カテゴリー「お城、史跡巡り 東海」の66件の記事

2018年8月22日 (水)

揖斐 旗本岡田家、横倉喜三次ゆかりの地

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揖斐陣屋跡の碑
慶長5年(1600)の関ケ原合戦の後、揖斐は西尾光教の領地となります。
光教は山上の旧揖斐城の麓に新たな城を築き、揖斐藩3万石の拠点としますが、1623年に2代嘉教が亡くなると揖斐藩は無嗣断絶となり、揖斐は天領となりました。
寛永8年(1631)、美濃郡代を務める旗本岡田氏が代官として着任し、揖斐城を改修して陣屋としました。

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三輪神社
中嶋流砲術の額が奉納されているのですが、そこには岡田家の武術指南役を務めた横倉喜三次も一番に名を連ねています。
岡田家は慶応4年(1868)、戊辰戦争に於いて新政府に恭順して東山道軍に兵を派遣しますが、喜三次はその岡田隊の副隊長として従軍しています。その過程で下諏訪では赤報隊の相楽総三の、板橋では新選組近藤勇の太刀取りを務めました。

ダメ元で拝観をお願いしてみようと思っていましたが、この日は何故か社務所も不在で叶いませんでした。

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三輪神社横に建つ三霊神社
岡田家の初代善同、2代善政、8代善明の3人を祀ります。

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三輪神社拝殿

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三輪神社の向かい、横倉喜三次が開いた道場忠信館跡。

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三輪神社の隣り、松林寺
長禄2年(1458)の創建と伝わります。
慶長年間には揖斐藩主西尾家の菩提寺として再興され、岡田家2代善政も自らの菩提寺としています。
横倉喜三次もこの寺で、近藤勇らの供養をしていたとか。

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先の小倉山城の記事でも書きましたが、善政は無嗣断絶となった上有知藩の後処理にあたった際、小倉山城にあった金森長近の名が入った梵鐘を松林寺に持ち帰っています。

奉鋳鐘
濃州武芸郡小倉庄館置之
慶長十乙巳季九月十三日金森兵部卿法印素玄

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松林寺には岡田家歴代の供養塔(写真)や、その横には9代善功(雪台/松林寺住職も務める)の墓碑もあり、

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更には、初代揖斐藩主・西尾光教夫妻らの墓所もありました。

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松林寺の近くには「弁慶の腕だめし石」なるものがあり、大きな手形もついていましたが、これは9代善功が松江藩主・松平不昧の養子を経て岡田家に養子入りしていることから、松江藩のお抱え力士であった雷電為右衛門の手形ではないか、とも云われているそうです。

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ひょんなことから立ち寄った長源寺。

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長源寺の本堂には、古く朽ち果てた駕籠が吊るされていました。

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大興寺

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大興寺境内

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大興寺にて、横倉喜三次の墓所にもお参りさせていただきました。

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大興寺には本郷城の項でご紹介した土岐頼忠の兄で、同じく美濃守護頼康の弟、土岐頼雄のお墓もありました。
頼雄は揖斐頼雄とも称しています。

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2018年8月21日 (火)

道三塚や稲葉一鉄ゆかりの地など

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旅の3日目、最終日は道三塚からスタートです。

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弘治2年(1556)の長良川の戦いで息子の義龍に敗れ、あえなく戦死を遂げた斎藤道三
彼の遺骸は崇福寺の南西、長良川の河畔に埋葬されましたが、度重なる洪水で塚は幾度となく流されてしまいました。

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現在のもの(崇福寺の北西)は天保8年(1837)、斎藤家の菩提寺・常在寺住職の手によって建碑され、供養されてきたものです。

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続いて本巣郡北方町の北方城跡へ。
西美濃三人衆の一人、安藤(安東/伊賀氏)守就の居城として知られます。
守就は土岐・斎藤・織田と仕えますが、天正8年(1580)、織田信長から追放処分を受けて北方城も召し上げられました。
しかし、その信長が本能寺の変(天正10年)で斃れると旧領奪還を目論んで挙兵し北方城に拠りますが、最後は斉藤氏に攻められて討死しました。
北方城跡の近くには、守就戦死の地もあります。

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碑の建つ一角は、本丸のごく一部と考えられています。
周囲には堀の痕跡と思われる用水路なども残っているようですが、今回は先を急ぐのでこの辺で。

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揖斐郡池田町本郷の本郷城跡

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築城時期や築城者はハッキリしていませんが、後に美濃国守護となる土岐頼忠や、その子の頼益が在城していた時期もあるようです。

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それ以降は国枝氏の居城となりますが、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで岐阜城主・織田秀信に従って西軍に属したため、城は東軍によって焼き払われて廃城となりました。

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今でも主郭北西隅の土塁と櫓台が僅かに残ります。

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櫓台に残る石垣の隅石。

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なお、西美濃三人衆の一人、稲葉一鉄(良通)もこの本郷城で生を受けています。

本当はこの後、揖斐川町の旗本岡田氏や横倉喜三次関連の史跡をめぐったのですが、記事の構成上、そのレポは次に回して先へ進めます。

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揖斐郡揖斐川町清水の清水城跡
稲葉一鉄が天正年間に築城したと伝わります。

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一鉄の菩提寺、月桂院

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月桂院本堂では、稲葉一鉄の御位牌や肖像画、書状類などを拝観させていただきました。
※その中に、飯沼勘平に宛てた織田信長のものらしき感状や書状もありました。
感状は元亀二年付。飯沼勘平は「信長公記」にも度々その名が登場します(1600年の米野・岐阜城外での戦いで討死した飯沼父子は、その子と孫)が、信長の花押や署名の筆跡など、少々腑に落ちない点もあるので詳細は省きます。

