カテゴリー「お城、史跡巡り 近畿」の62件の記事

2018年12月 5日 (水)

龍王山城(北城)

20181125a01
旅の最終日は天理市田町の龍王山城へ。
林道の途中で通行止めになっていたので、そこから結構な距離を歩いて到達しました。

20181125a02
龍王山城は大和の豪族・十市氏の居城でした。
天文年間、十市氏は遠忠の代に勢力を伸ばして龍王山城も拡張されたようですが、子の遠勝の代になり、松永久秀が大和で勢力を伸ばすと徐々に衰退し、やがて前日に訪れた宇陀松山城の秋山氏から攻撃を受け、城を放棄して逃れていきました。
その後も紆余曲折を経て、龍王山城は最終的に松永久通の手に渡りますが、松永氏が織田信長に反旗を翻して滅びると、天正6年に信長の命によって廃城となりました。

龍王山城は北城と南城の2つから成りますが、今回は時間の都合で北城のみを見ていきます。

20181125a03
馬池・・・馬の肢でも洗っていたのでしょうか。

20181125a04
馬池から時ノ丸方向へ向かう途中、西側の斜面にあった竪堀群。
群と言っても藪がひどく、ちゃんと確認できたのはこちらの2本のみでした。

20181125a05
このすぐ上の曲輪が時ノ丸で、その先の切岸の上は北城の本丸になります。

20181125a06
Aの曲輪
高い土塁には平虎口が付けられていました。

20181125a07
A曲輪の土塁には一部、石積みも。

20181125a08
A曲輪北東下の竪堀。
この竪堀を下って大手方面へ向かいます。

20181125a09
西の大手の丸
数段の平場が階段状に連なっていました。

20181125a10
五人衆郭
写真奥、一段上がった先には大きな平場が広がっています。

20181125a11
図で「馬ひやし場」と書かれている地点。
左は五人衆郭の切岸です。

20181125a12
馬ひやし場の北に広がる郭には土塁も残っていました。

この後、五人衆郭の北にある竪堀群を見に行きましたが、良い写真が撮れていなかったので割愛・・・。
他にも見ておきたいポイントはありましたが、縄張り迷子になってしまったので本丸へ直行。

20181125a13
北城本丸

20181125a14
北城本丸から西の眺望。

20181125a15
北城本丸と辰巳の櫓間の堀切。

20181125a16
こちらはB曲輪と太鼓ノ丸間の堀切。

20181125a17
南虎口の丸堀。
丸堀を挟んで2つの食違虎口が設けられています。
写真は城内側から見ていますが、対岸の城外から城へ攻めてきた寄せ手は、丸堀の外周を反時計回りに手前の虎口まで回り込まされる構造になっていました。
こうすることにより、寄せ手の弓は城内(高所)から狙う城兵に対して常に逆手となり、逆に城兵にとっては有利な得手となる工夫なのだそうです。

龍王山城、北城のみを駆け足で見てまわりましたが、とても規模が大きく、見どころの多い山城でした。

| | コメント (0)

2018年12月 4日 (火)

宇陀松山城

20181124c01
城友会2018
、2つ目のお城は宇陀松山城です。

20181124c02
城山南西麓の千軒舎に車を停め、パンフレットをいただいてから、建物の脇より登城道へ向かいます。
※続100名城スタンプも千軒舎にあります。

20181124c03
Aの横堀

20181124c04
雀門跡からの登城路に散見された残存石垣。

20181124c05
崩れやすそうな地質に見えたので、大部分は崩落してしまったのかもしれませんが、往時は総石垣づくりのお城だったのでしょうか。

20181124c06
雀門からの登城路。
直角の折れが続きます。

20181124c07
本丸から天守郭を望む。

20181124c08
本丸から南方の眺め。
ブルーシートは、台風などによる崩落箇所を覆ったものです。

20181124c09
本丸から二ノ丸方向。
そこかしこに崩落の痕が見られます・・・。

20181124c10
天守郭からBの張り出し。

20181124c11
天守台周囲に残る石垣。
多くの崩落箇所が物語るように、やはり崩れやすい地質によって石垣も、長い年月の中でその大半が失われてしまったのでしょう。

20181124c12
隅石

20181124c13
大門

20181124c14
大御殿郭からの天守郭

20181124c15
つづいて山麓の春日門跡。
現在は春日神社の参道になっていますが、参道は石垣の先ですぐに左へ折れ、枡形だったことが明瞭にわかります。この春日門は、宇陀松山城の大手にあたります。
また、春日神社の周辺には宇陀松山藩主・織田家の屋敷が建っていたようです。

