カテゴリー「お城、史跡巡り 東海」の90件の記事

2020年1月28日 (火)

蒲原城

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蒲原城鳥観図

蒲原城は元々、駿河守護・今川家の属城でしたが、永禄11年(1568)に武田信玄が同盟を破棄して駿河に侵攻すると、今川家救援に動く北条家の兵が入り、対武田の拠点としました。
しかし、翌永禄12年12月には武田家によって落城し、以降は天正10年(1582)の同家滅亡まで、その支配下に置かれました。
参考記事

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鳥観図Aにある空堀。
藪で見えづらいのですが、人工的な遺構というよりは自然地形のようにも思えました。

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Bの腰曲輪
2段構えのようになっていて、写真はその上段で・・・

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こちらが下段部分を見下ろした様子。
妙にエッジが効いているのが、かえって気になる・・・。

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Bの腰曲輪から、善福寺曲輪(D下を西へ回り込む通路状の遺構。
横堀、或いは塹壕のようにも見えたりして・・・(;^_^A

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これに沿って西側へ回り込むと、善福寺曲輪と主郭(E)間の堀切から落ちる竪堀があります。

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下まで続いています。

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善福寺曲輪と主郭を隔てる堀切C

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善福寺曲輪
土塁も残り、櫓台や・・・

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逆茂木のディスプレイ?まで設置されていましたw

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善福寺曲輪から堀切越しに主郭。
こうして見ると結構、高低差があります。

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主郭

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主郭からの眺め。
さった山まで綺麗に見通せます。

武田軍が駿河に侵攻した際、今川家の救援に動く北条家はさった山に大軍を布陣させますが、何故この蒲原城をその後方拠点としたのかが、よく見て取れるような光景です。

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主郭から善福寺曲輪。

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東海道歩きに想定よりも時間を要し、あまり蒲原城攻めには時間を割けませんでしたが、駐車場もあって見学のしやすい城跡でした。

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2020年1月27日 (月)

旧東海道 蒲原宿~西倉沢(間の宿)

今回も大磯に続く旧東海道歩き。
静岡県の蒲原宿から西へ、由比宿を抜けてさった峠の麓、西倉沢まで歩いてみます。

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蒲原といえばこちら、歌川広重の東海道五十三次(保永堂版)「蒲原夜之雪」が有名ですね。
温暖な蒲原の地で雪がこれほど積もることは考えづらく、なぜ蒲原に雪を描いたのか、ミステリアスな謎も残る広重の傑作中の傑作とも称されています。
以前から、この絵に描かれた場所がどこなのか気になっていたのですが、よく見ると右上の方から坂を下ってきた東海道が、絵の中央付近で右へ折れているようにも見えます。
それに該当しそうな場所を地図で探し、予め見当をつけておいたのが・・・

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蒲原宿の東の外れ、北の方角から南へ下ってきた旧東海道が・・・

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右へ折れ、西へと進路をとるポイントです。
背景の山もどことなく、絵の構図とマッチしそうにも思えるのですが・・・いかがでしょうか?

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すぐ近くには、蒲原宿の一里塚跡。
旧街道歩きでスタート地点に一里塚(跡)があると、歩いた距離もわかりやすくて助かります。

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北条新三郎の供養碑
駿河に侵攻した武田家との抗争の中で北条家は、蒲原城に北条新三郎綱重(氏信/幻庵の子)を派遣して対武田の拠点としましたが、永禄12年(1569)12月6日、蒲原城は武田軍の攻撃を受けて落城し、新三郎も討死を遂げました。

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東木戸(見附)の枡形
蒲原宿の江戸方の出入口になります。

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蒲原宿案内図
こうして見ると旧東海道は、蒲原宿が置かれた位置だけ北へズレていますが、これは元禄12年(1699)に襲った津波によって大きな被害を受け、宿場ごと北へ移転したためだそうです。

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なまこ壁と塗り家造りの家屋。
塗り家造りとは塗り壁の町屋を指し、防火性にも優れて「贅沢普請」とも言われたそうです。

