カテゴリー「お城、史跡巡り 近畿」の83件の記事

2022年10月14日 (金)

京都旅、その他の諸々。。。

先日の京都への旅、既に記事にしてご紹介した場所以外にもちらほらと立ち寄っていますので、今回はそれらを簡単にまとめてみます。

吉田神社や宗忠神社への参拝後、次の目的地へと向かう道すがら、京都御苑の中を通過させていただいたので・・・

20221008d01
凝華洞、通称「御花畑」跡へ。
江戸前期、後西天皇(在位1655-1663)の仙洞御所が置かれました。
御花畑と呼ばれた由来については不明ですが、後西天皇が「花町宮」「花町殿」などと呼ばれていたことに関係があるのでしょうか。
奥に見えているのは御所の建礼門です。

文久3年(1863)の八月一八日の政変では、その後に新選組となる壬生浪士組が守備についたことでも知られます。
翌元治元(1864)年6月には、前年の政変で京を逐われた長州の兵が襲来する恐れがあるとのことで、勅命を受けて参内した京都守護職・松平容保の仮本営にも充てられました。
禁門の変(蛤御門の変)が勃発するのは、その翌月のことです。

20221008d02
蛤御門

20221008d03
蛤御門に残る銃弾痕。

ところ変わって・・・

20221008d04
旧二條城跡の碑。
永禄12年(1569)、織田信長が足利義昭のために築かせた二条御所の跡地を示す石碑です。
これまでなんとなくタイミングが合わないまま、今回の初訪となりました。

20221008d05
近年の発掘成果で細かいアップデートはあるでしょうが、おおまかな推定範囲。
この中のいずれかに、信長が曳かせた藤戸石も据えられていたのですね。

直前まで京都御苑にいたのだし、折角なら御苑内に復元されている二条御所の出土石垣も観ておけばよかったのですが・・・この時は全く頭に浮かびませんでした。

2022100901
旅の2日目には、京都文化博物館で開催されている新選組展2022にも足を運びました。
これまでに地元の日野や多摩、各地の博物館等で目にしてきたものも多く、各々個別に記事にもしてきましたので省略しますが、いずれは北海道へ観に行きたいと思っていた永倉新八の陣羽織を拝観できたのは良かったと思います。

| | コメント (0)

2022年10月13日 (木)

「こぬか薬師」を拝観

20221008c01
医徳山薬師院
毎年10月8日の1日だけ行われる、御本尊の薬師如来像開扉法要に合わせてお参りに来ました。

薬師院の御本尊は、後に比叡山延暦寺(延暦25年/806~)の開祖となる最澄が延暦元年(782)、16歳の時に彫った薬師如来像7体のうちの1つとされていて、伝承によると美濃国横倉の医徳堂に安置されていました。
(現在の薬師院の山号である「医徳山」も、これに由来するものでしょう)
最澄作の薬師如来像で現存するのは、延暦寺のものと当院の僅かに2体のみと伝わります。

寛喜2年(1230)、「一切の病苦を取り除こう。来ぬか、来ぬか」との薬師如来のお告げがあり、これを知って訪れた人々の病が平癒したことから「不来乎(こぬか)薬師」と呼ばれるようになったのだとか。

その後、評判を知った織田信長により、美濃から京へ勧請されたものと伝えられています。

20221008c02
法要の後、午後2時頃から順に本堂へ上がらせていただき、実際に至近の距離で御本尊を拝ませていただきました。
想像していたものより遥かに小さく、僅か15~20㎝四方ほどの御厨子の中に本尊の薬師如来をはじめ、日光・月光菩薩、そして十二神将の、合わせて15体の仏様がびっしりと立ち並んでいました

前年までの2年間は、コロナ禍の影響で本堂に上がることは叶わなかったそうです。
そういう意味でも、本当に幸運な参拝になりました。

| | コメント (0)

2022年10月12日 (水)

島津家久が信長を目撃した場所とは?

