カテゴリー「お城、史跡巡り 近畿」の93件の記事

2024年1月19日 (金)

海軍操練所跡の防波堤石積み

2024011401
1月14日、神戸海軍操練所跡の発掘現場説明会に参加してきました。
発掘現場は、こちらの碑から南へ30mほどの場所になります。

2024011402
昨年末に発掘成果のニュースに触れ、且つ説明会の開催を知るに及び、矢も楯も堪らずに予約を入れていました(笑)

2024011403
実際に遺構を目にした瞬間、想像以上の物量に驚きました。
主には神戸港開港時に築かれ、以降も修築・拡張されてきた明治期の第一波止場の防波堤や信号所の遺構になるのですが、その下層からも、やや角度を異にする別の防波堤跡が検出されました。
その石の積み方や石の表面に残る調整痕の特徴などから、開港以前の幕末期に遡る可能性が高まり、そのため元治元年(1864)に設置され、僅か1年で閉所された海軍操練所に伴う遺構ではないかと推定されています。

2024011404
V字に見える石積み列の内、左側のものが海軍操練所時代(以下「第1期」)の防波堤石積みと推定されています。
まさに勝海舟や坂本龍馬らが活動した時期に築かれた遺構が、地中から姿を現したのです。

2024011405
第1期防波堤のラインは、左奥に設置されたカラーコーンの方向に向かって伸びており、実際にライン上の他の箇所からも出土しています。
写真は南西側から北東方向(カラーコーン)を見た様子です。

2024011406
明治期の防波堤石積み(北側面)や、信号所の敷石など。
信号灯の基礎も見えています。

2024011407
明治時代中期の第一波止場を撮影した古写真(配布リーフレットに掲載)に信号所の様子が写っているのですが、石積みのラインや、信号灯と(信号所を囲う)木柵跡の位置関係など、どれもがピタリと一致しているように見えました。
なお、左隅の方で鏡に映されているのは第1期防波堤の石積みで、最初に見た南西側のものから直線上に位置しています。

2024011408
更にこちらは、発掘現場北東隅の第1期防波堤石積み。
やはり当然ながら、これまで見たものと直線で繋がります。

2024011409
本来なら正面から拝みたいところですが、見学者用のスペース確保が困難なため、こうして鏡を設置して見せてくれているのです。

貴重な機会を設けていただいたことに感謝です。

| | コメント (0)

2024年1月18日 (木)

有岡城

2024011301
1月中旬の週末、神戸を訪れる予定があり、そのついでに未訪のままになっていた有岡城にも足を延ばしてきました。
JR伊丹駅の周辺一帯が有岡城の主郭部だったようで、駅の横には史跡公園も整備されています。

2024011302
有岡城惣構図
図で見ると、不自然に感じるほど主郭部が惣構の東端に寄っていますが、この惣構の東側のラインは伊丹台地の縁で崖になっていたようです。

2024011303
有岡城主郭北端に残る石垣や土塁。
建物礎石跡や井戸跡なども復元展示されていました。

2024011304
主郭西側の堀跡。

2024011305
その南側の土塁、堀跡。

ところで、有岡城といえば荒木村重が織田信長に叛旗を翻して籠城した折、説得の使者として訪れた黒田官兵衛が城内の牢に幽閉されたことでも知られます。
その牢の位置は判明しませんが、黒田家が編纂した「黒田家譜」によると、牢の後ろには溜池があり、官兵衛の家臣・栗山善助は夜陰に紛れて池を泳ぎ渡り、官兵衛と連絡を取っていたそうです。

2024011306
江戸時代初期、寛文九年(1669) に成立した「伊丹郷町絵図」には、有岡城主郭の東側に池のようなものが描かれています。

2024011307
JR伊丹駅東側の地形。
現在も細い川が流れていますが、堀や池だった名残に見えなくもないですかね。

牢の外に咲く藤の花が幽閉される官兵衛の慰めになった、というエピソードも伝わっていますが、JR伊丹駅北東側の地名は「藤ノ木」・・・なんだか想像を逞しくしてしまいませんか。

2024011308
続いて旧石橋家住宅、旧岡田家住宅の前を抜けて・・・

2024011309
猪名野神社へ。
有岡城惣構の北端、岸の砦跡になります。

2024011310
境内に残る岸の砦土塁。

2024011311
その外側。
この小径は堀跡、ということでいいのかな?

