カテゴリー「お城、史跡巡り 東海」の107件の記事

2022年12月10日 (土)

馬伏塚城

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馬伏塚城は高天神城主・遠江小笠原氏の属城でした。
今川氏の没落後、小笠原氏は徳川氏に属します。

天正2年(1574)6月に高天神城が武田家の手に落ちると、家康は馬伏塚城を高天神城奪回の拠点として改修を加えます。
天正9年に高天神城を奪り戻し、翌10年の武田氏滅亡を経て徳川氏による遠江経営が安定すると、馬伏塚城は廃城となりました。

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馬伏塚城本丸へと向かう道すがら。
袋井市郷土資料館の方に教えていただいたのですが、こちらの農道は図面にも描かれている、馬伏塚城本丸へと続く古道(中泉道)の名残なのだそうです。

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本丸(A)に建つ城址碑。

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本丸
樹木が生い茂ってわかりづらいですが、階段の付いている高まりは土塁です。

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土塁の上に建つお社。

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土塁の奥はかなり高低差があり、堀跡のようにも見えましたが、如何せん藪がきつくて・・・(;・∀・)

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土塁上から本丸。

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馬伏塚城本丸(ほぼ)全景。
続いて、県道を挟んだ北側の曲輪跡へ向かってみます。

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B曲輪の東面。
今は宅地と化していますが、一段高くなっていて城の痕跡は充分に見て取れます。
袋井市浅名の岡山という集落の、ほぼ全域が城跡だったようです。

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B曲輪北面の土塁。

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Cのコーナー部分。
上に建つのは了教寺。

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了教寺境内から、B曲輪の土塁を見る。
間の窪んだ地形は堀跡ということになります。

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了教寺に建つ小笠原氏清と家臣・竹田重右エ門の供養塔(墓)。

小笠原氏清
氏興の名で知られ、天正2年に武田氏に降った高天神城主・小笠原氏助(信興)の父にあたります。
駿河今川氏の没落に伴って徳川氏に内応し、永禄12年(1569)、今川氏真の籠る掛川城攻めにも参陣しましたが、その年のうちに馬伏塚城で病死したと伝えられています。

みかの坂に、御屋形立て置き、一献進上なり。爰より、まむし塚、高天神、小山、手に取るばかり御覧じ送り、
信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」より

天正10年(1582)、甲州征伐を終えて安土への帰路にある織田信長は4月16日、三ヶ野坂上(磐田市三ヶ野)に用意された御屋形で休憩していますが、そこからは馬伏塚城や高天神城、小山城までもが手に取るように見えたと云います。
私も実際に三ヶ野坂を訪れたことがありますが、さすがに高天神や小山は無理にしても、馬伏塚城ならば或いは、高い建物のない当時ならば見えたかもしれない距離感ではあります。

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2022年12月 9日 (金)

久野城

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袋井市の久野城

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明応年間(1492~1501)、今川家臣・久野氏による築城と伝わります。
今川氏の没落後、久野氏は徳川氏に従いました。

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駐車場から上がると、最初に出くわす北下段。

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北面の大土塁と横堀。

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北面の横堀から見上げる、本丸東側の1の堀切。

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続いて三の丸へ。
一段高い部分が三の丸です。

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三の丸下段方向。

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二の丸。うっすらと土塁も残っています。

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二の丸の先に続く高見方向。

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高見から見上げる主郭部。

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二の丸から本丸への虎口。
脇には井戸も。

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本丸

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大手口に残る隅櫓跡・・・小さ過ぎないですか?
立哨台くらいしか乗らなそうな・・・(;・∀・)

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久野城大手口。

元亀3年(1572)10月、遠江へ侵攻した武田軍は久野城にも攻め寄せました。
城主・久野宗能は頑強に抵抗し、徳川家康も久野城を始め、遠江に残る徳川方諸城(掛川城など)への後詰のため、3,000余りの兵を率いて浜松城を出陣します。
見付(磐田)に着陣した家康が派遣した物見隊と、武田軍との間で勃発したのが木原畷・三箇野・一言坂などでの各合戦です。

戦いは数に勝る武田軍の優勢で進められ、徳川本隊も否応なしに浜松方面へ追い立てられていきます。
後詰もなく敵中に孤立しながらも、武田本軍が徳川軍を追跡して見付方面へ向かったこともあり、久野城はなんとか持ち堪えました。

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2022年12月 8日 (木)

勝間田城

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静岡県牧之原市の勝間田城
鎌倉時代からの名族・勝間田氏による築城と伝わります。
twitterなどに度々アップされる写真を目にし、ずっと訪れてみたかったお城の一つです。

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北麓の駐車場に愛車を置き、茶畑の合間を縫うように細い道を5~6分ほど登っていきます。

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最初に出くわす出曲輪は茶畑に。

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出曲輪の辺りから見える、三の曲輪東の連続堀切a

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広大な三の曲輪。

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三の曲輪から出曲輪(奥の茶畑)方向。
足元には土塁が廻らされ、横堀のようになっています。

