カテゴリー「お城、史跡巡り 近畿」の91件の記事

2023年5月28日 (日)

安土城、他

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安土駅前に建つ織田信長像。
ここから炎天下の中、徒歩で安土城跡へ向かいます。

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安土城跡では「令和の大調査」と銘打ち、最長20年にも及ぶ発掘調査・整備事業が予定されています。
最終的な調査範囲は広範に渡るようですが、本年度(R5)中には早速、天主台周辺の調査・整備が始まる模様です。
その天主台周辺の整備後のイメージ図に少々不安を覚えたこともあり、景観が変わってしまわないうちにとの思いから、今回の訪問になりました。

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黒金門
途中の遺構はすっ飛ばし、黒金門まで一気に駆け上がってきました。
ここから始まる主郭部を重点的に見ていきます。

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二の丸へ上がる石段。

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二の丸に祀られている織田信長廟。
門構えが新しくなっていました。

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本丸への虎口部と、天主台西面石垣。

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天主台南面石垣。

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本丸

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本丸礎石列

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台所跡へと続く本丸東虎口。

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本丸取付台を経由して天主台へ。

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天主台の石段。

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石段に用いられている切石状の笏谷石

(天正九年)七月十一日、越前より、柴田修理亮、黄鷹六連上せ、進上。並びに、切石数百、是れ又、進上申され候ひしなり。
(信長公記 巻十四「因幡国取鳥城取り詰めの事」より)

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天主台

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しっかりと、今の姿を目に焼き付けておきます。

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天主台の発掘調査は主に、現在我々が目にすることのできない北側が中心になる模様です。

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摠見寺跡から西の湖を望む。

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三重塔と共に貴重な現存建築物、二王門。

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下山後、引き続き徒歩にて安土城考古博物館へ。
令和五年度春季特別展「信長と家康 裏切る者・裏切らざる者」を拝観しました。

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信長と家康(裏切らざる者)、そして「裏切る者」として松永久秀や明智光秀、浅井長政、荒木村重らの関係資料を中心とした内容でした。
最も印象に残っているのは;

天正元年11月29日付 佐久間信盛宛織田信長黒印状
→反旗を翻し抵抗を続けていた松永久秀を、多聞山城の明け渡しと人質の提出を条件に赦免することにした旨を伝える内容。

松永申分つらにくき子細と表現していますが、個人的な印象としては、そこにあるのは「怒り」というよりも;
憎ったらしくてアッタマ来るけど、しょーもない○○ジジィが多聞山城と孫を人質に差し出すって言うから許したることにした。なのでお前らもこれ以上、四の五の言わないでね重而被申ましく候)。
といった調子で、むしろ反旗を翻した者を赦すのを、他の家臣(この場合は佐久間信盛)に言い訳しているようなニュアンスにさえ感じました。
そして佐久間信盛って、本当に一言多い家臣だったのかも・・・(^m^)

日付は、コチラの記事でご紹介した妙覺寺での茶会の6日後。信長はこの年、12月2日に岐阜に到着するまで京に滞在しています(信長公記)ので、妙覺寺を発つ直前くらいのタイミングで発給された文書とみて間違いないでしょう。

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考古博物館から駅までの道すがら。
今の季節ならではの、逆さ安土城。それにしても暑かったです。。。

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2023年5月27日 (土)

石山寺

旅の2日目はまず、石山寺へ向かいます。
京阪石山坂本線「石山寺」駅から歩くこと10分ほどで、、、

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石山寺の東大門に到着。

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石山寺も前日の南禅寺同様、何故かタイミングが合わなくて未訪のまま過ぎてきた地。
ようやく参拝叶いました。

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天然記念物にも指定されている珪灰石越しに多宝塔。
まさに「石山」の名に相応しい景観。

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本堂
永長元年(1096)の建立(一部は1602年の建て替え)で、国宝に指定されています。

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紫式部が参籠し、「源氏物語」の着想を得たとも、起筆したとも伝えられる部屋。

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案内板によると紫式部参籠の部屋は、「石山寺縁起絵巻」にも描かれているようです(⇒部分)。
藤原道長も参籠していたのですね。

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紫式部供養塔

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多宝塔
源頼朝による建立とも伝えられ、建久5年(1194)の銘を持つ現存最古の多宝塔で、こちらも国宝に指定されています。

