カテゴリー「お城、史跡巡り 関東」の127件の記事

2019年11月19日 (火)

広徳寺

ようやく秋の気配も漂い始めた11月のとある日曜日。
本当ならば筑波方面へ遠征しようと思っていたのですが、寝過ごしてしまい断念。
代わりに手近なところで、あきる野市の広徳寺へお邪魔してみました。

道中、先の台風による土砂崩れなどの影響で通行止め箇所がいくつかあり、幾度となく迂回を余儀なくされました。
広徳寺の周辺は道幅も狭く、車での走行には注意が必要です。

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広徳寺総門(市指定文化財)
掲げられた額の「穐留禅窟」は松江藩主・松平不眛の筆によりますが、実際に額が製作されたのは不昧が没した1年後の文政2年(1819)。
松江の不眛と広徳寺に、どのような繋がりがあったのでしょうか。

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山門
こちらも市指定文化財。

広徳寺は応安6年(1373)の開基。
天文年間に北条氏康によって堂舎が再建され、江戸時代には幕府から40石の朱印地も与えられていました。
現在、その境域は東京都の史跡に指定されています。

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山門を抜けた先、大きな銀杏の木の間から本堂が覗いています。

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とても素敵な茅葺屋根の本堂(左)と庫裡(右)。

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広徳寺には、発給名義は真月斎道俊(大石定久)ですが、北条氏の「禄寿応穏」の虎朱印が捺されている寺領書立文書が残されています。
大石定久は北条氏康の子・氏照を養子に迎えて家督を譲り、五日市の戸倉城に隠居して道俊と号しました。
但し、その没年は天文18年と伝えられており、天文20年9月6日付の本文書と整合性が取れないことになってしまいますが、この辺りはどういうことになるのでしょうか。。。

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東京都の天然記念物に指定されているタラヨウ(モチノキ科)

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同じく都指定天然記念物、カヤ(イチイ科)

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まだまだ豊かな自然が残るあきる野。
周辺の情景をゆったりと愉しみながら、ウォーキングのついでにでも立ち寄ってみるのもいいのではないでしょうか。

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2019年9月20日 (金)

「松平家忠とその時代 ~『家忠日記』と本光寺~」展

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駒澤大学の耕雲館(昭和3年築)

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耕雲館に入っている禅文化歴史博物館で、令和元年11月13日まで開催されている企画展松平家忠とその時代 ~『家忠日記』と本光寺~に足を運んでみました。

松平家忠は深溝松平家の4代目。
天文24年(1555)に生を受け、徳川家康の家臣として活躍しています。慶長5年(1600)、関ケ原合戦の前哨戦となる伏見城籠城戦で討死を遂げました。(享年46)
彼が残した「家忠日記」(駒澤大学図書館蔵)は同時代の歴史・情報を得られるだけでなく、戦国武将の日常を知る上でも貴重な史料となっています。

また、本光寺(愛知県幸田町/長崎県島原市)は深溝松平家の菩提寺。松平家の島原移封に伴い、同地にも創建されました。
所蔵する数多くの貴重な文書類が、今回の企画展にも出品されています。

展示内容は「家忠日記」をはじめ、今川義元・同氏真・織田信長・上杉謙信・北条氏政・石田三成らの書状や感状、安堵状といった文書類が中心の構成で、中には「伝・鎮西八郎為朝鏃の鑓」(愛知県本光寺)や、「権現様御手拭」(長崎県本光寺)といったものまでありました。
展示資料数は40点弱と決して多い訳ではありませんが、その一つ一つの全てが、とても興味深いものばかりといった印象です。

何よりもやはり、三河(深溝~岡崎)にいる家忠の元へ刻々と寄せられる本能寺の変にまつわる風説や家康一行の動向を、リアルタイムに記した「家忠日記」天正10年(1582)6月3~4日の項を直に拝観できたのが嬉しかったです。

入館無料な上に、図録も無料とのこと。
私が訪問した9月19日現在、図録はまだ未完成でしたが、申し込めば後日郵送(送料無料/一人一冊)していただけます。
チャンスのある方は是非、開館日(平日の10:00~16:30/但し平日にも休館日有)に注意して訪れてみてください。

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2019年8月 6日 (火)