天正3年(1575)2月、「島津四兄弟」の一人としても名高い島津家久は薩摩を出発し、伊勢神宮参拝を主な目的とした半年近くに及ぶ旅に出ました。
彼はその道中を、「中務大輔家久公御上京日記」「中書家久公御上京日記」「家久君上京日記」などと呼ばれる日記に事細かく残しているのですが、その4月21日の条は次のようになっています。

廿一日、紹巴へ立入候、やかて心前の亭をかされ宿と定候、さて織田の上総殿、おさかの陣をひかせられ候を心前同心ニて見物、下京より上京のことく、馬まハりの衆打烈、正国寺の宿へつかせられ候、(~中略~)上総殿支度皮衣也、眠候てとをられ候、十七ヶ國の人数にて有し間、何万騎ともはかりかたきよし申候、

京に入った家久は連歌師の里村紹巴を訪ね、その弟子である心前の居宅を宿として提供されました。
そして織田信長が大坂から帰陣するというので、心前と連れ立って見物に向かい、実際に信長を目撃しています。
果たして彼が信長を目撃した場所とは何処であったのか・・・俄かに気になり、ちょっと検討を加えてみました。

紹巴の弟子である心前は後に、明智光秀の発句「時は今~」で有名な愛宕百韻にも、師の紹巴や兄弟弟子の昌叱と共に名を連ねています。
その居宅の所在地は不明ですが、師である紹巴屋敷の隣にあったとの説もあるようなので、下長者町通沿いに所在する紹巴町の付近一帯と推定しました。

そして信長の軍勢は下京から上京へと進んだ後、相国寺に達しています。
このことから、信長の軍勢が通行したルートについては、下京と上京を結んでいた室町通を真っ直ぐに北上してきたものと想定しました。

とすると家久が信長の軍勢を見物したのは、現在の紹巴町から下長者町通を東へ進み、室町通と交差する・・・

20221008b01
こちらの写真の辺りではなかったかと思うのですが、いかがでしょうか。
写真手前から伸びる道が下長者町通で、左右に交錯するのが室町通です。

20221008b02
相国寺がある北の方角へと続く室町通。

家久が目撃した信長は皮の衣を着し、(馬上で)居眠りをしながら通っていったと云います。
なんだか信長の人間臭い一面が垣間見えて、個人的にはとても好きなエピソードの一つです。

家久は同月28日にも、美濃へ帰国する信長の軍勢を見物しています。
※「信長公記」では、信長の離京は27日。

| | コメント (0)

2022年10月11日 (火)

織田信長“幻の”京屋敷計画(吉田神社・宗忠神社)

今回は京都への旅です。
調べてみたところ、京都に宿泊するのは5年ぶりになります。

京都駅から電車を乗り継ぎ、出町柳駅から東の方角へ歩くこと10分ほどで・・・

20221008a01
神楽岡とも呼ばれる吉田山が見えてきました。

永禄11年(1568)9月27日には、織田信長による足利義昭を擁した上洛戦に参陣していた近江北郡衆(浅井勢か)や高島衆(朽木勢か)の8,000ほどの軍勢が、この吉田山に布陣しています(言継卿記)。
なお信長は同日、近江の三井寺に滞陣して義昭と合流し、翌28日に入京を果たしました(信長公記)。

また、建武3年(1336)にも、後醍醐天皇方と対峙する足利尊氏も神楽岡に陣を布いたことがあるようです。

20221008a02
まずは吉田神社から参拝。

20221008a03
ところが吉田神社では結婚式が執り行われている真っ最中で、本宮への参拝は叶いませんでした。

20221008a04
仕方ないので本宮は諦め、大元宮へ。

20221008a05
大元宮の本殿は八角形のような形をしていますが、これは密教や儒教、陰陽道、道教などの諸宗教・諸思想を統合しようとした吉田神道の理想を形に表したものと考えられているそうです。

20221008a06
そのまま、大元宮のすぐ裏手から宗忠神社へ。

元亀4年(1573)7月14日、「吉田山に屋敷を建てては如何か」との明智光秀の進言に基づき、織田信長の命を受けた柴田勝家、木下秀吉、滝川一益、丹羽長秀、松井友閑らが検分のため、吉田神社の神主・吉田兼見(この時点では「兼和」。天正14年/1586に「兼見」へ改名)の元を訪れます。
検分の結果、屋敷地には不向きとの結論を以て屋敷建設は結局、沙汰止みになりました。

