カテゴリー「お城、史跡巡り 東海」の103件の記事

2022年8月11日 (木)

岩津城、他

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前記事でご紹介した満性寺を辞した後は、岡崎城をぶらぶら散策して、、、

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9年ぶりとなる大樹寺へ移動し、松平氏歴代や徳川将軍14代のご位牌を拝観、松平氏歴代の墓所も参拝しました。

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岡崎公園の「三河武士のやかた家康館」に展示されていた書状などでその名をよく見かけたので、滝山寺にも足を延ばしました。

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滝山東照宮

滝山寺宝物殿では、源頼朝の歯と遺髪(顎鬚?)を胎内に納めたと云う聖観音菩薩立像も拝観いたしました。

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旅の最後は、三河松平氏の嫡流・岩津松平氏ゆかりの岩津城へ。

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主郭へと続く土橋。

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主郭下の横堀。

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主郭

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主郭の一段下、腰郭状の平場に残る枡形。

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主郭の土塁上に建つ城址碑。

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主郭土塁上から土橋方向。

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主郭側から、土橋越しに馬出方向。

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櫓台

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櫓台上から、馬出の土塁を見下ろす。

岩津松平氏は松平氏2代・泰親を祖とします。
3代・信光の頃までは勢力を張っていたものの、次代に及んで駿河今川氏の侵攻を受けて岩津城は落城し、岩津松平氏も衰退します。
その結果、安城に分立していた親忠の安城松平氏が惣領化したため、親忠を松平氏宗家の4代として、後の徳川家康へと繋がっていきます。
いずれも大樹寺に納められたご位牌や、歴代墓所にその名が見えます。

なお、岩津城には天正12年(1584)の小牧長久手合戦の際、徳川家康による改修の手が入っているそうです。

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2022年8月10日 (水)

近衛龍山(前久)の浜松下向

天正10年(1582)6月2日に勃発した本能寺の変織田信長が亡くなると、信長と親交のあった近衛前久は出家して龍山と号します。
佞人讒訴の企てによって秀吉の嫌疑を受けた龍山は嵯峨て逼塞し、やがては京を離れ、徳川家康を頼って浜松へ向かいました。
茶色字部分は石谷光政・頼辰宛 近衛前久書状より抜粋引用

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東岡崎駅からもほど近い、乙川ほとりの満性寺
毎年8月7~8日の2日間、虫干しを兼ねた宝物展示が行われることを知り訪れてみました。

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龍山は天正10年11月7日付で、浜松へ忍びで下向することになったことを伝え、その道中の宿所提供を依頼する書状(上写真)をこの満性寺宛に発しています。

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後に紹介する同月13日付の書状により、龍山は11月12~13日頃に浜松へ到着したことが知れるので、満性寺に宿泊したのは11月10日前後のことと推定されています。

龍山はこの年、甲斐武田家を滅ぼした甲州征伐に参陣しており、4月には信長の凱旋旅にも同行して岡崎を通行した際にか、彼は過去にも満性寺に立ち寄ったことがあったようです。
11月7日付の書状には、その折に交わした雑談などを忘れ難く思っていること、その後にも満性寺から便り(書札)をもらったことなども書かれており、それに続けて;

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(聖徳)太子の次第を信長にもつぶさ(具)に伝え、内々に聴聞に訪れてみようと話していたところに不慮の儀(本能寺の変)が発生して叶わなくなり、是非もない。
といったことも記されています(上写真部分)。

満性寺では聖徳太子が篤く信仰されてきたようで;

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聖徳太子2歳の時の姿と云う「南無仏太子像」(左/鎌倉期)や「聖徳太子講讃孝養図」(右/天正6年頃)、

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「聖徳太子立像」(童形執笏太子像/江戸期)など、聖徳太子にまつわる品々が多く伝えられています。

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また、本堂脇に建つ太子堂にも・・・

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やはり聖徳太子が祀られています。

龍山は浜松への道中、満性寺に宿泊した際には実際に目にした(江戸期作の聖徳太子立像は別として)ことでしょうし、本能寺の変が起こらなければ織田信長も龍山と一緒に訪れて目にしたかもしれない貴重な品々です。

近衛家と満性寺の関係はその後も続いたようで、満性寺には他に;

