カテゴリー「お城、史跡巡り 近畿」の79件の記事

2019年12月17日 (火)

徳永寺

20191208c01
飯道山から下山し、帰りの名古屋駅まで送っていただく途中に、三重県伊賀市柘植町の徳永寺にも立ち寄りました。

天正10年(1582)6月、本能寺の変勃発を受け、滞在先の堺から三河へと逃避した徳川家康伊賀越え
徳永寺はその途中、休憩に立ち寄ったと云われるお寺です。

20191208c02
家康は後年、この時のもてなしを謝し、寺の周囲の土地を寄進したと云います。
藤堂高虎をはじめ、伊賀を治める津藩主・藤堂家の歴代が発した寄進・安堵状も残っているようです。
徳川家からは、葵紋の使用も許可されていました。

20191208c03
本堂
徳永寺は、柘植の土豪・福地氏(参考記事)の菩提寺でもあったようです。

20191208c04
山門越しに、家康が寄進したと伝えられる周辺の景観を眺める。

今回も充実した、いい旅となりました。

| | コメント (0)

2019年12月16日 (月)

飯道寺

20191208b01
行場巡りを無事にクリアした後は、飯道寺跡へ。

20191208b02
飯道神社(図左上)の眼前にはかつて、神仏習合の飯道寺として栄えた時代の名残として数多くの僧院跡が残っています。

20191208b03
1枚目の写真の石段を上がった先は東照宮跡。

20191208b04
明治の神仏分離・廃仏毀釈で寺院(仏教)関連は廃され、今はこうした痕跡を留めるのみとなっています。

20191208b05
思いのほか立派な石垣も。

十月九日、伊賀国御見物として、岐阜中将信忠、織田七兵衛信澄御同道にて、其の日、飯道寺へ、信長公御上りなされ、是れより国中の躰御覧じ、御泊り
(信長公記 巻十四「伊賀国へ信長御発向の事」)

天正9年(1581)、次男・信雄を総大将とした軍勢を派遣して伊賀国を制圧(第二次天正伊賀の乱)した織田信長は、嫡男の信忠、甥の信澄を同道して伊賀の視察へ向かいます。
その道中、伊賀入り前日の10月9日にはここ、飯道寺に泊まりました。

20191208b06
参道を挟んで左に梅本院跡、右奥に智積院跡。
信長らが泊まった僧院は果たして、いずれにあったのか・・・想像を膨らませながらめぐります。

20191208b07
智積院跡

20191208b08
高野山を再興したことでも知られる木食応其上人は、晩年を飯道寺で過ごしました。
智積院跡の向かいには、彼の入定窟も残ります。

20191208b09
岩本院跡に残る石積み。

20191208b10
岩本院跡
この岩本院と先ほどの梅本院は、醍醐寺三宝院を本寺とする真言宗本山派に属す寺院で、山内でも特に有力な存在だったようです。

20191208b11
不思議な切石状の石積みも。

20191208b12
岩本院跡から見る、智績院跡の石垣。
左の下段は行満院跡。

20191208b13
鳥居坊跡

20191208b14
飯道寺跡(飯道神社)からは、紫香楽宮跡などを見渡すことができます。
まさに、飯道寺に上がった織田信長が御覧じ国中の躰の光景。
数年来の念願叶い、飯道寺跡を訪れることができて感無量です。

※現在、甲賀市水口町に所在する飯道寺は、天台宗の本覚院が明治25年に廃寺となっていた飯道寺の寺号を継承したものです。
御本尊は飯道山から移されたものとか。

20191208b15
折角なので山頂まで足を延ばします。
山頂からは杖の権現を経由して飯道寺跡まで戻り、その後に下山します。

20191208b16
飯道山山頂
飯道寺跡から山頂までは7~800m。緩やかな登りの尾根道が続きました。

20191208b17
山頂からの眺め。
辛うじて近江富士の姿も確認できました。

20191208b18
杖の権現
山頂から杖の権現までは、急勾配な直線の尾根を一気に下ります。

20191208b19
飯道寺跡まで戻りました。

行場巡りに、念願の飯道寺跡・・・とても楽しい山歩きになりました。

| | コメント (0)

