カテゴリー「お城、史跡巡り 関東」の133件の記事

2020年1月14日 (火)

大磯で歴史散策

今回は、ドライブがてら大磯へ。
大磯港の駐車場に愛車を置き、旧東海道を辿りながら周辺の史跡を散策することにしました。

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照ヶ崎海岸
元幕府の御典医で、明治以降は帝国陸軍の初代軍医総監も務めた松本順(良順)は、医療としての海水浴を推奨し、その適地として照ヶ崎海岸に日本初の海水浴場を開きました。
松本は伊藤博文に掛け合って、横浜‐国府津間までの延長が決まっていた東海道線に大磯停車場(駅)を実現させ、旅館と病院を兼ねた祷龍館を建設するなどの功績を大磯に残しました。
大磯停車場の開設で海水浴客は増え続け、伊藤博文をはじめ、温暖な気候を気に入った政財界の重鎮らも居を移したり、別荘を構えるなどして大磯は発展していきました。

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照ヶ崎海岸から続くこゆるぎ(こよろぎ)の浜。
照ヶ崎海岸はアオバトの飛来地としても有名なのだそうです。

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松本の功績を讃えるため、昭和4年に建立された謝恩碑。
揮毫は時の総理大臣、犬養毅の筆によります。

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旧東海道が一瞬だけ、国道1号から逸れる地点。
この分岐点付近が・・・

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新島襄終焉の地です。
同支社の創立者としても知られる新島襄は明治23年(1890)1月23日、療養していた大磯の百足屋旅館で亡くなりました。

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「湘南発祥の地 大磯」の碑。

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鴫立庵
その昔、大磯付近の海岸を訪れた西行法師が残した、
こころなき身にもあはれは知られけり
鴫立沢の秋の夕暮
という歌に惹かれた小田原の崇雪という人物が寛文4年(1664)頃、西行を偲んで寺を建立する目的で庵を結んだのが始まりとされます。
崇雪は同時に「鴫立沢」と刻んだ標石も建てましたが、その裏には;
著盡湘南 清絶地
と彫られていました。中国湖南省にある洞庭湖の畔を流れる湘江の南側を湘南といい、大磯が彼の地に似ていることに因んでいるようです。
このことから、大磯は湘南発祥の地ともされているようです。

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その後、元禄8年(1695)に俳人の大淀三千風が入庵して鴫立庵と名付け、現在では日本三大俳諧道場の一つにも数えられているそうです。

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法虎堂、虎御前の木像。
江戸吉原の遊女たちが寄進したもので、木造もお堂も元禄期からの現存です。

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円位堂の西行法師像(等身大)。
こちらも元禄期からの現存とのこと。

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敷地内には、松本順の墓標もありました。
彼の墓所は、同じ大磯町内の妙大寺にあります。

※松本順の墓所、及び虎御前については、こちらの記事後半も参照ください。

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そして、こちらが鴫立沢の標石
但し塩害から守るため、本物の標石は大磯町郷土資料館に移設されており、鴫立庵のものはレプリカになります。

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「ブラタモリ」でタモリさんも覗いていた標石の裏面。
大きく「崇雪」と彫られた下段に、縦書きで2行;
著盡湘南
清絶地
と見えます。

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大磯宿の上方見附を過ぎると・・・

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東海道の松並木。
この少し先(西)にある・・・

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旧大隈重信邸や・・・

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滄浪閣(旧伊藤博文邸)跡は、残念ながら改修工事中でした。

この後もしばらくは、国道1号線に沿って歩いていきます。

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城山公園前交差点
国道1号線は左へ続きますが、旧東海道はこの信号を右へ折れていました。

ここで一旦東海道歩きから離れ、城山公園内を散策することにします。

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まずは旧吉田茂邸へ。

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楓の間
昭和54年には、大平首相とカーター大統領による日米首脳会談も行われたそうです。