この日は冷え込みが厳しく、急な雨もありましたので早々に退散しました。

| | コメント (0)

2023年5月28日 (日)

安土城、他

20230521b01
安土駅前に建つ織田信長像。
ここから炎天下の中、徒歩で安土城跡へ向かいます。

20230521b02
安土城跡では「令和の大調査」と銘打ち、最長20年にも及ぶ発掘調査・整備事業が予定されています。
最終的な調査範囲は広範に渡るようですが、本年度(R5)中には早速、天主台周辺の調査・整備が始まる模様です。
その天主台周辺の整備後のイメージ図に少々不安を覚えたこともあり、景観が変わってしまわないうちにとの思いから、今回の訪問になりました。

20230521b03
黒金門
途中の遺構はすっ飛ばし、黒金門まで一気に駆け上がってきました。
ここから始まる主郭部を重点的に見ていきます。

20230521b04
二の丸へ上がる石段。

20230521b05
二の丸に祀られている織田信長廟。
門構えが新しくなっていました。

20230521b06
本丸への虎口部と、天主台西面石垣。

20230521b07
天主台南面石垣。

20230521b08
本丸

20230521b09
本丸礎石列

20230521b10
台所跡へと続く本丸東虎口。

20230521b11
本丸取付台を経由して天主台へ。

20230521b12
天主台の石段。

20230521b13
石段に用いられている切石状の笏谷石

(天正九年)七月十一日、越前より、柴田修理亮、黄鷹六連上せ、進上。並びに、切石数百、是れ又、進上申され候ひしなり。
(信長公記 巻十四「因幡国取鳥城取り詰めの事」より)

20230521b14
天主台

20230521b15
しっかりと、今の姿を目に焼き付けておきます。

20230521b16
天主台の発掘調査は主に、現在我々が目にすることのできない北側が中心になる模様です。

20230521b17
摠見寺跡から西の湖を望む。

20230521b18
三重塔と共に貴重な現存建築物、二王門。

20230521b19
下山後、引き続き徒歩にて安土城考古博物館へ。
令和五年度春季特別展「信長と家康 裏切る者・裏切らざる者」を拝観しました。

20230521b20
信長と家康(裏切らざる者)、そして「裏切る者」として松永久秀や明智光秀、浅井長政、荒木村重らの関係資料を中心とした内容でした。
最も印象に残っているのは;

天正元年11月29日付 佐久間信盛宛織田信長黒印状
→反旗を翻し抵抗を続けていた松永久秀を、多聞山城の明け渡しと人質の提出を条件に赦免することにした旨を伝える内容。

松永申分つらにくき子細と表現していますが、個人的な印象としては、そこにあるのは「怒り」というよりも;
憎ったらしくてアッタマ来るけど、しょーもない○○ジジィが多聞山城と孫を人質に差し出すって言うから許したることにした。なのでお前らもこれ以上、四の五の言わないでね重而被申ましく候)。
といった調子で、むしろ反旗を翻した者を赦すのを、他の家臣(この場合は佐久間信盛)に言い訳しているようなニュアンスにさえ感じました。
そして佐久間信盛って、本当に一言多い家臣だったのかも・・・(^m^)

日付は、コチラの記事でご紹介した妙覺寺での茶会の6日後。信長はこの年、12月2日に岐阜に到着するまで京に滞在しています(信長公記)ので、妙覺寺を発つ直前くらいのタイミングで発給された文書とみて間違いないでしょう。

20230521b21
考古博物館から駅までの道すがら。
今の季節ならではの、逆さ安土城。それにしても暑かったです。。。

| | コメント (0)

2023年5月27日 (土)

石山寺

旅の2日目はまず、石山寺へ向かいます。
京阪石山坂本線「石山寺」駅から歩くこと10分ほどで、、、

20230521a01
石山寺の東大門に到着。

20230521a02
石山寺も前日の南禅寺同様、何故かタイミングが合わなくて未訪のまま過ぎてきた地。
ようやく参拝叶いました。

20230521a03
天然記念物にも指定されている珪灰石越しに多宝塔。
まさに「石山」の名に相応しい景観。

20230521a04
本堂
永長元年(1096)の建立(一部は1602年の建て替え)で、国宝に指定されています。

20230521a05
紫式部が参籠し、「源氏物語」の着想を得たとも、起筆したとも伝えられる部屋。

20230521a06
案内板によると紫式部参籠の部屋は、「石山寺縁起絵巻」にも描かれているようです(⇒部分)。
藤原道長も参籠していたのですね。

20230521a07
紫式部供養塔

20230521a08
多宝塔
源頼朝による建立とも伝えられ、建久5年(1194)の銘を持つ現存最古の多宝塔で、こちらも国宝に指定されています。

20230521a09
その頼朝の供養塔(左)と伝わる、室町前期建立の宝篋印塔。
こちらは重要文化財指定。

20230521a10
芭蕉庵
たびたび義仲寺に滞在した松尾芭蕉は、程近い石山寺にも足を運んでいたようで、そんな彼に所縁のある茶室なのだそうです。

この後は湖東の安土へ向かいます。

| | コメント (0)