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稲葉一鉄の陣鐘
清水城内で陣鐘として用いられていた梵鐘。領民が揖斐川から拾い上げ、一鉄に献上したものと伝わります。
元応二年(1320)の銘があり、岐阜県下では2番目に古い梵鐘になるそうです。

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稲葉神社

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稲葉一鉄の墓所
右に貞通(一鉄嫡子)室、一鉄室、貞通後室(織田信長妹、或いは姉とも)のお墓も並んでいました。

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2018年8月20日 (月)

郡上八幡の徹夜おどり(郡上おどり)

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郡上八幡に到着後、まずはお城を散策。

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ご存知、魚の形をした城下町。

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日本三大盆踊りの一つにも数えられる郡上おどりは、7月中旬~9月上旬まで続きますが、中でもクライマックスの徹夜おどりは、我々が訪れた8月13日から16日までの4日間のみ開催されます。

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徹夜おどりの開幕は午後8時。
それまでの間は、会場となる城下町を散策したり・・・

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予め予約しておいていただいたお店で、美味しい夕食に舌鼓を打ちながら過ごしました。

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郡上おどりは下駄で踊るのが一般的なのだとか。
同行者たちもお店で買い揃えていました。

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郡上八幡に魅了された「ちびまる子ちゃん」の作者、さくらももこが生み出したイメージキャラクター「GJ8マン」(笑)

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おや?ご本人(違)まで登場~♪

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そうこうしているうちに、いよいよ徹夜おどりが始まります!

・・・ところがね、日も暮れて気温も然程高くはなかったのに、群がる群衆の熱気にすっかりやられた私は一人汗が止まらず、おどりが開始される頃には既に体力の限界。
頭痛もひどくなり、このままでは迷惑をかけるとおどりに参加することなく、人だかりから離れて涼むことにしました・・・。

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それでも折角連れてきて貰ったので、おどりの様子をちょっとだけご紹介。

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開始直後までしか会場にいなかったので正確なところはわかりませんが、おどり手は一直線の通りを囲むようにして並び、細長い輪を回るようにして進みながら踊っていました。
写真はその折り返し地点。

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一人喧騒から離れて眺めた、夜の郡上八幡城。
こんな体たらくなのでろくな記事にもなりませんが、同行者たちはとっても満喫していたようなので、興味ある方は是非来年以降、参加してみてください。

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2018年8月19日 (日)

弥勒寺官衙遺跡群、小倉山城、他

夏の岐阜旅2日目(といっても初日は岐阜旅ではなかったけどw)
この日は徹夜おどり参加のため、最終的には郡上八幡へ向かいますが、それまでの時間は関市や美濃市の史跡をめぐりました。
まずはじめは・・・

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関市池尻の弥勒寺官衙遺跡群へ。
奥に見えるのは現在の弥勒寺です。

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ここは、「古事記」や「日本書紀」にその名が見える古代豪族ムゲツ氏(牟義都/牟下津)の本拠地。
壬申の乱(672)で大海人皇子の勝利に功績のあったムゲツ氏は、長良川河畔のこの地に氏寺となる弥勒寺を建立し、武儀郡を治める役所(官衙)を整備しました。
その栄華は平安時代の中頃(10世紀前半)まで続いたと云います。

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手前に正倉院跡、奥に郡庁跡。

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こちらは弥勒寺跡。
中門を通って東に塔、西に金堂、正面奥に講堂が配されていました。

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塔跡

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講堂跡

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講堂跡の背後にも、何かしらの造成の跡が窺えました。

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その講堂背後の山へ少し入った場所に、円空のお墓があります。
江戸時代前期に数多の仏像を生み出し、仏師としても各地にその作品を残す活躍をした円空は元禄2年(1689)、この地に弥勒寺を再興しています。

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円空が再興した現在の弥勒寺。
数多くの円空仏を有していましたが、残念ながら大正期の火災でその殆どを焼失しました。

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本堂では現代(平成)に、「円空彫り」と呼ばれる技法・様式で彫られた仏像が数多く展示されていました。

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円空入定塚
弥勒寺を再興した円空は元禄8年(1695)、自らの死期を悟ると「この藤の花が咲く間は、この土中に生きていると思ってほしい」と言い残して入定したと伝えられています。
藤の季節にはさぞ、綺麗な花を咲かせるのでしょうね。

この後は美濃市へ移動して・・・

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小倉山城跡へ。

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関ヶ原合戦(慶長5年/1600)の後、上有知(こうずち/美濃市)を加増された金森長近は、本拠の飛騨高山を養子の可重に譲り、上有知にそれまで存在した鉈尾山城を廃して尾崎丸山に自らの隠居城として新たな城を築き、城山の名も「小倉山」に改めました。
これは風流を愛でた長近が、京嵯峨野の名勝・小倉山にちなんだものとも云われています。

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山頂の展望台

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眼下に長良川を収める、展望台からの眺め。

小倉山城はその後、可重から長近の実子・長光に上有知2万石が分知されて上有知藩が立藩されますが、長光が実子ないままに亡くなったために改易され、廃城の運命を辿りました。

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鐘櫓跡
小倉山城には城下へ刻を知らせる梵鐘が置かれていましたが、後に上有知藩改易の処理にあたった美濃郡代・岡田将監善政が、揖斐郡(揖斐川町)の松林寺に持ち帰っています。