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先ほど見たaの連続堀切。

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三の曲輪から二の曲輪方向。

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二の曲輪。

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bの大堀切。

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大堀切はそのまま、自然地形の深い谷に落ちています。
右は東尾根曲輪の切岸。

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東尾根曲輪。

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東尾根曲輪から見渡す二の曲輪~三の曲輪方向。
右奥には薄っすらと富士山も見えています。

勝間田城は、文明8年(1476)に今川義忠に攻められて落城し、廃城になったと云います。
しかし、特に広大な造りとなっている二・三の曲輪などは、後代の増築・改修の手が入っているものとも考えられています。

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東尾根曲輪先の連続堀切c
曲輪上からは2~3本くらいしか目に入りませんが、少し先へ進むと・・・

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この通り。

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続いては、あちらの本曲輪へ向かいます。

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北尾根曲輪。

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本曲輪。
一部ですが、高い土塁も残ります。

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本曲輪と南曲輪の間部分。
図面ではそう描かれていませんが、こちらも堀切でしょう。

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南曲輪。

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南曲輪の先の堀切d

整備も行き届き、駐車場やお手洗いも完備されて、見学者にとても親切なお城でした。

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2022年11月15日 (火)

旧東海道、藤川宿~池鯉鮒宿

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旧東海道、藤川宿の西棒鼻。
8月に旧東海道を御油宿から藤川宿まで歩いてきましたので、今回はその続きとなります。

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出発するとすぐに藤川の松並木が出迎えてくれます。

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松並木を抜けると一旦国道1号線に出ますが、1㎞ほどでまた左へ逸れていきます。

正田の町より大比良川こさせられ、岡崎城の腰むつ田川・矢はぎ川には、是れ又、造作にて橋を懸けさせ、かち人渡し申され、御馬どもは、乗りこさせられ、矢はぎの宿を打ち過ぎて、池鯉鮒に至りて御泊り。水野宗兵衛、御屋形を立てて御馳走候なり。
(信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」より)

天正10年(1582)4月18日、甲州征伐からの凱旋の途にある織田信長はこの日、三河の吉田城下を出発して御油や本宿を経由(参照記事)した後、岡崎や矢作を通過して知立(池鯉鮒)まで進みました。

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国道から外れて300mほど進んだ地点。
この辺りの旧街道から左(南西)の方向には名鉄の美合駅がありますが、その北~北西一帯に「美合町生田」という地名があります。

正田の町より大比良川こさせられ、
太田牛一が書き残した正田の町、その名残の地名が美合町生田ではないでしょうか。

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その北西側には美合町生田屋敷という地名もあり、詳細は不明ながら生田城址碑も建っています。

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正田城址碑前から、美合町生田方向。
少し高台になっている辺りが正田の町

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長閑な旧街道をしばらく進み・・・

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藪に遮られえた突き当りが、乙川の渡河地点。

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旧街道は川で途切れていますので、すぐ近くを通る国道1号の橋へ迂回します。

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乙川の流れと旧東海道の渡し場付近。
藤川宿側から川を渡った対岸(北)は「大平」という地名になり、乙川には「大平川」という別名もあります。
そう、牛一が記した「太比良川」です。

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乙川の北岸。
旧街道の名残らしき畦道が見えていますが、その傍らには・・・

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大平川水神社が祀られていました。

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太平の集落を進みます。

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旧街道から少し外れ、西大平藩陣屋跡。
西大平藩は旗本だった大岡越前守忠相が寛延元年(1748)、三河国宝飯・額田・渥美で4,080石の加増を受け、都合1万石の大名となったことでて立藩されました。

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太平一里塚
江戸日本橋から80里になります。

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岡崎IC出入口の下を潜る旧東海道。

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岡崎の城下町(岡崎宿)が近づいてきたところで、少し寄り道して朝日町の若宮八幡宮へ。

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徳川家康の嫡男・信康の首塚にお参りしました。

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さて、旧東海道に復帰して岡崎宿へ。

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岡崎宿内を通る旧東海道は二十七曲りとも呼ばれ、20ヶ所以上もの折れを伴います。

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要所要所にこうした案内表示を建ててくれていますので、これを頼りに丁寧にトレースして行きます。

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岡崎三郎信康も初陣の折に祈願したと云う、聖観世音菩薩を本尊とする根石寺。

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籠田惣門跡
ここから先が、近世岡崎城の惣構の内になります。

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籠田公園の中を通り抜ける旧東海道。
この日はラリー・ジャパンに関連したイベント(お祭り)が開催されていて、凄い賑わいでした。

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いや、そこまで小刻みに案内してくれなくてもわかるって(笑)

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もうすぐ城下を抜けてしまう、という地点まで来てようやく岡崎城天守が見えました。