2019年12月15日 (日)

飯道神社と行場巡り

山城踏査会&忘年会が明けた翌日は、甲賀市の飯道山へ。

20191208a01
飯道山、紫香楽側の登山口。
ここから、よく整備された登山道(飯道神社参道)を20分(700m)ほど登ると・・・

20191208a02
いい雰囲気の石垣が見えてきました。

20191208a03
いよいよ飯道神社の境内に入ります。

20191208a04
弁天堂

20191208a05
まずは飯道神社にお参りします。

20191208a06
行者堂
飯道山は古来より山岳信仰の栄えた霊山で、近江国屈指の修験霊場でもありました。

20191208a07
飯道神社の創建は和銅7年(714)、熊野神社の分霊を勧請したのが始まりとされています。
以来、神仏習合の飯道寺として栄えました。
現在の本殿は、慶安2年(1649)の再建になります。

20191208a08
せっかく飯道山に登ったので・・・行場巡り(修験道)にも挑戦します。

20191208a09
行場巡りのスタート地点。

20191208a10
不動の押し分け岩
同行者が先に挑戦していますが、極めて狭い岩の隙間をすり抜けるようにして通り抜けます。

20191208a11
あまりにも狭いので、ここはリュックなどの荷物を一旦置いて、身一つで挑戦しなければなりません。
(通り抜けた後、岩の脇を回り込んで元の場所へ戻れます)

20191208a12
平等岩

20191208a13
蟻の塔渡り
「蟻しか渡れないような、細くて高い塔のような岩を渡る」の意味でしょうか。

20191208a14
まさに、蟻の塔のような難所。
崖側には安全のためのロープが張られてはいますが、ちょっと心許ない・・・。

20191208a15
胎内くぐり

20191208a16
狭い岩穴を、鎖を頼りに下っていきます。

20191208a17
最後の難関は岩上。
同行者が指さす方角へ、ロープを頼りにこの絶壁を登ります。

20191208a18
なかなか凄さが伝わりにくい写真ですが、足場なんてこれっぽっちしかありません。
左側は無論、断崖絶壁です。

20191208a19
ゴールすると本殿の裏側に出ました。
これで私も、一端の甲賀忍者の仲間入り!?

飯道山歩き、後半は飯道寺跡をめぐります。

| | コメント (0)

2019年12月14日 (土)

弥高寺

20191207b01
上平寺城跡から山中を少し北へ回り込み、西の尾根へ雪中行軍・・・(;^_^A

20191207b02
伊吹山も心なしか、少し近くなってきました。

20191207b03
尾根の北側から弥高寺跡へアプローチすると、最初に出迎えてくれる大堀切。
この先(南)にある本坊の背後を断ち切っています。

20191207b04
大堀切の近くには、これも規模の大きな畝状竪堀も。

20191207b05
更に南へ進むと、規模は小さいながら堀切や・・・

20191207b06
竪堀が続きます。

20191207b07
弥高寺の墓地跡。
発掘調査で、火葬された人骨が数十体も納められた大きな甕が出土しているそうです。
寺の長い歴史の中である時期、墓地が手狭になってまとめて改葬されたものではないかとのことでした。

20191207b08
いよいよ本坊跡が見えてきました。
雪に埋もれてはいますが、周囲を囲む土塁や虎口もはっきりと見て取れます。

20191207b09
本坊手前に切られた竪堀。

20191207b10
弥高寺本坊跡

20191207b11
本坊の虎口から真っ直ぐに伸びる参道。
参道の両側には、数多くの削平地が見受けられます。

弥高寺は仁寿年間(851~854)に創建された伊吹山寺を前身とし、後に分立した伊吹山四ヶ寺の一つ。
弥高百坊とも呼ばれ、この大きな本坊跡をはじめ、60をも超える坊跡が残る巨大な山岳寺院の跡です。

