カテゴリー「お城、史跡巡り 関東」の92件の記事

2017年8月16日 (水)

高麗神社と高麗家住宅

冴えない天候が続いた2017年の盆休み。
(私にとっての)最終日となる8月15日もあいにくの雨模様でしたが、退屈しのぎにぶら~っとドライブしてきました・・・道中、豪雨に見舞われて大層難儀しましたけど(・・;)

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向かった先は埼玉県日高市にある高麗神社
数年前、すぐ近くの聖天院を訪れた際に高麗郡の歴史にも少し興味を持ち、機会があればお参りしてみようと思いつつ、今に至りました。
祭神は高麗王若光。明治中期まで現在の日高市や鶴ヶ島市などに跨って存在していた高麗郡の、初代郡長となった人物でもあります。

唐からの圧力を受けて情勢が逼迫する中、高句麗は666年、大和朝廷へ5月と10月の2度に渡って使節を派遣しています。その折の使節として、日本側の記録である「日本書紀」に「若光」の名が見えます
高句麗は結局、唐・新羅連合軍に攻められて667年に滅亡したため、使節として日本を訪れていた若光の帰国は叶わず、二度と再び故国の地を踏むことはありませんでした。
高句麗滅亡と前後し、多くの高句麗人も渡来しています。

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そんな高句麗からの渡来人ゆかりの神社とあって、境内には朝鮮半島に多く見られるという将軍標(道祖神/村落の境界標)も建っています。

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御神門を通って御本殿参拝へ。

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御本殿(御社殿)

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高麗郡建郡千三百年高麗王若光の記念碑

乙未 従五位下高麗
若光賜王姓

「続日本記」大宝三年(703)四月の条

訳)乙未、従五位下高麗若光に王の姓を賜ふ。
※「王」(こにきし)の賜姓は、若光が高句麗の王族一員だったためと考えられています。

辛卯 以駿河 甲斐
相模 上総 下総
常陸 下野七國高麗
人千七百九十九人
遷于武蔵國 始置
高麗郡焉

「続日本記」霊亀二年(716)五月の条

訳)辛卯、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の七国の高麗人千七百九十九人を以て、武蔵国に遷し、高麗郡を置く

ここにある通り、大和朝廷は若光に「王」姓を与え、716年には東国各地に散住していた高句麗からの渡来人1,799人を武蔵国に集めて高麗郡を設置しました。
昨年(2016)がちょうど建郡1300年の節目にあたり、こちらはその記念に設置された石碑のようです。

若光の没後、高麗郡の人々は若光を日本の神式でも祀ることにし、これが高麗神社の始まりとされています。
以来、若光の子孫とされる高麗氏が代々宮司を務め、1300年近くを経た現在は第60代を数えます。

また、すぐ近くの聖天院(旧勝楽寺/若光の菩提寺)にも、若光を祀る高麗王廟があります。
(⇒参照記事

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御本殿裏に保存されている高麗氏の旧宅。
慶長年間(1596~1615)の築と伝わります。
※内部見学には事前申請が必要。

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祖国を追われた人々が、遠く離れた日本の東国で紡いできた1300年もの長き歴史。
聖天院と合わせて訪れることで、そのほんの一端には触れられたような気がしてきます。

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2017年7月30日 (日)

早川城

雨のパラつく日曜日、新車の慣らし運転がてら、神奈川県綾瀬市までドライブしてきました。

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向かった先は早川城跡
夏場の城攻めは何かと苦労が付き物ですが、ここは城山公園として整備されており、且つ駐車場も完備で、ちょっとしたドライブついでには最適♪

早川城は南北に伸びる舌状台地の先端部(南)に築かれた城跡で、その築城は鎌倉期の御家人・渋谷氏によるものと考えられています。
また、この台地上からは縄文期の土器や竪穴式住居跡も発掘されているようです。

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公園北側の駐車場に車を停め、南へ向かって進むとすぐに台地を分断する堀切と、それに架かる土橋が現れます。

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土橋上から西側の堀切。

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そして東側の堀切。
想像以上に規模の大きな堀切でした。
写真右手側が主郭になりますが、その土塁もなかなか立派なものです。

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主郭は公園として綺麗に整備されていますが、かなりの広さがあります。

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主郭、物見塚の上に建っていた東郷氏祖先発跡地碑
旧海軍元帥・東郷平八郎は、渋谷氏の末裔でもあったようです。

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舌状台地の先端方向。
左手には主郭東面の土塁がうっすらと残ります。

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主郭西面下、腰郭を覗く。

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舌状台地先端の下にも、腰郭らしき平坦地が。

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その舌状台地を南東側から。
早川城山公園は住宅地にあり、駐車場から歩いてくると分かりづらいのですが、こうして見るとかなりの要害の地に築かれていたことが分かります。

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同じく北東側から。

早川城跡。見応えのある遺構としては、最初にご紹介した堀切くらい・・・かな。
この日はあいにくの空模様でもありましたが、しかし地形も合わせて見ていくと、ちょっとした散策ついでとしては楽しめました。

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2017年7月26日 (水)

