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2018年5月24日 (木)

下田で史跡めぐり

なんとなく年一の恒例となっている家族での温泉旅行。今年の行き先は、ちょっとした紆余曲折を経て伊豆は下田になりました。
家族連れとはいえ、そこは折角の遠出。勿論、史跡めぐりも盛り込んでいきます(笑)
※テーマは方々に飛び散ってまとめるのも面倒なので、今回は単純に訪問順でご紹介していきます。

■5月18日(金) 
偶然なのですが、この週末は下田で黒船祭りが開催されることを旅行計画後に知り、慌てて祭りのスケジュールを睨みながら、なんとかバッティングを避けるように行程を組みました。

道路渋滞もない快適なドライブ。順調に天城越えで下田市域に入り、まず最初に訪れたのは・・・

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蓮台寺温泉の吉田松陰寓寄処です。

嘉永7年(1854)3月3日、神奈川で日米和親条約が締結されます。
条約によって開港場に指定された下田へと向かったペリー艦隊を追い、吉田松陰(寅次郎)も金子重輔を伴って下田へと向かいました。
同18日、松陰は「瓜中万二」、重輔は「市木公太」という変名を用い、まずは下田の岡方屋(岡村屋とも。現下田屋旅館)という宿に入ります。
当時、皮膚病(疥癬)を患っていた松陰は下田到着後、治療のために蓮台寺温泉を訪れました。
とある深夜、2人が本来は村人しか利用できない共同湯にいるところへ、向かいの屋敷に住む村山行馬郎が現れます。見慣れぬ2人を訝しんだものの、医師でもあった行馬郎は事情を察したのでしょう、2人を自邸に引き取って匿うことにしました。

前置きが長くなりましたが、この村山行馬郎の屋敷こそ、上写真の吉田松陰寓寄処(以下、村山邸)となるのです。

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室内の様子
さすがに平日の昼間とあって訪れる人もなく、一人で独占して見学できました。

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入口の土間の脇にはお風呂も・・・しかも温泉が引かれていたのだそうです。
松陰たちと出会った際、行馬郎は自邸にも温泉があったのに何故、わざわざ共同湯へ行ったのか?
案内してくださったボランティアさんによると、当時は村山邸が単純泉であったのに対し、共同湯は硫黄泉であった(現在は共に単純泉)ことから、行馬郎は体調や病といった何がしかの理由で、硫黄泉を求めてわざわざ共同湯に浸かりにいったのではないか、とのことでした。

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村山邸から正面に見える、松陰・重輔の2人が潜んでいた共同湯。

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「吉田松陰湯治湯の跡」とあります。

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村山邸に戻ります。
村山邸の風呂は写真右奥にあり、その手前に見える階段を上がると・・・

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松陰や重輔を匿った隠れの間があります。
階段を取り外して天井板を閉めると、ちょっとした隠し部屋になる構造です。

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吉田松陰隠れの間
この一間で松陰は、密航の企てを実行に移すタイミングを計っていたのでしょうか。

数日の間を共に過ごすうち、松陰と行馬郎は大変に意気投合したようで、行馬郎の娘が後年、松陰と行馬郎が夜な夜な語り合う様子を語り残しているのだそうです。
(松陰の患っていた皮膚病の具合も)

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村山邸を出た松陰と重輔は3月27日の深夜(28日未明)、柿崎の弁天島の浜から小舟を漕ぎ出し、碇泊していたペリー艦隊(旗艦ポーハタン号)に乗り込んで密航を企てますが拒否され、現在の下田市須崎付近の浜へと送り返されました。
黒船に乗り込んだ際、盗んで漕ぎ寄せてきた小舟を見失っていた2人は事態の発覚を覚悟して自首、江戸伝馬町の牢屋敷へ送られた後に死罪は免れて国許蟄居とされ、松陰は萩の野山獄に入れられました。(重輔は岩倉獄に入れられ、そのまま獄死)
出獄が許された後も杉家幽閉の身となり、このことが松下村塾(叔父が主宰していたものの名を引き継いだ)を開塾するきっかけとなったのでした。

さて、私も村山邸を辞し、下田の中心街へと向かいます。

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宝福寺
嘉永7年(1854)に日米和親条約が締結され、新設された下田奉行の都築駿河守が宿所としたことから、仮の下田奉行所となりました。
文久3年(1863)には土佐藩の山内容堂が宿を取り、順動丸で入港した勝海舟が訪れて容堂に謁見し、坂本龍馬の脱藩の罪の許しを取り付けた地としても知られています。
「晴れて赦免の身となった龍馬の活躍はここから始まる」との意から、石柱には「坂本龍馬飛翔之地」ともありました。

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こんな可愛らしい龍馬像も。

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宝福寺境内、唐人お吉記念館に展示されている容堂・海舟謁見の間

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記念館裏には、初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスに奉公したお吉の墓所も。
お吉は下田で芸妓をしていたところを奉行所の目に留まり、ハリスの元へ侍妾として奉公することになった人物です。
その後は一旦下田を離れたものの、維新後には再び戻って髪結い業を始めたり、小料理屋(安直楼)を開業したりしますが、安直楼は2年で廃業と、なかなか上手くはいかなかったようです。
ハリスの侍妾として奉公した過去から世間に「唐人」と嘲弄され、貧困の中に世を儚み、明治24年3月27日、豪雨の夜に川へ身を投じて51年の生涯を閉じました。
こちらの墓石は後にお吉を演じた水谷八重子らによって寄進されたもので、向かって右横には小さな元の墓石も祀られていました。

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続いて了仙寺へ。
嘉永7年(1854)3月、日米和親条約が締結されて下田が開港場になると、了仙寺は上陸したペリー艦隊一行の応接所となり、同年5月には和親条約の細部を詰めた下田条約調印の場にもなりました。
調印された下田条約により、了仙寺は玉泉寺と共にアメリカ人乗組員のための休息所となっています。
満開に咲き誇るアメリカジャスミンの香りが、辺りを濃厚に包んでいました。

今度は了仙寺の目と鼻の先、下田公園へ。
一旦幕末から離れ、戦国期へシフトします。

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下田城
小田原北条氏の海の拠点の一つ。豊臣秀吉との間に緊張が高まってくると北条氏は、清水康英を城将として入れ、城に改修の手を加えて整備させています。

