カテゴリー「お城、史跡巡り 東海」の70件の記事

2019年2月 2日 (土)

旧東海道歩き…六合~藤枝

旅のラストは六合駅から旧東海道を東へ、藤枝までの一駅間を歩いてみました。

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六合駅から県道381号を東へ進むと、すぐに島田市から藤枝市へ入ります。
この先の「一里山」交差点で、旧街道は右へ逸れていきます。

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目印は、道路脇に残る旧東海道の松並木。

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こうして松並木が残っていてくれると、旧街道を歩いている実感が湧いていいですね。

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逆光で酷い写真になっちゃったけど・・・上青島一里塚跡。

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この先は道幅が狭くなり、車の通りも多いので注意が必要です。

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染飯茶屋址の碑

瀬戸川こさせられ、せ戸の染飯とて、皆道に人の知る所あり。
(信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」より)

この前日に歩いた金谷から掛川までの旧東海道の記事でも触れましたが、織田信長は甲府からの帰路、天正10年(1582)4月15日、未明に藤枝市の田中を出発してこの付近も通過しているのです。

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瀬戸の染飯はこの上青島村瀬戸町(現藤枝市上青島付近)にあった茶屋で、戦国期から売られてきた東海道の名物の一つです。
包装紙の版木は、茶屋の御当主の一子相伝なのだそうです。

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また、この地には千貫堤と呼ばれる大きな堤防が築かれていました。
千貫堤は寛永12年(1635)、大井川の洪水から田中藩領を守るため、千貫もの大金を投じて築かれました。高さ3.6m、幅29m、総延長は約360mもありましたが、現在はそのごく一部を残すのみとなっています。

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近くの千貫堤・瀬戸染飯伝承館では、染飯の染料となるクチナシの実を乾燥させていました。
染飯の版木のレプリカなども展示されています。

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伝承館の北側に、僅かに残る千貫堤の痕跡。
染飯茶屋の御子孫は、現在もこの地にお住まいなのだそうです。

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再び旧東海道へ戻ります。

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東海道追分の碑
中世の頃までこの付近には湿地が多く、東から西へ進む古道は藤枝の先から大きく南へ迂回して、この石碑の建つ辺りへ繋がっていました。
近世東海道が通った後も古道は残り、いつしか2つの道の交錯点を追分と呼ぶようになったそうです。

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また、更に西へ進む中世までの古東海道は「瀬戸の山越え」と呼ばれ、瀬戸山(昭和30年代、東京オリンピックに向けた高速道路建設等の開発のために消滅)の上を通っていました。
道の歴史も辿っていくと、いろいろと奥が深いですね。

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今回はほぼ舗装路の上を歩くだけの旅となりましたが、様々な歴史に触れることができて楽しめました。
こうして少しずつ東海道をめぐり、いずれは京都までを1本に繋げてみたい、などと野望を抱いたりして・・・!?

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2019年2月 1日 (金)

掛川古城

掛川で迎える旅の2日目。
まずはホテルを出てぶらぶらと散策し、近世掛川城の脇を抜けて掛川古城へ向かいました。

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掛川古城の主郭には龍華院大猷院霊屋が建っています。
明暦2年(1656)、掛川藩主・北条氏重が幕府に願い出て、徳川家光を祀るために建立しました。
一説には、嗣子のない氏重による無嗣断絶を回避するための打開策だったともされますが、万治元年(1657)に氏重が没すると領地は没収され、断絶となってしまいます。

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主郭東面に残る土塁。
掛川古城は西暦1500年前後、今川氏親の命を受けた朝比奈泰熈により、遠江支配の拠点として築かれました。
1513年には早くも、現在の掛川城跡の位置に新たに築城して移っていますが、1568年に武田軍に駿府を追われた今川氏真がその掛川城へ逃げ込むと、今度は徳川家康が掛川城を包囲します。
その際、家康はこの掛川古城跡に本陣を置いたとも云われています。

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土塁の先に見えている堀切。

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掛川古城の大堀切。

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掛川古城と、近世掛川城との距離感。

さて、この後は電車で少々移動します。

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2018年11月29日 (木)

一色山城、大留城、新居城

小牧山城の現説の後は、瀬戸市曽野町の一色山城跡へ。
「定光寺ほたるの里」入口から県道207号を北へ約400m、道路脇の斜面を登り、少し開けた尾根筋を南へしばらく進むと・・・

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切り立った切岸に行き当たります。
ここから先、尾根に沿って南へ城域が続くようです。

一色山城の築城時期は定かではありませんが、この城には興味深いエピソードが残されています。
天文3年(1534/織田信長の生年でもある)、一色山城主・磯村左近は感応寺(同市水北町)で住職と碁を打っていたところ、留守の城を品野(秋葉)城の松平家重、落合城の戸田家光らに攻められます。
ところが左近は、敵襲来の報を受けても泰然と碁を打ち続け、対局が終わってから戦場へ駆けつけて討死したとか。
「磯村左近」は織田信長にも仕えたとされますが、前述のように年代が合わないので、信長の家臣となったのは戦死した一色山城主の子息、ということになるのでしょうか。

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切岸上の曲輪跡。
こうした曲輪が3つほど縦に連なる城跡です。

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堀切
写真左端には土橋(少し崩れていました)があります。

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堀切の底から土橋。
他に虎口らしき窪みや櫓台のような土盛り、西側には腰曲輪もありましたが、兵を100人も入れたら満杯になりそうな程の、とても小さな城跡でした。