20221008a07
これは当の吉田兼見が記した「兼見卿記」に載っているエピソードなのですが、この時に信長屋敷の候補地とされたのが、現在は宗忠神社(文久2年/1862創建)の建つ場所であったと、いつぞやのTV番組で紹介されているのを観た記憶があります。

屋敷地に不向きとされた理由も定かではありませんが、そもそも何故、兼見とも親交の篤かった光秀が、兼見にとって迷惑この上ないような提案を信長にしたのかも謎ですし、これ以降も2人の関係に変化が見られないこととも合わせ、なんとも不思議な顛末に思えます。

20221008a08
帰りは正参道から下山。

20221008a09
備前焼の逆立ち狛犬。

翌15日、兼見は信長が宿所としていた妙覚寺に参上しています。屋敷造営の取り止めに対する御礼言上にでも伺候したのでしょうか。

| | コメント (0)

2019年12月17日 (火)

徳永寺

20191208c01
飯道山から下山し、帰りの名古屋駅まで送っていただく途中に、三重県伊賀市柘植町の徳永寺にも立ち寄りました。

天正10年(1582)6月、本能寺の変勃発を受け、滞在先の堺から三河へと逃避した徳川家康伊賀越え
徳永寺はその途中、休憩に立ち寄ったと云われるお寺です。

20191208c02
家康は後年、この時のもてなしを謝し、寺の周囲の土地を寄進したと云います。
藤堂高虎をはじめ、伊賀を治める津藩主・藤堂家の歴代が発した寄進・安堵状も残っているようです。
徳川家からは、葵紋の使用も許可されていました。

20191208c03
本堂
徳永寺は、柘植の土豪・福地氏(参考記事)の菩提寺でもあったようです。

20191208c04
山門越しに、家康が寄進したと伝えられる周辺の景観を眺める。

今回も充実した、いい旅となりました。

| | コメント (0)

2019年12月16日 (月)

飯道寺

20191208b01
行場巡りを無事にクリアした後は、飯道寺跡へ。

20191208b02
飯道神社(図左上)の眼前にはかつて、神仏習合の飯道寺として栄えた時代の名残として数多くの僧院跡が残っています。

20191208b03
1枚目の写真の石段を上がった先は東照宮跡。

20191208b04
明治の神仏分離・廃仏毀釈で寺院(仏教)関連は廃され、今はこうした痕跡を留めるのみとなっています。

20191208b05
思いのほか立派な石垣も。

十月九日、伊賀国御見物として、岐阜中将信忠、織田七兵衛信澄御同道にて、其の日、飯道寺へ、信長公御上りなされ、是れより国中の躰御覧じ、御泊り
(信長公記 巻十四「伊賀国へ信長御発向の事」)

天正9年(1581)、次男・信雄を総大将とした軍勢を派遣して伊賀国を制圧(第二次天正伊賀の乱)した織田信長は、嫡男の信忠、甥の信澄を同道して伊賀の視察へ向かいます。
その道中、伊賀入り前日の10月9日にはここ、飯道寺に泊まりました。

20191208b06
参道を挟んで左に梅本院跡、右奥に智積院跡。
信長らが泊まった僧院は果たして、いずれにあったのか・・・想像を膨らませながらめぐります。

20191208b07
智積院跡

20191208b08
高野山を再興したことでも知られる木食応其上人は、晩年を飯道寺で過ごしました。
智積院跡の向かいには、彼の入定窟も残ります。

20191208b09
岩本院跡に残る石積み。

20191208b10
岩本院跡
この岩本院と先ほどの梅本院は、醍醐寺三宝院を本寺とする真言宗本山派に属す寺院で、山内でも特に有力な存在だったようです。

20191208b11
不思議な切石状の石積みも。

20191208b12
岩本院跡から見る、智績院跡の石垣。
左の下段は行満院跡。

20191208b13
鳥居坊跡

20191208b14
飯道寺跡(飯道神社)からは、紫香楽宮跡などを見渡すことができます。
まさに、飯道寺に上がった織田信長が御覧じ国中の躰の光景。
数年来の念願叶い、飯道寺跡を訪れることができて感無量です。

