カテゴリー「お城、史跡巡り 関東」の95件の記事

2017年11月 5日 (日)

「佐野の城館跡」展

2017110401
佐野市郷土博物館(栃木県)へ行ってきました。

2017110402
佐野市は、足尾銅山鉱毒事件を明治天皇に直訴したことで知られる田中正造の出身地とあって、玄関前には銅像が建ち、彼に関する品々専用の展示室も設けられていましたが・・・

2017110403
私のお目当てはこちら。
佐野市で第24回 全国山城サミット in 佐野唐沢山城跡/2017年11月25~26日)が開催されることを記念して開かれている企画展佐野の城館跡です。
同展で展示されている中でもとりわけ;

波に巻子形兜号 龍綺/唐沢山神社蔵)
上の写真、「佐野の城館跡」展の看板にも載せられている兜です。

信長公ヨリ拝領之
天正三乙亥九月
秀吉公筑前○○為祝
天徳寺賜之者也

※○部分は失念してしまいました…m(_ _)m

天正3年(1575)、秀吉が筑前守に任官した御祝いとして(?)織田信長から拝領し、後に秀吉から天徳寺宝衍佐野房綱)に与えられ、更にその家臣の福地氏へと渡りました。
※この福地氏、今回の企画展に展示されていた佐野氏の書状や判物などにも、その宛所として数多く見受けられました(福地出羽守、福地帯刀、etc...)。

2017110404
山城サミットのロゴのさのまるくんも被っていますね。

甲冑金具 号 避来矢(唐沢山神社蔵)
佐野氏の祖とされる藤原秀郷(俵藤太)が、三上山の百足退治のお礼として琵琶湖の龍神から贈られた宝物の一つ(他に「米の尽きることのない俵」など)とされる甲冑の金具。実際には秀郷の時代よりも少し新しい時期のもの、とする説もあるようですが。
百足退治のお話も伝説に過ぎませんが、秀郷は平将門追討(天慶3年/940)の功で下野守・武蔵守・鎮守府将軍に任ぜられています。
今回は鉄十五枚厳星兜鉢小札壺板(脇楯の上部にある右の脇壺にあてる鉄板)の部分が展示されていました。

以上の2つを特に拝観したく、愛車で駆けつけたのでした。

企画展のタイトルにもなっている城館跡については、詳細に触れているのは唐沢山城や佐野城くらいで、その他は簡単なパネル展示が中心の構成になっています。
もう少しそれぞれの城館の位置関係やその意義、遺構の見所などについてわかり易く解説してあるといいのかなぁ、とも思いました。
※あくまでも個人の感想です。

私は別の遠征が入っていて参加できませんが、山城サミットの成功をお祈りしております。

最後に佐野厄除け大師にも立ち寄り、大師おみくじ(大吉!)を引いてから帰路につきました。
最近は電車旅が続いてあまり乗れていなかったので、愛車にもいい運動になったかな。

| | コメント (0)

2017年10月 6日 (金)

北関東のスパルタ城めぐり (群馬編)

ゆっきーを迎えての北関東城めぐり、続いては群馬編です。

20170924b01
この日4つめのお城は金山城
こちらも8年ぶり2度目の訪問になります。
の駐車場までは車で登り、まずは左の見附出丸から順に観ていきます。

20170924b02
山麓側から見附出丸への土橋と虎口。
土橋の両サイドは堀になっています。

20170924b03
出丸側から城外・・・頼みもしないのに土橋でポーズをとる赤い人。

20170924b04
「見附塹壕」の標識のあった遺構・・・喰違虎口の堀切と土塁です。
一部、石積みも残っていました。

20170924b05
遊歩道とは別に、古い城道も(右)

20170924b06
西矢倉台西堀切

20170924b07
物見台下堀切に架かる通路

20170924b08
物見台下堀切
剥き出しの岩盤の上(右)が、物見台になります。

20170924b09
馬場
奥に物見台、その先が堀切になっています。

20170924b10
馬場曲輪の先の大堀切・・・と赤い人。

20170924b11
月ノ池
その先、右斜め奥へのルートが大手虎口。

20170924b12
月ノ池付近から斜面下を見下ろす。
発掘調査でも進めているのでしょうか・・・遠目に石垣らしきものも見えていました。

20170924b13
大手通路を進みます。
石垣を復元したエリアですね。

20170924b14
大手通路を振り返る。

20170924b15
日ノ池
前回はここまでで満足して帰ったな、確か…(^_^;)

20170924b16
現存石垣を求め、本丸(右)と二の丸間の堀切を進む。
・・・中央奥に見えるものについては、もう何も言わない(笑)

20170924b17
本丸切岸に残る石垣

20170924b18
}こちらにも。

20170924b19
本丸には新田義貞を祀る新田神社

この後は北城を目指し、尾根を少し下ります。

20170924b20
本丸北側の尾根を少し下った先にあった堀切。
更に少し進むと・・・

20170924b21
坂中城址(北城)の石碑が建っており、周辺には数段の曲輪跡が残っているようなのですが・・・如何せん藪が酷くて探索を断念。

金山城・・・唐沢山城同様、改めていいお城だなと実感する再訪でした。

またまた移動し、この日5つめのお城は・・・

20170924b22
桐生柄杓山城です。
駐車スペースから、割と緩やかな山道を5分少々も登ると三の丸へ到達します。

20170924b23
ルートに沿って登ると最初に出迎えてくれる、三の丸手前の堀切。

20170924b24
三の丸の南脇には、横堀らしき痕跡も見受けられました。

20170924b25
三の丸には、その横堀へ下りるための虎口らしき折れを伴った溝状の遺構も・・・
写真手前から奥に向かい、そこで右へ折れて右下の横堀に繋がっていたのですが・・・写真では伝わらないですよね(^_^;)

20170924b26
反対側から・・・奥から手前へ向かって左に折れて下っている様子を汲んでいただけると幸いです、忖度で(笑)