宇陀松山城は秋山氏の居城として築かれました(当時は秋山城)。
その後、豊臣秀長の大和入部に伴って宇陀へ配された豊臣家臣らや、関ケ原合戦後に入城した福島高晴によって改修が続けられました(「松山」と改名したのも高晴とされる)。
しかし高晴は元和元年(1615)に改易となり、その後に入封した織田信雄は麓に陣屋を構えたものの城には入らず、宇陀松山城はその使命を終えました。

20181124c16
続いて城下町を散策。古い道標が建っていました。

20181124c17
町並みもいい感じですね。

20181124c18
城下町への大手門にあたる松山西口関門。
建設時から残る唯一の建造物で、ここから城下へ入って大手筋を進むと、先ほどの春日門に繋がっています。

さて、これにて城友会2018本戦の初日は終了です。
夜は宿近くの居酒屋で飲んだ後、メンバーは恒例のカラオケへ繰り出しましたが、私は疲れからか気力・体力が続かず、参加7年目にして初のパス・・・最終日に備えるため宿へ戻りました。
そう、twitterをご覧いただいていた方はご存知かもしれない、全く寛げない宿へ・・・。

| | コメント (0)

2018年12月 3日 (月)

高取城

前乗り~早駆けだけで記事が3本になってしまいましたが、ようやく旅の名目である城友会2018の本戦に突入です(笑)
法隆寺参拝に時間を使い過ぎ、他の参加メンバーを少し待たせてしまいましたが無事に合流して、まずは高取城へ。

20181124b01
高取城図
高取山林道の終点付近に車を停め、壺坂口からアプローチします。

20181124b02
歩き始めてすぐに石垣が出迎えてくれますが、これで驚いていたら身が持たなくなることを、すぐに思い知らされることになります(笑)

20181124b03
壺坂口門~壺坂口郭を経由し、壺坂口中門(写真)を抜ける。
この先の角を折れると・・・

20181124b04
大手門横の石垣がそそり立っていました。

20181124b05
大手門
城内への入口であるニノ門・壺坂口門・吉野口門から主郭部へのルートは、全てこの大手門を経由することになり、二の丸や本丸への唯一の入口となります。

20181124b06
大手門のすぐ先にある枡形虎口を抜けると・・・

20181124b07
二の丸に出ます。

20181124b08
二の丸から、太鼓櫓脇に付けられた虎口を抜けて本丸を目指す。

20181124b09
先ほどの虎口の先では、天守台の高い石垣が正面に待ち受けていました。

20181124b10
天守台の足元にあった城址碑。

20181124b11
本丸への虎口

20181124b12
本丸内からの天守台

20181124b13
天守台から本丸を見下ろす。
虎口が幾重にも折られ、いかに複雑且つ厳重に施されていたかがわかります。

20181124b14
本丸南面の石垣
少しカーブしているようです。次は一段下の腰曲輪に下りて、この石垣を下から見上げてみることにします。

20181124b15
本丸東面の石垣
不自然な段差がついているのは、孕みなどを修復した痕跡のようです。

20181124b16
先程は上から見た南面の石垣。

20181124b17
反対の西側からも。

20181124b18
この後、写真左手方向へ下って七つ井戸も見に行きましたが、ろくな写真がなかったので割愛します・・・(;^_^A

20181124b19
続いて大手門付近から三の丸方向へ下り、本丸の周囲を時計回りに吉野口門方面を目指します。

20181124b20
三の丸から先は樹木が鬱蒼と生い茂り、紅葉目当ての観光客も殆ど立ち入ることはありませんが、こうして見事な石垣が続いています。

20181124b21
吉野口門
斜面を登り石垣で遮断し、人一人がやっと通れるほどの狭い一本道だけが通されていました。

この吉野口辺りまでを「城内」としていたようですが、この先にもまだ素晴らしい遺構があるとのことでしたので、更に進みます。

20181124b22
本丸のすぐ先で、南へ続く尾根を分断する堀切。
この尾根に沿って進むと・・・

20181124b23
片面を石垣で固められた小さな堀切がありました。

20181124b24
しばらくすると、土塁で囲われた大きな曲輪跡に出ます。
この曲輪の先からは、尾根に沿って東へ向かいます。すると・・・

20181124b25
今度は両サイドを石垣で固めた堀切に遭遇しました。
ここが今回の最終目的地点。

20181124b26
こんな山深い場所にもしっかりと残っている石垣・・・いいですねぇ~♪

20181124b27
堀切を上から見下ろしてみる。
往時は橋が架けられていたのでしょうね。

20181124b28
関東ではなかなかお目にかかれない石垣づくりの山城・・・やっぱりいいです!

