カテゴリー「お城、史跡巡り 東海」の52件の記事

2017年10月25日 (水)

「山城に行こう!2017」参戦

台風21号の足音がヒタヒタと迫り来る10月21~22日、岐阜県可児市&可児市山城連絡協議会主催のイベント;
山城行こう!2017 センゴクの城
に参戦してきました。

■10月21日(土) めぐる
初日は可児市の山城をめぐる一日。
今回のイベントで対象の城に指定された美濃金山城や久々利城、大森城、今城をはじめとする幾つかの山城をめぐり、各城で1枚ずつ貰える通行証2枚以上集めると、翌日のトークショーでの優先指定席に挑戦できる、という趣旨の試み。

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我々はまず、大森城から攻めました。

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大森城は奥村氏の居城でしたが、天正10年(1582)6月、本能寺の変を受けて信濃(川中島)から撤退してきた森長可に攻められて落城したと伝わります。
城跡に残る横堀や土塁、虎口などの遺構の規模や技巧性から、落城後は森氏の手によって改修が加えられ、美濃金山城の出城(の一つ)として利用されていたとも考えられています。

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城山東麓に建つ大森神社
こちらの社殿手前を右へ進み、北側から城跡に入ります。

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いくつかの曲輪跡を抜けて・・・

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ものの5分も登ると主郭に到達。

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我々も登ってきた主郭北側の先には小さな平場があり、馬出のようになっていました。

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主郭を取り巻く横堀(東側)

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主郭の更に南側にも、かなり良さそうな遺構が覗いていましたが・・・
大雨の影響もあって足元はぬかるみ、大変滑り易くなっていましたので、残念ながらこの日は立入禁止。

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最後は主郭東側の横堀に下り、堀底を通って引き揚げます。

通行証はGETしたので、今回の大森城攻めはここまで。
いずれまた、天候の良い時にじっくりと攻めましょう。

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2城目は久々利城

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久々利城も天正11年(1583)、森長可に攻められて落城していますが、その後はやはり森氏によって改修され、防衛拠点の一つとして利用されていたようです。

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上の縄張図で枡形虎口とある辺り。
井戸も確認できます。

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三の丸から二の丸 & 本丸を仰ぎ見る。

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本丸手前から、東の尾根に展開する曲輪群方向。

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本丸からの眺め・・・ある意味、幻想的(笑)

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「イチオシ」と言われちゃあ、行くしかないでしょ。

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1本目の堀切に架かる土橋

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二重堀切の1本目・・・薄い。

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そして2本目・・・こちらは深く切り立ち、なかなか見応えのある遺構でした。

さて、久々利城も足場が悪いのでサクッと切り上げて・・・

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ランチは唐揚げに定評があるという中華屋さんで。物凄いボリュームでした…(^_^;)

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この日のラストは、5月にも訪れている美濃金山城参照記事)へ。
既に通行証は2枚(大森・久々利)GETしているので、本丸の発掘現場へ直接向かいました。

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今回発掘調査が進められたのは、本丸の中で天守台と考えられているポイント(つい最近まで神社が建っていた場所)。
写真は天守台石垣(南面)の内側で発掘された石列。

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そして、内向きに面して築かれていた石垣(南東角)も。
この遺構により穴蔵、もしくは半地下構造を有する天守が建っていたのではないか、と考えられるようになっています。

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麓を流れる木曽川の下流域から持ち込まれたと思われる、小さな川原石を敷き詰めたような遺構。
内向きの石垣が発掘されたポイントよりも少し西側で、御殿跡とされる礎石群寄りの場所から発掘されています。こちらは今のところ、天守への入口にあたる通路の痕跡ではないかと思われる、とのことでした。
ここまでが、美濃金山城天守の初期段階の遺構と推定されています。

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川原石発掘現場近くの地中断面。
真ん中に通る黒い筋は、神社建設の際に埋め立てられた草木の層なのだそうです。
つまり、神社建設に伴う造成前までは、黒い筋のすぐ下が地表面だったということになります。
写真を見てもお分かりの通り、川原石の推定通路跡は神社造成前の段階で、既に埋められていたことが明確になります。

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こちらはある時期に、礫や粘土質の土で埋められていたことが判明した内向きの石垣。

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天守台北側、不自然に鋭角な角度で伸びる石列(いったいどんな構造の建物が乗っていたのでしょうね?)と、何故か川原石を撒き散らして石列を埋めたかのような痕跡。
石列の角度も不思議ならば、川原石の散在もなかなか説明がつきそうにありません。
2つ前の写真でご紹介した通路跡と思われる川原石より、上の層から発掘されています。

これらの調査結果を元に検討された結果、一度築かれた(初期)天守を取り壊し、その上から新たな天守(第二期)を築き直しているのではないかと考えられています。
但し、今回の調査で発掘された遺構が持つ個々の情報を整理するのが難しく、この翌日に行われたトークショーの第2部でも話題に上り、出演者の方々からも様々な意見が出されていました。

それらを参考に素人なりの印象をまとめると、内向きの石垣や石列をわざわざ埋めたということは、やはりより広くて高い(重い)建造物を建てるための造成だった、ということでいいのではないかと思います。
穴蔵(半地下)構造を埋め、これまでの縄張(石列の配置など)を一旦無にして均し、広くて平らなスペースを確保した、と考えられないでしょうか。

しかし、それでも美濃金山城の天守台には、大きな建造物を建てるのに充分なスペースがあるとは言い難いのですが、そこで注目されるのが・・・

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天守台の南東角から伸びる、石垣に覆われたこちらの1本の石塁。
この石塁の存在により、天守台の南側は枡形虎口のようになっているのですが、実はこれ、明らかに後から増築されているのだそうです。

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石塁の内側(枡形内)つけ根部分。
石垣を初めから折って築いたのではなく、明らかに天守台石垣(左)の面に垂直に土盛りを取り付け、そこに石垣を積んだ様子が見て取れます。

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石塁の外側(東)
左の石垣と自然岩盤の境界が、件の石列と天守台の境目。
石塁の石垣は写真右端に見える天守台石垣とも、積み方に時間差が見受けられるそうです。

何故、わざわざこのような石塁を築いたのか・・・そこには必ず何かしらの意図があるはず。
例えば、虎口や通路を跨ぐようにして築かれた建造物は他にも事例がある訳で、現地にいらした可児市教育委員会の方も仰っていましたが、石塁や枡形の周辺に、美濃金山城天守の建て替えに関するヒントが眠っているような気がします。

近いうちに枡形も調査する予定とのことでしたので、そちらの調査も楽しみに待ちたいと思います。

この後は可児市内のホテルにチェックインし、近くの居酒屋で乾杯☆
楽しく盛り上がりました。


■10月22日(日) あそぶ

台風の影響で、この日も朝から本格的な雨模様。
9時過ぎにホテルを出発し、会場の可児市文化創造センターalaへ。

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前日にGETした通行証を手に、10時からの優先指定席(100席)券配付に向けて列に並びます。

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早めに並んだ甲斐もあり、特製レジャーシート付の優先指定席券は無事に確保できました。

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トークショーは午後1時~なので、それまでは会場内で思い思いに過ごします。
私はグッズ売り場で「センゴク」シリーズの織田信長の手ぬぐいを購入~♪

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ブースコーナーでは、美濃金山城天守台で発掘された遺物の展示も。やはりアカニシガイが一際異彩を放つ。
軒丸瓦も立派なもので、それなりの規模・格式を持った建造物が建っていたことを窺わせます。
近いうちに訪れたいと思っている小里城や鶴ヶ城(高野城)の資料も配布されていました。
※アプリ「発見!ニッポン城めぐり」のブースが最も行列を作っていましたが、個人的には興味がないのでスルー(笑)

その他、「センゴク」名場面集のコーナーや、香川元太郎先生の城郭復元イラスト作品集のコーナー等々。
一度、昇太師匠や中井先生、加藤先生、香川先生がグッズ売り場などの様子を見に現れ、宮下先生も「センゴク」名場面集コーナーをスタッフの案内で訪れていました。

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お昼は屋台で水攻めカレーをGET。

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腹拵えも済んだところで、トークショーの会場へ。

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トークショー第1部はセンゴクの城を語る
出演は「センゴク」シリーズ作者の宮下英樹先生、春風亭昇太師匠、城郭考古学の中井均先生、加藤理文先生、イラストレーターの香川元太郎先生で、可児市教育委員会の方の進行で進められました。

出演者各位がそれぞれ持ち寄った城の写真を見ながら、その魅力などについて語っていく内容でしたが、途中からは客席参加型の城当てクイズ大会の様相を呈してきました(笑)
さすがに最前列に陣取っていた効果もあり、私の仲間たちは3人ほどがちゃっかり景品をGETしておりましたwww