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登り始めて最初に目に飛び込んできた横堀。
細い尾根上に配された曲輪群を取り巻くようにして伸びています。

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堀切

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5月にもなると下草が伸び、ちょっと見え辛いけど・・・畝堀

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畝堀の先にも堀が続きます。

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先ほどとは反対側から畝堀を見た様子・・・チャンスがあれば冬に再チャレンジですね(^_^;)

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元々は「鵜島」という島だったそうで、鵜島城とも呼ばれているようです。

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伝「天守台」跡とされる曲輪部分。
下田城の主郭にあたります。

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主郭から三方へ伸びる細尾根の一つ。

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尾根上から、先ほどの畝堀を見下ろした様子。

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城跡からの眺め。

天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、下田にも長宗我部元親や脇坂安治らの率いる1万余りの大軍が押し寄せます。
僅か600ほどの手勢で立て籠もる清水康英は抵抗するものの、50日間に及ぶ防戦の末に開城しました。

そのまま幕末へ戻り・・・

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下田公園北側の中腹に建つ、開国記念碑
下田開港100年を記念し、昭和29年(1954)に建てられました。

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ペリーとハリスの言葉が刻まれています。
ペリーの「余は平和の使節として此の地に来れり」という言葉を選したのはGHQのマッカーサーで、「開国記念碑」の揮毫は吉田茂元首相によります。

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更に麓へ下ると・・・ペリー上陸の碑
嘉永7年(1854)に締結された日米和親条約で下田が開港場となり、入港してきたペリー艦隊の乗組員たちが初めて上陸した地点に建てられています。

さて、これにて初日の史跡めぐりは終了としました。
この後は宿へ入り、温泉に山海の幸、美味しい地酒、、、贅の限りを尽くしてきました(笑)


■5月19日(土)

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前夜から明け方まで降り続いた雨も、出発する頃までにはすっかり上がって陽も射してきました。
2日目のスタートは・・・

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柿崎弁天島からです。
本記事の冒頭でご紹介した吉田松陰寓寄処の箇所でも書きましたが、吉田松陰が黒船に乗り込んでの密航を企て、金子重輔と共に小舟でペリー艦隊の碇泊する海へと漕ぎ出した場所です。
・・・それにしてもすごく特徴的な地層ですね。

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七生説の碑(左)と金子重輔行状碑(右)

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ペリー艦隊を目指し、小舟を漕ぎ出す松陰と重輔の図。
・・・湾内にしちゃ、海が荒れすぎじゃね?(笑)

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弁天島に建つ弁天社(手前)と下田龍神宮(奥)
踏海を企む2人は、手前の弁天社で仮眠を取ったとも云われています。

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柿崎弁天島からの下田湾。
ペリーの乗船するポーハタン号は果たして、どの辺りに碇泊していたのでしょうか。

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なんとか黒船に乗り込んでペリーに交渉したものの、乗船を拒否された2人は、写真左奥方向に位置する須崎付近の浜に送り届けられました。

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柿崎弁天島の近く、三島神社境内に建つ吉田松陰像。
(弁天島の松陰&重輔の銅像は、すっかり見落としてしまいました・・・)

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2人が送り届けられた須崎に行ってみると、ご覧の案内板が設置されていました。

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生い茂る樹木の中でひっそりと佇む、吉田松陰上陸の碑

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上陸地点からの下田湾。
弁天島の方向には、視界は開けていません。

この後の顛末は、吉田松陰寓寄処の箇所でも簡単に触れた通りです。
乗船を拒否され、この地に送り返された時、松陰の目にこの景色はどのように映っていたことでしょう。

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さて、今回最後にご紹介するのは玉泉寺です。
(本当は吉田松陰上陸の碑よりも先に訪れていますが、あしからず)

嘉永7年(1854)5月の下田条約によってアメリカ人乗組員の休息所となり、安政3年(1856)に来日した初代総領事タウンゼント・ハリスが住居に定めて以降、日米修好通商条約によって開港された横浜へ移る同6年までの間、アメリカの総領事館として機能しました。

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ハリス記念碑

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日本最初の屠殺場跡
領事館員の食糧のため、この場所にあった木に牛を繋いで屠殺していたのだそうです。
その木は既に枯れていますが、境内のハリス記念館で保存されているそうです。残念ながら今回は寄りませんでしたが。

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山門脇には、カーター大統領来訪記念碑などもありました。

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総領事ハリスや、通訳ヒュースケンの居室が置かれていた本堂。
本堂の前にあるのは牛乳の碑。

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本堂には穴を空けた石を壁に埋め込み、ストーブの煙突を通していた痕跡も残っていました。

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最後にぺルリ艦隊乗組将兵の墓へもお参り。

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下田での史跡めぐりは、吉田松陰に始まってペリー来航など、個人的にはこれまであまり詳細には触れて来なかった歴史の連続。
そういった意味でも、改めて見直してみるいい機会にはなりました。

帰路は伊豆半島の東海岸沿いを北上し、伊東で昼食&ひもの購入休憩を挟んで無事に帰宅。土曜日だったこともあって渋滞にもはまらず、愛車にとってもいい運動になったようです。

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2018年3月21日 (水)

墨俣川古戦場と源義円

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小熊の一乗寺を訪れた際、墨俣川合戦の戦死者たちの供養塔を目にしたので・・・

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墨俣川古戦場にも立ち寄ってみました。
碑は義円公園の中に建っています。

墨俣川合戦は治承5年(1181)3月10日(諸説あり)、墨俣川(現在の長良川)を挟んで対峙した源平による戦い。
この合戦で源義朝の八男・義円(母は義経と同じ常盤御前)が命を落としています。

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義円の供養塔

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奇しくも我々が訪れた3月10日は、諸説あるものの合戦のあった義円の命日
この日は毎年、地元の方が供養を続けているそうです。
※1181年の7月に養和へ改元しているので、合戦のあった3月は治承5年。

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そんな訳で我々が訪れると、居合わせた地元の方が義円地蔵のお堂を開けてお参りさせてくださいました。