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冒頭でご紹介した、広重の「蒲原夜之雪」記念碑。

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西本陣跡
蒲原宿には江戸中期まで、東西2つの本陣がありました。
その後、東本陣の家が途絶えたため、西本陣だけが幕末まで続きました。

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御殿道跡
蒲原にはかつて、徳川将軍の休憩所として設けられた蒲原御殿がありました。
御殿の正確な位置は判っていないようですが、すぐ背後の山を「御殿山」、そしてこの道を「御殿道」と呼んでいたことから、この付近に存在したらしいことは確かなようです。
案内板によると蒲原御殿は、甲州征伐(天正10/1582年)から安土へと戻る織田信長のため、徳川家康が築いた「御茶屋」が元になっているともありました。

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旧五十嵐歯科医院
大正初期の改装で、外観洋風・内観和風の偽洋風建築。
国の有形文化財にも登録されています。

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旧東海道と蒲原宿の町並み。
写真左手前の建物は志田家住宅。こちらも国登録有形文化財です。

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案内板で「美しい格子戸の家」として紹介されていたお宅。

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宿場の西端でグイッと左(南)へ折れた先が・・・

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西木戸(見附)跡。
蒲原宿の上方出入口です。

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蒲原宿を出た後は、しばらく県道396号線に沿って進みます。

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「神沢」の分岐は左へ。

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見事なS字クランク。

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由比新町の一里塚跡。
多少寄り道もしていますが、スタートから一里歩いたことになります。

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由比宿、東木戸(見附)の枡形跡。

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由比宿本陣跡。
現在は公園になっていて、由比宿交流館や広重の美術館などもあります。

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本陣跡の向かいには、脇本陣跡も。

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国の有形文化財に登録されている、清水銀行由比本町支店。

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由比川の渡し跡。
歌川広重の東海道五十三次(佐野喜版)にも描かれている場所です。
対岸の松の先に、旧東海道の名残が残っています。

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由比駅前を通過。
由比といえばやはり、桜えびですね。私も土産に購入いたしました。

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また旧街道の風情が残る町並みに入りました。

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寺尾村(由比寺尾)名主、小池邸。
(明治期/国登録有形文化財)

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由比宿東海道あかりの博物館

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寺尾の集落を抜け、しばらくは何もない道を進みます。
海側の眼下には、東名高速由比PA(下り)が見えていました。

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由比⇔興津間の間の宿・西倉沢に入りました。
右側の、人が前に立っている建物は川島家。
西倉沢村の名主で、大名も休憩に利用していたので、村では本陣と呼ばれていました。

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明治天皇ご東幸の際の休憩所にも充てられた柏屋。

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この、さった峠への登り口が西倉沢の一里塚跡でもあります。
本日のスタートからちょうど二里。
さった峠は以前にも歩いていますし、この後は蒲原城にも行く予定を入れていましたので、旧東海道歩きはここまでとします。

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最後に、そのさった峠への登り口に佇む望嶽亭藤屋
藤屋は茶店を営み、磯料理やアワビ、サザエのつぼ焼きなどを名物としていました。
離れ座敷からの富士の眺めが素晴らしかったことから「望嶽亭」とも呼ばれ、さった峠を往来する旅人の目と舌を楽しませてきました。
その様子は、広重も東海道五十三次の丸清(隷書)版で描いています。

そして望嶽亭には慶応4年(1868)3月、西郷隆盛との江戸無血開城に向けた下交渉に臨むため、西郷のいる駿府へ向かっていた山岡鉄舟(鉄太郎)が、さった峠で新政府軍兵士に誰何・襲撃されて逃げ込んできた、との伝承も伝わっています。
この日は幸運にも、内部を一般に公開していました。

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鉄舟を匿った藤屋は、彼に漁師の格好をさせて、こちらの階段から海岸へ逃がしたと云います。
その際、鉄舟は最新式のフランス製10連発短銃を置いていったと伝わり、実際にその短銃も展示されていました。
※展示品は撮影不可となっていましたが、建物については許可を得ています。

