カテゴリー「お城、史跡巡り 近畿」の54件の記事

2017年3月12日 (日)

蒲生氏郷の故郷・・・日野

岐阜で迎えた旅の2日目。
前夜の打ち合わせにより、この日は近江湖東、蒲生氏郷の故郷である日野へ向かいました。

日野城跡図
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まずは蒲生氏の居城、日野(中野)城から。
※日野城には2015年にも訪れていますので、その時の記事も合わせてご参照ください。

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映画「るろうに剣心」のロケ現場にもなった堀底道。

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何気なく、さり気なく、、、立派な堀です(笑)
奥に見えている小さな社は凉橋神社。江戸時代、日野城跡に藩庁を置いた西大路(仁正寺)藩主・市橋氏の氏神です。
なお、詳細は不明ですがこの市橋氏、織田信長に従って佐和山城包囲戦などで活躍した「市橋九郎右衛門」(信長公記)に連なる一族と思われます。

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aの土橋

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更にもう1本、同じ横堀続きに土橋がありましたが・・・江戸時代に描かれた城跡図には全く存在していませんので、或いは利便性のため、後世になって築かれたものかもしれません。(bの位置)

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西大路藩庁跡

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藩庁跡は公園のような広場になっており、堀のような痕跡も一部に残っていました。

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蒲生氏郷産湯の井戸

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住宅街の合間にしっかりと痕跡を留めるcの堀跡。

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こちらは市橋氏の菩提寺となった清源寺
元は蒲生定秀(氏郷祖父)の別邸(桂林亭)だったと伝わります。定秀の没後に蒲生賢秀(同父)が桂林庵と改称して定秀の菩提を弔い、西大路藩が置かれると初代藩主・市橋長政が菩提寺としました。

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清源寺、西大路藩歴代藩主3人の墓所。

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続いて興敬寺
石山本願寺合戦に関する書状など(興敬寺文書)が残ります。

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興敬寺境内には、日野城外郭の東端部と思われる土塁や・・・

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堀跡が見事に残っていました。

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堀跡の近くには「落葉の清水」
日野三名水の泉、とのことですが・・・確かに「落葉」の泉だわ(笑)

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法雲寺
蒲生氏郷の父・賢秀の菩提寺です。

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宝篋印塔の笠石を用いた手水鉢。
笠石だけでこの大きさ・・・押して測るべし。

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蒲生賢秀墓所
右は西大路藩世嗣だった市橋利政のお墓。病弱を理由に廃嫡されたそうですが、59歳まで生きられたようです。

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法雲寺本堂の破風は、西大路藩庁の部材を転用したものと伝わります。

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信楽院
蒲生家の菩提寺

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信楽院本堂
元文4年(1739)の建立。

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信楽院墓地に建つ、蒲生氏郷の遺髪塔
同寺には他に、氏郷の納骨地蔵尊も祀られているそうです。

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雲雀野公園に建つ蒲生氏郷像。

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お次は日野のお隣、東近江市の井元城へ。
愛知川の河岸段丘上に位置し、麓に建つ春日神社(写真)が目印です。

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段丘上に上がると早速、素敵な横堀がお出迎え。

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横堀越しに主郭を見る。

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主郭東側に残る二続きの馬出状の小曲輪。

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主郭から向かって右側の馬出に・・・

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左側の馬出。

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2つの馬出を縦方向に重ねて見る。

この井元城、文献上に該当しそうな城が見受けられず、謎の城とされています。
鯰江城(同じ段丘上、西側に位置する)に対する付城、との説もあるそうですが、それにしては2つの馬出の方角(主郭東側)がおかしい
主郭の東側には実は、2つの馬出をもスッポリと包み込む堀で囲われた不思議な、大きな長方形の区画があり、こちらを主郭とすると最前の主郭が馬出のようにもなり、そうなると向きも反対になって鯰江城に向いていると言えなくもないのですが・・・。

しかしこの大きな区画は、個人的な印象としては神社の旧境内地の境界線。それに、この空間を主郭とした場合、ならばスッポリ取り込まれてしまった2つの馬出状の曲輪の意味は何?となってきます。
神社を築く際にわざわざ邪魔な馬出を取り込む必要はないので・・・神社が先にあって砦を築く際、神社をどかしたか?