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義円地蔵
お地蔵さんというよりは、道祖神のような雰囲気を醸していました。

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少し離れた場所に眠る義円の墓所。

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2018年1月 4日 (木)

三枚橋城(沼津城)、興国寺城

2018年1月3日、家族からの要望で沼津までドライブへ出たついで?に、いつもはスルーしていた三枚橋城(沼津城)にも立ち寄りました。
といっても、遺構は完全に消滅してしまっていますが・・・これが今年の城初め。

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近世沼津城図

天正7年(1579)、御館の乱をめぐる外交のもつれから関東の北条氏と断交した武田勝頼は、駿豆国境にあたる沼津の地に三枚橋城を築いて対北条氏の前線拠点としました。
関ヶ原合戦(1600)の後には大久保忠佐が入城しますが、忠佐の死後、世子不在により大久保家が断絶となると、三枚橋城も廃城されました。
後に水野氏が沼津を拝領し、三枚橋城の跡地に沼津城を築きますが、その規模は三枚橋城の北半分程度だったとか・・・勝頼の築いた三枚橋城は、上の図の倍近い規模を誇っていたのですね。
※以降も勝頼~忠佐時代のものを「三枚橋城」、水野氏による近世のものを「沼津城」と表記を分けて記します。

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中央公園に建つ沼津城本丸址
先の図面(以下「図」とのみ記す)で現在地とある地点です。
足元の石は近くの静岡中央銀行新築工事の際に出土したもので、現地案内板では「三枚橋城当時の石垣に使われていたもの」と断定していました。
静岡中央銀行の位置を図で確認してみると、確かに近世の沼津城の範囲から微妙に外れているようですが、そのためでしょうか?

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aの復元石垣
位置からして、大手虎口付近の石垣となります。

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b地点の復元石垣
こちらも沼津城の範囲からは外れていますので、もしこの地点から発掘されたものであれば勝頼~大久保忠佐時代の三枚橋城のもの、ということになりますでしょうか。

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沼津城のすぐ南には、旧東海道が通っています。

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「東海道分間延絵図」に描かれた沼津城。
沼津城を築くにあたり、東海道を曲げて迂回させた様子が見て取れますが、三枚橋城の城域は更に南へ延びていたと云うことですから、或いは街道を城内に取り込むようにして築かれていたのかもしれません。

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旧東海道から、本丸との地形の高低差を確認する。

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三枚橋城から狩野川越しに東方を眺める。
写真中央奥には、北条方の最前線拠点・戸倉城があります。そのすぐ北から流れ込んでいる黄瀬川が当時の駿豆国境となっていたため、戸倉城のある地は伊豆国とされていました。
まさに武田と北条が対峙していた距離感です。


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さて、折角沼津へ来たので興国寺城まで足を延ばします。

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興国寺城本丸跡
実は私、興国寺城にはこれが初めての訪問だったのですが、いきなりの物凄い土塁の規模に心底驚かされました。

伊勢新九郎盛時(北条早雲)は今川氏親の家督相続に尽力し、その功によって興国寺城を与えられました。
まさに北条五代百年発祥の地と言えます。

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その北条早雲と、興国寺城最後の城主となる天野康景の慰霊碑。
康景は徳川家康に仕え、岡崎三奉行にも任ぜられて「どちへんなし(彼是偏無し)の三郎兵衛」と称された公平な人物として伝えられます。
関ヶ原合戦後に興国寺城を与えられましたが慶長12年(1607)、城の修築用の竹木を盗もうとした者を康景の家来が殺害するという事件が起こります。
一見すれば康景の家来に正当性がありますが、この盗人が天領の民であったことから問題が大きくなり、康景は家康側近の本多正純から、盗人を斬った家来を差し出すよう迫られます。
ところが、この家来を庇おうとしたのか康景は正純の指示には従わず、あろうことから城を捨てて出奔してしまいました。
これにより天野家は改易され、興国寺城も廃城となりました。

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本丸の背後(北)を固める土塁に残る伝天守台の石垣。

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伝天守台
礎石らしき石が並んでいました。

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伝天守台から城下を眺める。
真正面からの逆光で苦しい写真となってしまいましたが、彼方には駿河湾もハッキリと視認できました。

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伝天守台から見下ろす、本丸北側の空堀。
とにかく深くて規模が大きいです。

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コントラストがきついですが、この規模が伝わりますでしょうか・・・。

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西櫓台

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最後は堀底へ。
伝天守台の土塁が、しっかりと横矢を掛けています。

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堀底を西へ進むと不思議な穴がありましたが・・・中を覗いても真っ暗でよくわかりませんでした。

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こちらの切通しを抜けると・・・

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城の西側へ出ます。奥の地形が上がって谷戸になっていました。
この辺りは当時、沼地になっていたようです。

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土塁と空堀の規模は本当に素晴らしかった・・・興国寺城。
今回は家族連れでの訪問だったため本丸の周囲しか観ていませんが、何れ再訪の機会があれば範囲を広げてめぐりたいと思います。

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2017年12月24日 (日)

峯城と古城(フルシロ)

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峯城遠景

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峯城想像復元図
1枚目の遠景は、この図に「青館」とある付近から撮影しています。間を流れているのは八島川。
※郭のローマ数字は便宜上、現地で使用した測量図に合わせたものです。

天正11年(1583)、賤ヶ岳で対峙する羽柴秀吉と柴田勝家。その勝家と連携する滝川一益は、関盛信・一政父子が秀吉の元に赴いた隙を衝いて亀山城を占拠し、更に峯城を岡本良勝(宗憲)から奪って家臣・滝川益重を入れます。
これを受けて秀吉は直ちに峯城を包囲し、数ヶ月に及ぶ籠城戦の末、益重は城を開いて退去しました。
峯城は織田信雄の管理下となって彼の家臣が入城しますが、翌天正12年、秀吉と信雄が対立(小牧長久手の戦い)すると、秀吉は蒲生氏郷・関一政らに峯城を攻めさせ、峯城はまたしても落城の憂き目を見ることになりました。