※現在、甲賀市水口町に所在する飯道寺は、天台宗の本覚院が明治25年に廃寺となっていた飯道寺の寺号を継承したものです。
御本尊は飯道山から移されたものとか。

20191208b15
折角なので山頂まで足を延ばします。
山頂からは杖の権現を経由して飯道寺跡まで戻り、その後に下山します。

20191208b16
飯道山山頂
飯道寺跡から山頂までは7~800m。緩やかな登りの尾根道が続きました。

20191208b17
山頂からの眺め。
辛うじて近江富士の姿も確認できました。

20191208b18
杖の権現
山頂から杖の権現までは、急勾配な直線の尾根を一気に下ります。

20191208b19
飯道寺跡まで戻りました。

行場巡りに、念願の飯道寺跡・・・とても楽しい山歩きになりました。

| | コメント (0)

2019年12月15日 (日)

飯道神社と行場巡り

山城踏査会&忘年会が明けた翌日は、甲賀市の飯道山へ。

20191208a01
飯道山、紫香楽側の登山口。
ここから、よく整備された登山道(飯道神社参道)を20分(700m)ほど登ると・・・

20191208a02
いい雰囲気の石垣が見えてきました。

20191208a03
いよいよ飯道神社の境内に入ります。

20191208a04
弁天堂

20191208a05
まずは飯道神社にお参りします。

20191208a06
行者堂
飯道山は古来より山岳信仰の栄えた霊山で、近江国屈指の修験霊場でもありました。

20191208a07
飯道神社の創建は和銅7年(714)、熊野神社の分霊を勧請したのが始まりとされています。
以来、神仏習合の飯道寺として栄えました。
現在の本殿は、慶安2年(1649)の再建になります。

20191208a08
せっかく飯道山に登ったので・・・行場巡り(修験道)にも挑戦します。

20191208a09
行場巡りのスタート地点。

20191208a10
不動の押し分け岩
同行者が先に挑戦していますが、極めて狭い岩の隙間をすり抜けるようにして通り抜けます。

20191208a11
あまりにも狭いので、ここはリュックなどの荷物を一旦置いて、身一つで挑戦しなければなりません。
(通り抜けた後、岩の脇を回り込んで元の場所へ戻れます)

20191208a12
平等岩

20191208a13
蟻の塔渡り
「蟻しか渡れないような、細くて高い塔のような岩を渡る」の意味でしょうか。

20191208a14
まさに、蟻の塔のような難所。
崖側には安全のためのロープが張られてはいますが、ちょっと心許ない・・・。

20191208a15
胎内くぐり

20191208a16
狭い岩穴を、鎖を頼りに下っていきます。

20191208a17
最後の難関は岩上。
同行者が指さす方角へ、ロープを頼りにこの絶壁を登ります。

20191208a18
なかなか凄さが伝わりにくい写真ですが、足場なんてこれっぽっちしかありません。
左側は無論、断崖絶壁です。

20191208a19
ゴールすると本殿の裏側に出ました。
これで私も、一端の甲賀忍者の仲間入り!?

飯道山歩き、後半は飯道寺跡をめぐります。

| | コメント (0)

2019年12月14日 (土)

弥高寺

20191207b01
上平寺城跡から山中を少し北へ回り込み、西の尾根へ雪中行軍・・・(;^_^A

20191207b02
伊吹山も心なしか、少し近くなってきました。

20191207b03
尾根の北側から弥高寺跡へアプローチすると、最初に出迎えてくれる大堀切。
この先(南)にある本坊の背後を断ち切っています。

20191207b04
大堀切の近くには、これも規模の大きな畝状竪堀も。

20191207b05
更に南へ進むと、規模は小さいながら堀切や・・・

20191207b06
竪堀が続きます。

20191207b07
弥高寺の墓地跡。
発掘調査で、火葬された人骨が数十体も納められた大きな甕が出土しているそうです。
寺の長い歴史の中である時期、墓地が手狭になってまとめて改葬されたものではないかとのことでした。

20191207b08
いよいよ本坊跡が見えてきました。
雪に埋もれてはいますが、周囲を囲む土塁や虎口もはっきりと見て取れます。

20191207b09
本坊手前に切られた竪堀。

20191207b10
弥高寺本坊跡

20191207b11
本坊の虎口から真っ直ぐに伸びる参道。
参道の両側には、数多くの削平地が見受けられます。

弥高寺は仁寿年間(851~854)に創建された伊吹山寺を前身とし、後に分立した伊吹山四ヶ寺の一つ。
弥高百坊とも呼ばれ、この大きな本坊跡をはじめ、60をも超える坊跡が残る巨大な山岳寺院の跡です。

