カテゴリー「お城、史跡巡り 関東」の163件の記事

2022年12月21日 (水)

間宮林蔵の生家

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前記事でご紹介した守谷城の近くに間宮林蔵の生家跡があることを知り、折角なので寄ってみることにしました。

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2度に渡る樺太探検で間宮海峡を発見し、樺太が島であることを証明した間宮林蔵の生家。
15~6歳頃まで暮らしていたそうですが移築復元のため、位置は若干移動しているようです。

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併設する間宮林蔵記念館では、彼の生涯や功績を紹介しています。

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記念館から300mほど離れた専称寺。

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専称寺境内に建つ、間宮林蔵の顕彰記念碑。
その裏に・・・

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間宮林蔵(左)と、彼の両親のお墓が並びます。
すぐ裏を流れるのは、林蔵が世に出るきっかけともなった堰止め工事を行っていた小貝川です。

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専称寺のお墓は、林蔵が北方探検に出る前に自ら建立した生前墓です。
「間宮林蔵墓」と楷書で彫られた墓石の文字は、林蔵自らの手によるとも云われています。
まだ名を挙げる前だけに小さくて簡素な墓石ですが、相当な覚悟をもって北方へ赴いたことが偲ばれます。

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2022年12月20日 (火)

守谷城

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築城時期など詳細は不明ですが、鎌倉幕府草創期に活躍した御家人・千葉常胤の二男にあたる師常を始祖とする、(下総)相馬氏による築城と考えられています。
(これから見ていく各曲輪の名称は、上の想定図に拠っていきます)

今回、私が守谷城を訪れるきっかけになったのは、その遺構の評判も然ることながら、戊辰戦争に関するある史料を読み込んでいる際に次の一節が目に留まったからなのです。

(慶応4年=1868年4月)十三日快晴小金宿出立行程五里同国布施宿旅泊此近傍ニ昔シ平親王相馬将門ノ築シ古城ノ跡有リ里人内裏カ原ト唱ス草芒々トシテ外堀ハ深シ
塩谷敏郎「戊辰ノ変夢之桟奥羽日記」

筆者の塩谷敏郎は旧幕府脱走陸軍の兵士で、慶応4年4月13日は小金宿を発って布施宿まで進んだと記していますので、秋月登之助土方歳三らが率いた旧幕府軍の前軍に所属していたことがわかります。
参照記事

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守谷城大手門跡付近に建つ、平将門城址碑。
布施宿の近傍にある平将門ゆかりの古城とは即ち、この守谷城とみて間違いないかと思います。
守谷城自体は将門が築いた城という訳ではないでしょうし、内裏カ原という地名についても不明なのですが、おそらくは相馬氏の祖とされ、「新皇」を称した将門が拠点を置き、坂東独立国王城の地としたとの伝承に因んだ城址碑であり、「内裏」を冠した地名だったのでしょう。

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守谷将門詩歌碑
守谷の地で詠まれた、将門に関する詩や歌が刻まれています。

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今は駐車場やトイレが置かれている馬出曲輪の辺りから、主郭部(右)と清光曲輪の間の内海。
塩谷が記した外堀が具体的にどこを指すのかは不明ですが、どことなく彷彿とさせるものを感じませんか?

布施宿から食料などの物資調達のために守谷まで足を延ばしたのか…150年余り前の人と同じ城跡見物を共有できることに嬉しさを感じます。

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御馬家台(左)と二の曲輪間の堀切。
いきなりのこのスケール感に圧倒されました。

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御馬家台

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御馬家台の枡形虎口。
写真左から来て左に折れ、その先で右に折って馬出曲輪へと続く様子がよくわかります。

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御馬家台から、堀切越しに二の曲輪。
二の曲輪の方が一段高くなっています。

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広大な二の曲輪。
周囲には高い土塁が廻らされています。

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二の曲輪から御馬家台へと続く枡形虎口。

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虎口の先は堀切で遮断されていますので、想定図の通り、ここには橋が架けられていたのでしょう。
対岸が御馬家台です。

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二の曲輪から一の曲輪方向に伸びる土橋。

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土橋の先には一の曲輪も見えています・・・が、

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土橋を渡り切ってみて驚かされました。
土橋の先は一の曲輪との間に築かれた細長い曲輪(楯形曲輪)になっており、一の曲輪との間を更に堀切で遮断していますので、あたかも二重堀切のようになっていました。
土橋を渡る前は2本目の堀切が見えていなかったので、すっかり騙され(?)ました(笑)

