カテゴリー「お城、史跡巡り 関東」の161件の記事

2022年11月17日 (木)

仙波東照宮の特別公開

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埼玉県川越市、仙波東照宮の随身門。

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仙波東照宮では令和4年11月1~23日までの間、川越市の市制施行100周年を記念した特別公開が行われています。

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まずは拝殿、及び幣殿で後水尾天皇の勅額、左大臣・右大臣の随身形、金箔が施された木彫りの狛犬(以上3点はいずれも本来、随身門にあったもの)、及び三十六歌仙額、鷹絵額などを拝観し・・・

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本殿へ。
撮影禁止のため写真はありませんが、唐門から端垣の内へ入り、初公開となるご神体・東照大権現像を拝観させていただきました。

厨子に納められたご神体は甲冑を纏った騎馬姿で、高さは5~60㎝ほど。
本来は手に剣を持っていたはずなのですが、そちらは明治期以降に行方知れずなのだとか。
幣殿で拝観した木造の狛犬と共に「康音」という仏師の作で、この人は日光山輪王寺の木造天海坐像にも銘があります。

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大変貴重な機会を設けていただいたことに感謝。

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折角なので、すぐお隣にある喜多院にもお邪魔し、10年ぶりに徳川家光誕生の間春日局化粧の間なども拝観してきました。

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午後からは家の用事もあったので川越には2時間ほどの滞在でしたが、目的も果たし、いいドライブになりました。

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2022年10月30日 (日)

アキシマクジラ出土地と多摩川の牛群地形

本日は多摩川の河川敷(昭島市側)へお出かけ。
まずは・・・

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JR八高線が多摩川を超える鉄橋の、すぐ下流側へ。
この一帯がアキシマクジラの出土地となります。

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アキシマクジラは昭和36年(1961)8月20日、ほぼ完全な骨格で化石が発見されました。
発掘された地層から、およそ200万年前頃に生息していたものと考えられています。
それから57年後の平成30年(2018)1月1日、学会誌に「これまで世界で発見されたことのないヒゲクジラ属の新種」として発表され、「エシュクリクティウス アキシマエンシス」という学名が命名されました。

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そんな訳で、昭島市のマンホールにも鯨がデザインされています。

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また、アキシマクジラに関する説明板の前には、2対の鉄道車輪が設置されています。

昭和20年(1945)8月24日、終戦の僅か9日後にあたるこの日、八高線小宮~拝島間の多摩川に架かる鉄橋上、つまりは冒頭写真の場所で上下線の列車が正面衝突し、少なくとも105名もの尊い命が犠牲になりました。(八高線は今でも全線が単線)
犠牲者の多くは終戦に伴って故郷へ向かっていた復員兵や、疎開先からの帰省客だったと云います。なんとも痛ましい事故です。。。
2対の車輪は鉄橋付近から発見され、この時の事故車両のものと考えられています。

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八高線の鉄橋から1㎞少々下流へ向かった先に残る、多摩川の牛群地形
1950年代の砂礫大量採取により、160~200万年近く前の地層(上総層群の一部)が露出し、洪水などによって削られたできた地形なのだそうです。

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こうした形状が牛やクジラの群れのようにも見えることから、牛群地形と名付けられました。
八高線の鉄橋付近は、河川改修工事によって牛群地形が失われていますが、先程のアキシマクジラも同様の地層から発見されたそうです。

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対岸にはトンネルのようになっている箇所も。

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以前から一度来てみたいと思っていたので、天候にも恵まれて良き散策となりました。
途中マムシに遭遇し、気づくのが遅れて危うく踏みそうになったこともありましたが・・・(;・∀・)


■11月5日追記

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折角なので昭島市の教育福祉総合センター「アキシマエンシス」へ、アキシマクジラの全身骨格レプリカを観に行ってきました。

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下から・・・入りきらない(笑)

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化石の実物も一部、展示されていました。

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2022年3月 6日 (日)

旧黒須銀行の特別公開

1月に扇町屋から飯能まで、飯能戦争に於ける(主に)新政府軍の進軍ルートを辿った際のコチラの記事旧黒須銀行のことも少しご紹介しましたが、その旧黒須銀行が特別公開されている(2022年3月5、6、12、13、25日)ことを知り、約2ヶ月ぶりに再訪いたしました。

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旧黒須銀行
黒須銀行の設立から9年後の明治42年(1909)に、本店営業所として建築されました。