奉鋳鐘
濃州武芸郡小倉庄館置之
慶長十乙巳季九月十三日金森兵部卿法印素玄


鐘には長近の名も刻まれていました。
この翌日には揖斐にも足を運び、松林寺を訪れてみました。

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続いて城下の、うだつの上がる町並みを散策します。

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とても風情があっていいのですが、とにかく暑かった・・・。

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お昼を食べられる店を探して歩き回りましたが、どこも満席で諦めました。

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同じく城山の麓に位置する清泰寺
上有知に入って小倉山城を築いた金森長近は、鉈尾山城主・佐藤氏の菩提寺であった以安寺を改め、清泰寺を創建しました。

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長近を祀る寺内社、金森大権現。

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清泰寺本堂

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向かって右から左へ鉈尾山城主・佐藤清信、同秀方、小倉山城主・金森長光の墓所。

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長光の死後、上有知は天領となり、西尾氏が代官として入ります。
その西尾氏4代(正房・正重・正永・正利)の墓所。

この後は道の駅で昼食休憩を挟み、郡上八幡へ向かいました。

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2018年8月18日 (土)

篠島の歴史探訪

ほぼ毎年の恒例となりつつある夏の岐阜旅。今回のメインは、2日目に訪れる郡上八幡の徹夜おどり。
2泊3日の日程で岐阜駅前に宿を押さえ、初日は名古屋駅前で旅の仲間と合流しましたが、この日の行程は同行者に完全お任せなミステリーツアーとなりました。

行先を全く告げられることなく、車のシートに身を委ねること2時間弱。
辿り着いた先は知多半島の最南端、師崎港。そこから高速船に乗って10分ほどで・・・

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とある離島に上陸!

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初日のミステリーツアー、その目的地は知多・渥美両半島先端部の中間に浮かぶ篠島でした。
上陸した港の前に建つ島の駅でレンタサイクルを利用し、自転車で篠島の歴史を観てまわります。

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・・・が、上陸した時刻がちょうどお昼時でしたので、まずは腹ごしらえ(笑)
しらす丼に豪華なお刺身の盛り合わせ♪マゴチの尾頭付きなんて、初めて食べたな。

さて、海の幸を堪能したところで、いよいよ歴史探検をスタートします。

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まずは島のほぼ中央に位置する帝井
延元3年(1338)、後醍醐天皇の皇子・義良親王(後の後村上天皇)は奥州東征に向かう途中、暴風雨に遭って篠島に漂着し、しばらく島に滞在されました。
帝井の名は親王の滞在中、その飲料水として供されたことに由来しているそうです(一説には、親王自らの指示で掘ったとも)。
井戸の岩畳は、かつての遺構をそのままに留めているのだとか。今も満々と水を湛え、金魚が気持ち良さそうに泳いでいました。

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猛暑に加えて篠島は坂が多く、細い路地が複雑に入り組んだ場所も多かったので、自転車での移動には結構難儀しました。

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旅情をそそられる風情ある路地も、自転車での通行には注意を要します。

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滝のような大汗を流しながら登った高台からの眺め・・・。
この頃、名古屋などではスコールのような大雨になっていたそうですが、然程離れてもいない篠島はご覧のような快晴。青空に映えて海も綺麗でした。

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島の南方、篠島小中学校の敷地裏へまわり、樹木が生い茂る山道を5分ほども進むと・・・

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美しい海岸に抜けました。

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篠島や周辺の島々には、名古屋城の石垣に用いられた石材の石切り場があったようで、篠島でも至る箇所でその痕跡が確認されているそうです。
この海岸もその一つ。写真奥に、石を切り出すためにつけられた矢穴がびっしりと残る岩場も見えています。

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清正の枕石
名古屋城築城はいわゆる「天下普請」。全国の大名が駆り出されましたが、加藤清正も石の切り出しのために来島していたようです。
こちらはその折、彼が運び残したものと伝わる巨石。

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枕石の上でポーズをとってみた(・ω・)
え?・・・名古屋城にある清正の銅像の、あのポーズ(※後方から)ですよ。

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この岩も運び残しでしょうね。
大人の拳がスッポリと入るくらい、大きな矢穴でした。

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石垣とは関係ありませんが、面白いものを見つけました。
長い年月を経て硬い岩を砂の堆積による砂岩が覆い、それが風化や波によって柔らかい部分だけが削られた痕でしょうね。

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篠島の石切り場。
こんな離島の片隅で名古屋城築城という、400年以上も前の著名な歴史の“裏側”を直に感じることができ、感動的ですらありました。

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再び島の中央部に戻って、八王子社(男宮)に、、、

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神明神社(女宮)

八王子社は700年以上、神明神社に至っては1200年以上もの長い歴史を誇ります。
毎年正月三日に、八王子社の神が神明神社の元へお渡りになるそうで、島民はそのお渡りを待って三日になってから、神明神社へ初詣に出かけるのが古来からの島の習わしなのだとか。
お渡りになった神は、翌四日には再び八王子社へお帰りになるのだそうです。

篠島は元々は伊勢国に属し(現在は愛知県)、伊勢神宮との結びつきも強かったようです。
神明神社は20年に一度、伊勢神宮の遷宮の折に下賜される内宮の東宝殿、或いは西宝殿の古材を用いて遷宮が行われてきました。
東宝殿や西宝殿は内宮の御垣内に囲まれ、御正宮の後方に位置しているので、伊勢神宮にある間は直接拝観することは叶いませんので、20年を経て篠島で初めて一般の人々にもお披露目される、ということにもなります。
そして、神明神社の古材は八王子社の社として移され、八王子社の古材は更に島内に点在する小さな社に用いられていきます。
こうして、20年毎という伊勢神宮の遷宮に合わせたサイクルで循環し、伊勢神宮から下賜された古材はその後、島内で更に60年も用いられていくことになるのです。