天正18年、秀吉政権下で峯城に返り咲いていた岡本良勝が亀山城へ移るにあたり、峯城はその役目を終えて廃城になったと伝えられます。

今回は城の北側からアプローチしました。

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まず出迎えてくれたのは「かんざし井戸」
落城の折、城主の奥方が宝物の銀のかんざしをさし、この井戸に身を投げたとの伝承からそう呼ばれています。

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aの枡形虎口

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上から見ると、ちゃんと枡形になっている様子が分かります。

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郭の土塁

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b部分
想像図では郭として描かれていませんが、2段に綺麗に削平されています。

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郭は鬼藪・・・

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郭は鉄塔(と藪)

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郭西側の土塁

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郭の西虎口

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西虎口から帯郭に出て、郭と本丸(郭)間の堀切方向を見た様子。
写真←方向に堀切がありますが、あまりの藪のため写真は撮りませんでした(^_^;)

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本丸北西の切岸を見上げる。
この頭上には櫓台があったものと思われます。

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本丸切岸の高さを、人尺付きで体感してください。
(写真提供:流星☆さん)

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本丸の切岸下をグルッと回り込み、南虎口から本丸へ。
但しこの南虎口、その先に続く通路のような掘り込みが単なる水抜き用の側溝のようにも見え、明らかに後世の改変を受けた雰囲気を感じましたので、果たして本当に虎口だったのかは少々疑問です。
※東面にも虎口があるようなのですが、残念ながら激藪のため探索を諦めました。

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本丸の土塁
この土塁上を進んで天守台へ向かいます。

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天守台
天守台には方形に窪んだ箇所があり、今流行り?の穴蔵構造か!?とも思いました。

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天守台の斜面には、石垣の跡が僅かに残っています。

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石垣の隙間からは裏込め石(栗石)も見えています。

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他では見受けられませんでしたので、天守台など重要な箇所にのみ、石垣を用いていたのでしょう。

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城域の南端、尾根を断ち切る大きな堀切(c部分)

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更に先にもう1本ありました。

峯城・・・なかなか見応えのある城跡でした。
さて、ラストは峯城から八島川を挟んだ対岸にある古城(フルシロ)へ向かいます。

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古城縄張図

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車道沿いのaの虎口から侵入を試みますが・・・
虎口の先はあまりのド藪具合に、さすがの猛者たちもちょっと躊躇したほど(^_^;)
曲輪内はまず、まともに歩くことも叶いませんので、土塁上を進んでいくことにします。

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bの空堀

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cの土橋

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cの土橋を渡った先は、土塁を畝状に連ねたような不思議な形状をしていました。

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dの喰違虎口

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峯城と対峙する西側には、立派な横堀が廻らされていました。

古城はその名から、1300年代に峰城を築く以前までの峯氏の居城とも考えられていますが、その遺構からは織豊期の付城・陣城の雰囲気を感じます。
天正11年~12年にかけての秀吉軍による峯城包囲戦の際に改修され、峯城攻めの拠点として利用されたものと思います。

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最後に古城から、包囲する峯城を遠望する。。。

この日訪れたお城はどれも遺構・歴史両面で大変興味深く、とても充実した城攻めとなりました。
お誘いいただいた方や現地でご案内いただいた方、同行者皆さんに感謝ですね。楽しかったです。

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2017年12月23日 (土)

竹ヶ鼻城水攻めの舞台

白鬚神社~八神城跡とまわった後は、羽柴秀吉による竹ヶ鼻城水攻めの舞台をめぐります。

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羽島市歴史民俗資料館前に建つ竹ヶ鼻城本丸之址碑。
竹ヶ鼻城の遺構はほぼ全て失われていますが、資料館付近が本丸跡と推定されているようです。

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資料館向かい、竹鼻別院の門前に建つお城地蔵大菩薩
慶長5年(1600)、織田秀信の配下にあった竹ヶ鼻城は関ヶ原合戦の直前、福島正則ら東軍に攻められて落城しています。
この時の戦没者を供養しようと、昭和になって建立されました。

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羽島郵便局前に建つ一夜堤の跡
※後出地図(以下略)a

慶長5年から遡ること16年の天正12年(1584)4月、長久手での戦闘で徳川家康の軍勢に敗れた羽柴秀吉は、その矛先を家康と連携する織田信雄へ向けます。
同年5月、まずは信雄方の加賀野井城を落とし、更に竹ヶ鼻城へと迫りました。
竹ヶ鼻城の東には足近川から分岐した逆川の堤防があったため、北から西、南にかけて堤を築き、足近川から水を引き入れて城を水攻めにしました。
aの石碑の東、逆川と交錯する付近には「下土手」という交差点もあります。

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aの石碑から西へ進み、県道151号と交わる「竹鼻町蒲池」交差点に建つ石碑b

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bから県道151号を北東方向へ進んだ「竹鼻町今町」交差点付近に建つ石碑c
碑の建つ場所がまさに堤跡であることを示すかのように、写真奥の地形が下っていますし、堤跡のライン上と思われる通りの延長上には・・・

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とても興味深い土盛りが残っていました。
上には小さな祠が建っています。だからこそ、奇跡的に消失を免れた堤の一部ではなかろうかと密かに考えています。

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石碑abのライン上に、北西方向へ進んだ先。
この通りも堤の跡だろうとおもっていたら・・・

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やはり通り沿いの斎場の敷地に石碑dが建っていました。

以上の4基で、一夜堤石碑めぐりはコンプリートです。

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ラストは竹ヶ鼻城の北西1㎞、間島太閤山跡の碑。
その昔、旧間島村には40m四方ほどの丘陵があり、竹ヶ鼻城を水攻めにする秀吉が本陣を布いた場所と伝えられています。

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その丘陵も宅地等の造成でかなり失われたようですが、八幡神社の建つ部分だけが今でも残されています。

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太閤山の八幡神社。
実際に上まで登ってみましたが、樹木に遮られ、残念ながら竹ヶ鼻城方向の視界はききませんでした。

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間島太閤山碑の裏に並べられていた五輪石。
丘陵削土の際に出土したもので、水攻めによる戦没者を祀ったものではないかと考えられています。

20171216c13
太閤山の付近で足近川・逆川が、長良川より分水していました。
逆川はこの先、竹ヶ鼻城の東側を通ることになります。

今回めぐった地を現在の地図に落とし込むと下のようになります。

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こうして見ていくと、秀吉による竹ヶ鼻城水攻めの全容、その規模が見えてくるような気がしませんか?