「戦国!井伊直虎から直政へ」展

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江戸東京博物館で開催中の特別展戦国!井伊直虎から直政へに行ってきました。
無論、2017年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」に合わせた開催で、多くの来館者で賑わっていました。
ドラマで描写された歴史やエピソードを、実際の史料等でより深く知るにも、いい展示構成だったと思います。

いつもの如く、個人的に印象に残ったものを独断と偏見?でピックアップすると・・・

寿桂尼朱印状
(とつぐ)の朱印がしっかりと捺されていました。

・雪斎の袈裟
臨済寺で拝観した時は畳まれていましたが、今回は広げて展示されています。

刀 無銘 伝左
通称「織田左文字
「享保名物帳」に「信長公御物御二男信雄卿へ進せらる如何なる伝なるか掃部頭殿に有り、」とあり、織田信長から信雄を経て井伊直政へと渡ったことが知れます。
関東大震災で焼けてしまいましたが、改めて鍛え直されて現在の姿に復元されています。
※信長が桶狭間で今川義元を討って手にした「義元左文字」とは別。

井伊家伝記
有名な「次郎法師ハ女にこそあれ井伊家の惣領に生候間~(云々)」の頁を開いて展示されていました。

井伊直虎・関口氏経連署状
いわずと知れた、「直虎」の署名が現存する唯一の史料。

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青葉の笛
小野政直の死を受け、逃亡先の信濃から井伊谷へ戻ることになった井伊直親が、寺野八幡(寺野六所神社)へ奉納した笛です。

今川氏真判物(永禄3年8月5日・龍潭寺)
桶狭間合戦の直後に出されたもので、井伊直盛の討死を受け、「直盛寄進の通りに」と龍潭寺の権利を保証した禁制のような内容。
合戦で当主を喪った国衆や関係先への、大名のフォローが垣間見えるようで興味深かったです。

井伊谷徳政に関連して・・・
匂坂直興書状(蜂前神社)
(永禄10年6月30日/同12月28日/永禄11年1月25日/同8月3日)
関口氏経書状(永禄11年8月4日)
徳政の実現に向けて駿府で交渉を続ける匂坂直興が、祝田の禰宜に向けて刻々と交渉経過を報告している内容。
関口氏経の書状は直虎(次郎)や井伊家家中(写)に対し、徳政の実行を迫る内容になっており、件の「井伊直虎・関口氏経連署状」と合わせ、井伊谷徳政に関連した人々の“裏の動き”が垣間見えて非常に興味深い内容になっています。

本多忠勝像
9度も描き直させてようやく得心したという肖像画だけに、かなり忠勝本人を忠実に再現しているかも?

黒糸威胴丸具足(鹿角脇立兜)
上の肖像画でも着用している、「本多忠勝といえばこの兜(甲冑)」ともいうべき一領。

他にも今川氏や井伊氏の歴代当主木像や、栄華を偲ばす茶器・武具、徳川家に関する展示史料なども豊富でした。

東京での開催は8月6日までですが、静岡や彦根でも開催を予定しているようなので、戦国好きや大河ドラマをご覧になっている方には是非、足を運んでみることをお薦めいたします。

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2017年5月24日 (水)

碓氷峠…新発見の陣城と旧中山道

5月20日(土)
愛車を駆って一路、軽井沢へ。

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旧軽井沢駅舎
特に渋滞もなく、自宅から2時間ちょっとで到着しました。

今回の目的地は信越国境の碓氷峠
この一週間ほど前に、「碓氷峠付近の旧中山道沿いで、新たな山城(陣城)跡が発見された」とのニュースが流れてきました。
少ない情報を元にtwitter上で城仲間と場所の推定をしているうち、「実際に行ってみよう」ということになっての今回の遠征。
プランとしては峠の新発見陣城跡から、そのまま旧中山道を群馬県側へ碓氷湖(坂本ダム)まで下り、道々の旧街道の名残を楽しみつつ、他に砦などの痕跡がないか確認する、というもの。
同行者と軽井沢駅で合流し、総勢4名で碓氷峠へ向かいます。

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旧中山道碓氷峠、その頂上に鎮座する熊野皇大神宮(以下、熊野神社)。
参道の石段から手前へ、真っ直ぐ赤いラインが引かれていますが、これが長野(左)と群馬(右)の県境
また、熊野神社は安政2年(1855)、安中藩主の板倉勝明が、藩士らを安中城から碓氷峠まで走らせた「安政遠足」の決勝点でもあります。

今回発見されたという陣城跡は、この熊野神社から東へ250mほどとのことなので、旧中山道を群馬県側へ下ります。
旧中山道は群馬県側へ下り始めるとすぐに舗装路が切れ、未舗装の林道に入っていきます。

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そのまま林道を少し進むと、上写真の分岐点に至ります。右へ少し下るのが旧中山道ですので、ここは右へ。
ちなみに左は幕末、皇女和宮降嫁の際に開かれた道(和宮道)のようです。

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和宮道との分岐点付近には、熊野神社神宮寺の仁王門跡の碑が建っていました。

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一つ目の分岐点のすぐ先に、もう一つ林道との分岐点が出てきます。
ここは左が旧中山道。今回発見された陣城跡は、この分岐した道の間に位置しています。