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島の東端部、松寿寺。
寺の裏山が、義良親王も滞在した篠島城跡になります。

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寺から頂上までは、ほんの5分ほどで到達します。

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先ほどの「城山」の碑の背後には切岸と、腰曲輪のような小さな平坦地もありました。

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篠島城主郭部
親王がここに滞在されたのは、どれほどの期間だったのでしょうか。

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下山後、港へ向かうために城山を迂回していると、その麓に何やら説明書きが設置されていたので立ち止まってみました。

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皇子が膝
義良親王の滞在中、島の漁師たちは入出船の度にこの場所で跪き、頭上の篠島城を行在所としていた親王を拝していたのだと云います。

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島の駅SHINOJIMA前にも、名古屋城の石垣用に切り出された岩が展示されていました。

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さて、暑さですっかりバテバテとなりましたが、なんとか乗り切って篠島探訪は無事に終了~師崎へ戻ります。

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師崎に戻って羽豆神社へ。

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羽豆神社の建つ知多半島最南端に位置する羽豆岬一帯の森林は、ウバメガシなどを主とした暖地性常緑樹林で、「羽豆の社叢」として国の天然記念物にも指定されています。

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羽豆神社の高台にはかつて、羽豆崎城が築かれていました。

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羽豆神社
やはり1200年以上もの歴史があり、西暦1300年代に羽豆崎城を築いた熱田大宮司摂津守親昌(千秋氏)の猶子・昌能によって再興されています。
江戸期には、尾張徳川家歴代の参詣も受けているようです。

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神社境内に安置されていた矢穴石。
加藤清正が航海の安全を祈り、篠島で切り出した石を奉納したものと伝わります。

羽豆神社の祭神である建稲種命は、妻の玉姫と師崎に住んでいました。
やがて夫が日本武尊に従って水軍を率いて出征すると、玉姫はこの浦で夫の帰りをずっと待っていたと伝えられています。
その玉姫を祀る祠が、羽豆神社の麓にあるというので行ってみると・・・

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台風の影響でしょうか、見るも無残な姿に変わり果てていました・・・。

旅の初日のミステリーツアー。
自分ではなかなか思いつかない行程で、こういう機会でもなければ訪れることもなかったのかなぁ~と思うと、やはり仲間に感謝ですね。

この後は岐阜まで移動し、恒例のギフナイト☆でおいしいお酒(とニンニク!?)を堪能しながら、翌日に備えました。

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2018年5月24日 (木)

下田で史跡めぐり

なんとなく年一の恒例となっている家族での温泉旅行。今年の行き先は、ちょっとした紆余曲折を経て伊豆は下田になりました。
家族連れとはいえ、そこは折角の遠出。勿論、史跡めぐりも盛り込んでいきます(笑)
※テーマは方々に飛び散ってまとめるのも面倒なので、今回は単純に訪問順でご紹介していきます。

■5月18日(金) 
偶然なのですが、この週末は下田で黒船祭りが開催されることを旅行計画後に知り、慌てて祭りのスケジュールを睨みながら、なんとかバッティングを避けるように行程を組みました。

道路渋滞もない快適なドライブ。順調に天城越えで下田市域に入り、まず最初に訪れたのは・・・

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蓮台寺温泉の吉田松陰寓寄処です。

嘉永7年(1854)3月3日、神奈川で日米和親条約が締結されます。
条約によって開港場に指定された下田へと向かったペリー艦隊を追い、吉田松陰(寅次郎)も金子重輔を伴って下田へと向かいました。
同18日、松陰は「瓜中万二」、重輔は「市木公太」という変名を用い、まずは下田の岡方屋(岡村屋とも。現下田屋旅館)という宿に入ります。
当時、皮膚病(疥癬)を患っていた松陰は下田到着後、治療のために蓮台寺温泉を訪れました。
とある深夜、2人が本来は村人しか利用できない共同湯にいるところへ、向かいの屋敷に住む村山行馬郎が現れます。見慣れぬ2人を訝しんだものの、医師でもあった行馬郎は事情を察したのでしょう、2人を自邸に引き取って匿うことにしました。

前置きが長くなりましたが、この村山行馬郎の屋敷こそ、上写真の吉田松陰寓寄処(以下、村山邸)となるのです。

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室内の様子
さすがに平日の昼間とあって訪れる人もなく、一人で独占して見学できました。

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入口の土間の脇にはお風呂も・・・しかも温泉が引かれていたのだそうです。
松陰たちと出会った際、行馬郎は自邸にも温泉があったのに何故、わざわざ共同湯へ行ったのか?
案内してくださったボランティアさんによると、当時は村山邸が単純泉であったのに対し、共同湯は硫黄泉であった(現在は共に単純泉)ことから、行馬郎は体調や病といった何がしかの理由で、硫黄泉を求めてわざわざ共同湯に浸かりにいったのではないか、とのことでした。

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村山邸から正面に見える、松陰・重輔の2人が潜んでいた共同湯。

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「吉田松陰湯治湯の跡」とあります。

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村山邸に戻ります。
村山邸の風呂は写真右奥にあり、その手前に見える階段を上がると・・・

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松陰や重輔を匿った隠れの間があります。
階段を取り外して天井板を閉めると、ちょっとした隠し部屋になる構造です。

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吉田松陰隠れの間
この一間で松陰は、密航の企てを実行に移すタイミングを計っていたのでしょうか。