なお、旧吉田茂邸は2009年の火災で母屋が全焼し、再建されて2017年から公開されるようになったばかりなので、まだ新築のような真新しさでした。

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食堂(ローズルーム)

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金の間(賓客を迎えるための応接室)からの眺め。
吉田茂はここから見える富士山の眺めを大層気に入っていたそうですが、この日はあいにく・・・。

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あちらに見えるのはサンルーム。
唯一焼失を免れた建物ですが、外壁上部には火災の痕跡も生々しく残っています。
吉田茂の生前には、熱帯植物が植えられていました。

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七賢堂
明治36年、伊藤博文の滄浪閣に建てられたもので、はじめは岩倉具視・三条実美・大久保利通・木戸孝允の4人を祀る「四賢堂」でした。
その後、伊藤博文も祀られ、昭和35年に吉田茂が自邸内に移して西園寺公望を合祀し、更には吉田茂自身も死後に祀られて「七賢堂」となりました。
扁額は佐藤栄作の揮毫。

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吉田茂像
講和条約締結の地、サンフランシスコの方角を向いています。

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続いて国道を挟んだ北側のエリアへ。

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ここは小磯城という城跡でもあり、すぐに堀切らしき痕跡も見受けられました。

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このエリアに三井財閥の別邸があった時代には、橋が架けられていたようです。

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城山公園展望台からの眺め。

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横穴古墳群

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横穴の中は綺麗に成形されているように見えました。

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大磯町郷土資料館に移設された、鴫立沢の標石(本物)。

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裏面は黒ずみ、殆ど読み取れませんでした。

さて、当初はこの先も二宮駅辺りまで東海道を歩くつもりでしたが、急遽予定を変更して大磯港方面へ引き返し、旧吉田茂邸の係りの方にもお薦めされたので、見逃していた島崎藤村の旧居へ向かってみることにしました。

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島崎藤村が晩年の2年半を過ごした住居「静の草屋」

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建物内には入れませんので、お庭からの見学になります。

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八畳の居間と広縁。
昭和18年8月21日、頭痛を訴えて倒れた藤村は、最後に「涼しい風だね」と一言残して昏睡状態に陥り、翌22日、この居間で帰らぬ人となりました。

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この日のラストは、大磯駅近くの地福寺へ。

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島崎藤村、静子夫人(左)の墓所にお参りさせていただきました。

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藤村は息を引き取った4日後の昭和18年8月26日、多くの参列者に見送られてこの地に埋葬されました。
埋葬時には、執筆中だった「東方の門」が掲載された雑誌も投げ入れられたそうです。

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2020年1月11日 (土)

日野駅南にあった旧甲州街道踏切

2020年1月現在、開業130周年を迎えたJR日野駅では、日野宿発見隊さんの主催で「まちかど写真館 in ひの」が開催されています。
その展示されている古い写真の中に、かつて日野駅ホーム南端の先で線路を横切っていた旧甲州街道の踏切を写したものがありましたので、令和を迎えた現在の光景と比較してみることにしました。

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こちらが昭和46年(1971)に撮影された、旧甲州街道踏切の姿。
中央の屋根がとんがっている建物は坂下地蔵堂

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その現在。赤い屋根が坂下地蔵堂です。
旧甲州街道は写真右奥から坂を上ってきて、左側の線路を越えて続いていました。

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坂下地蔵堂と旧甲州街道の踏切跡。
ここにあった踏切を越えた先は「大坂上」。
日野宿佐藤家の御子孫が著した「聞きがき新選組」の中で、京から日野に戻っていた土方歳三が佐藤彦五郎の長男・源之助俊宜を伴い、大坂上から馬を攻めて甲州街道を日野宿まで駆け下った、というエピソードが紹介されていますが、まさにここが、2人が馬で駆け下ったという場所でもあります。

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昭和56年(1981)11月、封鎖される直前に撮影された旧甲州街道の踏切。

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その現在。
ちょっと視界が開けるポイントがありませんでした。

