カテゴリー「お城、史跡巡り 東海」の97件の記事

2022年4月21日 (木)

鳥羽山城、二俣城…浜松で史跡めぐり③

浜松史跡めぐりの旅、ラストは鳥羽山城二俣城です。
二俣城は永禄12年(1569)以降、遠江を制した徳川家の配下にありましたが、元亀3年(1572)10月、徳川領へ侵攻した甲斐武田軍の攻撃を受けて落城します。
武田信玄の死後も二俣城の帰趨をめぐり、武田×徳川間の攻防は続きました。
そして、天正3年(1575)5月の長篠設楽原合戦で勝利した家康は、鳥羽山城を拠点に攻勢を強め、同年12月、遂に二俣城は再び徳川家の手に帰しました。

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鳥羽山城図

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鳥羽山城大手門

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本丸

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本丸内の枯山水庭園遺構。

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東門

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東門を抜け、北の丸から二俣城方面を眺める。

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本丸東面(外側)の石垣。

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天正18年(1590)の小田原征伐後に徳川家は関東に移封され、浜松には堀尾氏が入封します。
こうした石垣は(二俣城のものも含め)、その堀尾氏時代に構築されたものと最近では考えられているようです。
或いは、先ほど見た庭園遺構なども同様なのかもしれません。

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図のA部分の堀切。

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続いて二俣城の麓、清瀧寺へ。

※清瀧寺、及び二俣城は2019年に続く再訪になりますので、コチラの記事と重複する部分は省略します。

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松平(徳川)信康の廟所。

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前回訪れた際には見落としていたのですが、廟所へと続く参道の脇には信康に殉じた吉良初之丞、二俣城主も歴任した大久保忠世、三方ヶ原で戦死した中根正照・青木吉継らのお墓(供養塔か)もありました。

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二俣城図

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二の丸、稲荷神社脇の土塁上から蔵屋敷を見下ろす。間には堀跡も。

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先ほど見下ろした、二の丸と蔵屋敷間の堀跡。

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蔵屋敷先端部分の、石垣を伴う土塁。

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案の定、蔵屋敷と南曲輪の間にも堀切がありました。
この先は藪がきつく、陽も落ちてきましたので切り上げます。

実に久しぶりの遠征となりましたが、やはり歴史に触れる旅は楽しいですね。
これからも感染予防を心掛けつつ、少しずつ「歴旅」な日々を取り戻していきたいと思います。

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2022年4月20日 (水)

佐久城、堀川城、気賀関所…浜松で史跡めぐり②

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佐久城は別名「浜名城」ともいい、室町期以降、源頼政の子孫と伝わる浜名氏の居城として築かれましたが、永禄11年(1568)の暮れから開始された徳川家康の遠江侵攻により落城し、以降は天正11年(1583)の廃城まで徳川家の管理下に置かれたようです。

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馬出と南郭間の堀。

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南郭

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馬出
土塁がいい感じに残っています。

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馬出から本郭へ続く土橋。

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馬出と本郭間の堀切(東側)

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土橋西側の堀。
低い土塁のようなものが堀底を横切り、その先が更に一段落ちているように見えます。
往時は今よりも水位が3mほど高かったと推定されているようなので、おそらく、あの一段低い位置まで水が来ていたのではないかと思います。低い土塁のようなものは堰と見ましたが・・・いかがでしょうか。

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本郭側から土橋と馬出・・・美しい。

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本郭は結構な広さがあります。

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土塁の残存状況も良好。

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井戸や建物跡。

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本郭に建つ城址碑。

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本郭から望む猪鼻湖。

冒頭に掲載した見取図には「1500年頃」とありましたが、馬出の形状などは徳川による改修との印象を、個人的には受けました。

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続いて、浜松市北区細江町気賀の堀川城
遺構は残らず、推定地に城址碑が建つのみですが、往時は浜名湖に面した立地だったと考えられています。

堀川城も徳川家康の遠江侵攻によって永禄12年(1569)に落城していますが、立て籠もった気賀周辺の土豪らの抵抗は特に頑強だったらしく、手を焼いた家康は「撫で斬り」を命じたため、最終的に籠城兵らは全滅したと云います。

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城址碑の横には、命を落とした籠城兵らのものと思われる首塚も。。。

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江戸時代、姫街道に設置されていた気賀関所(復元)にも立ち寄りました。

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向番所内の牢屋。

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遠見番所

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遠見番所からの眺め。

浜松史跡めぐりの旅、ラストは鳥羽山城・二俣城へ向かいます。

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2022年4月19日 (火)

引間(曳馬)城、犀ヶ崖、他…浜松で史跡めぐり①

1年4ヶ月ぶりの遠征は、静岡県浜松市の史跡をめぐる旅です。
…その1年4ヶ月前も池田近道や旧東海道をめぐり、浜松に宿泊していましたが(笑)