あれこれ考えていくと深みにハマって益々分からなくなってきますが、今の段階では鯰江城に対する付城などではなく、千草・八風峠を越えてくる東からの敵を警戒する鯰江城の出城、としておくのが無難なのかもしれません。
※構造上の年代比定から、例えば関ヶ原(或いは大坂の役か?)時に築かれた西軍の砦かも、とする見解もあるようですが、それにしては現存する遺構の規模が小さ過ぎる印象です。

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最後に鯰江城の跡地にも。

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城の遺構は何も残っていませんが、愛知川の段丘上に築かれた城であったことは、周辺の地形からも一目瞭然です。
※鯰江城落城の顛末については、コチラの記事も参照ください。

さて、この後は一気に名古屋まで移動し、前日の賤ヶ岳でもご一緒したクリス・グレンさん主催のトークイベント&懇親会
「信長の城・小牧山城のヒミツ」
に参加させていただきました。

本来であれば、このイベントだけで1本の記事にすべきところですが、顔出しオンパレードで使えそうな写真もないので・・・あしからず(笑)
貴重なお話を聴けて多くの方ともお会いすることができ、とても有意義な機会になりました。

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2017年3月11日 (土)

堂木山砦・神明山砦・茂山砦 (賤ヶ岳合戦城砦群)

図1
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2017年3月4日、賤ヶ岳の戦いに於いて、湖北の山々に築かれた砦群をめぐるオフに参加させていただきました。

図2
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今回はまず、余呉湖の北方を遮るように北東へ延びる尾根上に、北国街道西側の押さえとして築かれた羽柴秀吉方の最前線防衛ラインの一翼、堂木山砦神明山砦を目指します。

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総勢16名で登山開始。
中井均先生をはじめ、加藤理文先生、城メグリストこと萩原さちこさん、名古屋でラジオDJとしても活躍されているクリス・グレンさん他、錚々たるメンバーに囲まれてちょっと緊張のスタートになりました(笑)
それにしても、この時期の近江湖北地方の山々はまだ残雪厳しく、予想外の雪中行軍・・・(^_^;)

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尾根に辿り着くと堀切のような切通があり、ここが堂木山と神明山の分岐点。
まずは右、尾根先端付近に位置する堂木山砦へ。

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しばらく尾根上を進み、ご覧のような土橋状の細尾根が出てくると、いよいよ堂木山砦になります。

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堂木山砦縄張図
この図でいうと、左側からアプローチしていることになります。

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a部分
雪が残っている箇所が削平されていて、周囲には土塁が残り、左側は切岸状に落とされています。

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3曲輪の土塁

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3曲輪から1曲輪(主郭)の土塁を見る。
土塁手前には横堀も通っています。

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その横堀

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1曲輪の周囲を固める土塁

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1曲輪の土塁には1ヶ所、東側に虎口もありました。(b

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1曲輪から見る2曲輪

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cの竪堀と竪土塁

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2曲輪への進路は土塁を喰い違いに盛り、右→左と見事に屈折させてありました。

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2曲輪
遺構の残存状態も良好で、その構造を明瞭に把握できます。

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堂木山砦、北東端の堀切。
この先、尾根は徐々に下りになり、北国街道の通る麓へと出ることになります。

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我々は元来たルートを引き返し、今度は神明山砦を目指します。

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樹間の開けた場所から北方を眺めると、羽柴軍が当初、最前線と想定して築いた天神山砦・茶臼山砦のある稜線が見えていました。
(柴田軍が至近の別所山に砦を築いたため、羽柴軍は堂木山・神明山のラインまで前線を後退させている。図1参照)

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反対の南には・・・余呉湖を挟んで高山右近の岩崎山砦、中川清秀の大岩山砦が置かれた稜線も。
写真右方向へ更に進むと、賤ヶ岳砦も見えていました。

柴田軍の佐久間盛政隊は行市山砦を出て南下し、そのまま尾根上を堂木山・神明山の西側を素通りして余呉湖畔に出て、湖畔を反時計回りに迂回、賤ヶ岳砦の足元を通過して大岩山砦、続いて岩崎山砦へ攻めかかったことになります。(位置関係は図2参照)
佐久間玄蕃・・・恐るべし。

ダイナミックな景観を堪能し、スケールの大きな山岳戦に思いを馳せつつ尾根をゆっくりと登っていくと、程なく神明山砦に到達します。

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神明山砦縄張図
右側からのアプローチになります。

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aの土塁

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土塁の先には、階段状の曲輪がいくつか続いていました。

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3曲輪越しに曲輪(主郭)を見る。
主郭の脇には通路?が、まるで横堀のように通されていました。