20181124b29
下山後は城下町にある夢創館へ。
呉服商を改修した観光用の施設で、高取城のパンフレットや100名城スタンプが置かれています。

20181124b30
高取城のニノ門を移築した子嶋寺の山門。

高取城
僅か2万5000石の高取藩の居城とは思えない規模の大城郭。
それでも城域の北側一帯など、時間の都合でまわれていないエリアがたくさんあるのですから、その規模には驚くばかりです。

| | コメント (0)

2018年12月 2日 (日)

法隆寺、他

2日目の朝。
集合時間前に、前乗り組でちょっと早駆けしてきました。

20181124a01
まずは宿の近くにあった小泉城跡(大和郡山市小泉町)から。
南北朝期の小泉氏の居館跡で、江戸時代には小泉藩の片桐貞隆が陣屋を構えました。

20181124a02
現在は完全に宅地化されていますが、石碑前の段差に名残を感じました。

20181124a03
続いて中宮寺跡
中宮寺は聖徳太子の母、穴穂部間人皇后の住居跡に建てられたと考えられている尼寺。
江戸時代になって法隆寺の東院に移されています。

20181124a04
復元された塔や金堂の礎石。

20181124a05
塔の心礎が埋まっている地点。

20181124a06
復元展示されている心礎。
高さは40㎝ほどで作られていますが、発掘でも深さは未確認のため、実際の高さは判っていないそうです。

20181124a07
そして法隆寺へ。
真っ直ぐに伸びる松並木の参道が素敵でした。

20181124a08
法隆寺を訪れるのは、実に30年ぶりのことです。

20181124a09
まずは西院の大講堂にお参り。

20181124a10
五重塔に金堂
金堂では、聖徳太子のために造られた金銅釈迦三尊像、太子の父・用明天皇の金銅薬師如来座像、母・穴穂部間人皇后の金銅阿弥陀如来座像の他、それらを守護する四天王像にも参拝させていただきました。
※こちらの四天王像は1300年以上の歴史を持つ日本最古のもので、邪鬼の背に静かに立っています
通常、よく目にする四天王像は片足を邪鬼の頭に乗せるなどして、邪鬼を踏みつけるような姿で彫られていますが、法隆寺金堂の像のように静かに立っているのが、本来の姿なのだそうです。
しかし時代が下るにつれ、四天王は即ち守護神なので、邪鬼を踏みつけるようにして強さを表現するようになっていったと考えられているようです。

20181124a11
大宝蔵院では玉虫厨子も拝観。

20181124a12
最後に東院へ向かいます。

20181124a13
聖徳太子が住まいした斑鳩宮跡に建てられた夢殿。

20181124a14
江戸時代に移された中宮寺。

30年ぶりに訪れた法隆寺。
世界最古の木造建築とされる伽藍、仏像、宝物の数々・・・どれもこれも1000年を軽く超える歴史の重みに、ただただ圧倒されるばかりでした。

さて、それでは次回からいよいよ、城友会2018本戦の開始です。

| | コメント (1)

2018年11月30日 (金)

大和郡山城

11月23~25日は毎年恒例の城友会
2012年から彼是7年連続での参加となりました。
今年の城攻めの舞台は奈良。本戦は24日からということで、初日の23日は前乗り組でのんびりと楽しみました。
JR奈良駅で集合し、まず初めに向かったのは・・・

20181123a01
私にとっては7年ぶりの再訪となる大和郡山城
この7年の間に大掛かりな修復・整備が行われ、天守周辺は新たに設置された手すりや舗装で景観が一変していました。

20181123a02
天守台の石垣に転用された“さかさ地蔵”
石垣も積み直されたようで、以前よりも少し見やすくなっていたような・・・。

20181123a03
天守台に上がって更にビックリ・・・。

20181123a04
天守台からの眺め。

20181123a05
極楽橋跡
どうやら橋の復元を目指しているようです。

20181123a06
東隅櫓

20181123a07
追手門に追手向櫓

20181123a08
この後は内堀の外周を、反時計回りに中仕切門跡方向へ向けて歩きました。

20181123a09
内堀の対岸から見る天守台。
石垣の規模はやはり立派ですね。

20181123a10
中仕切門跡を抜けて右へ進むと、松蔭門跡の先にもう一つ水堀がありました。

20181123a11
鰻堀池
元々、農業用水として利用されていたものを、築城の際に中堀として取り込んだようです。

20181123a12
さて、大和郡山城散策はサクッとこの辺で切り上げ、次のお城へ向かいます。

| | コメント (0)

2017年12月13日 (水)

彦根城 (登り石垣めぐり)

20171210a01
山城踏査会&忘年会の明けた旅の2日目、まずは久しぶりの彦根城へ。
腰巻・鉢巻石垣を眺めつつ、表門へまわります。

20171210a02
彦根にはここ数年の間にも何度か訪れていますが、彦根城を攻めるのは実に12年ぶり。
今回は絵図にある5本の登り石垣を中心に、じっくりと観てまわります。