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そして同年12月、封鎖された直後の踏切。

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同じアングルから。
正面に見えているクネクネとした道路や、建物のいくつかは今も変わっていませんね。
旧甲州街道は線路を越えた先で左へ折れ、坂を下って日野宿へ入っていきました。

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最後に日野駅の姿も。
こちらは昭和12年(1937)に撮影されたものとのことです。

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レトロな駅舎は今も殆どその姿を変えることなく、人々の日々の生活を見守り続けています。
私も学生時代から通学・通勤で毎日利用している身。
この風情ある佇まいがこの先、幾世代も長く守り伝えられていくことを願ってやみません。

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2020年1月 3日 (金)

小田原の史跡めぐり…2日目

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小田原史跡めぐりの旅、2日目はホテルのすぐ隣に眠る北条氏政・氏照兄弟をお参りして・・・

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駅前の早雲(伊勢宗瑞)像にも挨拶してからスタート。

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初日に引き続き、小田原城包囲陣跡めぐりにはこちらの図を用います。

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まずは羽柴(豊臣)秀次陣跡(推定地)付近から、小田原城方向。
やや右寄りに水之尾口で、左側のベージュの建物が並ぶ辺りには、攻城のための前線陣地「荻窪仕寄」が築かれました。
秀次の陣跡と推定した周辺には、それを思わせる造成の痕跡らしきものも確認できましたが、私有地と思われるので詳細は伏せます。

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続いて羽柴(豊臣)秀勝の陣跡推定地から。
正面の丘陵全体が荻窪口~水之尾口にかけての小田原城総構のラインで、手前の大きな建物がある辺りが荻窪仕寄になります。

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尾根を振り返り、道路の先に見えている少し高い場所が秀次陣跡の推定地です。

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玉宝寺
小田原城の北を東西に細長く伸びる舌状台地の先端に位置し、五百羅漢像を安置することで知られています。

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寺の背後の裏山から続く尾根筋には中世の多古城もあり、この台地の先端付近とされる織田信雄の陣もこの辺りだったのではないかと推測しました。

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今井陣場跡
豊臣軍の先陣を務める徳川家康が布陣しました。
すぐ背後に酒匂川を控える低地で、周囲は湿地帯が広がる難所だったと云います。当地には元々、柳川和泉守という人物が住んでいて、その宅地を本陣に定めたとか。
柳川家には今も、家康から拝領した鑓などが残っているそうです。

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現在は東照宮が祀られ、小さな家康像が安置されていました。

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周辺には田畑が広がり、湿地帯だったという当時の面影も少し感じさせてくれます。

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蓮上院土塁
家康が布陣した今井に面する、小田原城総構の北東面の土塁になります。
土塁脇の道路はやはり暗渠になっていて、堀跡だったことを伺わせます。

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蓮上院土塁に残る、第2次世界大戦終戦間近の1945年8月13日に小田原を襲った空襲の、爆弾が着弾した痕跡。

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小田原市内めぐりのラストは、やはり小田原城へ。
写真は個人的にツボった、御茶壺曲輪の門跡。

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この図面で、「現在地」のすぐ右上の部分です。

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銅門

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久しぶりに天守にも上りました。

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小田原城天守からの、早川口~石垣山城方面。

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さて、旅のラストは小田原市内を離れて、箱根湯本の早雲寺へ向かいます。
写真はその道中、渋滞中に車を降りて撮影した山崎の古戦場案内碑。

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早雲寺山門

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早雲寺には、箱根山崎の戦いで命を落とした遊撃隊(旧幕府方)戦没者を供養する碑が建てられています。
※箱根山崎の戦い、遊撃隊についてはコチラ

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建碑者は遊撃隊を率いた人見勝太郎です。
戦没者の名を刻んだ右側の碑の最後に、静岡縣士族 人見寧の文字も見えます。
(寧は勝太郎が明治以降に名乗った名です)