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近衛前久(龍山)の「詠十首和歌」

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近衛信尹(前久息)の書簡

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近衛家から拝領の品々なども残されていました。

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また、太子堂には歴代徳川将軍のご位牌も安置され、酒井忠次からの書状や寄進状なども展示されていました。
その他にも数多くの寺宝が本堂や庫裏に展示されていましたが、とても一挙にご紹介しきれるものではありませんので割愛します。

ところ変わって・・・

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浜松城の西に位置する西来院

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近衛龍山は浜松到着後、11月13日付で岡崎の満性寺に一宿の馳走を謝した書状を出しています。
その文中で徳川家臣・石川家成の手配により、この西来院入ったことを伝えています。

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西来院には、西方僅か2㎞ほどの佐鳴湖畔で殺害された築山殿(徳川家康正室)の廟所「月窟廟」や・・・

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家康の異父弟・松平康俊の墓所もありました。

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JR浜松駅の南1㎞ほど、龍禅寺仁王門跡。最盛期には、この辺りも龍禅寺境内の一角に含まれていたのでしょう。
奥には大きな松の木が見えています。

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龍禅寺のクロマツ。
第2次大戦の戦火を免れ、市の保存樹に指定された平成7年の段階で、既に樹高が27mもあったといいます。

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龍禅寺山門

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龍禅寺境内

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金光院龍禅密寺の額

西来院に逗留後、龍山はここ龍禅寺に移り、金光院の北の亭に滞在したと云います。
この亭は後に、龍山公の亭とも称されたとか。

その正確な位置はわかりませんが、境内に建つ松永蝸堂の句碑の説明板に気になる記述がありました。

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元亀年間は後水尾天皇の曽祖父・正親町天皇の時代で、後水尾天皇はまだお生まれにもなっていません。
そればかりか、近衛前久が龍山と号したのは既述の通り、天正10年6月2日の本能寺の変後のことですし、徳川和子の入内は龍山没後(慶長17年=1612)の元和6年(1620)のこと。
いろいろなことが全く史実に反しています。きっと、天正10~11年にかけて龍山が滞在した折のことが、その他の諸々と混同して伝えられてきたのではないかと推察します。

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近衛龍山が滞在していた亭の跡地だという、松永蝸堂の句碑(中央)

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龍禅寺の梵鐘
文化11年(1814)の鋳造。第2次大戦時に供出されましたが、戦後、無事に還元されたそうです。

天正11年(1583)6月2日、龍山はここ龍禅寺で織田信長の一周忌追善供養を執り行い、南無阿弥陀仏[な・む・あ・み・だ(た)・ぶ(ふ)]の六字名号を冠した追善の歌を詠んだと云います。
彼は5年後の天正16年(1588)、京の報恩寺に奉納された織田信長肖像画の賛にも、同様の歌を詠んでいます。

徳川家康の取り成しもあって天正11年9月、龍山はおよそ10か月ぶりの帰京を果たしました。


※参考図書
「流浪の戦国貴族 近衛前久」谷口研語(中公新書)

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2022年8月 9日 (火)

旧東海道、御油宿~藤川宿

2022年8月6~7日は、愛知県岡崎市方面への旅。
まず初日は新幹線を豊橋駅で降り、名鉄線に乗り換えて御油駅へ。
御油宿をスタート地点とし、旧東海道を藤川宿まで歩きます。

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御油宿、江戸方の入り口となる音羽川と御油橋。

四月十八日、吉田川乗りこさせられ、五位にて御茶屋美々しく立て置かれ、面入口に結構に橋を懸けさせ、御風呂新しく立てられ、珍物を調へ、一献進上。大形ならぬ御馳走なり。
(信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」より)

天正10年(1582)、甲州征伐からの凱旋の途にある織田信長は、4月18日、吉田城下を出発し、その日は知立(池鯉鮒)まで進んでいます。
その道中、御油(五位)に差し掛かると御茶屋が美しく建てられており、表()の入口には結構な橋が架けられ、お風呂も新しく用意されて盛大なもてなしを受けています。
信長一行のために表の入口に架けられた結構な橋・・・きっと、旧東海道が通るこの御油橋辺りに架けられていたのではないでしょうか。

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御油橋を渡り、旧東海道歩きをスタートします。

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東林寺

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東林寺には、飯盛女のお墓が建ちます。
ある晩、飯盛女4人が示し合わせて旅籠を抜け出し、世を儚んで入水自殺してしまいました。
これを哀れんだ旅籠の主人や東林寺の住職らが供養のため、これらのお墓を建てたのだと云います。
なお墓石は5基ありますが、残りの1基については詳細を把握できておりません。