数日の間を共に過ごすうち、松陰と行馬郎は大変に意気投合したようで、行馬郎の娘が後年、松陰と行馬郎が夜な夜な語り合う様子を語り残しているのだそうです。
(松陰の患っていた皮膚病の具合も)

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村山邸を出た松陰と重輔は3月27日の深夜(28日未明)、柿崎の弁天島の浜から小舟を漕ぎ出し、碇泊していたペリー艦隊(旗艦ポーハタン号)に乗り込んで密航を企てますが拒否され、現在の下田市須崎付近の浜へと送り返されました。
黒船に乗り込んだ際、盗んで漕ぎ寄せてきた小舟を見失っていた2人は事態の発覚を覚悟して自首、江戸伝馬町の牢屋敷へ送られた後に死罪は免れて国許蟄居とされ、松陰は萩の野山獄に入れられました。(重輔は岩倉獄に入れられ、そのまま獄死)
出獄が許された後も杉家幽閉の身となり、このことが松下村塾(叔父が主宰していたものの名を引き継いだ)を開塾するきっかけとなったのでした。

さて、私も村山邸を辞し、下田の中心街へと向かいます。

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宝福寺
嘉永7年(1854)に日米和親条約が締結され、新設された下田奉行の都築駿河守が宿所としたことから、仮の下田奉行所となりました。
文久3年(1863)には土佐藩の山内容堂が宿を取り、順動丸で入港した勝海舟が訪れて容堂に謁見し、坂本龍馬の脱藩の罪の許しを取り付けた地としても知られています。
「晴れて赦免の身となった龍馬の活躍はここから始まる」との意から、石柱には「坂本龍馬飛翔之地」ともありました。

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こんな可愛らしい龍馬像も。

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宝福寺境内、唐人お吉記念館に展示されている容堂・海舟謁見の間

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記念館裏には、初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスに奉公したお吉の墓所も。
お吉は下田で芸妓をしていたところを奉行所の目に留まり、ハリスの元へ侍妾として奉公することになった人物です。
その後は一旦下田を離れたものの、維新後には再び戻って髪結い業を始めたり、小料理屋(安直楼)を開業したりしますが、安直楼は2年で廃業と、なかなか上手くはいかなかったようです。
ハリスの侍妾として奉公した過去から世間に「唐人」と嘲弄され、貧困の中に世を儚み、明治24年3月27日、豪雨の夜に川へ身を投じて51年の生涯を閉じました。
こちらの墓石は後にお吉を演じた水谷八重子らによって寄進されたもので、向かって右横には小さな元の墓石も祀られていました。

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続いて了仙寺へ。
嘉永7年(1854)3月、日米和親条約が締結されて下田が開港場になると、了仙寺は上陸したペリー艦隊一行の応接所となり、同年5月には和親条約の細部を詰めた下田条約調印の場にもなりました。
調印された下田条約により、了仙寺は玉泉寺と共にアメリカ人乗組員のための休息所となっています。
満開に咲き誇るアメリカジャスミンの香りが、辺りを濃厚に包んでいました。

今度は了仙寺の目と鼻の先、下田公園へ。
一旦幕末から離れ、戦国期へシフトします。

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下田城
小田原北条氏の海の拠点の一つ。豊臣秀吉との間に緊張が高まってくると北条氏は、清水康英を城将として入れ、城に改修の手を加えて整備させています。

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登り始めて最初に目に飛び込んできた横堀。
細い尾根上に配された曲輪群を取り巻くようにして伸びています。

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堀切

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5月にもなると下草が伸び、ちょっと見え辛いけど・・・畝堀

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畝堀の先にも堀が続きます。

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先ほどとは反対側から畝堀を見た様子・・・チャンスがあれば冬に再チャレンジですね(^_^;)

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元々は「鵜島」という島だったそうで、鵜島城とも呼ばれているようです。

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伝「天守台」跡とされる曲輪部分。
下田城の主郭にあたります。

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主郭から三方へ伸びる細尾根の一つ。

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尾根上から、先ほどの畝堀を見下ろした様子。

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城跡からの眺め。

天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、下田にも長宗我部元親や脇坂安治らの率いる1万余りの大軍が押し寄せます。
僅か600ほどの手勢で立て籠もる清水康英は抵抗するものの、50日間に及ぶ防戦の末に開城しました。

そのまま幕末へ戻り・・・

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下田公園北側の中腹に建つ、開国記念碑
下田開港100年を記念し、昭和29年(1954)に建てられました。

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ペリーとハリスの言葉が刻まれています。
ペリーの「余は平和の使節として此の地に来れり」という言葉を選したのはGHQのマッカーサーで、「開国記念碑」の揮毫は吉田茂元首相によります。

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更に麓へ下ると・・・ペリー上陸の碑
嘉永7年(1854)に締結された日米和親条約で下田が開港場となり、入港してきたペリー艦隊の乗組員たちが初めて上陸した地点に建てられています。

さて、これにて初日の史跡めぐりは終了としました。
この後は宿へ入り、温泉に山海の幸、美味しい地酒、、、贅の限りを尽くしてきました(笑)


■5月19日(土)

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前夜から明け方まで降り続いた雨も、出発する頃までにはすっかり上がって陽も射してきました。
2日目のスタートは・・・

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柿崎弁天島からです。
本記事の冒頭でご紹介した吉田松陰寓寄処の箇所でも書きましたが、吉田松陰が黒船に乗り込んでの密航を企て、金子重輔と共に小舟でペリー艦隊の碇泊する海へと漕ぎ出した場所です。
・・・それにしてもすごく特徴的な地層ですね。

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七生説の碑(左)と金子重輔行状碑(右)