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楯形曲輪(右)と一の曲輪間の堀切。
ここからは障子堀の痕跡が検出しているようです。

守谷城は永禄年間後期には後北条氏の勢力下にあり、こうした障子堀や楯形曲輪のような構造に、その手による改修のニオイを感じます。

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不自然なまでに真っ平な一の曲輪。
想定図ではここを本丸としていましたが、土塁も虎口も見当たりません。

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おまけに、一の曲輪から楯形曲輪を見ると御覧の通り。
明らかに、本丸とされる一の曲輪の方が低くなっています。

ところがこれ、よくよく案内板を読んでみると理由がわかりました。
この一の曲輪は後世の土取りの影響で、従来より地表面が6mも下がってしまっているようなのです。
土塁など、城としての造作が全く見受けられないことも、それならば納得です。

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こちらは、一の曲輪の先(横?)にある妙見曲輪。
平将門や、将門を祖とする千葉氏や相馬氏が信仰した妙見菩薩に由来があるようです。

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妙見曲輪からの眺め。

前出の塩谷の日記には、引用した箇所の「~外堀ハ深シ」に続いて;
池沼多シ故ニ鯉鮒ノ類ヒ多猟ス
とあります。
かつて城の周囲に広がっていたであろう、池や沼地を彷彿とさせるような光景でした。

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最後に南西に位置する外郭部へ移動して、大手門跡付近(守谷小学校の西端部辺り)に残る土塁らしき痕跡。
右に写っているのが、冒頭でご紹介した平将門城址碑です。

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こうした段差も、城塁の痕跡ではないかと思います。

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道路を挟んだ反対側には、茨城百景守谷城址の碑。
その脇にも・・・

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土塁跡のような痕跡が見受けられました。

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これらは上の図面で、印をつけた箇所に該当するかと思います。

冷たい風が吹き荒び、寒くて大変でしたが、想像していた以上の見事な遺構の連続で、とてもエキサイティングな城攻めになりました。

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2022年11月17日 (木)

仙波東照宮の特別公開

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埼玉県川越市、仙波東照宮の随身門。

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仙波東照宮では令和4年11月1~23日までの間、川越市の市制施行100周年を記念した特別公開が行われています。

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まずは拝殿、及び幣殿で後水尾天皇の勅額、左大臣・右大臣の随身形、金箔が施された木彫りの狛犬(以上3点はいずれも本来、随身門にあったもの)、及び三十六歌仙額、鷹絵額などを拝観し・・・

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本殿へ。
撮影禁止のため写真はありませんが、唐門から端垣の内へ入り、初公開となるご神体・東照大権現像を拝観させていただきました。

厨子に納められたご神体は甲冑を纏った騎馬姿で、高さは5~60㎝ほど。
本来は手に剣を持っていたはずなのですが、そちらは明治期以降に行方知れずなのだとか。
幣殿で拝観した木造の狛犬と共に「康音」という仏師の作で、この人は日光山輪王寺の木造天海坐像にも銘があります。

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大変貴重な機会を設けていただいたことに感謝。

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折角なので、すぐお隣にある喜多院にもお邪魔し、10年ぶりに徳川家光誕生の間春日局化粧の間なども拝観してきました。

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午後からは家の用事もあったので川越には2時間ほどの滞在でしたが、目的も果たし、いいドライブになりました。

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2022年10月30日 (日)

アキシマクジラ出土地と多摩川の牛群地形

本日は多摩川の河川敷(昭島市側)へお出かけ。
まずは・・・

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JR八高線が多摩川を超える鉄橋の、すぐ下流側へ。
この一帯がアキシマクジラの出土地となります。

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アキシマクジラは昭和36年(1961)8月20日、ほぼ完全な骨格で化石が発見されました。
発掘された地層から、およそ200万年前頃に生息していたものと考えられています。
それから57年後の平成30年(2018)1月1日、学会誌に「これまで世界で発見されたことのないヒゲクジラ属の新種」として発表され、「エシュクリクティウス アキシマエンシス」という学名が命名されました。

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そんな訳で、昭島市のマンホールにも鯨がデザインされています。