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第2部は発掘!美濃金山城
出演者は第1部同様で、美濃金山城の天守台発掘調査の成果報告から、推定される天守の姿についてのディスカッション。
美濃金山城訪問時の記事内でも書きましたが、ここでも飛騨高山城や松倉城、越前大野城などの事例を交えつつ、様々な意見が出されていました。
その中でも印象に残っているのは伊予松山城。香川先生が複数の古絵図を提示して伊予松山城初期の天守についてお話しをされていましたが、それらを元に推定復元された築城当初の姿は、これまでは五層の天守があったとさえ言われてきた通説のものとは大きくかけ離れていました
お城の定説も常にUPDATEされていくということを、ここでも改めて実感。
※トークショーの間中、宮下先生は他の先生方に個人的な質問をガンガンぶつけていました。それはそれで聴いていて楽しかったのですが、よくマイクを取り忘れていらしたので、最前列に座っていた私にはそれでも聴こえたものの、後方の方々には少し可哀想に思えました…(^_^;)

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最後は宮下先生に、可児市山城連絡協議会のベスト(蛍光グリーン)が授与されました。
これで来年以降も「センゴク」が可児に帰ってくる!?

あいにくな天候でしたが、ここではとても書き切れないほどの様々な知見も得られ、充実の2日間でした。来年もチャンスがあれば是非、参戦したいと思います。
※翌23日(月)もせめると題して、昇太師匠と苗木城跡を攻める企画が予定されていましたが、そちらは台風の影響で早々に中止が決定していました。
(といっても私自身は仕事があるので、元々予定には入れていませんでしたが)

関係者の皆様、お疲れ様でございました。
P.S. さちこさん、早く良くなってくださいね。

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2017年8月26日 (土)

旧中山道 加納~関ケ原(加納城、赤坂御茶屋屋敷、他)

8月19~21日にかけ、またまた岐阜にお邪魔してきました。まだ8月だというのに、今年に入って早くも5度目(笑)
今回の一番の目的は、岐阜市歴史博物館で期間限定(8/11~20)で公開された織田信長の肖像画(長興寺蔵)を拝観すること。
19日は仕事の都合で岐阜入りが遅れたので実質移動日として、20日の朝、いつもお世話になっているゆっきーと合流し、岐阜市歴史博物館の前にまずは関ケ原にある不破関資料館へ行ってみることになりました。
その道すがら、まだ未訪だったので加納城跡にも立ち寄ってもらいました。

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加納城は慶長6年(1601)、その前年に起きた関ヶ原の戦いの前哨戦で岐阜城が落城した後、この地に封じられた奥平信昌によって築かれました。
現在では本丸、及び二の丸のごく一部が僅かにその痕跡を留めています。

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加納城本丸、その南側の石垣。

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同じく本丸南側の堀跡。

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本丸の曲輪内はかなり広い空間になっていました。
写真中央、北西角には天守台があったようです。

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本丸北側の石垣。
時期が時期だけに、雑草で見えづらいけど…(^_^;)

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本丸東面には、出枡状に突き出た枡形虎口も。
従来はこの突当りで左へ折れ、二の丸へのルートが続いていました。

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枡形の先、本丸と二の丸間の堀跡(空地部分)
発掘調査の結果、この堀は障子堀になっていたことが判明しているそうです。
テニスコートの辺りからが二の丸跡と思われます・・・若干高くなって高低差も残っていますね。

さて、それでは関ヶ原へ向けて再出発します。
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加納城跡のすぐ北側には旧中山道が通っています。
中山道は当然関ヶ原へ続いていますので、我々もそれを車でなぞるように進むことにしました。

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河渡の渡しで長良川を越えて・・・

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美江寺宿

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美江寺宿跡付近には、旧中山道の宿場名を刻んだ石柱が立ち並ぶ広場がありました。
加納、美江寺、垂井に、、、

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遊歩道を挟んだ対面には河渡、赤坂、関ヶ原、、、
左右の石柱を交互に読んでいくと、旧中山道の宿場町の並びになるようです。

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舩場ヲ径テ太田町と刻まれた道標。
平成27年、とある民家の敷地から発見されたそうです。
その家主によると、家主の父親が50年ほど前、可茂地域の道路工事現場から運んできた土砂に紛れ込んでいたようですが、その工事現場の位置については、残念ながら今となっては不明なのだそうです。

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引き続き旧中山道を進みます。
先日訪れた呂久の渡し(参照記事)で揖斐川を越え、写真の場所では道路を農道側へ渡ってすぐに右折します。すると・・・

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こんな路地に入りますが、これも旧中山道。

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しばらく進んで杭瀬川を越えると・・・

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赤坂宿へ至ります。
ここでもう一ヶ所、立ち寄りポイントへ。

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赤坂御茶屋屋敷跡
江戸~京往還のために設置された徳川将軍専用の宿泊・休憩施設で、慶長10年(1605)の完成。徳川家康や秀忠らが利用しました。

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一歩足を踏み入れると・・・いきなり趣のある土塁が出迎えてくれました。
奥には井戸跡も。

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この土塁を越えた先には・・・

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横堀がハッキリと残っていました。
こちらもいい感じです。

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なお、御茶屋屋敷跡の敷地は現在、「赤坂ボタン園」として開放されています・・・時期じゃないけど。
駐車場も完備。

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赤坂宿御使者場跡
右奥は、関ヶ原の戦い前日に起きた杭瀬川の戦いで戦死した野一色頼母を葬ったと云う兜塚

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兜塚の碑
野一色頼母(助義)は東軍・中村一氏の家老でした。

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赤坂宿を過ぎると、程なくして関ヶ原に至ります。
写真は関ヶ原の戦いで、徳川家康が最初に陣を布いたと伝わる桃配山の麓を通る旧中山道の松並木

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ゴールの不破関資料館。
不破関や壬申の乱について簡単に勉強させていただきましたが、いずれちゃんと調べた上で、関跡や壬申の乱関係地も歩いてみたいと思います。

それでは岐阜市までUターンして、歴史博物館を目指します。

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2017年7月20日 (木)

島津の退き口 (関ヶ原~多良)

夏の岐阜旅2017、2日め(7月17日)は島津の退き口です。

慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原の戦い
合戦に敗れた西軍に属す島津義弘の軍勢は、東軍総大将・徳川家康本陣の鼻先を掠めるようにして敵中を突破、追撃する東軍諸隊と壮絶な退却戦を繰り広げつつ、伊勢街道を南下して戦場を離脱します。これがいわゆる島津の退き口

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という訳で、この日のスタートは関ヶ原古戦場、島津義弘陣跡から。

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島津義弘陣跡から見る開戦地、小西行長陣跡、そして松尾山(小早川秀秋陣跡)。
まさに西軍の最前線ライン上ともいえる位置取りなのですが・・・島津隊は二番備えだったとも云われており、案内板によると実際にはもう少し後方に布陣していたようです。

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島津隊の戦場離脱ルート。
家康本陣の脇を掠めるようにして伊勢街道へ向かっています。

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なんとか家康本陣近くを通り抜け、伊勢街道へ出た先・・・烏頭坂

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烏頭坂に建つ島津豊久顕彰碑
義弘の甥(弟・家久息)である豊久は、大将の義弘を逃がすためにこの地に踏みとどまり、殿(しんがり)を務めて奮戦します。
これまで一般的に豊久は、烏頭坂での殿戦で義弘の身代わりとなって討死を遂げたとも伝えられてきましたが、一説には重傷を負いつつも家臣に守られ、多良(大垣市上石津町)の辺りまで逃れたという伝承も残っているようです。
今回は我々も、この伝承を追って更に南へ進んでみることにします。

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移動中に見かけて立ち寄った木曽神社。
源頼朝の追討軍に敗れて戦死した源(木曽)義仲。
旧臣に守られ、この地に隠棲した息女・糸姫は義仲寺(後に宝聚院。義仲墓所あり)を建立して父の菩提を弔ったと云います。

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近くには地蔵群の脇に、義仲を詠んだ松尾芭蕉の歌碑も建っていました。

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大垣市上石津町牧田の琳光寺

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琳光寺境内に建つ阿多長寿院盛淳の墓所。
島津家の家老だった阿多長寿院盛淳は、本領蒲生の兵70を引き連れて義弘の元へ馳せ参じ、関ヶ原に参陣していました。
西軍の敗色が濃厚となって島津隊が戦場に孤立すると、主君・義弘は切腹しようとしますが、盛淳は豊久と共にこれを諫め、退却戦に移りました。
豊久の烏頭坂に続き、盛淳はここ牧田に踏みとどまって殿を務め、義弘の退却を見届けると拝領した陣羽織をまとって追いすがる東軍の中へ斬り込み、壮絶な討死を遂げました。

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琳光寺近くには、盛淳の顕彰碑も建っていました。

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ちょっとまた寄り道をして・・・西高木家陣屋の長屋門。

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西高木家陣屋図

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結構な規模を誇る石垣と、上屋敷跡へと続く坂(石段?)

