カテゴリー「お城、史跡巡り 関東」の147件の記事

2021年1月 4日 (月)

首洗池と浅間の森

2021年最初の史跡めぐりは、神奈川県相模原市緑区寸沢嵐へ。

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まずは、国道412号線沿いにひっそりと佇む首洗池へ。

永禄12年(1569)10月、関東に侵攻した武田軍と、迎え撃つ北条軍との間で勃発した三増合戦
合戦後、信玄率いる武田軍は甲斐国へ引き上げる道中、「反畑」と呼ばれたこの地で討ち取った北条兵の首実検を行ったと伝えられています。
※今回の記事は三増合戦に関連した内容となりますので、下にご紹介する記事も併せてお読みいただけると幸いです。
三増合戦 (もののふ戦国バスツアー)

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この際、実検に供される北条兵の首を洗ったとされるのが、この首洗池です。

現地案内板には「実検後、首は浅間の森に塚を築いて埋葬された」とありましたので、その浅間の森にも行ってみます。

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首洗池のすぐ西の路地を南(やや南西)の方角へ。
結構な勾配の坂をひたすら登っていきます。

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国道412号線から400mほども進むと、帝京平成大学の薬用植物園のフェンス際に「浅間神社」の白い看板が立っています。
ここを左へ入り、フェンスに沿ってすぐに右へ曲がります。その先に・・・

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浅間の森があります・・・が、あまりの藪り具合に心が折れそうになりました(笑)
折角ここまで来たのだからと藪を掻き分け、フェンス際を30mほど進むと少しだけ藪が途切れ、左の浅間の森へ分け入れるポイントがありました。

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浅間の森の中には笹薮もなく、すぐに首塚の案内板が目につきました。

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首実検の後、武田軍によって築かれたと云う首塚

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首塚の上には浅間神社の石碑が建っています。
武田軍は塚を築いて首を葬った後、塚の上に祠を立てて供養したと伝えられ、これが、この地にいつの頃までか浅間神社が祀られていた始まりとなったそうです。

ところで、首洗池の説明板には「武田軍は反畑(首洗池周辺?)で首実検をした後に、浅間の森に埋葬した」と書かれていましたが、それだと武田軍は首実検をした後、埋葬のためだけ?に甲斐への帰路とは反対の方向へ引き返し、しかもわざわざ高台に登って首塚を築いたことになります。

同説明板によると、三増から引き上げてきた武田軍は「沼本の渡し」からと、「三ヶ木新宿」方面からとに分かれて道志川を渡ったのだそうです。
冒頭で紹介した三増合戦の記事で私は、道志川を渡った武田軍は上の山城を経由して「信玄森」で首実検を行った、といった趣旨のことを書きました。
この「信玄森」は地元の訛りなのか「せんげん森」と読む、とも書いていますが、信玄(武田軍)が築いた塚の上の祠が浅間神社になり、やがて「信玄」と「浅間」がない交ぜとなって伝えられた伝承だったのかもしれません。

そして地理や地形的な条件を考えると、南寄りの三ヶ木新宿から渡河した一隊が上の山城を経由して浅間の森に至り、北寄りの沼本からの一隊は首洗池で討ち取った首を清めた後に浅間の森の高台に登り、別動隊と合流して見晴らしの利く浅間の森(の高台)で首実検を行った、という流れ・状況だったのではないかと想像してみました。

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最後に・・・浅間の森付近から、武田軍が進んでいったであろう甲斐への方角。
(正面方向には甲州街道の与瀬宿があります)

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2020年12月21日 (月)

出雲伊波比神社(毛呂大明神)

2020年12月20日、2年前に訪れた際には藪に覆われ、まともに見ることができなかった鎌倉街道の掘割遺構のリベンジのため、埼玉県毛呂山町を再訪しました。
参考記事(後半部分)

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その際、車を置かせていただいた毛呂山町歴史民俗資料館で令和2年度の後期企画展「戦乱の世の文化財」が開催されていたので、こちらもちょっと覗いてきました。

その中で、小田原の北条氏が「茂呂(毛呂)大明神」(出雲伊波比神社)に宛てた印判状(毛呂山町指定文化財「小田原北条氏の鐘證文」)の存在を知り、とても興味を惹かれたので実際に出雲伊波比神社を訪れてみることにしました。

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「毛呂大明神」出雲伊波比神社

北条氏の印判状は天正十六年(1588)正月五日付で、上方の豊臣政権の脅威が迫る中、来る戦に備えて梵鐘の供出を命じたものです。
世上が静謐になったら再び鋳造して寄進する旨を約した証文の体裁になっていますが、ご存知の通り北条家は2年後の天正18年(1590)の戦乱に敗れたため、梵鐘が寄進されることもありませんでした。