20171210a03
表門の脇を固める1の登り石垣。

20171210a04
天秤櫓下の大堀切にて。
廊下橋の橋脚の奥(写真中央)、平に均された石垣の窪みが本来の橋脚跡なのだそうです。

20171210a05
天秤櫓

20171210a06
鐘の丸から大手門へと続く2の登り石垣。
ここでも城の導入路を、登り石垣で遮断している様子がよく見てとれます。

20171210a07
2の登り石垣を、大手門側から見上げた様子。

20171210a08
本丸到着後、天守よりも先に「ひこにゃん」を撮る人を撮る人を撮る(笑)
※いいオヂサンたちですw

20171210a09
本丸から佐和山城跡の眺め。

20171210a10
本丸から、表御殿の裏門へと続く3の登り石垣。

20171210a11
天守の背後に飛行機雲がかかり、あたかも狼煙が上がったかのような・・・!?
この日は「ブラタモリ」彦根編の放映翌日でしたが、朝早い時間帯だったため、天守内部も待ち時間なしで見学できました。

20171210a12
西の丸から天守を見上げる。
台風の影響による漆喰の剥がれが痛々しい・・・。
(修復のための募金に少しばかり、協力させていただきました)

20171210a13
西の丸三重櫓も見学。

20171210a14
三重櫓から山崎曲輪方向の眺め。

20171210a15
西の丸と出曲輪間の大堀切。

20171210a16
この堀切の両サイドにも、竪堀や登り石垣が落とされています(←可笑しな日本語…)
写真は4の登り石垣を上から見た様子。

20171210a17
同じく、登り石垣4を下から。

20171210a18
旧藩主の下屋敷、楽々園。
松原内湖や伊吹山、佐和山を借景にした眺めが自慢だったとか。

20171210a19
玄宮園より天守を望む。
池の逆さ天守にまで、漆喰の剥がれが・・・。

20171210a20
玄宮園の茶室にて、しばし一服。
茶室の柱と縁側の柱、2本の柱が1本に重なるこの位置が、お殿様のためのポジション。

20171210a21
続いて山崎曲輪へ・・・奥に山崎門。

20171210a22
往時は山崎門からあちらの対岸へ、橋が架けられていました。

20171210a23
米蔵(今は梅林)へと続く門跡。
この左側の石垣から・・・

20171210a24
それは見事な登り石垣5が続いていました。

20171210a25
彦根城・・・改めて「近世城郭もいいな」と思わせてくれる素晴らしい城郭でした。

20171210a26
最後に若き井伊直弼が過ごした埋木舎を見て・・・

20171210a27
開国記念館でこちらの企画展を見学してから、彦根城とはお別れ。

この後は今回の旅、最後の目的地へ。

| | コメント (0)

2017年12月12日 (火)

男鬼入谷城 …山城踏査会&忘年会2017

年の瀬の足音も少しずつ聴こえてくる12月9日、毎年恒例の山城踏査会&忘年会に参加させていただきました。
今年の踏査地は彦根市の山中、標高685mに眠る男鬼入谷城(おおりにゅうだにじょう/別名「近江高取城」とも)。

参加者は総勢18名。朝の交通機関の乱れに若干翻弄された方もいたものの、無事に鳥居本公園で全員集合し、城跡の麓までは車3台に分乗し、林道をひたすら進みます。

20171220901
なかなかハードな林道を40分ほども走ったでしょうか・・・山深い地にひっそりと佇む男鬼の集落に到着しました。
実はここ、既に廃村となって久しいのだとか。その割に荒れていないのは、今でも定期的に手入れされているからなのだそうです。
「男鬼」という地名にも何か、歴史・云われがありそうですが・・・そこまで追及していると深みにハマりそうなので、今回はスルーで。←

20171220902
集落の外れに建つ、比婆神社の鳥居。
まずはここから九十九折れの参道を伝い、集落の背後にそびえる山の頂きを目指します。

20171220903
鳥居からひたすら登り続けること3~40分、ようやく比婆神社に到着。

20171220904
比婆神社
伊邪那美大神を祀ります。

男鬼入谷城跡へは、この社殿裏の尾根上を更に進み、ピークまで達したら尾根に沿って左へ折れ、そこからは少し下ります。

20171220905
下った先、尾根の鞍部にあった堀切と土橋のような痕跡。
この先、再びしばらく登ると・・・

20171220906
ようやく城跡に到達します。いきなり凄い切岸がお出迎え。
なお、城域には西側からのアプローチとなります。当記事での各曲輪の呼称は、彦根市教育委員会のものに準拠することとします。

20171220907
最西端のⅢ郭から、尾根に沿って東へ連なる曲輪群を見る。
切岸による段差が明瞭に確認できます。

20171220908
城跡付近からの風景。
男鬼入谷城はご覧のような山深い地に眠り、主要な街道や耕作地を得るための平地からも離れています。
確かな文献史料でも一切、その名を確認することができないため、現在に至るまで築城者や来歴などを確定できない謎の城とされています。