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主郭
一段と残雪が激しい・・・(^_^;)

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先ほどとは反対側にも、武者走りのような通路。

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2曲輪
突き当たりには立派な土塁も。

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その土塁の先には堀切(b
少し先にもう1本見えています。(c

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b堀切から続く南側の竪堀。
少し角度をつけて、堀切を渡る通路が設けられていました。
静岡・丸子城の長大竪堀にも見受けられる構造です。

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cの竪堀

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cの堀切を越えて尾根を進むと、少し先にdの出曲輪(物見台?)があります。

さて、本当ならこの後は一旦下山し、北国街道を挟んだ東側の東野山砦へ行きたかったのですが、思わぬ雪中行軍に時間を取られ、且つ東野山の残雪状況も心配だったので予定を変更し、このまま尾根上を南西方向に登り、茂山砦を目指すことになりました。

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神明山砦から茂山砦へは、かなりハードな登り勾配を経由します。

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ここでもまた景色を楽しむ・・・賤ヶ岳砦。
(中央ピーク部分)

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岩崎山砦・大岩山砦方向

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茂山砦へのルート上にも、かなり厳しい残雪が・・・

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この坂を登り、合流した尾根を左に折れた先が・・・

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茂山砦になります。oO(雪で全く分からんww)

合戦当初、北方の別所山砦に布陣した前田利家は、佐久間盛政の進軍に合わせて南下し、この茂山砦を押さえたと伝わります。
神明山砦や堂木山砦からは尾根続きで、しかもここまでの道のりを見ても分かる通り、両砦よりもかなり高所に位置します。このことからしても前田隊の進軍~茂山砦布陣は、羽柴軍の前線を押さえ込み、且つ佐久間隊の背後を確保する意図が明確ですね。ところが・・・

秀吉が大垣から大返しで戦場に姿を現し、佐久間隊が退却に移ると、あろうことか前田隊も茂山砦を放棄して戦場を離脱してしまいました。
これにより、前田隊の援護を受けられなかった佐久間隊は羽柴軍の激しい追撃を受け、総崩れとなって合戦の趨勢をも決してしまいます。
利家の戦場離脱については、予め秀吉との間に密約があったとか諸説ありますが・・・本当のところはよく分からないので詳しくは触れません。
戦況を見極め、ドライに自家存続を図ったということではなかったかと。

さて、この日の行程はこれにて終了。
あとは下山するだけ、の筈でしたが・・・

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その下山が最も難敵でした・・・(^_^;)
進むにつれ、雪はどんどん深くなり・・・
(この付近で鹿も出現したそうです…私の背後を通ったため、私は気づきませんでしたが)

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一旦林道に出ても、ご覧の有様・・・。

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再び林道を離れ、最後は権現坂を下ります。
行市山砦を出て南下してきた佐久間盛政隊が、余呉湖畔に出る際に下ったと思われる坂でもあります。

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とても雰囲気のある古道で、雪さえなければもっと楽しめたのですが・・・何度足を取られたことか。
写真は、仰のけにズッコケる直前のクリスさん(笑)

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ようやく下山・・・

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余呉湖の畔から見渡す、賤ヶ岳古戦場。
右奥に賤ヶ岳砦。そこから左へ目を転じていくと・・・

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大岩山砦に岩崎山砦・・・

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そして北へと延びる北国街道。
写真左端(手前)に写っているのが、堂木山砦や神明山砦のある尾根の先端です。
羽柴軍はそこから、北国街道を跨いで反対側の東野山砦にかけて、街道を封鎖する二重の堀切惣構の堀)を築いて街道を封鎖していました。
以前もその痕跡を探しに行って玉砕しました(→記事)が、中井先生から少なくとも昭和の終わり頃までは、その一部が残っていたというポイントを教えていただいたので、今度また探しに行ってみよう♪

はい、これにて今回の賤ヶ岳古戦場歩きは怪我もなく、無事に終了です。
解散後は北陸方面へ帰る参加者を敦賀駅まで送り、そのまま大返しで岐阜へ。
(なんだか地理感覚がおかしくなる大移動w)

時間は少し遅くなりましたが、ギフナイト☆で楽しく盛り上がりました♪

※私の旅は、まだまだ続きます。

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2016年12月15日 (木)

菖蒲嶽城

12月10日は毎年恒例、城友忘年会を兼ねた山城踏査会
私も彼是、2013年から4年連続での参加となりました。毎年お声掛けくださる幹事や、参加者たちとの縁には本当に感謝ですね。

今年(2016年)のスタートは菖蒲嶽城から。
朝10時に彦根駅で集合~車3台に分乗して移動します。

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旧中山道が番場宿より摺針峠へと差し掛かる手前、城山の南麓からアタック開始です。
今年の参加者は中井先生や西股先生(1年間に渡る真田丸の軍事考証、お疲れさまでした)、城郭ライターの萩原さちこさんを含む、城仲間総勢17~8名!

