カテゴリー「お城、史跡巡り 東海」の88件の記事

2019年11月21日 (木)

二俣城、清瀧寺(信康切腹事件について)

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二俣城(浜松市天竜区二俣町)は、天竜川が足元を洗う段丘上に築かれていました。
元亀~天正年間には武田×徳川間の攻防の舞台にもなり、元亀3年(1572)には西上作戦の途にある武田信玄が徳川方にあった二俣城を攻略し、天正3年(1575)になると、今度は長篠で武田軍に勝利した徳川家康が奪還しています。

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北曲輪と本丸間に落とされた竪堀。
すぐ眼下には天竜川の流れも見えていました。

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同じく、北曲輪と本丸間の堀切。

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北曲輪(右)と、左に竪堀。
北曲輪には現在、旭ヶ丘神社が祀られています。

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本丸北側の喰違い虎口。
奥に天守台も見えています。

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本丸

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本丸南側の枡形虎口。

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ニノ曲輪へ通じる大手(追手)虎口。

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天守台

二俣城は天正7年(1579)9月15日、切腹を命じられた徳川家康の嫡男・信康が最期を遂げた地としても知られています。
麓には信康の菩提を弔うため、家康が建立した清瀧寺があります。

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その清瀧寺に復元された、二俣城の水の手櫓。
元亀3年に二俣城を包囲した武田軍は、城兵が天竜川に架けた汲み上げ用の櫓を破壊し、水の手を断つことで攻略に成功したと云います。

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信康堂

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信康堂に安置されている信康の木像。

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清瀧寺本堂
手前には、家康お手植えの蜜柑…の分木も。

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二俣尋常高等小学校に通う幼き日の本田宗一郎が、正午を知らせる寺の鐘を30分早く衝き、まんまと早弁にありつけたとの逸話も残る梵鐘。
(清瀧寺のお隣には、本田宗一郎ものづくり伝承館があります)

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岡崎三郎信康の廟所

信康の死については一般的に「織田信長の命によって切腹に追い込まれた」(三河物語)とされ、長らく定説化してきました。現地(二俣城跡や清瀧寺)に設置された案内板もことごとく、この説を採用しています。
しかし、武田家がまだ健在であるこの時期に、対武田の戦略上、重要な存在である徳川家との同盟関係を破綻させかねない要求を、確たる理由もなく信長が家康に強いるとは少々考えづらいものがあります。

他の文献を見ると信長は、信康問題で安土に赴いた酒井忠次に対し、
「如何様にも存分次第」(松平記)
「家康存分次第ノ由返答有」(当代記)
つまり、「家康の考え次第だ」「家康の判断に任せる」と答えています。

この事件は信康拘束後の家康の動きを見る限り、信康を担ぐ岡崎衆の浜松への反発と、そうした動きに対して家康が警戒心・危機感を募らせた結果と、個人的には考えています。その背景には、4年前の天正3年に発覚した大賀(大岡)弥四郎事件(岡崎衆の中から武田家への内通を画策する動きが発覚して粛清された事件)の記憶も影響したかもしれません。
いずれにしても、(家臣団を含む)徳川家内部の事情に起因しているのではないでしょうか。
安土に酒井忠次が派遣されたのは、信康の岳父で偏諱も受けている信長を憚り、信康の処分について事前に相談し、伺いを立てておくためだったものと思います。

家康は信長側近の堀秀政へ宛てた八月八日付の(信長への)披露状で、
「三郎不覚悟付而去四日岡崎を追出申候」
(徳川家康堀久太郎宛/信光明寺文書)
と報告しています。
「不覚悟付而」…信康の処断を決めたのがあくまでも家康自身だったことを、この一言が伺わせている気がしてなりません。

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2019年11月20日 (水)

かんざんじロープウェイ

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浜名湖パルパルの脇から、浜名湖上を大草山の展望台へと渡るかんざんじロープウェイ。
2台のロープウェイが交互に、10分間隔で運行されています。