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本当は最初にお寺さんを2ヶ所ほど訪れたのですが、それは別の機会にテーマを立てて記事にまとめることとして、今回はその後に立ち寄った浜松城から記事をスタートします。

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天守台地階の石組み井戸。
浜松城には何度も訪れているのに、天守内部には初めて入りました。

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浜松城公園の東隣り、元城町の東照宮。
引間(曳馬)城跡でもあります。

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曳馬城跡碑
遠江を制した徳川家康が自らの新たな居城として浜松城を築き、引間城もその一部として取り込まれました。

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目立った遺構は残りませんが、周辺の地形には興味を惹かれました。
東照宮境内の東西共にグッと落ち込んでいましたし、鳥居の先(南)もやはり堀、或いは切岸のように落ちています。

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境内には、徳川家康と少年・秀吉の銅像も。

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お次は犀ヶ崖資料館へ。

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犀ヶ崖の石碑。

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犀ヶ崖
元亀3年12月22日(1573年1月25日)、三方ヶ原での戦いに敗れて浜松城へ撤退した徳川家康は夜、この犀ヶ崖付近に宿営していた武田軍の陣を急襲し、地理不案内もあって混乱する武田の兵が崖から転落し、多くの死傷者を出したという伝承で知られています。

犀ヶ崖は浜松城の北西、僅かに1㎞ほどの距離。
この付近に布陣していたと云う武田の兵たちは、浜松城に撤退した徳川軍に対する“押さえ”として配備された部隊だったのでしょうか。

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本多肥後守忠真顕彰碑
後に徳川四天王にも数えられる本多平八郎忠勝の叔父である本多忠真は、三方ヶ原から撤退する徳川軍の殿を務め、道の左右に旗指物を突き立てて「この先へは一歩も引かぬ」と言って迫り来る武田軍に立ち向かい、見事な討死を遂げたと伝えられます。

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その顕彰碑の裏には、ひっそりと旗立ての松跡の札が立っていましたが・・・詳しい関連は把握できておりません。

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犀ヶ崖の至近には、やはり三方ヶ原合戦で家康の身代わりとなって戦死した、夏目次郎左衛門吉信の碑もあります。

※三方ヶ原の古戦場関連につきましては、コチラの記事をご参照ください。

この後は三ケ日方面へ向かい、猪鼻湖畔の佐久城を目指します。

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2020年12月11日 (金)

旧東海道 袋井宿~掛川宿

遠江旅の2日目は袋井駅まで移動し、東海道53次中、27番目の「どまんなか」に当たる袋井宿へ。

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袋井宿から西、浜松までの行程は以前にも歩いているので、今回はここから東へ掛川まで歩いてみることにします。
写真左に見えているのは、袋井宿東本陣跡。

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袋井宿東の出入口に建つ東海道どまん中茶屋。
スタートしたばかりでしたが、美味しいお茶をいただいたので一服。
木から吊るされているヤカンは・・・

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歌川広重の「袋井」の絵を模しています。

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どまん中茶屋の先で旧東海道は少し消失(黒点線部分)していますが、迂回して先へ進むと・・・

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いい雰囲気で真っ直ぐに伸びていました。

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木造屋形造りの、新屋の秋葉山常夜灯。

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極端に道幅が狭まる旧東海道。

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この辺りでもやはり、一部区間で旧街道が消失しています。
案内では一旦、県道413号線の交差点に出て迂回するルートを紹介していましたが・・・

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先ほどの細い道から、車道を挟んで反対側にも歩道が続いていたので、そちらへ行ってみると・・・

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県道413号線沿いの店舗の裏側から、うまいこと迂回することができました。
写真右側の道路が旧東海道になります。

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旧東海道、久努の松並木。

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松並木はすぐに一旦途切れますが、この後もしばらくは断続的に続きます。

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油山寺道標
ここから北へ向かうと油山寺があります。

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久津部一里塚跡
江戸から60里目に当たります。

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さ、また松並木に入ります。

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富士浅間宮赤鳥居
富士浅間宮は、この鳥居が建つ旧東海道から北へ6~700mほどの場所にあります。
現在では建ち並ぶ工場や国道、東名高速に遮られて全く見えませんが、江戸時代には赤鳥居から社殿を見通すことができたそうです。

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街道の部分だけ一段高くなっています。
その昔は一帯に田畑が広がり、旧東海道は畦道(畷道)のようになっていたのかもしれません。

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松並木を抜けると、名栗の花茣蓙について書かれた大きな駕籠が置かれていました。
(どうやらゴミの収集庫らしいです)