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埋門

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井戸跡

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私有地で立ち入れない箇所にも、石垣が覗いていました。

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西高木家は2300石を領する旗本。
その家格に見合う規模なのかどうかは分かりませんが、それにしても立派な石垣に少々驚かされました。

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西高木家陣屋跡には現在、上石津郷土資料館が建っています。

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ちょうど島津豊久を主人公に描いたマンガの原画展が開催されていましたが、個人的には;
・織田信長の朱印状
・羽柴秀吉の書状(賤ヶ岳合戦直後、戦陣からのもの)
・徳川家康の書状
などの方に興味を惹かれました。

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上石津町上多良瑠璃光寺

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瑠璃光寺は、重傷を負って多良まで逃れてきたと云う豊久の菩提寺になっています。
許可を得て、本堂にて豊久の御位牌にもお参りさせていただきました。
慶長五年庚子
嶋光院殿忠道源津大居士神儀
九月十五日

文字もかすれ、煤けたような黒漆地がまた、400年以上もの時の移ろいを醸しだしているようで感動いたしました。

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瑠璃光寺近くの島津塚・・・豊久の墓所と伝わります。
烏頭坂での殿戦で重傷を負いながらも勝地峠を越え、多良まで辿り着いた豊久でしたが、受けた疵重く、これ以上は付き従う家臣らの足手まといになると考え、遂には近くの白拍子谷にて自害したと云います。

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島津の退き口めぐり、ラストはその白拍子谷へ。

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白拍子谷・・・島津豊久最期の地。

島津豊久や阿多盛淳らの奮戦もあり、無事に薩摩へと帰り着くことのできた島津義弘。
島津家では義弘帰還後も、豊久戦死の確報を掴めていなかったらしく、義弘はその後、3年もの長きに渡って家臣に豊久の消息を探らせたのだそうです。
※但し、そうなると豊久に付き従っていた家臣は誰一人、本国へ帰還できなかった(報告できなかった)ということにもなる訳で、であればそもそも豊久が烏頭坂から重傷を負いながらも、多良(白拍子谷)まで辿り着いたという伝承の信憑性は…?と疑問も湧いてきますが、この辺りはよくわからないので、あまり深く追及しないことにします。


この後は、解散前に海津市にある高須松平家の菩提寺・行基寺にも立ち寄りましたが、そちらは再訪の為、過去記事のリンクを貼っておきます。
美濃高須

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2017年5月13日 (土)

本證寺、安祥城、小豆坂古戦場

GW旅3日目…最終日。
この日は愛知県東部、三河地方をめぐります。

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まずは三河一向一揆の拠点にもなった、安城市野寺の本證寺から。
鎌倉時代後期の創建で、室町期に真宗本願寺派に転じています。

三河一向一揆
永禄6年(1563)、「守護不入」の特権(寺内の治外法権と租税免除)を主張する一向宗寺院は、本證寺10世・空誓(蓮如孫)が中心となって蜂起し、特権を排除して三河の支配強化を図る徳川家康と争いました。
翌永禄7年、一揆勢は小豆坂・馬頭原での戦いに敗れて家康と和議を結びますが、家康からの改宗命令を拒否したために追放され、伽藍は破却、一向宗の信仰も禁じられました。
三河に於いて一向宗が赦免されるのは、約20年後のこと(天正11年に信仰が再び認められ、同13年には家康の黒印状で道場屋敷の保証と寺内の租税免除が認められている)。
以降、江戸期には東本願寺(大谷)派に属して三河の触頭として栄え、幕末には末寺200以上を有するまでになっています。

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本堂は寛文3年(1663)の再建。

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本證寺には往時、内外二重の堀が厳重に廻らされていました。
濃い緑色の部分が、現在もその姿を留めている箇所になります。

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本證寺に現存する堀と土塁(内堀)
通常は公開されていませんが、ご住職にお伺いすると許可していただいたばかりか、ご案内までしてくださいました。

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それにしても見事な土塁。

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続いて外堀の探索へ。
こちらは東面の外堀の一部。

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外堀から山門(奥に本堂)までの距離感。
この内側がいわゆる「寺内」「寺内町」となります。

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北面にごく一部だけ現存する外堀。

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先にご案内いただいた内堀の土塁は、境内外側からも見ることができます。

一度拝見してみたかった本證寺の遺構・・・念願叶って感謝。

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続いて安祥城へ。
安祥城は安祥松平氏(徳川家康の家系)の拠点だった城。
安祥松平氏は4代・清康の時に、本拠を岡崎へ移しました。
城跡一帯は現在、「安祥文化のさと」として整備され、歴史博物館を初めとする様々な施設が併設されています。

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その歴史博物館では常設展の他、こちらの企画展も見学しました。
今川義元の感状や、この直前に訪れていた本證寺の御本尊なども展示されていました。

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館内に設置されていた松平清康像。

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続いて安祥城本丸跡へ。
現在は大乗寺の境内となっています。

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天正12年の小牧長久手合戦時にも利用され、改修の手が加えられているようです。

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安祥城本丸

清康の死後(天文4年「守山崩れ」)、同族間の争いで混乱する三河を狙って東からは今川が、そして西からは織田信秀が触手を伸ばしてきます。
天文9年(1540)には信秀が安祥城を攻略し、長子の信広を据えています。(※天文16年など諸説あり)
小豆坂での戦いを経た同18年(1549)、今度は今川方の雪斎が安祥城を奪還し、松平広忠死後の岡崎にも城代を派遣して今川家による三河の支配体制を確立しました。
今川家による三河の実効支配はその後、桶狭間での義元討死(1560)~松平元康(徳川家康)の独立まで続くことになります。

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安祥城本丸脇に建つ、本多忠高(徳川四天王・本多忠勝父)の墓碑。
天文18年の安祥城攻めで今川方として奮戦し、本丸付近で戦死しています。
墓碑は寛政9年(1797)、250回忌で岡崎城主の本多忠顯が忠高戦死の地に建立しました。

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お次は小豆坂古戦場へ。

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小豆坂古戦場碑

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血洗池跡の碑
これらの石碑はいずれも、付近の関連地から一ヶ所に集められたものです。

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天文11年(1542)にあったとされる第1次小豆坂合戦で奮戦した織田方の七将が、槍を立てて休憩したと伝わる鎗立松の碑。

天文9年に安祥城を手に入れ、三河進出を目論む織田信秀と、それを阻止せんと正田原(信長公記)に押し寄せた今川勢との間で、天文11年8月に勃発したと云われる第1次小豆坂合戦
しかし、この合戦は1次史料では「信長公記」にしか見られず、しかも「公記」には年次が示されていません。天文11年としているのも「甫庵信長記」など、後世の創作物のみです。
近年では、今川の勢力が天文11年の段階では未だ西三河に及んでいるとは思われず信秀の安祥城奪取を天文16年と匂わす文書(織田信秀宛北条氏康書状)が存在することもあって、戦いそのものの存在を疑問視する見方が強まっています。
なお、天文17年(1548)3月第2次合戦は、今川義元の感状も残っているので間違いのないところでしょう。

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先ほどの石碑群とは少し離れた場所にある、小豆坂戦没者英霊記念碑。
そして・・・

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江戸時代の古絵図を元にアタリをつけた、正田原(付近の県道48号沿いに「正田城跡」あり)を駆け下る小豆坂の旧道
今となってはなだらかになっていますが、坂下には「陣場」(岡崎市羽根町陣場)という地名も残っており、この付近で合戦が行われたことを暗に示しているかのようでもあります。
また、その更に西方には天文17年の合戦(第2次)で、織田方が布陣したと云う「上和田」の地名もあります。

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小豆坂の旧道は県道26号線との角に建つ、こちらのモニュメントが目印です。
(「不吹町北」交差点)

天文17年の合戦は今川の勝利に帰し、敗れた織田勢は安祥城へ撤退します。
翌天文18年、岡崎の松平広忠が家臣に刺殺され、更に安祥城を今川に奪われて西三河での拠点を失った織田信秀は、安祥城で生捕られた信広と、広忠の遺児・竹千代との人質交換に応じざるを得なくなり、三河は完全に今川の勢力下に布かれるようになりました。

