カテゴリー「お城、史跡巡り 東海」の76件の記事

2019年5月 6日 (月)

千福城(平山城)

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今回の旅のラストは、葛山城から少し南下した千福城
麓の普明寺裏手から城山へアプローチします。

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山門前には、普明寺の由緒を記した石碑「大平山由緒」があり、この地は御宿勘兵衛の居館跡であったこと、元亀3年に武田信玄が寺名を普明寺に改めた(元亀2年暮れの甲相再同盟により、この地は武田領となっている)ことなどが、駿東郡誌や駿河国新風土記よりの抜粋として記されています。

元亀2年(1571)に深沢城を武田氏に奪われた北条氏は、それに対処するため、新たに「平山」を拠点としたことが朱印状などで確認されています。
千福城がこの「平山」城に比定され、普明寺山門前の標柱にも「千福城址(平山城址)跡」とありますし(址と跡を続けるのもどうかとは思うけどw)、近くを通る国道246号には「御宿平山」という交差点もあります。また、普明寺の山号も「大平山」です。

すぐ北方には、武田方について大宮城や蒲原城攻めにも従った葛山氏の葛山城もあり、まさに北条×武田という大大名同士の軍事境界上の城と言えます。

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普明寺境内には、千福城への親切な案内板も設置されていました。

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案内に沿って登り始めると、すぐに竪堀が現れます・・・が、藪で写真ではなんのこっちゃ?ですね(;^_^A

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主郭部と、そこから北西側へ伸びる郭群の間を断ち切る堀切。

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その堀切から西側斜面に落とされた竪堀。
横幅を見ても、かなりの規模です。

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そのまま北西方向へ進むと、西側の斜面に竪堀が連続して落とされていました。

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東名高速によって尾根が分断されているため、現段階で確認できる城域の最北西端部。
尾根上に築かれた細長い郭の北面から東面にかけて、大きな横堀が口を開けています。上の写真の手前がその北面の横堀で、写真の右手方向で右へ直角に折れ、郭の東面に沿って続いています。
そして、この北面の横堀の奥にはもう1本、横堀のようなものがありました。

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こちらがその遺構。
郭に沿う横堀に比べると規模の小さなものです。

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北西端郭東面の横堀。
深さといい、幅といい、、、これはちょっと驚きの規模です。

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堀底に下りて、東面から北面(写真正面)とのコーナー部分を見た様子。
藪がきつくて殆ど歩けませんでしたが、堀の深さは充分に伝わるのではないでしょうか。

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主郭部へ戻って、城内最高所の郭。
こちらが主郭、本丸ということでいいのではないでしょうか。

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主郭の南西斜面には細かい連続竪堀のようなものがある、との情報も目にしていたので確認してみました。
藪でわかりづらいのですが、確かに柵平地の縁が波打っているようにも見えます。しかし構造上、この部分に施す細かい連続竪堀が果たしてどれほどの効果をもたらすものなのか、その必要性にも疑問を感じますし、実際に目にした印象としては、法面の自然崩落によるものではないかなぁといったところです。

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主郭から南東へ進み、城内で最も広い円形の郭を見下ろすようにして時計回りに東へ回り込み、城域の南東端付近まで来ると・・・

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堀切のようなものに行き当りました。
右下は郭のような平坦地になっており、歩いてきた郭?尾根?が、そのまま右下の郭を守る土塁のようにもなっています。

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右下の郭に下りて見てみると明らかですが、この堀切のようなものは虎口だったようです。

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虎口から外側を見ると道が付けられており、脇には横堀のようなものも見えます。

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外側から振り返った様子。
間違いなく南東端郭への虎口ですね。

万一この虎口を突破された際は、その先の南東郭や先ほどの円形の郭で敵を受け、南を除く三方を包み込むようにして一段高い位置に配された郭群から包囲迎撃する・・・その際、この虎口は敵を上段の郭群へ上げないための堀切としても機能する・・・。
とてもよく考えられた構造のように思えてきました。

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虎口を出た先から北の方向へ進み、左手を見ると見事な切岸がそそり立っています。
人尺付きなので、その規模を実感していただるのではないでしょうか。
あの上は、主郭から南東端の郭へ向かう際に歩いた場所になります。

