ながら江戸期に焼失しています。
現在のものは文化年間の作だそうです。

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山号は無論、「岩(巌)殿山」。

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鐘楼
元禄15年(1702年)の建立。

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銅鐘
元享2年(1322)の鋳造。
縦に筋のように入った疵は、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐の際、大道寺政繁が軍勢の士気を鼓舞するため、鐘を引き摺りまわして打ち鳴らしたために付いたもの、とされています。

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鐘楼前から、参道と門前町。
足利基氏の塁跡は、この参道を真っ直ぐ惣門橋まで進み、その先で少し右(東)へカーブした先になります。

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観音堂

岩殿観音正法寺は坂東三十三箇所の第十番札所で、養老2年(718)の開山と伝わります。
鎌倉期に源頼朝の命により、この地域を治めた比企能員が再興しました。本尊の千手観音菩薩座像(秘仏)は北条政子の守り本尊として、その信仰も厚かったと云います。
天正19年(1591)には、徳川家康からも朱印地を与えられています。
(武蔵松山城に入っていた上田朝直の制札も残っているそうです)

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正法寺の六面幢
天正10年(1582)の建立で、県の文化財にも指定されています。
残念ながら、表面が剥離してしまっている面も・・・。

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最後に、物見山からの・・・眺望?
物見山は比企丘陵の最高峰で、その山名は坂上田村麻呂が東征の折、山頂に登って四囲を眺め渡したことに由来するのだそうです。

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2020年1月14日 (火)

大磯で歴史散策

今回は、ドライブがてら大磯へ。
大磯港の駐車場に愛車を置き、旧東海道を辿りながら周辺の史跡を散策することにしました。

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照ヶ崎海岸
元幕府の御典医で、明治以降は帝国陸軍の初代軍医総監も務めた松本順(良順)は、医療としての海水浴を推奨し、その適地として照ヶ崎海岸に日本初の海水浴場を開きました。
松本は伊藤博文に掛け合って、横浜‐国府津間までの延長が決まっていた東海道線に大磯停車場(駅)を実現させ、旅館と病院を兼ねた祷龍館を建設するなどの功績を大磯に残しました。
大磯停車場の開設で海水浴客は増え続け、伊藤博文をはじめ、温暖な気候を気に入った政財界の重鎮らも居を移したり、別荘を構えるなどして大磯は発展していきました。

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照ヶ崎海岸から続くこゆるぎ(こよろぎ)の浜。
照ヶ崎海岸はアオバトの飛来地としても有名なのだそうです。

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松本の功績を讃えるため、昭和4年に建立された謝恩碑。
揮毫は時の総理大臣、犬養毅の筆によります。

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旧東海道が一瞬だけ、国道1号から逸れる地点。
この分岐点付近が・・・

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新島襄終焉の地です。
同志社の創立者としても知られる新島襄は明治23年(1890)1月23日、療養していた大磯の百足屋旅館で亡くなりました。

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「湘南発祥の地 大磯」の碑。

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鴫立庵
その昔、大磯付近の海岸を訪れた西行法師が残した、
こころなき身にもあはれは知られけり
鴫立沢の秋の夕暮
という歌に惹かれた小田原の崇雪という人物が寛文4年(1664)頃、西行を偲んで寺を建立する目的で庵を結んだのが始まりとされます。
崇雪は同時に「鴫立沢」と刻んだ標石も建てましたが、その裏には;
著盡湘南 清絶地
と彫られていました。中国湖南省にある洞庭湖の畔を流れる湘江の南側を湘南といい、大磯が彼の地に似ていることに因んでいるようです。
このことから、大磯は湘南発祥の地ともされているようです。

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その後、元禄8年(1695)に俳人の大淀三千風が入庵して鴫立庵と名付け、現在では日本三大俳諧道場の一つにも数えられているそうです。

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法虎堂、虎御前の木像。
江戸吉原の遊女たちが寄進したもので、木造もお堂も元禄期からの現存です。

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円位堂の西行法師像(等身大)。
こちらも元禄期からの現存とのこと。

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敷地内には、松本順の墓標もありました。
彼の墓所は、同じ大磯町内の妙大寺にあります。

※松本順の墓所、及び虎御前については、こちらの記事後半も参照ください。

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そして、こちらが鴫立沢の標石
但し塩害から守るため、本物の標石は大磯町郷土資料館に移設されており、鴫立庵のものはレプリカになります。

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「ブラタモリ」でタモリさんも覗いていた標石の裏面。
大きく「崇雪」と彫られた下段に、縦書きで2行;
著盡湘南
清絶地
と見えます。