なお永禄7年(1564)には、前年から三河一向一揆との戦いを強いられていた徳川家康が、この小豆坂、及び馬頭原での一揆勢との決戦に勝利して和議に持ち込み、最終的に一揆の解体に成功しています。

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2017年4月21日 (金)

「おんな城主 直虎」の里をめぐる

静岡旅2日目、4月16日は大河ドラマ「おんな城主 直虎」で話題の井伊谷をめぐります。
浜松駅前で集合~車で三方原古戦場を通過し、まず最初に向かったのは・・・

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三岳城です。
南北朝の時代から井伊氏の拠点となっていましたが、永正年間には今川氏との争いに敗れて落城しています。

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中腹の三岳神社までは車で登り、そこから登山道を15~20分ほどで尾根に出ます。
※登り始めてすぐ、山道上で大きなに遭遇しました…(・・;)

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箒松の石碑
三岳城は、この石碑のある尾根の鞍部より西に本城、東に二の城(出城?)とがあります。

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まずは本城へ向かいます。
本城への登り口が枡形虎口のようになっています。

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本城東端、腰曲輪のような2段の曲輪跡。

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かなり大きな岩が思わせぶりに並んでいました。

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主郭への虎口

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三岳城主郭

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三岳城主郭から、井伊谷の里を望む。
奥には浜名湖。井伊家の菩提寺である龍潭寺も見えています。

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三方原台地の地形も確認できます。
横へグリーンベルトのように樹木が連なっている部分が台地の縁で、写真中央付近に祝田坂の旧道があります。写真には写っていませんが、更に右へ行った先には、武田信玄が三方原の合戦後に入って越年したと伝わる刑部城もあります。

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主郭西側の斜面を下ると、塹壕のように土塁が盛られた帯曲輪がありました。
一部、岩を積み上げて石塁になっている箇所もあります。

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土塁の先を覗き込むと、更に下段にも・・・かなりの高低差があり、巨大な横堀のようにも見えます。

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その下段に下りてみると、石塁による間仕切りのような遺構が数本見受けられました。

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全く想定もしていなかった規模の見事な遺構です。

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堀底を進むと・・・

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保存状態の良い石積みもありました。

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石積み

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この石積み部分にも仕切りの石塁があり、堀底が四角い空間のようになっていました。
写真は、仕切りの石塁上から石積み方向。

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その仕切りの石塁・・・まるで登り石垣。

これら、主郭の西方下段に築かれた腰曲輪と横堀状遺構のスケールや石塁には正直驚きました。
城郭史には全く疎い身ですが、直感としてこれはもう、戦国後期の遺構。永禄~元亀年間にかけて、この地域は徳川vs武田争奪の舞台となっており、現地案内板にも
“武田か徳川の改修による遺構とみられる”
とありましたが、然もありなんといった印象です。
※そういえばどことなく諏訪原城本曲輪の、東面下段で見受けられる遺構に構造が近いような気もします。

一旦箒松の碑まで戻り、今度は二の城へ。

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二の城で最初に現れた、南側だけを落とした片堀切

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二の城は削平も甘く、藪っていたこともありますが、見るべき遺構は東端の堀切(写真)くらいか。

さ、それでは井伊谷の里へ。
※ご紹介する各ポイントの詳細な位置については、井伊谷の観光案内等を参照ください。

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井殿の塚
小野和泉守政直の讒言により、今川義元に誅された井伊直満(23代直親の父)・直義兄弟の墓。
塚の石垣(玉垣)は幕末、井伊直弼が寄進したものと伝わります。

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井伊氏居館跡推定地(引佐町第四区公民館付近)から、井伊谷城全景。

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井伊谷城に登ります。

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井伊谷城図

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虎口と土塁

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井伊谷城は山上に築かれた単郭の城で、周囲の土塁も一部、薄っすらとですが残っていました。

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井伊谷城から望む井伊谷の里。

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同じく井伊谷城から、この日最初に登った三岳城(右奥の頂部)。

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二宮神社
南北朝時代、井伊谷を拠点として戦った南朝方の宗良親王を合祀しています。

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元亀3年の戦乱で、武田軍の兵火によって焼失したと伝わる足切観音堂。

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永禄12年、その前年に井伊谷へ進攻してきた徳川家康によって井伊谷城を追われ、潜伏していたところを捕らわれ処刑された小野但馬守政次終焉の地
※井伊谷城北東麓。国道257号を北へ進み、二宮神社の参道入口を過ぎて2本目の路地を左へ入ってすぐ。

辺り一帯は当時「蟹淵」と呼ばれ、すぐ近くを井伊谷川が流れていますが、その右岸(この供養塔が建っている側)の河原(現在は造成で消失)が処刑場であったと云います。享年34。

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少し移動して都田川の河畔、井伊直親の墓所へ。

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永禄5年、小野但馬守の讒言に遭った直親は、その申し開きに駿府へ向かう途中、掛川城主・朝比奈備中守泰朝によって殺害されました。享年27。
彼の遺骸はこの地まで運ばれ、都田川の河畔で荼毘に付されたと云います。
(墓前の石灯籠は井伊直弼の寄進)

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永禄五壬戌年十二月十四日
なお、塚は本来200mほど東にありましたが、堤防移築により現在地に移されています。

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お次は井伊氏初代・共保出生の井戸

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井伊家の替紋「井桁」のモチーフにもなった井戸。
この傍らに生えていたと云うのが、定紋になる「橘」です。

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井伊谷宮にも参拝

井伊谷宮から宗良親王の御墓の前を通り、龍潭寺へ向かいます。

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井伊氏歴代墓所
右の大きな墓石が直盛(直虎父)、左列奥より直盛夫人、直虎、直親、直親夫人
(直政は石灯籠の陰・・・)

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新野左馬助の墓
その奥に井伊谷三人衆の一人、鈴木重時。

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中野氏一族、その奥に小野玄蕃や桶狭間合戦戦死者16将の墓。

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奥山氏三代

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井伊谷三人衆、近藤康用(左)と菅沼忠久(右)

こうして武将たちの墓にお参りしていると、各々の俳優さんの顔を思い浮かべてしまうのは・・・大河ドラマ放映中なので致し方ないところ(笑)

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龍潭寺開山堂

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本堂

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十一面観音菩薩像
江戸時代、琵琶湖の湖底より投網で引き上げられた、との逸話を持つ一体です。
一説には織田信長による延暦寺焼き討ち(元亀2年)の際、近隣の寺々では御本尊などを兵火から守るため、琵琶湖に沈めて避難させたのだとか・・・。
こちらはそのうちの一体が、江戸期まで引き上げられることなく湖底に残されていたものと考えられています。

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井伊家の籠

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開山堂に安置される(右から)初代・共保、22代・直盛、24代・直政の木像。

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歴代の御位牌

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小堀遠州作の庭園

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軒丸瓦の井桁の新緑・・・井伊ね♪
書院の寺宝展では、織田信長所用と伝わるけん(山へんに見)山天目茶碗黄西湖茶碗(共に織田信雄を経由して寄進?)も拝観できました。

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小野但馬守に井伊谷城を押さえられた虎松(直政)は、母と共に龍潭寺松岳院に身を寄せます。
虎松の母は松岳院に地蔵を祀り、その傍らには梛の木を植えて我が子の安泰と成長を願ったとか。
その梛の木と・・・

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虎松の無事成長祈願仏

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所変わって、こちらは井伊直虎の菩提寺、妙雲寺
2015年に発見されたばかり井伊直虎、そして南渓和尚御位牌を拝観できました。

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ラストは地域遺産センターで開催中の特別展「戦国の井伊谷」

2日目は観光気分とはいえ、今話題の地をじっくりとめぐれて楽しかった。
今回の静岡旅も充実の2日間・・・体はボロボロだけど(笑)

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2017年4月20日 (木)

江尻城

薩た山~横山城をめぐった後は、オフ会参加者による懇親会のため清水駅へ移動。
懇親会の開始までは少し時間があったので、江尻城跡を歩いてみることになりました。

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駅から江尻城へ向かう途中、徳川家康の長男・信康の墓所がある江浄寺の前を通過。
残念ながら、17時を過ぎていたので参拝は叶いませんでした。

江尻城図
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これを現在の地図にあてはめると・・・

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おおよそ、このようになります。
ヘタクソな手書きのため、多少のズレなどはご容赦ください…(^人^;)
現在は直線に改められた巴川の流路も、当時はかなり蛇行していました