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旧東海道が国道248号と交錯する辺りが、松葉惣門跡。

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江戸時代、現在の国道248号の西側を沿うような位置に、松葉川という川が南北に流れていました。
岡崎城の西側の惣堀も担っており、旧東海道が松葉川と交錯するこの地点には松葉惣門が構えられ、橋も架けられていたと云います。
「東海道中膝栗毛」でも、弥次・喜多が(宿のはずれの)松葉川を渡って矢作橋へ向かった様子が描かれています。

岡崎城の腰むつ田川矢はぎ川には、是れ又、造作にて橋を懸けさせ、かち人渡し申され、御馬どもは、乗りこさせられ、

事前にいくら調べても、信長公記に見える「むつ田川」を特定することができませんでした。
しかし、岡崎城の腰の「腰」が何を意味しているのかは判断に悩むところですが、むつ田川・矢はぎ川と連続する既述の並びと、実際の矢作川との位置関係などから、この松葉川をむつ田川に比定しておきたいと思います。

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松葉惣門跡を出てしばらく進むと、八丁味噌で有名な八帖町に入ります。

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岡崎を舞台にした連続テレビ小説「純情きらり」に出演されていた、宮崎あおいさんの手形。

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矢作橋からの矢作川(矢はぎ川)。
江戸時代の矢作橋はもう少し南側(写真の方向)に架かっていたそうですが、天正10年に信長一行のために架けられたと云う橋は、果たして何処にあったのでしょうか。

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矢作橋、西側のすぐ袂に建つ出合乃像。
史実云々は別にして、「絵本太閤記」に描かれた日吉丸(豊臣秀吉)と蜂須賀小六の出会いのシーンを再現しています。

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矢作川を越えると、矢作宿の町並みが続いています。
江戸時代に整備された旧東海道の宿駅制度からは外れましたが、矢作川を渡る旅人らの宿場町として栄えたそうです。

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岡崎信康唯一の肖像画を所蔵する勝蓮寺。

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矢はぎの宿を打ち過ぎて、

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矢作宿を抜けると国道1号線に合流し、3㎞ほども退屈な区間が続きますが、安城市に入ったところでようやく国道から右へ逸れてくれました。

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やっぱり松並木はいいですよねぇ~。

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低く横に大きく枝を広げる、永安寺の雲竜の松。

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推定樹齢は約350年・・・さすがに信長一行が通過した天正10年にはまだ生えていませんね。

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猿渡川を越えると、旧東海道はいよいよ知立市に入ります。

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来迎寺一里塚
旧東海道を西向きに歩いてくると、一方(北側)の塚が建物の裏に隠れてわかりづらいのですが・・・

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実は一対で残っています。

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泉蔵寺、吉田忠左衛門夫妻の墓所。

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元禄赤穂事件で有名な吉田忠左衛門。その妻であるりんは、忠左衛門切腹後に身を寄せた娘婿の主家の転封により、宝永七年(1710)に刈谷へ移り住みました。
しかし刈谷入りの僅か半年ほど後に亡くなり、形見として持っていた忠左衛門の歯と共に、この地へ埋葬されました。

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知立の松並木

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松並木の途中に建つ馬市の句碑。
江戸時代、この辺りでは毎年4月25日~5月5日の間、馬市が開かれ、4~500頭もの馬が並べられたと云います。

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歌川広重も、東海道五十三次で馬市の様子を描いています。
「池鯉鮒 首夏馬市」

知立は「池鯉鮒」とも書きましたが、それは当地にあった御手洗池、或いは知立神社の神池に鯉や鮒がたくさんいたため、との由来も伝えられています。
旧東海道の宿場名を示す際は、「池鯉鮒宿」とするのが一般的なようです。

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松並木を抜けた先が池鯉鮒宿。
今回の旧東海道歩き旅のゴールです。

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風情ある細い道を進み・・・

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この突き当りを右へ折れた先が・・・

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知立古城址

池鯉鮒に至りて御泊り。水野宗兵衛、御屋形を立てて御馳走候なり。

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元々は知立神社の神官・永見氏の居館があった場所で、刈谷城主・水野忠重(宗兵衛)が、その跡地を利用して信長饗応のための御殿御屋形)を整備したと伝わります。
※家康の側室で、結城秀康を生んだ於万の方は永見氏の出

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御殿址の石碑
江戸時代に入ると更に拡張され、徳川将軍が上洛する際の休息用の御殿にもなりました。

永禄3年(1560)の桶狭間合戦後、知立一帯は刈谷城を押さえた緒川城主・水野信元の領有となりました。忠重はこの信元の異母弟にあたります。
信元は織田家に従っていましたが、信長に武田方への内通を疑われて死に追いやられ(天正3年/1575)、刈谷を含む彼の旧領は佐久間信盛の手に渡りました。
その佐久間父子の追放(天正8年)後、刈谷は忠重に与えられて水野家に復します。
忠重はこの後、高天神城を包囲する徳川軍の陣中にあり、年が明けた翌天正9年1月には、高天神城の処置についての信長の意向を伝える書状を受け取っています。