千福城・・・元々は葛山氏や、その同族である御宿氏の城だったとも云われていますが、先に訪れた葛山城と比較しても郭の数や配置、構造、特徴が全く別物です。とても同じ氏族が築いたものとは思えないほどに。
こうした郭や堀などの遺構を見る限り、やはり元亀2年の正月に深沢城を奪われた北条氏による、大幅な改修の手が加えられたことを感じさせる土木量でした。

北条氏によって変貌を遂げたであろう千福城でしたが、しかし、対武田の拠点として機能した期間はほんの僅かでした。
深沢城を奪われたのと同年の元亀2年暮れ、北条氏康の死去(同10月)に伴って北条氏は外交方針を転換し、上杉謙信に対して手切れを通告して越相同盟を破棄し、武田氏との甲相同盟を再締結します。
この同盟再締結に伴って北条氏は、興国寺城を武田氏へ引き渡し、平山城(千福城)も破却したことが武田信玄の書状で確認されています。
つまり平山城、即ち千福城が北条氏の拠点として機能した期間は、僅か1年にも満たなかったということになるのです。

2泊3日の行程で急遽挙行した駿東の城めぐり。
1日目こそ大雨にたたられたものの、2日目に思いがけず再チャレンジできたこともあり、個人的には大満足。
何といっても北条&武田という、東国を代表する大大名同士による軍事対立の緊迫感漲る規模の遺構を体感でき、貴重な機会となりました。
同行の皆さん、ありがとうございました。

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2019年5月 5日 (日)

葛山城

さて、旅の2日目。
前日の夜から合流したメンバーのリクエストにより、この日も本当は初日に訪れた深沢城からスタートしたのですが、記事が重複するので省略し、2つ目の葛山城から書いていきます。

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葛山城の山麓に建つ仙年寺。葛山氏の菩提寺です。

葛山城は戦国期、駿東一帯に勢力を持った葛山氏の居城でした。
葛山氏は駿河今川氏に従っていましたが、今川氏の直接支配は富士川以東にまでは及んでおらず、独立性の強い国人領主だったようです。駿河・甲斐・相模三国の境目のような位置関係から、武田氏や北条氏とも関係を結んでいました。
永禄12年(1569)に武田信玄が駿河へ侵攻すると、葛山氏元は武田方へ内通し、後に大宮城や蒲原城攻めにも従っています。
氏元は信玄の六男・信貞を養子に迎えますが、元亀4年(1573)、謀反の嫌疑により処刑されたと伝えられています。実際に氏元が謀反を企んだのか否かはわかりませんが、おそらくは向背の定まらない、独立性の強い葛山氏の乗っ取りを図ったものではなかろうかと思います。
仙年寺には葛山氏歴代の墓所もありますが、参拝は後回しにして、まずは何より葛山城へ向かいます。

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葛山城へは、仙年寺の裏手から伸びる階段でも直接アプローチできますが、我々は東側の大手口から登るルートを選択しました。

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静岡古城研究会作図の葛山城図。
こちらの図の表記に則して進めていきます。

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最東端に位置する大手曲輪。
ここから尾根に沿って西へ進みます。

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東出丸
更に進むと・・・

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いい感じの2重堀切が現れました。
(一号堀/二号堀)

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上(東)から見下ろした様子。
主郭部東側の防備を固めています。

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主郭部の南側へ回り込むと、三号堀に・・・

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四号堀と、綺麗な竪堀が連続していました。

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主郭部西側の守りを固める五号、六号堀の連続堀切。
木の影のコントラストがきつくて見えづらいですが、ちゃんと2本連続しています。

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二の丸
土塁や虎口も確認できます。

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二の丸から帯曲輪。
左は本丸の切岸。

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本丸
土塁が結構いい感じで残っていました。
あちらの土塁から、北側の斜面を覗き込むと・・・

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横堀らしき痕跡が見えていました。
一旦五号堀まで戻り、本丸北側へ回り込んでみると・・・

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ウネウネ(笑)

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見事な畝状でしたが外縁の土塁がなく、実際に降り立ってみると横堀のようには見えませんでした。
むしろ、畝状竪堀の残欠?・・・よくわかりません。