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無論、北条五代の墓所にもお参り。

早雲寺には他にも、医家・曲直瀬家の三代目で秀忠の侍医も務めた今大路(曲直瀬)道三玄鑑や、連歌師宗祇らの墓所もあります。

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小田原北条家の祖・伊勢宗瑞の末子で、五代・氏直の代まで長老として重きをなした幻庵の作庭とも伝わる枯山水石庭「香炉峯峰」
しかし、その様式から1600年代中盤の作ではないかともされ、江戸時代に入ってから整備し直している可能性も指摘されているようです。

さて、これにて2019年の歴旅もおしまい。
この後は箱根湯本駅から帰路に就きました。

2019年もなんだかんだで、感慨深い旅を多く経験できました。
この記事がUPされている頃には年も明けていますが、2020年も時を超えたいい出会いが待っていますように♪

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2020年1月 2日 (木)

小田原の史跡めぐり…初日

令和元年最後の旅は小田原へ。

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小田原在住のフォロワーさんにご案内いただき、天正18年(1590)の小田原征伐における豊臣軍の小田原城包囲陣跡(上図参照)を中心に、小田原市の史跡をめぐります。

まずは初日。
12月29日の朝9時に早川駅で集合し、最初に向かった先は・・・

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海蔵寺
嘉吉元年(1441)、当時の小田原城主であった大森氏による創建と伝わります。
天正18年、豊臣軍による小田原城包囲が始まると、この付近には堀左衛門督(久太郎)秀政が布陣しました。

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海蔵寺の墓地、小田原城や相模湾を望める見晴らしのよい一画には、その秀政の墓所があります。
織田信長の側近として頭角を現し、やがて「名人久太郎」と謳われて豊臣秀吉にも高く評価された秀政は、小田原城包囲の陣中に病に倒れ、38歳の若さでこの世を去りました。
彼に殉じたものと考えられる家臣らの墓も連なります。

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海蔵寺付近から小田原城~早川口方面の眺め。
左寄りの木々の上に天守も見えています。

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同じく、細川忠興が布陣した富士山陣場(左手前の小山)と、右奥に小田原城総構の稜線。

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続いては、石垣山城南西の早川石丁場群関白沢支群へ。
まずは箕ヶ窪橋下に保存されている石丁場から。

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箕ヶ窪橋下の石丁場は道路建設に伴う発掘調査により、規模が大きく保存状態も良好な遺構であることが判明し、道路に橋を架ける設計に変更して保存されました。

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箕ヶ窪橋から、林道で山中を西へ進みます。
こちらの石には「此左□」という刻印があることから、石垣山城の石垣から発見された「此石可き左右加藤肥後守石場」と刻まれた石と同様の、標識石ではないかとも考えられています。
やはり道路建設時の調査で判明し、保存のためにこの場所へ移設されたそうです。

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石曳道
早川石丁場群は17世紀前半の、江戸城の石垣用石材を切り出すための作業場跡。
この石曳道は、山中で切り出された石を曳いて山麓まで下ろし、江戸へと運ぶために築かれたものです。

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更に西へ進み、こちらの苔生した矢穴石が現れた辺りから斜面に取り付きます。
すると・・・

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山の斜面には、大きな石がそこかしこにゴロゴロと転がっていました。
ほぼ全ての石に矢穴の跡が残っています。

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一つ一つ挙げていってもキリがないので、ごく一部だけ・・・。

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そこはかとなく漂うラスボス感(笑)

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とても見応えのある遺構でした。

この後は石垣山城を散策しましたが、過去の記事とも重複するので詳細は省略します。

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石垣山城本丸から、小田原の市街と駿河湾を見渡す。
往時は、ここから小田原城包囲戦の様子がよく見えたことでしょうね。

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こちらが件の「此石可き左右加藤肥後守石場」と刻印されている標識石。
・・・私には殆ど読み取れませんでしたけど(;^_^A

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井戸曲輪周囲の木が伐採され、石垣越しの景色の抜けが最高でした。

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お昼は小田原市街で鰺醤油ラーメン。
お店のある場所は江戸時代には桶屋さんだったそうで、ラーメンの器も桶。