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御油宿は江戸から35番目の宿場で、次の赤坂宿とは僅かに1.7㎞ほどしか離れておらず、東海道の宿駅間では最も短かくなっていました。
飯盛女のエピソードが示す通り、御油と赤坂は歓楽的な宿場としても知られていたようです。

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御油宿を抜けると、国の天然記念物にも指定される御油の松並木が続きます。
これは見事。

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松並木を抜けると、そこはもう赤坂宿。
写真のすぐ先、路面の色が少し変わっている辺りが東見附跡になります。
しかし、東見附は寛政8年(1796)、更に先へ150mほど進んだ・・・

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こちらの関川神社の前に移されたそうです。

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大橋屋(旧旅籠鯉屋)
文化6年(1809)の赤坂宿大火以降に建てられたと考えられており、江戸時代には鯉屋を屋号とする旅籠が営まれました。
その後、所有者の変更もあって屋号を大橋屋と変え、なんと平成27年まで旅館として営業されていました。

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鯉屋に再現された、歌川広重の東海道五十三次「赤阪 旅舎招婦ノ図」に描かれた蘇鉄と石燈籠。

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地面には、失われた建物部分の間取りが平面展示されています。

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なお、近くの浄泉寺境内に、広重が描いた蘇鉄と伝わるものが移植されています。
明治20年頃、道路の拡張工事に伴って移されたそうです。

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大橋屋を辞し、しばらく進むと景色が一変してきました。
写真は岩略寺城跡辺りを写しています。

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正面の標識が示す通り、豊川市の長沢町という地名になるのですが・・・

本坂、長沢、皆道、山中にて、惣別石高なり。今度金棒を持ちて岩をつき砕かせ、石を取り退け、平らに申し付けられ、
(同)

この辺りの街道は「山中」で石や岩がゴロゴロしていたものを、信長一行の通行のために金棒でそれらを打ち砕き、取り除いて平らに整備させたと云います。
実際に東海道を歩いてみると、確かに山深い景観ではあるものの、通行する場所は山間といった風情です。

信長の凱旋旅を追って静岡県の丸子城周辺を訪れた際も;

山中路次通りまりこの川端に山城を拵へ、ふせぎの城あり。
(同)

という信長公記の表現に惑わされましたが、太田牛一(或いは当時の人々)は「山の中」でなくとも、山間のことも「山中」と表現していたのかもしれません。
コチラの記事、4月14日の項参照。

或いは近世以前、中世の主要道でもある鎌倉街道は、上の写真に写る山の中腹を通っていたとのこと。
・・・織田信長らが通行したのは、果たしていずれの道であったのか?

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こういう風情のある旧街道歩きは、本当に飽きることがないのですが・・・

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「関屋」という信号の少し先で、国道1号に合流しました。
ここから暫くは、退屈な国道歩きが続きます。

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岡崎市域に入ったところで本宿に到着です。

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赤坂宿と藤川宿の中間に位置する本宿村は、徳川家康手習いの寺としても知られる法蔵寺の門前を中心に発展しました。

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法蔵寺
個人的には、9年ぶりの再訪となりました。

爰に山中の宝蔵寺、御茶屋、面に結構に構へて、寺僧、喝食、老若罷り出で、御礼申さるる。
(同)

ここでいう「山中」は、本宿が所在する山中郷を指しています。
門前のこの辺りに、信長のための御茶屋が築かれたのでしょうか。

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再び国道1号に合流する手前にも、松並木がありました。

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既に結構な疲労を感じていましたが、信長たちが向かった池鯉鮒(知立)は、国道1号でまだ25㎞も先。
しかも彼らの出発地は吉田で、私の御油よりも遠い・・・昔の人は凄かった(笑)

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また旧道が復活するポイント。

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名鉄の線路沿いを進みます。

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結構アップダウンのある行程を道なりに進み、国道1号への合流地点手前で再び松並木。

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山中八幡宮
なかなか興味深い歴史もありそうでしたが、どれくらい登るのかわからず、体力の残量も少なかったので参拝は断念。

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道の駅藤川宿まで1㎞の看板があるポイントで、国道を左へ逸れます。
すぐ先で・・・

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歌川広重の東海道五十三次「藤川 棒鼻ノ図」に描かれた藤川宿東棒鼻(見附)に到着です。