20170924b27
三の丸と二の丸間の堀切
ここから北曲輪の尾根へ進みます。

20170924b28
北曲輪の堀切・・・1本目。

20170924b29
そして2本目。
堀切の先には馬出状の小さな曲輪があり、三方を土塁で囲まれています。
(赤い人の右手方向です)

この後は主郭部の尾根に戻り、本丸北面の切岸を這うように回り込みながら石垣を探しましたが・・・残念ながら見つけられませんでした。

20170924b30
本丸

20170924b31
本丸下の横堀状の溝(西側)

桐生柄杓山城、なかなか見応えのある城跡でした。

さて・・・桐生柄杓山城を無事下山した後は、とりあえず高崎方面を目指しつつ作戦タイム。
残る候補先は膳城・大胡城・箕輪城など・・・日曜夕方の上り渋滞と、ゆっきーの帰りの新幹線の時間を考慮しつつ、
(ゆっきーが一番行きたい)箕輪+何城追加できるか、、、
箕輪だけに絞るか、、、
いや箕輪までの移動時間+見学所用時間を考えると、今回は箕輪を諦めて他の城にすべきでは、、、
などと(こばたかさんの頭の中で)葛藤を繰り返した結果、結論としては膳城をラストに攻めて〆よう、ということになりました。
・・・うん、この時点では確かにそうなっていたはず。←

20170924b32
という訳で膳城
天正8年の武田勝頼による素肌ぜめの伝承で知られるお城です。本丸、及び二の丸跡の周囲に遺構が残っているようです。

20170924b33
本丸

20170924b34
本丸から見下ろす横堀

20170924b35
二の丸西側の土橋と横堀

20170924b36
一つ前の写真の横堀のすぐ外側にももう1本、並行するように横堀が走っていました。
この一帯は横堀が複雑に入り組んでいて、二の丸の西から北へかけては堀が二重に連なり、その間の空間は帯曲輪のようになっていたのかもしれません。

20170924b37
その帯曲輪状の土塁から。
写真では捉えきれていませんが、左右両方に横堀が通っています。

現在に遺構の残る城域こそ狭いものの、堀や土塁、切岸の規模はなかなか見応えのあるものでした。

さぁ膳城攻めも終え、ゆっきーを迎えての北関東の城攻めも、これにて無事終了~!!
汗だくになったシャツも着替えたし、あとは事故なく無事に帰るだけ・・・

とはスンナリ行かないのがこばたか流
ええ、そうでしたね・・・去年も2度3度と翻弄されましたよね、そういえば・・・もう着替えちゃったよ(笑)

20170924b39
という訳で、まだイケる!と判断したこばたかさんによって連行されました・・・追加の山上城
ま、膳城のすぐ近くだしね。

20170924b40
山上城の模型・・・でいいのかな。
手前の広い空間が三の丸で、奥へ進むに連れて二の丸→本丸(→北郭)と配置されています。

20170924b41
三の丸は芝生の広場になっていました。
この広場を横切っていくと・・・

20170924b42
なかなか綺麗な横堀が取り巻いていました。

20170924b43
その堀底。

20170924b44
二の丸側から、少し高くなっている本丸の切岸を見る。
赤い人の先には薄っすらと、横堀のような痕跡も残っていました。

20170924b45
本丸から見下ろす北郭。
北郭を囲む横堀も綺麗に見えて、なかなか格好いい眺めです。

20170924b46
その北郭の横堀。

まさかの延長戦でしたが結構楽しい城跡でした、山上城。

この日、1日でめぐったお城の数:7城。
唐沢山や金山といった規模の大きなものもフルでめぐっているので、なかなかにハードでした・・・ホントにドSなんだから(笑)

なんだかんだとイジリ倒しましたが、早朝のお迎えから運転、城の選択、資料の準備まで、こばたかさんには本当にお世話になりました。ありがとうございます。
ゆっきーもまたいらっしゃい、関東へ・・・次はもう少し上手な作戦を考えて話を通しておくから(笑)

| | コメント (2)

2017年10月 5日 (木)

北関東のスパルタ城めぐり (栃木編)

今回は岐阜から遊びに来たゆっきーのリクエストで、北関東の城めぐり。
栃木の唐沢山城や群馬の金山城を中心に、時間を見ながらの行程となります。関東周辺の山城に詳しいこばたかさんにアテンドをお願いしました。
・・・で、そのこばたかさんから指定された集合時間は、なんと早朝の5:30(笑)
城に行ける日は時間の許す限り、徹底的に詰め込んでくる人だからなぁ~去年も群馬や千葉で大変な思いをしたし(笑)
そんなこんなで不安を抱えつつ、誰も寝坊することはなく無事に出発。朝7時過ぎには・・・

20170924a01_3
本日の1城目、唐沢山城に到着。
藤原秀郷の子孫を称する佐野氏の居城で、上杉謙信による度重なる攻城戦でも有名なお城です。
個人的には8年ぶり2度目の再訪。

20170924a02_2
駐車場脇の枡形(喰違)虎口
ここから城攻めをスタートします。

20170924a03_2
天狗岩

20170924a04_2
大炊の井

20170924a05_2
避来矢権現山の腰曲輪(組屋敷)から三の丸方向。
間を大きな堀切が分断しています。

20170924a06_2
その堀底
奥に見える神橋の更に先へ進むと・・・

20170924a07
そのまま竪堀として落とされていました。

20170924a08
二の丸北側の枡形虎口

20170924a09
本丸下の高石垣(南西面)