お次は春日井市大留の大留城跡。
天正12年(1584)の小牧長久手合戦の際、秀吉方の池田恒興が入って軍議を開いたとされています。
その翌日に恒興は戦死するのですが、大留城主・村瀬作左衛門も討死し、大留城は廃城になったと云います。

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現在は子安神明社になっており、境内には城址碑が建っていました。
本殿裏手に空堀の跡が残る、との情報があったので覗いてみたのですが・・・

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神明社周辺は急速に開発が進んでいるようで、付近の造成の影響ですっかり改変されていました。

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旅のラストは尾張旭市の新居城跡。
本丸や二の丸を二重の土塁が囲むお城だったようです。

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本丸を囲む一重目の土塁。
公園化されている割には、そこそこ良好な残存状況に思えました。

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一段下って二重目の土塁(右の小さな盛り上がり)と、左に先ほどの一重目の土塁。
従って、この2つの土塁に挟まれた園路部分は横堀、ということになるでしょうか。

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新居城跡には「旭城」という天守閣風の建物が建っていますが、本来のお城とは関係のない建造物です。

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今回の旅も、同行のフォロワーさんたちのお陰で満喫しました。
次は・・・どこへ出没しましょうか?

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2018年11月27日 (火)

三方原古戦場めぐり

11月17日(土)は三方原古戦場めぐり。
元亀3年12月22日に勃発した三方原の戦い・・・日本史上でも有名な合戦であるにもかかわらず、その経過や詳細については諸説あり、多くの謎が残されています。
私自身も理解と整理が追い付いていないので、今回は合戦の詳細には立ち入らず、「通説」などを元に、訪れた場所を淡々と綴っていくことにします。

同行者たちと浜松城の駐車場で集合した後、まずは三方原台地の縁沿いに北上して欠下城跡へ向かいました。

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欠下城跡(大菩薩)
合戦当日、二俣街道を南進してきた武田軍は欠下から三方原台地へ上がり、大菩薩(欠下城か)で陣容を整えたと云います。
主要な曲輪部分は東名高速に分断され、それ以外にも後世の手が入って遺構は全く残っていませんが・・・

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南側の雑木林の中には、堀切らしき痕跡が綺麗に残っていました。

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東へ向かって真っ直ぐに伸び、そのまま台地の縁へ落ちていたようです。

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堀底から見る土橋

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土橋の先、東の斜面にはうっすらと畝状竪堀に“見えなくもない”形状が認められましたが・・・単なる崩れでしょうかね。
更には・・・

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細い土塁のようなものが真っ直ぐ、南西方向へ向かって伸びていました。
土塁の左側は台地の縁の斜面で、右は明らかに人工的に掘り落とされており、とても細い尾根筋のようになっています。
この土塁、とある工場の敷地まで続いていましたが、その先には大菩薩坂があります。それを踏まえ、この土塁を大菩薩坂から欠下城へのルートとなる城道か?とも考えたのですが・・・地元の伝承によると「大菩薩坂には近代まで、道らしい道は存在していなかった」とされているようなので、そうなると土塁=城へのルート説も成り立たず・・・謎の遺構でした。

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欠下城跡の南に位置する、件の大菩薩坂。
武田軍が台地へ上がったルートをこの大菩薩坂とする説もありますが、当時道らしき道がなかったとすると、少なくとも本隊はやはり、古くからのルートとされる欠下坂を登ったものと思われます。

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欠下城跡から見る、欠下坂方向の眺め。
中央奥の白い大きな建物の辺りに欠下坂はあります。早速移動して・・・

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欠下坂の旧道。
欠下城からは少し北寄りになります。

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三方原の台地上をゆく、欠下坂からの旧道。

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旧道をしばらく進むと、信玄街道の標柱が建っています。
大菩薩(欠下城)で陣容を整えた武田軍は、再びこの旧道を進み、途中で針路を北へと変えて根洗松~祝田坂の方角へ向かったものと思われます。

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三方原墓園の駐車場脇に立つ三方原古戦場碑。
ここからは徒歩で根洗松~祝田坂を目指します。

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根洗松
合戦の折、信玄がこの辺りに本陣を布いたとの説もあります。

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祝田坂への旧道

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祝田坂への旧道は、根洗松で国道257号と分離します。

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そのまま旧道を進み、台地の縁(奥の林の辺り)が見えてくるといよいよ・・・

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祝田の旧坂に到着です。
一説に家康は、武田軍がこの坂を下る背後から襲い掛かろうとしたものの、それを察知した信玄が軍勢を反転させて迎撃した、とも云われる地です。
根洗松を信玄本陣とすると、一応は辻褄の合う位置関係になります。

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旧道の雰囲気満点な坂を下る。
今回、三方原合戦関連地を訪れるにあたり、個人的に最も楽しみにしていたポイント・・・実際に歩くことができ、ちょっと感激。

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なかなかの狭隘な坂道で、2万をも超える武田の軍勢が下り切るには、相当な時間を要したものと思います。

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祝田の旧坂を下った先に鎮座する蜂前神社
ご存じ、井伊直虎の唯一現存する花押入り書状(井伊直虎関口氏経連署状)を所蔵する神社です。
(浜松市博物館にて保管)

さて、お次は三方原での戦勝後、武田軍が駐屯して越年した刑部方面へと向かいます。

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武田軍の駐屯地の一つ、油田地区の丘陵上・・・ひどい逆光。
付近には堀切跡と思われる痕跡もありましたが、逆光でまともに撮影もできませんでした・・・。

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刑部城
先ほどの油田の丘陵から北東へ、尾根を下った先端部分になります。
写真手前の平坦地には「館跡」の案内板も建っていましたが・・・?