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まずは登山道を北へ、ただひたすらに直登します。これが結構キツい…(^-^;
写真の時点で既に10分ほど登っていますが、目指す尾根はあの鉄塔の辺り・・・。

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ようやく辿り着いた尾根上から、伊吹山の眺め。
トータルで20分以上は直登しましたでしょうか・・・。

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背後を振り返ると、スタート地点の真横を通っていた名神高速が遥か下方に見えています。
到達した尾根はここから東と北へ分岐しており、菖蒲嶽城はその両方向に城跡遺構が存在しています。

ひとしきり景色を堪能(という名の休憩)したら、まずは東の尾根に残る遺構を目指します。

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いくつか階段状の小曲輪を越えると、若干薄いものの2本連続で切られた堀切が出てきます。

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上から見た2連続堀切。

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堀切(2本め)の先は土塁(左)と切岸に挟まれた通路のような空間になっており、写真奥には右に折れて切岸上の曲輪へ入る虎口もあります。

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足元には石がゴロゴロと・・・或いはこの切岸、石垣張りだったのかもしれません。

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虎口を抜けた先の曲輪。

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曲輪北側の斜面には連続する竪堀もありましたが…崩れやすい地質らしく、殆ど埋まってしまっている印象でした。

一旦引き返し、今度は北側の尾根に残る遺構へ向かいます。

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北側の尾根には、堀切が2本切られていました。
写真は、1本めの堀切に架かる土橋を渡る参加者の図。

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その土橋を渡った先から。

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そして2本め。
この堀切の先が、北城の曲輪になります。

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2本めの堀切の土橋は、エッジも効いていて綺麗でしたね。

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北城曲輪、その北西側の切岸。
この先にも尾根が伸びています。

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その尾根を少し進むと、堀切や土橋らしき痕跡も見受けられました。
お城の遺構か否か、意見は分かれるところですが。

北側の城跡は東のそれに比べ、全体的に作り込みが浅い印象でした。
これには、それぞれの城が現在に残る形に造成された「時期的な差」というものが考えられるのだそうです。

菖蒲嶽城は、文献などから天文年間(1532~1555)には既に存在していたと考えられています。その立地は、城山の東から南にかけて抜ける中山道を押さえる、近江⇔美濃間の境目。
そうした条件下で、その東側の城のみを改修したとすると、それはいつどの勢力によるものなのか・・・。
個人的には元亀年間(1570~1573)の初頭、東の美濃(岐阜)を本拠とする織田信長と敵対することになった、北近江の浅井家によるものかもしれない、と考えました。

麓の中山道を西へ進んで摺針峠を越えると、目の前には佐和山城が出てきます。
元亀争乱時に於いてはまだ、摺針峠は主要な街道ではなく、中山道の礎となる東山道はもっと北を通り、米原市街の方へ抜けていました(信長が摺針峠を拡張・整備して街道筋を改変したのは、後の天正年間→参考記事)が、織田と浅井がまだ敵対する以前の永禄11年(1568)には、足利義昭を奉じての上洛に先立ち、信長は南近江の六角氏との交渉のため、佐和山城まで出向いています。この時、彼が通ったのは摺針峠でした(浅井三代記)。
このことからしても、摺針峠越えが信長による改修以前から、既に重要な交通路の一つであったことは想像に難くありません。

東方からの街道筋を押さえる浅井家の重要拠点、佐和山城。
その支城として手を加えられたのが、菖蒲嶽の城だった・・・なんとなく辻褄も合う気がしませんか?(笑)
東城にしろ北城にしろ、互いにそれほど離れてはいないので方角にこだわる必要はないのかもしれませんが、いずれにしても天文年間からの城を後に改修したと仮定すると、その後の歴史を考えた時、浅井家以外にその必要性を見出せないのもまた、事実かとも思います。