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その頼朝の供養塔(左)と伝わる、室町前期建立の宝篋印塔。
こちらは重要文化財指定。

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芭蕉庵
たびたび義仲寺に滞在した松尾芭蕉は、程近い石山寺にも足を運んでいたようで、そんな彼に所縁のある茶室なのだそうです。

この後は湖東の安土へ向かいます。

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2023年5月26日 (金)

養源院、金地院、南禅寺、他

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三十三間堂のすぐ東隣り、養源院
淀が文禄3年(1594)に、父・浅井長政の菩提を弔うために創建しました。
一度焼失しますが元和7年(1621)、今度は二代将軍秀忠の正室となっていた妹の江により、伏見城の遺構を用いて再建されました。

養源院では;
・慶長5年(1600)、関ヶ原合戦の前哨戦に於いて、伏見城で最期を遂げた鳥居元忠のものとも伝わる血天井
・杉戸に描かれた俵屋宗達筆の唐獅子、麒麟、白象などの障壁画
などを拝観いたしました。

養源院を辞した後は電車で移動、「蹴上」駅で下車して、、、

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ねじりまんぽを通り抜け、、、

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南禅寺塔頭、金地院へ。
応永年間(1394~1428)に開創され、家康のブレーンとしても活躍した以心崇伝により、慶長10年(1605)に南禅寺の塔頭として移されました。

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明智門
光秀が母の供養のため大徳寺に建立したものとのことで、明治になって金地院に移築されています。

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金地院東照宮
寛永5年(1628)の造営で、御神体の東照大権現坐像鳴龍の天井絵(狩野探幽筆)も公開されていました。

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方丈の鶴亀庭園
寛永9年(1632)、小堀遠州による作庭です。
全国に遠州作と伝わる庭園は数多くあれど、史料で確定できる確かなものとしては唯一なのだそうです。

右に鶴島、左に亀島、その間には平たい遥拝石。
遥拝石は方丈から奥に見える東照宮を遥拝する際の、祭壇的な意味を持たせて設置されたものだそうです。

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そして南禅寺へ。

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三門から見渡す南禅寺境内。

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琵琶湖疎水の水路橋、水路閣。

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京都にはもう何度もお邪魔しているのに、いつもスルーして未訪のままになっていた南禅寺。
今回、旅程に組み込めてよかったと思います。

この後は宿をとってある滋賀県大津市の石山駅へ。
ホテルの位置を確認するためグーグルマップを見ていたら、すぐ近くに今井兼平の墓所があることを知り、、、

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お参りに来ました。

今井兼平は源(木曽)義仲の腹心で、寿永3年(1184)1月21日、粟津の戦いで主君に殉じました。
元は墨黒谷という地にあったそうですが、寛文7年に膳所藩主・本多康将によって現在地に移されました。
今ではすっかり住宅地の一隅、といった風情です。

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さて、石山駅前の「東海道を旅する松尾芭蕉」像で、旅の初日は終了です。

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2023年5月25日 (木)

妙覺寺の特別拝観

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今回の京都旅は地下鉄「鞍馬口」駅から徒歩7~8分、妙覺寺からスタート。

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5月31日までの日程で行われている新緑特別拝観。
その一端の特別展示「京都妙覺寺における織田信長の茶会」を目当てに伺いました。

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方丈、書院の間に置かれた展示品。

京での宿所として、妙覺寺を幾度となく利用していた織田信長
朝倉・浅井を滅ぼし、足利義昭を京から追放して間もない天正元年(1573)11月23日、彼はここ妙覺寺で茶会を開きました。
その席で供された初膳~三ノ膳までの本膳料理と引き物2種、菓子9種を加えた計五膳を、列席していた津田宗及が事細かく書き留めていた記録(津田宗及茶湯日記)を元に復元(レプリカ)したものを並べていました。
献立を見ていくと雉や雁、鶉に白鳥と、明らかに鷹狩の獲物と思しき食材も多く使われていました。