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また、アキシマクジラに関する説明板の前には、2対の鉄道車輪が設置されています。

昭和20年(1945)8月24日、終戦の僅か9日後にあたるこの日、八高線小宮~拝島間の多摩川に架かる鉄橋上、つまりは冒頭写真の場所で上下線の列車が正面衝突し、少なくとも105名もの尊い命が犠牲になりました。(八高線は今でも全線が単線)
犠牲者の多くは終戦に伴って故郷へ向かっていた復員兵や、疎開先からの帰省客だったと云います。なんとも痛ましい事故です。。。
2対の車輪は鉄橋付近から発見され、この時の事故車両のものと考えられています。

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八高線の鉄橋から1㎞少々下流へ向かった先に残る、多摩川の牛群地形
1950年代の砂礫大量採取により、160~200万年近く前の地層(上総層群の一部)が露出し、洪水などによって削られたできた地形なのだそうです。

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こうした形状が牛やクジラの群れのようにも見えることから、牛群地形と名付けられました。
八高線の鉄橋付近は、河川改修工事によって牛群地形が失われていますが、先程のアキシマクジラも同様の地層から発見されたそうです。

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対岸にはトンネルのようになっている箇所も。

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以前から一度来てみたいと思っていたので、天候にも恵まれて良き散策となりました。
途中マムシに遭遇し、気づくのが遅れて危うく踏みそうになったこともありましたが・・・(;・∀・)


■11月5日追記

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折角なので昭島市の教育福祉総合センター「アキシマエンシス」へ、アキシマクジラの全身骨格レプリカを観に行ってきました。

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下から・・・入りきらない(笑)

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化石の実物も一部、展示されていました。

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2022年3月 6日 (日)

旧黒須銀行の特別公開

1月に扇町屋から飯能まで、飯能戦争に於ける(主に)新政府軍の進軍ルートを辿った際のコチラの記事旧黒須銀行のことも少しご紹介しましたが、その旧黒須銀行が特別公開されている(2022年3月5、6、12、13、25日)ことを知り、約2ヶ月ぶりに再訪いたしました。

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旧黒須銀行
黒須銀行の設立から9年後の明治42年(1909)に、本店営業所として建築されました。

明治32年(1899)、飯能戦争で命を落とした養子・平九郎の慰霊、墓参のため越生などを訪れた渋沢栄一は、その道中、黒須村(現埼玉県入間市宮前町)の名主・繁田家に休憩で立ち寄りました。
彼は若い時分より、家業の商いで八王子方面へ向かう際などにも繁田家を訪れており、旧知の間柄でもあったようです。
そこで繁田満義から銀行設立の相談を受けた栄一は、満義らが1年後の明治33年に立ち上げた黒須銀行で、設立から2年間、自ら顧問を務めました。

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渋沢栄一も立ち寄った繁田家は、旧黒須銀行のすぐお隣。
(2022年1月4日撮影)

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カウンターの天板は、欅の一枚板でできているそうです。

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カウンターの内部も見学できます。
奥には渋沢栄一から贈られた「道徳銀行」の扁額(複製/原資料はりそな銀行所蔵)。
「信義道徳」を重んずる経営を旨とした黒須銀行は、世間から「道徳銀行」と呼ばれたそうです。
まさに渋沢栄一が唱えた「道徳経済合一説」に通ずる理念ですね。

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軒瓦などには、信義を標榜する黒須銀行の行章「丸信」が。

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カウンター内から銀行員の目線で。

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2階への急な階段。

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2階は会議室として使われていたスペースで、重役会議や株主総会も行われたそうです。

ほんの偶然から特別公開の情報を得、貴重な建物を見学することができて良き休日となりました。

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2022年1月 6日 (木)

扇町屋から飯能へ ~飯能戦争を辿る~

2022年最初の“歴旅”は、前回の記事から引き続き飯能戦争関連です。
電車とバスを乗り継ぎ、、、

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こちらからスタート。
前回の記事でも触れましたが、慶応4年(1868)5月、上野戦争の敗報に接した振武軍ら旧幕府諸隊は、田無から二手に分かれて飯能を目指すことになります。
一隊は秩父甲州往還を所沢経由でここ扇町屋に入り、もう一隊は青梅街道で箱根ヶ崎まで引き返し、日光脇往還を北上して、やはり扇町屋を経由してから飯能入りしました(5月18日)。

