カテゴリー「お城、史跡巡り 近畿」の70件の記事

2019年10月 4日 (金)

恵解山古墳

旅のラストは大阪をあとにし、京都方面へ。

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京都府大山崎町、境野一号墳に建つ明智光秀本陣跡の碑。

天正10年(1582)6月13日の山崎合戦で、中国からの大返しで迫る羽柴秀吉の軍勢を迎え撃つ明智光秀は、「御坊塚」に本陣を置いたと「太閤記」などの諸史料に記されています。
鉄砲の玉が出土していることもあり、この境野一号墳が明智光秀の本陣である「御坊塚」に比定されてきましたが・・・

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近年では境野一号墳の北東、より勝竜寺城に近い場所に位置する恵解山古墳の方を光秀本陣跡とする説が有力になっているようです。
恵解山古墳からも鉄砲玉が出土していることに加え、兵の駐屯のために墳丘上を平らにならしたような痕跡が認められ、堀の形状も陣城用の改変と思われることなどが理由として挙げられています。
秀吉のいた中国地方と京を結ぶ西国街道も、山崎から恵解山のすぐ足元(南西側から北へ抜ける)を通っていました。

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恵解山古墳から、山崎古戦場方向。
右に山崎、左奥には石清水八幡宮の男山も見えています。その間には淀川も流れ、まさに京への玄関口ともいうべき狭隘な地。
天正10年6月13日、この地に立っていた(かもしれない)光秀の眼前には、果たしてどのような光景が広がっていたのでしょうか。

これにて今回の、大坂の陣を中心とした弾丸史跡めぐりの旅も終了。
次は何処の地、いずれの時代(の史跡)から、お届けすることになりますでしょうか。

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2019年10月 3日 (木)

妙法寺の松

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谷町9丁目の妙法寺
今は失われていますが、妙法寺には「妙法寺の松」と呼ばれる名高い松の木があり、江戸時代後期には庶民から「松の寺」とも呼ばれて親しまれていたそうです。

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有名な「妙法寺の松」ではないけれど、境内に植えられていた松をパシャリ。

警護のため、将軍家茂に随行して上方に滞在していた伊庭八郎は元治元年(1864)5月26日、早朝に妙法寺を訪れて「大松」を見物した、と日記に書き残しています(征西日記)。

朝涼や人より先へ渡りふね
その時に彼が詠んだ一句なのですが、どんな意味が込められているのでしょうか。
まだ涼しい早朝に出かけたおかげで人より先にいいものを見ることができた・・・案外こんな単純な感慨を句に詠んだのかもしれませんね。

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また、真田丸跡をめぐって訪れた心眼寺は、桂早之助・渡辺吉太郎・高橋安次郎らの埋葬地。
彼ら3名は京都見廻組に属した幕臣で、同じく見廻組に属していた今井信郎の供述の中で、坂本龍馬、中岡慎太郎を襲撃・暗殺した近江屋事件の実行部隊に名を連ねています。
特に桂は小太刀の名手で、実際に龍馬を切ったとも伝えられる小太刀が霊山歴史館に展示されています。
いずれも慶応4年(1868)1月4~5日にかけて、薩長を中心とする新政府軍との戦闘(いわゆる鳥羽伏見の戦い)で戦死し、当寺に葬られました。
残念ながらいつの頃か、高橋の墓石は失われて残っていないそうです。

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2019年10月 2日 (水)

鴫野・今福の戦い関連地、他(大坂冬の陣)

ひとしきり茨木~高槻をめぐった後は、大阪市の中心街へ。

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まずは本町橋。
慶長19年(1614)12月、大坂城を包囲する徳川方の蜂須賀至鎮隊へ夜襲をかけて、
「本夜之大将ハ、塙団右衛門直之也」
と記した木札をばら撒き、夜討ちの大将として名を馳せた塙団右衛門・・・大坂冬の陣に於ける逸話の一つ、「本町橋の夜討ち」の舞台です。

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大阪歴史博物館から、難波宮跡を俯瞰する。

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そして大阪城も。
天気が良くて明るかった分、窓ガラスへの写り込みがきつくて大変でした・・・(;^_^A

この後は、私の要望で谷町9丁目の妙法寺を訪れたのですが、それは別の記事に回して・・・

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真田丸跡へ。

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真田丸については、もはや説明不要ですね。
大坂冬の陣で、真田信繁の名を天下に知らしめた舞台です。

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A地点から→方向を見た堀跡。

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B地点には古絵図同様、今もお寺が建ち並びます。

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その一つ、心眼寺。

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信繁の400回忌に建立された墓碑。

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続いて、鴫野の八剱神社。
鴫野は慶長19年(1614)11月26日に起きた、大阪冬の陣に於ける鴫野・今福の戦いの舞台にもなっています。