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こちらが広重の東海道五十三次「藤川 棒鼻ノ図」

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藤川宿の町並み。

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宿場内も結構距離がありました。

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藤川宿脇本陣跡に建つ藤川宿資料館。
門は脇本陣の現存だそうです。

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藤川宿、西の棒鼻。
このすぐ近くに駅がありますので、今回の歩き旅はここまでといたします。

心配した暑さもこの日だけは若干和らぎ、絶好のコンディションに恵まれて完歩することができ、大満足です。

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2022年7月17日 (日)

伊豆の国市で北条めぐり

今回は静岡県伊豆の国市で、鎌倉時代の執権・北条氏ゆかりの地をいくつかめぐります。

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まずは、南江間の北条義時館跡。
現在の江間公園一帯にあたります。この地に屋敷を構えたことから義時は「江間小四郎義時」とも呼ばれています。

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義時館跡のすぐ南西に建つ北條寺。

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北條寺は義時によって創建されました。

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境内墓地横、小四郎山と呼ばれる小高い丘を登ると・・・

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北条義時夫妻の墓所があります。
後に名執権と称えられる義時の長子・泰時によって建てられました。

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こちらは室町期、堀越公方の居所兼政庁が置かれていた堀越御所跡。
京の将軍・足利義政の意向を受けて、古河公方に代わる新たな鎌倉公方として下向したものの、享徳の乱で敵対する古河公方方の勢力に阻まれて関東(鎌倉)に入ることができなかった足利政知が構えました。
古河公方に対して、堀越公方と呼ばれることになります。

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御所の背後(南)には、詰め城とも伝えられる守山城。

政知の死後、その後継を巡る混乱に乗じた伊勢宗瑞の襲撃を受け、堀越御所は陥落します(明応2年/1493)。
伊豆から追放された政知の子息・茶々丸は、その後も伊豆奪回の機会を窺っていたようですが、結局は宗瑞に追い詰められ、明応7年(1498)に自害して果てています。

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堀越御所跡のすぐ近く、北条政子産湯の井戸。
政子誕生の折、その産湯の水を取ったとされる井戸です。

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守山の北麓、北条氏邸跡。
鎌倉幕府滅亡後には、8代執権・北条貞時の妻が遺された北条氏の子女救済と一族の供養のため、円成寺を建立しています。

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北条氏邸前から、狩野川越しに江間を望む。

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北条氏邸跡からは建物跡や井戸、池跡などの他、かわらけなども出土しているようです。

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実際に建物がどのようにして建っていたのか・・・そのイマジネーションを助けるための案内板かな?

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北条氏邸跡から守山に登ります。
2~3分ほども進むと、とても気になる平場がありました。左奥は完全に切岸に見えます。

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山頂すぐ手前の分岐点。

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まずは展望台のある山頂へ。

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森山山頂展望台からの眺め。
本来であれば左側に富士山が見えているはずなのですが・・・残念!

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下山は、真珠院方面へ下っていきます。

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どれもこれも、巨大な堀切と見紛うばかりの急勾配なアップダウンが続きます。

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しばらく進んだ先に架かる木橋・・・間違いなく堀切ですね。

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更にその先で、ふと左へ目を向けると・・・ありますね。

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こちらも間違いなく堀切。
守山城がいつの時代まで使用されたのかはわかりませんが、中世の詰城というよりはむしろ、戦国期の限定的な城砦といった印象を受けました。
豊臣秀吉の小田原征伐時に於ける、韮山城攻めに関連しているのでしょうか?

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スズメバチの威嚇攻撃を受け、駆け足で九十九折れの登山道を下り切った後は真珠院へ。

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山門を潜ったすぐ右手、八重姫御堂。

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父・伊東祐親によって頼朝との仲を裂かれ、真珠院の南側にあった真珠ヶ淵に身を投げたと云う八重姫を祀ります。

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書かれてある通り、八重姫が入水した時、せめて梯子があったなら救うこともできたのに、という里人たちの思いから、今日では願いが叶ったお礼参りに小さな梯子を奉納する習わしになっているそうです。

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続いて願成就院へ。
文治5年(1189)、奥州藤原氏征伐の戦勝を祈願して、北条時政が創建しました。

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念願だった運慶作の;
阿弥陀如来坐像
不動明王と二童子の三尊立像
毘沙門天立像(一説には北条義時がモデルとも?)