水攻めにより孤立した竹ヶ鼻城は同年6月、秀吉方の降伏勧告を受け入れて開城します。
そしてその16年後、再び歴史の表舞台に登場し、最期の花を咲かせることになるのでした。

さて、旅の初日の行程はこれにて終了です。
2日目は三重県へ移動しての城攻めとなります。

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2017年12月22日 (金)

八神城と金宝寺

白鬚神社参拝後は昼食を挟み、羽島市桑原町の八神城跡へ向かいます。

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木曽川の畔に建つ八神渡船の跡碑を眺めつつ・・・

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まずは金宝寺へ。
八神城主・毛利氏の菩提寺です。

八神毛利氏は土岐・斎藤・織田氏などに仕えた一族で、江戸時代に入ると尾張徳川家で2000石(当初は3000石)を宛がわれました。

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特別に本堂へ上げていただき、江戸時代の古絵図を元に製作された八神城の模型や・・・
(模型の一番奥が金宝寺。この位置関係を参考に、後ほど城跡を歩きます)

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毛利氏が徳川家から拝領した駕籠を拝観させていただきました。

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駕籠は江戸中期の作と推定されています。
装飾の美麗さは、相当な格式を思わせました。

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毛利氏歴代(初代~13代)の墓所

金宝寺を辞した後は、八神城の主郭があったと思われる方向へ向かって歩きます。

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左奥の大きな銀杏の木を目印に進みます。
写真右に見えている土塁のような土盛りも気になるところ・・・。

20171216b08
市の天然記念物に指定されている銀杏の足元には、八神城の土塁が僅かに残っていました。
ちなみにこの銀杏、推定樹齢は300年以上で、毛利氏が移植したものと云われています。
なお、現在も八神氏のご子孫がお住まいで、先に訪れた金宝寺のご住職も縁戚なのだそうです。

20171216b09
周辺には堀跡を思わせる箇所もありましたが、正確な位置関係は把握しきれませんでした。
また、周辺には八神城の移築門が2基現存しているそうですが、事前に下調べをしていなかったので見逃しました。

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2017年12月 1日 (金)

広瀬城、小島城、増島城 城友会2017…③

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飛騨の国人・広瀬氏が築いたと云う広瀬城(高山市国府町名張)
まずは北端の現在地とある地点から、尾根伝いに南へ進みます。

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aの堀切
1本目はちょっと薄かったのですが・・・

20171126b03
2本目は竪堀もしっかりと落とされ、なかなか見応えがありました。

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b曲輪
縄張図でb曲輪の北側に描かれている畝状竪堀は、残念ながら草木に覆われて殆ど見ることができませんでした。

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c曲輪(本丸か)

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c曲輪西側の切岸を下る。
下った先は堀切(d)になっています。

20171126b07
下ってきたc曲輪の切岸を下から見上げる・・・結構な絶壁ですね。

そのままe曲輪方向へ向かって進むと・・・

20171126b08
本当に見事な畝状竪堀群が現れました。

20171126b09
この畝状竪堀、縄張図にもあるようにe曲輪の三方をグルリと取り巻いています。
写真は北面から西面にかけてのコーナー部分。

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e曲輪西面の畝。
この先、南面も目視では畝を確認できたのですが、結構な藪でしたので写真はありません。

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畝状竪堀群の先にある堀切。
e曲輪周辺は本当に見応えがありました。

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城内に建っていた「田中筑前守」の墓碑。
詳しくは分からないのですが、「飛州志」に;
同郷名張村にあり旧称広瀬の城と云う。広瀬宗城家臣田中与左衛門之を守る
とあり、田中氏は広瀬氏の家臣で、この広瀬城(別名:田中城)の城代を務めていたようです。
※但し、墓碑(右)には永正年間の年月日が刻まれていましたので、天正11年に討死している広瀬宗城の家臣だったという田中与左衛門と筑前守は別人となります。

さて、この後は小鷹利城へ向かいましたが、城跡が近付くにつれて深くなる残雪に前日の二日町城(の林道)を思い出し、急遽予定を変更して小島城を攻めることになりました。

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小島城(飛騨市古川町)は小島姉小路氏の拠点だったようです。
※姉小路氏は小島・向・古川の三氏に分かれている。

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林道終点の駐車スペース付近(東)から、城攻めをスタート。
・・・早くも主郭部が見えています。

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一段高い、東屋の建つ位置が主郭。

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小島城主郭

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主郭から櫓台方向を振り返る。

20171126b18
主郭から西へ進み、細い曲輪の先端のような場所には枡形虎口。
ここから一段下りて時計回りに回り込むと・・・

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石垣が一部、残っていました。

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往時は一面に積まれていたのでしょうね。

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石垣の前から、aの急斜面をロープ伝いに下りていきます。

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細い尾根上に築かれた段曲輪をいくつか過ぎ、「小島古城跡」の石碑を越えて更に進むと・・・

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城域の西端を仕切る大きな堀切(b)がありました。

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竪堀も綺麗に落とされています。

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主郭へ戻る途中、呆然と見上げたaの斜面・・・下りたからには登らなければならない訳で(;^ω^)

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城友会2017、ラストは飛騨で唯一という平城の増島城(飛騨市古川町片原町)です。
街中に本丸の櫓台(天守台)石垣と堀だけが僅かに残されています。

増島城は飛騨を制圧した金森氏によって築かれ、長近は高山城を築いて居城とし、増島城には養子の可重を入れました。
可重が二代高山藩主になると、増島城にはその長男・重近(宗和流茶道の祖)が入りますが、元和の一国一城令により「古川旅館」と改称し、更に元禄5年(1692)には金森氏が出羽へ移されて高山は天領となり、幕命により増島城は破却されました。


さて・・・事故も熊との遭遇もなく、城友会2017は無事に終了です。
この後は岐阜駅まで送っていただき、解散となりました。今年の城友会もあっという間に過ぎ去ってしまったなぁ・・・来年はどこになるかな?