明治32年(1899)、飯能戦争で命を落とした養子・平九郎の慰霊、墓参のため越生などを訪れた渋沢栄一は、その道中、黒須村(現埼玉県入間市宮前町)の名主・繁田家に休憩で立ち寄りました。
彼は若い時分より、家業の商いで八王子方面へ向かう際などにも繁田家を訪れており、旧知の間柄でもあったようです。
そこで繁田満義から銀行設立の相談を受けた栄一は、満義らが1年後の明治33年に立ち上げた黒須銀行で、設立から2年間、自ら顧問を務めました。

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渋沢栄一も立ち寄った繁田家は、旧黒須銀行のすぐお隣。
(2022年1月4日撮影)

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カウンターの天板は、欅の一枚板でできているそうです。

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カウンターの内部も見学できます。
奥には渋沢栄一から贈られた「道徳銀行」の扁額(複製/原資料はりそな銀行所蔵)。
「信義道徳」を重んずる経営を旨とした黒須銀行は、世間から「道徳銀行」と呼ばれたそうです。
まさに渋沢栄一が唱えた「道徳経済合一説」に通ずる理念ですね。

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軒瓦などには、信義を標榜する黒須銀行の行章「丸信」が。

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カウンター内から銀行員の目線で。

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2階への急な階段。

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2階は会議室として使われていたスペースで、重役会議や株主総会も行われたそうです。

ほんの偶然から特別公開の情報を得、貴重な建物を見学することができて良き休日となりました。

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2022年1月 6日 (木)

扇町屋から飯能へ ~飯能戦争を辿る~

2022年最初の“歴旅”は、前回の記事から引き続き飯能戦争関連です。
電車とバスを乗り継ぎ、、、

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こちらからスタート。
前回の記事でも触れましたが、慶応4年(1868)5月、上野戦争の敗報に接した振武軍ら旧幕府諸隊は、田無から二手に分かれて飯能を目指すことになります。
一隊は秩父甲州往還を所沢経由でここ扇町屋に入り、もう一隊は青梅街道で箱根ヶ崎まで引き返し、日光脇往還を北上して、やはり扇町屋を経由してから飯能入りしました(5月18日)。

また、その追討に向かう新政府軍本隊も同月22日に振武軍らの去った扇町屋へ入り、大村・佐土原・備前の各藩からなる部隊は秩父甲州往還を進み、野田村を経由して飯能へ向かうことを決し、翌23日未明に扇町屋を発しています。

今回はそのルートを辿って、私も扇町屋から飯能を目指して歩いてみます。

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青梅道(右)が日光脇往還に合流する地点。
そこに・・・

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扇町屋上町の道標があります。
子育地蔵は元禄5年(1692)の銘をもち、
右 おう免みち
左 八王じみち
と彫られているそうです。

左の馬頭観音は文政3年(1820)のものでやはり道標を兼ね、右の石柱型の道標には安政3年(1856)の銘がありました。

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日光脇往還を北へ進んでいくと、風情のある建物も残っていました。

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割烹扇屋さんは、幕末頃には旅籠を営まれていたとか。
飯能戦争に関わった両陣営の兵卒たちも、きっと利用したことでしょう。

飯能戦争当日の5月23日、振武軍の一隊が扇町屋の新政府軍襲撃を企てましたが、いざ到着してみると旅籠の軒先に名が掲げられているだけで、既にもぬけの殻であったと云います。(高岡槍太郎戊辰日記)

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よ~く町並を見てみると、建物が道路と正対せずに少しずつ斜めにズレ、ギザギザに並んでいました。

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日光脇往還は左斜め方向へ。
この分岐点の脇には・・・

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下町の道標(道祖神)
日光脇往還と、川越へ向かう道を標しています(「日こう」の文字も確認できました)。
こちらには享和2年(1802)の銘がありました。

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ところで、扇町屋の外れ(豊岡高校北隅)には彰義隊遭難者の碑がたてられています。
説明板によると慶応4年(1868)3月29日、軍資金調達のために扇町屋へやって来た彰義隊士13名が、村人によって殺害されるという事件があったのだそうです。
大正10年(1921)、当地を訪れた元幹部隊士・本多晋(敏三郎)によって建碑されました。

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さて、日光脇往還に戻って少し進むと、趣のある立派な建物が見えてきました。
黒須村名主・繁田家(本家)の長屋門と、繁田醤油(分家)です。
細い道を挟んだ左側には、繁田満義が設立に携わった旧黒須銀行(現りそな銀行)の古い建物も残っています・・・ほとんど写っていないけど(;^_^A

明治32年(1899)、飯能戦争で命を落とした渋沢平九郎の慰霊のため、飯能や越生を訪れた渋沢栄一は道中、この繁田家にも立ち寄りました。
そうした縁もあってのことでしょう、彼は黒須銀行設立時の顧問にも名を連ねています。
※旧黒須銀行については、コチラの記事参照。