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刑部城の堀切

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堀切を見下ろす。
同行者が見上げている先に主郭がありますが、さすがに藪が酷かったので立ち入りませんでした。

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最後は刑部城跡から1㎞少々南東へ向かった先に建つ、刑部砦の史蹟碑
背面には甲陽軍鑑からの引用と思われますが、武田軍が刑部に駐屯することになった経緯などが漢文で彫られていました。

武田軍は2万以上もの兵力を有していましたので、こうした陣場や城、砦に分宿していたのではないかと思われます。

さて、これにて今回の三方原古戦場めぐりは終了です。
浜松城へ敗走する家康にまつわる伝承にちなんだ「小豆餅」や「銭取」、 犀ヶ崖古戦場、夏目吉信や平手汎秀の戦死地など、他にもめぐってみたい地はありますが、それはまた次の機会に。

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同行のフォロワーさんに頂いた小豆餅。

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合戦に敗れた家康が、辛うじて逃げ帰った浜松城の天守。
ちょうど同じような時分なので、ちょっと雰囲気が出ていましたね。

夜は浜松駅前で懇親会。楽しく盛り上がりました。

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2018年8月22日 (水)

揖斐 旗本岡田家、横倉喜三次ゆかりの地

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揖斐陣屋跡の碑
慶長5年(1600)の関ケ原合戦の後、揖斐は西尾光教の領地となります。
光教は山上の旧揖斐城の麓に新たな城を築き、揖斐藩3万石の拠点としますが、1623年に2代嘉教が亡くなると揖斐藩は無嗣断絶となり、揖斐は天領となりました。
寛永8年(1631)、美濃郡代を務める旗本岡田氏が代官として着任し、揖斐城を改修して陣屋としました。

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三輪神社
中嶋流砲術の額が奉納されているのですが、そこには岡田家の武術指南役を務めた横倉喜三次も一番に名を連ねています。
岡田家は慶応4年(1868)、戊辰戦争に於いて新政府に恭順して東山道軍に兵を派遣しますが、喜三次はその岡田隊の副隊長として従軍しています。その過程で下諏訪では赤報隊の相楽総三の、板橋では新選組近藤勇の太刀取りを務めました。

ダメ元で拝観をお願いしてみようと思っていましたが、この日は何故か社務所も不在で叶いませんでした。

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三輪神社横に建つ三霊神社
岡田家の初代善同、2代善政、8代善明の3人を祀ります。

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三輪神社拝殿

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三輪神社の向かい、横倉喜三次が開いた道場忠信館跡。

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三輪神社の隣り、松林寺
長禄2年(1458)の創建と伝わります。
慶長年間には揖斐藩主西尾家の菩提寺として再興され、岡田家2代善政も自らの菩提寺としています。
横倉喜三次もこの寺で、近藤勇らの供養をしていたとか。

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先の小倉山城の記事でも書きましたが、善政は無嗣断絶となった上有知藩の後処理にあたった際、小倉山城にあった金森長近の名が入った梵鐘を松林寺に持ち帰っています。

奉鋳鐘
濃州武芸郡小倉庄館置之
慶長十乙巳季九月十三日金森兵部卿法印素玄

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松林寺には岡田家歴代の供養塔(写真)や、その横には9代善功(雪台/松林寺住職も務める)の墓碑もあり、

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更には、初代揖斐藩主・西尾光教夫妻らの墓所もありました。

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松林寺の近くには「弁慶の腕だめし石」なるものがあり、大きな手形もついていましたが、これは9代善功が松江藩主・松平不昧の養子を経て岡田家に養子入りしていることから、松江藩のお抱え力士であった雷電為右衛門の手形ではないか、とも云われているそうです。

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ひょんなことから立ち寄った長源寺。

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長源寺の本堂には、古く朽ち果てた駕籠が吊るされていました。

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大興寺

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大興寺境内

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大興寺にて、横倉喜三次の墓所にもお参りさせていただきました。

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大興寺には本郷城の項でご紹介した土岐頼忠の兄で、同じく美濃守護頼康の弟、土岐頼雄のお墓もありました。
頼雄は揖斐頼雄とも称しています。

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2018年8月21日 (火)

道三塚や稲葉一鉄ゆかりの地など

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旅の3日目、最終日は道三塚からスタートです。

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弘治2年(1556)の長良川の戦いで息子の義龍に敗れ、あえなく戦死を遂げた斎藤道三
彼の遺骸は崇福寺の南西、長良川の河畔に埋葬されましたが、度重なる洪水で塚は幾度となく流されてしまいました。

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現在のもの(崇福寺の北西)は天保8年(1837)、斎藤家の菩提寺・常在寺住職の手によって建碑され、供養されてきたものです。

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続いて本巣郡北方町の北方城跡へ。
西美濃三人衆の一人、安藤(安東/伊賀氏)守就の居城として知られます。
守就は土岐・斎藤・織田と仕えますが、天正8年(1580)、織田信長から追放処分を受けて北方城も召し上げられました。
しかし、その信長が本能寺の変(天正10年)で斃れると旧領奪還を目論んで挙兵し北方城に拠りますが、最後は斉藤氏に攻められて討死しました。
北方城跡の近くには、守就戦死の地もあります。