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舘山寺(右下)や、浜名湖パルパルに姿を変えた堀江城跡を俯瞰。
堀江城は、岡崎城を追われた松平信康(家康嫡男)が一時、身柄を移された城でもあります。

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今や、すっかり有名になった井伊谷方面。

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左に浜名湖パルパル、右が大草山。
大草山の展望台はオルゴールミュージアム(有料)にもなっています。

日本で唯一、湖上を渡るかんざんじロープウェイ。
専用駐車場の料金に少々驚かされましたが(笑)、展望台からの眺めはまさしく絶景。
湖面を見下ろしながらの空中散歩も、結構楽しめます。

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2019年11月13日 (水)

明知城 …天正2年の明知城攻防③

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明知城縄張図
遠山三家(岩村・苗木・明知)の一つ明知遠山氏の居城で、元亀年間には織田方についていましたが、神箆城・小里城の記事でも触れた通り、天正2年(1574)、武田勝頼の軍勢に包囲されます。
急報を受けた織田信長は自ら後詰のために出陣しますが、城内から内通者(飯羽間右衛門尉)も出て間に合わず、明知城は武田方の手に落ちました。

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城域の東側、竪堀に設けられた散策路から城攻めをスタートします。

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1の曲輪の土塁。
「搦手砦」とありますが、搦手側にある曲輪、という理解でいいと思います(;^_^A

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1の曲輪にある貯水池。

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出丸

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右に二の丸、その奥の最高所が本丸跡。

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ニの丸から本丸の切岸。

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本丸

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本丸から3の畝堀群を見下ろす。

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本丸の先端から西の方角。
本丸と他の曲輪との高低差がまた凄いです。

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2の堀切

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その堀底から。

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3の畝堀
正面の土塁が大き過ぎて、私はこれを畝堀と理解するのに少し時間を要しました(;^_^A

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下草も刈られ、形状がよく見て取れます。

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そのまま4の畝堀群へ。
こちらもいい感じ。

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5の辺りから西へ続く畝。
3や4に比べると小規模ですが、こちらも整備されて見やすくなっていました。

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出丸下の切岸。
ほぼ垂直にそそり立っています。

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6に建つ万ヶ洞天神神社。
明智光秀幼少時の学問所とも伝えられているそうです。

天正2年、武田勝頼に攻められて落城した明知城。
しかし翌天正3年、長篠合戦で武田軍に勝利した信長は、織田信忠を総大将とする軍勢を東美濃に派遣して武田方に奪われていた諸城を次々と攻略し、この明知城や岩村城といった重要拠点も奪還しました。

今回の、天正2年の明知城をめぐる攻防戦めぐりはこれにて終了です。
次は長野県に入り、天正10年(1582)の甲州征伐、その信長の足跡を辿って中馬街道(伊那街道)を北上していきます。

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2019年11月12日 (火)

神箆城・小里城・他 …天正2年の明知城攻防②

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瑞浪市土岐町の八幡神社。

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この八幡神社は美濃源氏・土岐氏の祖ともされる土岐光衡が居館として築いた一日市場館跡で、美濃源氏発祥の地ともされています。

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光衡像(左)の横には明智光秀像も。
果たして、彼の出自の謎が解き明かされる日はくるのでしょうか・・・。

光衡は一日市場から北東へ3㎞ほどの神箆にも城(鶴ヶ城)を築き、ここを美濃国統治の拠点としました。

それでは我々も、その神箆城(鶴ヶ城)へ向かいます。

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神箆城(鶴ヶ城)麓の諏訪神社。
車はこちらに停めさせていただきました。

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城山遠景

二月五日、信長御父子御馬を出だされ、其の日は、みたけに御陣取り。次の日、高野に至りて御居陣。
(信長公記 巻七「明智の城いゝばさま謀叛の事」)

天正2年(1574)、現在の恵那市明智町にある明知城が武田勝頼の軍勢に包囲されたとの報を受けた織田信長は、2月5日に信忠を伴って岐阜を出陣します。
御嵩を経由して6日には、この神箆城(鶴ヶ城)に着陣しました。