20170924a10
唐沢山城といえば、真っ先に思い浮かべる有名なポイントですね。

20170924a11
本丸に建つ唐澤山神社
祭神は佐野市の祖・藤原秀郷

20170924a12
本丸周辺の石垣(南東面)
横矢が掛けられている様子も見て取れます。

20170924a13
東方(北東)の尾根を進み、杉曲輪から平とや丸との間の堀切を見下ろす。

20170924a14
平とや丸の先にも綺麗な堀切がありました。

20170924a15
本丸方向へ戻り、今度は南城へ。
南城の周囲にもいい石垣が残っています。

20170924a16
南城の二の郭との間の堀切を行く。
写真の右方向が二の郭になります。

20170924a17
久しぶりの訪問でしたが、やはりいいお城でした。

唐沢山城の次は足利氏館の予定でしたが・・・

20170924a18
ゆっきーがたまたまプレー中の位置情報ゲームでみつけた赤見城へ寄ってみることに。

20170924a19
本丸の土塁や堀がいい状態で残っていました。

20170924a20
土塁に開けられた不思議なトンネル。
あちらを潜って本丸内へ入ると中は保育園の敷地になっていますが、周囲の土塁上は歩くことができます。

20170924a21
それにしても、想定外に見事な土塁や堀です。

20170924a22
本丸内
保育園の周囲を、土塁が綺麗に囲んでいる様子が見て取れます。

20170924a23
この後も度々登場することになる赤い人(こばたかさん)のシルエットで、堀の深さや土塁の規模を推し量ってください(笑)
思わぬ収穫でした、赤見城。

20170924a24
3城目は足利氏館(鑁阿寺)
ここに来るまでの車中では、山城を優先して足利氏館をパスしたいこばたかさんと、何としても足利氏館や足利学校へ行きたいゆっきーの間で、それは激しい攻防戦が延々と続いていたのでありました…(笑)
ちなみにこちらは、5年ぶり2度目。

20170924a25
鑁阿寺本堂
足利尊氏の父・貞氏により、1299年に再建された国宝建築です。

20170924a26
八幡太郎源義家の子の義国、及びその子で足利氏の祖となる義康の居館跡で、義康の子・義兼が1190年代に居館を移し、その跡に鑁阿寺を開きました。

20170924a27
周囲には今も、堀や土塁が廻らされています。

20170924a28
鑁阿寺から足利学校へ向かう途中で見かけた足利尊氏像。
尊氏は、鑁阿寺を開いた義兼から数えて7代目の子孫にあたります。

20170924a29
日本最古の学校とも称される足利学校

20170924a30
入館料を支払うと入学証をいただけます。

20170924a31
庫裏と方丈

20170924a32
内部を見学

20170924a33
方丈から見る孔子廟

20170924a34
足利学校俯瞰
あ・・・早く次の山城へ移動したくてウズウズしている赤い人が写っている(笑)

さ、それでは移動しますか。
次は群馬県に入って、まずは太田市の金山城へ向かいます。

※群馬編へつづく

| | コメント (2)

2017年8月16日 (水)

高麗神社と高麗家住宅

冴えない天候が続いた2017年の盆休み。
(私にとっての)最終日となる8月15日もあいにくの雨模様でしたが、退屈しのぎにぶら~っとドライブしてきました・・・道中、豪雨に見舞われて大層難儀しましたけど(・・;)

2017081501
向かった先は埼玉県日高市にある高麗神社
数年前、すぐ近くの聖天院を訪れた際に高麗郡の歴史にも少し興味を持ち、機会があればお参りしてみようと思いつつ、今に至りました。
祭神は高麗王若光。明治中期まで現在の日高市や鶴ヶ島市などに跨って存在していた高麗郡の、初代郡長となった人物でもあります。

唐からの圧力を受けて情勢が逼迫する中、高句麗は666年、大和朝廷へ5月と10月の2度に渡って使節を派遣しています。その折の使節として、日本側の記録である「日本書紀」に「若光」の名が見えます
高句麗は結局、唐・新羅連合軍に攻められて667年に滅亡したため、使節として日本を訪れていた若光の帰国は叶わず、二度と再び故国の地を踏むことはありませんでした。
高句麗滅亡と前後し、多くの高句麗人も渡来しています。

2017081502
そんな高句麗からの渡来人ゆかりの神社とあって、境内には朝鮮半島に多く見られるという将軍標(道祖神/村落の境界標)も建っています。

2017081503
御神門を通って御本殿参拝へ。

2017081504
御本殿(御社殿)

2017081505
高麗郡建郡千三百年高麗王若光の記念碑

乙未 従五位下高麗
若光賜王姓

「続日本記」大宝三年(703)四月の条

訳)乙未、従五位下高麗若光に王の姓を賜ふ。
※「王」(こにきし)の賜姓は、若光が高句麗の王族一員だったためと考えられています。

辛卯 以駿河 甲斐
相模 上総 下総
常陸 下野七國高麗
人千七百九十九人
遷于武蔵國 始置
高麗郡焉

「続日本記」霊亀二年(716)五月の条

訳)辛卯、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の七国の高麗人千七百九十九人を以て、武蔵国に遷し、高麗郡を置く

ここにある通り、大和朝廷は若光に「王」姓を与え、716年には東国各地に散住していた高句麗からの渡来人1,799人を武蔵国に集めて高麗郡を設置しました。
昨年(2016)がちょうど建郡1300年の節目にあたり、こちらはその記念に設置された石碑のようです。

若光の没後、高麗郡の人々は若光を日本の神式でも祀ることにし、これが高麗神社の始まりとされています。
以来、若光の子孫とされる高麗氏が代々宮司を務め、1300年近くを経た現在は第60代を数えます。

また、すぐ近くの聖天院(旧勝楽寺/若光の菩提寺)にも、若光を祀る高麗王廟があります。
(⇒参照記事

2017081506
御本殿裏に保存されている高麗氏の旧宅。
慶長年間(1596~1615)の築と伝わります。
※内部見学には事前申請が必要。

2017081507
祖国を追われた人々が、遠く離れた日本の東国で紡いできた1300年もの長き歴史。
聖天院と合わせて訪れることで、そのほんの一端には触れられたような気がしてきます。

| | コメント (0)

2017年7月30日 (日)

早川城

雨のパラつく日曜日、新車の慣らし運転がてら、神奈川県綾瀬市までドライブしてきました。

2017073001
向かった先は早川城跡
夏場の城攻めは何かと苦労が付き物ですが、ここは城山公園として整備されており、且つ駐車場も完備で、ちょっとしたドライブついでには最適♪