2023年5月26日 (金)

養源院、金地院、南禅寺、他

20230520ab01
三十三間堂のすぐ東隣り、養源院
淀が文禄3年(1594)に、父・浅井長政の菩提を弔うために創建しました。
一度焼失しますが元和7年(1621)、今度は二代将軍秀忠の正室となっていた妹の江により、伏見城の遺構を用いて再建されました。

養源院では;
・慶長5年(1600)、関ヶ原合戦の前哨戦に於いて、伏見城で最期を遂げた鳥居元忠のものとも伝わる血天井
・杉戸に描かれた俵屋宗達筆の唐獅子、麒麟、白象などの障壁画
などを拝観いたしました。

養源院を辞した後は電車で移動、「蹴上」駅で下車して、、、

20230520ab02
ねじりまんぽを通り抜け、、、

20230520ab03
南禅寺塔頭、金地院へ。
応永年間(1394~1428)に開創され、家康のブレーンとしても活躍した以心崇伝により、慶長10年(1605)に南禅寺の塔頭として移されました。

20230520ab04
明智門
光秀が母の供養のため大徳寺に建立したものとのことで、明治になって金地院に移築されています。

20230520ab05
金地院東照宮
寛永5年(1628)の造営で、御神体の東照大権現坐像鳴龍の天井絵(狩野探幽筆)も公開されていました。

20230520ab06
方丈の鶴亀庭園
寛永9年(1632)、小堀遠州による作庭です。
全国に遠州作と伝わる庭園は数多くあれど、史料で確定できる確かなものとしては唯一なのだそうです。

右に鶴島、左に亀島、その間には平たい遥拝石。
遥拝石は方丈から奥に見える東照宮を遥拝する際の、祭壇的な意味を持たせて設置されたものだそうです。

20230520ab07
そして南禅寺へ。

20230520ab08
三門から見渡す南禅寺境内。

20230520ab09
琵琶湖疎水の水路橋、水路閣。

20230520ab10
京都にはもう何度もお邪魔しているのに、いつもスルーして未訪のままになっていた南禅寺。
今回、旅程に組み込めてよかったと思います。

この後は宿をとってある滋賀県大津市の石山駅へ。
ホテルの位置を確認するためグーグルマップを見ていたら、すぐ近くに今井兼平の墓所があることを知り、、、

20230520ab11
お参りに来ました。

今井兼平は源(木曽)義仲の腹心で、寿永3年(1184)1月21日、粟津の戦いで主君に殉じました。
元は墨黒谷という地にあったそうですが、寛文7年に膳所藩主・本多康将によって現在地に移されました。
今ではすっかり住宅地の一隅、といった風情です。

20230520ab12
さて、石山駅前の「東海道を旅する松尾芭蕉」像で、旅の初日は終了です。

| | コメント (0)

2023年5月25日 (木)

妙覺寺の特別拝観

20230520a01
今回の京都旅は地下鉄「鞍馬口」駅から徒歩7~8分、妙覺寺からスタート。

20230520a02
5月31日までの日程で行われている新緑特別拝観。
その一端の特別展示「京都妙覺寺における織田信長の茶会」を目当てに伺いました。

20230520a03
方丈、書院の間に置かれた展示品。

京での宿所として、妙覺寺を幾度となく利用していた織田信長
朝倉・浅井を滅ぼし、足利義昭を京から追放して間もない天正元年(1573)11月23日、彼はここ妙覺寺で茶会を開きました。
その席で供された初膳~三ノ膳までの本膳料理と引き物2種、菓子9種を加えた計五膳を、列席していた津田宗及が事細かく書き留めていた記録(津田宗及茶湯日記)を元に復元(レプリカ)したものを並べていました。
献立を見ていくと雉や雁、鶉に白鳥と、明らかに鷹狩の獲物と思しき食材も多く使われていました。


もう一つの目当て、妙覺寺が所蔵する弘治2年(1556)4月19日付の斎藤道三書状、いわゆる美濃国譲り状も本堂に展示されていました。

長良川で討死する前日、道三がその一子に宛てて;
美濃国は織田信長の存分に任せることにした。その譲り状を信長にも書き送った。
そなたはかねてからの約束通り、京の妙覺寺に入りなさい。
etc...
などと書き送った書状です。
実際、妙覺寺19世・日饒上人は道三の子息と伝えられています。