慶長5年(1600)、家康から隠居料として与えられた越前へ向かう堀尾吉晴を知立でもてなした際、同席していた加賀井重望によって殺害されました。
堀尾吉晴をもてなし、そして自らの最期をも迎えることになってしまった歓待の席も、或いはこの地にあった御殿が用いられたのかもと想像しています。

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知立付近一帯を描いた屏風絵。
東海道が御殿のところで突き当りになっている様子もよく描かれています。
右下隅の方に描かれているのは、岡崎城とその城下町。こちらも二十七曲りの様子がよく見て取れます。

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旧東海道は更に西へと続きますが、私はここを右(北)へ曲がって・・・

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知立神社にお参り。
写真は永正6年(1509)の再建と伝わる多宝塔。知立神社の別当寺だった神宮寺の遺構とのことです。

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神池には、やはり多くの鯉が。

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七五三シーズンにあたっていたため、この日は多くのお子さん連れで賑わっていました。

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旅の最後は電車で少し移動し、刈谷市の楞厳寺へ。
水野家の菩提寺で、水野忠重画像も所蔵しています。

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水野信元や忠重らが眠る水野家廟所。

本当は刈谷城まで足を延ばしておきたかったのですが、空模様が急激に怪しくなり、疲労もありましたので雨に降られる前に切り上げました。
いずれまた機会があれば・・・。

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2022年8月11日 (木)

岩津城、他

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前記事でご紹介した満性寺を辞した後は、岡崎城をぶらぶら散策して、、、

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9年ぶりとなる大樹寺へ移動し、松平氏歴代や徳川将軍14代のご位牌を拝観、松平氏歴代の墓所も参拝しました。

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岡崎公園の「三河武士のやかた家康館」に展示されていた書状などでその名をよく見かけたので、滝山寺にも足を延ばしました。

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滝山東照宮

滝山寺宝物殿では、源頼朝の歯と遺髪(顎鬚?)を胎内に納めたと云う聖観音菩薩立像も拝観いたしました。

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旅の最後は、三河松平氏の嫡流・岩津松平氏ゆかりの岩津城へ。

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主郭へと続く土橋。

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主郭下の横堀。

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主郭

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主郭の一段下、腰郭状の平場に残る枡形。

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主郭の土塁上に建つ城址碑。

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主郭土塁上から土橋方向。

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主郭側から、土橋越しに馬出方向。

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櫓台

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櫓台上から、馬出の土塁を見下ろす。

岩津松平氏は松平氏2代・泰親を祖とします。
3代・信光の頃までは勢力を張っていたものの、次代に及んで駿河今川氏の侵攻を受けて岩津城は落城し、岩津松平氏も衰退します。
その結果、安城に分立していた親忠の安城松平氏が惣領化したため、親忠を松平氏宗家の4代として、後の徳川家康へと繋がっていきます。
いずれも大樹寺に納められたご位牌や、歴代墓所にその名が見えます。

なお、岩津城には天正12年(1584)の小牧長久手合戦の際、徳川家康による改修の手が入っているそうです。

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2022年8月10日 (水)

近衛龍山(前久)の浜松下向

天正10年(1582)6月2日に勃発した本能寺の変織田信長が亡くなると、信長と親交のあった近衛前久は出家して龍山と号します。
佞人讒訴の企てによって秀吉の嫌疑を受けた龍山は嵯峨て逼塞し、やがては京を離れ、徳川家康を頼って浜松へ向かいました。
茶色字部分は石谷光政・頼辰宛 近衛前久書状より抜粋引用

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東岡崎駅からもほど近い、乙川ほとりの満性寺
毎年8月7~8日の2日間、虫干しを兼ねた宝物展示が行われることを知り訪れてみました。

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龍山は天正10年11月7日付で、浜松へ忍びで下向することになったことを伝え、その道中の宿所提供を依頼する書状(上写真)をこの満性寺宛に発しています。

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後に紹介する同月13日付の書状により、龍山は11月12~13日頃に浜松へ到着したことが知れるので、満性寺に宿泊したのは11月10日前後のことと推定されています。

龍山はこの年、甲斐武田家を滅ぼした甲州征伐に参陣しており、4月には信長の凱旋旅にも同行して岡崎を通行した際にか、彼は過去にも満性寺に立ち寄ったことがあったようです。
11月7日付の書状には、その折に交わした雑談などを忘れ難く思っていること、その後にも満性寺から便り(書札)をもらったことなども書かれており、それに続けて;

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(聖徳)太子の次第を信長にもつぶさ(具)に伝え、内々に聴聞に訪れてみようと話していたところに不慮の儀(本能寺の変)が発生して叶わなくなり、是非もない。
といったことも記されています(上写真部分)。

満性寺では聖徳太子が篤く信仰されてきたようで;

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聖徳太子2歳の時の姿と云う「南無仏太子像」(左/鎌倉期)や「聖徳太子講讃孝養図」(右/天正6年頃)、