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碑の建つ一角は、本丸のごく一部と考えられています。
周囲には堀の痕跡と思われる用水路なども残っているようですが、今回は先を急ぐのでこの辺で。

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揖斐郡池田町本郷の本郷城跡

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築城時期や築城者はハッキリしていませんが、後に美濃国守護となる土岐頼忠や、その子の頼益が在城していた時期もあるようです。

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それ以降は国枝氏の居城となりますが、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで岐阜城主・織田秀信に従って西軍に属したため、城は東軍によって焼き払われて廃城となりました。

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今でも主郭北西隅の土塁と櫓台が僅かに残ります。

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櫓台に残る石垣の隅石。

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なお、西美濃三人衆の一人、稲葉一鉄(良通)もこの本郷城で生を受けています。

本当はこの後、揖斐川町の旗本岡田氏や横倉喜三次関連の史跡をめぐったのですが、記事の構成上、そのレポは次に回して先へ進めます。

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揖斐郡揖斐川町清水の清水城跡
稲葉一鉄が天正年間に築城したと伝わります。

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一鉄の菩提寺、月桂院

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月桂院本堂では、稲葉一鉄の御位牌や肖像画、書状類などを拝観させていただきました。
※その中に、飯沼勘平に宛てた織田信長のものらしき感状や書状もありました。
感状は元亀二年付。飯沼勘平は「信長公記」にも度々その名が登場します(1600年の米野・岐阜城外での戦いで討死した飯沼父子は、その子と孫)が、信長の花押や署名の筆跡など、少々腑に落ちない点もあるので詳細は省きます。

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稲葉一鉄の陣鐘
清水城内で陣鐘として用いられていた梵鐘。領民が揖斐川から拾い上げ、一鉄に献上したものと伝わります。
元応二年(1320)の銘があり、岐阜県下では2番目に古い梵鐘になるそうです。

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稲葉神社

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稲葉一鉄の墓所
右に貞通(一鉄嫡子)室、一鉄室、貞通後室(織田信長妹、或いは姉とも)のお墓も並んでいました。

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2018年8月20日 (月)

郡上八幡の徹夜おどり(郡上おどり)

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郡上八幡に到着後、まずはお城を散策。

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ご存知、魚の形をした城下町。

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日本三大盆踊りの一つにも数えられる郡上おどりは、7月中旬~9月上旬まで続きますが、中でもクライマックスの徹夜おどりは、我々が訪れた8月13日から16日までの4日間のみ開催されます。

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徹夜おどりの開幕は午後8時。
それまでの間は、会場となる城下町を散策したり・・・

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予め予約しておいていただいたお店で、美味しい夕食に舌鼓を打ちながら過ごしました。

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郡上おどりは下駄で踊るのが一般的なのだとか。
同行者たちもお店で買い揃えていました。

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郡上八幡に魅了された「ちびまる子ちゃん」の作者、さくらももこが生み出したイメージキャラクター「GJ8マン」(笑)

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おや?ご本人(違)まで登場~♪

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そうこうしているうちに、いよいよ徹夜おどりが始まります!

・・・ところがね、日も暮れて気温も然程高くはなかったのに、群がる群衆の熱気にすっかりやられた私は一人汗が止まらず、おどりが開始される頃には既に体力の限界。
頭痛もひどくなり、このままでは迷惑をかけるとおどりに参加することなく、人だかりから離れて涼むことにしました・・・。

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それでも折角連れてきて貰ったので、おどりの様子をちょっとだけご紹介。

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開始直後までしか会場にいなかったので正確なところはわかりませんが、おどり手は一直線の通りを囲むようにして並び、細長い輪を回るようにして進みながら踊っていました。
写真はその折り返し地点。

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一人喧騒から離れて眺めた、夜の郡上八幡城。
こんな体たらくなのでろくな記事にもなりませんが、同行者たちはとっても満喫していたようなので、興味ある方は是非来年以降、参加してみてください。

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2018年8月19日 (日)

弥勒寺官衙遺跡群、小倉山城、他

夏の岐阜旅2日目(といっても初日は岐阜旅ではなかったけどw)
この日は徹夜おどり参加のため、最終的には郡上八幡へ向かいますが、それまでの時間は関市や美濃市の史跡をめぐりました。
まずはじめは・・・

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関市池尻の弥勒寺官衙遺跡群へ。
奥に見えるのは現在の弥勒寺です。

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ここは、「古事記」や「日本書紀」にその名が見える古代豪族ムゲツ氏(牟義都/牟下津)の本拠地。
壬申の乱(672)で大海人皇子の勝利に功績のあったムゲツ氏は、長良川河畔のこの地に氏寺となる弥勒寺を建立し、武儀郡を治める役所(官衙)を整備しました。
その栄華は平安時代の中頃(10世紀前半)まで続いたと云います。

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手前に正倉院跡、奥に郡庁跡。

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こちらは弥勒寺跡。
中門を通って東に塔、西に金堂、正面奥に講堂が配されていました。