ここで日光脇往還を離れ、繁田醤油と旧黒須銀行の間の小路を進むことにします。

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旧道の雰囲気を残す道をしばらく進み、入間川の河原が近づいてきたところで、河原に下りられそうなポイントがありました。
(民家の途切れた右側)

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目印は、こちらのお地蔵様。

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下りた先が・・・黒須村と笹井村を渡していた笹井の渡し跡です。
勿論、現在は渡ることができませんので、私は近くの豊水橋(日光脇往還根岸の渡し辺り)へ迂回しました。

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笹井の渡しを笹井村側へ渡河したポイントから。
佐土原・大村・備前の緒隊、及び双柳から中山方面へ向かう福岡や久留米の藩兵らも、きっとここから上陸したことでしょう。

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上陸地点には水天宮が祭られていました。

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秩父甲州往還はこの先、しばらくは入間川に沿うようにして西へ進みます。

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渡し跡から7~8分ほども歩いたでしょうか、路傍には水神宮と・・・

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御嶽神社が祭られていました。
神社の前には、旧道の痕跡らしき砂利道もありましたが、私有地に入ってしまいそうでしたので追跡は断念しました。

新政府軍が入間川を越えて300mほど進んだところで、旧幕府方との最初の接触があったと云います(23日未明)。
その詳細な場所はわかりませんが、距離的にはこの辺りになりますでしょうか。
最初の遭遇の後、振武軍らは畑のそばの藪中から発砲してきたそうですが、実際にこのすぐ先には今も畑が広がっていました

笹井での戦闘で旧幕府方を撃退した新政府軍(先陣は佐土原藩)でしたが深追いはせず、夜の明けるのを待って進軍を再開しました。

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先ほどの砂利道はここに繋がっていたのかな?

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進軍する大村・佐土原・備前勢が野田村の外れまで差し掛かった時、再び旧幕府方から銃撃を受けました。
そこで新政府軍は開けた野原のような場所に出て散兵し、林や藪に潜む旧幕府方を撃退したと云います。
・・・なんとなく、それを彷彿とさせる光景に出くわしました。

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旧幕府方が潜んでいた(かもしれない?)藪を抜けて更に進みます。

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野田山王塚石造物群

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庚申塔や馬頭観音が集められており、最古のものは寛文8年(1668)になるそうです。
この場所で振武軍や、新政府軍らの動きを目撃していたのでしょうか。

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秩父甲州往還の旧道らしき道を進む。
この辺りは交通量も多く、歩道がなかったのでかなりスリリングでした。

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道中にあった白髭神社にもお参り。
この後、八高線や西武線の線路を超え、いよいよ飯能の中心部へ入っていきます。

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飯能の高札場跡。
この辺り一帯も、飯能戦争の兵火で焼けているようです。

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高札場跡付近に建つ、明治7年創業の吉田屋呉服店。
その前に明治16年の軍事演習の際、視察に訪れた明治天皇の御座所になったことを示すプレートも掲げられていました。
天皇は能仁寺裏の羅漢山にも登って演習を視察されています。それ以降、山は天覧山と呼ばれるようになりました。

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店蔵絹甚の重厚な佇まい。
明治37年(1904)の建築。

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野村庄三郎を頭とする振武軍隊士40名ほどが滞在していた広渡寺。
戦争で本堂や庫裡を焼失しています。

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眞能村名主・双木家跡付近。
「23日朝、戦闘がいよいよ飯能の町へ迫ってきたので逃げる支度をしていると、大砲の玉や小銃の銃弾が茶の間に落ちてきて恐怖した。(中略)終戦後、家に戻ってみたら大砲の玉が2つ、銃弾はたくさん転がっていた」
といった内容の証言を、時の当主・双木利八郎が拾った大砲玉を収めた箱(大炮玉箱)の箱書に残しています。

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ところで、飯能の町中に「双木利一」という人物の胸像がありました。
詳しく調べはついていないのですが、おそらく利八郎の孫(養子の子息)にあたる人物かと思われます。


本来であれば、久しぶりに能仁寺までお詣りしたいところでしたが、久しぶりの長距離ウォークで足が悲鳴を上げており、付け根の辺りに激痛レベルの痛みを覚えていたので断念いたしました。
コロナ禍で体も相当なまっている模様・・・早く何の気兼ねもなく出かけられる日々を取り戻したいものです。

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2021年12月19日 (日)