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西出丸
西出丸から、六号・五号堀越しに振り返る二の丸方向。
ちなみに、図にある七号堀は規模が小さかったのか、藪で殆どわかりませんでした。

最後は沢を北側へ回り込み、荒れ果てて崩れた林道を下りながら「沢水堀」の「堰」へ向かいましたが・・・

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見事に写真を失敗!(涙)

葛山城・・・本丸と二の丸、帯曲輪から成る主郭部と、東西に伸びる尾根の両サイドに出丸を配置し、その東西出丸と主郭部の間を2本の堀切で断ち切る・・・とてもシンプルな構成ながら遺構の保存状態もよく、見応えのある城跡でした。

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下山後は、城山南麓に位置する葛山館跡へ。
写真は、その北東隅部分の土塁。

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北面の土塁。

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東西97m×南北104mの広さを誇ります。

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南西側の土塁開口部が、往時の門跡とされています・・・微妙。

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葛山館跡からの葛山城遠景。
山城と山麓居館両方の遺構が残されているのは、貴重な事例なのではないでしょうか。
城山麓のお寺(ここでいう仙年寺)が、必ずしも居館跡とは限らないという、いい教訓・戒めにもなりそう?(笑)
ただ、写真を見ても明らかなように、城山から少々離れ過ぎなきらいもあります・・・この居館跡が実は葛山氏のものではなく、家臣のものだった可能性はないのでしょうか?

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最後に仙年寺へ。
昭和53年まで葛山館に存在した、樹齢3~400年の「館の松」の写真が山門に貼ってありました。

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葛山氏歴代墓所
石扉には武田の四ツ菱紋が見えます。
葛山氏最後の当主・信貞が、武田信玄の六男だったことによるものと考えられています。

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信貞は天正10年(1582)、武田氏滅亡と共に甲斐善光寺で処刑され、葛山氏もその命脈を絶たれることになりました。

さて、旅の最後はやはり前日、悪天候で断念していた千福城へ向かいます。

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2019年5月 4日 (土)

浮月楼の庭園

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GWの直前に急遽決まった静岡への旅。
宿の確保も難しい中、残された少ない選択肢から選んだ宿(ホテルガーデンスクエア静岡)が偶然にも、徳川慶喜が明治2年(1869)~同21年(1888)までを過ごした屋敷跡に建つ浮月楼の庭園に隣接する立地で、しかも自由に散策できるというではありませんか!

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・・・という訳で早速(笑)
右が宿泊するガーデンスクエアで、左は浮月楼の明輝館。

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慶喜の転居後、明治24年(1891)には料亭・浮月亭が開業され、伊藤博文や井上薫なども逗留したことがあるそうです。

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当時の建物は大火により消失していますが、庭園は殆ど姿を変えることなく、明治期の風情を現在に伝えてくれているそうです。

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子福稲荷

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こちらは翌朝、晴れた時に撮影した1枚。

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浮月楼の北門とホテルガーデンスクエア静岡。

偶然にもいいホテルに泊まることができ、嬉しい旅になりました。
部屋もゆったりとして清潔感があり、いろいろと気の利いたいいお宿でした。今後は静岡での定宿にしようかな。

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2019年5月 3日 (金)

(伝)織田信長首塚(西山本門寺)

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土砂降りの雨の中、富士宮市の西山本門寺に到着。
少し境内を散策します。

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大火による被害から本門寺を復興した、第16代・日映上人の墓所。

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鐘楼
梵鐘は寛永21年(1644)の鋳造。

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本堂
西山本門寺は、康永3年(1344)の開創。
歴代住職の中には甲斐武田家や水戸徳川家の出身者もいることから、武田信玄の制札や勝頼の高札、徳川家の朱印状なども残されているようです。

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織田信長の首塚への案内板。

寺伝によると、囲碁の名手としても名高い寂光寺の日海上人(本因坊算砂)の指示により、原志摩守宗安という人物が、炎上する本能寺から信長に殉じた父や兄の首と共に信長の首を運び出し、本門寺本堂の裏手に埋めたとされています。
この伝承は、本門寺第18代・日順上人の内過去帳や、「原家記」という文献にある記述が元になっているようです。
日海(算砂)は本門寺に坊舎(本因坊)を建てて住んでいたこともあるとされ、原氏出身の日順を弟子にして本門寺の住職に就けたとも云われているそうです。