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望嶽亭の窓からの眺め。
今でこそ、国道1号線と東名高速が眼前を横切りますが、当時はさぞや雄大な太平洋が広がっていたことでしょう。

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望嶽亭から海岸へ出て、蒲原方面を眺めた様子。
写真中央正面辺りが蒲原になります。たかだか二里程度とはいえ、こうして見ると結構歩いてきました。

この後は由比駅まで引き返し、電車で車を置いた新蒲原駅前へ戻って蒲原城へ向かいました。

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2019年11月21日 (木)

二俣城、清瀧寺(信康切腹事件について)

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二俣城(浜松市天竜区二俣町)は、天竜川が足元を洗う段丘上に築かれていました。
元亀~天正年間には武田×徳川間の攻防の舞台にもなり、元亀3年(1572)には西上作戦の途にある武田信玄が徳川方にあった二俣城を攻略し、天正3年(1575)になると、今度は長篠で武田軍に勝利した徳川家康が奪還しています。

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北曲輪と本丸間に落とされた竪堀。
すぐ眼下には天竜川の流れも見えていました。

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同じく、北曲輪と本丸間の堀切。

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北曲輪(右)と、左に竪堀。
北曲輪には現在、旭ヶ丘神社が祀られています。

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本丸北側の喰違い虎口。
奥に天守台も見えています。

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本丸

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本丸南側の枡形虎口。

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ニノ曲輪へ通じる大手(追手)虎口。

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天守台

二俣城は天正7年(1579)9月15日、切腹を命じられた徳川家康の嫡男・信康が最期を遂げた地としても知られています。
麓には信康の菩提を弔うため、家康が建立した清瀧寺があります。

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その清瀧寺に復元された、二俣城の水の手櫓。
元亀3年に二俣城を包囲した武田軍は、城兵が天竜川に架けた汲み上げ用の櫓を破壊し、水の手を断つことで攻略に成功したと云います。

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信康堂

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信康堂に安置されている信康の木像。

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清瀧寺本堂
手前には、家康お手植えの蜜柑…の分木も。

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二俣尋常高等小学校に通う幼き日の本田宗一郎が、正午を知らせる寺の鐘を30分早く衝き、まんまと早弁にありつけたとの逸話も残る梵鐘。
(清瀧寺のお隣には、本田宗一郎ものづくり伝承館があります)

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岡崎三郎信康の廟所

信康の死については一般的に「織田信長の命によって切腹に追い込まれた」(三河物語)とされ、長らく定説化してきました。現地(二俣城跡や清瀧寺)に設置された案内板もことごとく、この説を採用しています。
しかし、武田家がまだ健在であるこの時期に、対武田の戦略上、重要な存在である徳川家との同盟関係を破綻させかねない要求を、確たる理由もなく信長が家康に強いるとは少々考えづらいものがあります。

他の文献を見ると信長は、信康問題で安土に赴いた酒井忠次に対し、
「如何様にも存分次第」(松平記)
「家康存分次第ノ由返答有」(当代記)
つまり、「家康の考え次第だ」「家康の判断に任せる」と答えています。

この事件は信康拘束後の家康の動きを見る限り、信康を担ぐ岡崎衆の浜松への反発と、そうした動きに対して家康が警戒心・危機感を募らせた結果と、個人的には考えています。その背景には、4年前の天正3年に発覚した大賀(大岡)弥四郎事件(岡崎衆の中から武田家への内通を画策する動きが発覚して粛清された事件)の記憶も影響したかもしれません。
いずれにしても、(家臣団を含む)徳川家内部の事情に起因しているのではないでしょうか。
安土に酒井忠次が派遣されたのは、信康の岳父で偏諱も受けている信長を憚り、信康の処分について事前に相談し、伺いを立てておくためだったものと思います。