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鴫野には、徳川方の上杉景勝隊5,000が布陣しました。
写真は、八剱神社の境内に建てられた上杉景勝 本陣之地碑。

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豊臣家滅亡後、大坂城は徳川家の手によって造り変えられます。
その際、大和川や平野川などの川が交錯する鴫野は、石垣用石材の集積場になったそうです。
八剱神社の石垣は、この時に残された石材を転用して築かれたとも考えられています。

鴫野に進出した上杉隊に対し、大坂城側は大野治長らを当たらせますが、景勝の軍勢はこれを撃破しました。
上杉隊の奮闘ぶりに家康は「朝早くから戦って兵も疲れているだろうから、鴫野の守備は他の隊に任せて一旦退け」と命じました。
ところが景勝は「自ら勝ち取った地を他人に任せられるものか」と言って使者を追い返したと云います。

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一方、鴫野から旧大和川を挟んで北に位置する今福に向かったのは、佐竹義宣隊。
当時、今福・蒲生一帯は水田や湿地で占められており(付近からは古代の丸木舟も出土している)、戦闘は堤や街道沿いで行われたと考えられています。
この碑が建つ地も、旧鯰江川の北岸にあった今福堤の上に位置しているようです。

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今福堤の痕跡と思われる高低差。
先程の碑の場所から今福堤跡(推定)を4~500mほど西へ向かった地点です。
眼前を横切る道路が堤跡で、手前と奥の地形が下がっているのがわかります。
この堤跡(の道)を、写真左へ進むと・・・

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佐竹義宣の本陣跡と伝わる若宮八幡大神宮に行き当ります。
つまり、佐竹義宣の本陣も堤の上に布かれていたということになります。

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今福に布陣した佐竹隊はおよそ1,500。
大坂城から進出してきた木村重成、後藤又兵衛らとの戦いとなり、佐竹隊は重臣の渋江政光を喪うなど苦戦を強いられました。
戦況不利に陥った義宣は、鴫野の景勝に対して援軍を要請し、駆けつけた上杉隊のお陰で何とか窮地を脱することができたと云います。

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2019年10月 1日 (火)

茨木~高槻の史跡めぐり

大阪史跡めぐりの旅、2日目は朝7時に宿を出発して・・・

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茨木城の本丸跡近くに建つ、茨木小学校に復元された櫓門から。
奈良県大和郡山市小泉の慈光院に移設された茨木城の城門を参考に、原寸大で復元されました。

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こちらは、茨木神社に移築された茨木城の搦手門

九月廿八日、御帰洛。其の日、初めて茨木へ御立寄り。
(信長公記 巻十二「北畠中将殿御折檻状の事」より)

天正6年(1578)に叛旗を翻した有岡城の荒木村重を攻める織田信長は、自身も何度か有岡城攻めの拠点となる池田城まで出向いていますが、天正7年9月28日には池田から京への帰路、茨木城にも立ち寄ったようです。

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続いては、高槻市富田町の普門寺
明徳元年(1390)に創建され、永禄9年(1566)には三好氏に擁立された足利義栄が、当寺で室町幕府第14代将軍の宣下を受けています。
境内を囲むようにして土塁も残っているようで、普門寺城とも呼ばれました。
今回は訪れた時間が早過ぎたので拝観は諦めました…いずれまた。

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高槻市郡家新町の今城塚古墳

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史跡公園として綺麗に整備されているので、この時期でも前方後円墳の形状がよく確認できます。

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後円部頂上より。
今城塚古墳は、永禄11年(1568)に上洛した織田信長が、畿内平定戦の過程で陣城として利用したこともあると云われているようですが、不勉強なため詳細はわかりません。

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茨木市との市境を越えて、総持寺へ。
西国三十三所の第二十二番札所でもあります。

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開山堂は、大阪府下では数少ないという懸け造。
阪神淡路大震災で被災し、平成18年に再建されました。

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山門越しに本堂。

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本堂

十一月十五日、信長公、あまより郡山へ御参陣なり。
十一月十八日、信長公、惣持寺へ御出で。
寅十一月廿三日、惣持寺へ重ねて御成り。
寅十一月廿七日、郡山より古池田に至りて御陣を移さる。
(信長公記 巻十一「荒木摂津守逆心を企て並びに伴天連の事」より抜粋)

荒木村重の謀反に連座する形で敵方となった高山父子の高槻城、及び中川清秀の茨木城の攻略を目指す織田信長は天正6年(1578)11月、まずはあま(安満山)に陣を据え、高山右近が恭順して高槻城を開城すると、今度は茨木城の中川清秀に圧力をかけるかの如く、15日に郡山城へ移りました。
郡山在陣中の18、23日と度々、この総持寺にも足を運んでいます。