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出雲伊波比神社の本殿(国指定重要文化財)は、発見された棟札から大永8年(1528)に時の領主・毛呂顕繁によって再建されたことが判明しています。
毛呂顕繁は、山内上杉顕定と扇谷上杉朝良が争った永正元年(1504)の立河原合戦(現東京都立川市)にも、山内上杉方として参戦した人物でもあります。
この時、扇谷上杉方には北条早雲(伊勢盛時)や今川氏親の軍勢も援軍として参陣していました。

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毎年11月に行われる鏑流馬神事の馬場。
出雲伊波比神社の鏑流馬は、奥州平定に向かう源頼義・義家父子が当社で戦勝祈願を行い、その凱旋時の康平6年(1063)に再び参拝し、流鏑馬を奉納したのが始まりとされているそうです。

・・・偶然立ち寄った場所に、なんとも凄い歴史が眠っていたものです。

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2020年11月 2日 (月)

神奈川県で「毛利」めぐり

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神奈川県厚木市下古沢に祀られる三島神社。
その境内の一隅に・・・

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毛利氏発祥の地
毛利季光屋敷跡
の石碑が建てられています。

毛利季光は、源頼朝に仕えた鎌倉幕府の御家人で初代政所別当を務めた大江広元の四男。
父から相模国毛利庄を相続し、「毛利」姓を名乗りました。
承久の乱(承久3/1221年)では父と共に幕府方として活躍し、その功によって後に毛利氏の本拠となる安芸国吉田荘を与えられています。
しかし宝治元年(1247)、執権北条氏と三浦氏の対立(宝治合戦)が起きると、娘を執権・時頼に嫁がせていた季光は北条方に参じようとしますが、三浦氏の出であった妻の「三浦氏を見捨て、勢いのある北条氏の味方をすることは武士の義に反する」との一言で三浦方に転じ、敗れて息子らと共に自害して果てたと伝えられています。

季光の四男・経光は所領の一つ、越後国佐橋荘に赴いていたために乱には巻き込まれず、その子・時親が後に安芸国吉田荘に移り住みました。
これが、戦国期に西国の雄として名を馳せることになる毛利元就へと続く、安芸毛利氏の始まりとなったのです。

碑文によると土地の伝承や古地図・古い地名などから、三島神社を中心とした一画に季光の屋敷があったと考えられているため、ここに碑が建てられたようです。
実際、下古沢の南方には「毛利台」「南毛利」といった地名が今も残されています。

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お次は少し北へ移動し、峠を一つ越えた飯山に建つ光福寺へ。

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光福寺開基の隆寛律師は浄土宗の開祖・法然に師事した僧侶で、嘉禄3年(1227)の嘉禄の法難により、京から陸奥国(会津)へと流されることになります。その護送を務めたのが毛利季光でした。
隆寛に帰依した季光は隆寛の身を慮り、自らの所領である相模国飯山で匿うことにします。会津へは代わりに、隆寛の弟子の実成房が赴きました。
師と仰ぐ隆寛を迎え、その隆寛が開基した光福寺が飯山にあることから、季光の屋敷も飯山の、この光福寺近くにあったのではないかとする説もあるようです。
この付近一帯は当時から、飯山観音として名高い長谷寺の門前町としても栄えていたようです。

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光福寺に眠る隆寛律師の墓所。

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「毛利元就の祖ゆかりの寺」を謳った看板。
折角なので門前を抜けるこの道を西へ向かい、飯山観音にもお参りしていくことにします。

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飯山観音、飯上山長谷寺に到着。

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長谷寺は神亀2年(725)の行基による開創とも、弘仁年間(810~824)の空海による開創とも伝えられる、大変に歴史ある真言宗寺院です。

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嘉吉二年(1442)の年紀を有する銅鐘。県の重要文化財に指定されています。
刻銘には「毛利庄飯山の新長谷寺が嘉吉二年の春に火災により焼失したため、堂宇の再建に先立ち、人々の銅鐘鋳造への強い願いを受け、麓の金剛寺の住僧だった誾勝が寄付を募って同年四月五日に完成した」といった内容が記されているそうです。
・・・やはり、飯山も間違いなく「毛利庄」だったのですね。

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飯山観音から毛利庄を眺め渡す。

この地に起こった一族がやがて安芸国へと移り、300年の後に西国の雄として名を馳せ、織田信長とも対峙していく・・・。
改めて歴史の繋がりの不思議さ、奥深さを感じた一日でした。