もう一つの目当て、妙覺寺が所蔵する弘治2年(1556)4月19日付の斎藤道三書状、いわゆる美濃国譲り状も本堂に展示されていました。

長良川で討死する前日、道三がその一子に宛てて;
美濃国は織田信長の存分に任せることにした。その譲り状を信長にも書き送った。
そなたはかねてからの約束通り、京の妙覺寺に入りなさい。
etc...
などと書き送った書状です。
実際、妙覺寺19世・日饒上人は道三の子息と伝えられています。

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いつかは目にしたいと願っていた、あまりにも著名な文書。
誰にも気兼ねすることなく、一人静かにじっくりと拝観することができて感無量です。
※写真は本堂前の青もみじ

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2023年3月 7日 (火)

六波羅蜜寺、等持院

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京都旅の初日、妙満寺~岩倉具視幽棲旧宅とめぐった後、ホテルへのチェックインには少し早かったので、まだ拝観時間に間に合いそうだった六波羅蜜寺に寄ってみました。

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醍醐天皇の第2皇子だった空也上人が開創、源平の時代には平家の邸宅や鎌倉幕府の六波羅探題も置かれました。

念仏を唱える口から6体の阿弥陀が現れたという姿の空也上人立像や、経巻を手にした平清盛坐像、運慶や湛慶の坐像なども拝観させていただきました。

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また2日目には、大徳寺から妙心寺への移動途中に等持院にも立ち寄りました。

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室町幕府将軍、足利氏の菩提寺でもある等持院。
霊光殿では尊氏の念持仏だった利運地蔵尊歴代足利将軍の木像、そして明治の廃仏毀釈後に石清水八幡宮から移された徳川家康の木像も拝観いたしました。
等持院の足利将軍木像といえばやはり、幕末に起きた足利三代木像梟首事件が有名ですね。

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等持院の庭園。
写真右手前方向には、尊氏の墓と伝わる宝篋印塔もあってお参りしたのですが・・・どういう訳か撮影し忘れたようです。

今回の1泊2日の京都旅は、余った時間も臨機応変にきっちりと追加拝観などへまわして使い切ることができ、とても充実した濃い内容なりました。

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2023年3月 6日 (月)

大徳寺、妙心寺の特別拝観(第57回 京の冬の旅)

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「京の冬の旅」で初公開されている三玄院参拝の為、大徳寺へやってきました。
案内板にある他の2院にもお参りします。

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まずは三玄院から。

石田三成や浅野幸長、森忠政らが創建した大徳寺塔頭の一つ。
枯山水の昨雲庭を愛でつつ、八方にらみの虎や、一間毎に春夏秋冬を描きわけた襖絵の数々、三成や近衛信尹らの御位牌、古田織部による八窓の茶室・篁庵(外観のみ)などを拝観させていただきました。

今を逃すと次はいつ機会を得られるかわからない、貴重な時間を過ごさせていただきました。

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続けて芳春院へ。

慶長13年(1608)、前田利家夫人の芳春院(まつ)が開創した大徳寺塔頭の一つ。
本堂に安置された芳春院の木像や、金閣・銀閣・飛雲閣と共に「京の四閣」と称される呑湖閣などを拝観しました。
呑湖閣は想像以上に存在感のある建物で、とても印象に残りました。

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そして、10年ぶりの再訪となる総見院

まずは本堂で、案内板に写真が載っている織田信長坐像、そして総見院では初公開となる信長の肖像画を拝観しました。
※総見院所蔵の肖像画は、2017年に大徳寺本坊で狩野永徳の筆による信長の肖像画を拝観した際、一緒に並べられていました。
当時の記事

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3つある茶室も見学。

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信長の木像を運んできた輿。

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加藤清正が船底石として船に積み込み、朝鮮から持ち帰ったと云う大石を囲いに用いた掘り抜き井戸。
井戸自体はもっと古くからあったようで、天正13年(1585)の大徳寺大茶会では、秀吉自らこの井戸の水で茶を点てたとも伝えられているようです。

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いまだ現役の井戸で、石組みも綺麗に積まれています。

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大石を運ぶ時にあけられたものか、鉤状の穴も確認できます。

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可憐な姿で境内を飾っていたボケの花。
ボケを漢字で書くと「木瓜」・・・なるほどね♪

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最後に織田家墓所へご挨拶して、総見院、及び大徳寺を辞します。

所変わって・・・

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こちらは妙心寺の壽聖院
石田三成が父・正継の菩提寺として創建しました。