20171220909
Ⅲ郭から南へ伸びる急勾配の尾根を覗いた様子。
一段下には腰曲輪、その先にも何か見えていますね。まずはこの尾根を下ってみます。

20171220910
尾根の斜面に残っていた、石積みを思わせる痕跡。

20171220911
更に急斜面を慎重に下ると、その先には堀切が2本切られています。
こちらが1本目で・・・

20171220912
そして2本目。
あまりに細い上に、これほどの急斜面に果たして堀切が必要だったのか?との疑問も禁じ得ず・・・
個人的な印象としては、堀切というよりは塹壕、といったところかな。

20171220913
再び曲輪群に戻り、東へ進みます。
切岸によって曲輪が幾段にも築かれています。写真手前には堀切、奥の一番高い部分がⅡ郭になります。

20171220914
先ほどの堀切から北側へ落とされている竪堀。
この付近で一旦、昼食休憩をとりました。

20171220915
Ⅱ郭
2段に削平されています。

20171220916
Ⅱ郭からも南へ、細くて急勾配な尾根が伸びています。
その先にやはり、二重の堀切があるらしいので目指しますが・・・それにしても、いきなり凄い切岸。

20171220917
Ⅱ郭南尾根の堀切、その1本目に・・・

20171220918
2本目。
堀切先の地形を見ても、いかに勾配のきつい尾根かがおわかりいただけるかと思います。

20171220919
Ⅰ郭(主郭か)
Ⅱ郭から更に東へ、削平地を数段上がった先にあり、直列に配置された曲輪群の東端にあたります。
その東端部に、この城跡では珍しい土塁(他にはⅢ郭や、この後にご紹介するⅠ郭南尾根の曲輪で見たのみ)があり、その先には・・・

20171220920
切岸の直下に三重堀切が!
ちょうど各堀底付近に、同行者たちが立っています。

20171220921
三重堀切越しに、Ⅰ郭の切岸を見る。
こちらから見上げると、Ⅰ郭の切岸はまさに絶壁。Ⅰ郭の背後をこの切岸と三重堀切で、がっちりと固める意図を感じ取れます。

20171220922
さて、Ⅰ郭からもやはり南へ尾根が伸び、その先にも遺構が残っています。
写真は逆さコの字型の土塁に囲まれた曲輪。
今回用いた図面によると、その先の急斜面を下ると・・・

20171220923
畝状竪堀状の遺構があるらしかったのですが・・・これか?

20171220924
堀切はどれも、規模が小さかったようですね。

このように男鬼入谷城は、南側へ向けて(堀切の規模はともかくとして)防御をしっかりと固めているのに対し、踏査はしていませんが図面で見る限り、北側にはこれほどの対策を講じていなかった模様。
地形図や地図で確認すると、城山の南麓には多賀町の平野部へと連なる谷筋のルート(現在の県道17号)があったようです。城山の周辺に、やけに寺社が集中していることも気にかかります。
また、城跡は北の男鬼町と南の多賀町との、ちょうど境界線上にあたる尾根に築かれた山城でもあります。これらの諸条件の中に、或いは男鬼入谷城の謎に迫るヒントがあるのかも・・・と思いましたが、私にはこれ以上迫れそうにもありません。

男鬼入谷城、その遺構も充分に堪能させていただきましたが、何より、これほどの城跡が確かな文献上では全く確認できないという不思議にも魅かれる・・・そんな存在でした。
(一部、江戸期の記録に「川原豊後守」なる人物が、城主として伝えられているそうですが)

さて、なんとか冬の早い日没前に無事下山し、彦根駅前へ戻った後は、これまた恒例の忘年会
踏査会にはお仕事の都合で来れなかったN井先生も合流し、楽しくマジメに?盛り上がりました。
来年も皆さんと楽しい城攻め、史跡めぐりをご一緒できることを祈念しつつ・・・今回はこれにてお開き、ありがとうございました。

※旅の記事は2日目へつづきます。

| | コメント (0)

2017年10月 8日 (日)

船岡山城

20171001b01
大徳寺を出て向かった先はすぐ近くの、織田信長を祀る建勲神社も鎮座する船岡山です。

20171001b02
応仁永正戦跡 船岡山
船岡山は標高112mほどの小高い丘陵で、その戦略性から歴史上、軍事拠点として度々利用されてきました。
応仁の乱(1467-77)では西軍が拠点を築き、永正8年(1511)には室町幕府の実権を争った細川澄元・政賢らが陣取っています。