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国道1号線と交差する地点にある、花茣蓙公園。
この先は一旦トンネルを潜り、国道に上がって同心橋を渡って原野谷川を越えます。

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同心橋を渡ると掛川市に入りました。

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同心橋を渡ったらすぐに国道を離れ、北東方向へ伸びていく旧東海道へ。

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間の宿原川を過ぎた辺りから、また松並木(原川~岡津間)が続きます。

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やはり松並木は、旧東海道歩きの醍醐味ですね。

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松並木を過ぎ、垂木川沿いを進む旧東海道。

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県道253号線を進み、国道1号線のガード下を潜った先の沢田IC南交差点は、左斜め前方へ。

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趣のある道が続きます。
高くそびえるのは、お酒の醸造所のもののようです。

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逆川の堤防近く。
所々に松の木が点在していました。

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大池一里塚跡の碑。
江戸から59里目になります。

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遠州浜名湖鉄道線の西掛川駅横のガード(写真)を潜り・・・

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県道415号線と交差する地点に架かる大池橋。

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歌川広重の「掛川」にも描かれた光景です。
秋葉山本宮秋葉神社へ通じる秋葉街道との追分でもあったので、橋の傍らには昭和の初め頃まで、大きな鳥居が建っていたそうです。

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大池橋を渡り、県道415号線を東へ。
写真の二瀬川交差点を右折。この辺りからいよいよ掛川宿に入ります。

※ここで嬉しいサプライズが。私は道中、折々にtweetを上げていたのですが、それを見た静岡県在住のフォロワーさんがお土産を持って待っていてくださいました。
その節はありがとうございました。

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こちらの二股は左へ。

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県道37号線を左へ。

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圓満寺に移築されている、掛川城の蕗の門。
三の丸辺りに建っていたようです。

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そして掛川城。
掛川宿から先、金谷宿までの区間は以前にも歩いているので、今回はここまでとします。

2日間合わせても30㎞も歩いていないはずですが、新型コロナの影響で長距離を歩くのも久しぶりだったので、とても疲れました。
感染拡大の第三波も来ているので、今後は少なくとも冬の間は遠出は自粛です。
春になったら今度こそ、今年の春に諦めた場所へどうしても行きたいので、少しは収まっていることを願って止みません。。。

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2020年12月10日 (木)

池田近道(姫街道)

今回は古道・旧街道歩きで静岡県西部、遠江への旅です。
まずはJR磐田駅で下車し、旧東海道をしばらく北上し・・・

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西光寺へ。
西光寺の表門は、徳川家康によって築かれた中泉御殿(天正~寛文期)の表門を移築したものと伝えられています。

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東福山西光寺
文永2年(1265)に真言宗の寺院として創建され、建治・弘安年間に一遍上人がこの地を訪れたことで時宗に改宗した歴史を持つ古刹です。
近年は縁結び・恋愛成就のパワースポットとしても人気なのだとか・・・(;^_^A

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本堂に祀られている日限地蔵尊(厨子の中)は、後水尾天皇の后・東福門院和子(徳川秀忠息女)の念持仏。
元和6年(1620)、入内のため江戸から京へと向かう途次、西光寺で休息した際に寄進されました。
山号の「東福山」も和子后に由来します。

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旧東海道、見付宿の西木戸付近。
江戸時代に整備された旧東海道はここで左に折れ、前出の中泉御殿のあった南の方へと向かい、天竜川の渡し場である池田までは大きく迂回する行程となりますが、旧東海道の整備以前は直進方向、池田へ直接向かう道がメインルートだったようです。

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旧東海道との分岐点に「これより姫街道」の案内(道標)が建っていますが、地元では「池田近道」とも呼ばれてきたようです。
南へ迂回する東海道に対して、直接池田へ向かう近道・・・確かに(笑)

天正10年(1582)4月、甲州征伐から安土への凱旋の途についた織田信長
そのルートは「信長公記」の記述を追う限り、現在の静岡県富士市辺りから先はほぼ旧東海道に沿って進んでいます。
そして4月16日、掛川を発った信長一行は見付を経由し、池田から天竜川を渡河しました。
この時はまだ、見付から南へ大きく迂回する旧東海道は整備されていませんので、信長一行が池田までの行程に利用したのも「池田近道」だったのではないかと思い、実際に歩いてみることにしました。

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池田近道の概略図
現在では大部分が消失(水色線)しているようなので、消失箇所は何となく方角を調整しながら通れる道を歩いてみます。

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池田近道に入ってすぐ、常夜灯の建つ二股。
ここは右へ進んで坂を上ります。

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坂を上った先から見付宿を見下ろす。
結構、急勾配な坂でした。