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「聖徳太子立像」(童形執笏太子像/江戸期)など、聖徳太子にまつわる品々が多く伝えられています。

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また、本堂脇に建つ太子堂にも・・・

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やはり聖徳太子が祀られています。

龍山は浜松への道中、満性寺に宿泊した際には実際に目にした(江戸期作の聖徳太子立像は別として)ことでしょうし、本能寺の変が起こらなければ織田信長も龍山と一緒に訪れて目にしたかもしれない貴重な品々です。

近衛家と満性寺の関係はその後も続いたようで、満性寺には他に;

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近衛前久(龍山)の「詠十首和歌」

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近衛信尹(前久息)の書簡

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近衛家から拝領の品々なども残されていました。

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また、太子堂には歴代徳川将軍のご位牌も安置され、酒井忠次からの書状や寄進状なども展示されていました。
その他にも数多くの寺宝が本堂や庫裏に展示されていましたが、とても一挙にご紹介しきれるものではありませんので割愛します。

ところ変わって・・・

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浜松城の西に位置する西来院

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近衛龍山は浜松到着後、11月13日付で岡崎の満性寺に一宿の馳走を謝した書状を出しています。
その文中で徳川家臣・石川家成の手配により、この西来院入ったことを伝えています。

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西来院には、西方僅か2㎞ほどの佐鳴湖畔で殺害された築山殿(徳川家康正室)の廟所「月窟廟」や・・・

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家康の異父弟・松平康俊の墓所もありました。

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JR浜松駅の南1㎞ほど、龍禅寺仁王門跡。最盛期には、この辺りも龍禅寺境内の一角に含まれていたのでしょう。
奥には大きな松の木が見えています。

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龍禅寺のクロマツ。
第2次大戦の戦火を免れ、市の保存樹に指定された平成7年の段階で、既に樹高が27mもあったといいます。

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龍禅寺山門

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龍禅寺境内

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金光院龍禅密寺の額

西来院に逗留後、龍山はここ龍禅寺に移り、金光院の北の亭に滞在したと云います。
この亭は後に、龍山公の亭とも称されたとか。

その正確な位置はわかりませんが、境内に建つ松永蝸堂の句碑の説明板に気になる記述がありました。

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元亀年間は後水尾天皇の曽祖父・正親町天皇の時代で、後水尾天皇はまだお生まれにもなっていません。
そればかりか、近衛前久が龍山と号したのは既述の通り、天正10年6月2日の本能寺の変後のことですし、徳川和子の入内は龍山没後(慶長17年=1612)の元和6年(1620)のこと。
いろいろなことが全く史実に反しています。きっと、天正10~11年にかけて龍山が滞在した折のことが、その他の諸々と混同して伝えられてきたのではないかと推察します。

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近衛龍山が滞在していた亭の跡地だという、松永蝸堂の句碑(中央)

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龍禅寺の梵鐘
文化11年(1814)の鋳造。第2次大戦時に供出されましたが、戦後、無事に還元されたそうです。

天正11年(1583)6月2日、龍山はここ龍禅寺で織田信長の一周忌追善供養を執り行い、南無阿弥陀仏[な・む・あ・み・だ(た)・ぶ(ふ)]の六字名号を冠した追善の歌を詠んだと云います。
彼は5年後の天正16年(1588)、京の報恩寺に奉納された織田信長肖像画の賛にも、同様の歌を詠んでいます。

徳川家康の取り成しもあって天正11年9月、龍山はおよそ10か月ぶりの帰京を果たしました。


※参考図書
「流浪の戦国貴族 近衛前久」谷口研語(中公新書)

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2022年8月 9日 (火)

旧東海道、御油宿~藤川宿

2022年8月6~7日は、愛知県岡崎市方面への旅。
まず初日は新幹線を豊橋駅で降り、名鉄線に乗り換えて御油駅へ。
御油宿をスタート地点とし、旧東海道を藤川宿まで歩きます。

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御油宿、江戸方の入り口となる音羽川と御油橋。

四月十八日、吉田川乗りこさせられ、五位にて御茶屋美々しく立て置かれ、面入口に結構に橋を懸けさせ、御風呂新しく立てられ、珍物を調へ、一献進上。大形ならぬ御馳走なり。
(信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」より)

天正10年(1582)、甲州征伐からの凱旋の途にある織田信長は、4月18日、吉田城下を出発し、その日は知立(池鯉鮒)まで進んでいます。
その道中、御油(五位)に差し掛かると御茶屋が美しく建てられており、表()の入口には結構な橋が架けられ、お風呂も新しく用意されて盛大なもてなしを受けています。
信長一行のために表の入口に架けられた結構な橋・・・きっと、旧東海道が通るこの御油橋辺りに架けられていたのではないでしょうか。