20171001b03
船岡山に残る横堀状の遺構
この写真は、1枚目の見取図に「あずまや」とある場所のすぐ脇になります。

20171001b04
公衆トイレ付近でカーブする空堀。

20171001b05
どのタイミングで、何れの勢力によって築かれたものかは不明ですが、なかなか見応えのある遺構です。

20171001b06
しかし、京都市内でも藪漕ぎをするとは・・・よほどの物好きね(笑)

20171001b07
最後に3年ぶりの建勲神社にもお参りしてから移動します。

| | コメント (0)

2017年3月12日 (日)

蒲生氏郷の故郷・・・日野

岐阜で迎えた旅の2日目。
前夜の打ち合わせにより、この日は近江湖東、蒲生氏郷の故郷である日野へ向かいました。

日野城跡図
2017030501
まずは蒲生氏の居城、日野(中野)城から。
※日野城には2015年にも訪れていますので、その時の記事も合わせてご参照ください。

2017030502
映画「るろうに剣心」のロケ現場にもなった堀底道。

2017030503
何気なく、さり気なく、、、立派な堀です(笑)
奥に見えている小さな社は凉橋神社。江戸時代、日野城跡に藩庁を置いた西大路(仁正寺)藩主・市橋氏の氏神です。
なお、詳細は不明ですがこの市橋氏、織田信長に従って佐和山城包囲戦などで活躍した「市橋九郎右衛門」(信長公記)に連なる一族と思われます。

2017030504
aの土橋

2017030505
更にもう1本、同じ横堀続きに土橋がありましたが・・・江戸時代に描かれた城跡図には全く存在していませんので、或いは利便性のため、後世になって築かれたものかもしれません。(bの位置)

2017030506
西大路藩庁跡

2017030507
藩庁跡は公園のような広場になっており、堀のような痕跡も一部に残っていました。

2017030508
蒲生氏郷産湯の井戸

2017030509
住宅街の合間にしっかりと痕跡を留めるcの堀跡。

2017030510
こちらは市橋氏の菩提寺となった清源寺
元は蒲生定秀(氏郷祖父)の別邸(桂林亭)だったと伝わります。定秀の没後に蒲生賢秀(同父)が桂林庵と改称して定秀の菩提を弔い、西大路藩が置かれると初代藩主・市橋長政が菩提寺としました。

2017030511
清源寺、西大路藩歴代藩主3人の墓所。

2017030512
続いて興敬寺
石山本願寺合戦に関する書状など(興敬寺文書)が残ります。

2017030513
興敬寺境内には、日野城外郭の東端部と思われる土塁や・・・

2017030514
堀跡が見事に残っていました。

2017030515
堀跡の近くには「落葉の清水」
日野三名水の泉、とのことですが・・・確かに「落葉」の泉だわ(笑)

2017030516
法雲寺
蒲生氏郷の父・賢秀の菩提寺です。

2017030517
宝篋印塔の笠石を用いた手水鉢。
笠石だけでこの大きさ・・・押して測るべし。

2017030518
蒲生賢秀墓所
右は西大路藩世嗣だった市橋利政のお墓。病弱を理由に廃嫡されたそうですが、59歳まで生きられたようです。

2017030519
法雲寺本堂の破風は、西大路藩庁の部材を転用したものと伝わります。

2017030520
信楽院
蒲生家の菩提寺

2017030521
信楽院本堂
元文4年(1739)の建立。

2017030522
信楽院墓地に建つ、蒲生氏郷の遺髪塔
同寺には他に、氏郷の納骨地蔵尊も祀られているそうです。

2017030523
雲雀野公園に建つ蒲生氏郷像。

2017030524
お次は日野のお隣、東近江市の井元城へ。
愛知川の河岸段丘上に位置し、麓に建つ春日神社(写真)が目印です。

2017030525
段丘上に上がると早速、素敵な横堀がお出迎え。

2017030526
横堀越しに主郭を見る。

2017030527
主郭東側に残る二続きの馬出状の小曲輪。

2017030528
主郭から向かって右側の馬出に・・・

2017030529
左側の馬出。

2017030530
2つの馬出を縦方向に重ねて見る。

この井元城、文献上に該当しそうな城が見受けられず、謎の城とされています。
鯰江城(同じ段丘上、西側に位置する)に対する付城、との説もあるそうですが、それにしては2つの馬出の方角(主郭東側)がおかしい
主郭の東側には実は、2つの馬出をもスッポリと包み込む堀で囲われた不思議な、大きな長方形の区画があり、こちらを主郭とすると最前の主郭が馬出のようにもなり、そうなると向きも反対になって鯰江城に向いていると言えなくもないのですが・・・。

しかしこの大きな区画は、個人的な印象としては神社の旧境内地の境界線。それに、この空間を主郭とした場合、ならばスッポリ取り込まれてしまった2つの馬出状の曲輪の意味は何?となってきます。
神社を築く際にわざわざ邪魔な馬出を取り込む必要はないので・・・神社が先にあって砦を築く際、神社をどかしたか?