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右にかぶと塚公園を見ながら。
この先は行き止まりになりますので、一旦、県道413号線に出ます。

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磐田市一言の立体歩道橋のすぐ先で右斜め方向へ。

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ここは左の坂を下ります。
この坂こそ・・・

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有名な一言坂
元亀3年(1572)の三方原の戦いの前哨戦ともいえる、一言坂の戦いのあった場所です。
写真の碑は県道413号線沿いに建てられていますが、徳川×武田の両軍も通ったであろう池田近道は、奥に見える雑木林の方を通っています。

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本多平八郎忠勝が徳川軍の殿を務めて見事な武勇を発揮し、敵方の武田軍から;
家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八
と讃えられたのも、一言坂での戦いのことでした。

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池田近道沿いにも「一言坂戦跡」の案内板が建っています。

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坂を下ると、道路脇に池田近道の案内板がありました。
下ってきた車道を折り返すようにして、この未舗装の道に入っていくようです。

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一言坂の段丘の縁を添うようにして進みます。

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その段丘を見上げる。

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古道はこの先で消失しているようなので、ここは左へ折れ、豊田野球場の南側を西へ進みます。

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一つ目の交差点は斜め北西方向へ。

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更に、寺谷用水を跨ぐ交差点も斜め北西方向へ。

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智恩斎
山門は、すぐ南にあった皆川陣屋からの移築と伝わります。
そして、山門脇の小屋の中に・・・

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一言観音が祀られています。
一生に一度、一言だけ願いを叶えてくれるという観音様。
一言坂から敗走する徳川家康も、一言だけ願っていったと云います・・・「無事に逃げ切らせて!」とでも願ったのでしょうか?(;^_^A

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智恩斎から先も、池田近道は消失しています。
実際の古道は写真の右斜め前方へ伸びていたようなので、方向を調整しながら農道を歩きました。

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人っ子ひとりいない長閑な道をのんびりと・・・。

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森岡ICの下を潜って一つ目の交差点を左折すると、すぐにまた池田近道の案内があります。

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高い生垣は遠州のからっ風除けでしょうか。

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豊田上新屋ポケットパーク(左)の先で、池田近道はまた消失しています。
ここもやはり方角を調整しながら、写真の右斜め方向へ向かいます。

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豊田西保育園に行き当たった所で右折し、ずっと北上していくと・・・

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門前市通りに出ます。
ここを左折すると、いよいよ池田の渡しになるのですが、その前に・・・

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行興寺に立ち寄り。
平宗盛の寵愛を受けた熊野(ゆや)御前が母の菩提を弔うため、この地に庵を結んだのが始まりとされています。
池田に生まれた熊野御前は、遠江の国司だった平宗盛に見初められて上京しましたが、故郷の母の病を知ると、
いかにせん 都の春も 惜しけれど なれしあずまの 花やちるらん
と詠み、母を想う心に打たれた宗盛の許しを得て池田に戻りました。

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境内には熊野御前が生前に愛したと云う藤棚(熊野の長藤)が、本堂を取り囲むようにして広がっていました。

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こちらは国の天然記念物にも指定されている1本で、推定樹齢は850年とのこと。

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本堂横には熊野と母を供養する墓所もありました。

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さて、それでは池田の渡しへ向かいます。

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行興寺門前から門前市通りを西へ向かった突き当りが、池田の渡し跡になります。
水量などによって使い分けていた上・中・下3ヶ所の渡し場のうち、こちらは上の渡し跡。
(中の渡しは天白神社付近、下の渡しは「天龍川渡船場跡」の碑が建っている辺りにありました)

写真左手は池田の渡し歴史風景館。
渡し場の様子を伝える簡単な展示がありました。

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「池田橋の跡」碑。
明治に入ってから、ここには橋が架けられていたそうです。

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池田の渡し(上の渡し)から眺める天竜川。
織田信長も徳川家康が架けさせた舟橋で、ここを渡っていったのですね。

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私は新天竜川橋で渡河。
遠くに見える赤い橋の少し手前辺りが、先ほどまでいた上の渡しになります。

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天竜川を越えた後は、信長一行と同じように旧東海道を浜松宿まで歩きました。
※このルートは以前にも歩きましたので、詳細は省きます。

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松林禅寺の薬師堂。
徳川家光が命じて建立させたと伝わります。
2度の火災にも焼失を免れたのだそうです。

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本坂通(姫街道)安間起点。
東海道と姫街道の追分です。付近には江戸から64里目の安間一里塚もありました。

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遠くにアクトシティー浜松が見えてきました。
終盤は国道152号線沿いを歩くことになり、退屈な区間が疲労に追い打ちをかけました・・・(;^_^A