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塔跡

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講堂跡

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講堂跡の背後にも、何かしらの造成の跡が窺えました。

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その講堂背後の山へ少し入った場所に、円空のお墓があります。
江戸時代前期に数多の仏像を生み出し、仏師としても各地にその作品を残す活躍をした円空は元禄2年(1689)、この地に弥勒寺を再興しています。

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円空が再興した現在の弥勒寺。
数多くの円空仏を有していましたが、残念ながら大正期の火災でその殆どを焼失しました。

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本堂では現代(平成)に、「円空彫り」と呼ばれる技法・様式で彫られた仏像が数多く展示されていました。

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円空入定塚
弥勒寺を再興した円空は元禄8年(1695)、自らの死期を悟ると「この藤の花が咲く間は、この土中に生きていると思ってほしい」と言い残して入定したと伝えられています。
藤の季節にはさぞ、綺麗な花を咲かせるのでしょうね。

この後は美濃市へ移動して・・・

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小倉山城跡へ。

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関ヶ原合戦(慶長5年/1600)の後、上有知(こうずち/美濃市)を加増された金森長近は、本拠の飛騨高山を養子の可重に譲り、上有知にそれまで存在した鉈尾山城を廃して尾崎丸山に自らの隠居城として新たな城を築き、城山の名も「小倉山」に改めました。
これは風流を愛でた長近が、京嵯峨野の名勝・小倉山にちなんだものとも云われています。

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山頂の展望台

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眼下に長良川を収める、展望台からの眺め。

小倉山城はその後、可重から長近の実子・長光に上有知2万石が分知されて上有知藩が立藩されますが、長光が実子ないままに亡くなったために改易され、廃城の運命を辿りました。

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鐘櫓跡
小倉山城には城下へ刻を知らせる梵鐘が置かれていましたが、後に上有知藩改易の処理にあたった美濃郡代・岡田将監善政が、揖斐郡(揖斐川町)の松林寺に持ち帰っています。

奉鋳鐘
濃州武芸郡小倉庄館置之
慶長十乙巳季九月十三日金森兵部卿法印素玄


鐘には長近の名も刻まれていました。
この翌日には揖斐にも足を運び、松林寺を訪れてみました。

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続いて城下の、うだつの上がる町並みを散策します。

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とても風情があっていいのですが、とにかく暑かった・・・。

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お昼を食べられる店を探して歩き回りましたが、どこも満席で諦めました。

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同じく城山の麓に位置する清泰寺
上有知に入って小倉山城を築いた金森長近は、鉈尾山城主・佐藤氏の菩提寺であった以安寺を改め、清泰寺を創建しました。

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長近を祀る寺内社、金森大権現。

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清泰寺本堂

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向かって右から左へ鉈尾山城主・佐藤清信、同秀方、小倉山城主・金森長光の墓所。

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長光の死後、上有知は天領となり、西尾氏が代官として入ります。
その西尾氏4代(正房・正重・正永・正利)の墓所。

この後は道の駅で昼食休憩を挟み、郡上八幡へ向かいました。

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2018年8月18日 (土)

篠島の歴史探訪

ほぼ毎年の恒例となりつつある夏の岐阜旅。今回のメインは、2日目に訪れる郡上八幡の徹夜おどり。
2泊3日の日程で岐阜駅前に宿を押さえ、初日は名古屋駅前で旅の仲間と合流しましたが、この日の行程は同行者に完全お任せなミステリーツアーとなりました。

行先を全く告げられることなく、車のシートに身を委ねること2時間弱。
辿り着いた先は知多半島の最南端、師崎港。そこから高速船に乗って10分ほどで・・・

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とある離島に上陸!

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初日のミステリーツアー、その目的地は知多・渥美両半島先端部の中間に浮かぶ篠島でした。
上陸した港の前に建つ島の駅でレンタサイクルを利用し、自転車で篠島の歴史を観てまわります。

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・・・が、上陸した時刻がちょうどお昼時でしたので、まずは腹ごしらえ(笑)
しらす丼に豪華なお刺身の盛り合わせ♪マゴチの尾頭付きなんて、初めて食べたな。

さて、海の幸を堪能したところで、いよいよ歴史探検をスタートします。

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まずは島のほぼ中央に位置する帝井
延元3年(1338)、後醍醐天皇の皇子・義良親王(後の後村上天皇)は奥州東征に向かう途中、暴風雨に遭って篠島に漂着し、しばらく島に滞在されました。
帝井の名は親王の滞在中、その飲料水として供されたことに由来しているそうです(一説には、親王自らの指示で掘ったとも)。
井戸の岩畳は、かつての遺構をそのままに留めているのだとか。今も満々と水を湛え、金魚が気持ち良さそうに泳いでいました。

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猛暑に加えて篠島は坂が多く、細い路地が複雑に入り組んだ場所も多かったので、自転車での移動には結構難儀しました。

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旅情をそそられる風情ある路地も、自転車での通行には注意を要します。

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滝のような大汗を流しながら登った高台からの眺め・・・。
この頃、名古屋などではスコールのような大雨になっていたそうですが、然程離れてもいない篠島はご覧のような快晴。青空に映えて海も綺麗でした。

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島の南方、篠島小中学校の敷地裏へまわり、樹木が生い茂る山道を5分ほども進むと・・・

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美しい海岸に抜けました。

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篠島や周辺の島々には、名古屋城の石垣に用いられた石材の石切り場があったようで、篠島でも至る箇所でその痕跡が確認されているそうです。
この海岸もその一つ。写真奥に、石を切り出すためにつけられた矢穴がびっしりと残る岩場も見えています。