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2020年10月30日 (金)

麻場城

前記事でご紹介した甘楽町小幡について事前に調べていた際、同じ甘楽町の白倉に遺構の良さ気な城跡を見つけたので、出かけたついでにちょっと立ち寄ってみました。

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城跡東側の駐車場から。
私の愛車と比較して、土塁の高さがよく伝わるかと思います。

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麻場城図
お城の歴史についても、こちらの案内板をご参照ください。この城も小田原征伐時に攻められていたのですね。

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城域北面。
なかなかの高低差です。

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笹曲輪から、本丸(東側)方向。
見事な横堀ですが、土塁の傾斜が途中で不自然に変わっているのが気になります。

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本丸との間には木橋が架けられていました。

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本丸北西端方向。

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本丸側に渡り、笹曲輪を振り返った様子。

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本丸。
奥に二の丸が見えています。

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二の丸との間に架かる土橋。

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土橋から二の丸方向。
行く手を土塁が遮り、二の丸への虎口は少し右へずらしてあるようです。

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虎口側から土橋を見るとこんな感じ。
桝形の原型というか、同じ意図を持った構造とは思いますが、何故二の丸側だけにあるのでしょうか?…むしろ、本丸側にこそあってよさそうな気もします・・・。
それとも、土塁と土橋との間にある通路状のスペースが、実は馬出のような役割を担っていた・・・??
いずれにせよ、不思議な構造でした。

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二の丸から虎口部分。

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二の丸から本丸の西面。
やはり、斜面の途中から急に落ち込んでいますね。
本来の残存遺構はもっとなだらかで浅くなっていたものを、調査に基づいて往時の深さまで掘り下げたということでしょうか。

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麻場城想像図
城址公園としてよく整備されていて遺構の状態も良く、見応えのある城跡でした。

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2020年10月29日 (木)

群馬県で「織田」めぐり

今回は群馬県甘楽町までドライブ。
織田信長の次男・信雄にもゆかりのある、上野国甘楽郡小幡の地をめぐります。

大坂の陣が終結した元和元年(1615)、信雄は徳川家康より大和国宇陀郡に3万石、上野国甘楽郡に2万石を与えられます。
元和3年に上野国甘楽郡の方を四男の信良に分知し、小幡藩を立藩させました。
以来、明和4年(1767)に出羽国高畠藩(後、陣屋の移転に伴い天童藩)へ移封となるまでの約150年間、小幡は織田氏による統治が続きます。

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小幡八幡宮
小幡陣屋の鬼門封じとして、正保2年(1645)に勧請されました。

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拝殿には龍の天井画が描かれているそうです。
参道には、「織田家の守護神」との幟も見受けられました。

まだ楽山園の開園時間まで少しあったので、八幡宮周辺を散策します。

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養蚕農家群の町並み(明治中期頃)と雄川堰。
近くの富岡市には明治5年に富岡製糸場が建設されたように、小幡でも養蚕が盛んに行われていたようです。
雄川堰は一級河川の雄川から取水している用水路で、最初に開削された年代は不明ながら、小幡に陣屋を築く際に城下の地割と共に用水割も計画され、現在見られる姿に改修されたものと考えられています。

では陣屋の方へ。

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小幡陣屋見取図
小幡陣屋は寛永6年(1629年)、織田信昌によって築かれました。

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陣屋の大手門から藩邸までを繋いでいた中小路。
陣屋の中心的な路との意味から「中小路」と呼ばれましたが、道幅などは「小路」という規模ではありません。
写真の左手前は武家屋敷「高橋家」、勘定奉行の役宅だったそうです。
小幡陣屋は藩主屋敷(藩邸)にとどまらず、こうした家臣屋敷なども取り込み、広大な面積(34ヘクタール)を誇りました。

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松平家大奥
織田氏の後に小幡へ入った松平(奥平)氏の藩主夫人や、仕える女中らが住んでいたと伝わります。
幕末、ペリー来航の折には江戸城大奥の女中ら15~16人ほどを、親藩である小幡藩のこの大奥に避難させたとも云われています。

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松平家大奥の庭園。
江戸後期の作だそうです。

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喰い違い郭(山田家)の石垣…中小路の曲がり角に位置します。
「喰い違い郭」と名づけられた家臣屋敷か何かの虎口、という理解でよかったでしょうか?