そして、有名な北条時政肖像や北条政子地蔵を拝観したまではよかったのですが・・・

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暑さにやられ、早く車に戻ってエアコンで体を冷やすことしか考えられなくなっていた私は、あろうことか北条時政・足利茶々丸の墓参をすっかり失念してしまいました・・・この旅で唯一の後悔。

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最後に大河ドラマ館にも立ち寄りました。

付近には他に蛭ヶ小島や山木兼隆の館跡などもあるのですが、数年前に訪問済みなので今回はパスして帰路に就きました。

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2022年7月16日 (土)

江川家住宅と本立寺

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先日、執権北条氏ゆかりの地をめぐって伊豆の国市を訪れたついでに、未訪のままになっていた江川家住宅にも立ち寄りました。

江川家は江戸時代、天領の民政などを司る幕府の世襲代官を務めた家柄で、当主は代々「太郎左衛門」を名乗りました。
中でも幕末の36代・江川英龍は、品川台場の築造などで名を馳せています。
私の住む多摩も天領でしたので、新選組に絡んで近隣の歴史に触れていると、度々「江川太郎左衛門」の名に出くわします。

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主屋の屋根の木組み。
現存する主屋は室町期に創建された箇所と、江戸初期に修築された箇所とが含まれるそうで、国の重要文化財に指定されています。
昭和35年の解体修理で、屋根は茅葺から銅板葺に改められました。

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高札

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肥料蔵や米蔵など。

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江川家の菩提寺、本立寺に向かいます。
田圃の間を真っ直ぐに伸びる路を進んだ先が本立寺。とても長閑な光景ですが、とにかく暑い!

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本立寺山門

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江川太郎左衛門英龍像

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本立寺は、伊豆に流されていた日蓮上人が弘長2年(1262)、江川家16代の英親に招かれたことを基因とし、永正3年(1506)に24代・英盛が邸内にあった大乗庵を当地に移して創建されました。
本堂の裏手へ回ると・・・

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江川家代々の墓所があります。
ここから更に数段上り、写真奥に見える木々の向こう側に・・・

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江川太郎左衛門英龍が眠ります。

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狩宿の下馬桜と井出家の高麗門・長屋

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静岡県富士宮市狩宿の下馬桜と、奥には長屋を備えた井出家の高麗門

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建久4年(1193)の富士の巻狩の際、井出家の屋敷を宿所とした源頼朝が馬を下りた場所との伝承から「下馬桜」、或いは「駒止めの桜」とも呼ばれています。
樹齢800年を超える山桜です。

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井出家の前庭には、当地を訪れて下馬桜を句に認めた高浜虚子(中央)らの句碑も。

明治期には徳川慶喜も訪れており、
あはれその 駒のミならす 見る人の こころをつなく やまさくらかな
と詠み、書に認めたものが井出家に残っているそうです。

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両脇に長屋を備えた井出家の高麗門。
幾度かの焼失を経ており、現存するものは嘉永元年(1848)の建立になるそうです。

なお、安永5年(1776)の火災に遭うまで、屋敷は現在地の北東に隣接する区画(元屋敷/写真手前の右手側)に建っていたそうです。
その一角には・・・

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頼朝の宿所の周囲を幔幕で囲う際に利用されたと云う、「幕張の欅」が1本だけ残っています。

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高麗門・長屋は、周囲を一周して見学できます。

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高麗門に並ぶ長屋の内、南側のものは農機具などを収める納屋や、、、

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馬小屋になっていました。
高麗門を挟んだ北側は、作業小屋として使われていたそうです。

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高麗門

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富士の巻狩の様子。

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その舞台・・・残念ながらこの日は、富士山は殆ど雲に隠れてしまいました。

ところで、富士の巻狩から400年近く後の天正10年(1582)、甲州征伐を終えて安土への凱旋の途にある織田信長もこの地域を通過し、土地の者から富士の巻狩に関する旧跡について説明を受けています。
その様子は太田牛一が記した「信長公記」に詳しいのですが、その中で牛一は、頼朝の館が築かれた場所について;

昔、頼朝かりくらの屋形立てられし、かみ井手の丸山あり。西の山に白糸の滝名所あり。

と記しています。
確かに狩宿は上井出(かみ井手)のすぐ南に隣接する地域で、「狩りの宿」と、なんとも示唆的な地名でもあります。
しかし、地形的には牛一が記すような「丸山」には見えませんし、白糸の滝の東にもあたりません。