20191207b12
本坊から南の方角。
2本の鉄塔の先には上平寺城の記事で触れた、件の長比城がありました。

20191207b13
弥高寺本坊から見る上平寺城。
つい先ほどまでは、あちらから弥高寺跡を見ていました。

20191207b14
琵琶湖に浮かぶ竹生島も見えています。

20191207b15
それでは本坊をあとにし、こちらの参道伝いに下りていきます。

20191207b16
少し下った先から本坊を振り返る。
土塁の高さがよくわかります。

20191207b17
弥高寺の玄関口でもある大門跡に差し掛かりました。
右へグイッと曲げた枡形になっています。

20191207b18
大門跡
高い土塁で仕切られた見事な枡形、そして土橋。

20191207b19
大門の脇には横堀も掘られています。

本坊背後の堀切や竪堀群、そして大門の枡形や横堀・・・弥高寺が城郭として改修されていることは明らかです。
現地説明板にも、京極氏や浅井氏らによる改修が想定される、といったことが書かれていました。
直に遺構を目にした個人的な印象としては、元亀元年(1570)に敵対する織田軍に備え、上平寺城と共に浅井氏や越前衆が改修した痕跡ではないかと感じました。

20191207b20
大門の南西、登山道を林道まで下り、更に林道を伝って下山する途中に現れる2本の大きな竪堀。
やはりこれは、歴とした軍事施設です。

20191207b21
そのまま林道を下っていくと、悉地院(弥高護国寺)に至ります。ここが今回のゴール地点。
所要4時間強、山中は積雪の中での行程となりましたが、見応えのある素晴らしい遺構を堪能し、参加16名全員無事に下山いたしました。
なお、悉地院は伊吹山四大護国寺の一つで、弥高寺の法灯を現在に伝えているお寺とのことです。

20191207b22
下山後は伊吹山文化資料館にお邪魔して、上平寺城の模型や・・・

20191207b23
弥高寺跡で出土した、火葬された人骨が納められていた大きな甕などを見学させていただきました。

20191207b24
夕暮れの伊吹山。

夜は彦根駅前へ移動し、これまた恒例の忘年会。
踏査会に参加した皆さんと、2次会まで楽しく盛り上がりました。

| | コメント (0)

2019年12月13日 (金)

上平寺城

年末の恒例行事となった城友山城踏査会(& 忘年会)
2019年の舞台は・・・

20191207a01
滋賀県米原市の上平寺城です。

20191207a02
上平寺城絵図(江戸時代前期)

上平寺城は16世紀の初頭、北近江守護の京極高清が築いた京極氏の城館。
山麓に平時の居館を置いて守護所とし、伊吹山から伸びる背後の尾根上には詰の山城が築かれていました。
大永3年(1523)、高清は自らの後継をめぐって浅見氏や浅井氏、三田村氏らの国人衆と対立して上平寺を追われ、北近江では浅井氏が台頭するようになります。
以降、眼前に北国脇往還(越前街道)を扼する上平寺城は、美濃・近江の国境を押さえる境目の城として機能したものと考えられています。

20191207a03
今回のスタート地点となる居館区域の目の前(南)を流れる用水路は、居館と城下町との間を隔てる堀跡。上の絵図にも「ホリ」と記されています。
この写真の方向に、「諸士屋敷」や「町屋敷」などとある城下町が広がっていました。

20191207a04
伊吹神社(「伊吹大権現」)の参道に沿って進み、「弾正屋敷」跡・・・

20191207a05
「蔵屋敷」跡

20191207a06
「隠岐屋敷」跡と順に見ていき・・・

20191207a07
一番奥、伊吹神社の社殿手前に、京極氏の居館となる「御屋形」跡。

20191207a08
御屋形には池を伴う庭園の跡も残ります。
奥に見える巨石の先にも・・・

20191207a09
池の跡がもう一つ。
付近からはかわらけも出土しているそうで、庭園を鑑賞しながらの宴や儀式が行われていたことを連想させます。

各屋敷や庭園跡の配置、伊吹神社(社殿)の位置や参道の曲がり方に至るまでが、江戸時代の絵図とピタリと一致していることに驚かされました。

20191207a10
京極氏一族の墓。
伊吹神社の社殿横にあります。

上平寺を追われた高清は、後に浅井氏と和睦して小谷城に迎え入れられましたが、晩年には上平寺へ戻っていたようです。
そのため、彼のお墓もこの地にありましたが、寛文12年(1672)に丸亀藩主・京極高豊が清瀧寺徳源院(米原市清滝)を復興した際、歴代の墓所も整備しており、その時に高清の墓石も徳源院へ移されたものと考えられています。