家康は信長側近の堀秀政へ宛てた八月八日付の(信長への)披露状で、
「三郎不覚悟付而去四日岡崎を追出申候」
(徳川家康堀久太郎宛/信光明寺文書)
と報告しています。
「不覚悟付而」…信康の処断を決めたのがあくまでも家康自身だったことを、この一言が伺わせている気がしてなりません。

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2019年11月20日 (水)

かんざんじロープウェイ

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浜名湖パルパルの脇から、浜名湖上を大草山の展望台へと渡るかんざんじロープウェイ。
2台のロープウェイが交互に、10分間隔で運行されています。

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舘山寺(右下)や、浜名湖パルパルに姿を変えた堀江城跡を俯瞰。
堀江城は、岡崎城を追われた松平信康(家康嫡男)が一時、身柄を移された城でもあります。

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今や、すっかり有名になった井伊谷方面。

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左に浜名湖パルパル、右が大草山。
大草山の展望台はオルゴールミュージアム(有料)にもなっています。

日本で唯一、湖上を渡るかんざんじロープウェイ。
専用駐車場の料金に少々驚かされましたが(笑)、展望台からの眺めはまさしく絶景。
湖面を見下ろしながらの空中散歩も、結構楽しめます。

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2019年11月13日 (水)

明知城 …天正2年の明知城攻防③

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明知城縄張図
遠山三家(岩村・苗木・明知)の一つ明知遠山氏の居城で、元亀年間には織田方についていましたが、神箆城・小里城の記事でも触れた通り、天正2年(1574)、武田勝頼の軍勢に包囲されます。
急報を受けた織田信長は自ら後詰のために出陣しますが、城内から内通者(飯羽間右衛門尉)も出て間に合わず、明知城は武田方の手に落ちました。

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城域の東側、竪堀に設けられた散策路から城攻めをスタートします。

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1の曲輪の土塁。
「搦手砦」とありますが、搦手側にある曲輪、という理解でいいと思います(;^_^A

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1の曲輪にある貯水池。

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出丸

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右に二の丸、その奥の最高所が本丸跡。

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ニの丸から本丸の切岸。

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本丸

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本丸から3の畝堀群を見下ろす。

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本丸の先端から西の方角。
本丸と他の曲輪との高低差がまた凄いです。

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2の堀切

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その堀底から。

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3の畝堀
正面の土塁が大き過ぎて、私はこれを畝堀と理解するのに少し時間を要しました(;^_^A

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下草も刈られ、形状がよく見て取れます。

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そのまま4の畝堀群へ。
こちらもいい感じ。

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5の辺りから西へ続く畝。
3や4に比べると小規模ですが、こちらも整備されて見やすくなっていました。

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出丸下の切岸。
ほぼ垂直にそそり立っています。

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6に建つ万ヶ洞天神神社。
明智光秀幼少時の学問所とも伝えられているそうです。

天正2年、武田勝頼に攻められて落城した明知城。
しかし翌天正3年、長篠合戦で武田軍に勝利した信長は、織田信忠を総大将とする軍勢を東美濃に派遣して武田方に奪われていた諸城を次々と攻略し、この明知城や岩村城といった重要拠点も奪還しました。

今回の、天正2年の明知城をめぐる攻防戦めぐりはこれにて終了です。
次は長野県に入り、天正10年(1582)の甲州征伐、その信長の足跡を辿って中馬街道(伊那街道)を北上していきます。

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2019年11月12日 (火)

神箆城・小里城・他 …天正2年の明知城攻防②

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瑞浪市土岐町の八幡神社。

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この八幡神社は美濃源氏・土岐氏の祖ともされる土岐光衡が居館として築いた一日市場館跡で、美濃源氏発祥の地ともされています。

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光衡像(左)の横には明智光秀像も。
果たして、彼の出自の謎が解き明かされる日はくるのでしょうか・・・。

光衡は一日市場から北東へ3㎞ほどの神箆にも城(鶴ヶ城)を築き、ここを美濃国統治の拠点としました。

それでは我々も、その神箆城(鶴ヶ城)へ向かいます。

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神箆城(鶴ヶ城)麓の諏訪神社。
車はこちらに停めさせていただきました。