日本初の動力飛行を記録した飛行機

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今回は久しぶりに、所沢航空発祥記念館へ。

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所沢航空発祥記念館に訪れるのは、2013年に零戦を観に来て以来です。
今回の目的は・・・

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日本で初めて動力飛行を記録したアンリ・ファルマン機(1910年製)です。
明治43年(1910)4月、徳川好敏・日野熊蔵両大尉は飛行機の研究と購入を目的に、それぞれフランス・ドイツへと派遣されました。
なお、徳川大尉は御三卿清水徳川家の八代当主にあたります。

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同年10月に帰国した両大尉は12月、代々木練兵場(現代々木公園)にて、それぞれが購入してきた飛行機での飛行実験に臨みます。
12月14日、まずは日野大尉の操縦するハンス・グラーテ機が地上滑走試験・予備飛行に於いて高度2m/飛行距離100mを記録し(但し滑走時に"浮いた”"ジャンプした”だけ、との見解もあり)、次いで19日、公式の飛行記録会に於いて徳川大尉のアンリ・ファルマン機が高度70m/飛行距離3000m、飛行時間3分を記録しました。これが日本初の動力飛行となります。

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代々木練兵場で飛行実験に臨むアンリ・ファルマン機の様子(模型)
アンリ・ファルマン機が離陸した地点は、現在の明治神宮境内にあたるようです。

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アンリ・ファルマン機は退役後も所沢の航空参考館に展示・保管されていましたが、1945年の第二次大戦終結後にアメリカに運ばれます。
そして1960年5月21日、日米修好100周年と日本の航空50周年を記念して返還されました。
(以降、2008年までは千代田区の旧交通博物館で展示)

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会式一号飛行機(レプリカ)
アンリ・ファルマン機での飛行実験に成功した翌明治44年(1911)、徳川大尉は同機を参考に、自らの設計・製作による日本初の軍用訓練機・会式一号飛行機を所沢飛行場(現所沢航空記念公園)で完成させます。
同年10月13日、所沢飛行場での飛行実験では最大高度85mを記録し、航続時間も3時間を実現するなど、フランス製のアンリ・ファルマン機よりも高い性能と操縦性を評価されました。

・・・たまにはジャンルの違う分野のお勉強もいいものですね。

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2019年6月 3日 (月)

足利政氏館跡(甘棠院)

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埼玉県久喜市本町、甘棠院総門。
甘棠院はコチラの記事でも少し触れた足利成氏の子で、古河公方第二代・足利政氏の館跡と伝えられています。

政氏は、古河公方の座や山内上杉氏の後継を巡って嫡子・高基と対立し、次男・義明にも反旗を翻されて次第に追い詰められていきます。
古河城を失った政氏は小山氏の庇護下に入り、後に出家して久喜の館に隠棲することで高基と和睦しました。
永正16年(1519)、出家した政氏は自らの館を寺とし、この甘棠院を開きます。

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総門には、足利氏の二つ引両紋も。

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中門
この両脇に堀跡が残っています。

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中門東側の堀跡。

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こちらは西側。
西側の堀は写真の先で右へ折れ・・・

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墓地脇の館跡西面へと続いています。

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甘棠院北側の甘棠院史跡公園。
芝生で堀跡の形状を示している、とのことでしたが・・・いまいちイメージが掴めませんでした。
写真右手の樹林も館の跡地になるのですが、現在では白鷺の巣窟になっているそうで、夥しい数の白鷺がけたたましく鳴き、そこら中に糞や羽が散乱していました・・・。

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甘棠院東側の路地。
この細い屈折した形状も、なんとなく堀跡を思わせます。

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甘棠院本堂
政氏の墓所もありますが、お寺の方とコンタクトを取れなかったので拝観は諦めました。
政氏に関連する宝物も残されているようです。

この後は、前の記事で書いた通り鴻巣の勝願寺へ、伊奈忠次の墓参に立ち寄ってから帰路につきました。
圏央道は渋滞もないし、距離的にも日帰りで出かけるにはちょうどいい感じ。いいドライブになりました。

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2019年6月 2日 (日)

伊奈氏屋敷跡

今回は埼玉県北東部へのドライブ。
まずは伊奈町小室の伊奈氏屋敷跡を目指します。

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伊奈氏屋敷跡図(上が南)
天正18年(1590)の主君・徳川家康の関東移封に伴い、武蔵国小室・鴻巣1万3000石を拝領した伊奈忠次が築いた屋敷(陣屋)跡です。
東西350m×南北750mにも及ぶ広大な敷地を誇っていました。