早川城は南北に伸びる舌状台地の先端部(南)に築かれた城跡で、その築城は鎌倉期の御家人・渋谷氏によるものと考えられています。
また、この台地上からは縄文期の土器や竪穴式住居跡も発掘されているようです。

2017073002
公園北側の駐車場に車を停め、南へ向かって進むとすぐに台地を分断する堀切と、それに架かる土橋が現れます。

2017073003
土橋上から西側の堀切。

2017073004
そして東側の堀切。
想像以上に規模の大きな堀切でした。
写真右手側が主郭になりますが、その土塁もなかなか立派なものです。

2017073005
主郭は公園として綺麗に整備されていますが、かなりの広さがあります。

2017073006
主郭、物見塚の上に建っていた東郷氏祖先発跡地碑
旧海軍元帥・東郷平八郎は、渋谷氏の末裔でもあったようです。

2017073007
舌状台地の先端方向。
左手には主郭東面の土塁がうっすらと残ります。

2017073008
主郭西面下、腰郭を覗く。

2017073009
舌状台地先端の下にも、腰郭らしき平坦地が。

2017073010
その舌状台地を南東側から。
早川城山公園は住宅地にあり、駐車場から歩いてくると分かりづらいのですが、こうして見るとかなりの要害の地に築かれていたことが分かります。

2017073011
同じく北東側から。

早川城跡。見応えのある遺構としては、最初にご紹介した堀切くらい・・・かな。
この日はあいにくの空模様でもありましたが、しかし地形も合わせて見ていくと、ちょっとした散策ついでとしては楽しめました。

| | コメント (0)

2017年7月26日 (水)

「戦国!井伊直虎から直政へ」展

2017072501
江戸東京博物館で開催中の特別展戦国!井伊直虎から直政へに行ってきました。
無論、2017年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」に合わせた開催で、多くの来館者で賑わっていました。
ドラマで描写された歴史やエピソードを、実際の史料等でより深く知るにも、いい展示構成だったと思います。

いつもの如く、個人的に印象に残ったものを独断と偏見?でピックアップすると・・・

寿桂尼朱印状
(とつぐ)の朱印がしっかりと捺されていました。

・雪斎の袈裟
臨済寺で拝観した時は畳まれていましたが、今回は広げて展示されています。

刀 無銘 伝左
通称「織田左文字
「享保名物帳」に「信長公御物御二男信雄卿へ進せらる如何なる伝なるか掃部頭殿に有り、」とあり、織田信長から信雄を経て井伊直政へと渡ったことが知れます。
関東大震災で焼けてしまいましたが、改めて鍛え直されて現在の姿に復元されています。
※信長が桶狭間で今川義元を討って手にした「義元左文字」とは別。

井伊家伝記
有名な「次郎法師ハ女にこそあれ井伊家の惣領に生候間~(云々)」の頁を開いて展示されていました。

井伊直虎・関口氏経連署状
いわずと知れた、「直虎」の署名が現存する唯一の史料。

2017072502
青葉の笛
小野政直の死を受け、逃亡先の信濃から井伊谷へ戻ることになった井伊直親が、寺野八幡(寺野六所神社)へ奉納した笛です。

今川氏真判物(永禄3年8月5日・龍潭寺)
桶狭間合戦の直後に出されたもので、井伊直盛の討死を受け、「直盛寄進の通りに」と龍潭寺の権利を保証した禁制のような内容。
合戦で当主を喪った国衆や関係先への、大名のフォローが垣間見えるようで興味深かったです。

井伊谷徳政に関連して・・・
匂坂直興書状(蜂前神社)
(永禄10年6月30日/同12月28日/永禄11年1月25日/同8月3日)
関口氏経書状(永禄11年8月4日)
徳政の実現に向けて駿府で交渉を続ける匂坂直興が、祝田の禰宜に向けて刻々と交渉経過を報告している内容。
関口氏経の書状は直虎(次郎)や井伊家家中(写)に対し、徳政の実行を迫る内容になっており、件の「井伊直虎・関口氏経連署状」と合わせ、井伊谷徳政に関連した人々の“裏の動き”が垣間見えて非常に興味深い内容になっています。

本多忠勝像
9度も描き直させてようやく得心したという肖像画だけに、かなり忠勝本人を忠実に再現しているかも?

黒糸威胴丸具足(鹿角脇立兜)
上の肖像画でも着用している、「本多忠勝といえばこの兜(甲冑)」ともいうべき一領。

他にも今川氏や井伊氏の歴代当主木像や、栄華を偲ばす茶器・武具、徳川家に関する展示史料なども豊富でした。

東京での開催は8月6日までですが、静岡や彦根でも開催を予定しているようなので、戦国好きや大河ドラマをご覧になっている方には是非、足を運んでみることをお薦めいたします。

| | コメント (0)

2017年5月24日 (水)

碓氷峠…新発見の陣城と旧中山道

5月20日(土)
愛車を駆って一路、軽井沢へ。

2017052001
旧軽井沢駅舎
特に渋滞もなく、自宅から2時間ちょっとで到着しました。

今回の目的地は信越国境の碓氷峠
この一週間ほど前に、「碓氷峠付近の旧中山道沿いで、新たな山城(陣城)跡が発見された」とのニュースが流れてきました。
少ない情報を元にtwitter上で城仲間と場所の推定をしているうち、「実際に行ってみよう」ということになっての今回の遠征。
プランとしては峠の新発見陣城跡から、そのまま旧中山道を群馬県側へ碓氷湖(坂本ダム)まで下り、道々の旧街道の名残を楽しみつつ、他に砦などの痕跡がないか確認する、というもの。
同行者と軽井沢駅で合流し、総勢4名で碓氷峠へ向かいます。

2017052002
旧中山道碓氷峠、その頂上に鎮座する熊野皇大神宮(以下、熊野神社)。
参道の石段から手前へ、真っ直ぐ赤いラインが引かれていますが、これが長野(左)と群馬(右)の県境
また、熊野神社は安政2年(1855)、安中藩主の板倉勝明が、藩士らを安中城から碓氷峠まで走らせた「安政遠足」の決勝点でもあります。