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御油橋を渡り、旧東海道歩きをスタートします。

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東林寺

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東林寺には、飯盛女のお墓が建ちます。
ある晩、飯盛女4人が示し合わせて旅籠を抜け出し、世を儚んで入水自殺してしまいました。
これを哀れんだ旅籠の主人や東林寺の住職らが供養のため、これらのお墓を建てたのだと云います。
なお墓石は5基ありますが、残りの1基については詳細を把握できておりません。

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御油宿は江戸から35番目の宿場で、次の赤坂宿とは僅かに1.7㎞ほどしか離れておらず、東海道の宿駅間では最も短かくなっていました。
飯盛女のエピソードが示す通り、御油と赤坂は歓楽的な宿場としても知られていたようです。

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御油宿を抜けると、国の天然記念物にも指定される御油の松並木が続きます。
これは見事。

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松並木を抜けると、そこはもう赤坂宿。
写真のすぐ先、路面の色が少し変わっている辺りが東見附跡になります。
しかし、東見附は寛政8年(1796)、更に先へ150mほど進んだ・・・

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こちらの関川神社の前に移されたそうです。

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大橋屋(旧旅籠鯉屋)
文化6年(1809)の赤坂宿大火以降に建てられたと考えられており、江戸時代には鯉屋を屋号とする旅籠が営まれました。
その後、所有者の変更もあって屋号を大橋屋と変え、なんと平成27年まで旅館として営業されていました。

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鯉屋に再現された、歌川広重の東海道五十三次「赤阪 旅舎招婦ノ図」に描かれた蘇鉄と石燈籠。

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地面には、失われた建物部分の間取りが平面展示されています。

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なお、近くの浄泉寺境内に、広重が描いた蘇鉄と伝わるものが移植されています。
明治20年頃、道路の拡張工事に伴って移されたそうです。

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大橋屋を辞し、しばらく進むと景色が一変してきました。
写真は岩略寺城跡辺りを写しています。

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正面の標識が示す通り、豊川市の長沢町という地名になるのですが・・・

本坂、長沢、皆道、山中にて、惣別石高なり。今度金棒を持ちて岩をつき砕かせ、石を取り退け、平らに申し付けられ、
(同)

この辺りの街道は「山中」で石や岩がゴロゴロしていたものを、信長一行の通行のために金棒でそれらを打ち砕き、取り除いて平らに整備させたと云います。
実際に東海道を歩いてみると、確かに山深い景観ではあるものの、通行する場所は山間といった風情です。

信長の凱旋旅を追って静岡県の丸子城周辺を訪れた際も;

山中路次通りまりこの川端に山城を拵へ、ふせぎの城あり。
(同)

という信長公記の表現に惑わされましたが、太田牛一(或いは当時の人々)は「山の中」でなくとも、山間のことも「山中」と表現していたのかもしれません。
コチラの記事、4月14日の項参照。

或いは近世以前、中世の主要道でもある鎌倉街道は、上の写真に写る山の中腹を通っていたとのこと。
・・・織田信長らが通行したのは、果たしていずれの道であったのか?

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こういう風情のある旧街道歩きは、本当に飽きることがないのですが・・・

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「関屋」という信号の少し先で、国道1号に合流しました。
ここから暫くは、退屈な国道歩きが続きます。

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岡崎市域に入ったところで本宿に到着です。

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赤坂宿と藤川宿の中間に位置する本宿村は、徳川家康手習いの寺としても知られる法蔵寺の門前を中心に発展しました。

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法蔵寺
個人的には、9年ぶりの再訪となりました。

爰に山中の宝蔵寺、御茶屋、面に結構に構へて、寺僧、喝食、老若罷り出で、御礼申さるる。
(同)

ここでいう「山中」は、本宿が所在する山中郷を指しています。
門前のこの辺りに、信長のための御茶屋が築かれたのでしょうか。

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再び国道1号に合流する手前にも、松並木がありました。

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既に結構な疲労を感じていましたが、信長たちが向かった池鯉鮒(知立)は、国道1号でまだ25㎞も先。
しかも彼らの出発地は吉田で、私の御油よりも遠い・・・昔の人は凄かった(笑)

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また旧道が復活するポイント。

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名鉄の線路沿いを進みます。

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結構アップダウンのある行程を道なりに進み、国道1号への合流地点手前で再び松並木。

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山中八幡宮
なかなか興味深い歴史もありそうでしたが、どれくらい登るのかわからず、体力の残量も少なかったので参拝は断念。

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道の駅藤川宿まで1㎞の看板があるポイントで、国道を左へ逸れます。
すぐ先で・・・

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歌川広重の東海道五十三次「藤川 棒鼻ノ図」に描かれた藤川宿東棒鼻(見附)に到着です。

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こちらが広重の東海道五十三次「藤川 棒鼻ノ図」

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藤川宿の町並み。

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宿場内も結構距離がありました。

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藤川宿脇本陣跡に建つ藤川宿資料館。
門は脇本陣の現存だそうです。

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藤川宿、西の棒鼻。
このすぐ近くに駅がありますので、今回の歩き旅はここまでといたします。