振武軍が宿営した箱根ヶ崎

慶応4年(1868)、副頭取・天野八郎らとの対立から彰義隊を離れた渋沢成一郎らは田無に入り、同志を募って振武軍を結成しました(5月1日頃か)。
ここでしばらく、周辺の多摩地域の村々から惣代や名主に出頭を求め、軍用金の調達に勤しみます。連光寺村の惣代・忠右衛門もやはり呼び出しを受けて田無の振武軍本営へ出頭していますが、この忠右衛門とは富澤忠右衛門のことで、彼は新選組の面々とも親交のあった人物で、京に旅した際には近藤や土方、山南、沖田らから歓待を受けています。(「旅硯九重日記」/参考記事

そして5月12日、振武軍は田無から青梅街道を西へ向かい、箱根ヶ崎に陣替えしています。
これは田無では江戸に近く、新政府軍が動き出したら1日以内で襲撃されてしまう恐れがあったためとも云います。

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JR箱根ヶ崎駅から東へ150mほどで、八王子千人同心が日光勤番に利用していた日光街道(日光脇往還/以下「日光街道」と表記)に出ます。
眼前を南北に横切っている道路がそれで、奥へ続いている道は江戸街道(江戸道)です。
この日光街道と江戸街道が接する南側(写真右側)の角にはかつて、旅籠関屋(関谷家)がありました。

箱根ヶ崎に到着した振武軍は、この旅籠関屋や圓福寺などに宿営します。

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旅籠関屋跡
安政4年(1857)に作成された間取図によると、旅籠の建物は日光街道と江戸街道に面した敷地の北西寄りに建てられていました。
上の写真では手前が江戸街道なので、煉瓦の塀沿いに奥へ、日光街道にぶつかって塀が途切れる辺りにかけてとなります。

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日光街道を少し北上し、青梅街道との交差点。
奥へ続く道が青梅街道(田無方面)で、手前を横切るのが日光街道です。
角に明治5年創業という漢方薬店の素敵な建物がありました。
※往時の青梅街道・田無方面の日光街道との結節点は、もう1本南側の小道だったようです。そこから日光街道で少しクランクさせて、写真手前方向に青梅方面へと続いていました。

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青梅街道を少し西へ進むと・・・

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振武軍宿営地の一つ、圓福寺。
立派な山門に驚かされます。

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圓福寺本堂

箱根ヶ崎滞在中も軍用金調達のため、近郷の村々の名主らが呼び出しを受けていますが、新町村(青梅市)名主へも同様の廻状が出されています。
この新町村名主とは、こちらの記事でご紹介した吉野家のことでしょう。

5月15日、上野で戦争が始まったとの報を受け、成一郎らは急ぎ箱根ヶ崎を出発して青梅街道を東進します。
ところが高円寺あたりまで来た時(同日夜)、上野戦争の敗報に接して田無まで引き返しました(同16日)。
田無で彰義隊や臥龍隊の敗残兵らと合流し、一隊は所沢を経由して扇町屋から、もう一隊は箱根ヶ崎から飯能へと向かうことになりました。
成一郎ら振武軍は箱根ヶ崎を経由するルートをとり、旅籠関屋を本営として隊士らは圓福寺に宿営(同17日)、翌18日には慌ただしく出発して日光街道を北へ、扇町屋を経由してから飯能へ入っています。

私も少し、日光街道を北上してみました。

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残堀川に架かる大橋の欄干が不思議な形をしていました。
この橋の袂にはかつて、慶応元年(1865)創建の常夜燈が建っていたそうです。
ところが大正12年(1923)の関東大震災で倒壊してしまい、現在は修復して近くの狭山池公園に移設されています。

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日光街道の看板。

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更に北へと続く日光街道。
飯能へと向かう成一郎ら振武軍も行軍した道。。。

その後の飯能戦争については、以下の記事を。
飯能戦争の舞台
顏振峠と渋沢平九郎最期の地

折角なので、周辺をもう少し散策します。

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小高い丘の上に建つ狭山神社。
石段が修復中で通行不能なため、脇の坂道を上がっていくのですが・・・

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かなりの急勾配な上に枯れ葉がびっしりと積もり、とてもスリリングな参拝になりました…(;^_^A

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伊邪那岐尊・伊邪那美尊と共に、泉津事解男命・箱根大神・木花咲耶姫命・大山衹命・巌永姫命を祭ります。
創建年代は不明ですが、箱根大神は永承年間(1046-1053)、奥州征伐に向かう「八幡太郎」源義家が、この近くの筥の池(現在の狭山池)付近に宿陣した際に勧請したものと伝えられ、木花咲耶姫命・大山衹命・巌永姫命の三柱は源頼朝の命による勧請と考えられています。