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そしてようやくのゴール地点、馬込橋手前、浜松宿東木戸門跡に到着。
午前11時に磐田駅を出発してから、およそ4時間の行程でした。

なお、早朝に掛川を出発した織田信長一行も天竜川を越え、その日は浜松に宿泊しています。
私も浜松に宿を取り、翌日は袋井から東へ旧東海道を歩くことにします。

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2020年11月11日 (水)

当目の虚空蔵菩薩

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焼津市浜当目の虚空蔵山。

かい道より左、田中の城より東山の尾崎、浜手へつきて、花沢の古城あり。是れは、昔、小原肥前守楯籠り候ひし時、武田信玄、此の城へ取り懸け、攻め損じ、人余多うたせ、勝利を失ひし所の城なり。同じく山崎に、とう目の虚空蔵まします。
(信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」)

花沢城の記事織田信長が田中城近くから花沢城を眺めていたことをご紹介しましたが、「信長公記」にはとう目(当目)の虚空蔵についても言及されています。

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虚空蔵菩薩は聖徳太子作とも伝わる日本三大虚空蔵菩薩尊の一つ。
現在は麓の功徳院に安置されているようですが、元々は虚空蔵山々頂の香集寺(現在は無住)に祀られていました。

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虚空蔵山の登り口ともなる、香集寺参道。

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参道から眺める当目砦方向。
武田軍が築き、徳川家康によって攻略されたと伝えられます。

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想像以上に急勾配な参道が20分ほども続き、さすがに息が上がります。

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ようやく最後の階段前まで到着。
この辺りには市の文化財にも指定されていた仁王門が建っていたようですが、老朽化が著しく、倒壊の恐れもあることから2017年頃に撤去されたようです。
今では礎石が、その痕跡を残すのみとなっています。

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ようやく香集寺に到着。
ご本尊はいなくとも、しっかりとお参りさせていただきました。

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市指定文化財の石燈籠。
「寛永二年五月十三日」の刻銘を有する、焼津市内最古の燈籠だそうです。

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香集寺跡の碑。
こちらにも、お寺に関する建物が存在していたのでしょう。

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虚空蔵山からの眺め。
本来であれば富士山も見えるらしいのですが、生い茂る樹木に遮られて叶いませんでした。

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織田信長の甲州征伐凱旋旅を追いかけ始めた時から、ずっと気になっていたとう目の虚空蔵
期せずして訪問の機会を得られて良かったと思います。

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2020年11月10日 (火)

花沢城、花沢の里

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花沢の里観光駐車場からの花沢城(静岡県焼津市)遠景。

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花沢城は駿府の西の守りとして、今川氏によって築城されたものと考えられています。

永禄11年(1568)の暮れから駿河侵攻を開始した武田信玄は、永禄13年(1570)の正月、抵抗を続けていた花沢城へ攻め寄せます。
花沢城を守備する今川家臣・大原肥前守資良(小原鎮実)以下の城兵は懸命に戦いますが、14日間に及ぶ籠城の末に降伏開城しました。
永禄13年の時点で既に主君の今川氏真は駿府を追われ、逃げ込んだ先の掛川城も徳川軍によって包囲されて開城し、小田原の北条氏の元に身を寄せています。
大原らは主君が去った後も城を離れず、駿河を占拠した武田家に抗い続けていたのですね。

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花沢城縄張図
花沢の里観光駐車場から車道伝いに進み、A地点を目指します。
※五の曲輪を示す線に違和感を覚えるので、実際に歩いてみた感触として赤線を加えてみました。

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A地点の遊歩道入口。
ここから一の曲輪(本丸)まで、10分ほどの登山になります。

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途中で見かけた気になる岩。
しかし、城の遺構ではなさそうです。

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城域に近づいてきました。
ここまでの道のりの鬱蒼とした雰囲気とは変わり、下草が刈られてとても見易くなっていました。

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一の曲輪(本丸)

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一の曲輪に建つ城址碑

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一の曲輪からの眺め(南西方向)
辺りには田中城があります。

かい道より左、田中の城より東山の尾崎、浜手へつきて、花沢の古城あり。是れは、昔、小原肥前守楯籠り候ひし時、武田信玄、此の城へ取り懸け、攻め損じ、人余多うたせ、勝利を失ひし所の城なり。同じく山崎に、とう目の虚空蔵まします。
(信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」)

天正10年(1582)4月、甲州征伐からの凱旋の途にある織田信長は同月14日、江尻城を発って田中城へと至る道中、田中城近くからこの花沢城を眺めています。(関連記事
従ってこの眺めは、天正10年4月14日の信長視点の正反対からの光景、ということになりますね。