さて、私には絵心というものが全くございませんので、図面を載せることは叶いません。
苦肉の策として、言葉で縄張の概略を示しておきたいと思います。

まず、城跡は上写真の分岐の先、旧中山道側に沿って楕円状に展開しています。
■手前(峠側)に竪堀(堀切?)、その先に曲輪が3つ、旧中山道に沿って群馬県側へ縦に並ぶ。
(仮に峠側の北西から南東へ向かって曲輪A→同B→同Cとする)
■曲輪Cからは曲輪Bの北東へ回り込むように腰曲輪状の削平地が開けており、その下段にも腰曲輪あり。
■上段腰曲輪の先端(北)、竪堀の手前に下段腰曲輪~旧中山道へと続く枡形虎口あり。

大雑把に言葉で説明すると、こんな感じになるでしょうか…(^_^;)

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我々は先ほどの分岐を旧中山道ではなく、右の林道側へ少し進み、城跡の南側からアプローチしました。
写真は、その林道(南)から城跡を見た様子・・・窪地の先に曲輪A(左手前)、B(右奥)の土塁が見えています。

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また、曲輪BCにかけての手前(南)側には横堀(竪堀?)も残っていました。

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曲輪A(左)とB(右)間の堀跡

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曲輪BからAの方角
墓地を囲うように南面から西面にかけて、土塁がL字型に残っていました。
また、やはり曲輪Aにも土塁が南面から西面にかけてL字型に残っています。
AB両曲輪で同じような残り方をしているのは、他の面には土塁が存在しなかったというよりは、後世の何らかの意図(墓地整備など)による改変かもしれません。

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曲輪BよりCを見る。

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反対に、曲輪CからB
曲輪Cは土塁がごく一部しか残存していないため不明瞭ですが、曲輪Bとの間もやはり横堀のようになっていたのかもしれません。

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曲輪CからBの北東側を回り込む腰曲輪。右下にもう一段見えています。
この上段の腰曲輪を北西方向へ進んだ先に・・・

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枡形虎口があります。
写真は斜め上から俯瞰気味に撮影したものです。

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上段腰曲輪から見る枡形。
正面突当りで右に折れて、下段腰曲輪に出ます。

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下段腰曲輪から枡形を振り返る。

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ルートとしては下段腰曲輪に下りて更に右に折れ、その先で左に曲げて(日影と日向の境目付近)旧中山道に通していたようです。

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枡形の西側に切られている竪堀

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この竪堀はそのまま、旧中山道まで落とされています。

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竪堀と旧中山道の合流点。
こうして見ると旧中山道が、まるで横堀のようでもあります。

新発見の陣城跡・・・これは全くの個人的な感想ですが、ロケーションや旧中山道からの導線、枡形の受け方などから察するに、なんとなく東の方角へ意識が向いていたように感じます。
そういった意味では新聞報道にもあったように、天正18年(1590)の小田原攻めに於いて、松井田城を攻める豊臣方(北国軍)の後方拠点という見方でも無理はないのかなと思えます。
※但し、碓氷峠は上信国境の要衝であり、それがために時代を問わず、こうした軍事施設が築かれていた可能性もありそうなので・・・難しいですね(^_^;)
いずれにしても、なんらかの軍事施設、陣城・砦であったことは確かだと感じました。

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城跡脇を通る旧中山道
この付近から東へ向かって結構な下り坂が続いており、その名も「長坂道」と呼ばれていたようです。
引き続き、この旧中山道を群馬県側へ下っていきます。

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新発見陣城から少し下った先にも面白いものがありました。
写真右側の斜面は旧中山道に沿って切岸状に削り落とされた絶壁になっており、その上部を仰ぎ見ると、、、

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数段の小曲輪が階段状に並んでいるように見えました。
(実際に登った同行者によると、やはり削平されたような痕跡があった、とのこと)

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また、その絶壁の先端部には裏へ回り込めるように細い道が付けられており、実際に絶壁の裏側へ回り込んでみると、綺麗に削平された平場がありました・・・まるで街道(を通る敵)から、絶壁に守られるかのように。

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平場の奥には谷が入り込み、その先には古い道の痕跡が続いていました(写真右上部分)。
後方に控える新発見陣城の物見的な出城か、或いは江戸期の番所のようなものがあったのかもしれない・・・などと想像を膨らませました。

引き続き旧中山道歩きへ・・・

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また旧道沿いに不思議な痕跡が出てきました。

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古道らしき痕跡が複雑に入り組んでいるため、幾つものコブのような小山ができていますが、旧中山道とは高低差もあり、いずれの古道も旧中山道には繋がっていませんでした。

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小さな沢に出ました。
旧中山道はこの沢を渡っていたようです。

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沢の畔に人馬施行所跡
施行所とは何ぞや?と思いましたが、どうやら呉服商が文政11年(1828)に建てた、人馬のための休憩所があったようです。

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沢を渡ってしばらくすると、峠で分岐していた和宮道との合流ポイントに出ました。
写真左がここまで歩いてきた旧中山道で、右が和宮道。
看板を見るに現在、毎年5月に開催されている「安政遠足 侍マラソン」では、どうやら和宮道のコースが採用されているようですが、和宮降嫁は文久元年(1860)。安政遠足催行よりも後のことになりますので、実際の安政遠足では旧中山道を通ったものと思われます。
※峠からここまでの旧中山道は道幅も狭く、現代人を走らせるには危険な箇所も随所にありましたので無理もないですね…(^_^;)

