カテゴリー「お城、史跡巡り 関東」の153件の記事

2021年10月18日 (月)

楯の城

今回は東京都青梅市日向和田、JR青梅線の宮ノ平駅近くにある楯の城(館の城とも)へ。
一つ手前の青梅駅近くに車を置き、青梅街道を西へ歩いて向かうことにします。

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青梅宿町年寄、旧稲葉家住宅の前を通過し・・・

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裏宿、「義賊」としての伝説も伝えられる七兵衛が住んでいた場所と云う七兵衛公園前も通過。
(七兵衛は、二俣尾村の名主・谷合家の記録に元文4年(1739)、一味と共に捕らえられ、処刑されたことが残されているので、実在はした人物のようです)

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楯の城の東面を深く削り込むようにして流れる沢。
水面は見えませんが、水の流れる音は聴こえていました。このまま近くを流れる多摩川まで流れ込んでいるようです。

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その沢に架かる橋の欄干に「館」の文字が読めました。
「館橋」というようです。

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青梅街道から見上げる楯の城。
数軒の住宅が建つ辺りも、従来は城域の一部だったようです。

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宮ノ平駅の手前(東)で踏切を渡り、線路沿いの細い路地を少し上ります。
楯の城(の遺構)は、すぐ先に見えている一つ目の階段を左に上がり、山道を少し進んだ先になります。

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楯の城の西面も、こうして深い谷になっていました。
青梅街道や、それと並行する多摩川に向かって駆け下ってきた山からの稜線の先端で、東西を守られるようにして沢と谷に挟まれた占地です。

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山道に入って20mほども歩くと、目印となる赤錆びた看板が出てきます。
ここで山道を外れ、右手の踏み跡に入っていきます。すると・・・

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見事な土塁や空堀が目に飛び込んできました。
奥には土橋も見えています。

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土橋
右手は虎口になっています。

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土橋を渡った虎口の先が、楯の城の主郭部になっていたようです。
今でも削平された痕跡は残っているようでしたが、藪々で詳しくは確認していません…(;^_^A

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土橋上から西側の空堀を見た様子。
しっかりと「折れ」も確認できます。

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反対に東側。
こちらは真っ直ぐ、そのまま先に見た沢まで落とされていたようです。

楯の城は「新編武蔵風土記稿」や「武蔵名勝図絵」などでは、田辺清右衛門なる人物が移り住んで構えた居館跡と伝えられているようです。
この田辺清右衛門、元は甲斐武田家の旧臣で、天正10年(1582)の主家滅亡後、武蔵国に逃れて北条氏照に仕えたことから日向和田の楯の沢に館を構え、移り住んだのだそうです。
そうなると時系列的にも、近くに居並ぶ辛垣城や桝形山城、勝沼城との関連は特に見出せないということになるでしょうか。

清右衛門の墓所は青梅市天ケ瀬の金剛寺にあり、墓誌によると明暦4年(1658)に72歳で没したようです。
金剛寺には彼の肖像画も伝えられているようですが、非公開とのことです。

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楯の城からの移築と伝わる明白院の山門。
北条家の滅亡後、田辺氏は徳川家に仕えました。
こちらの山門は、清右衛門の孫の代の時に移築されたものと伝えられているようです。

楯の城、個人的には青梅街道を押さえる番所のようなイメージを抱いていましたが、少々意外な歴史を知ることになりました。

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2021年10月 4日 (月)

古河城・古河公方鴻巣館

緊急事態宣言も開けた10月最初の週末、久しぶりに愛車とのドライブも兼ねて茨城県古河市へ。

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今回は、街中に残る古河城の痕跡をめぐります。

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まずは古河歴史博物館で古河の歴史を簡単に学び、博物館の建つ諏訪郭跡から散策スタート。

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諏訪郭の南東隅から東面にかけての土塁。
いい感じで残されています。

先の図面でもおわかりのように、古河城は渡良瀬川の河畔に曲輪を南北に連ねた連郭式の城郭でしたが、この諏訪郭だけは東に突出した出城、広い意味では馬出的な存在だったようです。

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同じ南東隅部の土塁を外側の堀底から。

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福法寺の山門として残る乾門
元々は二ノ丸、将軍御成のための御殿前に建っていたそうです。