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地図をご覧いただいても分かる通り、本丸の大部分は江尻小学校の敷地になっています。
校門の名前も・・・(笑)

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地図 a地点から南西方向。
先の方で地形が下っているのは、蛇行していた当時の巴川の痕跡です。
この通りの左側が本丸跡になります。

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b地点
高低差がお分かりでしょうか。手前の低い部分が巴側の跡で、高い部分が本丸跡。
つまり、ここが本丸の南東側の縁ということになります。

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江尻城本丸跡
天正10年(1582)4月には、甲州征伐を終えて安土へ凱旋する途中の織田信長も、江尻城に一夜の宿を取っています。

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最後に、三の丸跡地に建つ小芝八幡宮。
西暦811年の創建と伝わる古社で、永禄12年の江尻城築城の際、城の鎮守として城内に移されました。
但し、現在地に移されたのは廃城後とのことなので、江尻城時代には更に別の場所に祀られていたようです。

この後は駅前で懇親会☆
短い時間でしたが、疲れた体に沁み渡る生ビールと、楽しい城・歴史・街道話でおおいに盛り上がりました♪

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2017年4月19日 (水)

薩た山陣場と横山城 (第2次薩た峠の戦い)

2017年4月15~16日は静岡への旅。
15日は薩た(土へんに垂)山に築かれた陣場跡をめぐるオフに参加させていただきました。

図1(第1次薩た峠の戦い)
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永禄11年(1568)12月6日、甲斐の武田信玄は甲相駿三国同盟を破り、駿河へ向けて甲府を出陣します。
12月12日、武田軍が内房(富士宮市)に現れた、との報せに接した今川氏真薩た峠に兵を送り、自らも興津の清見寺に本陣を据えました。
この一連の流れを見る限り、甲府を出た信玄は富士川沿いを南下して、東海道を西へ進んだようにも思えます。しかし、そうであるならば、富士宮市の大宮城や富士川西岸の蒲原城といった拠点が、少なくともこの時点では攻められることも、逆に防戦することもなく素通りされていることになる点が解せませんでした。
しかも、難所の薩た峠を中心に備える15,000もの今川の戦線が、翌13日にはあっさりと突破され、氏真は駿府の賤機山城に籠る暇すらなく、掛川へと逃れているのです。

この点について、今回の案内役であるサイガさんの説では、武田軍は東海道とは別ルートから侵攻し、今川軍の背後を衝いたのではないか、とのこと。
実は、薩た峠の背後(西麓側)の興津川沿いには、甲斐の国へ通じる身延路が通っています。内房には別働隊でも回し、信玄本隊は或いはこの身延路を使って今川軍の背後を衝くように一気に駿河へと侵攻したか・・・。
それであれば、僅か一日で薩た峠の防衛線を突破された(というより裏を取られた?)理由も、氏真が一目散に掛川まで逃げ去った(この時、氏真室の早川殿は輿にも乗れず、徒歩で駿府を脱したと云います。これを知った父・北条氏康は激怒し、上杉謙信に「この恥辱そそぎがたく候」との書状を書き送っています)理由にも説明がつくように思えます。
※甲斐⇔駿河の国境で、身延路にも通じる樽峠には、信玄が駿河侵攻の際に利用したとの伝承も残っているようです。

図2(第2次薩た峠の戦い)
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信玄の駿河侵攻に怒った北条家は対抗策として、氏政を総大将とする45,000もの兵を出し、蒲原城を拠点として薩た山に陣場を築いて布陣します(永禄12年1月)。
対する信玄は、18,000の兵で薩た山から興津川を挟んだ対岸の横山城に入り、両軍の睨み合いが続きました。

・・・さて、前置きが長くなりましたが、今回はこの第2次薩た峠の戦いの舞台、薩た山の陣場横山城を中心に見てまわります。

興津駅で集合し、まずは薩た峠を目指して出発。今回は全行程、歩きです…(^_^;)

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しばらくすると薩た山の全景が見えてきました。

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北を向くと右に薩た山、左には横山城が見えています(写真左寄り、低くて丸い稜線先端付近)。
この間には興津川が流れ、まさに北条×武田両軍が対陣した舞台です。

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我々は中道で薩た峠を目指します。

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細い農道の急坂を越え、最後にこちらの切通し道を抜けると・・・

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薩た峠に出ます。

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歌川広重も東海道五十三次に描いた風景・・・富士山が見えない(>_<)
遠くに見える山の稜線の、右端付近に蒲原城があります。

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峠を越える旧東海道

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峠の駐車場の先で旧東海道を離れ、山側の道を更に登り、この写真のポイントでいよいよ本格的な登山に入ります。
※ここから東堀切までのルートは1年前にも歩いており、コチラの記事でご紹介しているので今回は省略します。

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急勾配の登りをなんとか乗り越え、写真の土橋を抜けて最後の登りをクリアすると・・・

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巨大な東堀切が姿を現します。

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東堀切の堀底から・・・杉が多すぎて分かりづらいですよね(--〆)
圧倒的な幅や深さを、雰囲気だけでも味わっていただければ・・・。

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こちらは少し浅いけど分かりやすいかな。
南に向かって、竪堀のように落とされている部分です。

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東堀切を越え、しばらく細い尾根を進むと虎口のような場所が出てきました(図2 a地点)。
この辺りから、鯵ノ平と呼ばれる陣場に連なる遺構が点在していきます。

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その虎口を内側から。
しっかりとルートを折って、一段上に上げています。

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虎口の先もしばらくは細い尾根道が続きますが、その脇にはしっかり土塁の跡がありました。

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鯵ノ平陣場下段。
削平された平場に、虎口?横堀?のような屈折した幅広の溝があったのですが・・・写真だと何のこっちゃですね(T_T)

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鯵ノ平陣場上段へ向かう途中。
通路なのか、竪堀のような溝が上段へ向かって伸びていました。

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鯵ノ平陣場上段。
きちんと削平された平場というよりは、なだらかな緩斜面が続いていました。
しかし広さは結構なもので、それなりの兵数を駐屯させることができたのではないかと思います。

薩た山には陣場跡とされる遺構が何箇所も点在していますが、この鯵ノ平陣場周辺が北条軍主力部隊の拠点ではないかと推定されています。

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鯵ノ平で昼休憩をとった後は、承元寺方面へ向けて徐々に下っていきます。

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一旦、林道の終点のような場所に出ますが林道は下らず、ご覧の藪を掻き分けて進むと・・・

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急坂を迂回しながら下る林道とは別に、坂をダイレクトに下る九十九折れの堀底道が存在していました。(図2 b地点)

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この古道、西へ向いた方角から後に薩た山の突破に成功する武田軍による「仕寄道」では?という意見も出ました。

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深さも結構なものです。
しばらく下った先で迂回していた林道に戻りました。

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図2 c地点の堀切

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北条方の薩た山中腹から、武田方の横山城を見下ろす。
これが第2次薩た峠の戦いに於ける、両軍の距離感(北条目線)。

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南方に駿河湾を望むこの地で、東国の二大戦国大名が対峙していた・・・そう思うだけで興奮を抑えきれなくなる光景です。

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下山した先には承元寺。
更に南方の山麓には霊泉寺というお寺がありますが、そちらは後に江尻城へ入る穴山梅雪が開基したお寺で、彼の墓所もあります。

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そのまま興津川を越え、続いては武田方の拠点・横山城へ。

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鳥瞰図にも描かれた、麓の居館土塁の痕跡。

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城跡碑
ここから登ります(鳥瞰図a)。

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横堀
左奥にうっすらと、横堀外縁の土塁も見えています。

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今でこそかなり埋まって浅いですが、幅からしても結構な規模を誇っていたものと思われます。

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鳥瞰図に「小曲輪」と書かれた曲輪跡に出ました・・・藪!(笑)

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西曲輪⇔本曲輪間の堀切の底から、本曲輪の切岸を見上げる。(堀切は激藪のため、写真割愛…)
この切岸を駆け上がります。

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登った先から堀切を撮影してみましたが・・・深さが伝わりますかね?