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城山遠景

二月五日、信長御父子御馬を出だされ、其の日は、みたけに御陣取り。次の日、高野に至りて御居陣。
(信長公記 巻七「明智の城いゝばさま謀叛の事」)

天正2年(1574)、現在の恵那市明智町にある明知城が武田勝頼の軍勢に包囲されたとの報を受けた織田信長は、2月5日に信忠を伴って岐阜を出陣します。
御嵩を経由して6日には、この神箆城(鶴ヶ城)に着陣しました。

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その縄張から、一般には鶴ヶ城と呼ばれていますが、「信長公記」には「高野(の城)」と表記されているので、当blogでも以降は「神箆(こうの)」で統一させていただきます。

ニ月十二日、三位中将信忠卿、御馬を出だされ、其の日は土田に御陣取り。十三日高野に御陣を懸けさせられ、十四日に岩村に至りて御着陣。
(信長公記 巻十五「木曾義政忠節の事」より)

三月八日、信長公、岐阜より犬山まで御成り。九日金山御泊り。十日高野御陣取り。十一日岩村に至りて、信長御着陣。
(信長公記 巻十五「信長公御乱入の事」)

また、神箆城には天正10年(1582)に甲州征伐へ向かう際にも、信忠は2月13日に、信長も3月10日に宿陣しています。

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登り始めてしばらくすると、木戸跡の立て札が。
この登城道に沿って築かれていたのか、それとも正面に見える土塁が切れた右側にあったのか・・・定かではありません。

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木戸跡を過ぎると早速、腰曲輪状の削平地や切岸が。

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西出丸

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西出丸からの眺め。眼下には神箆の里が広がります。
ちなみに「神箆」には「神の矢竹が自生する地」という意味があり、その昔、薬師如来が村の若者に悪霊退治を命じたという伝説に由来しているそうです。

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本丸下の切岸。
正面手前には井戸跡も。

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井戸
何故かは知りませんが、「葵の井戸」というのだそうです。

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東出丸

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本丸虎口

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本丸

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本丸の裏手(西側)に大きな堀切が見えていましたが、上からでは生い茂る木々に阻まれてよくわかりません。
しかし、急勾配の切岸を慎重に下りてみると・・・

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それは見事な堀切が、ザックリと大きな口を開けていました。

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反対側からも人尺付きでw

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最後に本丸からの眺めを。
正面に見える山間の谷間に道が伸びていますが、方角的には岩村城を向いています。
信長父子は天正10年の甲州征伐の際、それぞれ神箆城を出た後は岩村へ向かっています。もしかしたら、あの道を進んだのかも・・・なんて考えるのも、歴旅の醍醐味ですね。

信長による明知城後詰作戦はしかし、神箆城に入った翌天正2年2月6日、山間の難所続きで両軍共に身動きが取れないでいるうちに、明知城内で飯羽間右衛門尉の謀反が起き、呆気なく武田方の手に落ちて失敗に終わりました。

高野の城御普請仰せ付けられ、河尻与兵衛を定番として置かれ、おりの城、是れ又、御普請なされ、池田勝三郎を御番手にをかせられ、
二月廿四日、信長御父子、岐阜に御帰城。
(信長公記 巻七「明智の城いゝばさま謀叛の事」)

明知城を失った信長は神箆城に河尻秀隆、小里城には池田恒興を入れ、城の構えを強化して武田への備えとし、同月24日に岐阜へ帰陣しました。

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・・・という訳で、次は池田恒興に守らせた小里城へ。

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小里城縄張図
まずは山麓の御殿場跡を見てまわります。

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登り始めるとすぐに、いい雰囲気の石垣が。

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あちらにも。

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大手門跡の石垣

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小里氏御殿場跡碑

小里城は天文年間、土岐氏庶流の小里氏によって築城されたと考えられています。
小里氏は元亀年間頃には織田信長に従い、本能寺の変後は信孝に仕えたものの、天正11年(1583)の賤ケ岳合戦後に信孝が自害に追い込まれた後は、森長可に攻められて小里城を失い、徳川家康を頼りました。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦での功によって旧領を回復し、山麓に居館として構えたのがこの御殿場になります。
ところが、小里氏は元和9年(1623)に無嗣断絶の憂き目に遭い、小里城も廃城となりました。