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(伝)織田信長首塚と、県の天然記念物に指定されている柊。
原志摩守はここに3人の首を埋め、その上に柊を植えたのだとか・・・。
ところが、昭和31年(1956)の日付がある説明板によると、柊の推定樹齢は「500年」・・・信長が亡くなったのは1582年ですので、ちょっと年代が合わないのですが・・・?
まぁ、別の場所に設置されていた説明板には「4~500年」とありましたが・・・(;・∀・)

ところで、先程から登場する原志摩守なる人物のことがよくわかりません。
ざっと調べたところ、本能寺や二条御新造で信長や信忠に殉じた家臣の中に「原」という名は確認できませんでした。詳細な史料が手元にないので、確かなことは言えませんが・・・。

京都の阿弥陀寺にも信長の遺骸に関する伝承があります。
それぞれの事の真偽はともかく、こうした伝承が現代まで伝えられることになった、その端緒や背景というものには興味を覚えます。

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2019年5月 2日 (木)

戸倉城

さて、本来であれば深沢城の後は葛山城、千福城へ向かう予定でしたが、朝からの雨がいよいよ本降りとなって山城は断念することに。
急遽予定を変更して向かった先は・・・

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駿東郡清水町の戸倉城です。
※歴とした山城じゃねーか!というツッコミを入れたあなた・・・仰る通り。
しかし戸倉城は山城とはいえ、今では完全に公園化(本城山公園)されており、安全面においても特に問題ないだろうと判断したのです。

戸倉城は小田原北条氏の2代・氏綱が築かせたと伝わります。
後に、上杉謙信の後継を巡る「御館の乱」に端を発する外交関係の悪化から、武田勝頼が天正7年(1579)に駿豆国境の沼津に築いた三枚橋城に対する、北条方の最前線拠点ともなりました(駿河は武田領、伊豆は北条領。当時は黄瀬川が国境線となっていました)。
ところが、天正9年には戸倉城将の笠原新六郎政晴が武田方へ寝返り、戸倉城も武田の支配下となります。
翌天正10年に武田氏が滅亡すると再び北条氏の手に戻りますが、天正18年(1590)に豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、北条氏は城兵を韮山城へ引き上げて戸倉城を放棄しました。

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戸倉城の主郭(本城)跡。
一部、竪堀などの遺構も残っているらしいのですが、悪天候により詳細な探索は断念いたしました。

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しかし、展望台からの眺望は見事の一言に尽きます。
三枚橋城方面は、手前の山に遮られて見えないものの・・・

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韮山城や・・・

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山中城までをも、一望の元に見渡せました。
戸倉城はこれらの各拠点を繋ぐ、中継基地としても機能していたのかもしれません。

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山麓の龍泉寺は、戸倉城主の居館跡と伝わります。

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龍泉寺本堂

この後は富士宮市の西山本門寺へ向かいました。

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2019年5月 1日 (水)

深沢城

平成最後のGW。大型10連休の幕開けとなった4月27日は駿東地区の城めぐりドライブです。
渋滞を避けるため、夜明け前の午前3時に自宅を出発し、集合場所の道の駅ふじおやま(静岡県小山町)には4時30分に到着。
約束の時間まで仮眠を、と思ったものの、想定以上の冷え込みで結局眠れず仕舞い・・・。

午前8時、無事に到着した美濃、及び遠江からの仲間と合流し、まずは御殿場市深沢の・・・

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深沢城へ。
城址碑の奥に、早くも空堀跡が見えています。

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深沢城図
馬伏川と抜川が合流する段丘の先端に築かれていました。

※現地案内板では一番北の郭を本丸とし、そこから南へ順に二の丸、三の丸としていますが、多くの方々が指摘されているように、我々も実際に歩いてみて、主郭は真ん中の二の丸とされている郭だろうと感じました。
従いまして当記事では、上の図に青文字で書き入れたように、北から順に「北郭」「主郭」「南郭」として進めていきます。