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その縄張から、一般には鶴ヶ城と呼ばれていますが、「信長公記」には「高野(の城)」と表記されているので、当blogでも以降は「神箆(こうの)」で統一させていただきます。

ニ月十二日、三位中将信忠卿、御馬を出だされ、其の日は土田に御陣取り。十三日高野に御陣を懸けさせられ、十四日に岩村に至りて御着陣。
(信長公記 巻十五「木曾義政忠節の事」より)

三月八日、信長公、岐阜より犬山まで御成り。九日金山御泊り。十日高野御陣取り。十一日岩村に至りて、信長御着陣。
(信長公記 巻十五「信長公御乱入の事」)

また、神箆城には天正10年(1582)に甲州征伐へ向かう際にも、信忠は2月13日に、信長も3月10日に宿陣しています。

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登り始めてしばらくすると、木戸跡の立て札が。
この登城道に沿って築かれていたのか、それとも正面に見える土塁が切れた右側にあったのか・・・定かではありません。

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木戸跡を過ぎると早速、腰曲輪状の削平地や切岸が。

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西出丸

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西出丸からの眺め。眼下には神箆の里が広がります。
ちなみに「神箆」には「神の矢竹が自生する地」という意味があり、その昔、薬師如来が村の若者に悪霊退治を命じたという伝説に由来しているそうです。

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本丸下の切岸。
正面手前には井戸跡も。

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井戸
何故かは知りませんが、「葵の井戸」というのだそうです。

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東出丸

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本丸虎口

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本丸

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本丸の裏手(西側)に大きな堀切が見えていましたが、上からでは生い茂る木々に阻まれてよくわかりません。
しかし、急勾配の切岸を慎重に下りてみると・・・

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それは見事な堀切が、ザックリと大きな口を開けていました。

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反対側からも人尺付きでw

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最後に本丸からの眺めを。
正面に見える山間の谷間に道が伸びていますが、方角的には岩村城を向いています。
信長父子は天正10年の甲州征伐の際、それぞれ神箆城を出た後は岩村へ向かっています。もしかしたら、あの道を進んだのかも・・・なんて考えるのも、歴旅の醍醐味ですね。

信長による明知城後詰作戦はしかし、神箆城に入った翌天正2年2月6日、山間の難所続きで両軍共に身動きが取れないでいるうちに、明知城内で飯羽間右衛門尉の謀反が起き、呆気なく武田方の手に落ちて失敗に終わりました。

高野の城御普請仰せ付けられ、河尻与兵衛を定番として置かれ、おりの城、是れ又、御普請なされ、池田勝三郎を御番手にをかせられ、
二月廿四日、信長御父子、岐阜に御帰城。
(信長公記 巻七「明智の城いゝばさま謀叛の事」)

明知城を失った信長は神箆城に河尻秀隆、小里城には池田恒興を入れ、城の構えを強化して武田への備えとし、同月24日に岐阜へ帰陣しました。

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・・・という訳で、次は池田恒興に守らせた小里城へ。

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小里城縄張図
まずは山麓の御殿場跡を見てまわります。

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登り始めるとすぐに、いい雰囲気の石垣が。

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あちらにも。

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大手門跡の石垣

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小里氏御殿場跡碑

小里城は天文年間、土岐氏庶流の小里氏によって築城されたと考えられています。
小里氏は元亀年間頃には織田信長に従い、本能寺の変後は信孝に仕えたものの、天正11年(1583)の賤ケ岳合戦後に信孝が自害に追い込まれた後は、森長可に攻められて小里城を失い、徳川家康を頼りました。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦での功によって旧領を回復し、山麓に居館として構えたのがこの御殿場になります。
ところが、小里氏は元和9年(1623)に無嗣断絶の憂き目に遭い、小里城も廃城となりました。

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御殿場跡から登山道をひたすら登ること30分ほどで、ようやく山頂の曲輪群へ到達します。
まずは大手曲輪。