曽我兄弟の敵討ちでは殺害された工藤祐経ばかりでなく、頼朝自身も襲撃を受けたと云います。
狩宿の井出家では工藤祐経のお墓や、曽我の隠れ岩などからも少々距離が離れ過ぎているきらいがあります。

富士の巻狩はおよそ1ヶ月にも及んでいますので、その間には頼朝が井出家に滞在したこもあったのでしょう。
しかし、少なくとも太田牛一が書き記した場所、そして或いは狩りの本営として北条時政が用意した場所も、いろいろな条件を突き合わせると、工藤祐経のお墓のすぐ南、麓に若桜神社や光立寺がある丘の辺りを指しているのではないかと、個人的には推察します。
住所も上井出で、「信長公記」の記述と矛盾しません。

以下2022716日追記
twitterでフォロワーさんにご教示いただいたのですが、富士宮市立郷土資料館通信(2011531HP掲載分)では、宿所を狩宿の井出家、「丸山」は白糸の滝北東方向、上井出天神社の北に位置する天神山と推定されています。
いずれにしても、「丸山」と宿所とされる狩宿とは距離がありますので、広大な狩場を一望に見渡せる丸山(天神山か)には宿所とは別に、狩りの本陣のようなものが築かれていたのかもしれません。
牛一が
かりくらの屋形と記したものも或いは宿所ではなく、巻狩の本陣を指していたのではないか、とも思えてきました。

 

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2022年4月21日 (木)

鳥羽山城、二俣城…浜松で史跡めぐり③

浜松史跡めぐりの旅、ラストは鳥羽山城二俣城です。
二俣城は永禄12年(1569)以降、遠江を制した徳川家の配下にありましたが、元亀3年(1572)10月、徳川領へ侵攻した甲斐武田軍の攻撃を受けて落城します。
武田信玄の死後も二俣城の帰趨をめぐり、武田×徳川間の攻防は続きました。
そして、天正3年(1575)5月の長篠設楽原合戦で勝利した家康は、鳥羽山城を拠点に攻勢を強め、同年12月、遂に二俣城は再び徳川家の手に帰しました。

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鳥羽山城図

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鳥羽山城大手門

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本丸

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本丸内の枯山水庭園遺構。

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東門

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東門を抜け、北の丸から二俣城方面を眺める。

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本丸東面(外側)の石垣。

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天正18年(1590)の小田原征伐後に徳川家は関東に移封され、浜松には堀尾氏が入封します。
こうした石垣は(二俣城のものも含め)、その堀尾氏時代に構築されたものと最近では考えられているようです。
或いは、先ほど見た庭園遺構なども同様なのかもしれません。

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図のA部分の堀切。

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続いて二俣城の麓、清瀧寺へ。

※清瀧寺、及び二俣城は2019年に続く再訪になりますので、コチラの記事と重複する部分は省略します。

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松平(徳川)信康の廟所。

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前回訪れた際には見落としていたのですが、廟所へと続く参道の脇には信康に殉じた吉良初之丞、二俣城主も歴任した大久保忠世、三方ヶ原で戦死した中根正照・青木吉継らのお墓(供養塔か)もありました。

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二俣城図

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二の丸、稲荷神社脇の土塁上から蔵屋敷を見下ろす。間には堀跡も。

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先ほど見下ろした、二の丸と蔵屋敷間の堀跡。

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蔵屋敷先端部分の、石垣を伴う土塁。

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案の定、蔵屋敷と南曲輪の間にも堀切がありました。
この先は藪がきつく、陽も落ちてきましたので切り上げます。

実に久しぶりの遠征となりましたが、やはり歴史に触れる旅は楽しいですね。
これからも感染予防を心掛けつつ、少しずつ「歴旅」な日々を取り戻していきたいと思います。

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2022年4月20日 (水)

佐久城、堀川城、気賀関所…浜松で史跡めぐり②

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佐久城は別名「浜名城」ともいい、室町期以降、源頼政の子孫と伝わる浜名氏の居城として築かれましたが、永禄11年(1568)の暮れから開始された徳川家康の遠江侵攻により落城し、以降は天正11年(1583)の廃城まで徳川家の管理下に置かれたようです。

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馬出と南郭間の堀。

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南郭

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馬出
土塁がいい感じに残っています。

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馬出から本郭へ続く土橋。

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馬出と本郭間の堀切(東側)