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本曲輪外縁の土塁

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そして・・・横山城本曲輪から望む薩た山。
両軍対峙の距離感…武田目線。完全に見下ろされています。

対陣が続く中、兵站の確保も滞って徐々に窮した信玄は永禄12年(1569)3月、横山城に穴山梅雪を残して甲斐への撤退を開始します。
(同月、織田信長に対し、足利義昭への北条との和睦斡旋のとりなしを依頼する書状を送っています)

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横山城の麓には、鳥瞰図にも「旧甲州往還道」と書かれている身延路が通っています。

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城山南麓で左に折れ、北へと回り込む身延路。

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その先には、旧街道の必須アイテム?…馬頭観音。

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横山城から一旦、甲斐へと撤退する武田信玄。
間違いなく、この身延路を通っていったことでしょう。

20170415a44
旧身延路はこの先、山中かなり険しいルートを辿ることになるそうです。

一旦甲斐へと戻った信玄は6月に大宮城を陥落させた後、同年9月、北条家牽制のために関東へ進攻します。
上州から進んで鉢形城、滝山城などを攻撃しつつ南下し、10月には小田原城を包囲。北条方が籠城したため大きな戦闘はなく、数日で包囲を解いて甲斐へと帰陣しますが、この甲斐への行軍途中で勃発した戦いが三増合戦です(関連記事)。

三増合戦の帰趨などについてはここでは省きますが、いずれにせよ、この信玄の関東侵攻により、北条側は否応なしに駿河から兵を戻さざるを得なくなりました
その間隙を縫うように12月、武田勝頼らが蒲原城を落とし、先の大宮城と合せて駿東地区を制圧して、駿河国の掌握に成功します。
関東侵攻も決断を一つ誤れば、関東勢に包囲殲滅されかねない危険な軍事行動でした。
そういった意味では、駿河侵攻に始まる信玄の一連の軍事行動は、最後に大博打に勝って成功した、と言えるでしょう。
少なくとも、彼一代の限りに於いては。

この後は地図で目に留まった見性寺などへ立ち寄りつつ、興津駅まで戻りました。
朝10時のスタートから約6時間、本当によく歩きました。とても疲れましたが、ツワモノたちは清水駅に移動しての懇親会前に、更に歩くのです(笑)

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2017年1月29日 (日)

旧東海道…袋井宿~天竜川

静岡旅2日め。この日は単独行動になります。
とはいえ、朝起きた時点で未だノープラン・・・さて、どうしよ?

いろいろ考えた末、そもそも今回は古道めぐりで訪れた静岡・・・前日に歩いた宇津ノ谷峠からの繋がりで、旧東海道を歩くことにしました。
ゴールを以前から訪れてみたかった天竜川に設定し、そこまでの距離を考えて・・・

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袋井宿をスタート地点に選択。
駅前から少し北上して、旧東海道を目指します。

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袋井宿場公園。
看板に「どまん中」とありますが、袋井宿は東海道五十三次のちょうど中間、27番目の宿場にあたります。

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袋井宿東本陣、田代家跡。

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袋井の丸凧は、歌川広重の「東海道五十三次袋井」にも描かれいます。

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本町宿場公園
高札場があった場所のようで、常夜灯も移設されています。

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朝一番の、まだ人気のない冬の旧東海道。

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寺澤家長屋門
明治元年(1868)の建立。

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しばらくすると旧東海道は、県道413号線に合流します。
写真は413号から、合流ポイントを振り返った様子(右が旧東海道)。

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そのまま413号をひたすら真っすぐ歩くこと500m、木原で再び分岐します。

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木原松橋の案内板

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旧東海道と県道413号線の分岐点手前にある、現在の松橋。

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「東海道分間延絵図」に描かれた木原村。右端に松橋も。

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木原村の旧東海道
この辺りにはかつて、一里塚がありました。

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跡地近く(60m西)に復元された木原一里塚

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許禰神社境内に建つ木原畷古戦場碑と、徳川家康の腰掛石
木原畷の戦いとは元亀3年(1572)の三方ヶ原合戦の直前、物見に出た徳川勢が武田軍と接触して起きた戦い。
また、腰掛石は慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の折、西へ向かう家康が戦勝祈願に当社を訪れた際に腰を掛けたとの伝承があるようです。

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許禰神社を過ぎると、旧東海道は再び県道413号に戻ります。

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再合流後、1kmほどで太田川を越えます。
太田川から西の方角を見ると、南北に広く伸びる台地が広がります。

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太田川を渡る三ヶ野橋。
川を渡った先で旧東海道は、県道のすぐ左脇に別れます。

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旧東海道に残る松並木。
先ほどの台地、三ヶ野坂も近づいてきました。

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三ヶ野坂のすぐ足元で右に分岐するのは、大正期に開設された東海道。
大正期の東海道はここから右斜めへ進み、すぐに現在の県道413号と合流したようです。

私は勿論左、江戸期までの東海道を進みます。

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大正期の道との分岐後すぐ、旧東海道はここを左に折れて三ヶ野坂の台地に登ります。

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三ケ野坂上に建つ大日堂
元亀3年(1572)の三方ヶ原合戦直前、物見に出た徳川軍は武田軍と遭遇し、追撃を受けます。
ここはその時、木原畷・三ケ野・一言坂と続く浜松への撤退戦の起きた場所の一つ。境内には本田平八郎物見の松もあったそうです。

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三ヶ野坂から、歩いてきた旧東海道方面の眺め。
武田軍に追われる徳川勢が、木原から退いてきたルートでもあります。
※実は大日堂に着くと、前日の歓昌院坂や宇津ノ谷峠でご一緒した方が待っていてくれて、三方ヶ原合戦時の徳川・武田両軍の動きや、周辺の地理について教えてくださいました。

みつけの国府の上、鎌田ケ原、みかの坂に、御屋形立て置き、一献進上なり。爰より、まむし塚、高天神、小山、手に取るばかり御覧じ送り
信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」より(以下、引用同)

天正10年(1582)4月、甲州征伐を終えて安土への凱旋途上にある織田信長は、この三ヶ野坂に用意された御屋形で休息し、馬伏塚・高天神・小山などの各城を眺め渡したと云います。
すぐ南の同じ台地上には鎌田の地名も残りますが、みつけの国府の上という表現には疑問が・・・。
この書き方だと遠江の国府が三ヶ野坂の下にあったように受け取れますが、みつけ=見付はここから更に西へ行った先。国府もそちらにあったと考えられています。

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三ヶ野坂から、信長も目にした高天神城方面の眺め。
でも・・・小山はおろか、距離からして高天神ですら手に取るように見えたとは思えないのですが・・・(^_^;)

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大日堂から西へ延びる旧東海道

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付近には今も旧東海道(江戸期)の他、鎌倉古道や明治・大正期に開かれた街道も残ります。

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鎌倉古道

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こちらは明治期に敷設された東海道
大日堂を経由せず、その西側で江戸期の東海道に合流していました。

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大日堂から先も地形が複雑に入り組んでおり、結構アップダウンがありました。

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松並木
こちらはどうやら、大正期に植えられたもののようです。

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行人坂を越えると・・・

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またまた県道413号線に合流。
右が県道に合流してきた旧東海道です。

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県道に合流後すぐにまた、今度は右へ分岐します。

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分岐後の旧東海道。常夜灯の姿も。

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この坂を下った先が見付宿になります。

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愛宕山から見渡す東海道五十三次見付宿。

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見付宿の町並み

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「東海道分間延絵図」に描かれた見付宿

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見付宿脇本陣大三河屋門(藥医門)
移築復元になります。

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見付宿で気になった路地。
この路地沿いには店が1軒もなく、住人以外には必要のない通りだったことから「不用小路」・・・いや、住人には大切な路地でしょ(笑)

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先ほどの「東海道分間延絵図」にもちゃんと描かれている通り、旧東海道はここで左(南/県道43号線)へ折れます。
これは江戸期の宿場に合わせて築かれた東海道の道筋で、一言坂の古戦場はこのまま真っすぐ進んだ先の方角にあります。

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分岐と合流を繰り返す旧東海道。

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遠江国分寺跡

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発掘調査成果から推定される国分寺の姿。
昭和26年の発掘調査で金堂・講堂・塔・中門・回廊・南大門・築地塀跡などが判明しています。

さて、先ほど三ヶ野坂の時に「信長公記」の一節、みつけの国府の上を引用して疑問を呈しましたが、国府もこの国分寺の近くにあったものと考えられています。

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現に国分寺跡の地名は「国府台」
その名の通り、見付宿から坂を登った台地上にあります。尚更、みつけの“国府の上”という表現とも矛盾を覚えます・・・「信長公記」編纂時には年数も経っていて、記憶が混同しちゃったのかな?(^_^;)
(こういった矛盾は時折散見されます)

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国分寺跡から更に南へ進むと、磐田駅前に出ます。
磐田といえば・・・ねぇ?(笑)