なお、「信長公記」著者の太田牛一は武田信玄が花沢城攻めに随分と手こずり、然も負けたかのような書き方をしていますが、或いはこれは案内役の徳川家の人間が、武田家に対する信長の感情に忖度してこのような説明をしたため、と考えますがいかがでしょうか。

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三の曲輪

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一の曲輪(手前)とニの曲輪(奥)を隔てる堀切。
花沢城跡で一番の見所でしょう。

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白い土嚢を積んだ箇所は、2~3年前に行われた発掘調査の痕跡のようです。

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ニの曲輪サイドから見下ろす堀切。

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二の曲輪

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五の曲輪

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五の曲輪は緩やかにカーブしつつ、結構先まで細長く続いているようでした。
そのまま曲輪の先を下っていくと・・・

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六の曲輪に出ます。
このままB地点まで下って、花沢城攻めは終了とします。

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折角なので、花沢の里も散策させていただきます。

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花沢の里は、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

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日本坂峠へと続く古代の官道(古代東海道)と考えられる旧街道が、集落を通り抜けていきます。

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沢の水もとても綺麗でした。

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集落の最北端に位置する法華寺。
武田軍による花沢城攻めの際には法華寺も兵火に遭い、伽藍を焼失しているそうです。
折角なので是非とも参拝したいところでしたが・・・新型コロナウィルス感染症の影響で、残念ながら現在は拝観停止になっていました。

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花沢の里で企画展「寺社からたどる戦国の焼津」のチラシを見かけ、武田軍による花沢城攻めの様子を描いた陣形図も展示されていることを知ったので、歴史民俗資料館にもお邪魔させていただきました。
今川氏や武田氏関連の文書類などの他、小川城の発掘調査記録や出土遺物展示が目を引きました。
珍しそうなところでは、文明の内訌の際に本中根(焼津市)に陣を張った太田道灌の愛馬の轡と伝わる品(個人蔵)なども展示されています。
また、学芸員の方には焼津市内の遺跡分布状況と、諸河川の流域や地形の変遷との関係性、古代の街道などについても教えていただきました。

この後は浜当目の虚空蔵山へ向かいます。

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2020年1月28日 (火)

蒲原城

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蒲原城鳥観図

蒲原城は元々、駿河守護・今川家の属城でしたが、永禄11年(1568)に武田信玄が同盟を破棄して駿河に侵攻すると、今川家救援に動く北条家の兵が入り、対武田の拠点としました。
しかし、翌永禄12年12月には武田家によって落城し、以降は天正10年(1582)の同家滅亡まで、その支配下に置かれました。
参考記事

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鳥観図Aにある空堀。
藪で見えづらいのですが、人工的な遺構というよりは自然地形のようにも思えました。

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Bの腰曲輪
2段構えのようになっていて、写真はその上段で・・・

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こちらが下段部分を見下ろした様子。
妙にエッジが効いているのが、かえって気になる・・・。

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Bの腰曲輪から、善福寺曲輪(D下を西へ回り込む通路状の遺構。
横堀、或いは塹壕のようにも見えたりして・・・(;^_^A

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これに沿って西側へ回り込むと、善福寺曲輪と主郭(E)間の堀切から落ちる竪堀があります。

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下まで続いています。

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善福寺曲輪と主郭を隔てる堀切C

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善福寺曲輪
土塁も残り、櫓台や・・・

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逆茂木のディスプレイ?まで設置されていましたw

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善福寺曲輪から堀切越しに主郭。
こうして見ると結構、高低差があります。

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主郭

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主郭からの眺め。
さった山まで綺麗に見通せます。

武田軍が駿河に侵攻した際、今川家の救援に動く北条家はさった山に大軍を布陣させますが、何故この蒲原城をその後方拠点としたのかが、よく見て取れるような光景です。

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主郭から善福寺曲輪。

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東海道歩きに想定よりも時間を要し、あまり蒲原城攻めには時間を割けませんでしたが、駐車場もあって見学のしやすい城跡でした。

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2020年1月27日 (月)

旧東海道 蒲原宿~西倉沢(間の宿)

今回も大磯に続く旧東海道歩き。
静岡県の蒲原宿から西へ、由比宿を抜けてさった峠の麓、西倉沢まで歩いてみます。

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蒲原といえばこちら、歌川広重の東海道五十三次(保永堂版)「蒲原夜之雪」が有名ですね。
温暖な蒲原の地で雪がこれほど積もることは考えづらく、なぜ蒲原に雪を描いたのか、ミステリアスな謎も残る広重の傑作中の傑作とも称されています。
以前から、この絵に描かれた場所がどこなのか気になっていたのですが、よく見ると右上の方から坂を下ってきた東海道が、絵の中央付近で右へ折れているようにも見えます。
それに該当しそうな場所を地図で探し、予め見当をつけておいたのが・・・

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蒲原宿の東の外れ、北の方角から南へ下ってきた旧東海道が・・・

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右へ折れ、西へと進路をとるポイントです。
背景の山もどことなく、絵の構図とマッチしそうにも思えるのですが・・・いかがでしょうか?