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土橋西側の堀。
低い土塁のようなものが堀底を横切り、その先が更に一段落ちているように見えます。
往時は今よりも水位が3mほど高かったと推定されているようなので、おそらく、あの一段低い位置まで水が来ていたのではないかと思います。低い土塁のようなものは堰と見ましたが・・・いかがでしょうか。

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本郭側から土橋と馬出・・・美しい。

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本郭は結構な広さがあります。

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土塁の残存状況も良好。

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井戸や建物跡。

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本郭に建つ城址碑。

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本郭から望む猪鼻湖。

冒頭に掲載した見取図には「1500年頃」とありましたが、馬出の形状などは徳川による改修との印象を、個人的には受けました。

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続いて、浜松市北区細江町気賀の堀川城
遺構は残らず、推定地に城址碑が建つのみですが、往時は浜名湖に面した立地だったと考えられています。

堀川城も徳川家康の遠江侵攻によって永禄12年(1569)に落城していますが、立て籠もった気賀周辺の土豪らの抵抗は特に頑強だったらしく、手を焼いた家康は「撫で斬り」を命じたため、最終的に籠城兵らは全滅したと云います。

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城址碑の横には、命を落とした籠城兵らのものと思われる首塚も。。。

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江戸時代、姫街道に設置されていた気賀関所(復元)にも立ち寄りました。

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向番所内の牢屋。

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遠見番所

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遠見番所からの眺め。

浜松史跡めぐりの旅、ラストは鳥羽山城・二俣城へ向かいます。

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2022年4月19日 (火)

引間(曳馬)城、犀ヶ崖、他…浜松で史跡めぐり①

1年4ヶ月ぶりの遠征は、静岡県浜松市の史跡をめぐる旅です。
…その1年4ヶ月前も池田近道や旧東海道をめぐり、浜松に宿泊していましたが(笑)

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本当は最初にお寺さんを2ヶ所ほど訪れたのですが、それは別の機会にテーマを立てて記事にまとめることとして、今回はその後に立ち寄った浜松城から記事をスタートします。

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天守台地階の石組み井戸。
浜松城には何度も訪れているのに、天守内部には初めて入りました。

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浜松城公園の東隣り、元城町の東照宮。
引間(曳馬)城跡でもあります。

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曳馬城跡碑
遠江を制した徳川家康が自らの新たな居城として浜松城を築き、引間城もその一部として取り込まれました。

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目立った遺構は残りませんが、周辺の地形には興味を惹かれました。
東照宮境内の東西共にグッと落ち込んでいましたし、鳥居の先(南)もやはり堀、或いは切岸のように落ちています。

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境内には、徳川家康と少年・秀吉の銅像も。

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お次は犀ヶ崖資料館へ。

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犀ヶ崖の石碑。

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犀ヶ崖
元亀3年12月22日(1573年1月25日)、三方ヶ原での戦いに敗れて浜松城へ撤退した徳川家康は夜、この犀ヶ崖付近に宿営していた武田軍の陣を急襲し、地理不案内もあって混乱する武田の兵が崖から転落し、多くの死傷者を出したという伝承で知られています。

犀ヶ崖は浜松城の北西、僅かに1㎞ほどの距離。
この付近に布陣していたと云う武田の兵たちは、浜松城に撤退した徳川軍に対する“押さえ”として配備された部隊だったのでしょうか。

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本多肥後守忠真顕彰碑
後に徳川四天王にも数えられる本多平八郎忠勝の叔父である本多忠真は、三方ヶ原から撤退する徳川軍の殿を務め、道の左右に旗指物を突き立てて「この先へは一歩も引かぬ」と言って迫り来る武田軍に立ち向かい、見事な討死を遂げたと伝えられます。

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その顕彰碑の裏には、ひっそりと旗立ての松跡の札が立っていましたが・・・詳しい関連は把握できておりません。

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犀ヶ崖の至近には、やはり三方ヶ原合戦で家康の身代わりとなって戦死した、夏目次郎左衛門吉信の碑もあります。

※三方ヶ原の古戦場関連につきましては、コチラの記事をご参照ください。

この後は三ケ日方面へ向かい、猪鼻湖畔の佐久城を目指します。

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2020年12月11日 (金)