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古河城の文庫蔵の移築と伝わる坂長本店の店蔵と、乾蔵の移築と云う袖蔵。

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街中には、雪の結晶の研究で知られる土井利位の雪華模様をあしらった鉄柵も。

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日光街道古河宿の道標。
左 日光道
右 江戸道
古河城は江戸時代、日光東照宮へ社参する徳川将軍の宿泊地でもありました。
(岩槻→古河→宇都宮)

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城下町を通過する旧日光街道。

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素敵なクランクですねぇ~♪
このまま日光街道を少し西へ進んで・・・

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古河藩主・土井家(1633~1681、1762~)の菩提寺、正定寺へ。
こちらの山門は、土井家の江戸下屋敷(本郷)から移築されたものだそうです。

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土井家歴代の墓所にもお詣り。

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正定寺近く、この不思議な分岐をする路地の辺りが・・・

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古河城追手(大手)門跡。

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追手門跡から西へ、頼政神社に残る観音寺郭北面の土塁。
この上には頼政神社が鎮座していますが、残念ながら石段の崩落か何かで境内は立入禁止になっていました。

頼政神社は元禄9年(1696)、時の藩主・松平(大河内)信輝が城内に大河内氏の祖先にあたる源三位頼政の廟所があることを知り、これを神社として整備して祀ったのが始まりと伝えられています(他説あり)。
元々は城域南端の立崎郭に祀られていましたが、明治末期からの渡良瀬川改修工事で立崎郭が消滅することとなり、現在地に移されました。

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渡良瀬川と城を直接繋いでいたであろう、船渡門跡。
河川改修後に築かれた大きな堤防に遮られ、現在では川を直接見ることは叶いません。

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丸ノ内北西に位置する桜門跡。

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桜門跡碑の前の道が半円状にカーブしていたので、私は始め「馬出(の痕跡)か?」とも思いましたが、どうやらそうではなく、門の脇に掘られていた堀のラインを示す痕跡なのかもしれません。

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古河城跡の見所の一つ、獅子ヶ崎土塁

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獅子ヶ崎土塁の往時の位置関係はこのようになります。

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獅子ヶ崎土塁の北側。

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獅子ヶ崎土塁の向かいには重臣屋敷長屋門。

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獅子ヶ崎土塁前、御成門跡から諏訪郭方向へと真っ直ぐに続く御成道
日光社参の途次に古河へ到着した徳川将軍は、この御成道を通って御成門から丸ノ内に入り、三ノ丸を経由して二ノ丸の御殿に宿泊したと云います。
その為、古河城には珍しく、御成門には石垣も積まれていたそうです。

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渡良瀬川の堤防上に建つ本丸跡の碑。

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本丸や三ノ丸を左右に横切っている黒い線が、明治末期からの河川改修で築かれた堤防や道路で、その上は河川敷や川の流域に変貌してしまいました。

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御三階櫓が建っていたであろう地点を眺める・・・も、もはや往時を偲ぶよすがもありません。

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こうした威容を見てみたかったという思いはありますが、こればかりは致し方ありませんね。

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古河公方・足利成氏が城(御所)の鬼門守護のため、鎌倉の長谷寺から勧請したのが始まりとされる長谷観音にもお詣り。

そう、古河といえば古河公方
ということで・・・

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古河公方鴻巣館跡(古河公方公園)へ。
古河公方鴻巣館(鴻巣御所)は、御所沼と呼ばれる沼地に突き出た小高い舌状の台地上に築かれていました。

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その台地の縁部分(北側)。なんとなく切岸になっているようにも見えました。

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台地上には、江戸期の古民家も移築されています。

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古河公方館址
享徳4年(康正元年/1455)に鎌倉を放棄して古河に移った足利成氏は、この地に館を構え、2年後には整備を終えた古河城へ移りました。
しかし鴻巣館は成氏以降も、政氏・高基・晴氏・義氏と代を重ね、最終的には義氏の娘・氏姫の居館として江戸時代初期まで、約150年もの長きに渡って存続していたそうです。

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石碑の奥には堀切のような痕跡も。

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堀切を渡る土橋・・・か?