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すぐ近くには、蒲原宿の一里塚跡。
旧街道歩きでスタート地点に一里塚(跡)があると、歩いた距離もわかりやすくて助かります。

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北条新三郎の供養碑
駿河に侵攻した武田家との抗争の中で北条家は、蒲原城に北条新三郎綱重(氏信/幻庵の子)を派遣して対武田の拠点としましたが、永禄12年(1569)12月6日、蒲原城は武田軍の攻撃を受けて落城し、新三郎も討死を遂げました。

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東木戸(見附)の枡形
蒲原宿の江戸方の出入口になります。

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蒲原宿案内図
こうして見ると旧東海道は、蒲原宿が置かれた位置だけ北へズレていますが、これは元禄12年(1699)に襲った津波によって大きな被害を受け、宿場ごと北へ移転したためだそうです。

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なまこ壁と塗り家造りの家屋。
塗り家造りとは塗り壁の町屋を指し、防火性にも優れて「贅沢普請」とも言われたそうです。

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冒頭でご紹介した、広重の「蒲原夜之雪」記念碑。

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西本陣跡
蒲原宿には江戸中期まで、東西2つの本陣がありました。
その後、東本陣の家が途絶えたため、西本陣だけが幕末まで続きました。

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御殿道跡
蒲原にはかつて、徳川将軍の休憩所として設けられた蒲原御殿がありました。
御殿の正確な位置は判っていないようですが、すぐ背後の山を「御殿山」、そしてこの道を「御殿道」と呼んでいたことから、この付近に存在したらしいことは確かなようです。
案内板によると蒲原御殿は、甲州征伐(天正10/1582年)から安土へと戻る織田信長のため、徳川家康が築いた「御茶屋」が元になっているともありました。

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旧五十嵐歯科医院
大正初期の改装で、外観洋風・内観和風の偽洋風建築。
国の有形文化財にも登録されています。

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旧東海道と蒲原宿の町並み。
写真左手前の建物は志田家住宅。こちらも国登録有形文化財です。

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案内板で「美しい格子戸の家」として紹介されていたお宅。

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宿場の西端でグイッと左(南)へ折れた先が・・・

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西木戸(見附)跡。
蒲原宿の上方出入口です。

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蒲原宿を出た後は、しばらく県道396号線に沿って進みます。

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「神沢」の分岐は左へ。

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見事なS字クランク。

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由比新町の一里塚跡。
多少寄り道もしていますが、スタートから一里歩いたことになります。

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由比宿、東木戸(見附)の枡形跡。

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由比宿本陣跡。
現在は公園になっていて、由比宿交流館や広重の美術館などもあります。

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本陣跡の向かいには、脇本陣跡も。

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国の有形文化財に登録されている、清水銀行由比本町支店。

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由比川の渡し跡。
歌川広重の東海道五十三次(佐野喜版)にも描かれている場所です。
対岸の松の先に、旧東海道の名残が残っています。

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由比駅前を通過。
由比といえばやはり、桜えびですね。私も土産に購入いたしました。

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また旧街道の風情が残る町並みに入りました。

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寺尾村(由比寺尾)名主、小池邸。
(明治期/国登録有形文化財)

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由比宿東海道あかりの博物館

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寺尾の集落を抜け、しばらくは何もない道を進みます。
海側の眼下には、東名高速由比PA(下り)が見えていました。

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由比⇔興津間の間の宿・西倉沢に入りました。
右側の、人が前に立っている建物は川島家。
西倉沢村の名主で、大名も休憩に利用していたので、村では本陣と呼ばれていました。

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明治天皇ご東幸の際の休憩所にも充てられた柏屋。

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この、さった峠への登り口が西倉沢の一里塚跡でもあります。
本日のスタートからちょうど二里。
さった峠は以前にも歩いていますし、この後は蒲原城にも行く予定を入れていましたので、旧東海道歩きはここまでとします。

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最後に、そのさった峠への登り口に佇む望嶽亭藤屋
藤屋は茶店を営み、磯料理やアワビ、サザエのつぼ焼きなどを名物としていました。
離れ座敷からの富士の眺めが素晴らしかったことから「望嶽亭」とも呼ばれ、さった峠を往来する旅人の目と舌を楽しませてきました。
その様子は、広重も東海道五十三次の丸清(隷書)版で描いています。