また、その追討に向かう新政府軍本隊も同月22日に振武軍らの去った扇町屋へ入り、大村・佐土原・備前の各藩からなる部隊は秩父甲州往還を進み、野田村を経由して飯能へ向かうことを決し、翌23日未明に扇町屋を発しています。

今回はそのルートを辿って、私も扇町屋から飯能を目指して歩いてみます。

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青梅道(右)が日光脇往還に合流する地点。
そこに・・・

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扇町屋上町の道標があります。
子育地蔵は元禄5年(1692)の銘をもち、
右 おう免みち
左 八王じみち
と彫られているそうです。

左の馬頭観音は文政3年(1820)のものでやはり道標を兼ね、右の石柱型の道標には安政3年(1856)の銘がありました。

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日光脇往還を北へ進んでいくと、風情のある建物も残っていました。

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割烹扇屋さんは、幕末頃には旅籠を営まれていたとか。
飯能戦争に関わった両陣営の兵卒たちも、きっと利用したことでしょう。

飯能戦争当日の5月23日、振武軍の一隊が扇町屋の新政府軍襲撃を企てましたが、いざ到着してみると旅籠の軒先に名が掲げられているだけで、既にもぬけの殻であったと云います。(高岡槍太郎戊辰日記)

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よ~く町並を見てみると、建物が道路と正対せずに少しずつ斜めにズレ、ギザギザに並んでいました。

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日光脇往還は左斜め方向へ。
この分岐点の脇には・・・

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下町の道標(道祖神)
日光脇往還と、川越へ向かう道を標しています(「日こう」の文字も確認できました)。
こちらには享和2年(1802)の銘がありました。

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ところで、扇町屋の外れ(豊岡高校北隅)には彰義隊遭難者の碑がたてられています。
説明板によると慶応4年(1868)3月29日、軍資金調達のために扇町屋へやって来た彰義隊士13名が、村人によって殺害されるという事件があったのだそうです。
大正10年(1921)、当地を訪れた元幹部隊士・本多晋(敏三郎)によって建碑されました。

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さて、日光脇往還に戻って少し進むと、趣のある立派な建物が見えてきました。
黒須村名主・繁田家(本家)の長屋門と、繁田醤油(分家)です。
細い道を挟んだ左側には、繁田満義が設立に携わった旧黒須銀行(現りそな銀行)の古い建物も残っています・・・ほとんど写っていないけど(;^_^A

明治32年(1899)、飯能戦争で命を落とした渋沢平九郎の慰霊のため、飯能や越生を訪れた渋沢栄一は道中、この繁田家にも立ち寄りました。
そうした縁もあってのことでしょう、彼は黒須銀行設立時の顧問にも名を連ねています。
※旧黒須銀行については、コチラの記事参照。

ここで日光脇往還を離れ、繁田醤油と旧黒須銀行の間の小路を進むことにします。

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旧道の雰囲気を残す道をしばらく進み、入間川の河原が近づいてきたところで、河原に下りられそうなポイントがありました。
(民家の途切れた右側)

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目印は、こちらのお地蔵様。

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下りた先が・・・黒須村と笹井村を渡していた笹井の渡し跡です。
勿論、現在は渡ることができませんので、私は近くの豊水橋(日光脇往還根岸の渡し辺り)へ迂回しました。

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笹井の渡しを笹井村側へ渡河したポイントから。
佐土原・大村・備前の緒隊、及び双柳から中山方面へ向かう福岡や久留米の藩兵らも、きっとここから上陸したことでしょう。

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上陸地点には水天宮が祭られていました。

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秩父甲州往還はこの先、しばらくは入間川に沿うようにして西へ進みます。

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渡し跡から7~8分ほども歩いたでしょうか、路傍には水神宮と・・・

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御嶽神社が祭られていました。
神社の前には、旧道の痕跡らしき砂利道もありましたが、私有地に入ってしまいそうでしたので追跡は断念しました。

新政府軍が入間川を越えて300mほど進んだところで、旧幕府方との最初の接触があったと云います(23日未明)。
その詳細な場所はわかりませんが、距離的にはこの辺りになりますでしょうか。
最初の遭遇の後、振武軍らは畑のそばの藪中から発砲してきたそうですが、実際にこのすぐ先には今も畑が広がっていました

笹井での戦闘で旧幕府方を撃退した新政府軍(先陣は佐土原藩)でしたが深追いはせず、夜の明けるのを待って進軍を再開しました。

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先ほどの砂利道はここに繋がっていたのかな?