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庭は狩野永徳の設計とも伝わります。
瓢箪池は秀吉の馬標をモチーフとしているそうですが、植木に隠れて形はよく見えませんでした。

本堂では;
石田正継肖像画(複製)
石田三成や正継、その妻女らの御位牌
朝鮮出兵先からの石田三成書状
などを拝観しましたが、中でも印象に残ったのは、細川忠興が藪内匠頭正照の子息を召し抱える際に発給した目録で、日付の下にtada/uoqui
と彫られた小さな丸い朱印が捺されていました。
妻ガラシャが敬虔なキリスト教徒だった影響では、との説明でしたが、確かにラテン系っぽいスペルではありますね。

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石田三成と一族の墓所。

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その隣には、関ヶ原合戦後も壽聖院を支援した藪内匠頭正照のお墓も。

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妙心寺では7年ぶり玉鳳院にも再訪、狩野安信による襖絵花園法皇玉座の間に据えられた徳川家康(東照大権現)の御位牌織田信長・信忠、武田信玄・勝頼・信勝・信豊らの供養塔などを拝観しました。

この日はここまで、大徳寺と妙心寺で合わせて5つの塔頭を拝観しました。
拝観料だけでも4,000円・・・さすがにお財布も厳しくなってきましたので、これにて打ち止めです(;^_^A

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2023年3月 5日 (日)

岩倉具視幽棲旧宅

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前記事で訪れた妙満寺から更に北へ、20分ほど歩いた先にある岩倉具視幽棲旧宅

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皇女和宮の降嫁、いわゆる公武一和を推進して反幕派の弾劾を受け、文久2年(1862)に朝廷を追われた岩倉具視が、元治元年(1864)に大工の居宅を購入し、復権を果たす慶応3年(1867)までの3年間を過ごした地です。

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手前の式台玄関が岩倉の住まいであった主屋のもので、奥の土間への入口は使用人の住まいとして使用された附属屋のものです。

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主屋内部。
ここで大久保利通らと、歴史を動かすことになる密談を重ねていたのですね。

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庭に見えるのは、岩倉の手植えと伝わる松。
大正ガラスの淡い歪みが、いい雰囲気を醸し出しています。

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部屋の四隅には、蚊帳を吊るしていた金具も。

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主屋から附属屋方向。
附属屋の方が元の大工居宅で、主屋は岩倉が購入した後に増築されました。

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岩倉具視遺髪碑(岩倉村瘞髪碑)

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岩倉の遺品や資料を展示、収集する目的で昭和3年に建てられた対岳文庫もサクッと見学。

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2023年3月 4日 (土)

妙満寺(安珍・清姫の鐘、雪の庭)

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京都中心街の北の外れ、岩倉の地に建つ妙満寺。
こちらが所蔵する安珍・清姫の鐘を拝観するため、お邪魔しました。

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妙満寺境内案内図
左下に写真で掲載されているのが安珍・清姫の鐘です。

延長6年(928)、熊野詣への途次、一夜の宿を求めてきた僧・安珍への恋に落ちた清姫。
しかし、その想いが実ることはなく、やがて安珍に裏切られたことを知った清姫は蛇になって安珍を追い、遂には紀州道成寺の鐘の中に逃げた安珍を鐘ごと焼き殺してしまいました。
(この安珍・清姫の物語は「道成寺物」として、能楽や人形浄瑠璃、歌舞伎などの古典芸能でも扱われているようです)

正平14年(1359)、長く鐘が失われたままになっていた道成寺に新たな鐘が寄進されましたが、その直後から災厄が続くようになり、祟りを恐れた人々によってその鐘も山林深くに捨てられてしまったのだとか。

更に時代は下って天正13年(1585)、豊臣秀吉の紀州攻めに従軍していた仙石権兵衛秀久がこの話を聞きつけ、打ち捨てられていた鐘を探し出し、京都へ持ち運ばせました。
鐘は中京区寺町二条にあった妙満寺に納められ、無事に供養されたと云います。