旧東海道 袋井宿~掛川宿

遠江旅の2日目は袋井駅まで移動し、東海道53次中、27番目の「どまんなか」に当たる袋井宿へ。

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袋井宿から西、浜松までの行程は以前にも歩いているので、今回はここから東へ掛川まで歩いてみることにします。
写真左に見えているのは、袋井宿東本陣跡。

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袋井宿東の出入口に建つ東海道どまん中茶屋。
スタートしたばかりでしたが、美味しいお茶をいただいたので一服。
木から吊るされているヤカンは・・・

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歌川広重の「袋井」の絵を模しています。

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どまん中茶屋の先で旧東海道は少し消失(黒点線部分)していますが、迂回して先へ進むと・・・

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いい雰囲気で真っ直ぐに伸びていました。

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木造屋形造りの、新屋の秋葉山常夜灯。

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極端に道幅が狭まる旧東海道。

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この辺りでもやはり、一部区間で旧街道が消失しています。
案内では一旦、県道413号線の交差点に出て迂回するルートを紹介していましたが・・・

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先ほどの細い道から、車道を挟んで反対側にも歩道が続いていたので、そちらへ行ってみると・・・

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県道413号線沿いの店舗の裏側から、うまいこと迂回することができました。
写真右側の道路が旧東海道になります。

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旧東海道、久努の松並木。

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松並木はすぐに一旦途切れますが、この後もしばらくは断続的に続きます。

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油山寺道標
ここから北へ向かうと油山寺があります。

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久津部一里塚跡
江戸から60里目に当たります。

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さ、また松並木に入ります。

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富士浅間宮赤鳥居
富士浅間宮は、この鳥居が建つ旧東海道から北へ6~700mほどの場所にあります。
現在では建ち並ぶ工場や国道、東名高速に遮られて全く見えませんが、江戸時代には赤鳥居から社殿を見通すことができたそうです。

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街道の部分だけ一段高くなっています。
その昔は一帯に田畑が広がり、旧東海道は畦道(畷道)のようになっていたのかもしれません。

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松並木を抜けると、名栗の花茣蓙について書かれた大きな駕籠が置かれていました。
(どうやらゴミの収集庫らしいです)

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国道1号線と交差する地点にある、花茣蓙公園。
この先は一旦トンネルを潜り、国道に上がって同心橋を渡って原野谷川を越えます。

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同心橋を渡ると掛川市に入りました。

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同心橋を渡ったらすぐに国道を離れ、北東方向へ伸びていく旧東海道へ。

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間の宿原川を過ぎた辺りから、また松並木(原川~岡津間)が続きます。

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やはり松並木は、旧東海道歩きの醍醐味ですね。

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松並木を過ぎ、垂木川沿いを進む旧東海道。

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県道253号線を進み、国道1号線のガード下を潜った先の沢田IC南交差点は、左斜め前方へ。

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趣のある道が続きます。
高くそびえるのは、お酒の醸造所のもののようです。

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逆川の堤防近く。
所々に松の木が点在していました。

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大池一里塚跡の碑。
江戸から59里目になります。

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遠州浜名湖鉄道線の西掛川駅横のガード(写真)を潜り・・・

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県道415号線と交差する地点に架かる大池橋。

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歌川広重の「掛川」にも描かれた光景です。
秋葉山本宮秋葉神社へ通じる秋葉街道との追分でもあったので、橋の傍らには昭和の初め頃まで、大きな鳥居が建っていたそうです。

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大池橋を渡り、県道415号線を東へ。
写真の二瀬川交差点を右折。この辺りからいよいよ掛川宿に入ります。

※ここで嬉しいサプライズが。私は道中、折々にtweetを上げていたのですが、それを見た静岡県在住のフォロワーさんがお土産を持って待っていてくださいました。
その節はありがとうございました。

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こちらの二股は左へ。

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県道37号線を左へ。

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圓満寺に移築されている、掛川城の蕗の門。
三の丸辺りに建っていたようです。

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そして掛川城。
掛川宿から先、金谷宿までの区間は以前にも歩いているので、今回はここまでとします。

2日間合わせても30㎞も歩いていないはずですが、新型コロナの影響で長距離を歩くのも久しぶりだったので、とても疲れました。
感染拡大の第三波も来ているので、今後は少なくとも冬の間は遠出は自粛です。
春になったら今度こそ、今年の春に諦めた場所へどうしても行きたいので、少しは収まっていることを願って止みません。。。

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