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そしてこの和宮道との合流地点には、ご覧のような案内板も設置されていました・・・そう来たら、確認しない訳にはいかないでしょ(笑)

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陣場が原の旧道沿いには、子持山がそびえています。
この付近が度々戦場になっていたのであれば、子持山にも何かしらの痕跡があるのではないかと思い、登ってみたのですが・・・写真のような岩場が点在する細尾根で、遺構と思しきものは一切見受けられませんでした。

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引き続き、和宮道と合流した旧中山道を歩きます。

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・・・いろいろとツッコミどころ満載一つ家跡の案内板(^_^;)

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その足元には別の、朽ちた古い案内板も転がっていたのですが・・・書いてあることが大分違うんですけど?(笑)

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山中坂

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山中茶屋跡

碓氷峠から群馬県側の麓までの、ちょうど中間に位置しています。
坂本宿(群馬県側)から登ってきた旅人は、この先に山中坂の急坂を控えていますので、必ずこちらの山中茶屋で休憩を入れたそうです。それが茶屋の発展にも繋がりました。
明治期には小学校も建設され、明治天皇御巡幸(明治11年)の際には、当時の生徒数が25人だったことから25円(現代の50万円相当か)の奨学金が下賜されたそうです。

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山中茶屋の外れにあった馬頭観音。

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二重の痕跡を留める旧中山道。
我々が歩いてきた道は左ですが、右の上段部分も明らかに古道ですね。

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旧中山道からの眺め。
遠くに見えるは・・・妙義山かな?

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それにしても碓氷峠の古道遺構はスケールが大きい・・・このクラスの堀割遺構が延々と続いています。

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明治6年に設置され、「交番」のはじまりとされている見回り方屯所があった栗が原

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栗が原の近くには、旧中山道から分岐する明治天皇御巡幸道路もありますが、現在は崩落により立入禁止。

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座頭ころがしの急坂。

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座頭ころがしの堀割も・・・ご覧の規模。

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座頭ころがしの坂を下った先には、旧中山道と平行する尾根上に中世東山道の痕跡も残っています。
近くには、小山を切り開いて築かれた東山道の一里塚があるとのことでしたが・・・これかな?

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北向馬頭観音
文化十五年四月吉日

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南向馬頭観音
寛政三年十二月十九日

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さて・・・いよいよ土橋が見えてきました。

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天正18年、豊臣秀吉小田原攻めに備え、松井田城主・大道寺政繁が築いたと云う堀切(大道寺堀切)。
写真左側は確かに掘り切られていましたが、右側は・・・崩れて薄くなったのか、あまり人工的な堀切感はありませんでした。

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堀切を少し過ぎて振り返った様子。
防衛線として堀切を築いたということは、他にも防御のための施設が周辺にあったとしてもいいのではないか?と思い、旧中山道の左に写る斜面上にも登ってみたのですが・・・

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そこにあったのは、これまた古道跡と思しき痕跡。
もしかするとこれも、先ほど触れた東山道の名残かもしれません・・・。
仮に東山道とすると、大道寺政繁が堀切を築いた当時、碓氷峠越えの主要道として用いられていたのはこちら。
旧中山道よりも高所を通り、堀切の手前で一気に下る・・・その高低差も含めた防御施設(意図)だったのでしょうか。

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碓氷坂の関所跡
設置されたのは・・・昌泰2年(899)!?

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刎石茶屋跡の石垣
四軒の茶屋が並んでいたことから、別名「四軒茶屋」とも。

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弘法大師の「ここを掘れば水が出る」との指示で掘られたと云う、弘法の井戸

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弘法の井戸付近にも、旧中山道を取り巻くように古道の痕跡が散見されました。
写真は弘法の井戸から少し下った先、旧中山道脇を見上げた様子・・・まるで横堀のようにも見えます。

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刎石溶岩にできた風穴。
湿った風が吹き出すということでしたが・・・?

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また古い馬頭観音が出てきました。

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」と呼ばれるビューポイントから、山麓の坂本宿を・・・覗く(笑)
小林一茶も;
坂本や 袂の下の 夕ひばり
と詠んでいます。

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十返舎一九が;
たび人の身をこにはたくなんじょみち、石のうすいのとうげなりとて
と書き記した難所(なんじょ)、刎石坂(上り地蔵下り地蔵)に差し掛かりました。

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石の・・・」と表現されるだけあって、土止めの石垣は壮観でした。

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刎石坂にもあった馬頭観音

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大日尊に南無阿弥陀仏碑

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柱状節理の岩盤
※こちらの岩盤脇には、竪堀状の深い溝が切られていましたが・・・詳細は不明です。

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刎石坂では、他にも不思議な岩盤層が多く見受けられます。

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ゴロゴロと転がる石には足首を取られ、かなり難儀しましたけど・・・まさに難所道。