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図を見る限り、台地の先端方向にもう少し遺構がありそうな感じでしたが、下草にも阻まれてこれといったものは確認できませんでした。
しかし、現代に伝えられる古河城の痕跡が近世の改修・拡張を経て足利氏時代の面影を失っている中で、鴻巣館跡の遺構は貴重な「古河御所遺跡」といえるかもしれません。

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台地の先端方向から振り返る鴻巣館跡と御所沼。

さて、今回の古河めぐりはこの辺で終了です。
本当に久しぶりな史跡めぐり。ドライブも合わせて、とてもいい気分転換になりました。

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2021年7月10日 (土)

九十九髪茄子を拝観

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東京、丸の内の三菱一号館美術館へ。

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当館では2021年6月31日~9月12日まで、三菱創業150周年を記念した特別展、三菱の至宝展が開催されています。
本特別展に於いて、織田信長も所持していたと云う九十九髪茄子(付藻茄子)が出展されていることを知り、いてもたってもいられずに駆けつけました。

当初、本特別展は2020年に予定されていたものの、新型コロナウィルス感染症の影響で1年間の延期となっていました。従って、私にとっても1年越しの念願となっていたのです。
初対面への期待に胸を膨らませつつ、いざ入館してみると、目的の九十九髪茄子は最初のコーナーに展示されており、いとも呆気ない念願成就となりました(笑)

戦国時代終盤、松永久秀から織田信長へ献上され、更には豊臣秀吉や徳川家康らの手を経て現在に伝えられた九十九髪茄子。本能寺の変にも遭遇し、大坂夏の陣で壊れてしまったものを拾い出され、漆で修繕されたのだとか。。。
大きさは女性の拳くらいでしたでしょうか。時の流れの重みも感じさせる美しい立ち姿でした。
※九十九髪茄子は8月9日まで、前期のみの展示となります。

さて、他にも素晴らしい展示品が目白押しでしたが、中でも目玉は曜変天目になりますでしょうか。
展示されている静嘉堂文庫美術館所蔵の本品は、徳川家から春日局、淀藩稲葉家へと伝えられたようです。
曜変天目の完品は世界中でも三碗しかなく、その全てが日本で所蔵されているのだそうです。

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館内には、こんな撮影用のプレートも。
フラッシュを焚いて撮影すると、何の変哲もない無地のプレートに曜変天目の模様が浮かび上がるというものでした。

その他で個人的に印象に残っているものといえば、やはり;
太刀 銘 高綱
ですね。
武田家追討の功により、滝川一益が織田信長より拝領したと伝わることから「滝川高綱」とも号されています。


三菱を創業した岩崎家四代による収蔵品の数々。
そのバリエーションは多岐に渡っており、とてもご紹介しきれるものではありません。
(中には、かのマリー・アントワネットが旧蔵したと云う「イエズス会士書簡集」なども)

ご興味をお持ちの方は、未だ感染症の収束を見ない昨今の状況もありますので、公式サイトで開館情報などを事前にご確認の上、訪れてみてください。

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2021年6月14日 (月)

玉川上水の始点…羽村取水堰

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羽村取水堰が描かれた、羽村市のデザイン・マンホール。

江戸の水不足を解消するため、幕府の肝煎りで承応3年(1654)に完成した玉川上水
現在でもその一部は現役で東京都水道局の施設として稼働していますが、その取水地点こそ、この羽村取水堰なのです。

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前回の記事でご紹介した旧鎌倉街道歩きの後、取水堰への道すがらに見かけた「羽村橋の欅」
樹齢は400年とも600年とも推定される、見事な巨木です。

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玉川上水の開削工事を請け負い、その功績によって「玉川」姓を許された玉川兄弟の像。
あれ…兄弟の足元に何かいる?と、後ろへ回り込んでみたら・・・

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あら、こんにちは(笑)

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展示されていた牛枠(川倉水制)
水の流れを弱め、堤防が壊れたりするのを防ぐ目的で用いられてきた治水技術の一つです。

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現在の取水堰や水門の位置関係図。
取水堰で多摩川の水を堰き止め、その脇の第一水門から水を引き入れて玉川上水へ流す、という仕組みになっています。