永禄11年(1568)12月、甲斐の武田信玄が駿河へ侵攻したことにより、甲相駿三国同盟は破綻をきたします。
この深沢城は、大宮城(富士宮市)や興国寺城(沼津市)と共に、興津川を挟んで武田氏と対峙する北条氏の薩た山や蒲原城といった最前線を支える拠点の一つとなります。
そして翌永禄12年(1569)6月に大宮城を信玄に落とされ、更に12月になって蒲原城(静岡市)をも攻略されたことで、北条氏は薩た山の陣所も維持できなくなり、富士川以西の拠点を全て失うことになります。これにより、深沢城は興国寺城と共に対武田の最前線に立たされることになりました。
北条氏は北条綱成を城将として深沢城の守備を固めていましたが、元亀元年(1570)12月、遂に信玄率いる武田軍に包囲されるに至ります。
信玄は城内に降伏を促す矢文を射かけさせたり、黒川金山の金山衆に城の「本城の外張」まで横穴を掘らせるなどして揺さぶりをかけ、翌元亀2年1月16日、深沢城を開城させることに成功しました。
これ以降、深沢城は天正10年(1582)の武田氏滅亡まで武田氏の支配に属し、その後は駿河に入った徳川氏の下で北条氏に対する境目の城として維持されますが、天正18年(1590)に北条氏が滅亡すると廃城となりました。

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城址碑の背後、南郭の横堀。

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南郭に隣接する馬出し。
半円状の丸みを帯びた形状がよく見て取れます。

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横堀越しに南郭。
写真中央奥の茂みは、主郭との間の横堀になります。

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南郭と主郭の間に設けられた馬出し。
「下馬溜」とされている箇所です。

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南郭~主郭間の横堀。

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この南郭~主郭間の堀には「二鶴様式の堀跡」との標柱がありました。
同行者とも「この先で主郭方向と南郭方向へと分岐する堀の形が、翼を広げて飛ぶ鳥のように見えるからかな?」などと話しましたが、結局のところは理解するに至りませんでした。

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主郭南側。
土塁のように一段高くなっていますが、用水路を通すために切られた箇所もあり、実際にどのような形状をしていたかは不明です。この奥にも分け入ってみましたが削平は甘く、用水路の敷設などで崩されているのかもしれません。
南郭との間に高低差を設けるための措置か、或いは櫓台のようなものがあったのかも・・・とも考えました。

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主郭(北方向)
付近には「食糧庫跡」の標柱が立ちます。
先程の南側よりは一段低くなっていました。

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主郭から北郭への土橋。

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土橋脇の横堀。

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北郭側から主郭を見る。
主郭の方が一段高くなっています。

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図には何故か描かれていませんが、主郭~北郭間にもやはり馬出しが置かれていました。
こうした地表面の高低差や、南北両サイドの郭との間に馬出しを配して防備を固めていることなどから、やはり中央の郭が主郭だったのだろうと思います。

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広大な北郭。

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眼下を流れる馬伏川越しに城域を振り返る。
信玄の命を受けた金山衆は果たして、どこから掘り進んで城を崩しにかかったのでしょうか・・・。

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城外に出て、馬伏川の畔から北郭の断崖を仰ぎ見る。

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少し場所を移し、最初の城址碑から車道を挟んだ西側にある堀跡。
「三日月堀」との標柱も立っていますが、図面を見る限りは南郭の横堀が車道によって分断され、然も三日月のような形になっただけでは・・・?
(城址碑裏の堀も同様)

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南郭に祀られている八幡宮のお社。

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深沢城からは、富士山の雄大な姿を間近に拝むこともできます。

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近くの大雲院山門は、深沢城の大手門を移築したものと伝わります。
大正12年(1923)の関東大震災で倒壊していますが、昭和25年(1950)に再建されました。

大雲院の周辺には大雲院土居や宝持院土居などがありますが、これらが深沢城の惣構えの南限を示しているのかもしれません。

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某地図アプリを見ているうちに、城址の北東4~500mほどの地点に「信玄塚」の文字があるのに気付き、立ち寄ってみました。
碑や案内といったものは一切ありませんでしたが、どうやらここが、深沢城を攻める信玄が本陣を布いた場所と伝えられているようです。
・・・すると信玄はここから深沢城を眺め、矢文を射かけたり、金山衆を用いる作戦を命じていたのでしょうか。