また1年後を楽しみに・・・おしまい。

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2017年11月30日 (木)

高山の町並み、松倉城 城友会2017…②

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飛騨高山で迎える旅の2日目、まずは宮川の朝市からスタートします。
いつもの旅ではなかなか土産物を物色する時間が取れないのですが、お陰で今回はいつも以上にお財布に優しくない旅になりそうです(笑)

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そのまま古い町並みを散策♪

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風情があっていいですね。

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高山といえば日本三大美祭の一つ、春秋の高山祭
こちらは、曳行される祭屋台の屋台蔵です。

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宮川に架かる中橋

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高山陣屋
さすがに時間が早過ぎて開館していないので、今回はパスします。

さ、それでは松倉城へ向かいますか。

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松倉城(高山市松倉町)へは、高山市街地から車で20分ほどです。
林道をグイグイと登って駐車場に車を停めたら、そこから城域までは比高で2~30mほど。西側からのアプローチになります。
熊除けのためのドラム缶が・・・ボコボコ(^_^;)

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切岸手前、赤い服の人が立っている辺りは土橋で、とっても薄いですが堀切が走っています。
そして切岸を登った先には・・・

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見事な石垣が眼前に迫っていました。
手前が三の丸(本丸の南西~南)、奥が本丸の石垣になります。
※「本丸」「二の丸」「三の丸」の呼称は、一般的に用いられているものに倣いました。

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三の丸から見る本丸石垣(南西角)
これほどの石垣、相当な財力を要したでしょうが、いったい誰が築いたのでしょうか・・・?

松倉城は天正7年(1579)、姉小路頼綱が築城して居城とした後、天正13年(1585)に秀吉の命を受けた金森長近の侵攻を受けて落城し、長近の管理下で改修されたと伝わりますが、高山城の築城(天正16年)に伴ってすぐに廃城となっています。
これほどの石垣ですから、築かれたのは長近の飛騨制圧後のことと思われますが、廃城までの間は僅かに3年・・・しかも長近はその間、居城を鍋山城に置いていたと云いますので、どうでしょうか・・・。

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二の丸(本丸の東)から見る本丸石垣
本丸には西~南面にかけて腰曲輪状のスペースが設けられており、石垣も二段構成になっています。
この本丸石垣全体を「天守台」とする説もあるようで、確かに綺麗な方形に積まれた姿だけを見れば、首肯したくもなりそうです。
しかしそれだと、周辺の曲輪と比較して天守だけがアンバランスに大きくなり過ぎてしまうように思えます。あたかも、大きな天守と石垣を見せつけるためだけに築いた(改修した)城のように・・・。
まぁ、廃城前の最終的な改修が金森長近ら秀吉方の手によるものであるならば、飛騨を拝領した長近も居城としては利用していないようだし、それもあり得るのかもしれませんが・・・。

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本丸

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本丸からの絶景。。。

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二の丸の先端付近に残る井戸跡

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二の丸下に残る二段の石垣。
斜面下方の土が流れたような痕跡や転がっている石材の様子から、或いは(部分的かもしれませんが)三段になっていたのかもしれません。

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二の丸下から尾根を東へ進むと、麓の侍屋敷跡へと続く道があり、L字の土塁で枡形のように仕切られていました。

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その更に先には、石垣で築かれた虎口跡。

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石垣の先、尾根を下った箇所には堀切も。
ここの土橋、結構エッジが効いていて格好良かった(笑)

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再び主郭部へと戻り、南の出枡状の張出から見る三の丸南側の石垣。
・・・途中から熊笹がびっしりと生えていることからもわかる通り、石垣の下半分には土がはりついて、その上部が細い通路状になっていたそうですが・・・本当に歩くかね?(;^_^A

本当に素晴らしい石垣でした、松倉城。
さ、次は・・・広瀬城へ向かいます。

(つづく)

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2017年11月29日 (水)

篠脇城、郡上八幡城 城友会2017…①

年一回の恒例となった城友会、なんだかんだで私も6年連続での参加となりました。
今年(2017年)は奥美濃~飛騨のお城をめぐります。

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初日(11/25)はまず、岐阜県郡上市大和町の篠脇城へ。

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篠脇城図
篠脇城は1300年代の前半に東氏が築城し、後に郡上八幡の赤谷山に移るまでの200年以上、東氏の居城とされてきました。
東氏は、古今和歌集の解釈を相伝する古今伝授を成立させた東常縁を輩出したことでも知られます。
※個人的には4年ぶりの再訪で、コチラの記事でもご紹介していますので今回は簡単に済ませます。

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山麓にある東氏居館跡前の登り口から、九十九折れの登山道を延々と登り続けること15~20分、ようやく大きな竪堀が現れます。

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本丸と、その一段下に二の丸。

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篠脇城の代名詞ともいえる畝状竪堀群
時期的なものもあるのでしょうが、前回訪問時よりも綺麗に見ることができ、改めて感動しました。

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下山後は昼食・・・ご当地グルメの奥美濃ガーリックライスカレー。
隠し味?には味噌が使われているそうです。

昼食後は同じ郡上市の白鳥町まで移動し、二日町城を目指しましたが・・・
篠脇城からは少し北上するだけなのですが、白鳥町が近付くにつれて徐々に沿道の雪景色は深まっていき・・・

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城山の麓に至ってはご覧の積雪。。。(写真提供:こばたかさん)
林道が完全に埋没しており、少しだけトライしてみたものの、危険と判断して撤退しました。
あくまでも安全第一であってこその、楽しい城攻めですからね。

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という訳で若干の予定変更はありましたが、この日の2城目は郡上八幡城(郡上市八幡町柳町)へ。こちらも4年ぶりの再訪。
※郡上八幡到着後、まずは麓の安養寺に立ち寄りましたが、そちらはまた別の記事にして後日UPします。

安養寺の駐車場に車を停め、そこから徒歩で城山を登りました。

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紅葉も盛りを過ぎた郡上八幡城天守。
郡上八幡城は永禄2年(1559)に、赤谷山城の東氏を攻め滅ぼした遠藤氏(東氏庶流)によって築城されました。
その後、天正16年(1588)には稲葉貞通が城主となり、貞通の手によって大改修が施されて、近世城郭としての礎が築かれています。