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御殿場跡から登山道をひたすら登ること30分ほどで、ようやく山頂の曲輪群へ到達します。
まずは大手曲輪。

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大手曲輪からニノ曲輪を見上げる。
石垣も見えています。

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ニノ曲輪

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ニノ曲輪に残る石垣

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一ノ曲輪(本丸)の周囲にも石垣は残りますが、その殆どは崩落していました。

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しかし、天守台の石垣は見事でした。

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幾とせもの時代を超え、古色蒼然とした石垣は問答無用で格好いいですよね。

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天守台

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天守台に祀られていたお社。

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小里城天守台からの眺め。

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山深い頂に佇む無骨なその姿は、どこか神秘的でもあり、とても感動しました。

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御殿場跡まで下山した後は、東砦へ。

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東砦の尾根を少し登ると・・・

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堀切があります・・・薄いけど(;^_^A

織田信長が武田への備えとした神箆城、そして小里城。
長年の念願だったこともあって嬉しく、興奮で登山の疲れもすっかり忘れ・・・はしなかったけど(笑)

この後は天正2年2月6日、後詰が間に合わずに武田方に奪われた明知城へ。

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2019年11月11日 (月)

御嵩城 …天正2年の明知城攻防①

旅の2日目。

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朝7時に岐阜駅前を出発し、瑞浪市方面へ向かう途中で中山道の御嶽宿近くを通ったため・・・

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急遽、御嵩城(本陣山城)に寄り道。

正月廿七日、武田四郎勝頼、岩村口に相働き、明智の城取り巻くの由、注進侯。則ち、後詰として、
二月朔日、先陣、尾州・濃州両国の御人数を出ださる。
二月五日、信長御父子御馬を出だされ、其の日は、みたけに御陣取り。
(信長公記 巻七「明智の城いゝばさま謀叛の事」)

天正2年(1574)1月27日、武田勝頼が岩村口へ出陣して明知城(恵那市明智町)を包囲したとの知らせを受けた織田信長は2月5日、信忠を伴って岐阜を出陣して後詰に向かい、その日は御嵩に宿陣しています。

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御嵩城(本陣山城)縄張図
本陣山城は御嵩を拠点とし、本陣山の東にある権現山(金峯山)に城を構えていた小栗信濃守が、天文年間に新たに築城して拠点を移した城と伝えられています。
「御嵩城址」とは、この本陣山城と権現山城を合わせた呼称としているそうです。

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二ノ丸から本丸(展望施設のようなものが建っている箇所)方向。
間には堀切も。

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本丸から足元の物見跡。

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御嵩城(本陣山城)越しに、御嶽宿の町並みを見渡す。

御嵩に宿陣した信長らは、翌6日には瑞浪市土岐町の神箆城(鶴ヶ城)まで進んでいます。
という訳で、我々もいざ瑞浪市へ。

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2019年11月10日 (日)

黒野城

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黒野城本丸跡の案内板

織田・豊臣に仕え、甲府24万石を領した加藤光泰が朝鮮出兵の陣中で没すると、まだ幼かった子の貞泰は文禄3年(1594)7月、美野国黒野4万石へ移されました。
貞泰は黒野に城を築き、関ヶ原合戦(1600)では東軍について所領を安堵され黒野藩を立藩しますが、慶長10年(1610)に伯耆国米子へ移封となったため、黒野城は築城から僅か16年ほどでその歴史に幕を閉じました。
貞泰はその後、元和3年(1617)には伊予国大洲へ移っています。