20191207a11
山麓の居館跡から山城までは、およそ30分ほどの登山。
写真は、絵図に「七曲」と書かれている辺り。文字通り九十九折の登山道が続きます。

ところで、絵図に「七曲」と書かれている箇所の近くに「刈安尾」という文字も見えます。

さる程に、浅井備前、越前衆を呼び越し、たけくらべかりやす、両所に要害を構へ候。信長公御調略を以て、堀・樋口御忠節仕るべき旨御請なり。
六月十九日、信長公御馬を出だされ、堀・樋口謀反の由承り、たけくらべ・かりやす、取る物も取り敢へず退散なり。たけくらべに一両日御逗留なさる。
(信長公記 巻三「たけくらべ・かりやす取出の事」)

織田信長との対決の道を選んだ浅井長政は元亀元年(1570)、自らの領国である北近江と信長の領国・美濃との境に位置し、東山道を押さえる長比と、北国脇往還(越前街道)を押さえる刈安に要害を構え、織田軍の襲来に備えました。
絵図にある「刈安尾」とは「刈安の尾根」の意で、上平寺城こそがこの時、長政が要害に構えさせた「かりやすの要害」に比定されています。

20191207a12
南側から城域に至り、最初に出迎えてくれる大きな竪堀。
登山道のすぐ右手に現れます。

20191207a13
南西側の斜面には、連続する畝状竪堀群も。

20191207a14
三の丸
広い削平地が2段に築かれていました。

上平寺城は南北に伸びる尾根上に、南から北へ三の丸→二の丸→本丸と連なる連郭式の城郭です。

20191207a15
スロープ状の坂の先に、三の丸2段目への虎口。
うっすらと通路に積もった雪が示す通り、虎口の土塁は食違いになっているようでした。

20191207a16
こちらは二の丸への虎口周辺。
三の丸⇔二の丸間は、堀切で隔てられています。

20191207a17
その堀切。

20191207a18
二の丸虎口。
土橋の先で少し左へ曲げてから、虎口の先へと誘導しています。
虎口の先は縦に細長い枡形のようになっており、奥の方で土塁が立ち塞がっている様子も見て取れます。

20191207a19
二の丸虎口の枡形。
先を行く同行者のように右へ折れた先が・・・

20191207a20
二の丸
奥に切岸が見えていますが、二の丸もやはり複数の段に分かれていました。
但し三の丸とは違い、周囲をグルッと土塁が取り巻いています。

20191207a21
本丸
降り積もった雪がより一層、深くなっていました・・・。

20191207a22
本丸南東側の虎口。
その先の遠景は、関ヶ原方面。

20191207a23
本丸の背後には、雪を被った伊吹山の姿も。

20191207a24
西の方角には、この後に向かう弥高寺跡も綺麗に見えていました。

20191207a25
北端の土塁上から本丸。
曲輪の真ん中で赤い服を着た同行者が丸まっていますが・・・日の丸弁当のつもりのようです(笑)
まぁ、周囲を囲む土塁が弁当箱に見えなくもない、か・・・(;^_^A

20191207a26
本丸が城域の北端となり、その背後は高い切岸と深い堀切で遮断されています。

20191207a27
本丸北側の堀切に架かる土橋。

20191207a28
圧倒的な堀切感。

201919207a29
土橋を渡り、城外側から本丸方向。
本丸の高い切岸が攻め手を圧倒します。

現在に残る遺構のどこまでが、元亀元年の浅井、及び越前衆の手によるものかは定かではありませんが、とても見応えのある城跡でした。
なお、中世山岳寺院上平寺の跡地については、伊吹山中腹に位置する山城部分と、山麓の居館跡地との2説あるようです。

こうした要害を構えて織田軍に備えた長政でしたが、長比の守備に就いていた堀秀村・樋口直房主従が織田方へ寝返ったため、城兵は退去し、両城共に信長の手に落ちました。
ここから歴史は、姉川の合戦へと続いていくのでした。