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魚の形をした城下町。

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現在は山上の駐車場になっている大堀切?にあった首洗い井戸跡。

次は駐車場を挟んで天守とは反対側の遊歩道へ進み、搦手(北)にあるという2本の堀切を確認しに行きます。

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堀切1本目・・・熊笹に覆われて見えづらいというのもあるけど、切岸も緩やかでちょっと薄い印象かなぁ・・・。
しかし・・・

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1本目の少し先、尾根が低く落ち込む鞍部に素晴らしいものがありました。
・・・もう見えていますね。

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2本目の堀切。
土橋の分だけを削り残し、後は見事にザックリと切り落とされています。
幅もかなりなもの。

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反対の城外側から。
深い堀切に狭い土橋、そこへ横矢を掛ける高い切岸・・・城側の防衛意図が明瞭に伝わってくるような遺構でした。

郡上八幡城は慶長5年(1600)9月1日、関ヶ原の前哨戦で家康方の軍勢(豊臣政権下で没収された郡上への返り咲きを目論む遠藤氏など)に攻められていますが、その際、この搦手を攻めた金森可重の手勢はこれらの堀切の堅い守りに阻まれ、力攻めでの攻略は成らなかったと云います。

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夕暮れ迫る郡上の町並み。
日没時間もすっかりと早まった11月下旬、初日の城攻めはこれで切り上げ、宿を取っている飛騨高山へ移動します。

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移動途中、休憩で立ち寄ったひるがの高原SA・・・雪(;・∀・)

高山到着後は飲み会~城友会恒例のカラオケへ。
そして当然のように、カラオケが終わる頃には日付が変わっているという・・・ね(^_^;)

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〆には飛騨中華そば・・・頭(笑)

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体も温まったところで・・・おやすみなさい(-_-)zzz

(2日目へつづく)

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2017年10月25日 (水)

「山城に行こう!2017」参戦

台風21号の足音がヒタヒタと迫り来る10月21~22日、岐阜県可児市&可児市山城連絡協議会主催のイベント;
山城行こう!2017 センゴクの城
に参戦してきました。

■10月21日(土) めぐる
初日は可児市の山城をめぐる一日。
今回のイベントで対象の城に指定された美濃金山城や久々利城、大森城、今城をはじめとする幾つかの山城をめぐり、各城で1枚ずつ貰える通行証2枚以上集めると、翌日のトークショーでの優先指定席に挑戦できる、という趣旨の試み。

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我々はまず、大森城から攻めました。

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大森城は奥村氏の居城でしたが、天正10年(1582)6月、本能寺の変を受けて信濃(川中島)から撤退してきた森長可に攻められて落城したと伝わります。
城跡に残る横堀や土塁、虎口などの遺構の規模や技巧性から、落城後は森氏の手によって改修が加えられ、美濃金山城の出城(の一つ)として利用されていたとも考えられています。

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城山東麓に建つ大森神社
こちらの社殿手前を右へ進み、北側から城跡に入ります。

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いくつかの曲輪跡を抜けて・・・

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ものの5分も登ると主郭に到達。

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我々も登ってきた主郭北側の先には小さな平場があり、馬出のようになっていました。

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主郭を取り巻く横堀(東側)

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主郭の更に南側にも、かなり良さそうな遺構が覗いていましたが・・・
大雨の影響もあって足元はぬかるみ、大変滑り易くなっていましたので、残念ながらこの日は立入禁止。

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最後は主郭東側の横堀に下り、堀底を通って引き揚げます。

通行証はGETしたので、今回の大森城攻めはここまで。
いずれまた、天候の良い時にじっくりと攻めましょう。

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2城目は久々利城

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久々利城も天正11年(1583)、森長可に攻められて落城していますが、その後はやはり森氏によって改修され、防衛拠点の一つとして利用されていたようです。

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上の縄張図で枡形虎口とある辺り。
井戸も確認できます。

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三の丸から二の丸 & 本丸を仰ぎ見る。

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本丸手前から、東の尾根に展開する曲輪群方向。

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本丸からの眺め・・・ある意味、幻想的(笑)

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「イチオシ」と言われちゃあ、行くしかないでしょ。

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1本目の堀切に架かる土橋

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二重堀切の1本目・・・薄い。

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そして2本目・・・こちらは深く切り立ち、なかなか見応えのある遺構でした。

さて、久々利城も足場が悪いのでサクッと切り上げて・・・

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ランチは唐揚げに定評があるという中華屋さんで。物凄いボリュームでした…(^_^;)

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この日のラストは、5月にも訪れている美濃金山城参照記事)へ。
既に通行証は2枚(大森・久々利)GETしているので、本丸の発掘現場へ直接向かいました。

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今回発掘調査が進められたのは、本丸の中で天守台と考えられているポイント(つい最近まで神社が建っていた場所)。
写真は天守台石垣(南面)の内側で発掘された石列。

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そして、内向きに面して築かれていた石垣(南東角)も。
この遺構により穴蔵、もしくは半地下構造を有する天守が建っていたのではないか、と考えられるようになっています。

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麓を流れる木曽川の下流域から持ち込まれたと思われる、小さな川原石を敷き詰めたような遺構。
内向きの石垣が発掘されたポイントよりも少し西側で、御殿跡とされる礎石群寄りの場所から発掘されています。こちらは今のところ、天守への入口にあたる通路の痕跡ではないかと思われる、とのことでした。
ここまでが、美濃金山城天守の初期段階の遺構と推定されています。

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川原石発掘現場近くの地中断面。
真ん中に通る黒い筋は、神社建設の際に埋め立てられた草木の層なのだそうです。
つまり、神社建設に伴う造成前までは、黒い筋のすぐ下が地表面だったということになります。
写真を見てもお分かりの通り、川原石の推定通路跡は神社造成前の段階で、既に埋められていたことが明確になります。

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こちらはある時期に、礫や粘土質の土で埋められていたことが判明した内向きの石垣。