忠次は関東代官頭に任じられ、江戸幕府開府後は関八州の天領、約30万石を管轄します。
各地の検地、新田開発や河川改修、中山道をはじめとする街道宿駅の整備などを手がけ、創成期の幕府財政の基盤確立に多大な功績を残しました。

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伊奈屋敷、表門跡。
沼南駅前の駐車場に車を置き、そこからは1㎞ほどの道のりをのんびりと歩いて向かいました。

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表門脇にも横堀?枡形虎口?らしき痕跡があったのですが、生い茂る樹木に完全に覆われ、近づくことすらできませんでした。
屋敷跡一帯には私有地も多いので迷惑にならないよう、上の図で散策路()に定められている部分と車道に沿って見学していきます。

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A地点の横堀。
想像以上の遺構に、のっけから興奮を覚えました。
(この付近で、ひょっこり姿を現した狸とも遭遇しました)

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図に「現在地」とある地点に建つ石碑と説明板。

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B地点から東を見た横堀と・・・

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同じくB地点から西側の横堀。
右へくっきりと折れている様子もわかります。

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Cの堀底

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G地点から北へ伸びる横堀。
藪がきつく、散策路にも指定されていないので立ち入りませんが、見応えのある遺構が続きます。

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続いて、今度はDの堀底を伝って頭殿権現社へ向かいます。

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頭殿権現社
長禄年間(1457~1460)に太田道灌が勧請したとも伝わり、忠次が陣屋を築いた後に社殿を整え、陣屋の守護神にしたと云われています。

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頭殿権現社脇に残る、Eの横堀。
屈曲させている様子も見て取れます。

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細く曲がりくねった道を北へ進み、裏門跡へ。
屋敷跡内には、こうした細くて屈折した路地が多く残ります。これらも、この地に屋敷が存在していた名残なのだそうです。

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裏門付近の横堀(F

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裏門跡に建つ伊奈氏屋敷跡の標柱。

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標柱の建つ広場からは、発掘調査で障子堀が検出しているそうです。

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縁石で障子堀の位置を示しているというので、高い場所から見てみましたが・・・
なんとなく、U字型をしているのがわかります・・・かね?(^_^;)

伊奈氏屋敷跡、近年の史跡整備のお陰もあって、結構見応えがありました。
屋敷跡にお邪魔させていただいたので・・・

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鴻巣市本町の勝願寺へ、伊奈忠次の墓所にもお参りさせていただきました。
向かって左端が伊奈備前守忠次の宝篋印塔です。慶長15年(1610)没、享年61。

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2019年5月27日 (月)

小栗上野介 最期の地をめぐる

今回は群馬県高崎市倉渕までドライブし、小栗上野介ゆかりの地をめぐってきました。

小栗上野介忠順
小栗家は徳川家譜代の旗本。忠順は安政7年(1860)、日米修好通商条約批准書交換のための遣米使節の一員(目付)としてポーハタン号で渡米し、帰国後は江戸町奉行や勘定奉行、軍艦奉行、外国奉行などの幕府要職を歴任します。
その間、幕府の財政再建に携わり、洋式軍隊の整備や横須賀製鉄所(造船所)の建設を推し進めるなど、日本の近代化にも功績を残しました。

慶応4年(1868)1月の鳥羽伏見戦後、江戸に帰還した徳川慶喜に対して主戦論を唱えますが退けられ、同年3月、領地の上野国権田村(群馬県高崎市倉渕)に隠棲します。
後に、彼が唱えた「陸軍を以って箱根で待ち受け、榎本の艦隊を駿河湾に展開させて海陸両面で新政府軍を迎撃する」という作戦を耳にした大村益次郎は、「もしそれが実行されていたら、今頃は我々の生命は危うかっただろう」と語ったとも云われています。

権田村隠棲後は、村人のための水路を開くなどして暮らしていましたが、閏4月4日、襲来した新政府軍に捕縛され、まともな取り調べもないままに2日後の閏4月6日、烏川の水沼河原において家臣3名と共に斬首されました。
権田村に移り住んでから、僅かに2ヶ月後のことでした。

