カテゴリー「お城、史跡巡り 関東」の88件の記事

2016年12月25日 (日)

お城EXPO 2016 (12/24)

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12月24日、パシフィコ横浜で開催されたお城EXPO 2016(12/23~25)に足を運んできました。

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会場ではいきなり、4月の震災による石垣崩落で発見された熊本城の、「不思議な文様のある石」がお出迎え。

私は厳選プログラムと銘打たれた講演を聴くため、プレミアム・チケットでの入城。
24日の構成は;

11:00~12:30 トークショー
「山城の魅力を語る!」
春風亭昇太氏、千田嘉博氏、萩原さちこ氏

13:30~14:20 講演会
「秀吉の小田原攻めの意義と背景」
黒田基樹氏

15:00~17:00 フォーラム
「小田原攻めの実態に迫る」
小和田哲男氏、諏訪間順氏、伊東潤氏、コーディネーター:黒田基樹氏

といったものでした。
特に黒田先生のお話を聴いてみたくて、この日を選択しました。

見ての通りタイムテーブルがとってもタイトなので、出展ブースなどは朝イチや合間を縫ってサクッと流し見程度に。

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「城ラマ」ブースに展示されていた高天神城に長篠城。
パネルにはフィールドワークの第一人者、藤井尚夫先生のお姿も。

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こちらは小机城に真田氏上田城。

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ブース会場

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岐阜城山上石垣整備推進協議会のブースに展示されていた岐阜城のジオラマ。

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こちらの冊子も購入させていただきました。

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津市観光協会のブース

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イベントには欠かせないゆるキャラたちも登場。
出世大名家康くんに、出世法師直虎ちゃん。

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イベントステージには、ひごまるも。

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現存十二天守模型展
※中に小田原城天守が含まれていたのは、開催地(神奈川県)への配慮か?・・・深くツッコまないでおく(笑)

その他、子供たちによる城の自由研究コンテスト優秀作品展や、お城EXPOフォトコンテスト展示などもありました。

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さすがにこれだけのイベントにもなると、お城好きのフォロワーさんも大勢来城。
さらさんからはお手製の、お城EXPO煎餅をいただきました☆素晴らしいクォリティ♪

※会場ではクリス・グレンさんや平山優さんにもお会いすることができました。

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さて、肝心の講演の方ですが、感想は長くなるので割愛します…(^_^;)

何より、つい先日も近江の山城攻めをご一緒した萩原さんが、これだけのイベントを企画・推進し、大きな壇上で諸先生方と共にスポットライトを浴びている・・・その光景を不思議な気持ちで眺めながら聴講していました。
この日も大勢集まっていた城仲間・歴史仲間を含め、これら素晴らしい人々との出会い・ご縁も歴史や城を好きでいたからこそ。
そのことに一番感謝した一日。

・・・うん、とてもいい一年の「城納め」になりました☆

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2016年12月 5日 (月)

横須賀軍港めぐり

約3年ぶりに、横須賀の軍港めぐりへ出かけてきました。

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横須賀港に到着すると、海上自衛隊史上最大規模の護衛艦いずも(DDH-183)がお出迎え。

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予約した軍港クルーズは午後2時の便。
それまでの時間は、戦艦三笠の見学に費やしました。
言わずと知れた、日本海海戦でバルチック艦隊を撃滅した連合艦隊の旗艦です。

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NHKドラマ「坂の上の雲」を思い出しますね~

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遠くに見えているのは猿島。
三笠公園の隣から渡船も出ています。

猿島はまさに、東京(江戸)湾防衛のためには、ここに砲台を築かない訳がない!といわんばかりの位置に浮かぶ島(笑)
今回は時間の都合で渡るのを諦めますが、近いうちに必ず砲台跡をめぐりに行きたいですね。

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日本海海戦に於いて、司令長官・東郷平八郎以下、幹部連中が集まって指揮を執ったブリッジ。

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各人の立ち位置も示されています。

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このワンシーンですね。

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青空にZ旗も翻っています。
皇國ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ

三笠公園をあとにし、慌ただしく昼食を掻き込んだら、いよいよ軍港めぐりクルーズの出航です。
※今回乗船した船の案内人は、偶然にも3年前の時と同じ、とても綺麗な女性の方でした♪
…うん、なんかツイてるぞ(^o^) 幸先良し!(笑)