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源義家が宿陣したと云う筥の池。

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大橋の袂に建っていた常夜燈もありました。
この常夜燈は、飯能へ向かう振武軍の行軍も目撃していたのですねぇ・・・。

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他にも馬頭観音や・・・

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蛇喰い次右衛門の石像なるものも。
案内板によると・・・

とある暑い日、治右衛門が筥の池で水浴びをしていると、小さな蛇が絡みついてきて離れなくなりました。
どうにか引き離そうと治右衛門が蛇に嚙みつくと、急に空模様が大荒れとなり、蛇も大蛇となって傷口からは血が七日七晩流れ続けたと云います。
蛇が退治されると池の水も枯れ始め、現在のような小さな池になりました。

・・・これは昔、筥の池の水を残堀川に流して玉川上水の助水にしたことで筥の池の規模が縮小し、且つ、その時の残堀川の流れが大蛇さながらのようであったことから、「蛇堀川」と呼ばれたことに由来する伝承と考えられています。

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狭山池公園から、狭山神社の建つ丘を見上げる。

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最後は瑞穂町郷土資料館にも立ち寄って、この日の歴史散策は終了。
週末も仕事で家に籠る日が多かったので、いい運動になりました。

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2021年12月 5日 (日)

「青天を衝け」めぐり in 深谷

今回は埼玉県深谷市へ、家族を連れての日帰りドライブ。
2021年度の大河ドラマ「青天を衝け」関係地をめぐります。まずは・・・

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深谷大河ドラマ館へ。

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栄一が幼少期から過ごした家を再現したセットや・・・

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出演者らのパネルなどが展示されています。
この2人の恋心と結末は切なかったですね・・・。

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人柄も素晴らしく、本当に立派で素敵な“とっさま”でした。

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ドラマで使用された小道具など。
千代に「浅ましい・・・」と一蹴された栄一の洋装写真(笑)や、栄一が千代に贈った懐剣など。

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パリ万博で驚嘆していたエレベーターも。

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左から尾高長七郎、渋沢てい、渋沢(尾高)平九郎の衣装。

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併設された物産館で、名産の深谷ネギも購入。

ドラマを欠かさず視聴しているので、結構楽しめました。

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ちなみに、大河ドラマ館の向かいには深谷城址公園があります。

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お次は旧渋沢邸、栄一の生誕地でもある血洗島の中の家へ。

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中の家と、この後に訪れる尾高惇忠生家は、3年前に訪れた際の記事と重複するため詳細は割愛します。
しかし、3年前にはいらっしゃらなかった栄一のアンドロイドにお会いできました。

※栄一が建立した平九郎の追悼碑の前で、ボランティアの高齢男性が団体客を前に力説していたのですが、
「“昌忠”というのは栄一の“青淵”、惇忠の“藍香”と同じで、平九郎の号!」
と大声で断言しているのを耳にした瞬間は、思い切りズッコケそうになりました・・・いくらボランティアとはいえ、少しは正しく勉強して(させて)からでないと・・・。

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尾高惇忠生家も3年前とは違い、ドラマの影響で多くの人が訪れていました。

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渋沢栄一記念館

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こちらも3年ぶりの再訪ですが、やはり渋沢栄一アンドロイドとは初対面となりました。

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最後に、大寄公民館脇に移築復元されている誠之堂へ。
大正5年(1916)、栄一の喜寿を記念して、彼が頭取を務めていた第一銀行の行員たちの出資により、第一銀行の保養施設であった清和園(東京都世田谷区瀬田)に建てられました。

※ところで、渋沢成一郎(喜作/栄一と同じ血洗島出身)は振武軍を率いた際、「大寄隼人」の変名を用いていますが、この地名に由来しているのかもしれません。
この地に「大寄村」が成立したのは明治22年(1889/1955年廃止)のことらしいのですが、それ以前から地域名のような形で存在していたとしたら・・・。
尾高惇忠も「榛沢新六郎」と、やはり現在の深谷市一帯に所在していた榛沢郡にちなんだものと思われる変名を用いています。

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煉瓦で「喜寿」と書かれています。

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誠之堂内部

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暖炉上の渋沢栄一レリーフ。

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説明や古写真にある通り、建設当初のレリーフは横向きだったそうです。

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ステンドグラスも印象的でした。

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誠之堂の横に移築されている清風亭も見学。

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清風亭は、やはり第一銀行であった佐々木勇之助の古希を記念して、誠之堂に並べて建てられました。
平成11年、誠之堂と共に、渋沢栄一ゆかりの地でもある深谷市に移築復元されました。

この後は道の駅おかべに立ち寄ってから帰路につきました。
(大河ドラマをご覧の方には、「岡部」の地名にも馴染みがあるはず!)