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大磯宿の上方見附を過ぎると・・・

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東海道の松並木。
この少し先(西)にある・・・

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旧大隈重信邸や・・・

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滄浪閣(旧伊藤博文邸)跡は、残念ながら改修工事中でした。

この後もしばらくは、国道1号線に沿って歩いていきます。

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城山公園前交差点
国道1号線は左へ続きますが、旧東海道はこの信号を右へ折れていました。

ここで一旦東海道歩きから離れ、城山公園内を散策することにします。

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まずは旧吉田茂邸へ。

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楓の間
昭和54年には、大平首相とカーター大統領による日米首脳会談も行われたそうです。

なお、旧吉田茂邸は2009年の火災で母屋が全焼し、再建されて2017年から公開されるようになったばかりなので、まだ新築のような真新しさでした。

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食堂(ローズルーム)

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金の間(賓客を迎えるための応接室)からの眺め。
吉田茂はここから見える富士山の眺めを大層気に入っていたそうですが、この日はあいにく・・・。

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あちらに見えるのはサンルーム。
唯一焼失を免れた建物ですが、外壁上部には火災の痕跡も生々しく残っています。
吉田茂の生前には、熱帯植物が植えられていました。

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七賢堂
明治36年、伊藤博文の滄浪閣に建てられたもので、はじめは岩倉具視・三条実美・大久保利通・木戸孝允の4人を祀る「四賢堂」でした。
その後、伊藤博文も祀られ、昭和35年に吉田茂が自邸内に移して西園寺公望を合祀し、更には吉田茂自身も死後に祀られて「七賢堂」となりました。
扁額は佐藤栄作の揮毫。

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吉田茂像
講和条約締結の地、サンフランシスコの方角を向いています。

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続いて国道を挟んだ北側のエリアへ。

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ここは小磯城という城跡でもあり、すぐに堀切らしき痕跡も見受けられました。

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このエリアに三井財閥の別邸があった時代には、橋が架けられていたようです。

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城山公園展望台からの眺め。

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横穴古墳群

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横穴の中は綺麗に成形されているように見えました。

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大磯町郷土資料館に移設された、鴫立沢の標石(本物)。

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裏面は黒ずみ、殆ど読み取れませんでした。

さて、当初はこの先も二宮駅辺りまで東海道を歩くつもりでしたが、急遽予定を変更して大磯港方面へ引き返し、旧吉田茂邸の係りの方にもお薦めされたので、見逃していた島崎藤村の旧居へ向かってみることにしました。

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島崎藤村が晩年の2年半を過ごした住居「静の草屋」

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建物内には入れませんので、お庭からの見学になります。

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八畳の居間と広縁。
昭和18年8月21日、頭痛を訴えて倒れた藤村は、最後に「涼しい風だね」と一言残して昏睡状態に陥り、翌22日、この居間で帰らぬ人となりました。

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この日のラストは、大磯駅近くの地福寺へ。

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島崎藤村、静子夫人(左)の墓所にお参りさせていただきました。

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藤村は息を引き取った4日後の昭和18年8月26日、多くの参列者に見送られてこの地に埋葬されました。
埋葬時には、執筆中だった「東方の門」が掲載された雑誌も投げ入れられたそうです。

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2020年1月11日 (土)

日野駅南にあった旧甲州街道踏切

2020年1月現在、開業130周年を迎えたJR日野駅では、日野宿発見隊さんの主催で「まちかど写真館 in ひの」が開催されています。
その展示されている古い写真の中に、かつて日野駅ホーム南端の先で線路を横切っていた旧甲州街道の踏切を写したものがありましたので、令和を迎えた現在の光景と比較してみることにしました。

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こちらが昭和46年(1971)に撮影された、旧甲州街道踏切の姿。
中央の屋根がとんがっている建物は坂下地蔵堂

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その現在。赤い屋根が坂下地蔵堂です。
旧甲州街道は写真右奥から坂を上ってきて、左側の線路を越えて続いていました。

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坂下地蔵堂と旧甲州街道の踏切跡。
ここにあった踏切を越えた先は「大坂上」。
日野宿佐藤家の御子孫が著した「聞きがき新選組」の中で、京から日野に戻っていた土方歳三が佐藤彦五郎の長男・源之助俊宜を伴い、大坂上から馬を攻めて甲州街道を日野宿まで駆け下った、というエピソードが紹介されていますが、まさにここが、2人が馬で駆け下ったという場所でもあります。

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昭和56年(1981)11月、封鎖される直前に撮影された旧甲州街道の踏切。

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その現在。
ちょっと視界が開けるポイントがありませんでした。