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2019年2月 2日 (土)

旧東海道歩き…六合~藤枝

旅のラストは六合駅から旧東海道を東へ、藤枝までの一駅間を歩いてみました。

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六合駅から県道381号を東へ進むと、すぐに島田市から藤枝市へ入ります。
この先の「一里山」交差点で、旧街道は右へ逸れていきます。

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目印は、道路脇に残る旧東海道の松並木。

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こうして松並木が残っていてくれると、旧街道を歩いている実感が湧いていいですね。

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逆光で酷い写真になっちゃったけど・・・上青島一里塚跡。

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この先は道幅が狭くなり、車の通りも多いので注意が必要です。

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染飯茶屋址の碑

瀬戸川こさせられ、せ戸の染飯とて、皆道に人の知る所あり。
(信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」より)

この前日に歩いた金谷から掛川までの旧東海道の記事でも触れましたが、織田信長は甲府からの帰路、天正10年(1582)4月15日、未明に藤枝市の田中を出発してこの付近も通過しているのです。

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瀬戸の染飯はこの上青島村瀬戸町(現藤枝市上青島付近)にあった茶屋で、戦国期から売られてきた東海道の名物の一つです。
包装紙の版木は、茶屋の御当主の一子相伝なのだそうです。

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また、この地には千貫堤と呼ばれる大きな堤防が築かれていました。
千貫堤は寛永12年(1635)、大井川の洪水から田中藩領を守るため、千貫もの大金を投じて築かれました。高さ3.6m、幅29m、総延長は約360mもありましたが、現在はそのごく一部を残すのみとなっています。

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近くの千貫堤・瀬戸染飯伝承館では、染飯の染料となるクチナシの実を乾燥させていました。
染飯の版木のレプリカなども展示されています。

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伝承館の北側に、僅かに残る千貫堤の痕跡。
染飯茶屋の御子孫は、現在もこの地にお住まいなのだそうです。

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再び旧東海道へ戻ります。

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東海道追分の碑
中世の頃までこの付近には湿地が多く、東から西へ進む古道は藤枝の先から大きく南へ迂回して、この石碑の建つ辺りへ繋がっていました。
近世東海道が通った後も古道は残り、いつしか2つの道の交錯点を追分と呼ぶようになったそうです。

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また、更に西へ進む中世までの古東海道は「瀬戸の山越え」と呼ばれ、瀬戸山(昭和30年代、東京オリンピックに向けた高速道路建設等の開発のために消滅)の上を通っていました。
道の歴史も辿っていくと、いろいろと奥が深いですね。

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今回はほぼ舗装路の上を歩くだけの旅となりましたが、様々な歴史に触れることができて楽しめました。
こうして少しずつ東海道をめぐり、いずれは京都までを1本に繋げてみたい、などと野望を抱いたりして・・・!?

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2019年2月 1日 (金)

掛川古城

掛川で迎える旅の2日目。
まずはホテルを出てぶらぶらと散策し、近世掛川城の脇を抜けて掛川古城へ向かいました。

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掛川古城の主郭には龍華院大猷院霊屋が建っています。
明暦2年(1656)、掛川藩主・北条氏重が幕府に願い出て、徳川家光を祀るために建立しました。
一説には、嗣子のない氏重による無嗣断絶を回避するための打開策だったともされますが、万治元年(1657)に氏重が没すると領地は没収され、断絶となってしまいます。

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主郭東面に残る土塁。
掛川古城は西暦1500年前後、今川氏親の命を受けた朝比奈泰熈により、遠江支配の拠点として築かれました。
1513年には早くも、現在の掛川城跡の位置に新たに築城して移っていますが、1568年に武田軍に駿府を追われた今川氏真がその掛川城へ逃げ込むと、今度は徳川家康が掛川城を包囲します。
その際、家康はこの掛川古城跡に本陣を置いたとも云われています。

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土塁の先に見えている堀切。

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掛川古城の大堀切。

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掛川古城と、近世掛川城との距離感。

さて、この後は電車で少々移動します。

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2018年11月29日 (木)