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細川忠興が布陣したと云う富士山陣場へ向かう途中、旧東海道沿いの板橋地蔵堂境内にあった供養碑。
慶応4年(1868)の戊辰戦争の折、小田原藩士に殺害された新政府軍の軍監・中井範五郎(鳥取藩)や、箱根山崎の戦いで犠牲となった新政府軍士卒など計13名を供養したものです。

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閑静な住宅街の急坂を登っていくと、ご覧の案内標識もあったのですが・・・

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いざ頂上付近まで来てみると、無情にも立入禁止とか・・・陣場の遺構まで辿り着くことができませんでした。

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仕方なく、頂上付近からの早川口方面(写真)等の眺めを確認してから撤収しました。

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早川口遺構
二重外張と呼ばれる堀と土塁を二重にした小田原城総構の遺構で、北条氏の時代には虎口(早川口)であったと考えられています。
東海道が整備された江戸時代には、虎口も街道に沿った上方(板橋)口に移りました。

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土塁外側の通りは用水路の暗渠となっており、かつてはそこに堀があったことを匂わせます。

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続いてはこちらの古地図にある、小田原宿の上方(板橋)見附跡・大久寺・居神神社を散策します。

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旧東海道小田原宿、上方(板橋)見附の枡形跡。
旧東海道はこの先、板橋村(小田原市板橋)へ続いていたことから、板橋見附とも呼ばれました。

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大久寺大久保家墓所
大久寺は小田原藩初代藩主・大久保忠世が開基となって創建された、大久保家の菩提寺です。
向かって右から三代・加賀守忠常、二代・相模守忠隣、中央正面が初代・七郎右衛門忠世の墓石。

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居神神社
永正17年(1520)、北条氏綱によって創建されました。
父・伊勢宗瑞が滅ぼした三浦道寸の嫡子で、やはり宗瑞に攻められた際に新井城で自刃した三浦義意を祭神としています。
・・・供養の意味もあったのでしょうか。

初日のラストは、小峯御鐘ノ台大堀切へ。
こちらも総構をめぐった過去の記事と重複しますので、詳細は省きます。
※なお、総構についてはコチラの記事もご参照ください。

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しかし、前に訪れた際は立ち入れずに未訪だった西堀が、見学できるようになっていました。

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小峯御鐘ノ台の西堀は、天正18年の豊臣秀吉の侵攻に備えて築かれた総構の一部です。
こんな素晴らしい遺構が現代まで、奇麗に残されていたことに感謝。

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小峯御鐘ノ台から、この日に訪れた富士山陣場、そして石垣山城。
北条側からの、対陣する豊臣方との距離感です。

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夜は小田原駅前で懇親会。
なんだかんだで、3次会まで飲み明かしましたとさ。

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2019年12月 3日 (火)

小田城、平沢官衙遺跡

今回はドライブがてら、ずっと未訪のままになっていた小田城跡(茨城県つくば市)へ。

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小田城
築城時期は定かではありませんが、鎌倉期以降、常陸国で勢力を張ってきた小田氏が代々居城としてきました。南北朝期には小田治久(7代)に迎えられた南朝方の重臣・北畠親房が、同城で「神皇正統記」を執筆しています。
小田氏15代・氏治は、上杉謙信や佐竹氏との争いの中で幾度となく居城を追われますが、その都度、しぶとく旧領を回復しました。
しかし永禄12年(1569/但し元亀4年=1573説が有力)に佐竹氏に敗れて土浦へ逃れると、それ以降、氏治が小田城に返り咲くことは叶いませんでした。
小田城には佐竹氏の家臣・梶原政景が城代として入城しています。この政景によって小田城には大改修が加えられたと考えられていますが、慶長7年(1602)、佐竹氏の秋田転封に伴って廃城となりました。

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本丸北隅から、西面の堀と土塁。
北隅の土塁に開けられた通路?より、本丸内へ入ってみます。