日本の近代化に寄与した小栗の功績は、後に明治政府の要人となった大隈重信や東郷平八郎らからも評価され、作家・司馬遼太郎は小栗を「明治の父」と評しています。
(幕府内においてライバルでもあった勝海舟などは、小栗の死後も世知辛い見方をしていたようですが・・・)

道の駅くらぶち小栗の里に車を置かせてもらい、まずは小栗らが斬首された烏川の水沼河原へ。

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国道406号から、烏川に架かる県道125号へ進路をとると、小栗最期の地に建つ顕彰碑が見えてきました。

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偉人小栗上野介
罪なくして此処に斬らる

昭和7年の建碑です。
当時は碑文の「罪なくして」という表現が問題視され、苦労も多かったそうです。

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現在の烏川

そのまま徒歩で、今度は小栗が引かせた小高用水を目指します。

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目指す小高の集落は、この急坂を上った先・・・
(旧東海道の小夜の中山や潮見坂ばりにきつかった・・・)

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小高の集落
奥には榛名山も見えています。

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小高用水
水利に恵まれない小高の村人のため、慶応4年(1868)4月に小栗が器械測量で水路を定め、村人の掘削によって完成した用水路です。長さは1.2㎞余り。

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用水のお陰で、今もこうして水田が潤っているのですねぇ・・・。

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丘陵上とはいえ、小高の集落はこうして周辺より一段低い場所に位置しています。
こうした地勢も、小高が水利に恵まれてこなかった一因だったのでしょうか。

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続いて小栗の墓所がある東善寺へ。

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東善寺は権田村へ移った小栗一家が、屋敷完成までの仮住まいとしたことでも知られています。
※当時の本堂は昭和初期に焼失。

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境内にある小栗上野介忠順の胸像。

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小栗上野介と、無実訴願のために遣わされた高崎城内で処刑された養子・又一忠道の供養墓。
周辺には家臣らのお墓も並んでいました。

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供養墓の傍らに生える小栗上野介遺愛の椿には一輪だけ、綺麗な花が残っていました。

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小栗父子の本墓。
先程の供養墓から更に石段を上った先、山の中腹にあります。
処刑後、小栗の胴は村人の手によってこの地に埋葬され、首は養子又一の首と共に総督府のあった館林へ送られて後、法輪寺へ埋葬されました。
その一年後(1869)、一周忌の夜に権田村の百姓代らが法輪寺より父子の首級を奪い、改めてここ東善寺に改葬したと云われています。

遺品館や庫裡・本堂では;
・小栗がアメリカから持ち帰ったネジや、
・水沼河原へ連行される際に乗せられた駕籠、
・東郷平八郎が「日本海海戦に勝利できたのは、製鉄所(造船所)を作った小栗氏の功績によるところが大きい」として、明治45年(1912)に忠順の孫(身重の妻が会津へ逃れた後に産んだ実子・国子の子)の又一に贈った「仁義禮智信」の書、
など、多くのゆかりの品や史料を拝観させていただきました。

最後は東善寺の南東1㎞、観音山に築かせていた小栗邸跡へ。

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登り口からして道が細くて心許ないのですが、東善寺のご住職から「ちょっと勇気が要るけど、舗装されていて車で上がれる」と伺ったのでトライしましたが・・・

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まー怖かった(;^_^A
道幅は乗用車一台がやっとの狭さで、路面の舗装は随所で崩れ、左右には今にも崩落しそうな斜面と切り立った崖。。。
そんな、ヘアピンもあるクネクネとした林道を細心の注意を払いながら登ること5分・・・やっとの思いで駐車スペースに到達しました。。。まだ下りの恐怖が残っているけど。

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観音山小栗邸跡

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削平地には今も随所に礎石が残っていました。

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屋敷地に引き込まれた用水路。

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小栗邸跡からの眺め。

権田村へ移り住み、東善寺に仮住まいしながら屋敷の建設を進めていた小栗上野介。
しかし新政府軍は、この屋敷建設をも「陣屋を厳重に構え」て、小栗に「反逆の企てあり」との口実にしたとか。

権田村での後進の育成と、静かな余生を思い描いていたであろう小栗上野介。
しかし、その思いは僅かに2ヶ月後、突如として理不尽にも掻き消されてしまったのでした。

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なんとか無事に下山した後は、ドライブ旅の締め括りに麓の「満寿池」さんで名物の「ます重」に舌鼓。
お蕎麦も美味しかった。