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小幡藩邸の中門

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中門前の道路が緩やかにカーブし、それに合わせて石垣もカーブしていましたが、前出の陣屋見取図にも中門前の通りがカーブして描かれていますので、往時もこのような形状をしていたのかもしれません。

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小幡藩邸図

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中門を潜ると石垣で小さな桝形が築かれており、その先にも行く手を遮るように土塁が立ち塞がります。

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土塁の手前には空堀も。

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土塁を抜けて内郭に入り、中門方向を振り返った様子。

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藩主の屋敷などが建ち並んでいた内郭。
地面には屋敷などの配置が展示されていました。

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藩邸の庭園「楽山園」、国の名勝にも指定されています。
昆明池越しに、左から腰掛茶屋・梅の茶屋。

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熊井戸
小幡藩邸(楽山園を含む)は、小幡氏の重臣だった熊井戸氏の屋敷跡地を利用して築かれたと「上野国誌」に書かれているらしいのですが・・・その熊井戸氏と、この「熊井戸」は何か関係しているのでしょうか?

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泉水

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楽山園の面積は、藩邸全体の半分以上にも及ぶ広大なものです。
二万石クラスの大名屋敷としては、確かに少々贅が過ぎるような気もします…(;・∀・)
これも「織田」の自負がなせる業、なのかなぁ・・・?

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腰掛茶屋前から、藩邸全体を俯瞰。

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外廓の拾九間長屋前から内郭の土塁。
手前の石垣と土塁の間は空堀になっています。

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拾九間長屋
藩邸のジオラマや、信雄の書状(小牧長久手戦に関連)などが展示されていました。

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藩邸を辞し、次の目的地へと向かう途中で見かけた分水路。

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小幡藩(松平家)の中老を務めた松浦氏屋敷。
こちらも綺麗に整備されています。

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主屋から、熊倉山を借景にした眺め。

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庭園の池には、かつては滝も流れていたそうです。

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お次は車で少し移動して、崇福寺の織田氏七代の墓所にお参り。
右手前から信雄・信良・信昌・信久・信就・信右・信富の墓石が並びます。

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さすがに信雄のお墓だけ、一回り墓石が大きいようでした。

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崇福寺本堂
奥は織田氏位牌堂。2度の火災を免れた、織田氏歴代藩主の位牌が安置されています。

元々、小幡織田氏の菩提寺は宝積寺に定められていましたが、4代・信久が廃寺となっていた崇福寺を再興して菩提寺とし、先の3代の墓石も宝積寺から移したのだそうです。

本当に久しぶりの遠出でしたが、天候にも恵まれて良き散策となりました。

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2020年10月24日 (土)

特別展「桃山―天下人の100年」拝観

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今回はトーハクの平成館へ。

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2020年10月6日~11月29日まで開催されている特別展「桃山―天下人の100年」を拝観させていただきました。

屏風絵や茶器、甲冑、刀剣、文書類、etc...
あらゆるものが国宝・重文のオンパレードで、「さすがはトーハク」といった規模の充実した展示内容。
「なるべく90分以内でご観覧ください」との掲示を見かけましたが、一つ一つの展示品拝観にあまり時間をかける方でもない私ですら、気がつけば1時間を優に超えていましたので、なかなかハードルが高いかも(笑)…それほどの展示ボリュームです。

なお感染症対策のため、入館は30分刻みで人数制限されており、web等での事前予約(購入)が必要となります。
前後期など期間内に展示替えもありますので、ご興味をお持ちの方は公式サイトでご確認の上、お出かけになってみてください。

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個人的には山形の致道博物館が所蔵する;
太刀 銘 真光(梨地糸巻太刀)
を拝観できたことも嬉しかったです。
そう、天正10年(1582)の甲州征伐からの凱旋の折、酒井忠次が織田信長から拝領したと伝えられる一振です。
迷わず絵葉書もゲット♪

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2020年10月 4日 (日)

「中世青梅の城館跡」展

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今回は青梅市の釜の淵公園までドライブ。

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目的はこちら。
青梅市郷土博物館の企画展「中世青梅の城館跡 ~静かに眠る杣保の城~」です。

青梅市内に残る勝沼・今井・辛垣・桝形山・楯の城・藤橋といった城跡を、縄張図や鳥瞰図などを用いて紹介し;
・各城跡からの出土品
・鎌倉期から青梅一帯を支配した三田氏やその旧臣、三田氏と敵対して滅亡へと追い込んだ北条氏照らの関連文書
などが展示されていました。

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個人的には三田氏の扇の前立と軍旗が印象に残っています。
ちなみにアンケートに記入すると、勝沼城跡の御城印(コピー)をいただけます。

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博物館隣りに移築されている旧宮崎家住宅も見学し・・・

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釜の淵公園内を少し散策。
写真は、多摩川がU字に折れ曲がる釜の淵先端部。

のんびりして、いい気晴らしになりました。

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2020年7月26日 (日)