あれこれ考えていくと深みにハマって益々分からなくなってきますが、今の段階では鯰江城に対する付城などではなく、千草・八風峠を越えてくる東からの敵を警戒する鯰江城の出城、としておくのが無難なのかもしれません。
※構造上の年代比定から、例えば関ヶ原(或いは大坂の役か?)時に築かれた西軍の砦かも、とする見解もあるようですが、それにしては現存する遺構の規模が小さ過ぎる印象です。

2017030531
最後に鯰江城の跡地にも。

2017030532
城の遺構は何も残っていませんが、愛知川の段丘上に築かれた城であったことは、周辺の地形からも一目瞭然です。
※鯰江城落城の顛末については、コチラの記事も参照ください。

さて、この後は一気に名古屋まで移動し、前日の賤ヶ岳でもご一緒したクリス・グレンさん主催のトークイベント&懇親会
「信長の城・小牧山城のヒミツ」
に参加させていただきました。

本来であれば、このイベントだけで1本の記事にすべきところですが、顔出しオンパレードで使えそうな写真もないので・・・あしからず(笑)
貴重なお話を聴けて多くの方ともお会いすることができ、とても有意義な機会になりました。

| | コメント (0)

2017年3月11日 (土)

堂木山砦・神明山砦・茂山砦 (賤ヶ岳合戦城砦群)

図1
2017030401
2017年3月4日、賤ヶ岳の戦いに於いて、湖北の山々に築かれた砦群をめぐるオフに参加させていただきました。

図2
2017030401b
今回はまず、余呉湖の北方を遮るように北東へ延びる尾根上に、北国街道西側の押さえとして築かれた羽柴秀吉方の最前線防衛ラインの一翼、堂木山砦神明山砦を目指します。

2017030402
総勢16名で登山開始。
中井均先生をはじめ、加藤理文先生、城メグリストこと萩原さちこさん、名古屋でラジオDJとしても活躍されているクリス・グレンさん他、錚々たるメンバーに囲まれてちょっと緊張のスタートになりました(笑)
それにしても、この時期の近江湖北地方の山々はまだ残雪厳しく、予想外の雪中行軍・・・(^_^;)

2017030403
尾根に辿り着くと堀切のような切通があり、ここが堂木山と神明山の分岐点。
まずは右、尾根先端付近に位置する堂木山砦へ。

2017030404
しばらく尾根上を進み、ご覧のような土橋状の細尾根が出てくると、いよいよ堂木山砦になります。

2017030405
堂木山砦縄張図
この図でいうと、左側からアプローチしていることになります。

2017030406
a部分
雪が残っている箇所が削平されていて、周囲には土塁が残り、左側は切岸状に落とされています。

2017030407
3曲輪の土塁

2017030408
3曲輪から1曲輪(主郭)の土塁を見る。
土塁手前には横堀も通っています。

2017030409
その横堀

2017030410
1曲輪の周囲を固める土塁

2017030411
1曲輪の土塁には1ヶ所、東側に虎口もありました。(b

2017030412
1曲輪から見る2曲輪

2017030413
cの竪堀と竪土塁

2017030414
2曲輪への進路は土塁を喰い違いに盛り、右→左と見事に屈折させてありました。

2017030415
2曲輪
遺構の残存状態も良好で、その構造を明瞭に把握できます。

2017030416
堂木山砦、北東端の堀切。
この先、尾根は徐々に下りになり、北国街道の通る麓へと出ることになります。

2017030417
我々は元来たルートを引き返し、今度は神明山砦を目指します。

2017030418
樹間の開けた場所から北方を眺めると、羽柴軍が当初、最前線と想定して築いた天神山砦・茶臼山砦のある稜線が見えていました。
(柴田軍が至近の別所山に砦を築いたため、羽柴軍は堂木山・神明山のラインまで前線を後退させている。図1参照)

2017030419
反対の南には・・・余呉湖を挟んで高山右近の岩崎山砦、中川清秀の大岩山砦が置かれた稜線も。
写真右方向へ更に進むと、賤ヶ岳砦も見えていました。

柴田軍の佐久間盛政隊は行市山砦を出て南下し、そのまま尾根上を堂木山・神明山の西側を素通りして余呉湖畔に出て、湖畔を反時計回りに迂回、賤ヶ岳砦の足元を通過して大岩山砦、続いて岩崎山砦へ攻めかかったことになります。(位置関係は図2参照)
佐久間玄蕃・・・恐るべし。