この後は雪山の中を移動し、先ほど遠望した弥高寺跡へ向かいます。

| | コメント (0)

2019年11月29日 (金)

出石皿そば巡り、御着城、他

有子山城から下山した後は、しばし昼食を兼ねた自由行動。
出石の城下町をぶらり旅。

20191124b01
出石のシンボル、辰鼓楼。
明治4年(1871)に、出石城三の丸大手門の石垣を利用して築かれた、時を告げる太鼓櫓。
明治14年からは時計台となり、札幌の時計台と並んで日本最古の時計台として現在に至っています。

出石へ来たからには、折角なのでやはりお蕎麦をいただかなくては♪

20191124b02
ということで、いずし観光センターで「出石皿そば巡り」の巾着セットを購入。
販売価格は税別1,800円で、出石ちりめん製の巾着の中に永楽銭のコインが3枚入っており、コイン1枚につき皿そば3皿、企画に参加している36店舗で利用できます。
つまり、「異なる3店舗で少しずつ食べ比べができる」というもの。
(価格/店舗数はいずれも2019年11月現在)

20191124b03
まず1軒目。
どうやら通常のそばつゆの他に、とろろや生卵も好みに応じて加えていくのが基本スタンス?のようです。
お店オリジナルの藻塩でいただくお蕎麦も美味でした。

20191124b04
2軒目。
蕎麦の色や太さも、1軒目のものとは全然違いました。
これは確かに、食べ歩きをしながら好みのお蕎麦を探すのも楽しそうですね。

20191124b05
入店して永楽銭コインを利用すると、巾着にお店のハンコが捺されます。
今回は時間もなく、2店舗のみでの利用となりましたが、仮に3店舗でコインを使い切っても9皿。特に男性には物足りないところですが、無論、追加注文も可能です。我々も2軒目で、たくさん追加させていただきました(笑)
また、巾着セットを購入すると、各資料館や土産物の購入にも割引が適用されるようです。

20191124b06
桂小五郎居住跡(荒物屋跡)
元治元年(1864)の禁門の変で京を追われた桂小五郎は、9ヶ月間ほど出石に潜伏しています。

20191124b07
家老屋敷

20191124b08
さて、それでは出石をあとにします。
山頂に有子山城本丸の石垣も見えていますね♪

20191124b09
解散場所である姫路駅へ向かう道すがら、竹田駅にも立ち寄って竹田城を遠望。

20191124b10
姫路市御国野町、御着城跡

20191124b11
御着城は播磨国の守護・赤松氏の家臣で、黒田官兵衛の主家でもあった小寺氏の居城でした。

20191124b12
御着城本丸跡
現在は公民館が建っています。

20191124b13
本丸跡に建つ黒田官兵衛顕彰碑。

20191124b14
黒田家廟所
勘兵衛の祖父・重隆と生母を祀ります。

20191124b15
文政11年(1828)、西国街道に架けられた天川橋。
昭和47年に橋脚が崩れて橋桁が落下したため撤去され、昭和53年に現在地(御国野公民館)に移設保存されました。
橋下の窪みは、御着城の堀跡とのことです。

20191124b16
二の丸跡は現在、グラウンドになっています。
黒田家ともゆかりの深い、目薬の木が植えられていました。
関連記事

20191124b17
二の丸北側の堀と土塁跡。

20191124b18
本丸とニの丸の間を通る道路にも、堀跡と思われる痕跡が残っていました。
先程の、二の丸北側土塁の延長線上です。

20191124b19
最後は姫路駅にて解散。

今回は城友会らしからぬ攻城数の少なさでしたが、疲労感は一番かも・・・(^-^;
その分、素晴らしいお城に出会えたので満足です。
参加者のみなさん、お疲れさまでした☆

| | コメント (0)

2019年11月28日 (木)

有子山城

城友会2019 in 但馬、2日目は有子山城を攻めます。

20191124a01
朝8時前、霧が立ち込める山麓の出石城。
出石城には7年ぶりの再訪となりました。

20191124a02
出石城本丸に建つ感応殿。
宝永3年(1706)以降、出石藩主となった仙石氏の祖・仙石権兵衛秀久を祀ります。
我々も登山の無事を祈って参拝。