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黒野城本丸、南東隅の外郭より。
本丸土塁には北西と南東の2ヶ所に張り出しを伴う櫓台櫓があり、横矢を掛けられるようになっていましたが、昭和期に造成された南面の土塁(写真左側)は南へ少し位置がずれてしまったため、現状ではその張り出しが失われています。

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南西端部分

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四方を囲む土塁上を一周します。
写真は西面の枡形部分の折れ。

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黒野城本丸跡を北西隅の土塁上から俯瞰。

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南東隅の櫓台

これだけ岐阜県に何度もお邪魔しておきながら、実は黒野城を訪れたのはこれが初めて。
夕暮れ迫る中、駆け足での城攻めとなりましたが、とても見応えのある遺構でした。

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夜は岐阜駅前にオープンしてまだ日の浅いSABARにて、恒例のギフナイト☆
さすがは織田信長ゆかりの岐阜。ロゴ?が織田木瓜・・・サバ(笑)

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2019年8月 5日 (月)

萩原諏訪城

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旅のラストに岐阜への帰路、下呂市萩原町の諏訪神社に立ち寄りました。
こちらは萩原諏訪城跡でもあります。

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萩原諏訪城跡図
この地には、1300年代には既に諏訪上社が勧請されていたようです。
萩原諏訪城は天正14年(1586)、飛騨を領有した金森氏が、諏訪神社を萩原町上村の大覚寺近くに移して築城しました。
元禄5年(1692)の金森氏の出羽移封に伴い、古川の増島城同様に一国一城令で「旅館」と称していた萩原諏訪城は廃城され、宝永6年(1709)になって再び諏訪神社がこの地に戻されました。

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諏訪神社境内の片隅で、末社を祀る櫓台跡。

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南東隅部分の石垣と堀跡。

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その南東隅から北西方向。

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北東隅の石垣。

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南西側の堀跡は、何故か石塁で堰き止められて箱型に。

おまけのように立ち寄っただけでしたが、なかなか見応えのある城跡でした。

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岐阜駅まで送ってもらった後は名古屋へ移動し、久しぶりに「住よし」のきしめんをいただいてから帰路につきました。
初日の天気はともかくとして、今回も念願だった二王清綱の拝観が叶い、知らなかった歴史もたくさん学べて有意義な旅になりました。

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2019年8月 4日 (日)

東町城、他

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江馬氏館の後は、同じく神岡町の東町城跡へ。

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東町城は16世紀後半、甲斐武田家の飛騨・越中攻略の拠点として、山県昌景が江馬氏に築城させたものと伝わります。
武田勢が引き上げた後は江馬氏の家臣・河上氏(河上家は現在も続き、江馬輝盛の肖像画を守り伝えています)が入城し、江馬氏滅亡の後は金森氏の支配するところとなりました。
元和の一国一城令で廃城となっています。

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高原川の河岸段丘の縁という立地で、現在では模擬天守が建って「神岡城」とも呼ばれていますが、空堀や石垣の一部は実際に残っていた遺構なのだそうです。

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模擬天守最上階からは日本一の立達磨が見えるというので、備え付けられていた双眼鏡にスマホのレンズを合わせて撮影してみた1枚・・・(;^_^A
銅製の達磨像で、本体の高さ9m、重量は8tあるそうです。

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同じく模擬天守から城下の眺め。
奥に鉱山らしき山も見えています。
神岡といえば鉱山の町。模擬天守横には鉱山資料館も併設されています。

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旧松葉家
こちらも城内に移築保存されている、明治元年築の古民家です。

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内部もサクッと見学させていただきました。

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お昼はこちらのお店で・・・

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奥飛騨ラーメンに舌鼓♪

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道の駅スカイドーム神岡に併設されたカミオカラボにもお立ち寄り。

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世界最大の地下ニュートリノ観測装置であるスーパーカミオカンデについて、簡単に学びました。

ここらで神岡にも別れを告げて岐阜方面へ引き上げますが、今回は行けなかった高原諏訪城にも登ってみたいし、いずれまた再訪したいと思います。

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