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出航してすぐ、右手にはアメリカ海軍基地のドライドック。
横須賀造船所(小栗上野介の提言で建設)時代の明治初期に完成し、今も現役として使用されています。

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海上自衛隊の潜水艦に、アメリカ海軍のイージス艦。

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逆光で苦しい写真ですが・・・冒頭でご紹介した護衛艦いずも
ヘリコプターを14機搭載する容量を誇るそうです。

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ズラーッと並ぶ米軍のイージス艦たちの向こうに見えてきた、あれはもしや・・・!?

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原子力空母ロナルド・レーガンではないですか!!
東日本大震災の折には、「トモダチ作戦」でも活躍しています。

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全長333m、排水量10万t・・・単純に排水量を比較すると、海上自衛隊最大のいずもの4~5倍にもなるそうです。
3年前には観ることが叶わなかったので、巨大空母の姿を見つけた時は興奮しました。

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艦番号も消された状態で佇むこちらの2隻は、役目を終えた木造の掃海艇
今や木造船建造の技術者が4名となり、その最年少の方でさえも80歳代になられたとのことで、新しく建造される掃海艇は強化プラスティック製に切り替えられたとのことです。
掃海艇の主な任務は機雷の除去。今も日本の近海には多くの機雷が残っており、海上自衛隊による地道な除去作業が続けられています。
木や強化プラスティックで造られるのは、機雷を起爆させかねない磁気を発しないためです。

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補給艦ときわ(左/AOE-423)
横須賀の逆光は、本当に写真泣かせ…(´-∀-`;)

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あちらの白い船は、特務(迎賓)艇はしだて(ASY-91)
国家元首クラスの要人を迎えた際に使われる、迎賓用の船なのだとか。
艦番号が2桁なのは、全海上自衛隊保有艦船の中ではしだてが唯一で、これまたなかなかお目に掛かることのできない貴重な船とのこと…ラッキーでしたね。

個人的には2度目の体験となった、横須賀軍港めぐり。
望んでいた空母も観れたし、楽しい一日となりました。

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2016年12月 2日 (金)

戦国時代展 (江戸東京博物館)

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2016年11月23日~2017年1月29日まで、江戸東京博物館で開催されている特別展戦国時代展に行ってきました。

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入場して最初に出迎えてくれたのは、太田道灌の書状。
※何故かこのコーナーのみ撮影可

私が訪れた前期(~12/25)は、西国大名に関する展示が中心の構成だったようで、大内や毛利、尼子といった中国地方の武将に関する史料も多く見受けられました。(でも何故か、九州関連は特に見受けられず)
※後期展示(1/2~)は、東国武将中心になるようです。

例によって、個人的に特に魅かれたものを・・・

泥足毘沙門天立像
上杉謙信が崇敬し、米沢藩に伝来した仏像。
個人的には4年前(2012)、米沢の法音寺を訪れ、1対1のサシで対面させていただいて以来の再会。
何故か足を止める人も少なく、間近でじっくりと拝観させていただきました。

義元左文字
織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、その手中に収めた義元の差料。
これまた個人的には1月の京都国立博物館で拝観して以来、11ヶ月ぶりの再会。
しかし茎の金象嵌銘は「永禄三年五月十九日 義元討捕刻彼所持刀」の側が向けられていて、またしても「織田尾張守信長」は拝めず。

織田信長像(大雲院蔵)

朝倉英林入道家誡
越前朝倉家七代、孝景が遺した有名な「朝倉孝景条々」を、江戸期に編纂したものかな?

・(今川)仮名目録(写)
駿河今川家のいわゆる法度、分国法。
元亀・天正年間の写しとのことなので、義元が制定した「追加二十一条」も含まれるかと。

上杉家文書
貴重な文書類がとにかく豊富・・・展示数も図抜けていたように思います。

毛氈鞍覆
上杉謙信が足利幕府より使用を許可されたと伝わります。

川中島合戦図屏風(米沢本)
川の中で逃げる武田信玄を追う上杉謙信の姿が描かれています。

姉川合戦図屏風
徳川vs朝倉が中心の構図で、私は織田と浅井の軍勢が激突した場所の地形がどのように描かれているかが観たかったのですが、残念ながらそれは叶いませんでした。

小田原城仕寄陣取図
小田原城の惣構も探索したので、とても興味を惹かれました。

・etc...etc...etc......