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総持寺は、攻囲する茨木城から至近の距離。
信長公記には、信長が数々の戦場で度々、「懸けまはし御覧じ」ている姿が記録されています。この時の総持寺行きも自らの目で敵情を確認し、攻囲戦の陣頭指揮を執るためのものだったのでしょう。

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境内では室町期と推定される瓦窯跡(写真)や、江戸期の台所竈跡も保存展示されていました。

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梵鐘
永享6年(1434)の鋳造で、豊臣秀頼の命で総持寺再建の奉行となった片桐且元が、自らの陣中鐘として用いていたものを寄進したと伝わります。

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信長が茨木城攻めの本陣とした郡山城跡
彼が郡山に着陣した翌16日には、高槻城を明け渡した高山右近も御礼のため、郡山の信長の元へ伺候しています。

11月下旬には茨木城の中川清秀も帰順したため、信長は郡山を出て池田まで陣を移し、村重の有岡城へと迫りました。

有岡攻めの関連地はいずれまた、日を改めてじっくりとめぐりたいと思います。ここ数年来の宿願でもあるので・・・。
この後は少し、西国街道を走りました。

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郡山城下を通る西国街道
写真は郡山本陣前より。

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西国街道(写真横方向)と亀岡街道(同縦方向)が交差する地点。古い道標も建っています。

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この辺りは中河原という地で、中川清秀生誕の地とも考えられています。

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白井河原合戦跡の碑

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摂津三守護の一人だった和田惟政は元亀2年(1571)8月、西国街道が茨木川を越える白井河原一帯(写真)で、荒木村重・中川清秀らとの合戦に臨み、敗れて討死を遂げています。
これ以降、摂津では三守護に代わって荒木や中川、そして惟政の死後まもなくして、その子・惟長から高槻城を奪った高山氏(友照・右近父子)らが台頭していくことになりました。

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2019年9月30日 (月)

道明寺・誉田の戦い関連地

慶長20年(1615)5月、大和口から迫る徳川勢(本多・水野・松平・伊達、etc...)に対し、豊臣方は後藤又兵衛を先陣に真田信繁毛利勝永らの軍勢を派遣します。
5月6日、道明寺村に着陣した後藤又兵衛は、敵の軍勢が既に国分村まで迫っていることを知り、遅れていた後続部隊を待たずに石川を渡って国分村眼前の小松山に布陣しました。

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こちらの階段で小松山を直登?します。。。

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小松山の山頂には前方後円墳も。(玉手山一号墳)

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小松山古戦場跡の碑

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南都奉行奥田三郎右衛門忠次戦死之墓地
奥田忠次は水野勝成隊(徳川方)の一手として道明寺の合戦に参戦し、戦死しました。

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小松山から東、徳川方の諸隊が展開していた国分村方面を望む。このすぐ麓が国分村(柏原市国分本町)になります。
丘陵の合間を大和川が流れる狭隘な地で、迎え撃つ豊臣方の戦略意図は充分に読み取れる地勢でした。

後藤隊は奮戦し、小松山を包囲する徳川方の大軍を何度も押し戻しましたが衆寡敵せず、又兵衛も壮絶な最期を迎えました。
又兵衛が戦死して後藤隊が敗走した後、戦いの舞台は石川西岸の道明寺村・誉田村へと移ります。両村には、遅れていた真田や毛利らの諸隊が布陣しました。

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道明寺
菅原道真の先祖・土師氏の氏寺(土師寺)として建立され、後に道真の号にちなんで道明寺と改められました。

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道明寺天満宮
こちらもやはり、元は土師神社と称していました。

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誉田林古戦場址(誉田八幡宮境内)
誉田八幡宮の付近は、南北朝期より数々の戦いの舞台ともなりました。
大坂夏の陣では、豊臣方の薄田兼相も誉田八幡宮に陣を張り、道明寺で戦死を遂げています。

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誉田八幡宮拝殿
豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行に任じて再建させましたが、完成前に大坂の陣が勃発したため、未完のまましばらく放置されました。
その後、徳川家光の代になって工事が再開され、寛永初期に竣工しています。

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誉田八幡宮本殿と応神天皇陵(写真奥)の間を流れる放生川に架かる放生橋。
物凄い反りで、殆ど壁のようです。

道明寺・誉田でも豊臣方は善戦したようですが、八尾・若江口の敗報(参考記事)に接し、撤退を決めました。
この時のことですね、真田信繁のあの有名な台詞が吐かれたと云うのは。
関東勢百万と候へ、男は一人もなく候。