母も今年はずーっと「青天を衝け」を視聴しているので、楽しんでもらえたようです。
往復共に渋滞知らずで、よきドライブになりました。

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2021年11月28日 (日)

旧吉野家住宅、他

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日曜昼下がりのドライブ、今回は青梅市新町の旧吉野家住宅へ。
旧新町村は慶長~元和年間にかけ、元忍城主・成田氏の旧臣だった吉野織部之助という人物が中心となって開拓されたのだそうです。その子孫は代々、新町村の名主を務めました。
現在残る家屋は嘉永4年(1851)に建てられたもので、都の有形文化財に指定されています。

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さすがに名主層の住宅だけあって、式台を備えた玄関も立派です。

天正18年(1590)の小田原征伐による忍城開城後、吉野織部之助は武蔵国多摩郡下師岡村(青梅市師岡町、他)に下野していましたが、新町での新田開発を幕府の代官に願い出て、その協力も仰ぎながら新村開拓に着手したそうです。
なお、下師岡村の吉野家は息子が継ぎ、新町の方は孫娘に婿を取らせ、これに継がせたようです。従って下師岡村の名主も、織部之助の息子が継いだ吉野家が代々務めました。

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大正期頃の新町村の様子。

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建物内部も上がって見学することができます。

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旧吉野家住宅の北東100mほどに位置する、新町の大井戸。
一目見た瞬間、羽村の「まいまいず井戸」にそっくりだなと感じました。
参照記事

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新町村は武蔵野台地の中央に位置して河川からも遠かったため、開拓にあたっては織部之助もすぐに井戸の掘削に取り掛かっています。
この形状からして大井戸は、織部之助らの入植よりも時代を遡るかと思われますが、水の確保に腐心した様子が偲ばれます。

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旧吉野家住宅から青梅街道を西へ200m弱、鈴法寺跡。
鈴法寺は普化宗を宗派とする寺院で、初めは幸手市にあった藤袴村に創建され、川越近くの葦草村を経て、慶長18年(1613)にこの地へ移りました。
これは、当時の鈴法寺20世が織部之助と同じ、成田氏旧臣の子息だった縁によるものだそうです。

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明治4年の廃宗に伴って廃寺となり、同28年の火災で残っていた伽藍も焼失したようです。
現在はこじんまりとした児童公園になっており、その片隅に歴代住職の墓所を残すのみとなっています。

近場の史跡をめぐるドライブ旅。
次はどこへ向かいましょうか・・・?

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2021年11月 7日 (日)

法林寺館

新型コロナの猛威が下火になってきたかと思えば、今度は仕事の方が暴発しておりまして、なかなか旅にも出られずに悶々とした日々を送っております。
そんな日曜の昼下がり、気晴らしに自宅からも近いあきる野市の法林寺館を訪れてみました。

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法林寺山門

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本堂

法林寺は西暦921年の開基、14世紀後半~15世紀初頭頃の再興とも伝えられる古刹で、江戸時代には幕府より寺領25石の朱印も拝領していたそうです。
その周辺に土塁の一部が残存していることから、ここにはかつて、武士の居館のようなものがあったのではないかと推定されていますが、文献等でその存在を確認できず、便宜上、跡地に建つ法林寺にちなんで「法林寺館」と呼ばれていますが、詳細は全くわかっていないようです。

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法林寺のすぐ南には多摩川が流れています。
多摩川の河岸段丘の縁という立地で、対岸の加住丘陵上には眼前に高月城、更に左奥には滝山城があります。

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ところで、法林寺境内の南側、多摩川に面した段丘の縁にも土の盛り上がりがあったのですが、これも土塁の名残でしょうか・・・?

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法林寺の東隣り、寺前公園から見る法林寺館北東隅の土塁(内側)。
黒い柵が土塁に沿って張り巡らされていますので、辛うじて隅部分が内側に折り曲げられているのがわかります。
方角からしても、これは鬼門除けの隅欠だと思われます。

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北面の土塁(同じく内側より)。
左奥に法林寺の山門が見えています。
しかし、なかなかの藪り具合・・・来る時期を間違えたようです。(;・∀・)

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外側に至っては・・・周囲の藪がフェンスの高さまで生い茂り、土塁の高さを全く体感できません・・・( ;∀;)
ちなみに上の写真は、外側から見た東面の土塁です。

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北東の隅欠部分・・・いいよ、また来るから。

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北面・・・幸いに近所みたいな場所なので、また冬にでも訪れてみたいと思います。