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念佛百萬遍

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旧中山道はこの先、堂峰番所跡を経てすぐに国道18号へ出ますが、その前にちょっと寄り道。
写真中央部分で旧中山道を左へ逸れ、愛宕山城へ向かいます。

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愛宕山城の土塁と横堀(北西面)・・・ド藪(^_^;)

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とりあえず時計回りに横堀を1周してみます。

愛宕山城は、土塁と横堀をグルッと廻らせた単郭方形型の城で、東の角は出隅状に突き出させ、南西角には馬出を備えていたようです。

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東角の出隅部分の土塁
左側が曲輪内になるのですが、とにかく藪が酷かった・・・。
それでも出隅部分は他に比べて幾分マシで、辛うじて形状を確認することができました。

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南東面の横堀

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馬出も藪々・・・馬出にも横堀が残っていましたが、この藪では写真はどうにもなりません。

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馬出の先に建っていた梵字に「石壇(安永七年)」の石碑。

愛宕山城…もう少し藪が枯れてくれれば、規模の割には見応えのあるお城なのではないでしょうか。
旧中山道に戻ります。

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堂峰番所跡の案内板付近にあった石積。

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谷を挟んだ対岸にも、二段の立派な石垣が残っていました。

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さて、ついに国道18号まで下ってきました。
「熊野神社」から「現在地」まで、ほぼ赤い点線に沿って歩いてきたことになります。

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国道を碓氷湖(坂本ダム)目指して歩いていると、左手には竜駒山狼煙台が見えます。

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碓氷湖の畔、旧信越本線トンネルと架線跡

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旧信越本線はここから更に峠を登り、軽井沢へと向かっていたのですね。

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碓氷湖
対岸に見える山は坂本城(城の峯城)の城山です。

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さて、ラストは旧信越本線の碓氷第三アーチ、通称「めがね橋」。

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煉瓦造りのレトロ感が堪りません。

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第三アーチから続くトンネル。

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トンネル内はとても涼しく、暑い日の散策にはもってこいでした♪←

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アーチ橋上からの眺め。

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アーチ橋の上、アプトの道。
碓氷峠の急勾配を登るために採用されたアプト式・・・タモさんの例の番組でもやってましたね(笑)

煉瓦造りのめがね橋・・・前々から気にはなっていたので、訪問叶ってラッキーでした。

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最後は軽井沢駅で解散、私は愛車で帰宅の途に就きました。
帰りも渋滞に巻き込まれることなく、順調なドライブ。良き休日になりました♪

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2016年12月25日 (日)

お城EXPO 2016 (12/24)

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12月24日、パシフィコ横浜で開催されたお城EXPO 2016(12/23~25)に足を運んできました。

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会場ではいきなり、4月の震災による石垣崩落で発見された熊本城の、「不思議な文様のある石」がお出迎え。

私は厳選プログラムと銘打たれた講演を聴くため、プレミアム・チケットでの入城。
24日の構成は;

11:00~12:30 トークショー
「山城の魅力を語る!」
春風亭昇太氏、千田嘉博氏、萩原さちこ氏

13:30~14:20 講演会
「秀吉の小田原攻めの意義と背景」
黒田基樹氏

15:00~17:00 フォーラム
「小田原攻めの実態に迫る」
小和田哲男氏、諏訪間順氏、伊東潤氏、コーディネーター:黒田基樹氏

といったものでした。
特に黒田先生のお話を聴いてみたくて、この日を選択しました。

見ての通りタイムテーブルがとってもタイトなので、出展ブースなどは朝イチや合間を縫ってサクッと流し見程度に。

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「城ラマ」ブースに展示されていた高天神城に長篠城。
パネルにはフィールドワークの第一人者、藤井尚夫先生のお姿も。

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こちらは小机城に真田氏上田城。

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ブース会場

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岐阜城山上石垣整備推進協議会のブースに展示されていた岐阜城のジオラマ。

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こちらの冊子も購入させていただきました。

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津市観光協会のブース

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イベントには欠かせないゆるキャラたちも登場。
出世大名家康くんに、出世法師直虎ちゃん。

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イベントステージには、ひごまるも。

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現存十二天守模型展
※中に小田原城天守が含まれていたのは、開催地(神奈川県)への配慮か?・・・深くツッコまないでおく(笑)

その他、子供たちによる城の自由研究コンテスト優秀作品展や、お城EXPOフォトコンテスト展示などもありました。

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さすがにこれだけのイベントにもなると、お城好きのフォロワーさんも大勢来城。
さらさんからはお手製の、お城EXPO煎餅をいただきました☆素晴らしいクォリティ♪

※会場ではクリス・グレンさんや平山優さんにもお会いすることができました。

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さて、肝心の講演の方ですが、感想は長くなるので割愛します…(^_^;)

何より、つい先日も近江の山城攻めをご一緒した萩原さんが、これだけのイベントを企画・推進し、大きな壇上で諸先生方と共にスポットライトを浴びている・・・その光景を不思議な気持ちで眺めながら聴講していました。
この日も大勢集まっていた城仲間・歴史仲間を含め、これら素晴らしい人々との出会い・ご縁も歴史や城を好きでいたからこそ。
そのことに一番感謝した一日。

・・・うん、とてもいい一年の「城納め」になりました☆

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2016年12月 5日 (月)