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2019年5月19日 (日)

上杉堂(高幡不動尊)

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先週のひの新選組まつりに引き続き、2週続けての高幡不動尊

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その境内の片隅に建つ、上杉堂と呼ばれる小さなお堂。
こちらは室町中期の武将、上杉憲秋(憲顕)の墓所とされています。
※現地案内板では「憲顕」としていましたが、一般的に「憲秋」と表記されることが多く、「憲顕」は山内上杉家の始祖で初代関東管領に就いた人物とも重複するため、当記事でも「憲秋」と表記します。

憲秋は室町期、関東管領を務めた上杉氏の一族で犬懸上杉家の出身。父はあの上杉禅秀・・・鎌倉公方・足利持氏と争った上杉禅秀の乱(1416~1417年)で有名な人物ですね。

享徳3年12月(1455年1月)、時の鎌倉公方・足利成氏による関東管領・上杉憲忠謀殺を発端として、享徳の乱が討伐が勃発します。
憲秋にとって成氏は、父・禅秀の仇ともいえる足利持氏の子。憲秋も関東管領方の一手として成氏討伐に立ち上がり、翌享徳4年1月(1455年1月)の分倍河原の戦いに於いては先鋒を務めますが、立河原(東京都立川市)付近で成氏軍の奇襲を受けて重傷を負いました。
家臣の手で何とか戦場は逃れたものの、この地(高幡寺)で自害して果てたと伝えられています。

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祀られている自然石は、その墓標とされているようです。

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2019年5月 7日 (火)

山田城、他

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大型10連休となったGWも後半。
天候にも恵まれた5月3日は、家族を連れて埼玉県比企郡滑川町の国営武蔵丘陵森林公園へ。

南口から入場してすぐ右手の坂を上り、まずはガイドマップにも載っている山田城へ。

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舗装された園路に沿って進み、山田城跡への案内板に従って雑木林へ入っていくとすぐに到達します。
写真は南西部の土塁と横堀。

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・・・山田城に関しては何ら知識を持ち合わせていないので、現地の説明板をそのまま貼っておきます。←

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南西部の土塁と横堀を上から。
少し折れて横矢が掛かっているように見え・・・なくもない?

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西側の土塁から横堀。

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郭内には更に、土塁や横堀で仕切りをつけたような箇所もありました。

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・・・土橋のようにも見える。

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北東側の土塁。
写真でもわかるように郭内の削平は甘く、どことなく急造の砦、陣城といった印象も受けました。

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北東側の虎口らしき痕跡。

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虎口を出た先から見る、北~西へかけての横堀。

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奥に虎口と、東~南にかけての横堀。
一部、堀が二重になっていたようにも見えます。

山田城・・・遺構の保存状態が良く、小規模ながら割と見応えはありました。

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そのまま園内を北へ向かって散策していると、古鎌倉街道の案内板が・・・。
とすると、山田城は古鎌倉街道を意識して築かれた城だったのかもしれません。

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古鎌倉街道
歩いているうちに右側の藪(の中)が気になり、分け入ってみると・・・

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堀のようなものが、街道に沿ってずっと続いていました。

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藪が切れて梅園として整備されている区間に出ても、堀は続いています。

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街道に沿っていることから、初めは「古鎌倉街道の掘割道か?」とも思いましたが、やがて堀は街道から逸れ、丘陵の下(右手)の方へと折れていきました。

後で調べたところ、こちらの遺構は山崎城という城だったともされているようですが、堀は丘陵の縁に沿っており、谷戸のような下った場所を囲むようにして折れています・・・正直なところ、個人的にはあまり「城」をイメージできません。
むしろ、丘陵を守備する防塁・長塁のようなものだったのではないかな、とも思いました。

※山田城から見た時、丘陵縁の堀を越えた先には、荒川を挟んで忍城があります。
案内板によると山田城は小田原征伐の際、前田利家によって落とされたとも伝えられているようですが、豊臣方の軍勢によって構築(改築?)された、忍城包囲の陣跡の一つ、という可能性は考えられないのでしょうか。