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進軍する大村・佐土原・備前勢が野田村の外れまで差し掛かった時、再び旧幕府方から銃撃を受けました。
そこで新政府軍は開けた野原のような場所に出て散兵し、林や藪に潜む旧幕府方を撃退したと云います。
・・・なんとなく、それを彷彿とさせる光景に出くわしました。

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旧幕府方が潜んでいた(かもしれない?)藪を抜けて更に進みます。

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野田山王塚石造物群

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庚申塔や馬頭観音が集められており、最古のものは寛文8年(1668)になるそうです。
この場所で振武軍や、新政府軍らの動きを目撃していたのでしょうか。

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秩父甲州往還の旧道らしき道を進む。
この辺りは交通量も多く、歩道がなかったのでかなりスリリングでした。

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道中にあった白髭神社にもお参り。
この後、八高線や西武線の線路を超え、いよいよ飯能の中心部へ入っていきます。

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飯能の高札場跡。
この辺り一帯も、飯能戦争の兵火で焼けているようです。

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高札場跡付近に建つ、明治7年創業の吉田屋呉服店。
その前に明治16年の軍事演習の際、視察に訪れた明治天皇の御座所になったことを示すプレートも掲げられていました。
天皇は能仁寺裏の羅漢山にも登って演習を視察されています。それ以降、山は天覧山と呼ばれるようになりました。

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店蔵絹甚の重厚な佇まい。
明治37年(1904)の建築。

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野村庄三郎を頭とする振武軍隊士40名ほどが滞在していた広渡寺。
戦争で本堂や庫裡を焼失しています。

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眞能村名主・双木家跡付近。
「23日朝、戦闘がいよいよ飯能の町へ迫ってきたので逃げる支度をしていると、大砲の玉や小銃の銃弾が茶の間に落ちてきて恐怖した。(中略)終戦後、家に戻ってみたら大砲の玉が2つ、銃弾はたくさん転がっていた」
といった内容の証言を、時の当主・双木利八郎が拾った大砲玉を収めた箱(大炮玉箱)の箱書に残しています。

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ところで、飯能の町中に「双木利一」という人物の胸像がありました。
詳しく調べはついていないのですが、おそらく利八郎の孫(養子の子息)にあたる人物かと思われます。


本来であれば、久しぶりに能仁寺までお詣りしたいところでしたが、久しぶりの長距離ウォークで足が悲鳴を上げており、付け根の辺りに激痛レベルの痛みを覚えていたので断念いたしました。
コロナ禍で体も相当なまっている模様・・・早く何の気兼ねもなく出かけられる日々を取り戻したいものです。

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2021年12月19日 (日)

振武軍が宿営した箱根ヶ崎

慶応4年(1868)、副頭取・天野八郎らとの対立から彰義隊を離れた渋沢成一郎らは田無に入り、同志を募って振武軍を結成しました(5月1日頃か)。
ここでしばらく、周辺の多摩地域の村々から惣代や名主に出頭を求め、軍用金の調達に勤しみます。連光寺村の惣代・忠右衛門もやはり呼び出しを受けて田無の振武軍本営へ出頭していますが、この忠右衛門とは富澤忠右衛門のことで、彼は新選組の面々とも親交のあった人物で、京に旅した際には近藤や土方、山南、沖田らから歓待を受けています。(「旅硯九重日記」/参考記事

そして5月12日、振武軍は田無から青梅街道を西へ向かい、箱根ヶ崎に陣替えしています。
これは田無では江戸に近く、新政府軍が動き出したら1日以内で襲撃されてしまう恐れがあったためとも云います。

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JR箱根ヶ崎駅から東へ150mほどで、八王子千人同心が日光勤番に利用していた日光街道(日光脇往還/以下「日光街道」と表記)に出ます。
眼前を南北に横切っている道路がそれで、奥へ続いている道は江戸街道(江戸道)です。
この日光街道と江戸街道が接する南側(写真右側)の角にはかつて、旅籠関屋(関谷家)がありました。