さて、この日はこれで打ち止めとし、この後は宿を取る茨木駅前へ移動。
夜は大阪の城仲間も合流し、城と歴史を肴に楽しく飲みました。

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2019年9月29日 (日)

八尾・若江の戦い関連地

今回の旅の行程は、同行者任せの完全ミステリーツアー。
新大阪駅で合流し、まず最初に連行…もとい連れて行かれた(同じかw)先は・・・

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若江城跡でした。
5年前、織田信長の天王寺合戦めぐりで訪れて以来の再訪となりました。
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どうやら今回は、大坂の陣の関連地を中心にめぐるようです。

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若江城跡碑から南へ100mほど、蓮城寺に建つ木村重成の霊牌所
大坂夏の陣、八尾・若江の戦い(慶長20年5月6日)で若江口に出撃し、徳川方の藤堂や井伊らの軍勢と戦って討死を遂げた木村重成を祀っています。
霊牌所の中には重成の肖像画や位牌、日蓮宗を庇護した加藤清正の小さな木像が安置されていました。

この付近には「若江木村通」という交差点もあります。

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少し場所を移して、八尾市幸町の木村重成墓所
宝暦14年(1764)、重成の首を挙げた井伊隊・安藤長三郎の子孫で彦根藩士(井伊家)だった安藤次輝が、重成の150回忌にあたって建立しました。
すぐ北を流れる第二寝屋川の開削工事により、昭和になって50mほど移動しているようです。

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墓所は公園の中に位置しているのですが、その公園には;
此附近木村重成奮戦地
の碑も建てられています。

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続いて八尾口の古戦場方面にも足を運びました。
写真は、八尾神社境内に建つ矢尾城址碑。

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八尾神社の西にある常光寺の門柱?に刻まれた、大坂夏の陣古戦場の文字。

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常光寺には多田満仲の子孫で、楠木正成の家臣として活躍した八尾城主・八尾別当顕幸のお墓もありました。

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長宗我部物見の松跡
八尾口へ出撃した豊臣方の長宗我部盛親は久宝寺一帯に布陣し、この地に生えていた松の木に兵を上げて藤堂隊の動静を探ったのだそうです。

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久宝寺城跡
天正5年(1577)、久宝寺城は本願寺の攻撃を受けて陥落しているそうです。
時の城主・安井定重が織田信長に与していたためとか。

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久宝寺城のものと思われる土塁を写した古い写真。

八尾・若江での戦いは、徳川方の先鋒・藤堂隊の武将を多く討ち取るなど、豊臣方も特に八尾口では善戦したようですが、繰り出される新手(井伊隊など)に若江口が徐々に押し込まれ、木村重成の戦死によって木村隊も壊滅し、若江口は破られました。
若江口の崩壊を受けて八尾口の長宗我部盛親も孤立を恐れ、大坂城へと撤退します。

この後は道明寺方面へ向かいます。

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2019年9月 4日 (水)

松原城の現説と三田城

2019年8月31日は急遽、兵庫県神戸市北区の道場町へ。

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神鉄道場駅の目の前にある松原城(蒲公英城・道場川原城)の発掘調査現地説明会(以下「現説」)に行って参りました。

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松原城跡図
着色されている部分が、今回の現説での公開範囲となります。

松原城は南北朝期、三田城の支城として赤松氏によって築かれたのが始まりとされ、後に赤松氏の流れを汲む松原氏が城主となっていたようです。
城主の娘に鼓の名手がいたとの伝承から「つづみ草」=蒲公英(たんぽぽ)城(※諸説あり)、或いは麓にあった村の名前から道場川原城とも呼ばれました。

有馬郡の御敵さんだの城へ差し向かひ、道場河原・三本松、ニケ所足懸かり拵へ、羽柴筑前守秀吉、人数入れ置き、
(信長公記 巻十一「丹波国波多野館取り巻くの事」より)

天正6年(1578)12月、叛旗を翻した荒木村重を攻める織田信長の命を受けた羽柴秀吉は、荒木方の三田城に対し、道場河原・三本松に付城を仕立てて兵を入れています。
この松原城こそ秀吉がこの時、三田城に対する付城とした一つ、道場河原に比定されているのです。
※現地案内板には「天正7年に秀吉に攻められて落城した」とありましたが、秀吉が道場河原を付城としたのは天正6年なので、もっと早い段階で松原氏は城を退去していたということになりますでしょうか。

今回の発掘調査は宅地開発計画に伴うもので、開発で城跡が消失する前に一度は見ておかなくては!との思いから、殆ど勢いだけで東京からわざわざ訪れたのです(笑)