心配した暑さもこの日だけは若干和らぎ、絶好のコンディションに恵まれて完歩することができ、大満足です。

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2022年7月17日 (日)

伊豆の国市で北条めぐり

今回は静岡県伊豆の国市で、鎌倉時代の執権・北条氏ゆかりの地をいくつかめぐります。

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まずは、南江間の北条義時館跡。
現在の江間公園一帯にあたります。この地に屋敷を構えたことから義時は「江間小四郎義時」とも呼ばれています。

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義時館跡のすぐ南西に建つ北條寺。

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北條寺は義時によって創建されました。

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境内墓地横、小四郎山と呼ばれる小高い丘を登ると・・・

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北条義時夫妻の墓所があります。
後に名執権と称えられる義時の長子・泰時によって建てられました。

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こちらは室町期、堀越公方の居所兼政庁が置かれていた堀越御所跡。
京の将軍・足利義政の意向を受けて、古河公方に代わる新たな鎌倉公方として下向したものの、享徳の乱で敵対する古河公方方の勢力に阻まれて関東(鎌倉)に入ることができなかった足利政知が構えました。
古河公方に対して、堀越公方と呼ばれることになります。

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御所の背後(南)には、詰め城とも伝えられる守山城。

政知の死後、その後継を巡る混乱に乗じた伊勢宗瑞の襲撃を受け、堀越御所は陥落します(明応2年/1493)。
伊豆から追放された政知の子息・茶々丸は、その後も伊豆奪回の機会を窺っていたようですが、結局は宗瑞に追い詰められ、明応7年(1498)に自害して果てています。

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堀越御所跡のすぐ近く、北条政子産湯の井戸。
政子誕生の折、その産湯の水を取ったとされる井戸です。

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守山の北麓、北条氏邸跡。
鎌倉幕府滅亡後には、8代執権・北条貞時の妻が遺された北条氏の子女救済と一族の供養のため、円成寺を建立しています。

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北条氏邸前から、狩野川越しに江間を望む。

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北条氏邸跡からは建物跡や井戸、池跡などの他、かわらけなども出土しているようです。

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実際に建物がどのようにして建っていたのか・・・そのイマジネーションを助けるための案内板かな?

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北条氏邸跡から守山に登ります。
2~3分ほども進むと、とても気になる平場がありました。左奥は完全に切岸に見えます。

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山頂すぐ手前の分岐点。

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まずは展望台のある山頂へ。

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森山山頂展望台からの眺め。
本来であれば左側に富士山が見えているはずなのですが・・・残念!

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下山は、真珠院方面へ下っていきます。

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どれもこれも、巨大な堀切と見紛うばかりの急勾配なアップダウンが続きます。

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しばらく進んだ先に架かる木橋・・・間違いなく堀切ですね。

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更にその先で、ふと左へ目を向けると・・・ありますね。

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こちらも間違いなく堀切。
守山城がいつの時代まで使用されたのかはわかりませんが、中世の詰城というよりはむしろ、戦国期の限定的な城砦といった印象を受けました。
豊臣秀吉の小田原征伐時に於ける、韮山城攻めに関連しているのでしょうか?

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スズメバチの威嚇攻撃を受け、駆け足で九十九折れの登山道を下り切った後は真珠院へ。

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山門を潜ったすぐ右手、八重姫御堂。

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父・伊東祐親によって頼朝との仲を裂かれ、真珠院の南側にあった真珠ヶ淵に身を投げたと云う八重姫を祀ります。

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書かれてある通り、八重姫が入水した時、せめて梯子があったなら救うこともできたのに、という里人たちの思いから、今日では願いが叶ったお礼参りに小さな梯子を奉納する習わしになっているそうです。

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続いて願成就院へ。
文治5年(1189)、奥州藤原氏征伐の戦勝を祈願して、北条時政が創建しました。

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念願だった運慶作の;
阿弥陀如来坐像
不動明王と二童子の三尊立像
毘沙門天立像(一説には北条義時がモデルとも?)

そして、有名な北条時政肖像や北条政子地蔵を拝観したまではよかったのですが・・・

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暑さにやられ、早く車に戻ってエアコンで体を冷やすことしか考えられなくなっていた私は、あろうことか北条時政・足利茶々丸の墓参をすっかり失念してしまいました・・・この旅で唯一の後悔。

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最後に大河ドラマ館にも立ち寄りました。

付近には他に蛭ヶ小島や山木兼隆の館跡などもあるのですが、数年前に訪問済みなので今回はパスして帰路に就きました。

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2022年7月16日 (土)

江川家住宅と本立寺

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先日、執権北条氏ゆかりの地をめぐって伊豆の国市を訪れたついでに、未訪のままになっていた江川家住宅にも立ち寄りました。

江川家は江戸時代、天領の民政などを司る幕府の世襲代官を務めた家柄で、当主は代々「太郎左衛門」を名乗りました。
中でも幕末の36代・江川英龍は、品川台場の築造などで名を馳せています。
私の住む多摩も天領でしたので、新選組に絡んで近隣の歴史に触れていると、度々「江川太郎左衛門」の名に出くわします。

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主屋の屋根の木組み。
現存する主屋は室町期に創建された箇所と、江戸初期に修築された箇所とが含まれるそうで、国の重要文化財に指定されています。
昭和35年の解体修理で、屋根は茅葺から銅板葺に改められました。

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高札

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肥料蔵や米蔵など。

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江川家の菩提寺、本立寺に向かいます。
田圃の間を真っ直ぐに伸びる路を進んだ先が本立寺。とても長閑な光景ですが、とにかく暑い!