今回発見されたという陣城跡は、この熊野神社から東へ250mほどとのことなので、旧中山道を群馬県側へ下ります。
旧中山道は群馬県側へ下り始めるとすぐに舗装路が切れ、未舗装の林道に入っていきます。

2017052003
そのまま林道を少し進むと、上写真の分岐点に至ります。右へ少し下るのが旧中山道ですので、ここは右へ。
ちなみに左は幕末、皇女和宮降嫁の際に開かれた道(和宮道)のようです。

2017052004
和宮道との分岐点付近には、熊野神社神宮寺の仁王門跡の碑が建っていました。

2017052005
一つ目の分岐点のすぐ先に、もう一つ林道との分岐点が出てきます。
ここは左が旧中山道。今回発見された陣城跡は、この分岐した道の間に位置しています。

さて、私には絵心というものが全くございませんので、図面を載せることは叶いません。
苦肉の策として、言葉で縄張の概略を示しておきたいと思います。

まず、城跡は上写真の分岐の先、旧中山道側に沿って楕円状に展開しています。
■手前(峠側)に竪堀(堀切?)、その先に曲輪が3つ、旧中山道に沿って群馬県側へ縦に並ぶ。
(仮に峠側の北西から南東へ向かって曲輪A→同B→同Cとする)
■曲輪Cからは曲輪Bの北東へ回り込むように腰曲輪状の削平地が開けており、その下段にも腰曲輪あり。
■上段腰曲輪の先端(北)、竪堀の手前に下段腰曲輪~旧中山道へと続く枡形虎口あり。

大雑把に言葉で説明すると、こんな感じになるでしょうか…(^_^;)

2017052006
我々は先ほどの分岐を旧中山道ではなく、右の林道側へ少し進み、城跡の南側からアプローチしました。
写真は、その林道(南)から城跡を見た様子・・・窪地の先に曲輪A(左手前)、B(右奥)の土塁が見えています。

2017052006b
また、曲輪BCにかけての手前(南)側には横堀(竪堀?)も残っていました。

2017052007
曲輪A(左)とB(右)間の堀跡

2017052008
曲輪BからAの方角
墓地を囲うように南面から西面にかけて、土塁がL字型に残っていました。
また、やはり曲輪Aにも土塁が南面から西面にかけてL字型に残っています。
AB両曲輪で同じような残り方をしているのは、他の面には土塁が存在しなかったというよりは、後世の何らかの意図(墓地整備など)による改変かもしれません。

2017052009
曲輪BよりCを見る。

2017052010
反対に、曲輪CからB
曲輪Cは土塁がごく一部しか残存していないため不明瞭ですが、曲輪Bとの間もやはり横堀のようになっていたのかもしれません。

2017052011
曲輪CからBの北東側を回り込む腰曲輪。右下にもう一段見えています。
この上段の腰曲輪を北西方向へ進んだ先に・・・

2017052012
枡形虎口があります。
写真は斜め上から俯瞰気味に撮影したものです。

2017052013
上段腰曲輪から見る枡形。
正面突当りで右に折れて、下段腰曲輪に出ます。

2017052014
下段腰曲輪から枡形を振り返る。

2017052015
ルートとしては下段腰曲輪に下りて更に右に折れ、その先で左に曲げて(日影と日向の境目付近)旧中山道に通していたようです。

2017052016
枡形の西側に切られている竪堀

2017052017
この竪堀はそのまま、旧中山道まで落とされています。

2017052018
竪堀と旧中山道の合流点。
こうして見ると旧中山道が、まるで横堀のようでもあります。

新発見の陣城跡・・・これは全くの個人的な感想ですが、ロケーションや旧中山道からの導線、枡形の受け方などから察するに、なんとなく東の方角へ意識が向いていたように感じます。
そういった意味では新聞報道にもあったように、天正18年(1590)の小田原攻めに於いて、松井田城を攻める豊臣方(北国軍)の後方拠点という見方でも無理はないのかなと思えます。
※但し、碓氷峠は上信国境の要衝であり、それがために時代を問わず、こうした軍事施設が築かれていた可能性もありそうなので・・・難しいですね(^_^;)
いずれにしても、なんらかの軍事施設、陣城・砦であったことは確かだと感じました。

2017052019
城跡脇を通る旧中山道
この付近から東へ向かって結構な下り坂が続いており、その名も「長坂道」と呼ばれていたようです。
引き続き、この旧中山道を群馬県側へ下っていきます。

2017052020
新発見陣城から少し下った先にも面白いものがありました。
写真右側の斜面は旧中山道に沿って切岸状に削り落とされた絶壁になっており、その上部を仰ぎ見ると、、、

2017052021
数段の小曲輪が階段状に並んでいるように見えました。
(実際に登った同行者によると、やはり削平されたような痕跡があった、とのこと)

2017052022
また、その絶壁の先端部には裏へ回り込めるように細い道が付けられており、実際に絶壁の裏側へ回り込んでみると、綺麗に削平された平場がありました・・・まるで街道(を通る敵)から、絶壁に守られるかのように。

2017052023
平場の奥には谷が入り込み、その先には古い道の痕跡が続いていました(写真右上部分)。
後方に控える新発見陣城の物見的な出城か、或いは江戸期の番所のようなものがあったのかもしれない・・・などと想像を膨らませました。

引き続き旧中山道歩きへ・・・

2017052024
また旧道沿いに不思議な痕跡が出てきました。

2017052025
古道らしき痕跡が複雑に入り組んでいるため、幾つものコブのような小山ができていますが、旧中山道とは高低差もあり、いずれの古道も旧中山道には繋がっていませんでした。

2017052026
小さな沢に出ました。
旧中山道はこの沢を渡っていたようです。

2017052027
沢の畔に人馬施行所跡
施行所とは何ぞや?と思いましたが、どうやら呉服商が文政11年(1828)に建てた、人馬のための休憩所があったようです。