一色山城、大留城、新居城

小牧山城の現説の後は、瀬戸市曽野町の一色山城跡へ。
「定光寺ほたるの里」入口から県道207号を北へ約400m、道路脇の斜面を登り、少し開けた尾根筋を南へしばらく進むと・・・

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切り立った切岸に行き当たります。
ここから先、尾根に沿って南へ城域が続くようです。

一色山城の築城時期は定かではありませんが、この城には興味深いエピソードが残されています。
天文3年(1534/織田信長の生年でもある)、一色山城主・磯村左近は感応寺(同市水北町)で住職と碁を打っていたところ、留守の城を品野(秋葉)城の松平家重、落合城の戸田家光らに攻められます。
ところが左近は、敵襲来の報を受けても泰然と碁を打ち続け、対局が終わってから戦場へ駆けつけて討死したとか。
「磯村左近」は織田信長にも仕えたとされますが、前述のように年代が合わないので、信長の家臣となったのは戦死した一色山城主の子息、ということになるのでしょうか。

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切岸上の曲輪跡。
こうした曲輪が3つほど縦に連なる城跡です。

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堀切
写真左端には土橋(少し崩れていました)があります。

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堀切の底から土橋。
他に虎口らしき窪みや櫓台のような土盛り、西側には腰曲輪もありましたが、兵を100人も入れたら満杯になりそうな程の、とても小さな城跡でした。


お次は春日井市大留の大留城跡。
天正12年(1584)の小牧長久手合戦の際、秀吉方の池田恒興が入って軍議を開いたとされています。
その翌日に恒興は戦死するのですが、大留城主・村瀬作左衛門も討死し、大留城は廃城になったと云います。

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現在は子安神明社になっており、境内には城址碑が建っていました。
本殿裏手に空堀の跡が残る、との情報があったので覗いてみたのですが・・・

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神明社周辺は急速に開発が進んでいるようで、付近の造成の影響ですっかり改変されていました。

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旅のラストは尾張旭市の新居城跡。
本丸や二の丸を二重の土塁が囲むお城だったようです。

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本丸を囲む一重目の土塁。
公園化されている割には、そこそこ良好な残存状況に思えました。

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一段下って二重目の土塁(右の小さな盛り上がり)と、左に先ほどの一重目の土塁。
従って、この2つの土塁に挟まれた園路部分は横堀、ということになるでしょうか。

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新居城跡には「旭城」という天守閣風の建物が建っていますが、本来のお城とは関係のない建造物です。

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今回の旅も、同行のフォロワーさんたちのお陰で満喫しました。
次は・・・どこへ出没しましょうか?

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2018年11月27日 (火)

三方原古戦場めぐり

11月17日(土)は三方原古戦場めぐり。
元亀3年12月22日に勃発した三方原の戦い・・・日本史上でも有名な合戦であるにもかかわらず、その経過や詳細については諸説あり、多くの謎が残されています。
私自身も理解と整理が追い付いていないので、今回は合戦の詳細には立ち入らず、「通説」などを元に、訪れた場所を淡々と綴っていくことにします。

同行者たちと浜松城の駐車場で集合した後、まずは三方原台地の縁沿いに北上して欠下城跡へ向かいました。

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欠下城跡(大菩薩)
合戦当日、二俣街道を南進してきた武田軍は欠下から三方原台地へ上がり、大菩薩(欠下城か)で陣容を整えたと云います。
主要な曲輪部分は東名高速に分断され、それ以外にも後世の手が入って遺構は全く残っていませんが・・・

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南側の雑木林の中には、堀切らしき痕跡が綺麗に残っていました。

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東へ向かって真っ直ぐに伸び、そのまま台地の縁へ落ちていたようです。

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堀底から見る土橋

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土橋の先、東の斜面にはうっすらと畝状竪堀に“見えなくもない”形状が認められましたが・・・単なる崩れでしょうかね。
更には・・・