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取水堰
支柱の間に桁を渡し、投渡木(なぎ)という横に架ける板材を縦の木材で支えて水を堰き止める仕組みで、その構造は「投渡堰」と呼ばれています。
大水の時は縦の木材を取り払い、投渡木ごと川に流してしまうのだそうです。

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玉川上水側から見た第一水門(右奥の白っぽい壁面部分)
ここから取り込まれた水が、遠く江戸の町まで流れて行くのです。
第一水門手前の小さなアーチが並ぶ部分は、上水の水量を調節するための放流口です。
江戸時代には、この水門も木材で築かれていました。羽村市郷土博物館に実寸大で復元された展示があります。

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玉川上水の総延長は、羽村から江戸の入り口となる四谷大木戸まで約43㎞。
その間の高低差は92m強なので、上水は100mにつき僅か21㎝の傾斜をつけて開削されていきました。
上水の開削に要した期間は8ヶ月ほど(堰や水門の構築は別)とのことなのですが、重機もない時代にこれだけ繊細で、且つ大掛かりな工事をたったの8ヶ月で完成させるとは・・・ちょっと想像もつきません。

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羽村取水堰と第一水門
多摩川の流れが、上の写真で堰の奥に見える小山にぶつかって左(写真向かって右)へ折れ、少し緩やかになる地点だったからこそ、この地が取水ポイントに選ばれたのだそうです。

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上流側から。
堰(右)で多摩川の水を堰き止め、水門から取り込んで左奥へ続く玉川上水へ流す・・・その仕組みがよくわかる配置でした。

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玉川水神社
玉川上水が承応3年(1654)に完成した際、水神宮としてこの地に創建されました。
明治26年に玉川水神社と名を改められています。
石燈籠には天保年間の刻印がありましたが、本殿も天保年間の創建なのだそうです。

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多摩川水神社境内に保存されている、玉川上水羽村陣屋門。
元は堰のすぐ脇を通っていた奥多摩街道の旧道に面して建っていたそうです。

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最後は郷土博物館にも立ち寄り。
先ほども書きましたが、江戸期の木造の水門や、明治以降の水門の実寸大展示が見応えあります。

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郷土博物館の敷地内に移築展示されている、旧下田家住宅。
弘化4年(1847)の建築で、国の重要有形民俗文化財に指定されています。

以前から折に触れ、玉川上水をピンポイントでめぐったりしていましたので、羽村取水堰もずっと気にはなっていました。
どうしても織田信長、戊辰戦争関連やお城、地方の史跡めぐりを優先して後回しになっていましたが、コロナ禍は遠方への外出を著しく制限し、それが期せずして地元周辺の史跡に目を向け直すきっかけにはなりました。

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羽村駅前に残る旧鎌倉街道

今回は東京都羽村市までおでかけ。
目的は玉川上水の始点となる羽村取水堰でしたが、事前にあれこれ調べているうち、羽村駅前に旧鎌倉街道と推定される道が残っていることを知り、取水堰へ向かう道すがら、そのルートを辿ってみることにしました。
と、その前に・・・

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羽村駅東口近くにある「まいまいず井戸」
いつの時代に作られたのかは諸説あるようですが、井戸の形態などから鎌倉時代のものと推定されています。
作井技術が未熟な時代に、筒状に深く掘り下げることが難しい砂礫層に井戸を設ける必要から、ある程度の深さまではすり鉢状に掘り下げ、螺旋状に通路を設けて井戸まで下りて使用していたようです。
この形状がカタツムリに似ていることから、まいまいず(=カタツムリ)井戸と呼ばれています。

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私も螺旋状の通路を下りて近づいてみましたが、井戸の底は見えませんでした。

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駅の西口側へ移動し、旧青梅街道(左)と旧鎌倉街道(右)が交錯する地点。

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旧鎌倉街道の案内標識も建っていました。

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今でこそ住宅街の細い路地といった風情ですが、どことなく古道の雰囲気は感じさせます。

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都道29号線を跨ぐ旧鎌倉街道(立体歩道橋の右脇)
あちらの歩道橋の上から旧街道を見てみることにします。