箱根ヶ崎に到着した振武軍は、この旅籠関屋や圓福寺などに宿営します。

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旅籠関屋跡
安政4年(1857)に作成された間取図によると、旅籠の建物は日光街道と江戸街道に面した敷地の北西寄りに建てられていました。
上の写真では手前が江戸街道なので、煉瓦の塀沿いに奥へ、日光街道にぶつかって塀が途切れる辺りにかけてとなります。

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日光街道を少し北上し、青梅街道との交差点。
奥へ続く道が青梅街道(田無方面)で、手前を横切るのが日光街道です。
角に明治5年創業という漢方薬店の素敵な建物がありました。
※往時の青梅街道・田無方面の日光街道との結節点は、もう1本南側の小道だったようです。そこから日光街道で少しクランクさせて、写真手前方向に青梅方面へと続いていました。

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青梅街道を少し西へ進むと・・・

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振武軍宿営地の一つ、圓福寺。
立派な山門に驚かされます。

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圓福寺本堂

箱根ヶ崎滞在中も軍用金調達のため、近郷の村々の名主らが呼び出しを受けていますが、新町村(青梅市)名主へも同様の廻状が出されています。
この新町村名主とは、こちらの記事でご紹介した吉野家のことでしょう。

5月15日、上野で戦争が始まったとの報を受け、成一郎らは急ぎ箱根ヶ崎を出発して青梅街道を東進します。
ところが高円寺あたりまで来た時(同日夜)、上野戦争の敗報に接して田無まで引き返しました(同16日)。
田無で彰義隊や臥龍隊の敗残兵らと合流し、一隊は所沢を経由して扇町屋から、もう一隊は箱根ヶ崎から飯能へと向かうことになりました。
成一郎ら振武軍は箱根ヶ崎を経由するルートをとり、旅籠関屋を本営として隊士らは圓福寺に宿営(同17日)、翌18日には慌ただしく出発して日光街道を北へ、扇町屋を経由してから飯能へ入っています。

私も少し、日光街道を北上してみました。

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残堀川に架かる大橋の欄干が不思議な形をしていました。
この橋の袂にはかつて、慶応元年(1865)創建の常夜燈が建っていたそうです。
ところが大正12年(1923)の関東大震災で倒壊してしまい、現在は修復して近くの狭山池公園に移設されています。

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日光街道の看板。

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更に北へと続く日光街道。
飯能へと向かう成一郎ら振武軍も行軍した道。。。

その後の飯能戦争については、以下の記事を。
飯能戦争の舞台
顏振峠と渋沢平九郎最期の地

折角なので、周辺をもう少し散策します。

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小高い丘の上に建つ狭山神社。
石段が修復中で通行不能なため、脇の坂道を上がっていくのですが・・・

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かなりの急勾配な上に枯れ葉がびっしりと積もり、とてもスリリングな参拝になりました…(;^_^A

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伊邪那岐尊・伊邪那美尊と共に、泉津事解男命・箱根大神・木花咲耶姫命・大山衹命・巌永姫命を祭ります。
創建年代は不明ですが、箱根大神は永承年間(1046-1053)、奥州征伐に向かう「八幡太郎」源義家が、この近くの筥の池(現在の狭山池)付近に宿陣した際に勧請したものと伝えられ、木花咲耶姫命・大山衹命・巌永姫命の三柱は源頼朝の命による勧請と考えられています。

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源義家が宿陣したと云う筥の池。

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大橋の袂に建っていた常夜燈もありました。
この常夜燈は、飯能へ向かう振武軍の行軍も目撃していたのですねぇ・・・。

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他にも馬頭観音や・・・

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蛇喰い次右衛門の石像なるものも。
案内板によると・・・

とある暑い日、治右衛門が筥の池で水浴びをしていると、小さな蛇が絡みついてきて離れなくなりました。
どうにか引き離そうと治右衛門が蛇に嚙みつくと、急に空模様が大荒れとなり、蛇も大蛇となって傷口からは血が七日七晩流れ続けたと云います。
蛇が退治されると池の水も枯れ始め、現在のような小さな池になりました。

・・・これは昔、筥の池の水を残堀川に流して玉川上水の助水にしたことで筥の池の規模が縮小し、且つ、その時の残堀川の流れが大蛇さながらのようであったことから、「蛇堀川」と呼ばれたことに由来する伝承と考えられています。