まぁ、金ヶ崎での浅井長政離反~佐和山城包囲までの期間、僅か2~3ヶ月・・・ちょっと強引かもしれませんが、そんなことを考えながらの城攻めも、また一興かと…(^_^;)

元来たルートを引き返し、下山後は昼休憩を挟んで物生山城へ向かいます。

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2016年11月26日 (土)

小浜城、田辺城、他…城友会2016⑤

国吉城の後は、小浜市へ向かいます。

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途中、三方五湖のPAにも立ち寄り・・・

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小浜神社に到着。
当社は小浜城本丸跡に鎮座し、初代小浜藩主・酒井忠勝(雅楽頭家。徳川四天王の一人で左衛門尉家・忠次の孫に同名がいるが、これとは別人)を祀ります。

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小浜城は小浜湾に面し、南北を北川や南川などの河川に囲まれた中洲のような場所に築かれました。
現在では本丸周囲の石垣を残すのみですが、中洲全体が城内という地名になっています。

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境内南東隅に組屋地蔵尊
小浜城築城の際、人柱となった組屋六郎左衛門の娘を供養するものです。
寛文2年の大地震で崩れた石垣を修築する際、転用石として使われて所在不明となっていましたが、昭和28年の水害で崩壊した石垣を同34年に修築中、偶然発見されたのだそうです。

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南東隅から南面の石垣

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こちらは本丸の北面

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・・・あ、また紺色の人が写り込んでる(笑)
すぐ右手に流れているのは後世の河川拡張で築かれた多田川。往時は北ノ丸があった場所ですが、今となっては跡形もありません。
北ノ丸の脇を流れていた北川は、写真の更に右奥になります。

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北西隅から西面。
奥に天守台跡。

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西面石垣と天守台。

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最後に天守台へ。

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天守台
住宅地の向こう側にうっすらと、小浜湾が見えています。

さて、城友会2016も佳境…次は丹後国へ移動します。

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お城ではないですが、参加者の希望で海上自衛隊の舞鶴北吸岸壁へ。
護衛艦などの艦船を見学します。

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護衛艦あさぎり(手前)とふゆつき

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その艫側。
護衛艦一つとっても、いろいろな形があるのですね。

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対岸に見えるドックも格好いい!

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護衛艦くらまは佐世保の所属で、2017年春に除籍される予定のため、舞鶴で観れるのはこれが最後とか。

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護衛艦くらま

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その最後の雄姿を目に焼き付ける。

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こうしてズラッと並んだ姿を見ると、なかなか壮観ですね。

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舞鶴赤レンガ倉庫
さ、お城に戻ります。

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城友会2016
、ラストは田辺城です。

■田辺城図
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田辺城は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い直前、細川幽斎が籠城し、包囲する西軍諸隊と戦ったことで有名ですね。
図を見てもお分かりの通り、現在では開発が進み、もはや城跡公園以外に何も残ってはいません。

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井戸跡

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天守台

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発掘調査に基づき復元された石垣。

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ゆうさいくんに見送られて、今回の城攻めも全て終了です。

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最後は車で一気に移動し、京都駅で解散。

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新幹線を待つ間、写真にちょいちょい登場していた紺色の人と打ち上げ♪

今回も楽しく、充実した時間を過ごせました。幹事を始め、参加者皆さんに感謝です。
来年は飛騨高山方面の予定。またどうぞ、よろしくお願いします(^_^)/

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2016年11月24日 (木)

玄蕃尾城…城友会2016①

前記事の刀根坂(久々坂)峠から北の斜面を上がり、5分ほど九十九折れの山道を登ると開けた尾根に出ます。

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霧で視界が悪い中、漂う獣臭に警戒しながら慎重に進みます・・・近江北部は特に多いらしいですからね…熊。
尾根上を更に北へ、しばらく進むと・・・

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おぉ…いきなり凄い遺構が姿を現しました。

■玄蕃尾(内中尾山)城図
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玄蕃尾城は天正11年(1583)、賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉と対峙した柴田勝家の本陣として築かれた、いわば陣城です。現在の滋賀県と福井県の県境に位置します。
上図の下方、南側の大手から探索開始。

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虎口郭Aへの大手虎口
左へ折れる枡形になっています。

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虎口郭B
写真左に虎口、その右手には武者溜りのような空間がありました。

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土塁やら切岸が複雑に入り組んだこの立体感…堪らない(笑)