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土塁を貫通する通路。
土塁の断面についての説明書きも。

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小田城本丸から振り仰ぐ筑波山(左奥)

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本丸内
様々な遺構が復元展示されていました。

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南西虎口

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南西虎口の先、南西馬出。
堀からは橋脚が出土しており、本丸との連絡は木橋で繋がれていました。

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南東隅の櫓台

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本丸から見る東曲輪

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東曲輪へと続く東虎口。
東曲輪とは、土橋と木橋を組み合わせて築いた橋で繋がっていたようです。

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東曲輪
東曲輪からは建物跡が殆ど検出されておらず、こちらもやはり馬出だったのではないか、とも考えられています。

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東曲輪に建つ城址碑と、奥に本丸北東隅の櫓台。

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本丸北東隅櫓台から、右に本丸、左に東曲輪。

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本丸全域

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本丸北面の堀と土塁。

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北虎口
北虎口を出た先にも、馬出が築かれていたようです。

小田城は綺麗に復元整備されており、とても「わかりやすい」城跡でした。
いずれは前出の図面を元に、本丸に限らず全域の痕跡探しなどもしてみたいですね。

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平沢官衙遺跡
奈良~平安期にかけての常陸国筑波郡の官衙(役所)跡です。
小田城跡から近かったので寄ってみました。

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発掘調査の結果、大型の高床式倉庫らしき建物が建ち並び、その周囲を溝で囲っていたことが判明しているそうです。
その建物の一部が復元されています。

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復元建物以外にも、建物跡の位置などが地面に示されていましたが、礎石に関しては、その全てが元の位置から動かされていたため、元の位置を推定して再配置されたとのことです。

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天気にも恵まれ、いいドライブになりました。

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2019年11月30日 (土)

大嘗宮を拝観

令和元年12月8日まで行われている大嘗宮の一般参観に足を運んできました。

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一般参観の入場口となる坂下門。
この日は天候にも恵まれ、多くの人で賑わっていました。

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なんと、桜と紅葉のコラボレーション。奥には富士見多聞櫓も。
桜は「十月桜」という品種で、4月上旬と10月頃の年2回開花するのだそうです。

なお11月30日からは、この先の乾通りも12月8日まで一般公開されます。

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富士見櫓の足元を抜け、本丸跡へ。

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大嘗宮は江戸城本丸、大奥跡地付近(天守台のすぐ近く)に建てられていました。

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天皇陛下の皇位継承に伴って執り行われる行事の一つ、大嘗祭。
大嘗宮は、その中核儀式となる「大嘗宮の儀」が行われる場所で、即位した新天皇が新穀を神々に供え、自らも召し上がって国家・国民の安寧と五穀豊穣を祈念されます。

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今回は「悠紀殿供饌の儀」が令和元年11月14日の夜、「主基殿供饌の儀」が同11月15日未明に行われました。

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お供えする神饌が調理された膳屋の壁面。

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宗教儀式としての性格があるため、国事行為となる「即位の礼」の各儀式とは異なり、「大嘗宮の儀」は皇室行事とされています。
それでも政教分離の原則から、公費を支出するべきではないとの意見もあり、経費節減のため、屋根が萱葺きから板葺きに変更されたり、一部の建物を組み立て式にしたりといった工法の変更もあったそうです。

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後方から。
向かって右の大きな建物が「主基殿」で、左奥が「悠紀殿」。

大嘗宮は一般参観が終了すると取り壊されるそうです。
ほんの少しの間、人混みから垣間見る程度でしたが、貴重な体験をさせていただきました。

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2019年11月19日 (火)

広徳寺

ようやく秋の気配も漂い始めた11月のとある日曜日。
本当ならば筑波方面へ遠征しようと思っていたのですが、寝過ごしてしまい断念。
代わりに手近なところで、あきる野市の広徳寺へお邪魔してみました。