2017052028
沢を渡ってしばらくすると、峠で分岐していた和宮道との合流ポイントに出ました。
写真左がここまで歩いてきた旧中山道で、右が和宮道。
看板を見るに現在、毎年5月に開催されている「安政遠足 侍マラソン」では、どうやら和宮道のコースが採用されているようですが、和宮降嫁は文久元年(1860)。安政遠足催行よりも後のことになりますので、実際の安政遠足では旧中山道を通ったものと思われます。
※峠からここまでの旧中山道は道幅も狭く、現代人を走らせるには危険な箇所も随所にありましたので無理もないですね…(^_^;)

2017052029
そしてこの和宮道との合流地点には、ご覧のような案内板も設置されていました・・・そう来たら、確認しない訳にはいかないでしょ(笑)

2017052030
陣場が原の旧道沿いには、子持山がそびえています。
この付近が度々戦場になっていたのであれば、子持山にも何かしらの痕跡があるのではないかと思い、登ってみたのですが・・・写真のような岩場が点在する細尾根で、遺構と思しきものは一切見受けられませんでした。

2017052031
引き続き、和宮道と合流した旧中山道を歩きます。

2017052032
・・・いろいろとツッコミどころ満載一つ家跡の案内板(^_^;)

2017052033
その足元には別の、朽ちた古い案内板も転がっていたのですが・・・書いてあることが大分違うんですけど?(笑)

2017052034
山中坂

2017052035
山中茶屋跡

碓氷峠から群馬県側の麓までの、ちょうど中間に位置しています。
坂本宿(群馬県側)から登ってきた旅人は、この先に山中坂の急坂を控えていますので、必ずこちらの山中茶屋で休憩を入れたそうです。それが茶屋の発展にも繋がりました。
明治期には小学校も建設され、明治天皇御巡幸(明治11年)の際には、当時の生徒数が25人だったことから25円(現代の50万円相当か)の奨学金が下賜されたそうです。

2017052036
山中茶屋の外れにあった馬頭観音。

2017052037
二重の痕跡を留める旧中山道。
我々が歩いてきた道は左ですが、右の上段部分も明らかに古道ですね。

2017052038
旧中山道からの眺め。
遠くに見えるは・・・妙義山かな?

2017052038b
それにしても碓氷峠の古道遺構はスケールが大きい・・・このクラスの堀割遺構が延々と続いています。

2017052039
明治6年に設置され、「交番」のはじまりとされている見回り方屯所があった栗が原

2017052040
栗が原の近くには、旧中山道から分岐する明治天皇御巡幸道路もありますが、現在は崩落により立入禁止。

2017052041
座頭ころがしの急坂。

2017052042
座頭ころがしの堀割も・・・ご覧の規模。

2017052044
座頭ころがしの坂を下った先には、旧中山道と平行する尾根上に中世東山道の痕跡も残っています。
近くには、小山を切り開いて築かれた東山道の一里塚があるとのことでしたが・・・これかな?

2017052045
北向馬頭観音
文化十五年四月吉日

2017052046
南向馬頭観音
寛政三年十二月十九日

2017052047
さて・・・いよいよ土橋が見えてきました。

2017052048
天正18年、豊臣秀吉小田原攻めに備え、松井田城主・大道寺政繁が築いたと云う堀切(大道寺堀切)。
写真左側は確かに掘り切られていましたが、右側は・・・崩れて薄くなったのか、あまり人工的な堀切感はありませんでした。

2017052049
堀切を少し過ぎて振り返った様子。
防衛線として堀切を築いたということは、他にも防御のための施設が周辺にあったとしてもいいのではないか?と思い、旧中山道の左に写る斜面上にも登ってみたのですが・・・

2017052049b
そこにあったのは、これまた古道跡と思しき痕跡。
もしかするとこれも、先ほど触れた東山道の名残かもしれません・・・。
仮に東山道とすると、大道寺政繁が堀切を築いた当時、碓氷峠越えの主要道として用いられていたのはこちら。
旧中山道よりも高所を通り、堀切の手前で一気に下る・・・その高低差も含めた防御施設(意図)だったのでしょうか。

2017052050
碓氷坂の関所跡
設置されたのは・・・昌泰2年(899)!?

2017052051
刎石茶屋跡の石垣
四軒の茶屋が並んでいたことから、別名「四軒茶屋」とも。

2017052052
弘法大師の「ここを掘れば水が出る」との指示で掘られたと云う、弘法の井戸

2017052052b
弘法の井戸付近にも、旧中山道を取り巻くように古道の痕跡が散見されました。
写真は弘法の井戸から少し下った先、旧中山道脇を見上げた様子・・・まるで横堀のようにも見えます。

2017052053
刎石溶岩にできた風穴。
湿った風が吹き出すということでしたが・・・?

2017052054
また古い馬頭観音が出てきました。

2017052055
」と呼ばれるビューポイントから、山麓の坂本宿を・・・覗く(笑)
小林一茶も;
坂本や 袂の下の 夕ひばり
と詠んでいます。

2017052056
十返舎一九が;
たび人の身をこにはたくなんじょみち、石のうすいのとうげなりとて
と書き記した難所(なんじょ)、刎石坂(上り地蔵下り地蔵)に差し掛かりました。

2017052057
石の・・・」と表現されるだけあって、土止めの石垣は壮観でした。

2017052058
刎石坂にもあった馬頭観音

2017052059
大日尊に南無阿弥陀仏碑

2017052060
柱状節理の岩盤
※こちらの岩盤脇には、竪堀状の深い溝が切られていましたが・・・詳細は不明です。

2017052062
刎石坂では、他にも不思議な岩盤層が多く見受けられます。

2017052063
ゴロゴロと転がる石には足首を取られ、かなり難儀しましたけど・・・まさに難所道。

2017052064
念佛百萬遍

2017052065
旧中山道はこの先、堂峰番所跡を経てすぐに国道18号へ出ますが、その前にちょっと寄り道。
写真中央部分で旧中山道を左へ逸れ、愛宕山城へ向かいます。