なかなかこれだけの史料が一堂に会するという機会もないでしょうし、戦国時代に関心のある方には、一度は足を運んでみる価値のあるものと思います。
図録は値段(2,500円)よりも、そのサイズ・分厚さで手が出ませんでしたが・・・(;^ω^)

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代わりに素敵なクリアファイルなどをGET!

後期の展示替え後にもう一度、足を運んでみたいと思います。

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2016年10月22日 (土)

平山季重の史跡

平山氏は武蔵七党の一つ、西党日奉氏の流れを汲む一族。
平山季重は保元・平治の乱、富士川の戦い、宇治川の戦い、一ノ谷・屋島・壇ノ浦の戦い、奥州藤原氏征伐など、数々の合戦で源氏方として活躍した武将です。

そんな季重が生まれ、且つ平山氏が代々領した地が現在の東京都日野市平山。
今回は彼に関連する史跡をちょっとだけご紹介します。

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京王線平山城址公園駅ロータリーに建つ平山季重遺跡の碑。
この地には元々、由木永林寺の末寺・大福寺が建っていて(明治6年廃寺)、その昔は平山季重の居館跡だったと伝えられている場所です。
背後は平山城址公園に連なる丘陵。

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その丘陵の中腹に建つ宗印寺

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こちらの宗印寺に季重のお墓があります。
元々は大福寺に祀られていましたが、廃寺となったため移されました。

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宗印寺に安置される平山季重木造坐像
晩年には仏門に帰依したらしく、法体姿に彫られています。推定江戸初期の作。

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宗印寺境内

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続いて宗印寺の裏手へ回り込み、平山城址公園方面を目指して丘陵を登ります。

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視界の開けた場所からの眺め。

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最後にこの藪道を登ると・・・

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平山季重神社が鎮座します。
平山城址公園のある丘陵の北端に突き出た尾根上で、元は見張り台のような場所だったのかもしれません。

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まだまだ勉強不足で詳細を知りませんが、身近にこれだけ凄い武将の足跡が残っているのだから、もう少し勉強しないといけませんね。

※なお、平山季重の居館跡については、「新編武蔵風土記稿」に;
浅川北岸の丘の辺りに誰のものかは定かではないが館跡があり、里の者には平山武者所季重の居館跡と伝えられている。
とあることから、浅川の北岸にあたる日野市西平山1丁目の八幡神社一帯を比定する説もあるようです。
(碑の建つ駅ロータリーや城址公園は、浅川の南側)

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2016年10月12日 (水)

新田荘遺跡めぐり (群馬県太田市)

新田荘とは上野国新田郡(群馬県太田市)を中心とする地域に存在した荘園。源義重を祖とする新田氏が治めていました。有名な新田義貞は、義重から八代目に当たります。
新田荘遺跡は、この旧荘園域内に点在する11の遺跡をまとめて一つの国史跡として登録されたものです。

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まずは世良田東照宮
徳川三代将軍家光によって日光東照宮の社殿が全面的に改築され、現在に誇る偉容を完成させると、日光山輪王寺と世良田の長楽寺住職を兼ねていた天海僧正は、日光東照宮の旧奥社拝殿などを長楽寺境内に移築し、東照宮を勧請しました。
これが世良田東照宮の始まりで、長楽寺はその別当寺となっています。
写真は東照宮創建時からある御黒門で、江戸期には平常閉ざされ、一般参拝者はこの門前からお参りしていたと云います。

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御黒門を潜った先には上番所。
上下2つの番所が設置されていたようです。

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世良田東照宮拝殿
日光東照宮奥社の旧拝殿を移築したものです。

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鉄燈籠
元和4年(1618)に秋元越中守長朝によって作られ、明暦4年(1658)に当宮へ奉納されています。
当時としては高さ日本一の鉄燈籠であったとか。

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手前からそれぞれ;
・宝暦13年(1763)前橋藩 松平朝矩
・寛政 8年(1796)川越藩 松平直恒
・天保15年(1844) 忍藩 松平忠国
によって奉納された石燈籠。