20230520a04
いつかは目にしたいと願っていた、あまりにも著名な文書。
誰にも気兼ねすることなく、一人静かにじっくりと拝観することができて感無量です。
※写真は本堂前の青もみじ

| | コメント (0)

2023年3月 7日 (火)

六波羅蜜寺、等持院

20230226c01
京都旅の初日、妙満寺~岩倉具視幽棲旧宅とめぐった後、ホテルへのチェックインには少し早かったので、まだ拝観時間に間に合いそうだった六波羅蜜寺に寄ってみました。

20230226c02
醍醐天皇の第2皇子だった空也上人が開創、源平の時代には平家の邸宅や鎌倉幕府の六波羅探題も置かれました。

念仏を唱える口から6体の阿弥陀が現れたという姿の空也上人立像や、経巻を手にした平清盛坐像、運慶や湛慶の坐像なども拝観させていただきました。

20230227b01
また2日目には、大徳寺から妙心寺への移動途中に等持院にも立ち寄りました。

20230227b02
室町幕府将軍、足利氏の菩提寺でもある等持院。
霊光殿では尊氏の念持仏だった利運地蔵尊歴代足利将軍の木像、そして明治の廃仏毀釈後に石清水八幡宮から移された徳川家康の木像も拝観いたしました。
等持院の足利将軍木像といえばやはり、幕末に起きた足利三代木像梟首事件が有名ですね。

20230227b03
等持院の庭園。
写真右手前方向には、尊氏の墓と伝わる宝篋印塔もあってお参りしたのですが・・・どういう訳か撮影し忘れたようです。

今回の1泊2日の京都旅は、余った時間も臨機応変にきっちりと追加拝観などへまわして使い切ることができ、とても充実した濃い内容なりました。

| | コメント (0)

2023年3月 6日 (月)

大徳寺、妙心寺の特別拝観(第57回 京の冬の旅)

20230227a01
「京の冬の旅」で初公開されている三玄院参拝の為、大徳寺へやってきました。
案内板にある他の2院にもお参りします。

20230227a02
まずは三玄院から。

石田三成や浅野幸長、森忠政らが創建した大徳寺塔頭の一つ。
枯山水の昨雲庭を愛でつつ、八方にらみの虎や、一間毎に春夏秋冬を描きわけた襖絵の数々、三成や近衛信尹らの御位牌、古田織部による八窓の茶室・篁庵(外観のみ)などを拝観させていただきました。

今を逃すと次はいつ機会を得られるかわからない、貴重な時間を過ごさせていただきました。

20230227a03
続けて芳春院へ。

慶長13年(1608)、前田利家夫人の芳春院(まつ)が開創した大徳寺塔頭の一つ。
本堂に安置された芳春院の木像や、金閣・銀閣・飛雲閣と共に「京の四閣」と称される呑湖閣などを拝観しました。
呑湖閣は想像以上に存在感のある建物で、とても印象に残りました。

20230227a04
そして、10年ぶりの再訪となる総見院

まずは本堂で、案内板に写真が載っている織田信長坐像、そして総見院では初公開となる信長の肖像画を拝観しました。
※総見院所蔵の肖像画は、2017年に大徳寺本坊で狩野永徳の筆による信長の肖像画を拝観した際、一緒に並べられていました。
当時の記事

20230227a05
3つある茶室も見学。

20230227a06
信長の木像を運んできた輿。

20230227a07
加藤清正が船底石として船に積み込み、朝鮮から持ち帰ったと云う大石を囲いに用いた掘り抜き井戸。
井戸自体はもっと古くからあったようで、天正13年(1585)の大徳寺大茶会では、秀吉自らこの井戸の水で茶を点てたとも伝えられているようです。

20230227a08
いまだ現役の井戸で、石組みも綺麗に積まれています。

20230227a09
大石を運ぶ時にあけられたものか、鉤状の穴も確認できます。

20230227a10
可憐な姿で境内を飾っていたボケの花。
ボケを漢字で書くと「木瓜」・・・なるほどね♪

20230227a11
最後に織田家墓所へご挨拶して、総見院、及び大徳寺を辞します。

所変わって・・・

20230227a12
こちらは妙心寺の壽聖院
石田三成が父・正継の菩提寺として創建しました。

20230227a13
庭は狩野永徳の設計とも伝わります。
瓢箪池は秀吉の馬標をモチーフとしているそうですが、植木に隠れて形はよく見えませんでした。

本堂では;
石田正継肖像画(複製)
石田三成や正継、その妻女らの御位牌
朝鮮出兵先からの石田三成書状
などを拝観しましたが、中でも印象に残ったのは、細川忠興が藪内匠頭正照の子息を召し抱える際に発給した目録で、日付の下にtada/uoqui
と彫られた小さな丸い朱印が捺されていました。
妻ガラシャが敬虔なキリスト教徒だった影響では、との説明でしたが、確かにラテン系っぽいスペルではありますね。