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大手曲輪からニノ曲輪を見上げる。
石垣も見えています。

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ニノ曲輪

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ニノ曲輪に残る石垣

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一ノ曲輪(本丸)の周囲にも石垣は残りますが、その殆どは崩落していました。

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しかし、天守台の石垣は見事でした。

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幾とせもの時代を超え、古色蒼然とした石垣は問答無用で格好いいですよね。

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天守台

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天守台に祀られていたお社。

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小里城天守台からの眺め。

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山深い頂に佇む無骨なその姿は、どこか神秘的でもあり、とても感動しました。

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御殿場跡まで下山した後は、東砦へ。

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東砦の尾根を少し登ると・・・

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堀切があります・・・薄いけど(;^_^A

織田信長が武田への備えとした神箆城、そして小里城。
長年の念願だったこともあって嬉しく、興奮で登山の疲れもすっかり忘れ・・・はしなかったけど(笑)

この後は天正2年2月6日、後詰が間に合わずに武田方に奪われた明知城へ。

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2019年11月11日 (月)

御嵩城 …天正2年の明知城攻防①

旅の2日目。

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朝7時に岐阜駅前を出発し、瑞浪市方面へ向かう途中で中山道の御嶽宿近くを通ったため・・・

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急遽、御嵩城(本陣山城)に寄り道。

正月廿七日、武田四郎勝頼、岩村口に相働き、明智の城取り巻くの由、注進侯。則ち、後詰として、
二月朔日、先陣、尾州・濃州両国の御人数を出ださる。
二月五日、信長御父子御馬を出だされ、其の日は、みたけに御陣取り。
(信長公記 巻七「明智の城いゝばさま謀叛の事」)

天正2年(1574)1月27日、武田勝頼が岩村口へ出陣して明知城(恵那市明智町)を包囲したとの知らせを受けた織田信長は2月5日、信忠を伴って岐阜を出陣して後詰に向かい、その日は御嵩に宿陣しています。

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御嵩城(本陣山城)縄張図
本陣山城は御嵩を拠点とし、本陣山の東にある権現山(金峯山)に城を構えていた小栗信濃守が、天文年間に新たに築城して拠点を移した城と伝えられています。
「御嵩城址」とは、この本陣山城と権現山城を合わせた呼称としているそうです。

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二ノ丸から本丸(展望施設のようなものが建っている箇所)方向。
間には堀切も。

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本丸から足元の物見跡。

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御嵩城(本陣山城)越しに、御嶽宿の町並みを見渡す。

御嵩に宿陣した信長らは、翌6日には瑞浪市土岐町の神箆城(鶴ヶ城)まで進んでいます。
という訳で、我々もいざ瑞浪市へ。

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2019年11月10日 (日)

黒野城

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黒野城本丸跡の案内板

織田・豊臣に仕え、甲府24万石を領した加藤光泰が朝鮮出兵の陣中で没すると、まだ幼かった子の貞泰は文禄3年(1594)7月、美野国黒野4万石へ移されました。
貞泰は黒野に城を築き、関ヶ原合戦(1600)では東軍について所領を安堵され黒野藩を立藩しますが、慶長10年(1610)に伯耆国米子へ移封となったため、黒野城は築城から僅か16年ほどでその歴史に幕を閉じました。
貞泰はその後、元和3年(1617)には伊予国大洲へ移っています。

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黒野城本丸、南東隅の外郭より。
本丸土塁には北西と南東の2ヶ所に張り出しを伴う櫓台櫓があり、横矢を掛けられるようになっていましたが、昭和期に造成された南面の土塁(写真左側)は南へ少し位置がずれてしまったため、現状ではその張り出しが失われています。

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南西端部分

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四方を囲む土塁上を一周します。
写真は西面の枡形部分の折れ。

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黒野城本丸跡を北西隅の土塁上から俯瞰。

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南東隅の櫓台

これだけ岐阜県に何度もお邪魔しておきながら、実は黒野城を訪れたのはこれが初めて。
夕暮れ迫る中、駆け足での城攻めとなりましたが、とても見応えのある遺構でした。

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夜は岐阜駅前にオープンしてまだ日の浅いSABARにて、恒例のギフナイト☆
さすがは織田信長ゆかりの岐阜。ロゴ?が織田木瓜・・・サバ(笑)