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東照宮の隣りには長楽寺
開基は源(新田)義重の子で、徳川(得川)姓を称す義季。故に世良田は「徳川氏発祥の地」とされています。

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太鼓門

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太鼓門の奥には新田義貞や一族・従臣の供養塔・・・

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そして開山堂の裏には、新田家累代墓もありました。

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これ以上は近づけませんでしたが・・・

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そのまま奥へ抜けていくと、新田家累代墓の裏には横堀や土橋らしき痕跡があり・・・

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更に進んだ先の芝生広場にも・・・何でしょうね?

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伝新田義貞倚像(木像)を安置する総持寺
新田館跡
に建つお寺で「館の坊」とも呼ばれてきました。
新田館は果たして誰の居館であったのか・・・新田義重や新田義貞など、諸説あるようです。
今でも一部、堀跡が残っているそうですが、私は事前に調べていなかったので確認しておりません。

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あわよくば新田義貞の木像を・・・と訪れてみましたが、法要の最中だった模様で静かに退散致しました。
まぁ、どのみち無理だったでしょうね…(;´∀`)

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新田荘歴史資料館前に建つ新田義貞銅像
勿論、資料館にも立ち寄りました。

※以上の世良田東照宮・長楽寺・総持寺・新田荘歴史資料館は全て太田市世良田町に所在。

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車で少し移動し、こちらは太田市新田反町町に残る反町館跡
その南面の土塁…郭内側から。

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同じく南面の土塁を外側から。居館を囲む水堀も残ります。

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東面の水堀。かなりの幅がありますが、これは道路改修の際に拡張されたようです。
途中で大きく屈折させてあります。

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反町館にも新田義貞居館説があるようで、ご覧のような
新田義貞公古城跡
の石碑が建っていました。

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西面の堀は蓮に埋もれ・・・

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反町館跡は現在、照明寺の境内になっています。

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本堂脇を抜け、北面の堀も確認。

中世関東武士居館の典型のような遺構を明瞭に見てとれて、なかなか楽しめました。

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この日最後は、太田市新田上江田町の江田館跡

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南面の横堀。手前は土橋。

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郭内から見る土橋。

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横堀に囲まれた居館跡はかなりの広さがあります。

江田館は新田義重の子・(徳川)義季四世の子孫、江田行義の館跡と伝えられています。
行義は新田義貞の鎌倉討伐にも従軍して、武功を挙げています。
その後、戦国期には太田金山城の出城として改修されていましたが、北条氏が進出してくると、江田館は逆に北条氏の金山城攻めの拠点となり、北条氏邦が滞在したこともあったようです。
天正18年(1590)北条氏が滅亡すると、江田館もその役目を終えて廃城となりました。

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東面の堀と土塁。
屈折がなかなか見事です。

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一瞬、土橋?畝??とも思いましたが、単なる土塁の崩落かもしれません。

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南西角から西面の堀と土塁。

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こちら側の折も見事です。

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居館西側の堀の外にはもう1つ、薄い土塁に囲まれた平坦地がありました。
現地案内板の復元イラストでは馬場のように描いていましたが、或いは二ノ丸的なものかもしれません。

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その最外郭の城塁。

江田館は当初ノーマークで、先に立ち寄った新田荘歴史資料館でたまたまその存在を知ったのですが、なかなかどうして、遺構も明瞭で状態の良い遺跡でした。

今回は下調べ不足で、帰りの渋滞も怖かったので早々に切り上げましたが、江田館跡周辺の宅地にも堀や土塁の痕跡が点在しているとの情報も・・・いずれ機会があれば、改めて訪れてみたいと思わせるものがありました。
まだまだ奥が深そうですね・・・新田荘。

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2016年10月11日 (火)

大光寺旧総門の弾痕

10月10日、ちょっと天候も回復した祝日に、埼玉と群馬の県境辺りへ気晴らしにドライブしてきました。

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まずは埼玉県上里町にある大光寺へ。

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大光寺境内

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見透灯篭
近くを流れる神流川の渡し場に、夜間の道標として設置されていたものです。明治になって大光寺へ移設されました。