横須賀軍港めぐり

約3年ぶりに、横須賀の軍港めぐりへ出かけてきました。

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横須賀港に到着すると、海上自衛隊史上最大規模の護衛艦いずも(DDH-183)がお出迎え。

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予約した軍港クルーズは午後2時の便。
それまでの時間は、戦艦三笠の見学に費やしました。
言わずと知れた、日本海海戦でバルチック艦隊を撃滅した連合艦隊の旗艦です。

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NHKドラマ「坂の上の雲」を思い出しますね~

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遠くに見えているのは猿島。
三笠公園の隣から渡船も出ています。

猿島はまさに、東京(江戸)湾防衛のためには、ここに砲台を築かない訳がない!といわんばかりの位置に浮かぶ島(笑)
今回は時間の都合で渡るのを諦めますが、近いうちに必ず砲台跡をめぐりに行きたいですね。

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日本海海戦に於いて、司令長官・東郷平八郎以下、幹部連中が集まって指揮を執ったブリッジ。

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各人の立ち位置も示されています。

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このワンシーンですね。

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青空にZ旗も翻っています。
皇國ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ

三笠公園をあとにし、慌ただしく昼食を掻き込んだら、いよいよ軍港めぐりクルーズの出航です。
※今回乗船した船の案内人は、偶然にも3年前の時と同じ、とても綺麗な女性の方でした♪
…うん、なんかツイてるぞ(^o^) 幸先良し!(笑)

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出航してすぐ、右手にはアメリカ海軍基地のドライドック。
横須賀造船所(小栗上野介の提言で建設)時代の明治初期に完成し、今も現役として使用されています。

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海上自衛隊の潜水艦に、アメリカ海軍のイージス艦。

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逆光で苦しい写真ですが・・・冒頭でご紹介した護衛艦いずも
ヘリコプターを14機搭載する容量を誇るそうです。

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ズラーッと並ぶ米軍のイージス艦たちの向こうに見えてきた、あれはもしや・・・!?

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原子力空母ロナルド・レーガンではないですか!!
東日本大震災の折には、「トモダチ作戦」でも活躍しています。

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全長333m、排水量10万t・・・単純に排水量を比較すると、海上自衛隊最大のいずもの4~5倍にもなるそうです。
3年前には観ることが叶わなかったので、巨大空母の姿を見つけた時は興奮しました。

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艦番号も消された状態で佇むこちらの2隻は、役目を終えた木造の掃海艇
今や木造船建造の技術者が4名となり、その最年少の方でさえも80歳代になられたとのことで、新しく建造される掃海艇は強化プラスティック製に切り替えられたとのことです。
掃海艇の主な任務は機雷の除去。今も日本の近海には多くの機雷が残っており、海上自衛隊による地道な除去作業が続けられています。
木や強化プラスティックで造られるのは、機雷を起爆させかねない磁気を発しないためです。

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補給艦ときわ(左/AOE-423)
横須賀の逆光は、本当に写真泣かせ…(´-∀-`;)

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あちらの白い船は、特務(迎賓)艇はしだて(ASY-91)
国家元首クラスの要人を迎えた際に使われる、迎賓用の船なのだとか。
艦番号が2桁なのは、全海上自衛隊保有艦船の中ではしだてが唯一で、これまたなかなかお目に掛かることのできない貴重な船とのこと…ラッキーでしたね。

個人的には2度目の体験となった、横須賀軍港めぐり。
望んでいた空母も観れたし、楽しい一日となりました。

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2016年12月 2日 (金)

戦国時代展 (江戸東京博物館)

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2016年11月23日~2017年1月29日まで、江戸東京博物館で開催されている特別展戦国時代展に行ってきました。

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入場して最初に出迎えてくれたのは、太田道灌の書状。
※何故かこのコーナーのみ撮影可

私が訪れた前期(~12/25)は、西国大名に関する展示が中心の構成だったようで、大内や毛利、尼子といった中国地方の武将に関する史料も多く見受けられました。(でも何故か、九州関連は特に見受けられず)
※後期展示(1/2~)は、東国武将中心になるようです。

例によって、個人的に特に魅かれたものを・・・

泥足毘沙門天立像
上杉謙信が崇敬し、米沢藩に伝来した仏像。
個人的には4年前(2012)、米沢の法音寺を訪れ、1対1のサシで対面させていただいて以来の再会。
何故か足を止める人も少なく、間近でじっくりと拝観させていただきました。

義元左文字
織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、その手中に収めた義元の差料。
これまた個人的には1月の京都国立博物館で拝観して以来、11ヶ月ぶりの再会。
しかし茎の金象嵌銘は「永禄三年五月十九日 義元討捕刻彼所持刀」の側が向けられていて、またしても「織田尾張守信長」は拝めず。

織田信長像(大雲院蔵)

朝倉英林入道家誡
越前朝倉家七代、孝景が遺した有名な「朝倉孝景条々」を、江戸期に編纂したものかな?