2017052066
愛宕山城の土塁と横堀(北西面)・・・ド藪(^_^;)

2017052067
とりあえず時計回りに横堀を1周してみます。

愛宕山城は、土塁と横堀をグルッと廻らせた単郭方形型の城で、東の角は出隅状に突き出させ、南西角には馬出を備えていたようです。

2017052068
東角の出隅部分の土塁
左側が曲輪内になるのですが、とにかく藪が酷かった・・・。
それでも出隅部分は他に比べて幾分マシで、辛うじて形状を確認することができました。

2017052069
南東面の横堀

2017052070
馬出も藪々・・・馬出にも横堀が残っていましたが、この藪では写真はどうにもなりません。

2017052071
馬出の先に建っていた梵字に「石壇(安永七年)」の石碑。

愛宕山城…もう少し藪が枯れてくれれば、規模の割には見応えのあるお城なのではないでしょうか。
旧中山道に戻ります。

2017052072
堂峰番所跡の案内板付近にあった石積。

2017052073
谷を挟んだ対岸にも、二段の立派な石垣が残っていました。

2017052074
さて、ついに国道18号まで下ってきました。
「熊野神社」から「現在地」まで、ほぼ赤い点線に沿って歩いてきたことになります。

2017052075
国道を碓氷湖(坂本ダム)目指して歩いていると、左手には竜駒山狼煙台が見えます。

2017052076
碓氷湖の畔、旧信越本線トンネルと架線跡

2017052077
旧信越本線はここから更に峠を登り、軽井沢へと向かっていたのですね。

2017052078
碓氷湖
対岸に見える山は坂本城(城の峯城)の城山です。

2017052079
さて、ラストは旧信越本線の碓氷第三アーチ、通称「めがね橋」。

2017052080
煉瓦造りのレトロ感が堪りません。

2017052081
第三アーチから続くトンネル。

2017052082
トンネル内はとても涼しく、暑い日の散策にはもってこいでした♪←

2017052083
アーチ橋上からの眺め。

2017052084
アーチ橋の上、アプトの道。
碓氷峠の急勾配を登るために採用されたアプト式・・・タモさんの例の番組でもやってましたね(笑)

煉瓦造りのめがね橋・・・前々から気にはなっていたので、訪問叶ってラッキーでした。

2017052085
最後は軽井沢駅で解散、私は愛車で帰宅の途に就きました。
帰りも渋滞に巻き込まれることなく、順調なドライブ。良き休日になりました♪

| | コメント (0)

2016年12月25日 (日)

お城EXPO 2016 (12/24)

2016122401_2
12月24日、パシフィコ横浜で開催されたお城EXPO 2016(12/23~25)に足を運んできました。

2016122402_2
会場ではいきなり、4月の震災による石垣崩落で発見された熊本城の、「不思議な文様のある石」がお出迎え。

私は厳選プログラムと銘打たれた講演を聴くため、プレミアム・チケットでの入城。
24日の構成は;

11:00~12:30 トークショー
「山城の魅力を語る!」
春風亭昇太氏、千田嘉博氏、萩原さちこ氏

13:30~14:20 講演会
「秀吉の小田原攻めの意義と背景」
黒田基樹氏

15:00~17:00 フォーラム
「小田原攻めの実態に迫る」
小和田哲男氏、諏訪間順氏、伊東潤氏、コーディネーター:黒田基樹氏

といったものでした。
特に黒田先生のお話を聴いてみたくて、この日を選択しました。

見ての通りタイムテーブルがとってもタイトなので、出展ブースなどは朝イチや合間を縫ってサクッと流し見程度に。

2016122403
「城ラマ」ブースに展示されていた高天神城に長篠城。
パネルにはフィールドワークの第一人者、藤井尚夫先生のお姿も。

2016122404
こちらは小机城に真田氏上田城。

2016122405
ブース会場

2016122406
岐阜城山上石垣整備推進協議会のブースに展示されていた岐阜城のジオラマ。

2016122407
こちらの冊子も購入させていただきました。

2016122408
津市観光協会のブース

2016122409
イベントには欠かせないゆるキャラたちも登場。
出世大名家康くんに、出世法師直虎ちゃん。

2016122410
イベントステージには、ひごまるも。

2016122411
現存十二天守模型展
※中に小田原城天守が含まれていたのは、開催地(神奈川県)への配慮か?・・・深くツッコまないでおく(笑)

その他、子供たちによる城の自由研究コンテスト優秀作品展や、お城EXPOフォトコンテスト展示などもありました。

2016122412
さすがにこれだけのイベントにもなると、お城好きのフォロワーさんも大勢来城。
さらさんからはお手製の、お城EXPO煎餅をいただきました☆素晴らしいクォリティ♪

※会場ではクリス・グレンさんや平山優さんにもお会いすることができました。

2016122413
さて、肝心の講演の方ですが、感想は長くなるので割愛します…(^_^;)

何より、つい先日も近江の山城攻めをご一緒した萩原さんが、これだけのイベントを企画・推進し、大きな壇上で諸先生方と共にスポットライトを浴びている・・・その光景を不思議な気持ちで眺めながら聴講していました。
この日も大勢集まっていた城仲間・歴史仲間を含め、これら素晴らしい人々との出会い・ご縁も歴史や城を好きでいたからこそ。
そのことに一番感謝した一日。

・・・うん、とてもいい一年の「城納め」になりました☆

| | コメント (0)

2016年12月 5日 (月)

横須賀軍港めぐり

約3年ぶりに、横須賀の軍港めぐりへ出かけてきました。

2016120401
横須賀港に到着すると、海上自衛隊史上最大規模の護衛艦いずも(DDH-183)がお出迎え。

2016120402
予約した軍港クルーズは午後2時の便。
それまでの時間は、戦艦三笠の見学に費やしました。
言わずと知れた、日本海海戦でバルチック艦隊を撃滅した連合艦隊の旗艦です。