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また、大光寺境内地は武蔵七党の流れを汲む勅使河原氏の居館跡でもあったようです。
大光寺はその勅使河原氏によって、建保3年(1215)に創建されています。

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勅使河原直重・貞直・光重父子の墓と伝わる親子地蔵(左)と、室町期の勅使・藤原何某の供養石幢(右)

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こちらは大光寺を創建した勅使河原有直を祀る開基廟

館跡なら土塁でも残っているのでは?と思い、周囲を探ってみると・・・
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お!?と思わせる雰囲気がありましたが、立て看板には;
旧境内地
明治四十二年四月高崎線の排煙にて焼失
これより北に江戸時代からの大光寺伽藍があった。「土塁」あとではない

とご丁寧に書かれていました…(;^ω^)

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しかし、大光寺を訪れた一番の目的はこちら・・・本堂裏に移設されている旧総門です。

上里町一帯は天正10年(1582)6月、本能寺の変による織田信長の横死をきっかけに織田方の滝川一益と、それまでは織田家と協調関係にあった北条家との間で起きた神流川の戦いの舞台となっています。
※神流川の戦いについてはコチラを参照

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大光寺の旧総門は鎌倉期の創建
神流川の戦いで大光寺は、殆どの伽藍を焼失(明治42年に高崎線の排煙で焼失したという伽藍は、その後に再建されていたもの)していますが、この総門だけは辛うじて延焼を免れました。
しかしその柱には、この時の戦いによるものと伝わる銃弾痕が残っていたのです。

その痕跡をしっかりと目に焼き付け、次は群馬県太田市に点在する新田荘遺跡をめぐります。

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2016年5月30日 (月)

千本城・久留里古城

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南総の城めぐりオフ、4城目は千本城(君津市)です。
ここまで3城をめぐり、道なき道を進み、険しい急斜面も激しい藪も「楽勝っすよ」「平気平気」の一言で皆をリードしてきたこばたかさんの城攻めルート、通称「こばたかルート」に食らいついてきた疲労の蓄積が顕著となり、あまり頭も働かない状態で回ったので、縄張もイマイチ正確に把握しきれていません…(^_^;)
記事も適当に流しまので、あしからず。

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岩盤にあいた不思議な横穴がお出迎え。

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竪堀を登っていく一行。
この竪堀も相当な規模で、少し先で左にクランクしています。

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そのクランクを抜けると・・・見えてきましたね。

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とてつもない規模の大堀切。
傾斜・深さとも、圧巻の一言に尽きます。

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登ってきた方向を振り返る…正面突当りが、堀底がクランクしている部分です。

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主郭?への虎口

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主郭部周辺には幾筋も、魅力的な堀切がありました。
樹木のせいで見えづらいですが、写真の堀切も相当な規模です。

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主郭と推定される曲輪跡に建つ北野神社

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北野神社南側の堀切を見下ろす。

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北野神社の西側斜面下には、四角く区切られて石積みも残る不思議な痕跡がありました。

千本城の城域は結構な広さで、我々がめぐったエリアはまだほんの1/3程度ですが、その他の大部分は未整備で薮が酷いらしいので、今回はこの辺で切り上げます。

さて、南総のお城をめぐるオフ会も、千本城までの4城で終了です。
関西や北関東からの参加者とお別れし、我々南関東勢も帰路へ・・・とはいかないのが、こばたか流(笑)
ま、前回の群馬オフで学びましたけど。

という訳でお決まりの延長戦に突入し、向かった先は久留里古城
模擬天守のある里見氏の久留里城からは、尾根続きの北側に展開します。

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神明社南側の削平地にて・・・虎口か、竪堀か?

トンネル上の尾根を越えると神明社へと至り、そこから更に北へと進みながら遺構を見ていきます。

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途中ふと気になった地形。
一瞬、竪堀かとも思いましたが、表面は岩盤・・・

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神明社から北へ進んで、最初に現れた堀切(戦死者?1名付きww)

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こちらは、東へ伸びる尾根に逸れた先で遭遇した堀切・・・だったと思う←

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東への尾根を引き返し、再び北へ進んだ先でまたも堀切に遭遇。

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更には二重堀切も。

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二重といっても、堀切の底に仕切り状の土塁を残しただけ、といった形状ですが。

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主郭らしき曲輪を取り巻く横堀状の空堀(西側)

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その東側は竪堀として落とされています。

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土橋もありました。

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土塁を連続でぶった切ったような・・・二重虎口?