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この地点まで歩いてきた北西の方角に・・・

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この後に向かう南東方向。

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しばらく進むと旧鎌倉街道は、正面に見える羽村東小学校に遮断されて消滅します。
実際には小学校の校庭を横切って遠江坂を下り、多摩川を渡って滝山(八王子市)の方まで南下し、更には鎌倉街道上道へと続いていた模様です。
※滝山近辺の旧鎌倉街道についてはコチラ、上道に関してはコチラの記事も合わせてご参照ください。

なお遠江坂は、永禄6年(1563)に滝山城主の北条氏照が三田氏を滅ぼした後、その家臣である大石遠江守がこの地に入り、坂の上(羽村東小学校付近)に館を置いたことから、その名で呼ばれるようになったのだとか。

さて、私も小学校を迂回して遠江坂(写真撮り忘れ…)を下り、羽村取水堰へ向かいます。
(次の記事へ)

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2021年1月 4日 (月)

首洗池と浅間の森

2021年最初の史跡めぐりは、神奈川県相模原市緑区寸沢嵐へ。

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まずは、国道412号線沿いにひっそりと佇む首洗池へ。

永禄12年(1569)10月、関東に侵攻した武田軍と、迎え撃つ北条軍との間で勃発した三増合戦
合戦後、信玄率いる武田軍は甲斐国へ引き上げる道中、「反畑」と呼ばれたこの地で討ち取った北条兵の首実検を行ったと伝えられています。
※今回の記事は三増合戦に関連した内容となりますので、下にご紹介する記事も併せてお読みいただけると幸いです。
三増合戦 (もののふ戦国バスツアー)

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この際、実検に供される北条兵の首を洗ったとされるのが、この首洗池です。

現地案内板には「実検後、首は浅間の森に塚を築いて埋葬された」とありましたので、その浅間の森にも行ってみます。

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首洗池のすぐ西の路地を南(やや南西)の方角へ。
結構な勾配の坂をひたすら登っていきます。

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国道412号線から400mほども進むと、帝京平成大学の薬用植物園のフェンス際に「浅間神社」の白い看板が立っています。
ここを左へ入り、フェンスに沿ってすぐに右へ曲がります。その先に・・・

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浅間の森があります・・・が、あまりの藪り具合に心が折れそうになりました(笑)
折角ここまで来たのだからと藪を掻き分け、フェンス際を30mほど進むと少しだけ藪が途切れ、左の浅間の森へ分け入れるポイントがありました。

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浅間の森の中には笹薮もなく、すぐに首塚の案内板が目につきました。

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首実検の後、武田軍によって築かれたと云う首塚

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首塚の上には浅間神社の石碑が建っています。
武田軍は塚を築いて首を葬った後、塚の上に祠を立てて供養したと伝えられ、これが、この地にいつの頃までか浅間神社が祀られていた始まりとなったそうです。

ところで、首洗池の説明板には「武田軍は反畑(首洗池周辺?)で首実検をした後に、浅間の森に埋葬した」と書かれていましたが、それだと武田軍は首実検をした後、埋葬のためだけ?に甲斐への帰路とは反対の方向へ引き返し、しかもわざわざ高台に登って首塚を築いたことになります。

同説明板によると、三増から引き上げてきた武田軍は「沼本の渡し」からと、「三ヶ木新宿」方面からとに分かれて道志川を渡ったのだそうです。
冒頭で紹介した三増合戦の記事で私は、道志川を渡った武田軍は上の山城を経由して「信玄森」で首実検を行った、といった趣旨のことを書きました。
この「信玄森」は地元の訛りなのか「せんげん森」と読む、とも書いていますが、信玄(武田軍)が築いた塚の上の祠が浅間神社になり、やがて「信玄」と「浅間」がない交ぜとなって伝えられた伝承だったのかもしれません。

そして地理や地形的な条件を考えると、南寄りの三ヶ木新宿から渡河した一隊が上の山城を経由して浅間の森に至り、北寄りの沼本からの一隊は首洗池で討ち取った首を清めた後に浅間の森の高台に登り、別動隊と合流して見晴らしの利く浅間の森(の高台)で首実検を行った、という流れ・状況だったのではないかと想像してみました。

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最後に・・・浅間の森付近から、武田軍が進んでいったであろう甲斐への方角。
(正面方向には甲州街道の与瀬宿があります)

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2020年12月21日 (月)