そして望嶽亭には慶応4年(1868)3月、西郷隆盛との江戸無血開城に向けた下交渉に臨むため、西郷のいる駿府へ向かっていた山岡鉄舟(鉄太郎)が、さった峠で新政府軍兵士に誰何・襲撃されて逃げ込んできた、との伝承も伝わっています。
この日は幸運にも、内部を一般に公開していました。

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鉄舟を匿った藤屋は、彼に漁師の格好をさせて、こちらの階段から海岸へ逃がしたと云います。
その際、鉄舟は最新式のフランス製10連発短銃を置いていったと伝わり、実際にその短銃も展示されていました。
※展示品は撮影不可となっていましたが、建物については許可を得ています。

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望嶽亭の窓からの眺め。
今でこそ、国道1号線と東名高速が眼前を横切りますが、当時はさぞや雄大な太平洋が広がっていたことでしょう。

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望嶽亭から海岸へ出て、蒲原方面を眺めた様子。
写真中央正面辺りが蒲原になります。たかだか二里程度とはいえ、こうして見ると結構歩いてきました。

この後は由比駅まで引き返し、電車で車を置いた新蒲原駅前へ戻って蒲原城へ向かいました。

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2019年11月21日 (木)

二俣城、清瀧寺(信康切腹事件について)

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二俣城(浜松市天竜区二俣町)は、天竜川が足元を洗う段丘上に築かれていました。
元亀~天正年間には武田×徳川間の攻防の舞台にもなり、元亀3年(1572)には西上作戦の途にある武田信玄が徳川方にあった二俣城を攻略し、天正3年(1575)になると、今度は長篠で武田軍に勝利した徳川家康が奪還しています。

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北曲輪と本丸間に落とされた竪堀。
すぐ眼下には天竜川の流れも見えていました。

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同じく、北曲輪と本丸間の堀切。

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北曲輪(右)と、左に竪堀。
北曲輪には現在、旭ヶ丘神社が祀られています。

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本丸北側の喰違い虎口。
奥に天守台も見えています。

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本丸

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本丸南側の枡形虎口。

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ニノ曲輪へ通じる大手(追手)虎口。

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天守台

二俣城は天正7年(1579)9月15日、切腹を命じられた徳川家康の嫡男・信康が最期を遂げた地としても知られています。
麓には信康の菩提を弔うため、家康が建立した清瀧寺があります。

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その清瀧寺に復元された、二俣城の水の手櫓。
元亀3年に二俣城を包囲した武田軍は、城兵が天竜川に架けた汲み上げ用の櫓を破壊し、水の手を断つことで攻略に成功したと云います。

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信康堂

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信康堂に安置されている信康の木像。

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清瀧寺本堂
手前には、家康お手植えの蜜柑…の分木も。

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二俣尋常高等小学校に通う幼き日の本田宗一郎が、正午を知らせる寺の鐘を30分早く衝き、まんまと早弁にありつけたとの逸話も残る梵鐘。
(清瀧寺のお隣には、本田宗一郎ものづくり伝承館があります)

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岡崎三郎信康の廟所

信康の死については一般的に「織田信長の命によって切腹に追い込まれた」(三河物語)とされ、長らく定説化してきました。現地(二俣城跡や清瀧寺)に設置された案内板もことごとく、この説を採用しています。
しかし、武田家がまだ健在であるこの時期に、対武田の戦略上、重要な存在である徳川家との同盟関係を破綻させかねない要求を、確たる理由もなく信長が家康に強いるとは少々考えづらいものがあります。

他の文献を見ると信長は、信康問題で安土に赴いた酒井忠次に対し、
「如何様にも存分次第」(松平記)
「家康存分次第ノ由返答有」(当代記)
つまり、「家康の考え次第だ」「家康の判断に任せる」と答えています。

この事件は信康拘束後の家康の動きを見る限り、信康を担ぐ岡崎衆の浜松への反発と、そうした動きに対して家康が警戒心・危機感を募らせた結果と、個人的には考えています。その背景には、4年前の天正3年に発覚した大賀(大岡)弥四郎事件(岡崎衆の中から武田家への内通を画策する動きが発覚して粛清された事件)の記憶も影響したかもしれません。
いずれにしても、(家臣団を含む)徳川家内部の事情に起因しているのではないでしょうか。
安土に酒井忠次が派遣されたのは、信康の岳父で偏諱も受けている信長を憚り、信康の処分について事前に相談し、伺いを立てておくためだったものと思います。

家康は信長側近の堀秀政へ宛てた八月八日付の(信長への)披露状で、
「三郎不覚悟付而去四日岡崎を追出申候」
(徳川家康堀久太郎宛/信光明寺文書)
と報告しています。
「不覚悟付而」…信康の処断を決めたのがあくまでも家康自身だったことを、この一言が伺わせている気がしてなりません。

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