さて、ここいらで久留里古城攻めも終わりとします。
写真を全然撮っていなかったし、縄張をちゃんと把握していなくて遺構の正確な場所も思い出せない…いずれ再訪する機会がありましたら改めて整理することとし、今回はこんなもんでご勘弁を。
実は私、久留里古城攻めの前に水分を確保しそびれ、途中から脱水症状を起こして頭痛はするし、疲労で殆ど冷静に遺構を観察することができていませんでした…(^_^;)

なんとか乗り切り、やっと終わった~と安心していたら、こばたかさんがのたまって曰く;
一度駐車場に戻って飲み物を買ってから登り直すのと、このままゆっくり登り続けるのとどっちがいいですか?
・・・は?登り直す?このまま登る??…何言ってんの!?
この後、久留里城にも行く前提で話してますけど

・・・全力で拒否して、やっと帰路へ。
こばたかさんの山城好きは嫌というほど思い知りました・・・とても敵わない(笑)

急な飛び入り参加でしたが、ご一緒させていただいた皆さん、ありがとうございました(^_^)/

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2016年5月29日 (日)

秋元城

2016年5月28日は南総のお城を中心にめぐるオフ会。
1城目は造海城、2城目には峰上城を攻めたのですが、この2城は今年2月以来の再訪で既に記事を上げていますので、今回は割愛させていただきます…(^_^;)
(過去記事→造海城峰上城

で、3城目に向かったのは・・・

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君津市の秋元城です。

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東側の登城路から登って見えてきた堀切状の虎口。

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上の鳥瞰図で稲荷・金平祠と書かれたこの細い曲輪は・・・登城路を抑える見張り台か。
※以下、太字は上の図面からの引用

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千畳の広い曲輪に残る土塁

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千畳から主郭と思われる御殿西向三段の切岸

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主郭

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主郭南の崖下には、なかなか良好な横堀が廻らされていました。
しかし、ここまで下りるのは容易ではなく、結構危険なのであまりお薦めは出来ません・・・。
どれくらいの難易度かというと・・・

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・・・これくらい(汗)
写真は横堀探索後、主郭へ戻る際に撮影しました。

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次は主郭から西へ進みます。
途中、素敵な土塁もありました。

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城域西側では最高所となる、八幡祠の曲輪。
この先には・・・

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見事な堀切が。

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その堀底から。

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また、堀切の南脇を覗き込むと、畝のような仕切りを伴った・・・

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岩盤削りの横堀も廻らされていました。

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横堀の堀底をゆく。

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それにしても一体これは、何のための仕切りだったのでしょうね?
この辺りのお城はとにかく、岩盤掘削による造形が見事。

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最後は池跡に築かれた一本道?を通って撤収。

なかなか楽しめる城跡でした・・・マムシに遭遇したけど…(^_^;)

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2016年4月24日 (日)

山名城、根小屋城

2日連続に渡る城攻めでさすがに疲れ果て、オフ会を無事に終えてホッとしたのも束の間…登山装備を解除しようとしていた私に掛けられた、こばたかさんの一言・・・
「まだ外さないでください、終わってないですよ」
・・・・・・ま・さ・か!?

そうだよね、ここまで来てスンナリ帰る訳ないよね…こばたかさんが(^_^;)
という訳で2人で延長戦へ突入(笑)

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延長戦、1城目は山名城へ。
山ノ上碑の臨時駐車場に車を置き、長い石段を上ると・・・

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古墳と、

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山ノ上碑を保護している建屋があります。

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山ノ上碑
その碑文から、天武天皇10年(681)の建碑と考えられています。
・・・さすがに外からでは、碑文は読み取れません。

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山ノ上碑から先は、ご覧のようなよく整備された遊歩道を進み、ものの5分も歩くと・・・

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山名城に到達します。
源義家の孫・新田義重の子・義範がこの城に拠って山名氏を称した頃から、というので相当古い歴史があるようです。