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虎口郭Bから主郭方向
右の高まっている部分は、主郭南虎口を守る馬出です。

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主郭南虎口の土橋

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その土橋から続く馬出

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土橋西側の横堀に・・・

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東側の横堀・・・深い。

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主郭側から見た土橋、馬出、そして右奥に虎口郭B
土橋両脇の横堀も含め、その防御思考が明瞭に伝わる遺構です。

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主郭

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主郭東虎口を、その外側から見た様子。
こちらも土橋や横堀が綺麗に残っています。

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主郭東土橋脇の横堀。
・・・あ、この紺色の人、いつも一人でサクサク先に進んで行くので、城友会の記事にはちょいちょい写り込みます(笑)

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張出郭

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主郭櫓台

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主郭北側の馬出

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虎口郭C
かなり広い空間でした。

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虎口郭Cと、先ほどの馬出との間の横堀。

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搦手虎口と土橋。
城域の最北端に位置しており、北ノ庄へ敗走する柴田勝家は、或いはここから玄蕃尾城を出たか?などと話しながら見学しました。

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搦手虎口の先には、今も道が続いていました。

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虎口郭Cの横堀

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この横堀がまた素敵でした♪

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外側の掻き上げ土塁から。

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虎口郭Cの南西、見張台の切岸…凄い高低差。

玄蕃尾城…その遺構のどれをとっても、とても一時的な陣城の規模ではないです。きっと勝家は、秀吉との対陣がもっと長期化すると見込んでいたのでしょうね。
整備の具合も程良くて見やすく、素晴らしい城跡でした。

この後は敦賀市内へ入ります。

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2016年9月 4日 (日)

紀州街道山中宿

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旅の道中、紀州街道山中宿にも立ち寄りました。

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紀州街道は熊野街道の名でも呼ばれていました。

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紀州街道山中宿

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山中宿本陣跡

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とても江戸情緒の残る風情です。

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山中宿のすぐ南には関所跡があり・・・

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更に紀州街道を2kmほど南下した境川に架かる境橋には、日本最後の仇討ち場の碑があります。
安政4年(1857)に父を斬り殺された広井岩之助は、幕府から仇討ちの免状を得て、紀伊加太に潜んでいた仇(棚橋三郎)を発見します。
そこで紀州藩に仇討ちの許可を申請すると、紀州藩からは、三郎を国払いとして境橋より追放するので、和泉川側に出たところですべし、との回答を得ます。
ここは「境川」「境橋」の名が示す通り、紀伊と和泉の国境。
(じゃあ、和泉側の許しを得ないと駄目じゃん?とも思うけど・・・)
文久3年(1863)、境橋で三郎を待ち受けた岩之助は、見事本懐を遂げました。これは、日本で許された最後の仇討ちと云われています。

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仇討のあった和泉(大阪府)側から見た境橋(…と、電車を待ち受ける鉄ww)。
橋を渡った先は和歌山県(紀伊)。

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また、紀州街道を北へ下った大阪府阪南市の波太神社境内に祀られている鳥取神社は、元は山中宿に祀られていたもので、峠越えをする旅人が健脚祈願をしたことから「足神さん」と親しまれてきたのだそうです。

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矢宮神社、鷺森別院

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矢宮神社
天正5年の織田信長による雑賀攻めで古文書類を焼失したため、詳しい由緒・縁起は不明ですが、八咫烏を祀ります。

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その天正5年の兵乱では、雑賀衆は弥勒寺城に拠って頑強に抵抗しています。
最終的に誓紙を差し出し、「赦免」という形で和議が成立して織田軍が撤退すると、雑賀衆は矢玉で傷ついた足の痛みも構わず、矢宮神社で欣喜雀躍したとか・・・これが「雑賀踊り」の起源とも伝わっています。

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確かに弥勒寺山のすぐ麓(西麓)という立地。
山から下りてきた雑賀衆が踊りに興じる賑やかな様子が、目に浮かんでくるような。。。


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さて、お次は本願寺鷺森別院へ。
本願寺第11世・顕如の指示で弥勒寺山(御坊山)から当地へ移された雑賀御坊で、天正8年(1580)、11年の長きに渡った織田信長との石山戦争終結後、石山を退去した顕如が移り住んだ地でもあります。
以降、顕如が貝塚に移る天正11年7月までの間、一向宗の総本山ともなりました。

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本堂にも上げていただき、御本尊にお参りさせていただきました。