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狭山池公園から、狭山神社の建つ丘を見上げる。

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最後は瑞穂町郷土資料館にも立ち寄って、この日の歴史散策は終了。
週末も仕事で家に籠る日が多かったので、いい運動になりました。

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2021年12月 5日 (日)

「青天を衝け」めぐり in 深谷

今回は埼玉県深谷市へ、家族を連れての日帰りドライブ。
2021年度の大河ドラマ「青天を衝け」関係地をめぐります。まずは・・・

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深谷大河ドラマ館へ。

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栄一が幼少期から過ごした家を再現したセットや・・・

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出演者らのパネルなどが展示されています。
この2人の恋心と結末は切なかったですね・・・。

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人柄も素晴らしく、本当に立派で素敵な“とっさま”でした。

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ドラマで使用された小道具など。
千代に「浅ましい・・・」と一蹴された栄一の洋装写真(笑)や、栄一が千代に贈った懐剣など。

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パリ万博で驚嘆していたエレベーターも。

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左から尾高長七郎、渋沢てい、渋沢(尾高)平九郎の衣装。

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併設された物産館で、名産の深谷ネギも購入。

ドラマを欠かさず視聴しているので、結構楽しめました。

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ちなみに、大河ドラマ館の向かいには深谷城址公園があります。

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お次は旧渋沢邸、栄一の生誕地でもある血洗島の中の家へ。

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中の家と、この後に訪れる尾高惇忠生家は、3年前に訪れた際の記事と重複するため詳細は割愛します。
しかし、3年前にはいらっしゃらなかった栄一のアンドロイドにお会いできました。

※栄一が建立した平九郎の追悼碑の前で、ボランティアの高齢男性が団体客を前に力説していたのですが、
「“昌忠”というのは栄一の“青淵”、惇忠の“藍香”と同じで、平九郎の号!」
と大声で断言しているのを耳にした瞬間は、思い切りズッコケそうになりました・・・いくらボランティアとはいえ、少しは正しく勉強して(させて)からでないと・・・。

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尾高惇忠生家も3年前とは違い、ドラマの影響で多くの人が訪れていました。

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渋沢栄一記念館

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こちらも3年ぶりの再訪ですが、やはり渋沢栄一アンドロイドとは初対面となりました。

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最後に、大寄公民館脇に移築復元されている誠之堂へ。
大正5年(1916)、栄一の喜寿を記念して、彼が頭取を務めていた第一銀行の行員たちの出資により、第一銀行の保養施設であった清和園(東京都世田谷区瀬田)に建てられました。

※ところで、渋沢成一郎(喜作/栄一と同じ血洗島出身)は振武軍を率いた際、「大寄隼人」の変名を用いていますが、この地名に由来しているのかもしれません。
この地に「大寄村」が成立したのは明治22年(1889/1955年廃止)のことらしいのですが、それ以前から地域名のような形で存在していたとしたら・・・。
尾高惇忠も「榛沢新六郎」と、やはり現在の深谷市一帯に所在していた榛沢郡にちなんだものと思われる変名を用いています。

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煉瓦で「喜寿」と書かれています。

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誠之堂内部

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暖炉上の渋沢栄一レリーフ。

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説明や古写真にある通り、建設当初のレリーフは横向きだったそうです。

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ステンドグラスも印象的でした。

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誠之堂の横に移築されている清風亭も見学。

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清風亭は、やはり第一銀行であった佐々木勇之助の古希を記念して、誠之堂に並べて建てられました。
平成11年、誠之堂と共に、渋沢栄一ゆかりの地でもある深谷市に移築復元されました。

この後は道の駅おかべに立ち寄ってから帰路につきました。
(大河ドラマをご覧の方には、「岡部」の地名にも馴染みがあるはず!)