出雲伊波比神社(毛呂大明神)

2020年12月20日、2年前に訪れた際には藪に覆われ、まともに見ることができなかった鎌倉街道の掘割遺構のリベンジのため、埼玉県毛呂山町を再訪しました。
参考記事(後半部分)

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その際、車を置かせていただいた毛呂山町歴史民俗資料館で令和2年度の後期企画展「戦乱の世の文化財」が開催されていたので、こちらもちょっと覗いてきました。

その中で、小田原の北条氏が「茂呂(毛呂)大明神」(出雲伊波比神社)に宛てた印判状(毛呂山町指定文化財「小田原北条氏の鐘證文」)の存在を知り、とても興味を惹かれたので実際に出雲伊波比神社を訪れてみることにしました。

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「毛呂大明神」出雲伊波比神社

北条氏の印判状は天正十六年(1588)正月五日付で、上方の豊臣政権の脅威が迫る中、来る戦に備えて梵鐘の供出を命じたものです。
世上が静謐になったら再び鋳造して寄進する旨を約した証文の体裁になっていますが、ご存知の通り北条家は2年後の天正18年(1590)の戦乱に敗れたため、梵鐘が寄進されることもありませんでした。

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出雲伊波比神社の本殿(国指定重要文化財)は、発見された棟札から大永8年(1528)に時の領主・毛呂顕繁によって再建されたことが判明しています。
毛呂顕繁は、山内上杉顕定と扇谷上杉朝良が争った永正元年(1504)の立河原合戦(現東京都立川市)にも、山内上杉方として参戦した人物でもあります。
この時、扇谷上杉方には北条早雲(伊勢盛時)や今川氏親の軍勢も援軍として参陣していました。

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毎年11月に行われる鏑流馬神事の馬場。
出雲伊波比神社の鏑流馬は、奥州平定に向かう源頼義・義家父子が当社で戦勝祈願を行い、その凱旋時の康平6年(1063)に再び参拝し、流鏑馬を奉納したのが始まりとされているそうです。

・・・偶然立ち寄った場所に、なんとも凄い歴史が眠っていたものです。

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2020年11月 2日 (月)

神奈川県で「毛利」めぐり

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神奈川県厚木市下古沢に祀られる三島神社。
その境内の一隅に・・・

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毛利氏発祥の地
毛利季光屋敷跡
の石碑が建てられています。

毛利季光は、源頼朝に仕えた鎌倉幕府の御家人で初代政所別当を務めた大江広元の四男。
父から相模国毛利庄を相続し、「毛利」姓を名乗りました。
承久の乱(承久3/1221年)では父と共に幕府方として活躍し、その功によって後に毛利氏の本拠となる安芸国吉田荘を与えられています。
しかし宝治元年(1247)、執権北条氏と三浦氏の対立(宝治合戦)が起きると、娘を執権・時頼に嫁がせていた季光は北条方に参じようとしますが、三浦氏の出であった妻の「三浦氏を見捨て、勢いのある北条氏の味方をすることは武士の義に反する」との一言で三浦方に転じ、敗れて息子らと共に自害して果てたと伝えられています。

季光の四男・経光は所領の一つ、越後国佐橋荘に赴いていたために乱には巻き込まれず、その子・時親が後に安芸国吉田荘に移り住みました。
これが、戦国期に西国の雄として名を馳せることになる毛利元就へと続く、安芸毛利氏の始まりとなったのです。

碑文によると土地の伝承や古地図・古い地名などから、三島神社を中心とした一画に季光の屋敷があったと考えられているため、ここに碑が建てられたようです。
実際、下古沢の南方には「毛利台」「南毛利」といった地名が今も残されています。

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お次は少し北へ移動し、峠を一つ越えた飯山に建つ光福寺へ。

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光福寺開基の隆寛律師は浄土宗の開祖・法然に師事した僧侶で、嘉禄3年(1227)の嘉禄の法難により、京から陸奥国(会津)へと流されることになります。その護送を務めたのが毛利季光でした。
隆寛に帰依した季光は隆寛の身を慮り、自らの所領である相模国飯山で匿うことにします。会津へは代わりに、隆寛の弟子の実成房が赴きました。
師と仰ぐ隆寛を迎え、その隆寛が開基した光福寺が飯山にあることから、季光の屋敷も飯山の、この光福寺近くにあったのではないかとする説もあるようです。
この付近一帯は当時から、飯山観音として名高い長谷寺の門前町としても栄えていたようです。