法林寺館の成立年代や歴史は、お寺の沿革・変遷(いつ現在地に移ってきたか、etc...)とも関わってきそうですが、法林寺も江戸期に火災に遭い、記録類が焼失して詳しいことはわからないのだそうです。

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2021年10月18日 (月)

楯の城

今回は東京都青梅市日向和田、JR青梅線の宮ノ平駅近くにある楯の城(館の城とも)へ。
一つ手前の青梅駅近くに車を置き、青梅街道を西へ歩いて向かうことにします。

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青梅宿町年寄、旧稲葉家住宅の前を通過し・・・

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裏宿、「義賊」としての伝説も伝えられる七兵衛が住んでいた場所と云う七兵衛公園前も通過。
(七兵衛は、二俣尾村の名主・谷合家の記録に元文4年(1739)、一味と共に捕らえられ、処刑されたことが残されているので、実在はした人物のようです)

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楯の城の東面を深く削り込むようにして流れる沢。
水面は見えませんが、水の流れる音は聴こえていました。このまま近くを流れる多摩川まで流れ込んでいるようです。

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その沢に架かる橋の欄干に「館」の文字が読めました。
「館橋」というようです。

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青梅街道から見上げる楯の城。
数軒の住宅が建つ辺りも、従来は城域の一部だったようです。

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宮ノ平駅の手前(東)で踏切を渡り、線路沿いの細い路地を少し上ります。
楯の城(の遺構)は、すぐ先に見えている一つ目の階段を左に上がり、山道を少し進んだ先になります。

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楯の城の西面も、こうして深い谷になっていました。
青梅街道や、それと並行する多摩川に向かって駆け下ってきた山からの稜線の先端で、東西を守られるようにして沢と谷に挟まれた占地です。

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山道に入って20mほども歩くと、目印となる赤錆びた看板が出てきます。
ここで山道を外れ、右手の踏み跡に入っていきます。すると・・・

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見事な土塁や空堀が目に飛び込んできました。
奥には土橋も見えています。

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土橋
右手は虎口になっています。

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土橋を渡った虎口の先が、楯の城の主郭部になっていたようです。
今でも削平された痕跡は残っているようでしたが、藪々で詳しくは確認していません…(;^_^A

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土橋上から西側の空堀を見た様子。
しっかりと「折れ」も確認できます。

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反対に東側。
こちらは真っ直ぐ、そのまま先に見た沢まで落とされていたようです。

楯の城は「新編武蔵風土記稿」や「武蔵名勝図絵」などでは、田辺清右衛門なる人物が移り住んで構えた居館跡と伝えられているようです。
この田辺清右衛門、元は甲斐武田家の旧臣で、天正10年(1582)の主家滅亡後、武蔵国に逃れて北条氏照に仕えたことから日向和田の楯の沢に館を構え、移り住んだのだそうです。
そうなると時系列的にも、近くに居並ぶ辛垣城や桝形山城、勝沼城との関連は特に見出せないということになるでしょうか。

清右衛門の墓所は青梅市天ケ瀬の金剛寺にあり、墓誌によると明暦4年(1658)に72歳で没したようです。
金剛寺には彼の肖像画も伝えられているようですが、非公開とのことです。

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楯の城からの移築と伝わる明白院の山門。
北条家の滅亡後、田辺氏は徳川家に仕えました。
こちらの山門は、清右衛門の孫の代の時に移築されたものと伝えられているようです。

楯の城、個人的には青梅街道を押さえる番所のようなイメージを抱いていましたが、少々意外な歴史を知ることになりました。

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2021年10月 4日 (月)

古河城・古河公方鴻巣館

緊急事態宣言も開けた10月最初の週末、久しぶりに愛車とのドライブも兼ねて茨城県古河市へ。

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今回は、街中に残る古河城の痕跡をめぐります。

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まずは古河歴史博物館で古河の歴史を簡単に学び、博物館の建つ諏訪郭跡から散策スタート。

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諏訪郭の南東隅から東面にかけての土塁。
いい感じで残されています。

先の図面でもおわかりのように、古河城は渡良瀬川の河畔に曲輪を南北に連ねた連郭式の城郭でしたが、この諏訪郭だけは東に突出した出城、広い意味では馬出的な存在だったようです。

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同じ南東隅部の土塁を外側の堀底から。

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福法寺の山門として残る乾門
元々は二ノ丸、将軍御成のための御殿前に建っていたそうです。

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古河城の文庫蔵の移築と伝わる坂長本店の店蔵と、乾蔵の移築と云う袖蔵。