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最初に資料を受け取り、出土遺物などを見学。
土器や・・・

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短刀、 弓矢の雁股鏃なども出ているようです。

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曲輪6(写真右上部分)
曲輪2の北西斜面に付けられた帯曲輪のようです。

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順路に沿って麓を曲輪7方向へ歩いていくと、石積みらしき痕跡も見受けられました。

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松原城から南方の眺め。

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曲輪7

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曲輪7の脇を抜け、曲輪2へと続く登城道。

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曲輪2
写真左側の土塁の切れ目が、先ほどの登城道からの虎口になっていたようです。

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曲輪2から出土した石敷きの遺構。
どことなく昨年、愛知県の小牧山城から出土したものと似ている印象を受けました。
なお、今回の発掘調査では建物の痕跡は確認できていないようです。

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曲輪2の土塁上から。

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曲輪2から曲輪1方向。

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改めて曲輪2の全体を俯瞰する。

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曲輪2と1の間を断ち切る堀切(北側)

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堀切の南側は発掘されておらず、見学者のための歩行ルートに充てられていましたが、実際にはこちら側も切られていたことでしょう。

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堀切を塞ぐように見えている土壁は、発掘の際に掘り残した観察用の畦ですが、その先から・・・

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土留めの石積みを伴う閉塞土塁(写真手前)が見つかっており、堀切というよりは箱堀のようになっていたようです(奥は先ほどの観察用畦)。
また、堀底は岩盤を削って平らに整地されていたとのことです。

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堀切の先は曲輪4

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曲輪4の切岸。
下層部分は岩盤を切り開いていました。
この切岸の上は曲輪2になります。

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曲輪4からは、集石土坑も見つかっています。
駐屯する兵たちの生活を窺い知る、貴重な遺構ですね。

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主郭となる曲輪1はまだ調査中で、今回の公開範囲には含まれていませんでした。

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曲輪1から望む曲輪2。
曲輪1側を除く三方を囲む土塁は、麓を通る丹波街道に面した北~東側(写真右半分)の方がより高く、強固に築かれていたようです。

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松原城(道場河原)から、三田城(さんだの城)方面を望む。
・・・丘陵が視界を横切り、見通しは全く利きません。

三田城を攻める(包囲する)ための付城という意味に於いては、横山城や立石城など、より適した立地の城跡がいくつか存在しています。
信長公記に道場河原と並んで出てくる三本松とされる場所は、松原城(道場河原)の遥か南西、三田城からは更に遠く離れ、有馬から三木へと続く湯の山街道沿いの神戸市北区屏風に位置しています。(「摂津名所図会」)
こうした点を踏まえると、信長公記に出てくる道場河原・三本松の2つの砦は、さんだの城へ差し向かひとはあるものの三田城を攻めるためのものというよりは、主要な街道(丹波街道・湯の山街道)を押さえ、敵対した荒木方の三田城を警戒しつつ、この時期の秀吉の主戦場となる三木への兵站線を確保・維持するためのものだったのではないかと思います。

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八多川の対岸から望む松原城。

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松原城下を抜ける丹波街道の旧道。

この後は、松原城の現説でお会いしたお城仲間の方々とご一緒させていただき、三田城へ向かいました。

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三田藩主・九鬼家御下屋敷跡の築山と、家臣が寄進した石燈籠。
(法務局三田出張所)

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金心寺の山門として移築された、御下屋敷の黒門。
金心寺はかつて、織田信長の摂津・播磨攻めの兵火で失われるまでは壮大な七堂伽藍を誇り、本尊の弥勒菩薩像(国重文)の胎内からは、
「金心寺三福田により三田と改める」
と、三田の地名の由来を記した墨書銘が見つかっているそうです。

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九鬼家の菩提寺、心月院。
心月院の山門は、天正13年(1585)の創建。
同寺が九鬼家の菩提寺として心月院と改められたのは、九鬼家の三田入封後の寛永10年(1633)のことなので、この山門はその前身・梅林寺からのものということになりますでしょうか。

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総門の創建は宝暦3年(1753)

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九鬼家歴代の墓所

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心月院には、三田県大参事を務めた白洲退蔵を祖父に持つ白洲次郎・正子夫妻も眠ります。

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旧九鬼家住宅資料館
お隣の三田ふるさと学習館では三田城に関する資料をいただいたり、城跡に立つ有馬高校内の見学についてご教示いただきました。

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三田城(陣屋)図
江戸時代、鳥羽から三田に移封された九鬼家は、旧城域を取り込んで陣屋を構えました。
現在、上の図で「陣屋」とある一帯は三田小学校、「古城」は有馬高校の敷地となっています。

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三田城跡碑(図1

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2の内堀

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満々と水を湛える内堀

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3部分
水路のヘアピン具合が、図の堀とピタリ一致していませんか?