・(今川)仮名目録(写)
駿河今川家のいわゆる法度、分国法。
元亀・天正年間の写しとのことなので、義元が制定した「追加二十一条」も含まれるかと。

上杉家文書
貴重な文書類がとにかく豊富・・・展示数も図抜けていたように思います。

毛氈鞍覆
上杉謙信が足利幕府より使用を許可されたと伝わります。

川中島合戦図屏風(米沢本)
川の中で逃げる武田信玄を追う上杉謙信の姿が描かれています。

姉川合戦図屏風
徳川vs朝倉が中心の構図で、私は織田と浅井の軍勢が激突した場所の地形がどのように描かれているかが観たかったのですが、残念ながらそれは叶いませんでした。

小田原城仕寄陣取図
小田原城の惣構も探索したので、とても興味を惹かれました。

・etc...etc...etc......

なかなかこれだけの史料が一堂に会するという機会もないでしょうし、戦国時代に関心のある方には、一度は足を運んでみる価値のあるものと思います。
図録は値段(2,500円)よりも、そのサイズ・分厚さで手が出ませんでしたが・・・(;^ω^)

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代わりに素敵なクリアファイルなどをGET!

後期の展示替え後にもう一度、足を運んでみたいと思います。

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2016年10月22日 (土)

平山季重の史跡

平山氏は武蔵七党の一つ、西党日奉氏の流れを汲む一族。
平山季重は保元・平治の乱、富士川の戦い、宇治川の戦い、一ノ谷・屋島・壇ノ浦の戦い、奥州藤原氏征伐など、数々の合戦で源氏方として活躍した武将です。

そんな季重が生まれ、且つ平山氏が代々領した地が現在の東京都日野市平山。
今回は彼に関連する史跡をちょっとだけご紹介します。

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京王線平山城址公園駅ロータリーに建つ平山季重遺跡の碑。
この地には元々、由木永林寺の末寺・大福寺が建っていて(明治6年廃寺)、その昔は平山季重の居館跡だったと伝えられている場所です。
背後は平山城址公園に連なる丘陵。

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その丘陵の中腹に建つ宗印寺

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こちらの宗印寺に季重のお墓があります。
元々は大福寺に祀られていましたが、廃寺となったため移されました。

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宗印寺に安置される平山季重木造坐像
晩年には仏門に帰依したらしく、法体姿に彫られています。推定江戸初期の作。

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宗印寺境内

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続いて宗印寺の裏手へ回り込み、平山城址公園方面を目指して丘陵を登ります。

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視界の開けた場所からの眺め。

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最後にこの藪道を登ると・・・

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平山季重神社が鎮座します。
平山城址公園のある丘陵の北端に突き出た尾根上で、元は見張り台のような場所だったのかもしれません。

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まだまだ勉強不足で詳細を知りませんが、身近にこれだけ凄い武将の足跡が残っているのだから、もう少し勉強しないといけませんね。

※なお、平山季重の居館跡については、「新編武蔵風土記稿」に;
浅川北岸の丘の辺りに誰のものかは定かではないが館跡があり、里の者には平山武者所季重の居館跡と伝えられている。
とあることから、浅川の北岸にあたる日野市西平山1丁目の八幡神社一帯を比定する説もあるようです。
(碑の建つ駅ロータリーや城址公園は、浅川の南側)

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2016年10月12日 (水)

新田荘遺跡めぐり (群馬県太田市)

新田荘とは上野国新田郡(群馬県太田市)を中心とする地域に存在した荘園。源義重を祖とする新田氏が治めていました。有名な新田義貞は、義重から八代目に当たります。
新田荘遺跡は、この旧荘園域内に点在する11の遺跡をまとめて一つの国史跡として登録されたものです。

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まずは世良田東照宮
徳川三代将軍家光によって日光東照宮の社殿が全面的に改築され、現在に誇る偉容を完成させると、日光山輪王寺と世良田の長楽寺住職を兼ねていた天海僧正は、日光東照宮の旧奥社拝殿などを長楽寺境内に移築し、東照宮を勧請しました。
これが世良田東照宮の始まりで、長楽寺はその別当寺となっています。
写真は東照宮創建時からある御黒門で、江戸期には平常閉ざされ、一般参拝者はこの門前からお参りしていたと云います。

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御黒門を潜った先には上番所。
上下2つの番所が設置されていたようです。

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世良田東照宮拝殿
日光東照宮奥社の旧拝殿を移築したものです。

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鉄燈籠
元和4年(1618)に秋元越中守長朝によって作られ、明暦4年(1658)に当宮へ奉納されています。
当時としては高さ日本一の鉄燈籠であったとか。

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手前からそれぞれ;
・宝暦13年(1763)前橋藩 松平朝矩
・寛政 8年(1796)川越藩 松平直恒
・天保15年(1844) 忍藩 松平忠国
によって奉納された石燈籠。

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東照宮の隣りには長楽寺
開基は源(新田)義重の子で、徳川(得川)姓を称す義季。故に世良田は「徳川氏発祥の地」とされています。

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太鼓門

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太鼓門の奥には新田義貞や一族・従臣の供養塔・・・

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そして開山堂の裏には、新田家累代墓もありました。

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これ以上は近づけませんでしたが・・・

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そのまま奥へ抜けていくと、新田家累代墓の裏には横堀や土橋らしき痕跡があり・・・

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更に進んだ先の芝生広場にも・・・何でしょうね?