20230227a14
石田三成と一族の墓所。

20230227a15
その隣には、関ヶ原合戦後も壽聖院を支援した藪内匠頭正照のお墓も。

20230227a16
妙心寺では7年ぶり玉鳳院にも再訪、狩野安信による襖絵花園法皇玉座の間に据えられた徳川家康(東照大権現)の御位牌織田信長・信忠、武田信玄・勝頼・信勝・信豊らの供養塔などを拝観しました。

この日はここまで、大徳寺と妙心寺で合わせて5つの塔頭を拝観しました。
拝観料だけでも4,000円・・・さすがにお財布も厳しくなってきましたので、これにて打ち止めです(;^_^A

| | コメント (0)

2023年3月 5日 (日)

岩倉具視幽棲旧宅

20230226b01
前記事で訪れた妙満寺から更に北へ、20分ほど歩いた先にある岩倉具視幽棲旧宅

20230226b02
皇女和宮の降嫁、いわゆる公武一和を推進して反幕派の弾劾を受け、文久2年(1862)に朝廷を追われた岩倉具視が、元治元年(1864)に大工の居宅を購入し、復権を果たす慶応3年(1867)までの3年間を過ごした地です。

20230226b03
手前の式台玄関が岩倉の住まいであった主屋のもので、奥の土間への入口は使用人の住まいとして使用された附属屋のものです。

20230226b04
主屋内部。
ここで大久保利通らと、歴史を動かすことになる密談を重ねていたのですね。

20230226b05
庭に見えるのは、岩倉の手植えと伝わる松。
大正ガラスの淡い歪みが、いい雰囲気を醸し出しています。

20230226b06
部屋の四隅には、蚊帳を吊るしていた金具も。

20230226b07
主屋から附属屋方向。
附属屋の方が元の大工居宅で、主屋は岩倉が購入した後に増築されました。

20230226b08
岩倉具視遺髪碑(岩倉村瘞髪碑)

20230226b09
岩倉の遺品や資料を展示、収集する目的で昭和3年に建てられた対岳文庫もサクッと見学。

| | コメント (0)

2023年3月 4日 (土)

妙満寺(安珍・清姫の鐘、雪の庭)

20230226a01
京都中心街の北の外れ、岩倉の地に建つ妙満寺。
こちらが所蔵する安珍・清姫の鐘を拝観するため、お邪魔しました。

20230226a02
妙満寺境内案内図
左下に写真で掲載されているのが安珍・清姫の鐘です。

延長6年(928)、熊野詣への途次、一夜の宿を求めてきた僧・安珍への恋に落ちた清姫。
しかし、その想いが実ることはなく、やがて安珍に裏切られたことを知った清姫は蛇になって安珍を追い、遂には紀州道成寺の鐘の中に逃げた安珍を鐘ごと焼き殺してしまいました。
(この安珍・清姫の物語は「道成寺物」として、能楽や人形浄瑠璃、歌舞伎などの古典芸能でも扱われているようです)

正平14年(1359)、長く鐘が失われたままになっていた道成寺に新たな鐘が寄進されましたが、その直後から災厄が続くようになり、祟りを恐れた人々によってその鐘も山林深くに捨てられてしまったのだとか。

更に時代は下って天正13年(1585)、豊臣秀吉の紀州攻めに従軍していた仙石権兵衛秀久がこの話を聞きつけ、打ち捨てられていた鐘を探し出し、京都へ持ち運ばせました。
鐘は中京区寺町二条にあった妙満寺に納められ、無事に供養されたと云います。

鐘は本堂に展示されています。
想像よりも小振りで、高さは・・・120㎝程もあったでしょうか。
とても綺麗に、大切に保管されていました。

20230226a03
妙満寺といえば、この雪の庭でも知られています。
雪の庭は寺町二条に所在した妙満寺塔頭の一つ、成就院に造営されました。
昭和43年に妙満寺が現在地へと移転した際、石組をそのままに移設し、本坊の庭園として復元されました。

20230226a04
清水寺成就院の「月の庭」、北野天満宮成就坊の「花の庭」(明治期の廃寺で消失~令和4年再興)と並び、「雪月花の三庭苑」と称されました。

20230226a05
手前に写る蹲踞は、秀吉によって架けられた五条大橋の橋脚の一部を利用して作られています。

妙満寺、春になれば桜や躑躅が境内を飾るそうです。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