20191207b12
本坊から南の方角。
2本の鉄塔の先には上平寺城の記事で触れた、件の長比城がありました。

20191207b13
弥高寺本坊から見る上平寺城。
つい先ほどまでは、あちらから弥高寺跡を見ていました。

20191207b14
琵琶湖に浮かぶ竹生島も見えています。

20191207b15
それでは本坊をあとにし、こちらの参道伝いに下りていきます。

20191207b16
少し下った先から本坊を振り返る。
土塁の高さがよくわかります。

20191207b17
弥高寺の玄関口でもある大門跡に差し掛かりました。
右へグイッと曲げた枡形になっています。

20191207b18
大門跡
高い土塁で仕切られた見事な枡形、そして土橋。

20191207b19
大門の脇には横堀も掘られています。

本坊背後の堀切や竪堀群、そして大門の枡形や横堀・・・弥高寺が城郭として改修されていることは明らかです。
現地説明板にも、京極氏や浅井氏らによる改修が想定される、といったことが書かれていました。
直に遺構を目にした個人的な印象としては、元亀元年(1570)に敵対する織田軍に備え、上平寺城と共に浅井氏や越前衆が改修した痕跡ではないかと感じました。

20191207b20
大門の南西、登山道を林道まで下り、更に林道を伝って下山する途中に現れる2本の大きな竪堀。
やはりこれは、歴とした軍事施設です。

20191207b21
そのまま林道を下っていくと、悉地院(弥高護国寺)に至ります。ここが今回のゴール地点。
所要4時間強、山中は積雪の中での行程となりましたが、見応えのある素晴らしい遺構を堪能し、参加16名全員無事に下山いたしました。
なお、悉地院は伊吹山四大護国寺の一つで、弥高寺の法灯を現在に伝えているお寺とのことです。

20191207b22
下山後は伊吹山文化資料館にお邪魔して、上平寺城の模型や・・・

20191207b23
弥高寺跡で出土した、火葬された人骨が納められていた大きな甕などを見学させていただきました。

20191207b24
夕暮れの伊吹山。

夜は彦根駅前へ移動し、これまた恒例の忘年会。
踏査会に参加した皆さんと、2次会まで楽しく盛り上がりました。

| | コメント (0)

2019年12月13日 (金)

上平寺城

年末の恒例行事となった城友山城踏査会(& 忘年会)
2019年の舞台は・・・

20191207a01
滋賀県米原市の上平寺城です。

20191207a02
上平寺城絵図(江戸時代前期)

上平寺城は16世紀の初頭、北近江守護の京極高清が築いた京極氏の城館。
山麓に平時の居館を置いて守護所とし、伊吹山から伸びる背後の尾根上には詰の山城が築かれていました。
大永3年(1523)、高清は自らの後継をめぐって浅見氏や浅井氏、三田村氏らの国人衆と対立して上平寺を追われ、北近江では浅井氏が台頭するようになります。
以降、眼前に北国脇往還(越前街道)を扼する上平寺城は、美濃・近江の国境を押さえる境目の城として機能したものと考えられています。

20191207a03
今回のスタート地点となる居館区域の目の前(南)を流れる用水路は、居館と城下町との間を隔てる堀跡。上の絵図にも「ホリ」と記されています。
この写真の方向に、「諸士屋敷」や「町屋敷」などとある城下町が広がっていました。