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伝新田義貞倚像(木像)を安置する総持寺
新田館跡
に建つお寺で「館の坊」とも呼ばれてきました。
新田館は果たして誰の居館であったのか・・・新田義重や新田義貞など、諸説あるようです。
今でも一部、堀跡が残っているそうですが、私は事前に調べていなかったので確認しておりません。

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あわよくば新田義貞の木像を・・・と訪れてみましたが、法要の最中だった模様で静かに退散致しました。
まぁ、どのみち無理だったでしょうね…(;´∀`)

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新田荘歴史資料館前に建つ新田義貞銅像
勿論、資料館にも立ち寄りました。

※以上の世良田東照宮・長楽寺・総持寺・新田荘歴史資料館は全て太田市世良田町に所在。

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車で少し移動し、こちらは太田市新田反町町に残る反町館跡
その南面の土塁…郭内側から。

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同じく南面の土塁を外側から。居館を囲む水堀も残ります。

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東面の水堀。かなりの幅がありますが、これは道路改修の際に拡張されたようです。
途中で大きく屈折させてあります。

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反町館にも新田義貞居館説があるようで、ご覧のような
新田義貞公古城跡
の石碑が建っていました。

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西面の堀は蓮に埋もれ・・・

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反町館跡は現在、照明寺の境内になっています。

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本堂脇を抜け、北面の堀も確認。

中世関東武士居館の典型のような遺構を明瞭に見てとれて、なかなか楽しめました。

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この日最後は、太田市新田上江田町の江田館跡

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南面の横堀。手前は土橋。

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郭内から見る土橋。

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横堀に囲まれた居館跡はかなりの広さがあります。

江田館は新田義重の子・(徳川)義季四世の子孫、江田行義の館跡と伝えられています。
行義は新田義貞の鎌倉討伐にも従軍して、武功を挙げています。
その後、戦国期には太田金山城の出城として改修されていましたが、北条氏が進出してくると、江田館は逆に北条氏の金山城攻めの拠点となり、北条氏邦が滞在したこともあったようです。
天正18年(1590)北条氏が滅亡すると、江田館もその役目を終えて廃城となりました。

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東面の堀と土塁。
屈折がなかなか見事です。

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一瞬、土橋?畝??とも思いましたが、単なる土塁の崩落かもしれません。

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南西角から西面の堀と土塁。

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こちら側の折も見事です。

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居館西側の堀の外にはもう1つ、薄い土塁に囲まれた平坦地がありました。
現地案内板の復元イラストでは馬場のように描いていましたが、或いは二ノ丸的なものかもしれません。

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その最外郭の城塁。

江田館は当初ノーマークで、先に立ち寄った新田荘歴史資料館でたまたまその存在を知ったのですが、なかなかどうして、遺構も明瞭で状態の良い遺跡でした。

今回は下調べ不足で、帰りの渋滞も怖かったので早々に切り上げましたが、江田館跡周辺の宅地にも堀や土塁の痕跡が点在しているとの情報も・・・いずれ機会があれば、改めて訪れてみたいと思わせるものがありました。
まだまだ奥が深そうですね・・・新田荘。

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2016年10月11日 (火)

大光寺旧総門の弾痕

10月10日、ちょっと天候も回復した祝日に、埼玉と群馬の県境辺りへ気晴らしにドライブしてきました。

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まずは埼玉県上里町にある大光寺へ。

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大光寺境内

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見透灯篭
近くを流れる神流川の渡し場に、夜間の道標として設置されていたものです。明治になって大光寺へ移設されました。

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また、大光寺境内地は武蔵七党の流れを汲む勅使河原氏の居館跡でもあったようです。
大光寺はその勅使河原氏によって、建保3年(1215)に創建されています。

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勅使河原直重・貞直・光重父子の墓と伝わる親子地蔵(左)と、室町期の勅使・藤原何某の供養石幢(右)

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こちらは大光寺を創建した勅使河原有直を祀る開基廟

館跡なら土塁でも残っているのでは?と思い、周囲を探ってみると・・・
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お!?と思わせる雰囲気がありましたが、立て看板には;
旧境内地
明治四十二年四月高崎線の排煙にて焼失
これより北に江戸時代からの大光寺伽藍があった。「土塁」あとではない

とご丁寧に書かれていました…(;^ω^)

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しかし、大光寺を訪れた一番の目的はこちら・・・本堂裏に移設されている旧総門です。

上里町一帯は天正10年(1582)6月、本能寺の変による織田信長の横死をきっかけに織田方の滝川一益と、それまでは織田家と協調関係にあった北条家との間で起きた神流川の戦いの舞台となっています。
※神流川の戦いについてはコチラを参照

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大光寺の旧総門は鎌倉期の創建
神流川の戦いで大光寺は、殆どの伽藍を焼失(明治42年に高崎線の排煙で焼失したという伽藍は、その後に再建されていたもの)していますが、この総門だけは辛うじて延焼を免れました。
しかしその柱には、この時の戦いによるものと伝わる銃弾痕が残っていたのです。

その痕跡をしっかりと目に焼き付け、次は群馬県太田市に点在する新田荘遺跡をめぐります。

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