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清正の枕石
名古屋城築城はいわゆる「天下普請」。全国の大名が駆り出されましたが、加藤清正も石の切り出しのために来島していたようです。
こちらはその折、彼が運び残したものと伝わる巨石。

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枕石の上でポーズをとってみた(・ω・)
え?・・・名古屋城にある清正の銅像の、あのポーズ(※後方から)ですよ。

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この岩も運び残しでしょうね。
大人の拳がスッポリと入るくらい、大きな矢穴でした。

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石垣とは関係ありませんが、面白いものを見つけました。
長い年月を経て硬い岩を砂の堆積による砂岩が覆い、それが風化や波によって柔らかい部分だけが削られた痕でしょうね。

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篠島の石切り場。
こんな離島の片隅で名古屋城築城という、400年以上も前の著名な歴史の“裏側”を直に感じることができ、感動的ですらありました。

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再び島の中央部に戻って、八王子社(男宮)に、、、

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神明神社(女宮)

八王子社は700年以上、神明神社に至っては1200年以上もの長い歴史を誇ります。
毎年正月三日に、八王子社の神が神明神社の元へお渡りになるそうで、島民はそのお渡りを待って三日になってから、神明神社へ初詣に出かけるのが古来からの島の習わしなのだとか。
お渡りになった神は、翌四日には再び八王子社へお帰りになるのだそうです。

篠島は元々は伊勢国に属し(現在は愛知県)、伊勢神宮との結びつきも強かったようです。
神明神社は20年に一度、伊勢神宮の遷宮の折に下賜される内宮の東宝殿、或いは西宝殿の古材を用いて遷宮が行われてきました。
東宝殿や西宝殿は内宮の御垣内に囲まれ、御正宮の後方に位置しているので、伊勢神宮にある間は直接拝観することは叶いませんので、20年を経て篠島で初めて一般の人々にもお披露目される、ということにもなります。
そして、神明神社の古材は八王子社の社として移され、八王子社の古材は更に島内に点在する小さな社に用いられていきます。
こうして、20年毎という伊勢神宮の遷宮に合わせたサイクルで循環し、伊勢神宮から下賜された古材はその後、島内で更に60年も用いられていくことになるのです。

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島の東端部、松寿寺。
寺の裏山が、義良親王も滞在した篠島城跡になります。

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寺から頂上までは、ほんの5分ほどで到達します。

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先ほどの「城山」の碑の背後には切岸と、腰曲輪のような小さな平坦地もありました。

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篠島城主郭部
親王がここに滞在されたのは、どれほどの期間だったのでしょうか。

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下山後、港へ向かうために城山を迂回していると、その麓に何やら説明書きが設置されていたので立ち止まってみました。

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皇子が膝
義良親王の滞在中、島の漁師たちは入出船の度にこの場所で跪き、頭上の篠島城を行在所としていた親王を拝していたのだと云います。

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島の駅SHINOJIMA前にも、名古屋城の石垣用に切り出された岩が展示されていました。

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さて、暑さですっかりバテバテとなりましたが、なんとか乗り切って篠島探訪は無事に終了~師崎へ戻ります。

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師崎に戻って羽豆神社へ。

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羽豆神社の建つ知多半島最南端に位置する羽豆岬一帯の森林は、ウバメガシなどを主とした暖地性常緑樹林で、「羽豆の社叢」として国の天然記念物にも指定されています。

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羽豆神社の高台にはかつて、羽豆崎城が築かれていました。

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羽豆神社
やはり1200年以上もの歴史があり、西暦1300年代に羽豆崎城を築いた熱田大宮司摂津守親昌(千秋氏)の猶子・昌能によって再興されています。
江戸期には、尾張徳川家歴代の参詣も受けているようです。

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神社境内に安置されていた矢穴石。
加藤清正が航海の安全を祈り、篠島で切り出した石を奉納したものと伝わります。

羽豆神社の祭神である建稲種命は、妻の玉姫と師崎に住んでいました。
やがて夫が日本武尊に従って水軍を率いて出征すると、玉姫はこの浦で夫の帰りをずっと待っていたと伝えられています。
その玉姫を祀る祠が、羽豆神社の麓にあるというので行ってみると・・・

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台風の影響でしょうか、見るも無残な姿に変わり果てていました・・・。

旅の初日のミステリーツアー。
自分ではなかなか思いつかない行程で、こういう機会でもなければ訪れることもなかったのかなぁ~と思うと、やはり仲間に感謝ですね。

この後は岐阜まで移動し、恒例のギフナイト☆でおいしいお酒(とニンニク!?)を堪能しながら、翌日に備えました。

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2018年5月24日 (木)

下田で史跡めぐり

なんとなく年一の恒例となっている家族での温泉旅行。今年の行き先は、ちょっとした紆余曲折を経て伊豆は下田になりました。
家族連れとはいえ、そこは折角の遠出。勿論、史跡めぐりも盛り込んでいきます(笑)
※テーマは方々に飛び散ってまとめるのも面倒なので、今回は単純に訪問順でご紹介していきます。

■5月18日(金) 
偶然なのですが、この週末は下田で黒船祭りが開催されることを旅行計画後に知り、慌てて祭りのスケジュールを睨みながら、なんとかバッティングを避けるように行程を組みました。