20191207a04
伊吹神社(「伊吹大権現」)の参道に沿って進み、「弾正屋敷」跡・・・

20191207a05
「蔵屋敷」跡

20191207a06
「隠岐屋敷」跡と順に見ていき・・・

20191207a07
一番奥、伊吹神社の社殿手前に、京極氏の居館となる「御屋形」跡。

20191207a08
御屋形には池を伴う庭園の跡も残ります。
奥に見える巨石の先にも・・・

20191207a09
池の跡がもう一つ。
付近からはかわらけも出土しているそうで、庭園を鑑賞しながらの宴や儀式が行われていたことを連想させます。

各屋敷や庭園跡の配置、伊吹神社(社殿)の位置や参道の曲がり方に至るまでが、江戸時代の絵図とピタリと一致していることに驚かされました。

20191207a10
京極氏一族の墓。
伊吹神社の社殿横にあります。

上平寺を追われた高清は、後に浅井氏と和睦して小谷城に迎え入れられましたが、晩年には上平寺へ戻っていたようです。
そのため、彼のお墓もこの地にありましたが、寛文12年(1672)に丸亀藩主・京極高豊が清瀧寺徳源院(米原市清滝)を復興した際、歴代の墓所も整備しており、その時に高清の墓石も徳源院へ移されたものと考えられています。

20191207a11
山麓の居館跡から山城までは、およそ30分ほどの登山。
写真は、絵図に「七曲」と書かれている辺り。文字通り九十九折の登山道が続きます。

ところで、絵図に「七曲」と書かれている箇所の近くに「刈安尾」という文字も見えます。

さる程に、浅井備前、越前衆を呼び越し、たけくらべかりやす、両所に要害を構へ候。信長公御調略を以て、堀・樋口御忠節仕るべき旨御請なり。
六月十九日、信長公御馬を出だされ、堀・樋口謀反の由承り、たけくらべ・かりやす、取る物も取り敢へず退散なり。たけくらべに一両日御逗留なさる。
(信長公記 巻三「たけくらべ・かりやす取出の事」)

織田信長との対決の道を選んだ浅井長政は元亀元年(1570)、自らの領国である北近江と信長の領国・美濃との境に位置し、東山道を押さえる長比と、北国脇往還(越前街道)を押さえる刈安に要害を構え、織田軍の襲来に備えました。
絵図にある「刈安尾」とは「刈安の尾根」の意で、上平寺城こそがこの時、長政が要害に構えさせた「かりやすの要害」に比定されています。

20191207a12
南側から城域に至り、最初に出迎えてくれる大きな竪堀。
登山道のすぐ右手に現れます。

20191207a13
南西側の斜面には、連続する畝状竪堀群も。

20191207a14
三の丸
広い削平地が2段に築かれていました。

上平寺城は南北に伸びる尾根上に、南から北へ三の丸→二の丸→本丸と連なる連郭式の城郭です。

20191207a15
スロープ状の坂の先に、三の丸2段目への虎口。
うっすらと通路に積もった雪が示す通り、虎口の土塁は食違いになっているようでした。

20191207a16
こちらは二の丸への虎口周辺。
三の丸⇔二の丸間は、堀切で隔てられています。

20191207a17
その堀切。

20191207a18
二の丸虎口。
土橋の先で少し左へ曲げてから、虎口の先へと誘導しています。
虎口の先は縦に細長い枡形のようになっており、奥の方で土塁が立ち塞がっている様子も見て取れます。

20191207a19
二の丸虎口の枡形。
先を行く同行者のように右へ折れた先が・・・

20191207a20
二の丸
奥に切岸が見えていますが、二の丸もやはり複数の段に分かれていました。
但し三の丸とは違い、周囲をグルッと土塁が取り巻いています。

20191207a21
本丸
降り積もった雪がより一層、深くなっていました・・・。

20191207a22
本丸南東側の虎口。
その先の遠景は、関ヶ原方面。

20191207a23
本丸の背後には、雪を被った伊吹山の姿も。

20191207a24
西の方角には、この後に向かう弥高寺跡も綺麗に見えていました。

20191207a25
北端の土塁上から本丸。
曲輪の真ん中で赤い服を着た同行者が丸まっていますが・・・日の丸弁当のつもりのようです(笑)
まぁ、周囲を囲む土塁が弁当箱に見えなくもない、か・・・(;^_^A

20191207a26
本丸が城域の北端となり、その背後は高い切岸と深い堀切で遮断されています。

20191207a27
本丸北側の堀切に架かる土橋。

20191207a28
圧倒的な堀切感。

201919207a29
土橋を渡り、城外側から本丸方向。
本丸の高い切岸が攻め手を圧倒します。

現在に残る遺構のどこまでが、元亀元年の浅井、及び越前衆の手によるものかは定かではありませんが、とても見応えのある城跡でした。
なお、中世山岳寺院上平寺の跡地については、伊吹山中腹に位置する山城部分と、山麓の居館跡地との2説あるようです。