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ペリー艦隊を目指し、小舟を漕ぎ出す松陰と重輔の図。
・・・湾内にしちゃ、海が荒れすぎじゃね?(笑)

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弁天島に建つ弁天社(手前)と下田龍神宮(奥)
踏海を企む2人は、手前の弁天社で仮眠を取ったとも云われています。

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柿崎弁天島からの下田湾。
ペリーの乗船するポーハタン号は果たして、どの辺りに碇泊していたのでしょうか。

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なんとか黒船に乗り込んでペリーに交渉したものの、乗船を拒否された2人は、写真左奥方向に位置する須崎付近の浜に送り届けられました。

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柿崎弁天島の近く、三島神社境内に建つ吉田松陰像。
(弁天島の松陰&重輔の銅像は、すっかり見落としてしまいました・・・)

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2人が送り届けられた須崎に行ってみると、ご覧の案内板が設置されていました。

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生い茂る樹木の中でひっそりと佇む、吉田松陰上陸の碑

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上陸地点からの下田湾。
弁天島の方向には、視界は開けていません。

この後の顛末は、吉田松陰寓寄処の箇所でも簡単に触れた通りです。
乗船を拒否され、この地に送り返された時、松陰の目にこの景色はどのように映っていたことでしょう。

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さて、今回最後にご紹介するのは玉泉寺です。
(本当は吉田松陰上陸の碑よりも先に訪れていますが、あしからず)

嘉永7年(1854)5月の下田条約によってアメリカ人乗組員の休息所となり、安政3年(1856)に来日した初代総領事タウンゼント・ハリスが住居に定めて以降、日米修好通商条約によって開港された横浜へ移る同6年までの間、アメリカの総領事館として機能しました。

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ハリス記念碑

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日本最初の屠殺場跡
領事館員の食糧のため、この場所にあった木に牛を繋いで屠殺していたのだそうです。
その木は既に枯れていますが、境内のハリス記念館で保存されているそうです。残念ながら今回は寄りませんでしたが。

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山門脇には、カーター大統領来訪記念碑などもありました。

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総領事ハリスや、通訳ヒュースケンの居室が置かれていた本堂。
本堂の前にあるのは牛乳の碑。

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本堂には穴を空けた石を壁に埋め込み、ストーブの煙突を通していた痕跡も残っていました。

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最後にぺルリ艦隊乗組将兵の墓へもお参り。

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下田での史跡めぐりは、吉田松陰に始まってペリー来航など、個人的にはこれまであまり詳細には触れて来なかった歴史の連続。
そういった意味でも、改めて見直してみるいい機会にはなりました。

帰路は伊豆半島の東海岸沿いを北上し、伊東で昼食&ひもの購入休憩を挟んで無事に帰宅。土曜日だったこともあって渋滞にもはまらず、愛車にとってもいい運動になったようです。

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2018年3月21日 (水)

墨俣川古戦場と源義円

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小熊の一乗寺を訪れた際、墨俣川合戦の戦死者たちの供養塔を目にしたので・・・

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墨俣川古戦場にも立ち寄ってみました。
碑は義円公園の中に建っています。

墨俣川合戦は治承5年(1181)3月10日(諸説あり)、墨俣川(現在の長良川)を挟んで対峙した源平による戦い。
この合戦で源義朝の八男・義円(母は義経と同じ常盤御前)が命を落としています。

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義円の供養塔

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奇しくも我々が訪れた3月10日は、諸説あるものの合戦のあった義円の命日
この日は毎年、地元の方が供養を続けているそうです。
※1181年の7月に養和へ改元しているので、合戦のあった3月は治承5年。

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そんな訳で我々が訪れると、居合わせた地元の方が義円地蔵のお堂を開けてお参りさせてくださいました。

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義円地蔵
お地蔵さんというよりは、道祖神のような雰囲気を醸していました。

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少し離れた場所に眠る義円の墓所。

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2018年1月 4日 (木)

三枚橋城(沼津城)、興国寺城

2018年1月3日、家族からの要望で沼津までドライブへ出たついで?に、いつもはスルーしていた三枚橋城(沼津城)にも立ち寄りました。
といっても、遺構は完全に消滅してしまっていますが・・・これが今年の城初め。

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近世沼津城図

天正7年(1579)、御館の乱をめぐる外交のもつれから関東の北条氏と断交した武田勝頼は、駿豆国境にあたる沼津の地に三枚橋城を築いて対北条氏の前線拠点としました。
関ヶ原合戦(1600)の後には大久保忠佐が入城しますが、忠佐の死後、世子不在により大久保家が断絶となると、三枚橋城も廃城されました。
後に水野氏が沼津を拝領し、三枚橋城の跡地に沼津城を築きますが、その規模は三枚橋城の北半分程度だったとか・・・勝頼の築いた三枚橋城は、上の図の倍近い規模を誇っていたのですね。
※以降も勝頼~忠佐時代のものを「三枚橋城」、水野氏による近世のものを「沼津城」と表記を分けて記します。

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中央公園に建つ沼津城本丸址
先の図面(以下「図」とのみ記す)で現在地とある地点です。
足元の石は近くの静岡中央銀行新築工事の際に出土したもので、現地案内板では「三枚橋城当時の石垣に使われていたもの」と断定していました。
静岡中央銀行の位置を図で確認してみると、確かに近世の沼津城の範囲から微妙に外れているようですが、そのためでしょうか?