20191124a03
出石城稲荷曲輪(有子山稲荷神社)脇の登山口。
7年前は少し登った先で、日没を考慮して断念しました。

20191124a04
但馬国の守護だった山名氏は、室町時代の最盛期には一族で日本66ヶ国のうち11ヶ国もの守護を兼ね、「六分の一殿(衆)」と称されるほどの勢力を誇りましたが、戦国期にはその勢いも衰退していきます。
そして永禄12年(1569)、織田信長の命を受けた木下秀吉の侵攻(出雲の奪還を目指す尼子氏の残党が挙兵して祐豊がそれを支援したため、毛利氏と友好関係にあった信長が元就の要請に応じて兵を差し向けた)を受け、祐豊は居城の此隅山城(有子山の北方4~5㎞)を追われました。

堺に亡命した祐豊はその後、信長に取り入って但馬国出石への復帰を許されます。天正2年(1574)、彼が新たな居城としたのが有子山城でした。此隅=「子盗み」を連想させる名を嫌って「有子」と命名されたとも伝わります。
その後、織田×毛利の関係が友好から対立へと変化してゆく中で山名氏の方針も揺れ動き、最終的には天正8年(1580)、再び織田軍の侵攻を受けて有子山城は落城しました。
江戸時代に入り、山麓に出石城が築かれたことで廃城になっています。

20191124a05
有子山城へは、ご覧のような急勾配の尾根をひたすらに直登します・・・とにかくキツい。
岩肌が露出した箇所も多く、地面が濡れている時などは特に下りに注意を要します。

20191124a06
尾根を寸断する堀切Aに架かる土橋。

20191124a07
堀は斜面を綺麗に落とされていました。

20191124a08
ひたすら急斜面を登り詰めた先に広がる曲輪B
本丸(主郭)まではまだ距離にして500mほどもありますが、ここまで来ればもう急勾配の登りは終わりです。
ここまでの道中、樹間からチラチラと見えていた雲海がまだ残っていて間に合いそうだったので、兎にも角にもまずは本丸へ急ぐことにしました。

20191124a09
井戸曲輪の下、砂防目的で築かれたと思われる石垣。

20191124a10
ようやく主郭部の石垣たちも見えてきました。
目指す本丸もすぐそこ!

20191124a11
第六~第三曲輪に残る石垣を振り返りつつ・・・

20191124a12
いよいよ本丸へ。
写真は第二曲輪から見た本丸の石垣(西面)。

20191124a13
石垣と雲海・・・やっぱり、いいですよねぇ~。

20191124a14
本丸石垣(北面)

20191124a15
本丸内。そして・・・

20191124a16
本丸から眺め渡す見事な雲海!

20191124a17b
視界に入る限りの一面びっしりと、隙間なく広がっていました。
ただただ感動・・・。

20191124a18_20191127070601
疲れも語彙力も全て吹き飛び「すごい・・・」と呟くことしかできず、しばらくは呆然と見惚れていました。
(写真提供:流星☆さん)

20191124a19
さて、ひとしきり雲海を堪能したところで、ようやく城攻めを再開します(笑)
写真は、本丸から千畳敷を見た様子。間の大堀切がまた、とんでもなく規模が大きい!