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紀三井寺

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紀三井寺
宝亀元年(770)の創建と伝わります。元々は真言宗山階派に属していましたが、1948年に独立して救世観音宗総本山を名乗ります。
天正13年、紀州征伐に乗り出した羽柴秀吉は、根来寺を制圧した後に雑賀にも攻め寄せますが、紀三井寺に対しては禁制を与え、自身も参拝に訪れたと云います。

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結縁厄除坂
この前日に訪れた紀州東照宮の108段の石段も凄かったけど・・・こちらは1枚目の写真にある楼門下の石段も含めると231段
途中にいくつか踊り場のような場所があり、男女の厄年(25・33・42)と還暦の段数で区切られているそうです。

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石段の途中には、寺名の由来にもなった三井水の一つ「清浄水」

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それにしても見事な石垣です。

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雨で滑りやすい中、どうにか登りきって振り仰ぐ眺め。
写真中央やや右寄りに雑賀城で、右ヘ順に紀州東照宮、弥勒寺城。

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大千手十一面観世音菩薩像(平成25年落慶)
総漆金箔寄木造りで、木造の立像仏としては国内最大なのだとか。

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天正16年(1588)建立の鐘楼

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そして本堂(宝暦9年/1759)・・・木に隠れて見えない(笑)

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本堂では内陣も拝観させていただきました。

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そして、私が紀三井寺を訪れた一番の理由・・・それは本堂横の石段を登った先にあります。

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石段を登ると多宝塔
文安6年(1449)建立。

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多宝塔と並ぶ開山堂前の坂を更に登ります。
この辺りから墓域に入ります。しばらく進み、最も奥まった辺りに・・・

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佐々木只三郎の墓所があります。
幕末、京都見廻組を率いた幕臣で、近江屋での坂本龍馬暗殺の指揮を執ったとも云われる人物です。
慶応4年(1869)1月、山崎~楠葉での新政府軍との戦闘(参照記事)で被弾し、敗走した当地で死去しました。

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墓石の側面には、その戦死に至る経緯も刻まれています。

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紀州東照宮

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紀州征伐からは離れますが・・・折角なので紀州東照宮にもお参りしました。

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鉤型に折れる不思議な参道

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そして・・・ドーンと聳える108段の石段…(^_^;)
煩悩だらけの身には堪える…(笑)

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ようやく楼門が近付いてきました・・・

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石段を登りきった場所から、和歌浦の眺め。

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権現造りの拝殿
巫女さんの案内で拝殿内部も拝観いたしました。
左甚五郎の様々な彫刻や、狩野派絵師による壁画など・・・見事の一言です。

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日光は無論のこと、久能山に比べても規模は小さめですが、それでもさすがは御三家のお膝元、と思わせる荘厳さでした。

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紀伊太田城

天正13年、紀州に攻め入って根来寺や粉河寺を制圧した羽柴秀吉は、その勢いのまま、雑賀攻略に兵を差し向けます。
郷を蹂躙され、なおも抵抗を続ける雑賀衆の残党は、太田左近を大将に太田城へ立て籠り、徹底抗戦の構えを見せます。
これに対し秀吉は、太田城へ降伏勧告の使者を派遣しますが拒否されたため、同城を水攻めにしました。
(なお、この時の使者の一人に、天正10年の信長横死後、雑賀を出奔していた孫一の姿があったと云います)

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太田城水攻めのため、秀吉が築かせた堤跡
城跡の北東、出水地区に一部が残存しています。

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樹木に覆われて見えづらいですが、その形状は紛れもなく土塁です。

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堤の内側の地勢・・・奥のマンションなど、城へ向かって低くなっているのが見て取れます。
これだと確かに、水を貯めやすかったかもしれません。

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来迎寺
太田城はこちらの来迎寺や、すぐ隣りの玄通寺を中心とした東西250m×南北200mの範囲に築かれていました。

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来迎寺境内に建つ太田城址碑
裏には天正13年の戦いの顛末が刻まれていました。

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不思議な形状の灯篭も。

籠城側は約1ヶ月に渡って頑強に抵抗を続けましたが、最後は太田左近をはじめ、主だった53名の首を差し出して降伏開城しました。

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太田城水攻遺蹟 小山塚
自刃した太田左近らを葬った塚は全部で48あったそうですが、これはその一つ。

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最後に・・・来迎寺の西方1km、大立寺の山門。
こちらは太田城大門の移築と伝わります。

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