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aの復元石垣
位置からして、大手虎口付近の石垣となります。

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b地点の復元石垣
こちらも沼津城の範囲からは外れていますので、もしこの地点から発掘されたものであれば勝頼~大久保忠佐時代の三枚橋城のもの、ということになりますでしょうか。

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沼津城のすぐ南には、旧東海道が通っています。

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「東海道分間延絵図」に描かれた沼津城。
沼津城を築くにあたり、東海道を曲げて迂回させた様子が見て取れますが、三枚橋城の城域は更に南へ延びていたと云うことですから、或いは街道を城内に取り込むようにして築かれていたのかもしれません。

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旧東海道から、本丸との地形の高低差を確認する。

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三枚橋城から狩野川越しに東方を眺める。
写真中央奥には、北条方の最前線拠点・戸倉(徳倉)城があります。そのすぐ北から流れ込んでいる黄瀬川が当時の駿豆国境となっていたため、戸倉城のある地は伊豆国とされていました。
まさに武田と北条が対峙していた距離感です。
※但し、戸倉城将・笠原政晴は武田方へ寝返っており、この一帯は武田氏滅亡までは、その勢力下にあったようです。


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さて、折角沼津へ来たので興国寺城まで足を延ばします。

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興国寺城本丸跡
実は私、興国寺城にはこれが初めての訪問だったのですが、いきなりの物凄い土塁の規模に心底驚かされました。

伊勢新九郎盛時(北条早雲)は今川氏親の家督相続に尽力し、その功によって興国寺城を与えられました。
まさに北条五代百年発祥の地と言えます。

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その北条早雲と、興国寺城最後の城主となる天野康景の慰霊碑。
康景は徳川家康に仕え、岡崎三奉行にも任ぜられて「どちへんなし(彼是偏無し)の三郎兵衛」と称された公平な人物として伝えられます。
関ヶ原合戦後に興国寺城を与えられましたが慶長12年(1607)、城の修築用の竹木を盗もうとした者を康景の家来が殺害するという事件が起こります。
一見すれば康景の家来に正当性がありますが、この盗人が天領の民であったことから問題が大きくなり、康景は家康側近の本多正純から、盗人を斬った家来を差し出すよう迫られます。
ところが、この家来を庇おうとしたのか康景は正純の指示には従わず、あろうことから城を捨てて出奔してしまいました。
これにより天野家は改易され、興国寺城も廃城となりました。

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本丸の背後(北)を固める土塁に残る伝天守台の石垣。

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伝天守台
礎石らしき石が並んでいました。

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伝天守台から城下を眺める。
真正面からの逆光で苦しい写真となってしまいましたが、彼方には駿河湾もハッキリと視認できました。

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伝天守台から見下ろす、本丸北側の空堀。
とにかく深くて規模が大きいです。

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コントラストがきついですが、この規模が伝わりますでしょうか・・・。

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西櫓台

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最後は堀底へ。
伝天守台の土塁が、しっかりと横矢を掛けています。

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堀底を西へ進むと不思議な穴がありましたが・・・中を覗いても真っ暗でよくわかりませんでした。

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こちらの切通しを抜けると・・・

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城の西側へ出ます。奥の地形が上がって谷戸になっていました。
この辺りは当時、沼地になっていたようです。

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土塁と空堀の規模は本当に素晴らしかった・・・興国寺城。
今回は家族連れでの訪問だったため本丸の周囲しか観ていませんが、何れ再訪の機会があれば範囲を広げてめぐりたいと思います。

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2017年12月24日 (日)

峯城と古城(フルシロ)

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峯城遠景

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峯城想像復元図
1枚目の遠景は、この図に「青館」とある付近から撮影しています。間を流れているのは八島川。
※郭のローマ数字は便宜上、現地で使用した測量図に合わせたものです。

天正11年(1583)、賤ヶ岳で対峙する羽柴秀吉と柴田勝家。その勝家と連携する滝川一益は、関盛信・一政父子が秀吉の元に赴いた隙を衝いて亀山城を占拠し、更に峯城を岡本良勝(宗憲)から奪って家臣・滝川益重を入れます。
これを受けて秀吉は直ちに峯城を包囲し、数ヶ月に及ぶ籠城戦の末、益重は城を開いて退去しました。
峯城は織田信雄の管理下となって彼の家臣が入城しますが、翌天正12年、秀吉と信雄が対立(小牧長久手の戦い)すると、秀吉は蒲生氏郷・関一政らに峯城を攻めさせ、峯城はまたしても落城の憂き目を見ることになりました。

天正18年、秀吉政権下で峯城に返り咲いていた岡本良勝が亀山城へ移るにあたり、峯城はその役目を終えて廃城になったと伝えられます。

今回は城の北側からアプローチしました。

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まず出迎えてくれたのは「かんざし井戸」
落城の折、城主の奥方が宝物の銀のかんざしをさし、この井戸に身を投げたとの伝承からそう呼ばれています。

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aの枡形虎口

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上から見ると、ちゃんと枡形になっている様子が分かります。

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郭の土塁

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b部分
想像図では郭として描かれていませんが、2段に綺麗に削平されています。

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郭は鬼藪・・・

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郭は鉄塔(と藪)

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郭西側の土塁

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郭の西虎口

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西虎口から帯郭に出て、郭と本丸(郭)間の堀切方向を見た様子。
写真←方向に堀切がありますが、あまりの藪のため写真は撮りませんでした(^_^;)

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本丸北西の切岸を見上げる。
この頭上には櫓台があったものと思われます。

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本丸切岸の高さを、人尺付きで体感してください。
(写真提供:流星☆さん)