道路渋滞もない快適なドライブ。順調に天城越えで下田市域に入り、まず最初に訪れたのは・・・

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蓮台寺温泉の吉田松陰寓寄処です。

嘉永7年(1854)3月3日、神奈川で日米和親条約が締結されます。
条約によって開港場に指定された下田へと向かったペリー艦隊を追い、吉田松陰(寅次郎)も金子重輔を伴って下田へと向かいました。
同18日、松陰は「瓜中万二」、重輔は「市木公太」という変名を用い、まずは下田の岡方屋(岡村屋とも。現下田屋旅館)という宿に入ります。
当時、皮膚病(疥癬)を患っていた松陰は下田到着後、治療のために蓮台寺温泉を訪れました。
とある深夜、2人が本来は村人しか利用できない共同湯にいるところへ、向かいの屋敷に住む村山行馬郎が現れます。見慣れぬ2人を訝しんだものの、医師でもあった行馬郎は事情を察したのでしょう、2人を自邸に引き取って匿うことにしました。

前置きが長くなりましたが、この村山行馬郎の屋敷こそ、上写真の吉田松陰寓寄処(以下、村山邸)となるのです。

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室内の様子
さすがに平日の昼間とあって訪れる人もなく、一人で独占して見学できました。

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入口の土間の脇にはお風呂も・・・しかも温泉が引かれていたのだそうです。
松陰たちと出会った際、行馬郎は自邸にも温泉があったのに何故、わざわざ共同湯へ行ったのか?
案内してくださったボランティアさんによると、当時は村山邸が単純泉であったのに対し、共同湯は硫黄泉であった(現在は共に単純泉)ことから、行馬郎は体調や病といった何がしかの理由で、硫黄泉を求めてわざわざ共同湯に浸かりにいったのではないか、とのことでした。

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村山邸から正面に見える、松陰・重輔の2人が潜んでいた共同湯。

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「吉田松陰湯治湯の跡」とあります。

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村山邸に戻ります。
村山邸の風呂は写真右奥にあり、その手前に見える階段を上がると・・・

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松陰や重輔を匿った隠れの間があります。
階段を取り外して天井板を閉めると、ちょっとした隠し部屋になる構造です。

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吉田松陰隠れの間
この一間で松陰は、密航の企てを実行に移すタイミングを計っていたのでしょうか。

数日の間を共に過ごすうち、松陰と行馬郎は大変に意気投合したようで、行馬郎の娘が後年、松陰と行馬郎が夜な夜な語り合う様子を語り残しているのだそうです。
(松陰の患っていた皮膚病の具合も)

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村山邸を出た松陰と重輔は3月27日の深夜(28日未明)、柿崎の弁天島の浜から小舟を漕ぎ出し、碇泊していたペリー艦隊(旗艦ポーハタン号)に乗り込んで密航を企てますが拒否され、現在の下田市須崎付近の浜へと送り返されました。
黒船に乗り込んだ際、盗んで漕ぎ寄せてきた小舟を見失っていた2人は事態の発覚を覚悟して自首、江戸伝馬町の牢屋敷へ送られた後に死罪は免れて国許蟄居とされ、松陰は萩の野山獄に入れられました。(重輔は岩倉獄に入れられ、そのまま獄死)
出獄が許された後も杉家幽閉の身となり、このことが松下村塾(叔父が主宰していたものの名を引き継いだ)を開塾するきっかけとなったのでした。

さて、私も村山邸を辞し、下田の中心街へと向かいます。

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宝福寺
嘉永7年(1854)に日米和親条約が締結され、新設された下田奉行の都築駿河守が宿所としたことから、仮の下田奉行所となりました。
文久3年(1863)には土佐藩の山内容堂が宿を取り、順動丸で入港した勝海舟が訪れて容堂に謁見し、坂本龍馬の脱藩の罪の許しを取り付けた地としても知られています。
「晴れて赦免の身となった龍馬の活躍はここから始まる」との意から、石柱には「坂本龍馬飛翔之地」ともありました。

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こんな可愛らしい龍馬像も。

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宝福寺境内、唐人お吉記念館に展示されている容堂・海舟謁見の間

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記念館裏には、初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスに奉公したお吉の墓所も。
お吉は下田で芸妓をしていたところを奉行所の目に留まり、ハリスの元へ侍妾として奉公することになった人物です。
その後は一旦下田を離れたものの、維新後には再び戻って髪結い業を始めたり、小料理屋(安直楼)を開業したりしますが、安直楼は2年で廃業と、なかなか上手くはいかなかったようです。
ハリスの侍妾として奉公した過去から世間に「唐人」と嘲弄され、貧困の中に世を儚み、明治24年3月27日、豪雨の夜に川へ身を投じて51年の生涯を閉じました。
こちらの墓石は後にお吉を演じた水谷八重子らによって寄進されたもので、向かって右横には小さな元の墓石も祀られていました。

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続いて了仙寺へ。
嘉永7年(1854)3月、日米和親条約が締結されて下田が開港場になると、了仙寺は上陸したペリー艦隊一行の応接所となり、同年5月には和親条約の細部を詰めた下田条約調印の場にもなりました。
調印された下田条約により、了仙寺は玉泉寺と共にアメリカ人乗組員のための休息所となっています。
満開に咲き誇るアメリカジャスミンの香りが、辺りを濃厚に包んでいました。

