金ヶ崎城、手筒山砦、敦賀城…城友会2016③
金崎宮境内に建つ金ヶ崎城址碑
金ヶ崎城は元亀元年(1570)の金ヶ崎の退き口でも有名ですが、それより遡ること230年余り、建武3年(1336)には恒良・尊良の両親王を奉じた南朝方の新田義貞が拠り、足利尊氏が派遣した軍勢と戦った地でもあります。
※金ヶ崎城・手筒山砦には2度目の訪問になりますので、今回はさらっと流します。金ヶ崎城の詳細、及び「金ヶ崎の退き口」については、以下の記事を参照ください。
金ヶ崎の退き口(前篇:手筒山攻撃~浅井長政の離反)
金ヶ崎の退き口(後編:撤退開始~朽木越え)
金崎宮から城山を登り始めるとすぐ、その尊良親王の御陵墓見込地の碑が建っている場所があります。
金ヶ崎城に拠った南朝方の抵抗もむなしく、翌1337年3月には落城します。
新田義貞は城を脱していましたが、尊良親王は義貞の子・義顕と共に自害して果てました。(恒良親王は捕縛される)
なお、金崎宮は恒吉・尊良両親王を祀っています。
尊良親王御陵墓見込地碑は高い土塁のような場所に建っており、その足元を覗くと・・・郭のようにも見えました。
金ヶ崎城主郭に建つ古戦場碑
書かれている内容は一見したところ、南北朝時の金ヶ崎城の戦いに関するものでした。
元亀元年、当城を落とした織田信長もおそらく、ここに一時的に本陣を移しています。
金ヶ崎城から尾根続きに、途中3本ほどの堀切を見ながら手筒山(天筒山)を登ります。
こちらも堀切の底。
手筒山展望塔からの眺め。
こちらは金ヶ崎の退き口の折、朝倉の軍勢が進攻してきた木ノ芽峠方面。
時計回りに南へ目を転じると、浅井長政の軍勢が敦賀に姿を現した場所(高架の架かっている辺り)に・・・
信長が撤退していった関峠方面も一望のもと。
ここからの光景は、何度見ても興奮します。
手筒山から見下ろす金ヶ崎城と敦賀湾。
帰りもあの尾根の先端まで歩いて下山します。
さて、次に向かったのは敦賀城跡に建つ真願寺。
本堂も・・・
本堂前に安置されている敦賀城の礎石。
真願寺のすぐ脇には、敦賀城の堀跡も。
市立敦賀西小学校前に設置された石碑。
その石碑から続くこちらの路地は、旧若狭街道です。
さて、これにて初日の行程は終了です。
この後は一旦ホテルに落ち着き・・・
敦賀駅前のお店で懇親会♪
初日の城攻めを慰労して・・・カンパーイ☆
美味しい海の幸に舌鼓を打ちました♪
そして宴は、城友会恒例のカラオケへ・・・
ホテルに帰りついたのは、深夜12時を回っていたかな?
毎度のことですが、城友会はカラオケが一番疲れる(笑)