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そのまま進むと根小屋城へと続く山道を逸れると、すぐにハッキリとした堀切がありました。

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竪堀も

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こちらは主郭西側の堀切

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主郭

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主郭に建つ山名城址

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主郭東側の堀

他の部分も見て回りましたが、写真がよろしくないのと、記憶が曖昧なので省略…(;-_-)

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再び山道に戻って1.2~3km先の根小屋城へ向かいます。

根小屋城は永禄年間に武田信玄が上野の監視、及び狼煙城として築かせた城です(関東古戦録、他)。
そして昔から、信玄が上野計略のための軍資金を根小屋城近くの尾根に埋めた、という土地の伝承が残っているのだそうです。
その場所を踏むと、足元は空洞になっているので音が響くことから「鳴るが尾根」と呼ばれているのだとか・・・。以前には、麓の村の子供が戦国期の古銭を拾ったこともあるそうです。

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城域に到達して最初に出迎えてくれる堀切

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その一段上、主郭と帯郭の間を隔てる横堀を進む。

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この横堀には幾筋か、畝のような土盛りがありましたが・・・雑草で分かりづらいですね。

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横堀を時計回りに北側へ進んだ先には、堡塁のような出郭も。
しっかり堀で仕切られています。

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井戸跡

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井戸跡の東側には、主郭北側を守る横堀が続いているのですが、その横堀との間には土橋も。

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そして主郭北側の横堀
この横堀の更に外側にも・・・

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最外郭の横堀が廻らされていました。

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横堀から見上げる主郭切岸

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外側に目を向けると高崎~前橋の街並みが一望の下に…♪
まさに上州の監視には、うってつけの立地ですね。

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主郭東側の堀切。そのまま竪堀が落とされています。

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主郭枡形虎口
なかなか綺麗な枡形です。

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最後に主郭
思っていたよりもしっかりとした遺構が残っていて楽しめました、根小屋城。

さ、今度こそここ強調)、この日の城攻めも終了です(笑)
想定外に暑くなり、本当に持てる体力を使い切って疲れましたが、楽しかった。

一日ご一緒させていただいた皆さん、そして自宅まで送迎してくれたこばたかさん、本当にありがとうございました。

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松井田城、名山城、人見城、磯部城

4月17日(日)、前日の静岡オフに引き続き、この日は群馬の城攻めオフに参加いたしました。
前日は運転手も務めましたが、今回は自宅までこばたかさんが送迎してくれるというVIP待遇付き!(笑)楽チ~ン♪

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まず1城目は、碓氷峠からの東山道(中山道)を押さえる名城、松井田城から。
メンバーは関西からの城仲間を迎えての総勢6名。松井田城の駐車場で集合し、いざスタート。
※松井田城、及びこの後に訪れる磯部城については2度目の訪城で、コチラの記事でも触れています。

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歩き始めすぐに出迎えてくれる堀切…だいぶ薄くなってはいますが。

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水の手の石積み

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安中郭群下(北)の横堀

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切岸の高さはなかなかのものです。

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この横堀、西へ向かって進むと、途中で直角にクランクしながら竪堀に繋がります。

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その竪堀を上った先が安中郭群になります。

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安中二の郭から、同本郭との間の堀切
この辺りが安中氏によって築かれた当初の城域と考えられています。その後、北条家の手が入り(城将・大道寺政繁)、現在に残る規模に拡張されていきました。

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安中本郭への虎口

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安中本郭に建つ大道寺駿河守政繁居城記念

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記念碑の奥は櫓台になっています。
その先は、先ほどの堀切。

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枡形の案内板が立つ地点。
藪で分かりづらいのですが、奥の方で土塁が右に折れて、確かに枡形のようになっています。

この後は本丸を経由したのですが、写真を失敗したため省略…(;-_-)

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本丸西側の堀切
この堀切を越えて二の丸方面へ向かいます。

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堀切を越えると「馬出し」が。
馬出し、ねぇ・・・土塁が廻らされていますが、この位置で馬出しというのなら、本丸よりむしろ二の丸の方に防御の重点を置いていたことにならないかい?