幕末維新展 志士たちの軌跡(津雲邸)

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5年ぶりに青梅の津雲邸へ。

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また幕末維新展が開催されていると知り、前期の最終日に駆け込むようにして拝観してきました。

5年前の「幕末維新展」と似たような構成だったかとは思いますが、個人的に印象に残り、且つ当時の記事では触れていないものを、備忘を兼ねてピックアップしておきます。

三条実美 明治天皇への建言書
木戸孝允、版籍奉還建議書
→5年前の記事でも触れているものと同一かもしれません。

伊藤博文→アーネスト・サトウ宛書状
→漢文。さすがのサトウも、漢文は読めなかったでしょうねぇ…?(笑)

大山巌・捨松→伊藤博文宛招待状
勝海舟の漢詩
→末尾に「戊辰晩夏 海舟 勝義邦」とあり、江戸無血開城(慶応4年=戊辰)遂行後の心情を詠んでいます。

黒田清隆→伊藤博文書状
→「明治14年の政変」に繋がる「開拓使官有物払下事件」に関連する内容が書かれています。

板垣退助 委任状
→後藤象二郎が経営に行き詰まり、岩崎弥太郎の三菱に譲渡することになった高島炭鉱の運営を委任する旨を記したもの。旧土佐藩出身者間の繋がりが見て取れます。

雲井龍雄が人見寧に贈った漢詩
→「平潟湾 勿来関」に始まり、明治政府には屈しないとの決意を詠み込んでいます。

近藤勇直筆借用書(樋口重郎兵衛宛)

また、他に来館者が殆どいないタイミングだったからというのもあるでしょうが、説明を受けている際、係の方から近藤勇の木刀三振や榊原健吉の杖を渡され、この手に持たせていただくという幸運にも恵まれました。

後期展示期間は令和2年9月25日~11月29日。
幕末維新期の歴史にご興味をお持ちの方にはお薦めの展示内容ですので、機会があれば是非、足を運んでみてはいかがでしょうか。
※開館日:金・土・日・祝

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2020年7月21日 (火)

八王子城・滝山城の城ラマ(日本遺産パネル展)

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令和2年6月19日、八王子市が申請したストーリー「霊気満山 高尾山 ~人々の祈りが紡ぐ桑都物語~」が、東京都では初となる日本遺産に認定されました。
それを記念し、八王子市役所八王子駅南口総合事務所でパネル展が開催されているとのことでしたので、ちょっと覗いてきました。

北条氏照が礎を築き、養蚕や織物といった「絹」を基幹産業として「桑都」と称された甲州道中屈指の宿場町・八王子。
霊山・高尾への信仰と、そこで育まれた豊かな文化と共に歩んできた「桑都」発展の歴史(ストーリー)を構成する関連文化財として;

・高尾山や薬王院、薬王院文書(北条氏照発給文書)など
・八王子城跡や御主殿出土品、八王子神社、北条氏照および家臣墓
・滝山城跡
・小仏関跡(→参照
絹の道
・各種伝統行事・文化

など、計29件が指定されています。
※詳細は八王子市のHPなどでご確認ください。

新型コロナウィルス感染症の影響で遠出もままなりませんので、これを機に地元の歴史を構成するこれらの文化財を一つ一つ、改めて訪ねまわってみるのもいいかなと思いました。

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会場には八王子城と滝山城の城ラマ(ジオラマ)も展示されています。
実は、これが訪れた一番の目的。上の写真は八王子城のもので・・・

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こちらが滝山城。

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私が滝山城の中でも特に好きな、二の丸周辺の造形も見事の一言。
これだけ複雑な縄張にもかかわらず、細かい土塁や堀の一つ一つまで精巧に再現されていました。

自宅から最寄りの城跡で、思い入れも一入な滝山城。是非とも多くの方にご覧いただき、「滝山城ってこんなに凄いお城だったのか!」というのを実感していただきたいところではありますが・・・このような状況では、なかなかそうもいかないですね。。。

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2020年3月30日 (月)

泰巖歴史美術館

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東京都町田市に開館した泰巖歴史美術館。
そのオープン初日となる3月22日、早速お邪魔してきました。

文書類や甲冑、刀剣、茶器などの展示の他、安土城天主5~6階部分や熱田神宮の信長塀、利休の茶室として有名な待庵のレプリカ展示(原寸大)などもあります。

個人的には一番の目当てだった新史料、武田信玄書状織田信長宛(越・甲が戦になる時はお味方くださるとのこと頼もしく存じます。これからも入懇に・・・云々)を拝観できたのでよかったです。

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