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2019年8月 5日 (月)

萩原諏訪城

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旅のラストに岐阜への帰路、下呂市萩原町の諏訪神社に立ち寄りました。
こちらは萩原諏訪城跡でもあります。

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萩原諏訪城跡図
この地には、1300年代には既に諏訪上社が勧請されていたようです。
萩原諏訪城は天正14年(1586)、飛騨を領有した金森氏が、諏訪神社を萩原町上村の大覚寺近くに移して築城しました。
元禄5年(1692)の金森氏の出羽移封に伴い、古川の増島城同様に一国一城令で「旅館」と称していた萩原諏訪城は廃城され、宝永6年(1709)になって再び諏訪神社がこの地に戻されました。

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諏訪神社境内の片隅で、末社を祀る櫓台跡。

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南東隅部分の石垣と堀跡。

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その南東隅から北西方向。

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北東隅の石垣。

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南西側の堀跡は、何故か石塁で堰き止められて箱型に。

おまけのように立ち寄っただけでしたが、なかなか見応えのある城跡でした。

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岐阜駅まで送ってもらった後は名古屋へ移動し、久しぶりに「住よし」のきしめんをいただいてから帰路につきました。
初日の天気はともかくとして、今回も念願だった二王清綱の拝観が叶い、知らなかった歴史もたくさん学べて有意義な旅になりました。

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2019年8月 4日 (日)

東町城、他

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江馬氏館の後は、同じく神岡町の東町城跡へ。

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東町城は16世紀後半、甲斐武田家の飛騨・越中攻略の拠点として、山県昌景が江馬氏に築城させたものと伝わります。
武田勢が引き上げた後は江馬氏の家臣・河上氏(河上家は現在も続き、江馬輝盛の肖像画を守り伝えています)が入城し、江馬氏滅亡の後は金森氏の支配するところとなりました。
元和の一国一城令で廃城となっています。

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高原川の河岸段丘の縁という立地で、現在では模擬天守が建って「神岡城」とも呼ばれていますが、空堀や石垣の一部は実際に残っていた遺構なのだそうです。

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模擬天守最上階からは日本一の立達磨が見えるというので、備え付けられていた双眼鏡にスマホのレンズを合わせて撮影してみた1枚・・・(;^_^A
銅製の達磨像で、本体の高さ9m、重量は8tあるそうです。

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同じく模擬天守から城下の眺め。
奥に鉱山らしき山も見えています。
神岡といえば鉱山の町。模擬天守横には鉱山資料館も併設されています。

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旧松葉家
こちらも城内に移築保存されている、明治元年築の古民家です。

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内部もサクッと見学させていただきました。

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お昼はこちらのお店で・・・

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奥飛騨ラーメンに舌鼓♪

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道の駅スカイドーム神岡に併設されたカミオカラボにもお立ち寄り。

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世界最大の地下ニュートリノ観測装置であるスーパーカミオカンデについて、簡単に学びました。

ここらで神岡にも別れを告げて岐阜方面へ引き上げますが、今回は行けなかった高原諏訪城にも登ってみたいし、いずれまた再訪したいと思います。

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2019年8月 3日 (土)

江馬氏館

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飛騨市神岡町殿(トノ)にある江馬氏館跡
16世紀後半まで、神岡町を含む飛騨国高原郷を領した江馬氏の平時の居館跡です。

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江馬氏館跡図
発掘調査の成果に基づき、会所や土塀、庭園(池)、空堀などが復元されています。

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北堀

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館の正面にあたる西堀。
こちらは薬研堀になっていたそうです。

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門前区画
こちらでも建物跡が検出しており、宿直屋や馬屋(厩)が建っていたものと考えられています。

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南堀
発掘の結果、新旧2つの堀跡が検出しており、一部掘り直されていたことが判明しています。