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細い土塁のようなものが真っ直ぐ、南西方向へ向かって伸びていました。
土塁の左側は台地の縁の斜面で、右は明らかに人工的に掘り落とされており、とても細い尾根筋のようになっています。
この土塁、とある工場の敷地まで続いていましたが、その先には大菩薩坂があります。それを踏まえ、この土塁を大菩薩坂から欠下城へのルートとなる城道か?とも考えたのですが・・・地元の伝承によると「大菩薩坂には近代まで、道らしい道は存在していなかった」とされているようなので、そうなると土塁=城へのルート説も成り立たず・・・謎の遺構でした。

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欠下城跡の南に位置する、件の大菩薩坂。
武田軍が台地へ上がったルートをこの大菩薩坂とする説もありますが、当時道らしき道がなかったとすると、少なくとも本隊はやはり、古くからのルートとされる欠下坂を登ったものと思われます。

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欠下城跡から見る、欠下坂方向の眺め。
中央奥の白い大きな建物の辺りに欠下坂はあります。早速移動して・・・

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欠下坂の旧道。
欠下城からは少し北寄りになります。

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三方原の台地上をゆく、欠下坂からの旧道。

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旧道をしばらく進むと、信玄街道の標柱が建っています。
大菩薩(欠下城)で陣容を整えた武田軍は、再びこの旧道を進み、途中で針路を北へと変えて根洗松~祝田坂の方角へ向かったものと思われます。

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三方原墓園の駐車場脇に立つ三方原古戦場碑。
ここからは徒歩で根洗松~祝田坂を目指します。

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根洗松
合戦の折、信玄がこの辺りに本陣を布いたとの説もあります。

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祝田坂への旧道

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祝田坂への旧道は、根洗松で国道257号と分離します。

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そのまま旧道を進み、台地の縁(奥の林の辺り)が見えてくるといよいよ・・・

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祝田の旧坂に到着です。
一説に家康は、武田軍がこの坂を下る背後から襲い掛かろうとしたものの、それを察知した信玄が軍勢を反転させて迎撃した、とも云われる地です。
根洗松を信玄本陣とすると、一応は辻褄の合う位置関係になります。

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旧道の雰囲気満点な坂を下る。
今回、三方原合戦関連地を訪れるにあたり、個人的に最も楽しみにしていたポイント・・・実際に歩くことができ、ちょっと感激。

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なかなかの狭隘な坂道で、2万をも超える武田の軍勢が下り切るには、相当な時間を要したものと思います。

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祝田の旧坂を下った先に鎮座する蜂前神社
ご存じ、井伊直虎の唯一現存する花押入り書状(井伊直虎関口氏経連署状)を所蔵する神社です。
(浜松市博物館にて保管)

さて、お次は三方原での戦勝後、武田軍が駐屯して越年した刑部方面へと向かいます。

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武田軍の駐屯地の一つ、油田地区の丘陵上・・・ひどい逆光。
付近には堀切跡と思われる痕跡もありましたが、逆光でまともに撮影もできませんでした・・・。

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刑部城
先ほどの油田の丘陵から北東へ、尾根を下った先端部分になります。
写真手前の平坦地には「館跡」の案内板も建っていましたが・・・?

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刑部城の堀切

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堀切を見下ろす。
同行者が見上げている先に主郭がありますが、さすがに藪が酷かったので立ち入りませんでした。

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最後は刑部城跡から1㎞少々南東へ向かった先に建つ、刑部砦の史蹟碑
背面には甲陽軍鑑からの引用と思われますが、武田軍が刑部に駐屯することになった経緯などが漢文で彫られていました。

武田軍は2万以上もの兵力を有していましたので、こうした陣場や城、砦に分宿していたのではないかと思われます。

さて、これにて今回の三方原古戦場めぐりは終了です。
浜松城へ敗走する家康にまつわる伝承にちなんだ「小豆餅」や「銭取」、 犀ヶ崖古戦場、夏目吉信や平手汎秀の戦死地など、他にもめぐってみたい地はありますが、それはまた次の機会に。

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同行のフォロワーさんに頂いた小豆餅。

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合戦に敗れた家康が、辛うじて逃げ帰った浜松城の天守。
ちょうど同じような時分なので、ちょっと雰囲気が出ていましたね。

夜は浜松駅前で懇親会。楽しく盛り上がりました。

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