今度は了仙寺の目と鼻の先、下田公園へ。
一旦幕末から離れ、戦国期へシフトします。

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下田城
小田原北条氏の海の拠点の一つ。豊臣秀吉との間に緊張が高まってくると北条氏は、清水康英を城将として入れ、城に改修の手を加えて整備させています。

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登り始めて最初に目に飛び込んできた横堀。
細い尾根上に配された曲輪群を取り巻くようにして伸びています。

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堀切

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5月にもなると下草が伸び、ちょっと見え辛いけど・・・畝堀

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畝堀の先にも堀が続きます。

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先ほどとは反対側から畝堀を見た様子・・・チャンスがあれば冬に再チャレンジですね(^_^;)

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元々は「鵜島」という島だったそうで、鵜島城とも呼ばれているようです。

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伝「天守台」跡とされる曲輪部分。
下田城の主郭にあたります。

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主郭から三方へ伸びる細尾根の一つ。

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尾根上から、先ほどの畝堀を見下ろした様子。

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城跡からの眺め。

天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、下田にも長宗我部元親や脇坂安治らの率いる1万余りの大軍が押し寄せます。
僅か600ほどの手勢で立て籠もる清水康英は抵抗するものの、50日間に及ぶ防戦の末に開城しました。

そのまま幕末へ戻り・・・

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下田公園北側の中腹に建つ、開国記念碑
下田開港100年を記念し、昭和29年(1954)に建てられました。

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ペリーとハリスの言葉が刻まれています。
ペリーの「余は平和の使節として此の地に来れり」という言葉を選したのはGHQのマッカーサーで、「開国記念碑」の揮毫は吉田茂元首相によります。

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更に麓へ下ると・・・ペリー上陸の碑
嘉永7年(1854)に締結された日米和親条約で下田が開港場となり、入港してきたペリー艦隊の乗組員たちが初めて上陸した地点に建てられています。

さて、これにて初日の史跡めぐりは終了としました。
この後は宿へ入り、温泉に山海の幸、美味しい地酒、、、贅の限りを尽くしてきました(笑)


■5月19日(土)

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前夜から明け方まで降り続いた雨も、出発する頃までにはすっかり上がって陽も射してきました。
2日目のスタートは・・・

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柿崎弁天島からです。
本記事の冒頭でご紹介した吉田松陰寓寄処の箇所でも書きましたが、吉田松陰が黒船に乗り込んでの密航を企て、金子重輔と共に小舟でペリー艦隊の碇泊する海へと漕ぎ出した場所です。
・・・それにしてもすごく特徴的な地層ですね。

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七生説の碑(左)と金子重輔行状碑(右)

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ペリー艦隊を目指し、小舟を漕ぎ出す松陰と重輔の図。
・・・湾内にしちゃ、海が荒れすぎじゃね?(笑)

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弁天島に建つ弁天社(手前)と下田龍神宮(奥)
踏海を企む2人は、手前の弁天社で仮眠を取ったとも云われています。

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柿崎弁天島からの下田湾。
ペリーの乗船するポーハタン号は果たして、どの辺りに碇泊していたのでしょうか。

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なんとか黒船に乗り込んでペリーに交渉したものの、乗船を拒否された2人は、写真左奥方向に位置する須崎付近の浜に送り届けられました。

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柿崎弁天島の近く、三島神社境内に建つ吉田松陰像。
(弁天島の松陰&重輔の銅像は、すっかり見落としてしまいました・・・)

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2人が送り届けられた須崎に行ってみると、ご覧の案内板が設置されていました。

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生い茂る樹木の中でひっそりと佇む、吉田松陰上陸の碑

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上陸地点からの下田湾。
弁天島の方向には、視界は開けていません。

この後の顛末は、吉田松陰寓寄処の箇所でも簡単に触れた通りです。
乗船を拒否され、この地に送り返された時、松陰の目にこの景色はどのように映っていたことでしょう。

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さて、今回最後にご紹介するのは玉泉寺です。
(本当は吉田松陰上陸の碑よりも先に訪れていますが、あしからず)

嘉永7年(1854)5月の下田条約によってアメリカ人乗組員の休息所となり、安政3年(1856)に来日した初代総領事タウンゼント・ハリスが住居に定めて以降、日米修好通商条約によって開港された横浜へ移る同6年までの間、アメリカの総領事館として機能しました。

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ハリス記念碑

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日本最初の屠殺場跡
領事館員の食糧のため、この場所にあった木に牛を繋いで屠殺していたのだそうです。
その木は既に枯れていますが、境内のハリス記念館で保存されているそうです。残念ながら今回は寄りませんでしたが。

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山門脇には、カーター大統領来訪記念碑などもありました。

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総領事ハリスや、通訳ヒュースケンの居室が置かれていた本堂。
本堂の前にあるのは牛乳の碑。

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本堂には穴を空けた石を壁に埋め込み、ストーブの煙突を通していた痕跡も残っていました。

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最後にぺルリ艦隊乗組将兵の墓へもお参り。

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下田での史跡めぐりは、吉田松陰に始まってペリー来航など、個人的にはこれまであまり詳細には触れて来なかった歴史の連続。
そういった意味でも、改めて見直してみるいい機会にはなりました。

帰路は伊豆半島の東海岸沿いを北上し、伊東で昼食&ひもの購入休憩を挟んで無事に帰宅。土曜日だったこともあって渋滞にもはまらず、愛車にとってもいい運動になったようです。

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