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「古城」北側の地形高低差(図4

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5の竪堀・・・か?

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それにしても「古城」北側の高低差は、横から見ても見事の一言。

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6辺りにある石組みの井戸跡。
五輪塔なども石材として用いられていました。
こちらの井戸からは1582~1601年頃まで三田城に入っていた山崎氏の家紋入りの瓦が発見されていることから、九鬼氏以前からの貴重な遺構である可能性が高そうです。

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鳥羽から内陸の三田へと転封となった九鬼水軍。
それでも、水軍としての技術を忘れないようにと、舟を浮かべて訓練していたと伝わる三田御池。

松原城の現説も期待以上でしたし、ご一緒させていただいたお城仲間の皆様のお陰で、三田城とその周辺めぐりも想定以上の成果を得られました。
週末の天気予報にやきもきし、前日まで迷っていた強硬日帰り旅でしたが、思い切って決行して本当に良かったと思います。

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2019年4月 7日 (日)

野田・福島攻めと本願寺の蜂起

先日、大阪へ出張する機会がありましたので、そのついで(?)に織田信長による野田・福島攻めの舞台を少しめぐってみました。

元亀元年(1570)、細川昭元・三好長逸・三好康長・安宅信康・十河存保・篠原長房・石成友通・斎藤龍興・長井道利らが立て籠もる摂津の野田・福島両城攻略のため、信長は8月20日に岐阜を出陣して横山城・長光寺城・本能寺・枚方を経由し、同月26日、軍勢を天満ヶ森・川口・渡辺・神崎・上難波・下難波・浜の手などへ配し、自らは天王寺へ着陣しました。
姉川合戦から僅か2ヶ月ほど後のことです。

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玉川4丁目交差点付近に建つ野田城跡の石碑。

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野田御坊極楽寺

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こちらは極楽寺前に建つ野田城址碑。
周辺には最早、かつてここに城が存在した痕跡は残っていません。
福島城に至っては、その位置すらもよく判っていないようです。

天王寺に着陣した信長は、ろうの岸川口に砦を築かせて諸将を配備した後、

九月九日、信長公、天満ケ森へ御大将陣を寄せさせられ、次の日、諸手より、うめ草をよせ、御敵城近辺にこれある江堀を填めさせられ、
(信長公記 巻四「野田・福島御陣の事」より。以下、青文字引用同)

本陣を天満ケ森まで移し、包囲を狭めていきます。
「細川両家記」にも日付こそ違えど;
七日に、信長天王寺より中島天満森へ陣替候なり。(以下、緑文字引用同)
とあります。

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大阪天満宮近くに残る星合の池

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案内板によると「石山軍記」天正二年(1574)の項に;
「天満山の北、明星の池、星合の池の間、少し北に属し、織田信長本陣を布き」
と記されているようですが、天正2年は4月に一度、本願寺周辺を刈田・放火させたことはあるものの、それ以外に大坂での目立った戦陣は記録されていません。
本願寺を攻める際、地形的にも上町台地の先端に位置する本願寺から見下ろされるような位置にわざわざ本陣を布くとは考えづらく、むしろ野田・福島攻めの時と混同しているのかもしれません。

九月十二日、野田・福島の十町ばかり北に、ゑび江と申す在所侯。公方様・信長公、御一所に詰め陣に御陣を居ゑさせられ、

九月十二日に、中島の内浦江と申所に、御所様入城なり。(中略)信長は、御所様御近所に御陣取由候なり。諸勢は敵近に堤田の中に陣屋かけられ候と申候。
※浦江=海老江

9月12日、信長は本陣を更に移動し、中島城に着陣していた足利義昭と共に野田・福島両城から僅か1㎞ほど北に位置する海老江に布陣しました。

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海老江八坂神社
村の旧記で永徳3年(1383)の霜月に社殿が再建されたことが確認できるため、それよりも古い歴史を有します。
野田・福島攻めの際、織田信長は荒木村重を遣わし、陣馬・陣刀を奉納して戦勝を祈願させたと伝えられています。

ところで、織田軍の諸勢は堤田の中に布陣しています。
天満ヶ森へ本陣を移した際にも、敵城近くにあった江堀うめ草を集めて埋めさせたとありましたが、当時、この辺り一帯は大小の河川が複雑に入り組む湿地帯でした。
現在も、八坂神社のすぐ近くには淀川が流れています。