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光福寺に眠る隆寛律師の墓所。

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「毛利元就の祖ゆかりの寺」を謳った看板。
折角なので門前を抜けるこの道を西へ向かい、飯山観音にもお参りしていくことにします。

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飯山観音、飯上山長谷寺に到着。

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長谷寺は神亀2年(725)の行基による開創とも、弘仁年間(810~824)の空海による開創とも伝えられる、大変に歴史ある真言宗寺院です。

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嘉吉二年(1442)の年紀を有する銅鐘。県の重要文化財に指定されています。
刻銘には「毛利庄飯山の新長谷寺が嘉吉二年の春に火災により焼失したため、堂宇の再建に先立ち、人々の銅鐘鋳造への強い願いを受け、麓の金剛寺の住僧だった誾勝が寄付を募って同年四月五日に完成した」といった内容が記されているそうです。
・・・やはり、飯山も間違いなく「毛利庄」だったのですね。

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飯山観音から毛利庄を眺め渡す。

この地に起こった一族がやがて安芸国へと移り、300年の後に西国の雄として名を馳せ、織田信長とも対峙していく・・・。
改めて歴史の繋がりの不思議さ、奥深さを感じた一日でした。

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2020年10月30日 (金)

麻場城

前記事でご紹介した甘楽町小幡について事前に調べていた際、同じ甘楽町の白倉に遺構の良さ気な城跡を見つけたので、出かけたついでにちょっと立ち寄ってみました。

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城跡東側の駐車場から。
私の愛車と比較して、土塁の高さがよく伝わるかと思います。

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麻場城図
お城の歴史についても、こちらの案内板をご参照ください。この城も小田原征伐時に攻められていたのですね。

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城域北面。
なかなかの高低差です。

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笹曲輪から、本丸(東側)方向。
見事な横堀ですが、土塁の傾斜が途中で不自然に変わっているのが気になります。

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本丸との間には木橋が架けられていました。

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本丸北西端方向。

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本丸側に渡り、笹曲輪を振り返った様子。

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本丸。
奥に二の丸が見えています。

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二の丸との間に架かる土橋。

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土橋から二の丸方向。
行く手を土塁が遮り、二の丸への虎口は少し右へずらしてあるようです。

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虎口側から土橋を見るとこんな感じ。
桝形の原型というか、同じ意図を持った構造とは思いますが、何故二の丸側だけにあるのでしょうか?…むしろ、本丸側にこそあってよさそうな気もします・・・。
それとも、土塁と土橋との間にある通路状のスペースが、実は馬出のような役割を担っていた・・・??
いずれにせよ、不思議な構造でした。

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二の丸から虎口部分。

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二の丸から本丸の西面。
やはり、斜面の途中から急に落ち込んでいますね。
本来の残存遺構はもっとなだらかで浅くなっていたものを、調査に基づいて往時の深さまで掘り下げたということでしょうか。

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麻場城想像図
城址公園としてよく整備されていて遺構の状態も良く、見応えのある城跡でした。

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2020年10月29日 (木)

群馬県で「織田」めぐり

今回は群馬県甘楽町までドライブ。
織田信長の次男・信雄にもゆかりのある、上野国甘楽郡小幡の地をめぐります。

大坂の陣が終結した元和元年(1615)、信雄は徳川家康より大和国宇陀郡に3万石、上野国甘楽郡に2万石を与えられます。
元和3年に上野国甘楽郡の方を四男の信良に分知し、小幡藩を立藩させました。
以来、明和4年(1767)に出羽国高畠藩(後、陣屋の移転に伴い天童藩)へ移封となるまでの約150年間、小幡は織田氏による統治が続きます。

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小幡八幡宮
小幡陣屋の鬼門封じとして、正保2年(1645)に勧請されました。

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拝殿には龍の天井画が描かれているそうです。
参道には、「織田家の守護神」との幟も見受けられました。