ダイナミックな景観を堪能し、スケールの大きな山岳戦に思いを馳せつつ尾根をゆっくりと登っていくと、程なく神明山砦に到達します。

2017030420
神明山砦縄張図
右側からのアプローチになります。

2017030421
aの土塁

2017030422
土塁の先には、階段状の曲輪がいくつか続いていました。

2017030423
3曲輪越しに曲輪(主郭)を見る。
主郭の脇には通路?が、まるで横堀のように通されていました。

2017030424
主郭
一段と残雪が激しい・・・(^_^;)

2017030425
先ほどとは反対側にも、武者走りのような通路。

2017030426
2曲輪
突き当たりには立派な土塁も。

2017030427
その土塁の先には堀切(b
少し先にもう1本見えています。(c

2017030428
b堀切から続く南側の竪堀。
少し角度をつけて、堀切を渡る通路が設けられていました。
静岡・丸子城の長大竪堀にも見受けられる構造です。

2017030429
cの竪堀

2017030430
cの堀切を越えて尾根を進むと、少し先にdの出曲輪(物見台?)があります。

さて、本当ならこの後は一旦下山し、北国街道を挟んだ東側の東野山砦へ行きたかったのですが、思わぬ雪中行軍に時間を取られ、且つ東野山の残雪状況も心配だったので予定を変更し、このまま尾根上を南西方向に登り、茂山砦を目指すことになりました。

2017030431
神明山砦から茂山砦へは、かなりハードな登り勾配を経由します。

2017030432
ここでもまた景色を楽しむ・・・賤ヶ岳砦。
(中央ピーク部分)

2017030433
岩崎山砦・大岩山砦方向

2017030434
茂山砦へのルート上にも、かなり厳しい残雪が・・・

2017030435
この坂を登り、合流した尾根を左に折れた先が・・・

2017030436
茂山砦になります。oO(雪で全く分からんww)

合戦当初、北方の別所山砦に布陣した前田利家は、佐久間盛政の進軍に合わせて南下し、この茂山砦を押さえたと伝わります。
神明山砦や堂木山砦からは尾根続きで、しかもここまでの道のりを見ても分かる通り、両砦よりもかなり高所に位置します。このことからしても前田隊の進軍~茂山砦布陣は、羽柴軍の前線を押さえ込み、且つ佐久間隊の背後を確保する意図が明確ですね。ところが・・・

秀吉が大垣から大返しで戦場に姿を現し、佐久間隊が退却に移ると、あろうことか前田隊も茂山砦を放棄して戦場を離脱してしまいました。
これにより、前田隊の援護を受けられなかった佐久間隊は羽柴軍の激しい追撃を受け、総崩れとなって合戦の趨勢をも決してしまいます。
利家の戦場離脱については、予め秀吉との間に密約があったとか諸説ありますが・・・本当のところはよく分からないので詳しくは触れません。
戦況を見極め、ドライに自家存続を図ったということではなかったかと。

さて、この日の行程はこれにて終了。
あとは下山するだけ、の筈でしたが・・・

2017030437
その下山が最も難敵でした・・・(^_^;)
進むにつれ、雪はどんどん深くなり・・・
(この付近で鹿も出現したそうです…私の背後を通ったため、私は気づきませんでしたが)

2017030438
一旦林道に出ても、ご覧の有様・・・。

2017030439
再び林道を離れ、最後は権現坂を下ります。
行市山砦を出て南下してきた佐久間盛政隊が、余呉湖畔に出る際に下ったと思われる坂でもあります。

2017030440
とても雰囲気のある古道で、雪さえなければもっと楽しめたのですが・・・何度足を取られたことか。
写真は、仰のけにズッコケる直前のクリスさん(笑)

2017030441
ようやく下山・・・

2017030442
余呉湖の畔から見渡す、賤ヶ岳古戦場。
右奥に賤ヶ岳砦。そこから左へ目を転じていくと・・・

2017030443
大岩山砦に岩崎山砦・・・

2017030444
そして北へと延びる北国街道。
写真左端(手前)に写っているのが、堂木山砦や神明山砦のある尾根の先端です。
羽柴軍はそこから、北国街道を跨いで反対側の東野山砦にかけて、街道を封鎖する二重の堀切惣構の堀)を築いて街道を封鎖していました。
以前もその痕跡を探しに行って玉砕しました(→記事)が、中井先生から少なくとも昭和の終わり頃までは、その一部が残っていたというポイントを教えていただいたので、今度また探しに行ってみよう♪

はい、これにて今回の賤ヶ岳古戦場歩きは怪我もなく、無事に終了です。
解散後は北陸方面へ帰る参加者を敦賀駅まで送り、そのまま大返しで岐阜へ。
(なんだか地理感覚がおかしくなる大移動w)

時間は少し遅くなりましたが、ギフナイト☆で楽しく盛り上がりました♪

※私の旅は、まだまだ続きます。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