20191124a20
第四曲輪
ここから南へ回り込み、先ほどの本丸⇔千畳敷間の堀切へ向かいます。

20191124a21
第三曲輪南面の石垣。

20191124a22
同じ石垣を反対側から。

20191124a23
本丸⇔千畳敷間の大堀切。

20191124a24
千畳敷から見る、大堀切越しの本丸。

20191124a25
千畳敷
その名の通り、かなり広い曲輪でした。

20191124a26
千畳敷を東へ少し下った先、Cの堀切。

20191124a27
更に堀切D

20191124a28
堀切Dの北側。見事な竪堀になっていました。

20191124a29
再び第六曲輪辺りまで戻り、今度は石取り場を目指します。
写真は、第五曲輪南西面の石垣。

20191124a30
堀切E

20191124a31
堀切Eもいい感じに切れていますねぇ~。

20191124a32
石取り場

20191124a33
石取り場に取り残された矢穴石。

20191124a34
Fの竪堀へ向かう途中にあった、窯?のような痕跡。

20191124a35
竪堀F

20191124a36
最後は北西に伸びる尾根に築かれた曲輪群(写真)を下り、堀切GHへ向かいます。

20191124a37
数段下った先の曲輪。不思議な石列も。

20191124a38
堀切G

20191124a39
とても規模の大きな堀切です。

20191124a40
堀底から。

20191124a41
堀切Gを対岸(下方)から。
攻城側からしてみれば、絶望的な高低差。

20191124a42
堀切H
こちらには土橋が架けられていたようです。

20191124a43
下山する頃には雲海も晴れてきて、城下町が見えるようになっていました。

有子山城・・・石垣に堀切、雲海、登山のキツさ、、、なにもかもが想像を超える凄さでした。
登り始めから下山完了まで3時間強、たっぷりと堪能させていただきました。

| | コメント (0)

2019年11月27日 (水)

但馬八木城

11月の下旬といえば、毎年恒例の城友会
時の移ろいは早いもので・・・今年でなんと、8年連続での参加となりました。
今回攻める地は、来年の大河ドラマの主人公・明智光秀が平定したことでも知られる丹波!・・・だったはずが、気がつけば行先リストはどれも但馬のお城?宿泊地も但馬豊岡??
・・・という訳で、城友会2019 in 但馬のスタートです(笑)

新神戸駅で集合し、まず向かった先は・・・

2019112301
但馬八木城

2019112302
但馬八木城の築城時期は不明ですが、中世には但馬国の守護でもあった山名氏の家臣で、山名四天王にも数えられる八木氏が居城としていました。

2019112303
城山には、南東側に伸びる尾根を直登します。
それほどの急勾配には見えなかったのですが、どうした訳か息が上がり、私だけペースが遅れてしまいました・・・。

2019112304
どうにか辿り着いた曲輪。

2019112305
曲輪の南西端にて。

2019112306
奥に曲輪の切岸を見る。

2019112307
本丸の石垣

天正8年(1580)、羽柴秀吉の但馬侵攻に伴って八木氏は秀吉の軍門に下り、因幡の若桜鬼ヶ城へ移されました。
この石垣は、天正13年に八木城主となった別所重棟(三木城主・別所長治の伯父)、及び子の吉治(一説には長治の子とも)による改修と考えられています。

2019112308
本丸南西面の石垣

2019112309
高い山の上に忽然と姿を現す石垣に心を奪われます。

2019112310
緩やかに描かれる曲線がまた、なんとも言えず格好いい・・・。

2019112311
こちらは、本丸を北側に回り込んだ先。

2019112312
そして、本丸虎口付近。

2019112313
本丸
奥には櫓台らしき土盛りも。

2019112314
A地点にある堀切。

2019112315
上の図面には載っていませんが、主郭部から更に北西方向へ伸びる尾根を進んだ先には、八木土城があります。
ご覧のような細尾根を進み・・・

2019112316
200mほどで八木土城に到着。

2019112317
土城は尾根上一列に並べられた曲輪が、階段状に連なる構造になっています。
そして何故か、城下町に面した南西側にだけ土塁が盛られていました。

2019112318
曲輪をいくつか登っていくと、しっかりとした外枡形も。
こうした遺構の特徴から、土城にも別所氏時代の改修が入っているのではないかと考えられています。

2019112319
外枡形の先の曲輪。
奥に見える切岸の上が、ピークに位置する土城の主郭です。

2019112320
八木城の麓には旧山陰街道が走り、16世紀後半までの城主居館跡とされる殿屋敷遺跡と、それ以降の居館跡と考えられている御里遺跡も残っているようです。

2019112321
但馬八木城、とても見応えのある城跡でした。

移動距離(時間)が長かったこともあり、この日の城攻めは但馬八木城のみで終了。
この後は宿泊地の豊岡まで移動し、豊岡城の移築門などを車で少しめぐりました。

夜は居酒屋での飲み会でしたが、疲労もあって1次会で終了・・・城友会史上初めて、2次会のカラオケ無しでお開きとなりました。年々、あまり無理がきかないお年頃になってきたということか・・・(;^_^A
誰かさんは、この日のために用意してきた替え歌の新曲を披露する機会を失って、部屋で一人悶々としていたみたいだけど(笑)

| | コメント (0)