ここで織田方に雑賀・根来・湯川などから、鉄砲3,000挺を含む20,000の援軍も参陣し、天王寺や住吉、遠里小野に陣取って野田・福島攻めに加わりました。
敵味方が放つ鉄砲の音で、戦場は日夜天地も響くばかりであったと云います。

然れば、野田・福島種々懇望致し、無事の儀申し扱ひ侯と雖も、迚も程あるべからずの間、攻め干さるべきの由侯て、御許容これなく、

織田の大軍による猛攻に耐えかねた籠城側は和議を申し入れますが、もはや攻略にそれほど時間もかからないと判断した信長は、これを認めずに攻城を続けました。
すると・・・

野田・福島落去侯はぱ大坂滅亡の儀と存知侯歟、
九月十三日夜中に手を出し、ろうの岸・川口両所の御取出へ大坂より鉄炮を打ち入れ、一揆蜂起侯と雖も、異る子細なく侯。

野田・福島が落城すれば、大坂=本願寺も滅亡すると考えたのか、突如として本願寺が蜂起し、織田方の陣所へ攻撃を加えてきました。

「細川両家記」にも;
野田福島一途以後は、大阪へ可被取懸候由風聞候也。

とあることから、野田・福島の後は本願寺が攻撃される、という風聞は確かに流れていたようです。
牛一は「信長公記」に異る子細なく=別にたいしたことはなかった、と記していますが、「細川両家記」には;

九月十二日夜半に、寺内の鐘撞かれ候へば、即人数集けり。信長方仰天也と云。

とあります。
本願寺の目と鼻の先、足元のような天満ヶ森に布陣したり、ろうの岸に砦を築いたりしていることからも、信長は本願寺の蜂起を全く予期していなかったように思えます。
※ここでも両史料間に日付の相違がありますが、本願寺の蜂起は9月12日が定説になっているようです。

河端の堤をわざと切ければ、水内へ入候得ば、信長方の陣屋共悉つかり、難儀に及候由。

本願寺勢に堤を切られ、堤田の中に布陣していた織田方の陣屋はことごとく水に浸かって難儀しました。
その後も何度か衝突があったようですが、22日になって信長の元に、近江で朝倉・浅井の軍勢が南進して京に迫っている、との急報が届き、信長は23日に摂津の陣を引き払って京へと急ぎ引き返し、朝倉・浅井勢に対処することにします。
こうして戦局は摂津から、志賀の陣へと移っていくのでした。


ところで、東淀川区にある定専坊というお寺には、本願寺で使われていた鐘が残っているというので、そちらにも足を運んでみました。

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今里筋線「だいどう豊里」駅から西へ800m、こうした趣ある路地を抜けて・・・

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定専坊に到着。
行基菩薩による創建とされ、元は真言宗に属する西光寺というお寺でしたが、本願寺第八代法主蓮如に帰依した当時の住職浄賢によって浄土真宗に改宗され、寺号も定専坊に改められました。
浄賢の孫了賢は、織田信長と本願寺による石山戦争において本願寺側に立って活躍したことが、古い文献にも記されているようです。
顕如上人の消息の他、荒木村重や鈴木孫一の書簡なども残されているそうです。

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こちらが天正8年(1580)、教如らが退去した後に出火した本願寺から運び出されたと云う鐘

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先程も「細川両家記」から引用しましたが、本願寺は信長に対して蜂起する際、鐘を撞いて軍勢を集めたと云います。
或いはこの鐘がその時の・・・と考えると、なんだか身の震える思いがします。

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境内には楠一族の墓碑もありました。
楠木正成の孫にあたる正勝がこの地に隠棲したことによるもので、正勝とその子の正盛・信盛を供養する五輪塔とのことです。
浄賢や了賢は楠(楠木)氏を祖としていたようです。

2014年に、天王寺の戦いの関連地をめぐって以来に訪れた大阪。不慣れな身には電車の移動ルート選択ですら、なかなかハードルが高かったです。
今回は日帰りで時間もあまり取れなかったので、いずれまた地形や詳細な位置関係を把握しつつ、じっくりと検討を加えながらめぐってみたいと思います。

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2018年12月 5日 (水)

龍王山城(北城)

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旅の最終日は天理市田町の龍王山城へ。
林道の途中で通行止めになっていたので、そこから結構な距離を歩いて到達しました。

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龍王山城は大和の豪族・十市氏の居城でした。
天文年間、十市氏は遠忠の代に勢力を伸ばして龍王山城も拡張されたようですが、子の遠勝の代になり、松永久秀が大和で勢力を伸ばすと徐々に衰退し、やがて前日に訪れた宇陀松山城の秋山氏から攻撃を受け、城を放棄して逃れていきました。
その後も紆余曲折を経て、龍王山城は最終的に松永久通の手に渡りますが、松永氏が織田信長に反旗を翻して滅びると、天正6年に信長の命によって廃城となりました。