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会所
復元された建物はこの会所のみですが・・・

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それ以外の建物跡には板を張り、その位置を示しています。
写真左から台所・対屋で、写真には写っていませんが、更に右には江馬氏の居住空間である常御殿が建っていました。

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館の背後(南東)の尾根上には、前の記事で江馬輝盛のお墓をご紹介した際に少し触れた主城、高原諏訪城も。
※尾根上、少し木の根元が透けている辺りが主郭。

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庭園の池跡
発掘調査前、この地が田んぼだった頃から地表面に大きな石が5つ覗いており、地元では「江馬の殿様の庭石」と言い伝えられていたそうです。
昭和51年、神岡鉱山の公害による土壌汚染の影響で土地改良工事に着手することとなり、それに先立つ調査で実際に池などの庭園跡が検出し、平成6年に本格的な調査が再開されて整備されるようになりました。
実際に調査してみると、池や築山の庭石はかなりの部分で旧態を留めていたそうで、倒れたりしていたものは根石等の状況を確認した上で庭石との合わせを考慮して復元されています。
更に耕作によって撤去されたり、畦を固めるために転用されたりしていたものは景観を考慮して配置し、不足分は追加で購入して復元されました。

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ボランティア?の方のお話も端的でわかりやすく、結構勉強になりました。

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2019年8月 2日 (金)

高山の町並み、江馬輝盛墓、増島城

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飛騨高山で迎える2日目の朝。
まずは宮川朝市でお土産の物色から・・・。

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古い町並みも散策♪

朝の高山散策を終えた後は、車で北上して古川方面へ。
まずは高山市国府町八日町にある・・・

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江馬輝盛の墓所へ。

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江馬氏は飛騨北部、高原郷(神岡町など)に勢力を張った一族。
天正10年(1582)6月の本能寺の変で織田信長が斃れると、時の江馬氏16代当主・輝盛は飛騨の支配を賭け、織田家に接近していた三木氏(飛騨国司姉小路氏の名跡を奪取)らとの対決に踏み切ります。
同年10月に大坂峠を越えて南進し、三木方の小島氏(姉小路一族)の領域へ侵攻しました。迎撃に出た三木勢と、この八日町で荒城川を挟んで対峙して決戦に及びますが敗れ、輝盛は戦死を遂げます。(八日町合戦
八日町での敗戦~輝盛の戦死で江馬勢は崩れ、本拠の高原諏訪城も落とされて江馬氏は事実上滅亡しました。
※大坂峠では輝盛の家臣13名も輝盛の後を追って自害していますが、後に土地の人々が彼らの墓を建てて供養したため、いつしか大坂峠は「十三墓峠」とも呼ばれるようになったそうです。

この後、三木氏は一旦は飛騨を統一しますが、やがて豊臣秀吉の命を受けた金森長近の攻撃を受けて敗れ、飛騨国は豊臣政権によって平定されました。

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輝盛の墓標脇には、「切腹石」と呼ばれる大きな岩が。
輝盛の子と推定される時政は父の死後、金森長近を頼ったものの、後に所領問題から反旗を翻して粛清されたとも云われています。
この切腹石は、その時政が腰を掛けて腹を切ったものと伝えられているようです。

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江馬輝盛墓所付近から、三木勢が陣取った南方の眺め。この谷間を縫うように、荒城川が東西に流れています。
※眼下の小川は荒城川ではありません。

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続いて飛騨市古川町の増島城へ。
増島城は本城の高山城と共に、飛騨を平定した金森氏の拠点として築城されました。
石垣の高さは8mを超え、飛騨では最大級の規模を誇ります。
元和の一国一城令で古川旅館(公用宿所)と改称し、金森氏の出羽移封で飛騨が天領となり、増島城も役目を終えました。

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ところで、飛騨古川は映画「君の名は。」の舞台にもなっているようで、写真の気多若宮神社がモデルではないかとされる神社も登場しているそうですね。

この後は更に北上し、鉱山でも有名な飛騨市神岡町へ向かいます。

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