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天守台北側、不自然に鋭角な角度で伸びる石列(いったいどんな構造の建物が乗っていたのでしょうね?)と、何故か川原石を撒き散らして石列を埋めたかのような痕跡。
石列の角度も不思議ならば、川原石の散在もなかなか説明がつきそうにありません。
2つ前の写真でご紹介した通路跡と思われる川原石より、上の層から発掘されています。

これらの調査結果を元に検討された結果、一度築かれた(初期)天守を取り壊し、その上から新たな天守(第二期)を築き直しているのではないかと考えられています。
但し、今回の調査で発掘された遺構が持つ個々の情報を整理するのが難しく、この翌日に行われたトークショーの第2部でも話題に上り、出演者の方々からも様々な意見が出されていました。

それらを参考に素人なりの印象をまとめると、内向きの石垣や石列をわざわざ埋めたということは、やはりより広くて高い(重い)建造物を建てるための造成だった、ということでいいのではないかと思います。
穴蔵(半地下)構造を埋め、これまでの縄張(石列の配置など)を一旦無にして均し、広くて平らなスペースを確保した、と考えられないでしょうか。

しかし、それでも美濃金山城の天守台には、大きな建造物を建てるのに充分なスペースがあるとは言い難いのですが、そこで注目されるのが・・・

2017102128
天守台の南東角から伸びる、石垣に覆われたこちらの1本の石塁。
この石塁の存在により、天守台の南側は枡形虎口のようになっているのですが、実はこれ、明らかに後から増築されているのだそうです。

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石塁の内側(枡形内)つけ根部分。
石垣を初めから折って築いたのではなく、明らかに天守台石垣(左)の面に垂直に土盛りを取り付け、そこに石垣を積んだ様子が見て取れます。

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石塁の外側(東)
左の石垣と自然岩盤の境界が、件の石列と天守台の境目。
石塁の石垣は写真右端に見える天守台石垣とも、積み方に時間差が見受けられるそうです。

何故、わざわざこのような石塁を築いたのか・・・そこには必ず何かしらの意図があるはず。
例えば、虎口や通路を跨ぐようにして築かれた建造物は他にも事例がある訳で、現地にいらした可児市教育委員会の方も仰っていましたが、石塁や枡形の周辺に、美濃金山城天守の建て替えに関するヒントが眠っているような気がします。

近いうちに枡形も調査する予定とのことでしたので、そちらの調査も楽しみに待ちたいと思います。

この後は可児市内のホテルにチェックインし、近くの居酒屋で乾杯☆
楽しく盛り上がりました。


■10月22日(日) あそぶ

台風の影響で、この日も朝から本格的な雨模様。
9時過ぎにホテルを出発し、会場の可児市文化創造センターalaへ。

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前日にGETした通行証を手に、10時からの優先指定席(100席)券配付に向けて列に並びます。

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早めに並んだ甲斐もあり、特製レジャーシート付の優先指定席券は無事に確保できました。

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トークショーは午後1時~なので、それまでは会場内で思い思いに過ごします。
私はグッズ売り場で「センゴク」シリーズの織田信長の手ぬぐいを購入~♪

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ブースコーナーでは、美濃金山城天守台で発掘された遺物の展示も。やはりアカニシガイが一際異彩を放つ。
軒丸瓦も立派なもので、それなりの規模・格式を持った建造物が建っていたことを窺わせます。
近いうちに訪れたいと思っている小里城や鶴ヶ城(高野城)の資料も配布されていました。
※アプリ「発見!ニッポン城めぐり」のブースが最も行列を作っていましたが、個人的には興味がないのでスルー(笑)

その他、「センゴク」名場面集のコーナーや、香川元太郎先生の城郭復元イラスト作品集のコーナー等々。
一度、昇太師匠や中井先生、加藤先生、香川先生がグッズ売り場などの様子を見に現れ、宮下先生も「センゴク」名場面集コーナーをスタッフの案内で訪れていました。

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お昼は屋台で水攻めカレーをGET。

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腹拵えも済んだところで、トークショーの会場へ。

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トークショー第1部はセンゴクの城を語る
出演は「センゴク」シリーズ作者の宮下英樹先生、春風亭昇太師匠、城郭考古学の中井均先生、加藤理文先生、イラストレーターの香川元太郎先生で、可児市教育委員会の方の進行で進められました。

出演者各位がそれぞれ持ち寄った城の写真を見ながら、その魅力などについて語っていく内容でしたが、途中からは客席参加型の城当てクイズ大会の様相を呈してきました(笑)
さすがに最前列に陣取っていた効果もあり、私の仲間たちは3人ほどがちゃっかり景品をGETしておりましたwww

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第2部は発掘!美濃金山城
出演者は第1部同様で、美濃金山城の天守台発掘調査の成果報告から、推定される天守の姿についてのディスカッション。
美濃金山城訪問時の記事内でも書きましたが、ここでも飛騨高山城や松倉城、越前大野城などの事例を交えつつ、様々な意見が出されていました。
その中でも印象に残っているのは伊予松山城。香川先生が複数の古絵図を提示して伊予松山城初期の天守についてお話しをされていましたが、それらを元に推定復元された築城当初の姿は、これまでは五層の天守があったとさえ言われてきた通説のものとは大きくかけ離れていました
お城の定説も常にUPDATEされていくということを、ここでも改めて実感。
※トークショーの間中、宮下先生は他の先生方に個人的な質問をガンガンぶつけていました。それはそれで聴いていて楽しかったのですが、よくマイクを取り忘れていらしたので、最前列に座っていた私にはそれでも聴こえたものの、後方の方々には少し可哀想に思えました…(^_^;)

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最後は宮下先生に、可児市山城連絡協議会のベスト(蛍光グリーン)が授与されました。
これで来年以降も「センゴク」が可児に帰ってくる!?

あいにくな天候でしたが、ここではとても書き切れないほどの様々な知見も得られ、充実の2日間でした。来年もチャンスがあれば是非、参戦したいと思います。
※翌23日(月)もせめると題して、昇太師匠と苗木城跡を攻める企画が予定されていましたが、そちらは台風の影響で早々に中止が決定していました。
(といっても私自身は仕事があるので、元々予定には入れていませんでしたが)

関係者の皆様、お疲れ様でございました。
P.S. さちこさん、早く良くなってくださいね。

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