2016120403
NHKドラマ「坂の上の雲」を思い出しますね~

2016120404
遠くに見えているのは猿島。
三笠公園の隣から渡船も出ています。

猿島はまさに、東京(江戸)湾防衛のためには、ここに砲台を築かない訳がない!といわんばかりの位置に浮かぶ島(笑)
今回は時間の都合で渡るのを諦めますが、近いうちに必ず砲台跡をめぐりに行きたいですね。

2016120405
日本海海戦に於いて、司令長官・東郷平八郎以下、幹部連中が集まって指揮を執ったブリッジ。

2016120406
各人の立ち位置も示されています。

2016120407
このワンシーンですね。

2016120408
青空にZ旗も翻っています。
皇國ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ

三笠公園をあとにし、慌ただしく昼食を掻き込んだら、いよいよ軍港めぐりクルーズの出航です。
※今回乗船した船の案内人は、偶然にも3年前の時と同じ、とても綺麗な女性の方でした♪
…うん、なんかツイてるぞ(^o^) 幸先良し!(笑)

2016120409
出航してすぐ、右手にはアメリカ海軍基地のドライドック。
横須賀造船所(小栗上野介の提言で建設)時代の明治初期に完成し、今も現役として使用されています。

2016120410
海上自衛隊の潜水艦に、アメリカ海軍のイージス艦。

2016120411
逆光で苦しい写真ですが・・・冒頭でご紹介した護衛艦いずも
ヘリコプターを14機搭載する容量を誇るそうです。

2016120412
ズラーッと並ぶ米軍のイージス艦たちの向こうに見えてきた、あれはもしや・・・!?

2016120413
原子力空母ロナルド・レーガンではないですか!!
東日本大震災の折には、「トモダチ作戦」でも活躍しています。

2016120414
全長333m、排水量10万t・・・単純に排水量を比較すると、海上自衛隊最大のいずもの4~5倍にもなるそうです。
3年前には観ることが叶わなかったので、巨大空母の姿を見つけた時は興奮しました。

2016120415
艦番号も消された状態で佇むこちらの2隻は、役目を終えた木造の掃海艇
今や木造船建造の技術者が4名となり、その最年少の方でさえも80歳代になられたとのことで、新しく建造される掃海艇は強化プラスティック製に切り替えられたとのことです。
掃海艇の主な任務は機雷の除去。今も日本の近海には多くの機雷が残っており、海上自衛隊による地道な除去作業が続けられています。
木や強化プラスティックで造られるのは、機雷を起爆させかねない磁気を発しないためです。

2016120416
補給艦ときわ(左/AOE-423)
横須賀の逆光は、本当に写真泣かせ…(´-∀-`;)

2016120417
あちらの白い船は、特務(迎賓)艇はしだて(ASY-91)
国家元首クラスの要人を迎えた際に使われる、迎賓用の船なのだとか。
艦番号が2桁なのは、全海上自衛隊保有艦船の中ではしだてが唯一で、これまたなかなかお目に掛かることのできない貴重な船とのこと…ラッキーでしたね。

個人的には2度目の体験となった、横須賀軍港めぐり。
望んでいた空母も観れたし、楽しい一日となりました。

| | コメント (1)

2016年12月 2日 (金)

戦国時代展 (江戸東京博物館)

2016120201
2016年11月23日~2017年1月29日まで、江戸東京博物館で開催されている特別展戦国時代展に行ってきました。

2016120202
入場して最初に出迎えてくれたのは、太田道灌の書状。
※何故かこのコーナーのみ撮影可

私が訪れた前期(~12/25)は、西国大名に関する展示が中心の構成だったようで、大内や毛利、尼子といった中国地方の武将に関する史料も多く見受けられました。(でも何故か、九州関連は特に見受けられず)
※後期展示(1/2~)は、東国武将中心になるようです。

例によって、個人的に特に魅かれたものを・・・

泥足毘沙門天立像
上杉謙信が崇敬し、米沢藩に伝来した仏像。
個人的には4年前(2012)、米沢の法音寺を訪れ、1対1のサシで対面させていただいて以来の再会。
何故か足を止める人も少なく、間近でじっくりと拝観させていただきました。

義元左文字
織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、その手中に収めた義元の差料。
これまた個人的には1月の京都国立博物館で拝観して以来、11ヶ月ぶりの再会。
しかし茎の金象嵌銘は「永禄三年五月十九日 義元討捕刻彼所持刀」の側が向けられていて、またしても「織田尾張守信長」は拝めず。

織田信長像(大雲院蔵)

朝倉英林入道家誡
越前朝倉家七代、孝景が遺した有名な「朝倉孝景条々」を、江戸期に編纂したものかな?

・(今川)仮名目録(写)
駿河今川家のいわゆる法度、分国法。
元亀・天正年間の写しとのことなので、義元が制定した「追加二十一条」も含まれるかと。

上杉家文書
貴重な文書類がとにかく豊富・・・展示数も図抜けていたように思います。

毛氈鞍覆
上杉謙信が足利幕府より使用を許可されたと伝わります。

川中島合戦図屏風(米沢本)
川の中で逃げる武田信玄を追う上杉謙信の姿が描かれています。

姉川合戦図屏風
徳川vs朝倉が中心の構図で、私は織田と浅井の軍勢が激突した場所の地形がどのように描かれているかが観たかったのですが、残念ながらそれは叶いませんでした。

小田原城仕寄陣取図
小田原城の惣構も探索したので、とても興味を惹かれました。

・etc...etc...etc......

なかなかこれだけの史料が一堂に会するという機会もないでしょうし、戦国時代に関心のある方には、一度は足を運んでみる価値のあるものと思います。
図録は値段(2,500円)よりも、そのサイズ・分厚さで手が出ませんでしたが・・・(;^ω^)

2016120203
代わりに素敵なクリアファイルなどをGET!

後期の展示替え後にもう一度、足を運んでみたいと思います。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