旧東海道は磐田駅前で西へ進路を変えますが、ここで一旦昼休憩。
駅前とはいえ、食事のできそうなお店が殆ど見当たらない・・・どうにか1軒だけみつけた蕎麦・うどんのお店でひと心地・・・寒さに加え、前日からの疲労も重なって結構腰にもきていました。
この先はまた電車の沿線から離れてしまうこともあり、ここで切り上げるか否か迷っていたのですが・・・暖を取り、お腹も満たされて復活(笑)

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という訳で、旧東海道歩きを続けます。

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磐田駅前からしばらく西へ進むと下り坂に差し掛かり、その先で県道261号線に合流します。
この坂は少し北方の、一言坂に連なる台地の縁にあたります。

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県道261号に合流した旧東海道。松並木も残っていました。
右端に台地の縁も、ほんの僅かに写っています…(^_^;)

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一言橋

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県道沿いに点々と残る松並木

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森下の分岐点・・・ここは左へ。

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まだまだ延々と続きます。

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長森の辺りで右へ折れ、今度は県道262号線を北へ進みます。
目指す天竜川も目前で、川に沿って歩く形になります。

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国道1号線を越えて、こちらの分岐は左へ。

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池田の町中で見かけた常夜灯。

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そして・・・天竜川を越える池田の渡し碑

池田の宿より天龍川へ着かせられ、爰に舟橋懸け置かれ、(中略)此の天龍は、甲州・信州の大河集まりて、流れ出でたる大河、漲下り、滝鳴りて、川の面寒しく、渺ゝとして、誠に輙く舟橋懸かるべき所に非ず。上古よりの初めなり。

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池田の渡し跡
家康は信長一行の通行のため、この天竜川に舟橋を架け渡したと云います。
天竜川は東海道屈指の大河で難所としても知られ、太田牛一も上古よりの初めなりと驚いているように、そこに舟橋を架けるなど、当時の人々の常識からは考えられないことでした。
家康の粉骨砕身ぶりが窺い知れるエピソードですね。

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私も天竜川を渡ります。
強風吹きっ晒しで寒かったこと!ww

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池田の渡し方向・・・見づらい(^_^;)

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大天竜の雄姿

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天竜川を越えると、そこはもう浜松市・・・よく歩いたなぁ~

ゴールに定めた天竜川も越えたので目的は達しましたが、電車に乗って帰らないといけませんので、引き続きこの先の天竜川駅まで歩きます。
(ここからの道のりが思いの外長かった・・・)

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天竜川を越えた先の旧東海道

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横町通りの標柱
この奥には舟橋之記の碑や、明治天皇玉座跡の碑が建っていました。

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この辺りは中野町といって、中ノ町道路元標も残ります。
大正9年の旧道路法施行により全国の市町村に設置されたものの一つです。全国に現存するものは1600基ほどで、静岡県内では唯一とも。

十返舎一九が;
「舟よりあがりて建場の町にいたる。此処は江戸へも六十里、京都へも六十里にて、ふりわけの所なれば中の町といへるよし」
と書いているように、江戸⇔京都間のちょうど中間の距離に位置していることから「中野(の)町」となったようです。

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中野町を通過する旧東海道。
右に見えるのは金原明善生家跡。

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安間一里塚跡と、姫街道の起点だった付近。

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最後にもう一度、旧東海道の松並木。

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ようやく天竜川駅に到着です。
距離にして14~5kmほどかな?…たいした距離でもないけど、終始寒風に晒されてきつかったなぁ~

この先にもまだまだ訪れてみたいポイントはありますので、いずれまた、旧東海道歩きを続けたいと思います。

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2017年1月28日 (土)

宇津ノ谷峠~岡部宿

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古くから交通の要衝としても知られる宇津ノ谷峠
現在はトンネルが開通して国道1号線が貫いていますが、その山中には歴史ある古道が今も残っています。

まずは静岡口から蔦の細道と呼ばれる、一般的に古代~中世までの主要道と認識されている道を歩いて峠を越えてみることにします。

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蔦の細道の登り口は、こちらの道の駅の裏手。
スタート前にちょっと昼休憩をとることにしました。すると・・・
その間、日本列島を襲った寒波の影響でみるみる天候が悪化し、静岡だというのに風花のような雪が猛烈な勢いで風吹きだしました・・・。

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果たして峠越えできるのか・・・心配でしたが、自然相手のことでは仕方がありません。
道の駅で購入したしぞ~かおでんで暖を取りつつ待機・・・おでん、美味しかったなぁ~♪

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20分ほども休んでいると日頃の行いが良かったお陰か(?)、つい先ほどまでの風吹もピタッと収まりましたので、いよいよ峠越えをスタートします。

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この辺りから本格的な峠越えの山道に入ります。

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道を挟むように、両サイドには沢が流れていました。
或いは獣除けの意味合いもあったのかな?などと考えました。

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雰囲気のある石積みも・・・

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蔦の細道
一般的に宇津の山を越える中世までの官道と云われ、事実その成立は古く、平安初期に成立した「伊勢物語」にも;
『宇津の山にいたりて、わが入らむとする道はいと暗う細きに、蔦かへでは茂り、もの心捕捉、
駿河なるうつの山辺のうつつにも 夢にも人にあはぬなりけり』
とあります。

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しかし、江戸期に東海道が成立すると、蔦の細道は次第に廃れていきました。
現在、我々が歩くことのできるこの道は、昭和に入って地元の研究者が埋もれていた古道をみつけ、復元したものです。

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蔦の細道に沿って流れる沢

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15分ほども登ると峠が見えてきます。

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宇津ノ谷峠(蔦の細道)

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この日は残念ながら雲に隠れていましたが、峠からは富士山を望むこともできます。

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富士山とは反対側、岡部宿方面の眺め。

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峠を越え、今度は岡部口へ向けて蔦の細道を下ります。

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岡部口側の道は比較的、全体的に開けていました。

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猫石
古代信仰の象徴的な石なのだそうです。

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猫石のある場所から先は、とても雰囲気のある石畳になっています。

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石畳の先、崩れた岩がゴロゴロと転がって歩きづらかったポイント・・・

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沢を渡る石橋がまた、雰囲気あっていい感じ。

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あちらの石垣、いつの時代に積まれたものかは分かりませんが、茶屋でも建っていたような雰囲気がありますね。

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最後の下り。ここも岩がゴロゴロと転がっていて歩きづらいです。
上からだと、どこが道なのか分かりづらいのですが・・・

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下から振り返ると、沢沿いにちゃんと石段が組まれていました。

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蔦の細道での宇津ノ谷峠越え、所要30分程といったところでしょうか。
とてもいい散策になりました。

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蔦の細道で岡部口へ下ると、そこは木和田川の畔になります。
木和田川には明治・大正期に築かれた堰堤(砂防ダム)が、全部で8基存在しています。
写真は2号堰堤。平成15年7月の豪雨で流失し、翌16年に復旧されました。

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こちらは1号堰堤。
木和田川の堰堤は、その形状から「兜堰堤」とも呼ばれているのだそうです。

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さて、今度はこちらの旧東海道で、反対に岡部口から静岡口へと宇津ノ谷峠を越えます。

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宇津ノ谷峠の旧東海道は天正18年、豊臣秀吉が小田原征伐に乗り出した際に、軍勢の移動のために切り開かせたのが始まりとされています。
その後、江戸期に徳川家康が東海道として整備し、西国諸藩の参勤交代や人々の往来を支えてきました。

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なかなか見事な切通を抜けいきます。

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さすがは江戸期のメイン・ストリート、道幅も山中の街道としては立派なものです。

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旧東海道は一旦舗装路に出ますので、ここは右へ。
(左へ進むと明治時代に開かれた街道へ繋がります)

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この管理道路によって旧道は一部消失していますが、写真左の細い遊歩道を上がり、手摺伝いに右の方へ回り込んだ先から続いています。

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この切通のピークが峠。

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宇津ノ谷峠(旧東海道)
ここからは静岡口へ向けて下っていきます。

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延命地蔵堂跡

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地蔵堂跡の石垣

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地蔵は現在、宇津ノ谷集落の慶龍寺に安置されているそうです。

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この地蔵堂、江戸期の絵図にもしっかり描かれています。
よ~く見ると石垣も。

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松尾芭蕉と同門の俳人・山口雁山の墓。
雁山は1731年、旅に出たまま消息を絶ちました。このお墓は、彼が旅先で亡くなったと思い込んだ友人らによって建てられたものです。
ところが雁山は、駿河で黒露と名を変えて俳諧の師匠として活動し、36年後の1767年まで生存していました。

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さぁ、宇津ノ谷の集落が眼下に見えてきました。
宇津ノ谷は丸子⇔岡部間の間宿で、集落の中央を貫くのは無論、旧東海道です。