母も今年はずーっと「青天を衝け」を視聴しているので、楽しんでもらえたようです。
往復共に渋滞知らずで、よきドライブになりました。

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2021年11月28日 (日)

旧吉野家住宅、他

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日曜昼下がりのドライブ、今回は青梅市新町の旧吉野家住宅へ。
旧新町村は慶長~元和年間にかけ、元忍城主・成田氏の旧臣だった吉野織部之助という人物が中心となって開拓されたのだそうです。その子孫は代々、新町村の名主を務めました。
現在残る家屋は嘉永4年(1851)に建てられたもので、都の有形文化財に指定されています。

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さすがに名主層の住宅だけあって、式台を備えた玄関も立派です。

天正18年(1590)の小田原征伐による忍城開城後、吉野織部之助は武蔵国多摩郡下師岡村(青梅市師岡町、他)に下野していましたが、新町での新田開発を幕府の代官に願い出て、その協力も仰ぎながら新村開拓に着手したそうです。
なお、下師岡村の吉野家は息子が継ぎ、新町の方は孫娘に婿を取らせ、これに継がせたようです。従って下師岡村の名主も、織部之助の息子が継いだ吉野家が代々務めました。

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大正期頃の新町村の様子。

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建物内部も上がって見学することができます。

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旧吉野家住宅の北東100mほどに位置する、新町の大井戸。
一目見た瞬間、羽村の「まいまいず井戸」にそっくりだなと感じました。
参照記事

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新町村は武蔵野台地の中央に位置して河川からも遠かったため、開拓にあたっては織部之助もすぐに井戸の掘削に取り掛かっています。
この形状からして大井戸は、織部之助らの入植よりも時代を遡るかと思われますが、水の確保に腐心した様子が偲ばれます。

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旧吉野家住宅から青梅街道を西へ200m弱、鈴法寺跡。
鈴法寺は普化宗を宗派とする寺院で、初めは幸手市にあった藤袴村に創建され、川越近くの葦草村を経て、慶長18年(1613)にこの地へ移りました。
これは、当時の鈴法寺20世が織部之助と同じ、成田氏旧臣の子息だった縁によるものだそうです。

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明治4年の廃宗に伴って廃寺となり、同28年の火災で残っていた伽藍も焼失したようです。
現在はこじんまりとした児童公園になっており、その片隅に歴代住職の墓所を残すのみとなっています。

近場の史跡をめぐるドライブ旅。
次はどこへ向かいましょうか・・・?

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2021年11月 7日 (日)

法林寺館

新型コロナの猛威が下火になってきたかと思えば、今度は仕事の方が暴発しておりまして、なかなか旅にも出られずに悶々とした日々を送っております。
そんな日曜の昼下がり、気晴らしに自宅からも近いあきる野市の法林寺館を訪れてみました。

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法林寺山門

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本堂

法林寺は西暦921年の開基、14世紀後半~15世紀初頭頃の再興とも伝えられる古刹で、江戸時代には幕府より寺領25石の朱印も拝領していたそうです。
その周辺に土塁の一部が残存していることから、ここにはかつて、武士の居館のようなものがあったのではないかと推定されていますが、文献等でその存在を確認できず、便宜上、跡地に建つ法林寺にちなんで「法林寺館」と呼ばれていますが、詳細は全くわかっていないようです。

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法林寺のすぐ南には多摩川が流れています。
多摩川の河岸段丘の縁という立地で、対岸の加住丘陵上には眼前に高月城、更に左奥には滝山城があります。

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ところで、法林寺境内の南側、多摩川に面した段丘の縁にも土の盛り上がりがあったのですが、これも土塁の名残でしょうか・・・?

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法林寺の東隣り、寺前公園から見る法林寺館北東隅の土塁(内側)。
黒い柵が土塁に沿って張り巡らされていますので、辛うじて隅部分が内側に折り曲げられているのがわかります。
方角からしても、これは鬼門除けの隅欠だと思われます。

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北面の土塁(同じく内側より)。
左奥に法林寺の山門が見えています。
しかし、なかなかの藪り具合・・・来る時期を間違えたようです。(;・∀・)

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外側に至っては・・・周囲の藪がフェンスの高さまで生い茂り、土塁の高さを全く体感できません・・・( ;∀;)
ちなみに上の写真は、外側から見た東面の土塁です。

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北東の隅欠部分・・・いいよ、また来るから。

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北面・・・幸いに近所みたいな場所なので、また冬にでも訪れてみたいと思います。

法林寺館の成立年代や歴史は、お寺の沿革・変遷(いつ現在地に移ってきたか、etc...)とも関わってきそうですが、法林寺も江戸期に火災に遭い、記録類が焼失して詳しいことはわからないのだそうです。

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