2019年11月 9日 (土)

伊吹山の薬草園

11月2~4日は岐阜・長野への旅。
初日は前乗りということで、のんびりとお昼頃に岐阜入りし、まずは県境を越えて伊吹山の麓へ。

伊吹山には、織田信長が宣教師に開かせた薬草園があったという話が伝えられています。
この薬草園について何か情報がないかと、「伊吹山文化資料館」にお邪魔してみましたが手掛かりは得られず・・・近くの「伊吹薬草の里文化センター」にも薬草園があると教えていただいたので、そちらにも足を運んでみました。

20191102a01
伊吹薬草の里文化センターの薬草園と伊吹山。
・・・時季が悪かったのか、薬草はその殆どが枯れ果てていました(;^_^A

宣教師フランシスコ・カブラルから「人々の病を治すには薬が必要であり、そのためには薬草栽培が不可欠である」との進言を受けた織田信長は、伊吹山に薬草園の開設を許可したと伝えられています。
50町歩という広大な敷地には、西洋から持ち込まれた薬草が3000種類も植えられていたのだとか。

この話は、江戸時代に編纂された「切支丹宗門本朝実記」「切支丹根元記」「南蛮寺興廃記」といった文献に見られるとのことで、「永禄11年(1568)に、信長が安土にいる時のこと」としているようです。
しかし、信長が安土に自らの居城を築き始めるのは天正4年(1576)のことであり、宣教師との出会いも永禄12年のルイス・フロイスが初めてだったのではないかと記憶しています。
こうした点からも、史料的に信憑性は低いと考えざるを得ないのですが、伊吹山には今も、ヨーロッパから入ってきたと考えられる雑草類が多く自生しているのだそうです。中でも「イブキノエンドウ」や「キバナノレンリソウ」、「イブキカモシグサ」などはヨーロッパ原産で、しかも伊吹山にしか自生していないのだとか。
それらが、件の薬草園に植えられた3000種もの薬草と共に持ち込まれたものなのか否かは、今となっては特定する術もないのでしょうが・・・。

20191102a02
この日は天気も良く、伊吹山がとても綺麗でした。

この後は岐阜市へ引き返し、黒野城跡に向かいます。

| | コメント (0)

2019年10月 4日 (金)

恵解山古墳

旅のラストは大阪をあとにし、京都方面へ。

20190922d01
京都府大山崎町、境野一号墳に建つ明智光秀本陣跡の碑。

天正10年(1582)6月13日の山崎合戦で、中国からの大返しで迫る羽柴秀吉の軍勢を迎え撃つ明智光秀は、「御坊塚」に本陣を置いたと「太閤記」などの諸史料に記されています。
鉄砲の玉が出土していることもあり、この境野一号墳が明智光秀の本陣である「御坊塚」に比定されてきましたが・・・

20190922d02
近年では境野一号墳の北東、より勝竜寺城に近い場所に位置する恵解山古墳の方を光秀本陣跡とする説が有力になっているようです。
恵解山古墳からも鉄砲玉が出土していることに加え、兵の駐屯のために墳丘上を平らにならしたような痕跡が認められ、堀の形状も陣城用の改変と思われることなどが理由として挙げられています。
秀吉のいた中国地方と京を結ぶ西国街道も、山崎から恵解山のすぐ足元(南西側から北へ抜ける)を通っていました。

20190922d03
恵解山古墳から、山崎古戦場方向。
右に山崎、左奥には石清水八幡宮の男山も見えています。その間には淀川も流れ、まさに京への玄関口ともいうべき狭隘な地。
天正10年6月13日、この地に立っていた(かもしれない)光秀の眼前には、果たしてどのような光景が広がっていたのでしょうか。

これにて今回の、大坂の陣を中心とした弾丸史跡めぐりの旅も終了。
次は何処の地、いずれの時代(の史跡)から、お届けすることになりますでしょうか。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