鐘は本堂に展示されています。
想像よりも小振りで、高さは・・・120㎝程もあったでしょうか。
とても綺麗に、大切に保管されていました。

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妙満寺といえば、この雪の庭でも知られています。
雪の庭は寺町二条に所在した妙満寺塔頭の一つ、成就院に造営されました。
昭和43年に妙満寺が現在地へと移転した際、石組をそのままに移設し、本坊の庭園として復元されました。

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清水寺成就院の「月の庭」、北野天満宮成就坊の「花の庭」(明治期の廃寺で消失~令和4年再興)と並び、「雪月花の三庭苑」と称されました。

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手前に写る蹲踞は、秀吉によって架けられた五条大橋の橋脚の一部を利用して作られています。

妙満寺、春になれば桜や躑躅が境内を飾るそうです。

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2022年10月14日 (金)

京都旅、その他の諸々。。。

先日の京都への旅、既に記事にしてご紹介した場所以外にもちらほらと立ち寄っていますので、今回はそれらを簡単にまとめてみます。

吉田神社や宗忠神社への参拝後、次の目的地へと向かう道すがら、京都御苑の中を通過させていただいたので・・・

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凝華洞、通称「御花畑」跡へ。
江戸前期、後西天皇(在位1655-1663)の仙洞御所が置かれました。
御花畑と呼ばれた由来については不明ですが、後西天皇が「花町宮」「花町殿」などと呼ばれていたことに関係があるのでしょうか。
奥に見えているのは御所の建礼門です。

文久3年(1863)の八月一八日の政変では、その後に新選組となる壬生浪士組が守備についたことでも知られます。
翌元治元(1864)年6月には、前年の政変で京を逐われた長州の兵が襲来する恐れがあるとのことで、勅命を受けて参内した京都守護職・松平容保の仮本営にも充てられました。
禁門の変(蛤御門の変)が勃発するのは、その翌月のことです。

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蛤御門

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蛤御門に残る銃弾痕。

ところ変わって・・・

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旧二條城跡の碑。
永禄12年(1569)、織田信長が足利義昭のために築かせた二条御所の跡地を示す石碑です。
これまでなんとなくタイミングが合わないまま、今回の初訪となりました。

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近年の発掘成果で細かいアップデートはあるでしょうが、おおまかな推定範囲。
この中のいずれかに、信長が曳かせた藤戸石も据えられていたのですね。

直前まで京都御苑にいたのだし、折角なら御苑内に復元されている二条御所の出土石垣も観ておけばよかったのですが・・・この時は全く頭に浮かびませんでした。

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旅の2日目には、京都文化博物館で開催されている新選組展2022にも足を運びました。
これまでに地元の日野や多摩、各地の博物館等で目にしてきたものも多く、各々個別に記事にもしてきましたので省略しますが、いずれは北海道へ観に行きたいと思っていた永倉新八の陣羽織を拝観できたのは良かったと思います。

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2022年10月13日 (木)

「こぬか薬師」を拝観

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医徳山薬師院
毎年10月8日の1日だけ行われる、御本尊の薬師如来像開扉法要に合わせてお参りに来ました。

薬師院の御本尊は、後に比叡山延暦寺(延暦25年/806~)の開祖となる最澄が延暦元年(782)、16歳の時に彫った薬師如来像7体のうちの1つとされていて、伝承によると美濃国横倉の医徳堂に安置されていました。
(現在の薬師院の山号である「医徳山」も、これに由来するものでしょう)
最澄作の薬師如来像で現存するのは、延暦寺のものと当院の僅かに2体のみと伝わります。

寛喜2年(1230)、「一切の病苦を取り除こう。来ぬか、来ぬか」との薬師如来のお告げがあり、これを知って訪れた人々の病が平癒したことから「不来乎(こぬか)薬師」と呼ばれるようになったのだとか。

その後、評判を知った織田信長により、美濃から京へ勧請されたものと伝えられています。

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法要の後、午後2時頃から順に本堂へ上がらせていただき、実際に至近の距離で御本尊を拝ませていただきました。
想像していたものより遥かに小さく、僅か15~20㎝四方ほどの御厨子の中に本尊の薬師如来をはじめ、日光・月光菩薩、そして十二神将の、合わせて15体の仏様がびっしりと立ち並んでいました

前年までの2年間は、コロナ禍の影響で本堂に上がることは叶わなかったそうです。
そういう意味でも、本当に幸運な参拝になりました。

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