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宇津ノ谷へと下る旧東海道のヘアピン・カーブ。

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麓まで下りてきました。

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宇津ノ谷の集落と旧東海道。

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最初に立ち寄った道の駅に展示されていた宇津ノ谷のジオラマ。

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御羽織屋
天正18年、豊臣秀吉が小田原征伐の折に立ち寄って馬の草鞋を求めたところ、こちらの亭主は3つしか渡さなかったと云います。
訝しんだ秀吉が理由を尋ねると亭主は、縁起の悪い4を避けて戦勝を祈願したのだと答えたとか。
戦勝後、帰路にも再び立ち寄った秀吉から褒美に羽織を与えられました。これが「御羽織屋」の屋号の由来。
後年、家康からも茶碗を貰っているようです。

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全国を巡幸した明治天皇も、こちらに立ち寄られていたのですね。

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宇津ノ谷峠のジオラマ。
奥:宇津ノ谷の集落(静岡口)/手前:岡部口
向かって右のラインが蔦の細道で、左の峠を越えるのが旧東海道になります。

これまでも何度か触れましたが、一般的には蔦の細道古代~中世までの街道で、旧東海道は(根拠・出典は不勉強により不明ですが)秀吉が小田原征伐の際に切り開かせたのが始まり、とされています。
蔦の細道が古くからの主要道であったことには、特に異論もありません。しかし、旧東海道が天正18年までは全く存在していなかったのか、ということになると疑問を感ぜずにはいられません。
ジオラマでも地形を確認しましたが、旧東海道のルートに道を通す方が自然に思えます。

実際に歩いてみた感想として蔦の細道は、軍勢の移動にはあまりに心許ない隘路
例えば道中でも話題に上りましたが、今川義元が尾張へ向けて出陣した桶狭間合戦(1560)。この時、義元は25,000もの軍勢を率いていたと伝わります(実際にはもっと少なかったとの説もありますが、それに関してはここでは詳しく触れません)。
それだけの軍勢が蔦の細道1本だけで宇津の山を越えたとも思えず、おそらくは蔦の細道とは別に、後に秀吉が軍用道として整備させる道の元となるものが、既に存在していた可能性は考えられないでしょうか。

名にしおふ宇津の山辺の坂口に、御屋形を立て、一献進上侯なり。字津の屋の坂をのぼりにこさせられ、
信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」より

天正10年(1582)、織田信長は甲府から駿河を経由して安土へと凱旋する際、宇津ノ谷峠も越えています。
この時、信長一行が峠越えに利用した道も、通説(秀吉の小田原征伐=旧東海道ルートの敷設は8年後)通りだとすると蔦の細道ということになります
となると、徳川家康が用意していたと云う宇津の山辺の坂口御屋形は、冒頭に立ち寄った道の駅辺りとなりそうですが・・・

家康は信長一行の通行のため、本栖の峠道など山中の道に至るまでをも切り開いて整備したと云います。
その徹底ぶりには「信長公記」の著者・太田牛一も最大級の感嘆と称賛を贈っているくらいですので、宇津ノ谷峠越えの時だけ、蔦の細道のような隘路を辿らせたということにも違和感を覚えます。
名にしおふが、古くから文学の世界で語られてきた、と解するなら素直に蔦の細道となるのかもしれませんが…)

遅くとも戦国期には既に存在していた道を、秀吉の小田原征伐より以前、家康が信長一行のためにある程度の整備をしていた・・・
それが後に小田原征伐時の軍用道となり、江戸期の東海道へと変遷していく・・・

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仮にこの説が成立するとすれば、宇津の山辺の坂口御屋形は宇津ノ谷の集落付近に建てられていた、ということになりそうですね。

さて、既に宇津ノ谷峠を往復しましたが、この日の旧道散策で設定されたゴールは岡部宿・・・
という訳でもう一度、宇津ノ谷峠を越えます(笑)

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3度めの峠越えは、明治の東海道(隧道)で。
写真は明治9年に開通されたトンネル。このトンネルの開通により、旧東海道(江戸期)はその役目を終えました。

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トンネル工事の際、両サイドから掘り進めて少しずれが生じたため、微妙に屈曲しているのだそうです・・・歩いていても殆ど分かりませんでしたが。

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レンガ造りが醸すレトロ感がまた、いい感じです。

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開通したトンネルの様子を伝える明治期の絵図。

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岡部口へ抜けた先の国道1号線。峠を越えると藤枝市に入ります。

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藤枝市側の麓、坂下地蔵堂に安置されている蘿徑記碑
文政13年(1830)からの9年間、駿河代官を務めた羽倉簡道が蔦の細道の荒廃を憂い、その静岡口付近に建てたものです。
私は当初、江戸期にも蔦の細道は生きていて、参勤交代時などには庶民のバイパス・迂回路になっていたのでは?とも考えましたが、少なくとも江戸時代も後半になるとすっかり廃れていたようです。

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峠を越えて2㎞ほどで、岡部宿入口に到達します。

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こうして現在の航空写真と見比べると、江戸期の絵図がいかに地形まで含めて正確に描かれていたかが分かりますね。

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岡部橋で見かけたレリーフ

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そして・・・この日のゴール、大旅籠柏屋
いやぁ~午前中の歓昌院坂から本当によく歩いた。

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・・・弥次喜多と一緒になって旅装を解いてるよ(笑)

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江戸時代の旅籠の雰囲気がよく再現されています。

この後はバスで静岡駅前まで戻り、参加者で打ち上げ&新年会の乾杯☆
1日充実した古道・旧道歩きができて、いい1年のスタートが切れました。

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歓昌院坂~丸子城の北尾根

今回は宇津ノ谷峠をメインに、駿河の山中に残る古道をめぐるオフ会。
静岡駅で集合して、まずはバスで羽鳥まで移動・・・

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枕草子にその名が見られ、古くから歌枕にもなっている木枯しの森を眺めつつ藁科川を越え、牧ヶ谷から歓昌院坂を南へ向かって登っていきます。

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牧ヶ谷で見かけた観音堂。古い庚申塔などもありました。

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歓昌院坂は牧ヶ谷~(歓昌院のある)丸子の泉ヶ谷を結ぶ峠道で、古くから駿府への往来を繋ぐルートの一つだったと考えられています。

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山道へと分け入る分岐点には道標がありました。
左 歓昌院坂 ○△□(←読み取れずw)
とある通り、ここは左へ進みます。

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歓昌院坂の山道
登りはじめこそ、まずまずの歩きやすさでしたが・・・

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次第に道は荒れ始め・・・

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一部、殆ど崩れてしまっているような箇所もありました。

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山道に入ってから20分ほどで、峠が見えきます。

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峠に上がる部分で道は、綺麗に切り通されていました。

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歓昌院坂の峠

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目指す泉ヶ谷へはそのまま真っ直ぐ、こちらの道を北へ下っていけばいいのですが・・・

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思いの外、時間が早かったので急遽ルートを変更して峠からはこちらの西尾根を登り、その先の尾根の分岐点で南へと進路を取って、丸子城を経由して下山することになりました。

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結構な細尾根。

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途中、明らかに人の手が入った痕跡も見受けられましたが・・・まぁ、畑の跡といったところでしょうね。

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歓昌院坂の峠から西へ伸びる尾根は勾配もきつく、体力的にしんどかった・・・。
すっかり泉ヶ谷へ下るつもりでいた私は、ペースを乱してバテバテ・・・同行者にご迷惑をおかけしました(´-∀-`;)

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ようやく、丸子城へ向けて南へ伸びる尾根との分岐点まで到達しました。
丸子城の北方、高所に位置する尾根の合流点・・・地理的条件からして、何かしら城の背後を警戒するための施設でもあったのでは?と期待していましたが、それらしい痕跡は見受けられませんでした
ここからは丸子城へ向け、ひたすら下っていきます。

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しばらくは急勾配な下りが続きます。

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北側の尾根から見下ろす丸子城跡

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勾配がなだらかになると、明らかに古道を思わせる痕跡が続いていました。

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まるで横堀みたいですね。

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写真では分かりづらいですが、古道が二股に分岐し、まるで二重堀のように並行している箇所も。

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S字を描くように右へカーブし・・・

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そして、すぐにまた左へカーブする古道。

しばらくすると、この道は丸子城北曲輪の堀切に達します。
道としての痕跡や、周辺で交錯する山中の古道の存在などから考えても、往時からきっと城へのルートの一つだったのは間違いなさそうです。

この後は、少し丸子城にも立ち寄ってから下山しました。
風花舞い散る中バスで移動し、次は旧東海道の名所としても知られる宇津ノ谷峠へ向かいます。

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