まだ楽山園の開園時間まで少しあったので、八幡宮周辺を散策します。

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養蚕農家群の町並み(明治中期頃)と雄川堰。
近くの富岡市には明治5年に富岡製糸場が建設されたように、小幡でも養蚕が盛んに行われていたようです。
雄川堰は一級河川の雄川から取水している用水路で、最初に開削された年代は不明ながら、小幡に陣屋を築く際に城下の地割と共に用水割も計画され、現在見られる姿に改修されたものと考えられています。

では陣屋の方へ。

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小幡陣屋見取図
小幡陣屋は寛永6年(1629年)、織田信昌によって築かれました。

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陣屋の大手門から藩邸までを繋いでいた中小路。
陣屋の中心的な路との意味から「中小路」と呼ばれましたが、道幅などは「小路」という規模ではありません。
写真の左手前は武家屋敷「高橋家」、勘定奉行の役宅だったそうです。
小幡陣屋は藩主屋敷(藩邸)にとどまらず、こうした家臣屋敷なども取り込み、広大な面積(34ヘクタール)を誇りました。

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松平家大奥
織田氏の後に小幡へ入った松平(奥平)氏の藩主夫人や、仕える女中らが住んでいたと伝わります。
幕末、ペリー来航の折には江戸城大奥の女中ら15~16人ほどを、親藩である小幡藩のこの大奥に避難させたとも云われています。

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松平家大奥の庭園。
江戸後期の作だそうです。

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喰い違い郭(山田家)の石垣…中小路の曲がり角に位置します。
「喰い違い郭」と名づけられた家臣屋敷か何かの虎口、という理解でよかったでしょうか?

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小幡藩邸の中門

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中門前の道路が緩やかにカーブし、それに合わせて石垣もカーブしていましたが、前出の陣屋見取図にも中門前の通りがカーブして描かれていますので、往時もこのような形状をしていたのかもしれません。

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小幡藩邸図

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中門を潜ると石垣で小さな桝形が築かれており、その先にも行く手を遮るように土塁が立ち塞がります。

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土塁の手前には空堀も。

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土塁を抜けて内郭に入り、中門方向を振り返った様子。

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藩主の屋敷などが建ち並んでいた内郭。
地面には屋敷などの配置が展示されていました。

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藩邸の庭園「楽山園」、国の名勝にも指定されています。
昆明池越しに、左から腰掛茶屋・梅の茶屋。

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熊井戸
小幡藩邸(楽山園を含む)は、小幡氏の重臣だった熊井戸氏の屋敷跡地を利用して築かれたと「上野国誌」に書かれているらしいのですが・・・その熊井戸氏と、この「熊井戸」は何か関係しているのでしょうか?

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泉水

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楽山園の面積は、藩邸全体の半分以上にも及ぶ広大なものです。
二万石クラスの大名屋敷としては、確かに少々贅が過ぎるような気もします…(;・∀・)
これも「織田」の自負がなせる業、なのかなぁ・・・?

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腰掛茶屋前から、藩邸全体を俯瞰。

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外廓の拾九間長屋前から内郭の土塁。
手前の石垣と土塁の間は空堀になっています。

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拾九間長屋
藩邸のジオラマや、信雄の書状(小牧長久手戦に関連)などが展示されていました。

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藩邸を辞し、次の目的地へと向かう途中で見かけた分水路。

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小幡藩(松平家)の中老を務めた松浦氏屋敷。
こちらも綺麗に整備されています。

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主屋から、熊倉山を借景にした眺め。

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庭園の池には、かつては滝も流れていたそうです。

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お次は車で少し移動して、崇福寺の織田氏七代の墓所にお参り。
右手前から信雄・信良・信昌・信久・信就・信右・信富の墓石が並びます。

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さすがに信雄のお墓だけ、一回り墓石が大きいようでした。

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崇福寺本堂
奥は織田氏位牌堂。2度の火災を免れた、織田氏歴代藩主の位牌が安置されています。

元々、小幡織田氏の菩提寺は宝積寺に定められていましたが、4代・信久が廃寺となっていた崇福寺を再興して菩提寺とし、先の3代の墓石も宝積寺から移したのだそうです。

本当に久しぶりの遠出でしたが、天候にも恵まれて良き散策となりました。

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