道中、先の台風による土砂崩れなどの影響で通行止め箇所がいくつかあり、幾度となく迂回を余儀なくされました。
広徳寺の周辺は道幅も狭く、車での走行には注意が必要です。

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広徳寺総門(市指定文化財)
掲げられた額の「穐留禅窟」は松江藩主・松平不眛の筆によりますが、実際に額が製作されたのは不昧が没した1年後の文政2年(1819)。
松江の不眛と広徳寺に、どのような繋がりがあったのでしょうか。

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山門
こちらも市指定文化財。

広徳寺は応安6年(1373)の開基。
天文年間に北条氏康によって堂舎が再建され、江戸時代には幕府から40石の朱印地も与えられていました。
現在、その境域は東京都の史跡に指定されています。

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山門を抜けた先、大きな銀杏の木の間から本堂が覗いています。

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とても素敵な茅葺屋根の本堂(左)と庫裡(右)。

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広徳寺には、発給名義は真月斎道俊(大石定久)ですが、北条氏の「禄寿応穏」の虎朱印が捺されている寺領書立文書が残されています。
大石定久は北条氏康の子・氏照を養子に迎えて家督を譲り、五日市の戸倉城に隠居して道俊と号しました。
但し、その没年は天文18年と伝えられており、天文20年9月6日付の本文書と整合性が取れないことになってしまいますが、この辺りはどういうことになるのでしょうか。。。
※定久の没年については、天文22年とする史料も存在しているそうです。

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東京都の天然記念物に指定されているタラヨウ(モチノキ科)

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同じく都指定天然記念物、カヤ(イチイ科)

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まだまだ豊かな自然が残るあきる野。
周辺の情景をゆったりと愉しみながら、ウォーキングのついでにでも立ち寄ってみるのもいいのではないでしょうか。

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2019年9月20日 (金)

「松平家忠とその時代 ~『家忠日記』と本光寺~」展

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駒澤大学の耕雲館(昭和3年築)

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耕雲館に入っている禅文化歴史博物館で、令和元年11月13日まで開催されている企画展松平家忠とその時代 ~『家忠日記』と本光寺~に足を運んでみました。

松平家忠は深溝松平家の4代目。
天文24年(1555)に生を受け、徳川家康の家臣として活躍しています。慶長5年(1600)、関ケ原合戦の前哨戦となる伏見城籠城戦で討死を遂げました。(享年46)
彼が残した「家忠日記」(駒澤大学図書館蔵)は同時代の歴史・情報を得られるだけでなく、戦国武将の日常を知る上でも貴重な史料となっています。

また、本光寺(愛知県幸田町/長崎県島原市)は深溝松平家の菩提寺。松平家の島原移封に伴い、同地にも創建されました。
所蔵する数多くの貴重な文書類が、今回の企画展にも出品されています。

展示内容は「家忠日記」をはじめ、今川義元・同氏真・織田信長・上杉謙信・北条氏政・石田三成らの書状や感状、安堵状といった文書類が中心の構成で、中には「伝・鎮西八郎為朝鏃の鑓」(愛知県本光寺)や、「権現様御手拭」(長崎県本光寺)といったものまでありました。
展示資料数は40点弱と決して多い訳ではありませんが、その一つ一つの全てが、とても興味深いものばかりといった印象です。

何よりもやはり、三河(深溝~岡崎)にいる家忠の元へ刻々と寄せられる本能寺の変にまつわる風説や家康一行の動向を、リアルタイムに記した「家忠日記」天正10年(1582)6月3~4日の項を直に拝観できたのが嬉しかったです。

入館無料な上に、図録も無料とのこと。
私が訪問した9月19日現在、図録はまだ未完成でしたが、申し込めば後日郵送(送料無料/一人一冊)していただけます。
チャンスのある方は是非、開館日(平日の10:00~16:30/但し平日にも休館日有)に注意して訪れてみてください。

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2019年8月 6日 (火)