龍王山城は北城と南城の2つから成りますが、今回は時間の都合で北城のみを見ていきます。

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馬池・・・馬の肢でも洗っていたのでしょうか。

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馬池から時ノ丸方向へ向かう途中、西側の斜面にあった竪堀群。
群と言っても藪がひどく、ちゃんと確認できたのはこちらの2本のみでした。

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このすぐ上の曲輪が時ノ丸で、その先の切岸の上は北城の本丸になります。

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Aの曲輪
高い土塁には平虎口が付けられていました。

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A曲輪の土塁には一部、石積みも。

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A曲輪北東下の竪堀。
この竪堀を下って大手方面へ向かいます。

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西の大手の丸
数段の平場が階段状に連なっていました。

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五人衆郭
写真奥、一段上がった先には大きな平場が広がっています。

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図で「馬ひやし場」と書かれている地点。
左は五人衆郭の切岸です。

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馬ひやし場の北に広がる郭には土塁も残っていました。

この後、五人衆郭の北にある竪堀群を見に行きましたが、良い写真が撮れていなかったので割愛・・・。
他にも見ておきたいポイントはありましたが、縄張り迷子になってしまったので本丸へ直行。

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北城本丸

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北城本丸から西の眺望。

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北城本丸と辰巳の櫓間の堀切。

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こちらはB曲輪と太鼓ノ丸間の堀切。

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南虎口の丸堀。
丸堀を挟んで2つの食違虎口が設けられています。
写真は城内側から見ていますが、対岸の城外から城へ攻めてきた寄せ手は、丸堀の外周を反時計回りに手前の虎口まで回り込まされる構造になっていました。
こうすることにより、寄せ手の弓は城内(高所)から狙う城兵に対して常に逆手となり、逆に城兵にとっては有利な得手となる工夫なのだそうです。

龍王山城、北城のみを駆け足で見てまわりましたが、とても規模が大きく、見どころの多い山城でした。

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2018年12月 4日 (火)

宇陀松山城

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城友会2018
、2つ目のお城は宇陀松山城です。

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城山南西麓の千軒舎に車を停め、パンフレットをいただいてから、建物の脇より登城道へ向かいます。
※続100名城スタンプも千軒舎にあります。

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Aの横堀

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雀門跡からの登城路に散見された残存石垣。

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崩れやすそうな地質に見えたので、大部分は崩落してしまったのかもしれませんが、往時は総石垣づくりのお城だったのでしょうか。

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雀門からの登城路。
直角の折れが続きます。

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本丸から天守郭を望む。

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本丸から南方の眺め。
ブルーシートは、台風などによる崩落箇所を覆ったものです。

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本丸から二ノ丸方向。
そこかしこに崩落の痕が見られます・・・。

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天守郭からBの張り出し。

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天守台周囲に残る石垣。
多くの崩落箇所が物語るように、やはり崩れやすい地質によって石垣も、長い年月の中でその大半が失われてしまったのでしょう。

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隅石

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大門

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大御殿郭からの天守郭

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つづいて山麓の春日門跡。
現在は春日神社の参道になっていますが、参道は石垣の先ですぐに左へ折れ、枡形だったことが明瞭にわかります。この春日門は、宇陀松山城の大手にあたります。
また、春日神社の周辺には宇陀松山藩主・織田家の屋敷が建っていたようです。

宇陀松山城は秋山氏の居城として築かれました(当時は秋山城)。
その後、豊臣秀長の大和入部に伴って宇陀へ配された豊臣家臣らや、関ケ原合戦後に入城した福島高晴によって改修が続けられました(「松山」と改名したのも高晴とされる)。
しかし高晴は元和元年(1615)に改易となり、その後に入封した織田信雄は麓に陣屋を構えたものの城には入らず、宇陀松山城はその使命を終えました。

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続いて城下町を散策。古い道標が建っていました。

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町並みもいい感じですね。

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城下町への大手門にあたる松山西口関門。
建設時から残る唯一の建造物で、ここから城下へ入って大手筋を進むと、先ほどの春日門に繋がっています。

さて、これにて城友会2018本戦の初日は終了です。
夜は宿近くの居酒屋で飲んだ後、メンバーは恒例のカラオケへ繰り出しましたが、私は疲れからか気力・体力が続かず、参加7年目にして初のパス・・・最終日に備えるため宿へ戻りました。
そう、twitterをご覧いただいていた方はご存知かもしれない、全く寛げない宿へ・・・。

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