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街中には、雪の結晶の研究で知られる土井利位の雪華模様をあしらった鉄柵も。

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日光街道古河宿の道標。
左 日光道
右 江戸道
古河城は江戸時代、日光東照宮へ社参する徳川将軍の宿泊地でもありました。
(岩槻→古河→宇都宮)

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城下町を通過する旧日光街道。

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素敵なクランクですねぇ~♪
このまま日光街道を少し西へ進んで・・・

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古河藩主・土井家(1633~1681、1762~)の菩提寺、正定寺へ。
こちらの山門は、土井家の江戸下屋敷(本郷)から移築されたものだそうです。

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土井家歴代の墓所にもお詣り。

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正定寺近く、この不思議な分岐をする路地の辺りが・・・

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古河城追手(大手)門跡。

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追手門跡から西へ、頼政神社に残る観音寺郭北面の土塁。
この上には頼政神社が鎮座していますが、残念ながら石段の崩落か何かで境内は立入禁止になっていました。

頼政神社は元禄9年(1696)、時の藩主・松平(大河内)信輝が城内に大河内氏の祖先にあたる源三位頼政の廟所があることを知り、これを神社として整備して祀ったのが始まりと伝えられています(他説あり)。
元々は城域南端の立崎郭に祀られていましたが、明治末期からの渡良瀬川改修工事で立崎郭が消滅することとなり、現在地に移されました。

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渡良瀬川と城を直接繋いでいたであろう、船渡門跡。
河川改修後に築かれた大きな堤防に遮られ、現在では川を直接見ることは叶いません。

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丸ノ内北西に位置する桜門跡。

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桜門跡碑の前の道が半円状にカーブしていたので、私は始め「馬出(の痕跡)か?」とも思いましたが、どうやらそうではなく、門の脇に掘られていた堀のラインを示す痕跡なのかもしれません。

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古河城跡の見所の一つ、獅子ヶ崎土塁

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獅子ヶ崎土塁の往時の位置関係はこのようになります。

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獅子ヶ崎土塁の北側。

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獅子ヶ崎土塁の向かいには重臣屋敷長屋門。

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獅子ヶ崎土塁前、御成門跡から諏訪郭方向へと真っ直ぐに続く御成道
日光社参の途次に古河へ到着した徳川将軍は、この御成道を通って御成門から丸ノ内に入り、三ノ丸を経由して二ノ丸の御殿に宿泊したと云います。
その為、古河城には珍しく、御成門には石垣も積まれていたそうです。

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渡良瀬川の堤防上に建つ本丸跡の碑。

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本丸や三ノ丸を左右に横切っている黒い線が、明治末期からの河川改修で築かれた堤防や道路で、その上は河川敷や川の流域に変貌してしまいました。

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御三階櫓が建っていたであろう地点を眺める・・・も、もはや往時を偲ぶよすがもありません。

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こうした威容を見てみたかったという思いはありますが、こればかりは致し方ありませんね。

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古河公方・足利成氏が城(御所)の鬼門守護のため、鎌倉の長谷寺から勧請したのが始まりとされる長谷観音にもお詣り。

そう、古河といえば古河公方
ということで・・・

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古河公方鴻巣館跡(古河公方公園)へ。
古河公方鴻巣館(鴻巣御所)は、御所沼と呼ばれる沼地に突き出た小高い舌状の台地上に築かれていました。

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その台地の縁部分(北側)。なんとなく切岸になっているようにも見えました。

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台地上には、江戸期の古民家も移築されています。

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古河公方館址
享徳4年(康正元年/1455)に鎌倉を放棄して古河に移った足利成氏は、この地に館を構え、2年後には整備を終えた古河城へ移りました。
しかし鴻巣館は成氏以降も、政氏・高基・晴氏・義氏と代を重ね、最終的には義氏の娘・氏姫の居館として江戸時代初期まで、約150年もの長きに渡って存続していたそうです。

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石碑の奥には堀切のような痕跡も。

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堀切を渡る土橋・・・か?

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図を見る限り、台地の先端方向にもう少し遺構がありそうな感じでしたが、下草にも阻まれてこれといったものは確認できませんでした。
しかし、現代に伝えられる古河城の痕跡が近世の改修・拡張を経て足利氏時代の面影を失っている中で、鴻巣館跡の遺構は貴重な「古河御所遺跡」といえるかもしれません。

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台地の先端方向から振り返る鴻巣館跡と御所沼。

さて、今回の古河めぐりはこの辺で終了です。
本当に久しぶりな史跡めぐり。ドライブも合わせて、とてもいい気分転換になりました。

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