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古鎌倉街道は丘陵上を、更に北へと伸びていきます。

この後は園内を中央口付近まで散策し、お弁当を食べて引き返しました。
それでも優に3時間は滞在していたので、森林公園の広大な敷地面積・・・推して知るべし。

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2019年4月21日 (日)

特別展「土方歳三」(没後150 歳三×日野)

2019(平成31/令和元)年は、土方歳三の没後150年。
彼の故郷である日野市では「没後150 歳三×日野」と銘打ち、講演やイベントなど様々な企画が予定され、且つ進行中です。

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その一環で、新選組のふるさと歴史館では4月20日~6月30日までの期間、土方歳三 史料から見たその実像という特別展が開催されています。
その開催初日となる4月20日、さっそく足を運んでみました。

これから行かれる方のためにも詳細は省きますが、土方歳三の名が史料上に初めて登場する天保11年(1840)の宗門人別書上帳下書から始まり;
第Ⅰ章 石田村の土方歳三
第Ⅱ章 浪士組から新選組へ
第Ⅲ章 戊辰戦争での奮闘
第Ⅳ章 箱館での最期の戦い
第Ⅴ章 語り継がれる土方歳三
という構成で、数多くの貴重な関連史料が並べられています。

中には;
・2014年に発表された本願寺文書諸日記関連記事
・土方や斎藤一、藤堂平助、伊藤甲子太郎らが宿泊した記録の残る草津宿本陣大福帳関連記事
・母成峠での敗戦後、猪苗代から援兵を請う土方歳三書状内藤介右衛門、小原字右衛門宛関連記事
などまでもが・・・函館からも多くの史料が出展されており(明治初期に撮影された軍艦「回天」の残骸写真には感動)、没後150年の特別展に相応しい、まさに全国規模の力の入った展示構成だと感じました。

2Fでは大河ドラマ「新選組!」で使用された小道具などが展示されており、個人的にツボったのは箱館の地形模型
・・・大河の続編「土方歳三最期の一日」で、大鳥圭介(吹越満)が喚きながら引っ繰り返していたアレ、ですね(笑)

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図録は2,000円也。ついでにマグカップもお買い上げ~♪

開催期間は2ヶ月以上もありますので、興味をお持ちの方は是非、足を運んでみてはいかがでしょうか。
本特別展では複製展示だった鎖帷子などの原史料は、彼の生家である土方歳三資料館にありますし、そちらの開館日に合わせて訪れるのもいいかもしれません。


※弘化3年(1846)の洪水による被害状況を記録した石田村絵図では、確かに土方の生家が被害を受けたことを確認できました。現在の土方歳三資料館は、その洪水後に越した地になります。

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2019年3月 8日 (金)

笠間城

さて、怒涛の茨城の城攻めもようやくラスト・スパートを迎えました。
オーラスを飾るのは笠間城です。

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まずは山麓の大石邸址に立ち寄り。
「忠臣蔵」で有名な浅野家、赤穂に転封される前は笠間藩主を務めていました。
この地には、後に元禄赤穂事件で名を馳せる大石内蔵助良雄の曾祖父・祖父の代の大石家の屋敷が構えられていたそうです。

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笠間城図

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大手門跡
土橋や堀がよく残っています。

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大手門跡に残る石垣。

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こちらは・・・後世の土留めかなぁ?

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更に石垣・・・ふむ。

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本丸
八幡台櫓も建っていた土塁が立派です。

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八幡台櫓跡
この後、城下の寺へ移築された八幡台櫓も見に行きます。

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天守曲輪へと続く本丸の門跡。
礎石が残っていました。

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天守曲輪の石垣。

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天守曲輪には佐志能神社が建ちますが、東日本大震災の影響で石垣の崩れが目立ちます。

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社殿周辺には未だ、立入が禁止されている区域が残っています。

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天守曲輪から少し下り、竪堀の下にトンネルの図。

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大黒石
中ほどに空いた「おへそ」に小石を3度投げ、1つでも入れば幸せなことがあるとか・・・。
ちなみに私は、少し離れた位置からトライして2度目で入りました・・・Come on 幸運!!

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最後に、山麓の真浄寺に移築された八幡台櫓を見学して、この日の行程は無事に終了~。

疲れたけど、いいお城ばかりだったし楽しかった。
いろいろネタでいじったけど、こばたかさんには感謝ですね!次は栃木北部・・・かな?

・・・しばらくは遠慮するけど(笑)

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