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本立寺山門

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江川太郎左衛門英龍像

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本立寺は、伊豆に流されていた日蓮上人が弘長2年(1262)、江川家16代の英親に招かれたことを基因とし、永正3年(1506)に24代・英盛が邸内にあった大乗庵を当地に移して創建されました。
本堂の裏手へ回ると・・・

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江川家代々の墓所があります。
ここから更に数段上り、写真奥に見える木々の向こう側に・・・

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江川太郎左衛門英龍が眠ります。

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狩宿の下馬桜と井出家の高麗門・長屋

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静岡県富士宮市狩宿の下馬桜と、奥には長屋を備えた井出家の高麗門

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建久4年(1193)の富士の巻狩の際、井出家の屋敷を宿所とした源頼朝が馬を下りた場所との伝承から「下馬桜」、或いは「駒止めの桜」とも呼ばれています。
樹齢800年を超える山桜です。

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井出家の前庭には、当地を訪れて下馬桜を句に認めた高浜虚子(中央)らの句碑も。

明治期には徳川慶喜も訪れており、
あはれその 駒のミならす 見る人の こころをつなく やまさくらかな
と詠み、書に認めたものが井出家に残っているそうです。

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両脇に長屋を備えた井出家の高麗門。
幾度かの焼失を経ており、現存するものは嘉永元年(1848)の建立になるそうです。

なお、安永5年(1776)の火災に遭うまで、屋敷は現在地の北東に隣接する区画(元屋敷/写真手前の右手側)に建っていたそうです。
その一角には・・・

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頼朝の宿所の周囲を幔幕で囲う際に利用されたと云う、「幕張の欅」が1本だけ残っています。

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高麗門・長屋は、周囲を一周して見学できます。

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高麗門に並ぶ長屋の内、南側のものは農機具などを収める納屋や、、、

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馬小屋になっていました。
高麗門を挟んだ北側は、作業小屋として使われていたそうです。

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高麗門

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富士の巻狩の様子。

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その舞台・・・残念ながらこの日は、富士山は殆ど雲に隠れてしまいました。

ところで、富士の巻狩から400年近く後の天正10年(1582)、甲州征伐を終えて安土への凱旋の途にある織田信長もこの地域を通過し、土地の者から富士の巻狩に関する旧跡について説明を受けています。
その様子は太田牛一が記した「信長公記」に詳しいのですが、その中で牛一は、頼朝の館が築かれた場所について;

昔、頼朝かりくらの屋形立てられし、かみ井手の丸山あり。西の山に白糸の滝名所あり。

と記しています。
確かに狩宿は上井出(かみ井手)のすぐ南に隣接する地域で、「狩りの宿」と、なんとも示唆的な地名でもあります。
しかし、地形的には牛一が記すような「丸山」には見えませんし、白糸の滝の東にもあたりません。

曽我兄弟の敵討ちでは殺害された工藤祐経ばかりでなく、頼朝自身も襲撃を受けたと云います。
狩宿の井出家では工藤祐経のお墓や、曽我の隠れ岩などからも少々距離が離れ過ぎているきらいがあります。

富士の巻狩はおよそ1ヶ月にも及んでいますので、その間には頼朝が井出家に滞在したこもあったのでしょう。
しかし、少なくとも太田牛一が書き記した場所、そして或いは狩りの本営として北条時政が用意した場所も、いろいろな条件を突き合わせると、工藤祐経のお墓のすぐ南、麓に若桜神社や光立寺がある丘の辺りを指しているのではないかと、個人的には推察します。
住所も上井出で、「信長公記」の記述と矛盾しません。

以下2022716日追記
twitterでフォロワーさんにご教示いただいたのですが、富士宮市立郷土資料館通信(2011531HP掲載分)では、宿所を狩宿の井出家、「丸山」は白糸の滝北東方向、上井出天神社の北に位置する天神山と推定されています。
いずれにしても、「丸山」と宿所とされる狩宿とは距離がありますので、広大な狩場を一望に見渡せる丸山(天神山か)には宿所とは別に、狩りの本陣のようなものが築かれていたのかもしれません。
牛一が
かりくらの屋形と記したものも或いは宿所ではなく、巻狩の本陣を指していたのではないか、とも思えてきました。

 

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