こうした要害を構えて織田軍に備えた長政でしたが、長比の守備に就いていた堀秀村・樋口直房主従が織田方へ寝返ったため、城兵は退去し、両城共に信長の手に落ちました。
ここから歴史は、姉川の合戦へと続いていくのでした。

この後は雪山の中を移動し、先ほど遠望した弥高寺跡へ向かいます。

| | コメント (0)

2019年11月29日 (金)

出石皿そば巡り、御着城、他

有子山城から下山した後は、しばし昼食を兼ねた自由行動。
出石の城下町をぶらり旅。

20191124b01
出石のシンボル、辰鼓楼。
明治4年(1871)に、出石城三の丸大手門の石垣を利用して築かれた、時を告げる太鼓櫓。
明治14年からは時計台となり、札幌の時計台と並んで日本最古の時計台として現在に至っています。

出石へ来たからには、折角なのでやはりお蕎麦をいただかなくては♪

20191124b02
ということで、いずし観光センターで「出石皿そば巡り」の巾着セットを購入。
販売価格は税別1,800円で、出石ちりめん製の巾着の中に永楽銭のコインが3枚入っており、コイン1枚につき皿そば3皿、企画に参加している36店舗で利用できます。
つまり、「異なる3店舗で少しずつ食べ比べができる」というもの。
(価格/店舗数はいずれも2019年11月現在)

20191124b03
まず1軒目。
どうやら通常のそばつゆの他に、とろろや生卵も好みに応じて加えていくのが基本スタンス?のようです。
お店オリジナルの藻塩でいただくお蕎麦も美味でした。

20191124b04
2軒目。
蕎麦の色や太さも、1軒目のものとは全然違いました。
これは確かに、食べ歩きをしながら好みのお蕎麦を探すのも楽しそうですね。

20191124b05
入店して永楽銭コインを利用すると、巾着にお店のハンコが捺されます。
今回は時間もなく、2店舗のみでの利用となりましたが、仮に3店舗でコインを使い切っても9皿。特に男性には物足りないところですが、無論、追加注文も可能です。我々も2軒目で、たくさん追加させていただきました(笑)
また、巾着セットを購入すると、各資料館や土産物の購入にも割引が適用されるようです。

20191124b06
桂小五郎居住跡(荒物屋跡)
元治元年(1864)の禁門の変で京を追われた桂小五郎は、9ヶ月間ほど出石に潜伏しています。

20191124b07
家老屋敷

20191124b08
さて、それでは出石をあとにします。
山頂に有子山城本丸の石垣も見えていますね♪

20191124b09
解散場所である姫路駅へ向かう道すがら、竹田駅にも立ち寄って竹田城を遠望。

20191124b10
姫路市御国野町、御着城跡

20191124b11
御着城は播磨国の守護・赤松氏の家臣で、黒田官兵衛の主家でもあった小寺氏の居城でした。

20191124b12
御着城本丸跡
現在は公民館が建っています。

20191124b13
本丸跡に建つ黒田官兵衛顕彰碑。

20191124b14
黒田家廟所
勘兵衛の祖父・重隆と生母を祀ります。

20191124b15
文政11年(1828)、西国街道に架けられた天川橋。
昭和47年に橋脚が崩れて橋桁が落下したため撤去され、昭和53年に現在地(御国野公民館)に移設保存されました。
橋下の窪みは、御着城の堀跡とのことです。

20191124b16
二の丸跡は現在、グラウンドになっています。
黒田家ともゆかりの深い、目薬の木が植えられていました。
関連記事

20191124b17
二の丸北側の堀と土塁跡。

20191124b18
本丸とニの丸の間を通る道路にも、堀跡と思われる痕跡が残っていました。
先程の、二の丸北側土塁の延長線上です。

20191124b19
最後は姫路駅にて解散。

今回は城友会らしからぬ攻城数の少なさでしたが、疲労感は一番かも・・・(^-^;
その分、素晴らしいお城に出会えたので満足です。
参加者のみなさん、お疲れさまでした☆

| | コメント (0)

より以前の記事一覧