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本丸の切岸下をグルッと回り込み、南虎口から本丸へ。
但しこの南虎口、その先に続く通路のような掘り込みが単なる水抜き用の側溝のようにも見え、明らかに後世の改変を受けた雰囲気を感じましたので、果たして本当に虎口だったのかは少々疑問です。
※東面にも虎口があるようなのですが、残念ながら激藪のため探索を諦めました。

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本丸の土塁
この土塁上を進んで天守台へ向かいます。

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天守台
天守台には方形に窪んだ箇所があり、今流行り?の穴蔵構造か!?とも思いました。

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天守台の斜面には、石垣の跡が僅かに残っています。

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石垣の隙間からは裏込め石(栗石)も見えています。

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他では見受けられませんでしたので、天守台など重要な箇所にのみ、石垣を用いていたのでしょう。

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城域の南端、尾根を断ち切る大きな堀切(c部分)

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更に先にもう1本ありました。

峯城・・・なかなか見応えのある城跡でした。
さて、ラストは峯城から八島川を挟んだ対岸にある古城(フルシロ)へ向かいます。

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古城縄張図

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車道沿いのaの虎口から侵入を試みますが・・・
虎口の先はあまりのド藪具合に、さすがの猛者たちもちょっと躊躇したほど(^_^;)
曲輪内はまず、まともに歩くことも叶いませんので、土塁上を進んでいくことにします。

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bの空堀

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cの土橋

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cの土橋を渡った先は、土塁を畝状に連ねたような不思議な形状をしていました。

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dの喰違虎口

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峯城と対峙する西側には、立派な横堀が廻らされていました。

古城はその名から、1300年代に峰城を築く以前までの峯氏の居城とも考えられていますが、その遺構からは織豊期の付城・陣城の雰囲気を感じます。
天正11年~12年にかけての秀吉軍による峯城包囲戦の際に改修され、峯城攻めの拠点として利用されたものと思います。

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最後に古城から、包囲する峯城を遠望する。。。

この日訪れたお城はどれも遺構・歴史両面で大変興味深く、とても充実した城攻めとなりました。
お誘いいただいた方や現地でご案内いただいた方、同行者皆さんに感謝ですね。楽しかったです。

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2017年12月23日 (土)

竹ヶ鼻城水攻めの舞台

白鬚神社~八神城跡とまわった後は、羽柴秀吉による竹ヶ鼻城水攻めの舞台をめぐります。

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羽島市歴史民俗資料館前に建つ竹ヶ鼻城本丸之址碑。
竹ヶ鼻城の遺構はほぼ全て失われていますが、資料館付近が本丸跡と推定されているようです。

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資料館向かい、竹鼻別院の門前に建つお城地蔵大菩薩
慶長5年(1600)、織田秀信の配下にあった竹ヶ鼻城は関ヶ原合戦の直前、福島正則ら東軍に攻められて落城しています。
この時の戦没者を供養しようと、昭和になって建立されました。

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羽島郵便局前に建つ一夜堤の跡
※後出地図(以下略)a

慶長5年から遡ること16年の天正12年(1584)4月、長久手での戦闘で徳川家康の軍勢に敗れた羽柴秀吉は、その矛先を家康と連携する織田信雄へ向けます。
同年5月、まずは信雄方の加賀野井城を落とし、更に竹ヶ鼻城へと迫りました。
竹ヶ鼻城の東には足近川から分岐した逆川の堤防があったため、北から西、南にかけて堤を築き、足近川から水を引き入れて城を水攻めにしました。
aの石碑の東、逆川と交錯する付近には「下土手」という交差点もあります。

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aの石碑から西へ進み、県道151号と交わる「竹鼻町蒲池」交差点に建つ石碑b

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bから県道151号を北東方向へ進んだ「竹鼻町今町」交差点付近に建つ石碑c
碑の建つ場所がまさに堤跡であることを示すかのように、写真奥の地形が下っていますし、堤跡のライン上と思われる通りの延長上には・・・

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とても興味深い土盛りが残っていました。
上には小さな祠が建っています。だからこそ、奇跡的に消失を免れた堤の一部ではなかろうかと密かに考えています。

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石碑abのライン上に、北西方向へ進んだ先。
この通りも堤の跡だろうとおもっていたら・・・

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やはり通り沿いの斎場の敷地に石碑dが建っていました。

以上の4基で、一夜堤石碑めぐりはコンプリートです。

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ラストは竹ヶ鼻城の北西1㎞、間島太閤山跡の碑。
その昔、旧間島村には40m四方ほどの丘陵があり、竹ヶ鼻城を水攻めにする秀吉が本陣を布いた場所と伝えられています。

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その丘陵も宅地等の造成でかなり失われたようですが、八幡神社の建つ部分だけが今でも残されています。

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太閤山の八幡神社。
実際に上まで登ってみましたが、樹木に遮られ、残念ながら竹ヶ鼻城方向の視界はききませんでした。

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間島太閤山碑の裏に並べられていた五輪石。
丘陵削土の際に出土したもので、水攻めによる戦没者を祀ったものではないかと考えられています。

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太閤山の付近で足近川・逆川が、長良川より分水していました。
逆川はこの先、竹ヶ鼻城の東側を通ることになります。

今回めぐった地を現在の地図に落とし込むと下のようになります。

20171216c14
こうして見ていくと、秀吉による竹ヶ鼻城水攻めの全容、その規模が見えてくるような気がしませんか?

水攻めにより孤立した竹ヶ鼻城は同年6月、秀吉方の降伏勧告を受け入れて開城します。
そしてその16年後、再び歴史の表舞台に登場し、最期の花を咲かせることになるのでした。

さて、旅の初日の行程はこれにて終了です。
2日目は三重県へ移動しての城攻めとなります。

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