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二の丸
二の丸奥(西)の切岸下には見所の一つ、畝状岨塁(連続空堀)があり、2年前に訪れた際には積雪に阻まれて下りられなかったので、急斜面を一気に下り、勇んで向かいましたが・・・

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藪で全然分からん…(T_T)

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奥の方に多少状態のいい、規模も大きな土塁もありましたが・・・

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唯一、畝っているのが目視確認できたアングルも、写真では・・・(>_<)
ま、山城あるあるですね(笑)

広めの尾根を切り刻むかのように築かれた畝状岨塁。
敵に城を攻められた際、その寄せ手の兵の展開を防ぐためのものではないかとも考えられています。

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畝状岨塁の先、城域最西端の堀切

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南側に向かって竪堀として落とされています。

ここからは北側を回って大手方面へと向かいます。

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二の丸北側の二重堀切…の1本目

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2本目

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その真ん中にそそり立つ土塁上から
写真ではなかなか難しいですが、かなり明瞭な遺構で興奮を覚えました。

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大手門跡の石垣

最後に大手門から北へ伸びる尾根を進み、畝状竪堀へ向かいます。

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見えてきましたね・・・

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畝状竪堀
現地では感嘆の声が漏れるくらいに綺麗に見えたのですが・・・

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写真だと、あの興奮と感動が全然伝わりませんね・・・腕が悪いのか。
これはもう、是非現地でご確認ください。凄いです!!

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畝状竪堀、下から。

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そして直登(笑)

さて、これにて松井田城攻めは終了。
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この後は旧中山道を経由して・・・

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名山城

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林道脇に駐車して、早速攻め上がりますが・・・とにかく藪が凄い!!

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辛うじて城域まで登ると、堀切が2~3本あり、

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主郭は土塁で囲まれていましたが・・・殆どド薮漕ぎの印象しか残っていません(笑)

さ、次へ移動。
この日3城目は、人見城です。

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いきなり東側の見事な空堀が出迎えてくれます。
この空堀の先には・・・

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水の手があります。今でも少しずつ水が湧いているみたい。

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それにしてもいい堀だ。

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一番東側の郭
一段高くなっている部分は・・・

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馬出し、との案内板がありましたが・・・写真手前以外の三方を土塁でしっかり囲まれており、「馬(兵)、出せねえよ!」とのツッコミが…(笑)
ま、すぐ左脇を通る竪堀からのルートを押さえる張り出しのようなものでしょうね。

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人見城は柳瀬川の段丘上に築かれた丘城で、方形の郭が東西方向に規則正しく並べられ、その間を空堀が縦横に廻っています。
(近くには鎌倉街道も通っていたようです)

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縦横の空堀が、それぞれ少しずつ食い違いながら交差するポイント。

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郭は激しい藪でどうにもなりませんが、空堀を歩いているだけでも楽しめる城跡でした。


群馬オフ会、ラストは磯部城へ。
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車を停めた搦手側を流れる用水路。これも堀の名残…か?

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北側の遊歩道から登ると城山公園の広い平坦地に出て、その先に横堀があります。

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少し上段に並行してもう1本。
実は左手の藪の中にも1本通っていて、先ほどの写真のものと合わせて三重になっています。
まずはこの横堀を、時計回りにグルッと回ります。

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横堀のコーナーって・・・格好いいですよね?

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二の丸物見平下から三の丸下にかけての東側を、南に向かって進みます。

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ここもいい!

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なんか堀底の角ばかり撮ってる…(^_^;)

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横堀を時計回りに半周もすると、大手(追手)筋に出ます。

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三の丸への虎口

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そして…今回も「双馬出し」の案内表示が謎だった郭…って何だ??

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二の丸虎口

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二の丸から本丸土塁(土居)
どうせならこの藪も刈ってくれたらいいのに・・・。

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本丸搦手道

前回訪れた時は積雪で横堀を歩けなかったし、新たな見所も知って楽しめました。

さて、これにて群馬の城攻めオフも終了です。
2日連続の城攻め、しかもこの日は規模の大きな松井田城を含む4城…さすがに疲れました。
無事に城攻めを終えて磯部城の駐車場で解散し、あとは我々もこばたかさんの運転で帰るだけとホッとしていたら・・・甘く見てたよね、こばたかさんを…(・・;)

という訳で・・・つづく(笑)

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