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そして同年12月、封鎖された直後の踏切。

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同じアングルから。
正面に見えているクネクネとした道路や、建物のいくつかは今も変わっていませんね。
旧甲州街道は線路を越えた先で左へ折れ、坂を下って日野宿へ入っていきました。

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最後に日野駅の姿も。
こちらは昭和12年(1937)に撮影されたものとのことです。

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レトロな駅舎は今も殆どその姿を変えることなく、人々の日々の生活を見守り続けています。
私も学生時代から通学・通勤で毎日利用している身。
この風情ある佇まいがこの先、幾世代も長く守り伝えられていくことを願ってやみません。

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2020年1月 3日 (金)

小田原の史跡めぐり…2日目

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小田原史跡めぐりの旅、2日目はホテルのすぐ隣に眠る北条氏政・氏照兄弟をお参りして・・・

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駅前の早雲(伊勢宗瑞)像にも挨拶してからスタート。

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初日に引き続き、小田原城包囲陣跡めぐりにはこちらの図を用います。

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まずは羽柴(豊臣)秀次陣跡(推定地)付近から、小田原城方向。
やや右寄りに水之尾口で、左側のベージュの建物が並ぶ辺りには、攻城のための前線陣地「荻窪仕寄」が築かれました。
秀次の陣跡と推定した周辺には、それを思わせる造成の痕跡らしきものも確認できましたが、私有地と思われるので詳細は伏せます。

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続いて羽柴(豊臣)秀勝の陣跡推定地から。
正面の丘陵全体が荻窪口~水之尾口にかけての小田原城総構のラインで、手前の大きな建物がある辺りが荻窪仕寄になります。

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尾根を振り返り、道路の先に見えている少し高い場所が秀次陣跡の推定地です。

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玉宝寺
小田原城の北を東西に細長く伸びる舌状台地の先端に位置し、五百羅漢像を安置することで知られています。

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寺の背後の裏山から続く尾根筋には中世の多古城もあり、この台地の先端付近とされる織田信雄の陣もこの辺りだったのではないかと推測しました。

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今井陣場跡
豊臣軍の先陣を務める徳川家康が布陣しました。
すぐ背後に酒匂川を控える低地で、周囲は湿地帯が広がる難所だったと云います。当地には元々、柳川和泉守という人物が住んでいて、その宅地を本陣に定めたとか。
柳川家には今も、家康から拝領した鑓などが残っているそうです。

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現在は東照宮が祀られ、小さな家康像が安置されていました。

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周辺には田畑が広がり、湿地帯だったという当時の面影も少し感じさせてくれます。

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蓮上院土塁
家康が布陣した今井に面する、小田原城総構の北東面の土塁になります。
土塁脇の道路はやはり暗渠になっていて、堀跡だったことを伺わせます。

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蓮上院土塁に残る、第2次世界大戦終戦間近の1945年8月13日に小田原を襲った空襲の、爆弾が着弾した痕跡。

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小田原市内めぐりのラストは、やはり小田原城へ。
写真は個人的にツボった、御茶壺曲輪の門跡。

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この図面で、「現在地」のすぐ右上の部分です。

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銅門

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久しぶりに天守にも上りました。

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小田原城天守からの、早川口~石垣山城方面。

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さて、旅のラストは小田原市内を離れて、箱根湯本の早雲寺へ向かいます。
写真はその道中、渋滞中に車を降りて撮影した山崎の古戦場案内碑。

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早雲寺山門

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早雲寺には、箱根山崎の戦いで命を落とした遊撃隊(旧幕府方)戦没者を供養する碑が建てられています。
※箱根山崎の戦い、遊撃隊についてはコチラ

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建碑者は遊撃隊を率いた人見勝太郎です。
戦没者の名を刻んだ右側の碑の最後に、静岡縣士族 人見寧の文字も見えます。
(寧は勝太郎が明治以降に名乗った名です)

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無論、北条五代の墓所にもお参り。

早雲寺には他にも、医家・曲直瀬家の三代目で秀忠の侍医も務めた今大路(曲直瀬)道三玄鑑や、連歌師宗祇らの墓所もあります。

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小田原北条家の祖・伊勢宗瑞の末子で、五代・氏直の代まで長老として重きをなした幻庵の作庭とも伝わる枯山水石庭「香炉峯峰」
しかし、その様式から1600年代中盤の作ではないかともされ、江戸時代に入ってから整備し直している可能性も指摘されているようです。

さて、これにて2019年の歴旅もおしまい。
この後は箱根湯本駅から帰路に就きました。

2019年もなんだかんだで、感慨深い旅を多く経験できました。
この記事がUPされている頃には年も明けていますが、2020年も時を超えたいい出会いが待っていますように♪

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