日本初の動力飛行を記録した飛行機

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今回は久しぶりに、所沢航空発祥記念館へ。

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所沢航空発祥記念館に訪れるのは、2013年に零戦を観に来て以来です。
今回の目的は・・・

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日本で初めて動力飛行を記録したアンリ・ファルマン機(1910年製)です。
明治43年(1910)4月、徳川好敏・日野熊蔵両大尉は飛行機の研究と購入を目的に、それぞれフランス・ドイツへと派遣されました。
なお、徳川大尉は御三卿清水徳川家の八代当主にあたります。

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同年10月に帰国した両大尉は12月、代々木練兵場(現代々木公園)にて、それぞれが購入してきた飛行機での飛行実験に臨みます。
12月14日、まずは日野大尉の操縦するハンス・グラーテ機が地上滑走試験・予備飛行に於いて高度2m/飛行距離100mを記録し(但し滑走時に"浮いた”"ジャンプした”だけ、との見解もあり)、次いで19日、公式の飛行記録会に於いて徳川大尉のアンリ・ファルマン機が高度70m/飛行距離3000m、飛行時間3分を記録しました。これが日本初の動力飛行となります。

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代々木練兵場で飛行実験に臨むアンリ・ファルマン機の様子(模型)
アンリ・ファルマン機が離陸した地点は、現在の明治神宮境内にあたるようです。

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アンリ・ファルマン機は退役後も所沢の航空参考館に展示・保管されていましたが、1945年の第二次大戦終結後にアメリカに運ばれます。
そして1960年5月21日、日米修好100周年と日本の航空50周年を記念して返還されました。
(以降、2008年までは千代田区の旧交通博物館で展示)

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会式一号飛行機(レプリカ)
アンリ・ファルマン機での飛行実験に成功した翌明治44年(1911)、徳川大尉は同機を参考に、自らの設計・製作による日本初の軍用訓練機・会式一号飛行機を所沢飛行場(現所沢航空記念公園)で完成させます。
同年10月13日、所沢飛行場での飛行実験では最大高度85mを記録し、航続時間も3時間を実現するなど、フランス製のアンリ・ファルマン機よりも高い性能と操縦性を評価されました。

・・・たまにはジャンルの違う分野のお勉強もいいものですね。

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2019年6月 3日 (月)

足利政氏館跡(甘棠院)

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埼玉県久喜市本町、甘棠院総門。
甘棠院はコチラの記事でも少し触れた足利成氏の子で、古河公方第二代・足利政氏の館跡と伝えられています。

政氏は、古河公方の座や山内上杉氏の後継を巡って嫡子・高基と対立し、次男・義明にも反旗を翻されて次第に追い詰められていきます。
古河城を失った政氏は小山氏の庇護下に入り、後に出家して久喜の館に隠棲することで高基と和睦しました。
永正16年(1519)、出家した政氏は自らの館を寺とし、この甘棠院を開きます。

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総門には、足利氏の二つ引両紋も。

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中門
この両脇に堀跡が残っています。

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中門東側の堀跡。

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こちらは西側。
西側の堀は写真の先で右へ折れ・・・

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墓地脇の館跡西面へと続いています。

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甘棠院北側の甘棠院史跡公園。
芝生で堀跡の形状を示している、とのことでしたが・・・いまいちイメージが掴めませんでした。
写真右手の樹林も館の跡地になるのですが、現在では白鷺の巣窟になっているそうで、夥しい数の白鷺がけたたましく鳴き、そこら中に糞や羽が散乱していました・・・。

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甘棠院東側の路地。
この細い屈折した形状も、なんとなく堀跡を思わせます。

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甘棠院本堂
政氏の墓所もありますが、お寺の方とコンタクトを取れなかったので拝観は諦めました。
政氏に関連する宝物も残されているようです。

この後は、前の記事で書いた通り鴻巣の勝願寺へ、伊奈忠次の墓参に立ち寄ってから帰路につきました。
圏央道は渋滞もないし、距離的にも日帰りで出かけるにはちょうどいい感じ。いいドライブになりました。

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